風雲児:高杉晋作




 動けば雷電の如く、

   発すれば風雨の如し

と称えられるように、高杉晋作における人間像の追求は、とかく激烈な行動面に向けられ、狂的にもみえるその衝動性が強調されてきた。高杉晋作は早く死んだが、その生涯を見ると、ほとんどなすべきことは、なし終えたという完結の人生を思わせる。


 彼は、自分が登場すべき舞台をよく心得ていた。
 主役として動く余地のない舞台には、決して登場しない男であった。
 高杉晋作という男が登場するのは、必ず決定的な解決を迫られる時期でなければならなかった。
 「拙劣な死」を避け、おのれの死を最も効果的な時期に見定めようとする。それは、攘夷戦前後から功山寺挙兵に至るまでの彼の行動によく示されている。
 晋作は、しばしば「不在の人」であったが、現れたときは、「発すれば風雨」のように、効果的な仕事をして、さっさといなくなってしまった。


 しかし、彼の遺した160通に及ぶ手紙の中から浮かび上がってくる人間性は、思いのほか律儀で繊細さに満ちたものであり、それ故にかえって感情の起伏も大きく、人一倍悩みも深い青年の姿がうかがえるのである。


 天保10年(1839)8月20日、萩菊屋横丁に住む毛利藩士高杉小忠太と妻道との間に男の子が生まれた。名を晋作という。150石の高杉家は、長州藩ではいわば中級の藩士というところであるが、のちに維新史に名を留める人々の家柄、たとえば桂小五郎90石、吉田松陰57石、久坂玄瑞25石と比べるとき、やはりかなりの格式ということになろう。ことに「譜代の臣」であるということだが、高杉家にとっての大きい自負であり、奔放な生涯を送った晋作にしても、終生主君への忠義の意識を強く持ち続けた要因となったのであろう。


 晋作は、御役目大事の父を中心に、祖父も祖母も健在な、ごく平凡な武家の一人息子として育っていく。いわば、何ということもない少年時代なのである。何らこれといって、語るべき事跡がないのである。
 ただ、嘉永元年12月、晋作10歳のとき、天然痘(疱瘡)にかかったことは事実である。江戸時代には、これの大流行で全国的におびただしい死者を出すことが珍しくなかった。長州にも、周期的にこの伝染病が流行していた。晋作は、12月6日に高熱を出し、9日に至ってはっきりとした症状が現れ、一時は絶望かと思われたが、シーボルトについて西洋医学を学んだことがある青木周弼の診断により、ようやく一命を取り留めた。しかし、後遺症として「あばた」が顔に残り、以後「あずき餅」とあだ名されることになる。



 そうした晋作が、明倫館入学の頃から、剣術修行に異様な情熱を示し始める。
 腺病質であばた面ということは、武門の子として、少年晋作に少なからぬ屈辱感を抱かせたに違いなく、そうしたコンプレックスの補償行為として、強さ、逞しさへの道を志向させたという見方も成り立つのである。

 後年、好んで体躯不相応な長い刀を身につけたこと、あるいは虚勢にも似た激烈な行動に出たことなどの中にも、そうした潜在心理の一端をうかがうことができるのではないだろうか。


 しかし、この男が19歳のとき、松下村塾に現れたということが、歴史を大きく動かせるのである。そして、彼をそこに連れて行ったのが久坂玄瑞だったという。
 剣道に精進した彼は、19歳の時には、すでに免許皆伝の腕前を持っていた。その武人を松陰のもとに連れて行くことのできた久坂玄瑞もなかなかの者である。
そして、この松陰との出逢いが晋作の生涯を変えさせるのだ。


 塾に移ってからの晋作は、それ以前の彼の生活態度を知る者にとっては、見違えるばかりの学問に対する打ち込みようだった。剣術に凝る暴れ者としか思われていなかった晋作が、これほどの読書家であったことは、人々を驚かすに十分だったし、かつて大きく差をつけられていた久坂玄瑞にも追いつくまでになっていた。そして、晋作と玄瑞は、松下村塾の双璧として、たちまち人々の知るところとなったのである。



 はじめ松陰は、晋作のことを「いまだ学問は未熟で、わがままなところもあるが、彼は有識の士であるから、10年後にはすぐれた人物になるだろう。」と期待した。
 松陰は、下手に矯正しては、晋作のよい素質を萎縮させることになるとして、とやかく行動をたしなめることはしなかった。そのかわり、性格の相反する久坂玄瑞を常に晋作の競争相手となるように仕向けた。2人は、互いに競い合いながらめざましく自己を高めていった。



