世界遺産アンコール遺跡を歩く
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全体行程  2008年2月28日~3月3日
何気なく見ていた地元新聞に「チャーター便で行く 世界遺産 アンコール遺跡」の広告・・・うん、これは面白そうと調べてみると、幾つかのコースがあって選択できるようです。そのなかに「世界遺産をアンコール遺跡を歩く5日間」というコース、「シェムリアップに連泊、遺跡を歩こう」とういうコースがありました。これは良さそうと、いつものエイヤッの衝動申し込みをしました(^_^)。今回は、四川省の山旅からお付き合いいただいている大阪の友人ご夫妻とご一緒させていただきました。チャーターした航空機はアンコール航空、台湾資本のようです。
①2/28
 チャーター便にて地元空港からシェムリアップへ出発。各種コース組合せ約160名の大人数です。鹿児島で給油、台北でも給油でトランジット。空港集合は15:30だったが、目的地シェムリアップには翌日の午前3時過ぎ(日本時刻)到着。

160名の乗客

ローカル空港
滅多にない掲示かな

待機中の
アンコール航空

到着:翌日の夜中

やっとホテル
2/29 2:20現地時刻

②2/29 アンコールトム
 翌日の8:30(現地時刻)にはアンコールトムへバスで移動。日本からの約12時間とアジア向けにしては長時間の移動。そしてホテルで横になる時間が4時間弱と短くて流石に疲れ気味です。
 アンコールトム。アンコール遺跡を日本では代表してアンコールワットというのが一般的。実際にはトムとワットでは造営の時期が少し違っています。ワットが宗教施設(ヒンズー教)、トムが王都と仏教寺院という違いは、これまで知らなかったし、規模はアンコールトムの方がだいぶ大きいです。
 大きな石を積み上げた巨大遺跡ですから、午前中の約4時間のウォークに昼のシャワー休憩を挟み、15時頃からトムの中心部バイヨンなどを訪問しました

③3/1 プノン・クーレン、ベンメリア
 バスで約2時間の移動、アンコール帝国の聖なる山・プノンクーレンへ。ジャヤヴァルマン2世が、ヒンズー教の祭儀で神なる王の戴冠式(802年)を執り行なった場所らしい。雨期には泥濘になるだろう凸凹道を走り山に入っていきます。持参したGPSでは標高が約300mでした。この山から切り出した石を雨期にアンコールの方へ運び寺院、王宮など造営したそうです。
 バスを降りて、まずは川底の遺跡へ。シェムリアップ川の源流?になるらしい川底の石に多数の彫刻があります。ヒンズーのシヴァ神、ヴィシュヌ神の彫刻と四角のリンガ台の上に丸いリンガが掘られた千本リンガ。リンガが男性、リンガ台が女性の象徴だとか。
 大きな涅槃像をまわってから滝のあるピクニック小屋・食堂のある施設へ。ここで弁当昼食をとって、次のベンメリア遺跡へとバスで移動。
 ベンメリア遺跡はまだ修復が始まったばかりで、崩れた大きな石があちらこちらに積み上げられていました。崩壊した施設の中、積み上げられた石を登ったり下りたりとなかなかワイルド。いかにも遺跡という雰囲気はなかなかのものです。

④3/2  アンコールワットの夜明け、トンレサップ湖のクルーズ、
       アンコールワット遺跡 プノンバケンの丘 
  
      
 帰国前日、観光の最終日です。 夜明けのアンコールワット、トンレサップ湖のクルーズ、アンコールワットの遺跡と壁画の観光、アンコールワット近くの標高が100mに満たない丘からの夕陽観賞、そして夜はアブサラダンスのショーを見ながらバイキングディナーと盛り沢山です。
 夜明けのアンコールワット、アンコールワット遺跡の向こうからの日の出、そして太陽と遺跡のシルエットが湖面に映る構図、これはあまりにも有名ですが、確かに素晴らしい。世界中から集まった観光客でいっぱいです。
 トンレサップ湖、琵琶湖の10倍もあります。もちろん、ワニから大きな蛇もいるようですが、ナマズのような魚も。投網などで採っているようです。
湖畔の道路には高床式のバラックの家、売店。湖面には筏あるいは船に乗った住宅、学校、病院が多数(グーグルアースでも点在するこれらの家々が見えます)。いまは乾期で水は茶色く濁ってますが、雨期になると一気に水量が増して澄むそうです。そして湖畔のバラックの家々は移動するそう。湖面に浮かんだ観光用の施設もあります。観光客の船が走行中、停泊中を問わず小舟に乗った売り子がバナナなどを売りに来ます。危険をものともせず、こちらに乗り移ってきたりハラハラします。
 夕陽を眺めた丘にも石造りの遺跡があり。石段は怖~い急斜面。あまつさえ、足を下ろす余地の極めて少ない石段です。もうロッククライミングの感触。
 そして夜はアブサラダンスを見ながらのバイキングディナー。内乱で踊り手の多くが殺されたそうで、復活がたいへんだったようです。手先、足の指先で独特のポーズをする踊りですが、まだ完全には復活していないというか、練習をこれかあ積み上げていくのだろうという印象です。



⑤3/3 帰国 
 帰国。今回は台北でのトランジットのみ、順調なフライトで予定より早く到着。
ただカンボジアのセキュリティチェックに引っ掛かってしまいました。ザックの透視画像が気になったようです。囲われたコーナーに引っ張り込まれ、ザックから全部を取り出して何度もチェック。初めは土産物店で買った安物のクリスタル置物が問題かと思ったら、実は封筒に入れて奥に押し込んでいた日本の携帯電話と鍵だったようです。麻薬か武器と疑ったのかも。

