兵庫歴史研究会

兵庫歴史研究会 会長 梅 村 伸 雄


1. 情報戦

2.三草山より宿原へ

3.義経の攻撃目標

4.一の谷城

5.極秘裏に鵯越に向かう義経一行

6.鵯越での出来事

7.陽動作戦

8.逆落し

9.あとがき







はじめに

   一の谷合戦に登場する一の谷は、鵯越の麓、つまりJR兵庫駅と会下山の麓に展開していた大きな湖で、湊川が流れ込み、その湖からまた湊川となって和田岬より海に流れ出ていた、川と湖が美しいために一の谷と名付けられた谷である。
 800年前の一の谷の姿を知らない多くの作家が、江戸時代に忽然と現れた須磨の一の谷を合戦の舞台と思い、様々な小説を書かれているが、一の谷の設定がそもそも間違っているため、いずれの小説も一の谷合戦の真相に迫っていないのは誠に残念である。
 神戸には、鵯越と須磨の一の谷とが8キロの距離を隔てているため、逆落しは鵯越か一の谷か、と言う論争が延々と続いているが、一の谷合戦当時、平家の総大将宗盛が鵯越の麓にある大輪田泊にいたことと、安徳天皇と三種の神器を擁した御座船も同じく大輪田泊に泊っていたために、この本陣目掛けて鵯越の逆落しが行われたのであり、論争の元は一の谷の所在の間違いに始まる。
 したがって、ここにその所在を明らかにし、いにしえに語られた文献通り、逆落しは鵯越の麓で行われたことを論証すると共に、義経の戦略がいかに素晴らしいものであったか、また義経が一番誇りに思ったであろう一の谷合戦の実像を、古記録を忠実に辿りながら語らせていただく。


1. 情報戦

 義経が義仲を討ち取って感状を戴き、再び院の御所に呼ばれたのは義仲によって官位を剥奪された公卿たちの復官を含む除目が行われたのち、鎌倉勢と平家勢とを和睦させるか対決させるか、戦の勝算を打診された時のことであった。
 勿論、義経は戦を強く望んだが、特に勝算があってのことではなかった。そこで戦をするためには、平家の陣容と地勢などの情報が必要であることを訴えたところ、院より参議の久我道親卿を訪ねるようにとのお言葉を給わり、道親卿を訪ねると、卿の甥といわれる久我興延氏(白川鷲尾家『系図』記載)を紹介された。
 彼は「斧の柄の妾」と渾名を持つ男であり、仁徳天皇の弟君、額田大中彦皇子の血を受け継ぐ家柄で、斧の柄が朽ちるほど遠い昔、貴い方の妾であったところから「斧の柄の妾(『延慶本』)」と呼ばれているのだが、道親卿の父久我雅通卿に御奉公する祖母と若き日の雅通卿との間に子が生まれ、その子(鵯越の翁)を父とするのが興延氏であった。
 彼の実家は鵯越の麓にある白川であり、鵯越は彼の狩場であって、平家の山手の陣に下る道を彼は知っていた。つまり、義経と鵯越の翁との出会いは鵯越であると『平家物語』に書かれているが、実は京都で翁の倅に会い、「鹿の通程の道、馬の通わぬ事あるべからず(『延慶本』)」と義経が言ったのは、実は都での話であり、義経がいくら強運の男とは言っても、偶然を期待して戦略を立てたと考えるのは誤りである。
 道親卿が己の名を『平家物語』に載せることを固辞したのは、義経と兄頼朝との確執を特に気にしていたからである。
 平家を攻める只一の鹿道、これを有効に利用するために義経と郎党たちは知恵を絞りに絞った挙句、唯一の勝算の目論見を見出し、それを遂行するために久我興延氏に二つの手配をお願いした。
 一つは白川の南山(現在、白川台五丁目にある城が丘中央公園、昔は海抜231mの峻峰)に仮城を築くことであり、今一つは鵯越の道案内であった(白川鷲尾家『系図』記載)。
 また、この作戦遂行のためには、平家が一の谷城から出て都に向かわぬよう、足止めをして欲しいと院にお願いを致し、「和睦の計らいがあるので、きたる8日に京を出発し、院の御使としてそちらへ下向する。関東の武士どもへはそれまで乱暴せぬように申しつけてあるから、平氏の方でもそう心得てみだりに軍を動かさないでほしい」と、修理権大夫気付の書状を総大将宗盛に送ってもらった。
 その他にも、鎌倉勢は戦意を失っているとか、残っている軍勢は僅かであるとか(『玉葉』)、義経の郎党たちは巷に出てはあらぬ噂を流した。
 一方義経は、丹波の豪族長澤六郎遠種(『丹波風土式』元暦年中、遠種の娘が源義経の子を生む)の手引きを頼りに、鎌倉勢を三々五々丹波の地に潜入させていた。