 「予事を議する毎に、多く暢夫を引て之を断ず」

 松陰をそういわせるまでに、晋作は成長した。つまり、門弟たちと話し合って何かに決着をつける場合、しばしば晋作の意見を引用したというのである。
 「晋作の識を以って、玄瑞の才を行え」ば、理想的だと松陰は考えていたようである。
 また、松陰が指摘したように、晋作にはわがままな性格が目立った。自分の思うようにしないと承知しないという自己中心的な性格だったようである。しかし、その一見ひとりよがりな自信といったものは、晋作の行動力を裏付ける有用な部分として働いていることも見逃せないのである。


 中原邦平著「東行先生略伝」で、松下村塾の人物を戯画化したような次のような話が出ている。それは、山県有朋の談話である。

 「その絵は、一番初めに鼻話を通さぬ離れ牛を描き、その次に坊主頭で裃を着ている人がある。その次には木剣があり、また、その次には棒がある。それで、吾輩がこの絵はどういう意味かと尋ねると、稔麿の答えに、この離れ牛は高杉晋作である。これはなかなか駕御できない人である。坊主頭で裃を着て座っている人は久坂玄瑞だ。これは、廟堂に座らせておくと堂々たる政治家である。その次の木剣は入江九一である。入江は偉いがまだ本当の刀ではない。木剣くらいである。それから、その次の棒は誰かと聞くと、この棒はお前であると答えた。実に人を馬鹿にしたものだ。」
まだ、狂介といっていたころの山県有朋が棒にたとえられたのは傑作だが、晋作を離れ牛に見たところも面白い。


  平凡な幼年期、剣の道を志す少年期、そして少年期を脱しようとする時期に、吉田松陰と巡り会い、彼の英雄的人生への軌跡が決定付けられる。
  ともあれ、緊迫していく情勢の中で、格別に学問を重視し、才気ある若者を尊重する長州藩の気風に育まれながら、ひ弱な少年晋作は、「雷電風雨」のような青年志士へと成長開花していくのである。


 ここで、彼の離れ牛とも「雷電風雨」ともいえるエピソードを拾ってみることにする。

  文久3年3月11日のことである。孝明天皇の加茂神社行幸があった。攘夷祈願のためで、上京していた将軍家茂もそれに随行した。晋作は、早速それを「見物」に出かけた。彼の関心の対象は、将軍であった。自分たちが討とうとしている幕府の将軍が、どんな顔をしているのか一度見ておいてやれというのだろう。

  当日、京は大雨だった。将軍は、護衛の最高責任者だから雨具もつけずに馬上に跨って天皇に随行し、一橋、細川、毛利など諸侯も武装してこれに従った。
晋作は、三条橋付近の河原で行列を見ていたが、馬上の将軍に向かって、突然叫んだ。
「征夷大将軍!」

  この征夷大将軍というのは、源頼朝以来幕府の首長の職名であり、部門の最高責任者というほどの地位を表している。だが、もともとは制夷、つまり外敵を討つ責任者そのままを内容としている。晋作は、その意味を込めて叫んだのだ。

 それにしても、将軍の行列にそんな声をかけるという、かつて誰も経験したことのない突拍子な彼の行為は、人々の度肝を抜いたが、当惑したのは、将軍の供をしていた幕府の役人たちだった。

  世が世なら無礼打ちになりかねないところだが、ここは将軍の影が薄い京都である。大仰にとがめだてするときでもない。役人たちは、声のあがった方向を横目で見ながら、顔をしかめて通り過ぎたという。(いよいよ将軍も天皇に従って攘夷を神前に誓約するのか)と、感極まって思わず叫んだというのだが、果たしてその真意はどうだったのだろう。

 この言葉は、将軍に対する痛烈な皮肉以外の何ものでもないだろう。要するに、ヤジを飛ばしたのである。暴れ者といわれた晋作の野放図な姿勢がこんなところにひょいと顔を出したのだ。田舎武士のガラ悪さだといわれても、これだけのことをやってのける男といえば、長州でも晋作以外にはないだろう。