-----余談 カンボジアについて-----
○国の正式名称
 クメール語で「プリアリアチアナチャクラ・カンプチア」。英語表記は Kingdom of Cambodia。略称は Cambodia。
日本語ではカンボジア王国、通称はカンボジア。カンボジアでは「カンプチャ」と呼んでいます。
○国土と自然
タイ、ラオス、ベトナムと隣接。面積は日本のほぼ半分。中央平原をメコン川が北から南に流れ、平原の西寄りにはトンレサップ湖。メコン川の水量は増水時は渇水期の約20倍も。トンレサップ湖は雨期にはメコンの水が逆流、面積が約3倍以上にも膨らみ、琵琶湖の10倍以上になる。淡水魚の種類が世界一らしい。
ベトナム、ラオス国境は深い森林で、象、虎、猿などの野生動物が生息。
○民族、言語、宗教
 住民は、クメール人が90%、ベトナム人が5%、中国人が1%、その他4%など36の少数民族で構成され、公用と通常言語はクメール語。宗教は、9割以上が上座部仏教である。
○教育と子供
小さなこどもは家の仕事も充分できないので学校へ行かされるが、体が大きくなり仕事が手伝えるようになると金のかかる学校は辞めさせられる。先生の質も悪く、「契約しても出てこない、金になる自分の私塾で教える、高学年を教えられない」等々。外国の援助で学校も造られているが、ほとんどの子供は教育を受けられる環境にいない。現地ガイドさん(元、教師)が言ってましたが、就学適齢時の児童を持つ両親はクメールルージュ時代の内乱で学校に行ってなくて、文字が読めない、戸籍もないといった状態。子供の学校教育が大切だとは思っていないとの事。子供の人身売買とHIVも蔓延しているよう。衛生環境も劣悪、素っ裸で暮らす子供、濁った水。加えて医療環境はないに等しい。
○経済
通貨はリエルだが、旅行者はUSドルを使うのが普通。1ドル以下のお釣りだとリエルを渡される事も多いが、持ち帰っても交換できない。1USドル~4000リエル。現地ガイドさんの話では、都市部を除いて現地人の間ではまだ物々交換が多いとか。
○歴史
・クメール王朝
 平安時代の前半頃、ジャワ王国から独立してアンコール王朝(クメール王朝)が始まる。9世紀末にアンコールに都を築く。1113年には、スールヤヴァルマン2世が国内を統一、王国の範囲はタイ中部、マレー半島、ベトナム南部にも及ぶ。寺院建築にも熱心で、クメール美術の最高傑作であり、自身の墓でもあるアンコール・ワットを建築した。
 1190年、ジャヤーヴァルマン7世がアンコール・トムを都として造成。熱心な仏教の信者であった王は、都の中心にバイヨンを建設。
 13世紀にはいると元の侵攻が始まり、後半はアユタヤ王朝の侵攻を受ける。シャム(現在のタイ)に近いアンコールを放棄し、翌年シャム族が首都を占領し、アンコールの栄光の時代は終わりを告げた。
・戦乱その1
 その後は、シャムやベトナムの侵略や干渉、フランスによる植民地化。日本軍のがインドシナ侵攻とに乗じたノロドム・シハヌーク王による独立、またまたフランスの保護下に戻り、1953年には警察権・軍事権を回復し、完全独立を果すと目まぐるしく変動。
・戦乱その2
 更に、1970年に親米ロン・ノルがシハヌークの外遊中にクーデターを決行しクメール共和国の樹立を宣言。シハヌークは中国へ脱出し、「カンプチア民族統一戦線」を結成し、提携者が毛沢東主義勢力「クメール・ルージュ」。ロン・ノル政権との間で内戦となった。ベトナムで負けたアメリカの後ろ盾を失なったロン・ノルはハワイに亡命。1976年に「カンボジア民主国憲法」を公布、国名を民主カンプチアに改称。
 クメール・ルージュは、共産主義にもとづく強力な農業本位と民族主義を打ち出した。プノンペンを始め、中産階級的な都市住民を強制的に農村に入植させ、強制労働を科した。あの有名な虐殺、エリート階級や留学生など200万人(人口の1/3)を超えるともいわれる虐殺・粛清はこの時。 
 その後、ベトナムと国境紛争を起こし、ベトナム軍は、ポル・ポトの配下でベトナムに亡命中だったヘン・サムリンの率いる「カンプチア民族救国統一戦線」とともにカンボジアに侵攻。ベトナム軍がプノンペンを攻略、カンプチア人民共和国が樹立され、ヘン・サムリンは書記長に就任。
 1982年、反ベトナム三派(ポル・ポト、シハヌーク、ソン・サン)による民主カンプチア連合政府が成立し、サムリン政権との内戦状態に入った。
 1990年、東京でカンボジア各派が参加する和平に向けた直接対話の場として「カンボジアに関する東京会議」が開催された。1991年、カンボジア和平パリ協定が開催され、最終合意文章("国際連合カンボジア暫定統治機構(UNTAC)"の設置、武装解除と内戦の終結、難民の帰還、制憲議会選挙の実施など)の19ヶ国による調印に達した。20年に及ぶカンボジア内戦が終結した。
 1992年より、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC。事務総長は明石康)が平和維持活動を始め、国民議会総選挙が行なわれ、立憲君主制が採択された。その後もゴタゴタが続いたようだが、やっとここ数年は落ち着いてきたよう。でも、今後は外国資本の流入と観光化による都市部の貨幣経済・拝金主義と人口の大部分を占める農村部の人(字の読めない人、戸籍のない人、物々交換の生活)との格差が大きくなり、国の運営は難しくなっていきそう。