2. 三草山より宿原へ

 2月4日の早朝、未だ暗い都を千騎ほどの騎馬武者と共に出立した義経一行は、集合地と決めた現在の住山字ツドイに集結、搦め手の軍勢三千数百騎となって小野原に向かった。
 小野原から三草山の麓山口に留まった資盛の陣までは、『源平盛衰記』に記されているとおり、篝火換わりに民家を焼いたのは間違いない。なにしろ4日夕刻の月は早々と山陰に姿を隠し、後続の者どもに道を誤まらせる危険が生じたため、やむを得ぬ仕儀であった。
 三草山の合戦は、義経の郎党が流した厭戦気分の流言を真に受けた平家が、源氏を打ち砕くのに充分と思って配備した軍勢が、源氏の軍勢より少なかったことと、4日は平相国の三回忌で戦いをしないと言う情報から、戦は翌日と決め込み、鋭気を養うために休んでいた真夜中、5日に入ったばかりと言う時刻に平家は襲われた。
 不意を突かれた平家は、思いっきり恐怖心を叩き込まれ、義経が囲みの一端を開けていた闇の中を一目散、加古川沿いに高砂方面に逃げ去った。
 これを襲う義経勢も20里という二日路を一気に走破した後の合戦になったので、山口の南西1里にある木梨まで追ったが、それ以上は体力の限界とばかり、用心にと白旗を無数に掲げて休んだ。
 後に「百旗立」と呼ばれる土地であるが、この時、泥のように眠り込んでいる武者たちの、寝首を掻きに戻ってくる平家の武者が一人もおらなかったのは、義経にとっては幸いであった。
 翌5日の午後、出立した義経の足取りが幾通も考えられているが、義経が隠密裏に鵯越に向かうのが目的と考えるならば、姿を隠すのは敵に警戒心を起こさせる最大の愚策であって、姿を隠すまでの義経の行動は常に堂々とあるべきであり、 義経一行は木梨・社から小野を通って三木に至るまでは、人目につく丹波路を通っていたと推測するのが妥当と考えられ、その道筋に当たる小野・樫山・三木には、義経にまつわるいくつかの伝承が残されている。
 後に「百旗立」と名付けられた木梨を出立したのが5日の午後、丹波路を辿って小野を過ぎると、夕餉近くには樫山村に辿り着く。ここでは土地のお婆さんにハッタイ粉と呼ぶ焼米の粉を馳走され、のちに粉喰坂という地名がつけられたが、ここからは樫村の五郎左衛門に山田村までの道案内をさせた(『市場村誌』)。

『市場村誌』延享四年(一七四七)黒印状「御赦免地帳」を樫村の五郎左衛門に与えられる。田地六畝歩「字黒印かち」この由来は、源義経公三草山より一ノ谷へ向かわれた際、当村の五郎左エ門の先祖が道筋を案内し、御褒美として五郎左エ門の屋敷地に御赦免の黒印状を賜る。それより田地字を「黒印が地」と申し、地頭代々より御除地とされる。
史跡=小野市樫山町に国位田の碑・義経の腰掛岩・粉食坂・亀井の水あり。



樫村から三木に行くには大きな美嚢川が横たわっていたが、川が大きく蛇行している宿原近くは川が浅く渡河しやすい場所であり、義経一行の渡河を物語るのか弁慶の足跡と呼ばれる石が残されている。
 渡河した一行は、明石道と湯ノ山道との分岐点宿原で一夜を過ごすが、木梨からは5里(20Km)の道のり、敵にも遭遇せずゆっくりと休息ができた。

3. 義経の攻撃目標

翌6日の早朝、義経はここ丹波路より軍勢を二手に分けた(『平家物語・竹柏園本・その他の諸本』)。『延慶本』には「其勢七千余騎は義経に付け、残三千余騎は土肥次郎田代冠者両人大将軍として山の手を破り給へ、我身は三草山をめぐりて鵯越へ可向とて歩せけり」とあって、この文面は特に重要であるが、義経の率いた軍勢七千余騎は七百余騎に訂正をしたい。
 つまり、他の平家物語は義経三千、土肥七千となっており、土肥の軍勢のほうが圧倒的に多く、その後の義経の隠密行動と陽動作戦を考えると、七百余騎が妥当の数字かと思われる。
 さてこの文面には、義経の攻撃目標がはっきりと記載されている。
 土肥実平に命じた攻撃目標は山の手の陣であり、義経の攻撃目標も山の手の最も明眸の効く三草山であって、山の手の大将教経が陣を布く山の手を、土肥の軍勢は麓から攻撃、義経の軍勢は鵯越から攻撃して、両軍で挟撃しようと告げている。

 三草山については、5日早朝に攻撃した丹波と播磨の国境にある三草山が頭から離れない方がいるが、平家物語を熟読し他の文献をも参照すると、山の手にも三草山があることが判る。

 その一例を挙げるならば、義経の山の手攻撃に備えて教経が山の手に陣を布くが、その時の様子を「程無く三草山へ駆付て越中前司盛俊が陣の前に仮屋を打て待係たり」と認め、鹿松峠に陣を布いた盛俊の向かい、即ち水道局が大きな水タンクを築いた頓田山が三草山であることを伝えている。
つまり、先の文面の意味は、「我が身は、三草山を駆け巡るので鵯越に向かうと申して兵を歩ませた」と解釈すべきである。
 6日の早朝、義経は土肥らに大半の軍勢を譲ったが、この時点から土肥と田代は義経の影武者となって平家の物見の目を一手に惹きつけ、堂々と明石道に沿って明石から平家の西の手に向かった。
 一方の義経らは、鵯越に向かうために播磨の大地に姿を隠したのである。

4. 一の谷城

 さて、平家が築いた難攻不落な一の谷城とは、何処にあって、どのような城であったのか。
 『吾妻鏡』『平家物語百二十句』では、「一の谷の後ろ、摂津の国と播摩との境なる鵯越」と記しているが、これを逆説的に言えば、鵯越の前面、即ち兵庫の地に一の谷があると伝えている。
 因みに、鎌倉仏教の開祖一遍の『一遍上人縁起』には、正安四年(1302)津の国兵庫島へ着いた時の兵庫の情景が記され、そこには「銭塘(銭塘江と西湖)三千の宿、眼の前に見る如く、范麗五湖(太湖)の泊、心の中におもい知らる」と語り、鵯越の麓には大きく美しい湖があったと伝えているが、これこそ大きさと美しさで「一の谷」の名をつけられた湖である。
 この湖は、湊川の一部であって、天王谷川と烏原川が清盛の雪御所の南で合流して湊川になり、大開の辺りから大きな湖を形成、真光寺の南辺りからまた狭い湊川となって和田岬の内懐より海に出る「一の谷は口は狭くて奥広し」と言われた湊川のことであった。
 『延慶本平家物語』には、「山陽道七ヶ国、南海道六ヶ国、都合十三ヶ国の住人等ことごとく従え、軍兵十万余騎に及べり。木曽打たれぬと聞こえければ、平家は讃岐屋島を漕ぎ出でつつ、摂津国と播磨との堺なる、難波一の谷と云う所にぞ籠りける。去んぬる正月より、ここは屈強の城なりとて、城郭を構えて、先陣は生田の森、湊川、福原の都に陣を取り、後陣は室、高砂、明石まで続き、海上には数千艘の舟を浮かべて、浦々島々に充満したり、一の谷は口は狭くて奥広し。南は海、北は山、岸高くして屏風を立てたるが如し。馬も人も少しも通うべき様なかりけり。誠に由々しき城なり」(『長門本』もほぼ同じ)、と記されている。
 ここで注意したいのが後陣の所在であり、室・高砂・明石と記されれば、現在の室津・高砂・明石と解釈しがちであるが、後陣といえば先陣と本陣の間にあって、本陣の周囲を固める役を担っている。そこで昔の地名を探ってみると、高砂は山の手の陣であり、室・明石は大輪田泊を守る位置にある。つまり平家の本陣は大輪田泊に囲まれた、平家の菩提寺八棟寺のある経が島であり、総大将宗盛をはじめとする平家の面々が集い、二重三重に本陣を守らせ、『歴代皇紀』に「平家悉く西国の軍勢を発し、福原以南、播磨・室並びに一谷辺に群居す。一谷を以て其の城と為す。重々の堀・池等、以外其勢六万騎と云々」とあるように、一の谷の大きな水面を城郭の一部にしていたのであった。
 須磨に西木戸があって西木戸の大将平忠度が居たという説を称える方がいるが、どの文献も忠度を西木戸の大将とは記さず、丹波と播磨の国境、三草山に布陣した資盛と同じ様に、源氏の搦め手の進撃を阻止する西の手の大将としている。
 さて平家は、先に記した「難波一の谷に布陣した平家の陣容」の通りの城を築き万全の構えを見せたが、この情報を都で得た義経は、城内に忍び込める唯一の鹿道を教えられ、その鹿道を利用する戦略を編み出した。
ただその戦略を遂行するのには大きな問題があった。それは鹿道と平家が布陣する馬の背とは僅か2〜300mの距離であり、鹿道となる崖は落差45m、勾配の急なところは35度である。
この急坂を下る時には防御の態勢が取れないため、敵に発見され矢を射掛けられたら馬もろともに武者たちは崖の下に転落するのであり、忽ちのうちに義経の戦略は潰える大きな危険を孕んでいた。

 そこで敵の目を逸らせるための方策として土肥・田代の軍勢に山の手攻撃を命じ、鷲尾の倅に仮城造りを命じたのであった。

5. 極秘裏に鵯越に向かう義経一行


 宿原で土肥・田代の軍勢を見送った義経一行、次に現れたのは宿原の西7Km、山田川が播州平野に現れる三津田(三木市)である。
 ここには空腹の義経に大鉢山盛りの麦飯を献上した、と言う伝承が残され、土地の者によって建てられた判官神社は、今でも大切に祀られている。
  この三津田で朝食を取ったであろう一行が、山田川に沿って山田の里に向かうのであるが、山田川の落ち口(呑土澗)に来た時、戸惑いから立ち止まったために「駒止め」と呼ばれ、続いて道に迷う平家物語「老馬のこと」に続く。


 此処のところを私なりに解釈するならば、山田川の両岸は高く、敵に発見された時には隠れ様も無い場所であり、清盛健在な時には二千の僧兵が守っていた所なので、万が一平家が三草の陣のように陣を構えていたならば合戦は避けられないばかりか、一人でも敵兵を逃した時には、義経の奇襲作戦の意図が見抜かれ、鵯越に陣を布かれて義経の目的が達せられない危険が大いにあった。
 そこで丹生山の裏道を辿ることにしたと思われるが、途中から道に迷い「何の谷へ落て何の峯へ越へしともしらざりければ」と言う二進も三進も行かない状態になった。
 この時、武野の国の住人別府小太郎清重という若者が、父親から聞いた道に迷った時の策を義経に告げた。
結果は、手綱を任された老馬が一行を案内するのであるが、その道筋を至極簡単に「登れば、白雪晧々として聳え、下れば、青山峨々として岸高し」と記している。
 この僅かな資料で一行の道筋を特定するのはおこがましいのであるが、三津田と山田の間で「白雪晧々として聳え」と表現できる山が一つある。
それは丹生山につながるシビレ山であるが、この山には元々義経道と呼ばれた道があって、道の中程には六甲連山の青く峨々とした峰を望む場所がある上に、その地点が中腹であるため「岸高し」の表現がピッタリ当てはまるので、義経一行の隠密行動の道筋を窺わせていると思われる。

 丹生山を下り山田川を過ぎ、鵯越に向かう藍那古道の入口には、山田の鷲尾が待ち受け、ここから生年17歳の武久が鵯越まで嚮導することになる。
 山田の鷲尾の先祖は「桓武天皇の皇子葛原親王七代の後胤安濃津三郎より出ず」(『山田村郷土誌』)とあって、山田ではかなりな郷士であった。ただ現在は、灯篭一つを残すのみで、往昔の面影を残す唯一のものは裏山に残された墓石のみである。
恐らく、白川の鷲尾からの連絡を受けて鵯越までの道案内を頼まれたのであろう、夕刻の藍那古道を案内したのが山田の鷲尾で、「比は如月の六日の事なれば、宵ながら傾く月を打守り四方をただして行ほどに、青山は苔深して残の雪は始花かとあやまたれ、岩間の水溶けざれば細谷川瀬をとだへず、白雲高く聳へて下むとすれば谷深し、深山道絶えて杉の雪まも消やらず岸の細道幽也、木々の梢も滋ければ友迷わせる所もあり、只こと問者とては遠山に叫ぶ猿の音、谷鶯声なければ、 また冬かと疑わる、松根に依て腰をすらねども千年の翠手に満てり、梅花を折て頭にささねども二月の雪衣に落、月も高嶺に隠ぬれば山深して道見へず、心計は逸れども夢に道行心地して、馬に任て打程に、敵の城の後なる鵯越を上りにける」と、藍那古道の情景を見事に伝えながら鵯越に到着した一行、松の根方に馬を繋ぎ鵯越の最高峰高尾山山頂に立った。
 見下ろした眼下には無数の灯火が広がり、怪しく輝きながら義経一
行の無謀ともいえる戦略を嘲笑っていた。
 ところが義経は、万灯会のような不気味な火の大群を見下ろしながら、渚の篝火を海人の苫屋の藻塩火と見てか突然笑い出し、感に堪えぬように「兵杖の具足をば態ととらせぬぞよ」と独り言を言った。
つまり義経は、平家が展開した火の海を、海人が藻塩を焼いている火だと解釈をして、火の傍らには藻塩を焼く娘が大勢いるので、甲冑に身を固めて逢いに行くのは武骨である、甲冑を外して逢いに行こうではないか、と笑ったのである。
 勿論、和田岬周辺は難波潟と言われ、多くの和歌に海女と藻塩火が詠われた舞台であり、義経はそのことを知ってか、緊張の坩堝の中にいる武者たちに笑いかけたのであり、ここ高尾山山頂は、義経の度胸と和歌に秀でた姿を覗き見ることの出来る、貴重な史跡ではないだろうか。

6. 鵯越での出来事

 『歴代皇紀』『一代要記』には福原の南に一の谷があると記されているが、鵯越から見下ろした和田岬は丁度福原の南に当たる。その和田岬に輝く灯炉堂の明かりを指差しながら多賀菅六久利は、「火の見候も播磨摂津二ヶ国の堺両国の内には第一の谷にて候間一の谷と申候なり(『延慶本』)」と義経に告げ、平家の陣容を伝えた。
 鵯越山頂に不敵な笑い声を残して兵の屯する平地に戻ると、枝ノ源三が翁と二人の子供を連れて来た(『延慶本』)。義経が心待ちに待っていた、都において久我興延に道案内を頼んでおいた興延の父親である。早速、最近の平家の陣容と逆落しの崖の様子を聞き、山岳地帯を馬場とする伊豆や三浦の馬達者70余騎を選び、残りの武者たちへは明朝行う合戦の役割を命じた。
つまり岡崎四郎の手勢500余騎は、土肥・田代の軍勢が山の手攻撃に失敗した時の用心にと、同じ山の手の攻撃であり、多田行綱の手勢100余騎には、久我興延に仮城造りを頼み畠山重忠に補佐を命じた(白川村『藤田文書』)城、その城を後構えとする高取山北の鹿松峠の攻撃であった。

 七日早朝、逆落しの手勢に参加できなかった熊谷直実は口惜しく、このままでは手柄を立てることができないので一番乗りを目論見、翁を道案内人として抜け駆けをしようとした。ところが、木立を抜け出したところ義経の見回りに咎められた。なにしろ一行の隠密行動が一人の脱走者から敵に洩れないとも限らないので、用心のための見回りであり、見咎められた直実は一瞬千本の槍を突きつけられたような恐怖感に捕われた。しかし強かな直実は、「君のお出ましと承り、お供せんと待っておりました」と見事に危機を逃れ、義経の姿が闇に消えると、翁を脅しながら白川を通って西木戸への道をたどった。
 翁が姿を隠した情景は、翁が鹿道は危険であると義経に進言した後「かきけつようにうせにけり、いとど心細そ思されける(『延慶本』)」とあって、翁の姿が見えなくなったことが、義経の大きな不安になったと記されるが、鵯越から直実、岡崎四郎(『四部合戦状本』)、義経と言う、三つのグループに分けて戦場に向かったとすれば、岡崎四郎のグループを案内したのが久我の「久」と義経の「経」を戴き、鷲尾四郎経久と名づけられた12歳の一法師、義経のグループを案内したのが同じく「久」と「義」を戴き鷲尾三郎義久と名づけられた14歳の三男熊王であり、残る直実の案内者は翁と言うことになるが、直実は翁を連れ去ったことは一切口外してはいない。

7. 陽動作戦

 矢合わせと決められた七日の卯の刻(午前6時)を待ち兼ねたように合戦が始まった。
塩屋で夜明けを待っていた土肥・田代の軍勢、須磨の鉢伏山の麓に陣を布いた平家の西の手に襲い掛かった。
ところが山の麓と海際は狭い上に幾重にも逆茂木で固められ、崖の上には土塁が築かれて大石を落としてくる、これを守る武将は文武両道の平忠度で激しく抵抗してくる、山の手の攻撃を命じられている源氏の軍勢は必死で戦うのであるが、なにしろ源氏の総数がわかっているのか、倍する軍勢で抵抗するので山の手の攻撃にはとても間に合わない状態であった。
 これをもって義経の山の手を挟撃する作戦の第一弾は潰えてしまった。次いで、第二弾として岡崎四郎の軍勢を山の手攻撃に投入していたのであるが、この軍勢は妙法寺川を下り、板宿を過ぎて蓮池辺りに来ると目の前に西木戸が開き、熊谷・平山の両武者の先陣争いから既に戦いが始まっており、山裾に三草山や山の手に向かう道があるにも関わらず木戸の内になだれ込み、紅白の旗が合い乱れる激戦を展開させてしまった。従がって、義経の第二弾も失敗、残るは仮城を後構えとする鹿松峠の攻撃にあった。

鹿松峠の明泉寺に陣を布いた越中前司盛俊は、峠の麓に構えた兵から、源氏の軍勢500騎ほどが川沿いに南に向かったことを聞かされ、合戦が間近に迫ったことを感じながら西の山々を窺っていると、一際目立つ峻峰になにやら動く気配がある、そこで注意をしながら見ていると、やがてそれは無数の白旗となって夜明けの山腹を飾った。とうとう義経が本陣をこの峻峰に布いたと見た盛俊は、早速、山の手の大将教経のもとへ義経出現の情報を送った。
暫くすると、麓の兵から数はわからないが峠に向う敵兵がいること、姿を隠しながら近づいている様子を聞くと、全軍に迎撃態勢をとらせた。
 草の中から鏑矢が唸りを上げながら襲ってきたのが合戦の合図となり、両軍の矢合わせが始まったが、源氏は岩陰や小屋の陰、草むらに身を隠しながら矢を射掛けてくるので数のほどは全くわからないが、義経の本陣から後詰めの軍勢が次から次へと送られているような錯覚にとらわれた。
その内に峠の麓に火がつけられ、西風に煽られながら黒煙が峠を襲い、煙の中から矢を射掛けられ大喚声が響くと、平家の軍勢も負けじと喚声をあげ、明泉寺の合戦たけなわとなった。
一方、盛俊の情報から鹿松峠から源氏の本隊がやって来ると見た教経の目は、もっぱら鹿松峠に向けられた。ところがその鹿松峠から煙が高々と上がり、一際高い喚声を聞くにおよび、山の手の陣の全ての目は鹿松峠に釘付けになった。


鉢伏の山頂に辿り付いた義経の様子を、「九郎義経は一谷の上鉢伏蟻の戸と云所へ打上て見ければ軍は盛と見たり、見下せば或は十丈計の谷もあり、或は二十丈計の巌もあり、人も馬もすこしも通べき様なし(『延慶本』)」と記し、彼の誇りとする情景が見事に書き残されている。

 即ち、義経が命じた山の手攻撃を土肥・田代の軍勢が行っているのか、また岡崎の軍勢なのかわからないが、麓で合戦をしている様子だし、西の鹿松峠では黒煙が立ち上り、両軍の喚声が風に乗って聞こえている。
 そこで義経は陽動作戦が見事成功していると信じ、これならば危険な鹿道に挑戦しても危険はないと判断、「軍は盛と見たり」と申して逆落しの崖に挑戦するのであるが、目の前には十丈ほどの崖と二十丈ほどの巌が立ちはだかり、人も馬も通れない様相を示している、と逆落しの崖の表情が正しく記されている。

8. 逆落し

 平家物語の諸本が認める逆落しの崖は、大別して延慶本・源平盛衰記・四部合戦状本・南都本・長門本と流布本系(流布本・覚一本・八坂本・百二十句本)の六つに分けられるが、それぞれ表現方法は異なるものの、いずれも同じ崖の表情を伝えているのは、平家物語の筆者たちが間違いなく逆落しの崖を見ながら筆を執ったことを教えている。つまり表現方法の違いは、「群盲象を撫ず」の類である。
 先ず上段の小石交じりの砂の崖は勾配28度ほどであり、足場がないため人馬共に滑り降りなければならない。武者たちが如何したら良いかと案じていた時に、別府小太郎が老馬を試みに落としてみることを進言、そこで弁慶が探してきた鹿毛に平家の笠印をつけ、葦毛には源氏の笠印をつけて崖の上から落とし、源氏の笠印の馬が見事に降り立ったのを見て、佐原十郎義連が「人も乗ぬ馬だにも落し候、義連落して見参に入らむ」と旗を高々と掲げて見事に降り立った。


     左の絵は上段の崖における出来事を語り、右の写真は草木が繁茂する上段の崖の現状を伝えている。



 上段の崖から壇の上に降り立った佐原十郎義連が、崖の上から見下ろした蟻ノ戸と呼ばれる岩場は、苔生した勾配34〜35度の急坂、底まで45mほどもある。
 義連「是より下へはいかに思とも叶まじ思止給へ」と申すと、崖の上に控えていた武者たち「下へ落しても死むすとて敵の陣の前にてこそ、死め」とて崖を降りてくる。これを見た義連「三浦にて朝夕狩するに、是より嶮しき所をも落せばこそ、落すらめ、いざや若党」と申し、一門の者どもを引き連れ、義経の周りを固め、目をふさぎ、馬に任せて落とせば、義経「よく見て落とせや、若党」と申して先に落とす。あまりの懸崖にたじろいでいた武者70騎も、負けじとばかりに落とせば、一騎も損なうことなく山の手の仮屋の前に立ち並んだ。
 義経は、山間に勢揃いした武者の30騎に白旗を掲げさせると、鬨の声を上げて山の手の陣に襲い掛かった。

 平家の山の手に陣を布いた武者たち、目の前に展開している鹿松峠の煙りと喚声、どよめきに心を奪われていると、突如、右手の山間から起こった鬨の声と地響き、そして砂煙を上げて襲い掛かる源氏の騎馬武者集団を見出した。
 馬の背に横並びに並んでいた平家の武者ども、この不意の襲撃に肝をつぶした。襲い来る馬群の迫力に対し、個々に戦う術もなく、赤旗を放り捨て我先にと逃げ出した。
それも西は鹿松峠での戦、南は西木戸の戦いとあって、東方面から大輪田泊へと闇雲に逃げ出したのであるが、ここに平家の軍勢の大きな錯覚があった。


後ろには白旗を高々と掲げながら追い迫って来るのは、僅か70騎の源氏の騎馬集団であるが、その白旗の前を必死に逃げている味方の武者を、突然現れた源氏の武者と勘違いをして、次々に増えてゆく敗走の武者の数を、源氏の大軍が押し寄せて来たと見てしまった。
このとんでもない錯覚に陥って逃げる味方の軍勢を三草山より眺め、大輪田泊の同士討ちを見下ろしていた山の手の大将教経の姿を、『八坂本』は次のように語っている。



「能登殿は一度も不覚し給はぬ人の、今度山の手やぶられて面目なくやおもはれけむ、うす墨といふ馬に乗り、唯一騎、渚を西へ落られけるが、播磨の高砂より御舟にみして、讃岐の八島へ渡らせおはしまし給ひぬ」

ここでは、逆落しにより教経が陣を布いた山の手が破られた、と伝え、義経の作戦通り、逆落しによって山の手が落とされたことを記している。
この平家の錯覚と恐怖を増長させたものとして、村上基国の一行が放った平家の屋形や仮屋に対する火の手であり、この煙りまでもが逃げる平家に追いすがって、平家の武者たちの錯覚は幾何級数的に膨れ上がり、「我方も皆敵にみへければ、肝心も身にそはず、あわて迷事なのめならず(『延慶本』)」と大錯覚が記されているが、この時「平家の兵共、取る物も取りあへず主上を具し奉りて、我先にと渚へこそ落ちられける(『八坂本』)」とあって、主上即ち安徳天皇は、総大将の宗盛と共に大輪田泊にいたことを告げている。
 その後、平家の武者ども「若しや助かると、前なる海へぞ多く走り入りける。渚には助け船共いくらも有りけれども、船一艘には鎧ひたる者共が、四五百人・千人許り込み乗つたるに、何かは好かるべき、渚より三町許り漕ぎ出でて、目の前にて大船三艘沈みにけり。 その後は好き武者をば乗するとも、雑人ばらをば乗すべからずとて、太刀・長刀にて打払ひけり。かくする事とは知りながら、敵に逢ひては死なずして、乗せじとする舟に取り付き掴み付き、或は臂打斬られ、或は肘打落されて、一谷の汀朱に成つてぞ列み臥したる」と浜辺の惨状を伝えている。
 一方、東木戸の激戦の多くは浜辺で行われていたが、山裾から東木戸を窺っていた児玉党の武者たち、山の手から平家の本陣にかけて湧き上がった黒煙を見て東木戸の大将知盛に使者を送った。「君は一年武蔵国の国司にて渡らせ給へば、そのよしみを以て、児玉の者どもが中より申し候。後をば御覧ぜられ候はぬやらん」と申せば、平家のものども後ろを見て驚いた。
  黒煙の東木戸に押し被さる有様は、本陣の既に落ちたことを物語り、これ以上身命を賭して戦うことの無意味さを伝えているのである。恩賞目当てに戦に加わった雑兵どもは、これ以上戦うことは無意味と知るや、平家を見捨て、源氏の武者たちの間をすり抜けて、一目散に逃げ出した。 ここに哀れをとどめたのは平家の武者たちであった。源氏に追われて西へ逃げながら海に逃れようとするが、乗る舟もないままに逃げては追いつかれ、次々に首を挙げらていった。
源氏の武者どもは、武門の誉れと褒章を得んがために、躍起になって敵を捜し求め、追いついては首を取る凄惨な首の取り合いを始めた。
 彼方此方から聞こえる勝鬨の叫びは、鬼の哭き叫ぶような異様な響きで六甲の木々を震わせたのである。
 およそ辰の刻(午前8時頃)から逆落しに始まる戦いは、巳の刻(午前10時頃)まで続けられ、その結果、福原、大輪田泊で討ち果たした武者は数知れず。
 義経はその亡き骸に一礼をすると、後白河法皇への第一報を認めた。

 「搦手也。先落丹波城。次落一谷。……猶不及一時。無程
 被責落了。多田行綱自山方寄最前。被落山手(『玉葉』)」。

 つまり、義経は搦手であり、先ず丹波の三草山を落とし次いで一の谷を落とした。……戦は辰の刻から始まって巳の刻までだが、一つ刻もかからず責め落とした。多田行綱が山方より間近に寄せたため、平家の山の手を真っ先に落とした、と言う意味
                          かと思われる。
 後刻、義経が知ったのは、山の手の軍勢の目を逆落しの崖から逸らせたのが、土肥の軍勢でも岡崎の軍勢でもなく、鷲尾の築いた仮城を後ろ盾として鹿松峠を攻撃した多田行綱の軍勢であることを知り、戦勝の第一報に彼の陽動作戦を称える記事を載せたのであった。義経が戦に勝った理由を『吾妻鏡』は、
 「鵯越より攻め戦はるる間、商量を失ひて敗走し、或は馬に策ち一の谷の屋形を出で、或は船に棹して四国の地に赴く」とあって、平家が敵と味方の数を見誤って敗走したと伝えているが、
『延慶本』も同様に「我方も皆敵にみへければ、肝心も身にそはず、あわて迷事なのめならず」と記し、味方の敗走を敵の攻撃と見誤ったことにある、と伝えている。この平家の大軍を錯覚に導いた義経の大マジックは、都で編み出され、神戸という大きな大地を舞台として披露された、世にも不思議な戦であった。
 時代の風雲児、弱冠26歳の稀代の英雄は、ここに日本史に燦然と輝く大きな足跡を残したが、その足跡以上に、彼が最も誇りとしたのは、初めて騎兵隊を編み出し、清盛が築いた天下の一の谷城を、鬼謀をもって陥した、世界の歴史に空前絶後、おそらく類例のない一の谷の戦いであったに違いない。

9. あとがき

 そもそも鵯越の逆落しの崖を誤まり伝えたその要因を探ってみると、江戸中期の儒者梁田蛻巌(1672〜1757)の『登鐵拐峯記』にそれが見られる。
 その文中に、「壬寅(1722)……買舟指須磨而往。……而鐵拐峯甲諸山。其麓有三谷。自東當第一者曰一谷。實壽永之亂平宗盛等。所據要害處。攝播之間。有小溪。曰界川」。つまり、「1722年のこと、舟を雇い須磨に向かう。……鐵拐峰や甲諸山の麓に三つの谷あり。東より第一を一の谷と云う。寿永の乱の際、平宗盛ら拠所とした処。攝津播磨の国境。小溪あり、堺川と云う」とあって、文面の全てが須磨の地を指しているために、誰もが須磨の一の谷に平宗盛が陣を布き、ここで一の谷合戦が行われ、鉄拐山より逆落としが行われた、と考えるのも無理のないことである。
 彼は11歳で人見竹洞を師としたが、師の人見竹洞は寛文9年(1669)、幕府の儒学者林春斎と共に赤石城の城主松平信之に招かれ、『赤石八景の詩竝に序』を詠じた。このときの序には、印南野(山の手)が義経の逆落しの地であると記し、詩には、印南野の鹿を詠じ、教経が陣を布いた三草山の情景を詠じている。
 ところが梁田蛻巌は、明石城主に仕えている時に須磨を訪れ、師の『赤石八景の詩竝に序』を知ってか知らずか、『登鐵拐峯記』を書き残したのである。
 ここにおいて逆落しの地が謎の世界に踏み込んだのであるが、源平合戦当時に須磨に一の谷があったという記事は皆無であり、一の谷の所在は鵯越の麓、福原の南、福原の湖、難波一の谷とあり、逆落しの地は山の手(夢野=印南野)と記されている以上、『登鐵拐峯記』は地元の口伝のもとに成立した記事と考えられるが、須磨の方々は今も猶この口伝を大切にされている。

 未だに歴史を飲み込んだまま静かに横たわる、釣瓶下しの崖「蟻の戸」は、義経率いる騎兵隊の雄姿と義経の誇りを、今もなお人々の心に語り続けているのであり、そのささやかな声に耳を傾けて欲しい。


 この一遍の内容は、平家物語やあらゆる古記録・伝説を集約し、そこから考えられる逆落しの場所と義経の戦略を記したものであるが、搦手の軍勢を事前に丹波へ潜行させていたこと、義経の搦手の数および岡崎四郎の攻撃目標については、私の推論がはいっているので、その点をご容赦願いたい。
なお、追加資料などをリンクできるようにしたいので、後日、今一度このHPを開いてもらいたい。
                                       神戸市 梅 村 伸 雄


 逆落しの現地案内地図 逆落しの現地に立ち、義経の戦略と勇気そして栄光を称えて戴きたい。

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