  また、3月16日、晋作は、あっさり髷を切った。
 「西へ行く人を慕うて東行く我が心をば神や知るらむ」と歌い、東行と号した。西へ行く人とは、西行法師を指している。では、東へ行くというのは、東の幕府打倒を意味しているのだろうか。西行法師は、かつて、北面の武士だったが、親しい人の死にあって、世の無常を感じ、出家して隠者として諸国を放浪した。
  晋作は、髷を落としても、隠者とはならない。むしろ、もっと世の中に踊り出て、自由に振舞ってやるぞという気構えである。その意味も含めて、東へ行くとしたのだろうが、当時、「東」といえば、幕府のお膝元江戸に他ならない。
  「我が心をば神や知るらむ」という表現は、そのあたりの覚悟を述べているように思えるのである。
  決意を表明するために、突然髪を断ち、出家した晋作の行動は、一見奇矯に感じられたに違いない。武士が髷を切るなどは、よくよくのことだと思われただろう。晋作のザンギリ頭を見た人々は、それが出家した晋作の姿と思ったかもしれないが、晋作にとっては、そのように見せかけながら、内心ではちょん髷に別れを告げ、西洋文明に一歩近づくつもりではなかったのだろうか。


  かと思えば、反面、晋作と深いかかわりを持った人々への手紙には、赤裸々な心情が語られ、繊細な面がうかがえるのでる。

  晋作の手紙は、安政3年(1856)7月10日付けで、旅役中の父小平太宛に出されたものに始まる。
  彼の場合、父の意に従い、心を安んじようとする志向が極めて強い。それだけに、父の意に反して大事をなす際の、心中の葛藤は、格別に激しいものがあったに違いない。

 一方、「忠」の念の強さも格別である。亡命、脱藩といえば、当時の武家社会にあっては、切腹、お家断絶に値する大罪であるが、常に才気を惜しむ藩の寛容さに助けられ、事あるごとに重用されている。それだけに、彼自身、主君の信頼と温情を深く肝に銘じており、手紙には、「何卒風となり、雨となり、毛利御家の御興を祈るのみにござ候」とある。
  藩に弓引く挙兵に際しても、「悪名を天下に蒙るといえども、毛利のため隠れたる忠士たらんとす」という文句を肩印にしたためていたという。
 晋作にとって戦う相手は、あくまでも藩を牛耳る俗論派であって、決して、藩でも主君でもなかった。それは、当時の武家社会一般の理念の枠を超えた、より本質的な「忠義」であったといえるかもしれない。

 ある意味で、高杉晋作という、多感にして、才気ある一人の青年は、人一倍忠孝の念を心に持つが故に、より苦衷の生涯を送らざるを得なかったようだ。


  父宛についで見られるのが、吉田松陰への手紙である。松下村塾を通じての2人のかかわりは説明するまでもないが、その文面で心打たれるのは、単に学問的、思想的な交流にとどまらず、家庭的な諸事にまで温かい心のやりとりがあったということである。
 魂を寄り添わせる松陰の教育姿勢に対する素直な心情の吐露でもあったのだろう。晋作の松陰に宛てた文面は、兄に対するように心を許しているのである。

 とかく、一匹狼のようにいわれる晋作であるが、感受性の強い青年だけに、友を求める心も強かったようである。そして、友と信ずる者には極めて素直に心を開き、凡庸な悩みまでも訴えているのである。ロマンチストであるのだ。


 しかし、明治維新のひとつの特徴は、青年たちの感受性が国土的義憤となって爆発したところにあるのではないだろうか。そうした一群の核のような存在が、いわば高杉晋作であった。

 忠孝の念と情に厚い晋作の、もうひとつの真骨頂は、「真」と「気迫」を求める姿勢にあった。彼が、世に角を立ててまで徹底して求めたのは、あくまでも「真」であった。そうした点が、彼をして時に激しい行動にも走らせたのだろう。「真」とともに彼が常にその精神としていたのは「気迫」であった。
 そして、彼は、他人に対してばかりでなく、己自身において、より激しくこの気迫の充実を求めていたのではないだろうか。

 攘夷戦敗北の建て直しのための奇兵隊結成、四ヶ国連合艦隊との和議、功山寺挙兵、四境戦争での小倉口緒戦、いずれもこの気迫と憤激によって苦境を好転させている。

 高杉の真の見事さは、繊細な己の心に打ち勝って、豪胆な行動を起こした彼自身の心の内なる戦いにあったともいえる。まさに、「真」に身を投じて浮かぶ瀬を求めた生きざま、あるいは身を投じる決断の潔さが、時に飛躍と見え、狂ともとられたのである。


 慶応3年3月に入ると、晋作の病状は一段と悪化した。晋作重体と聞いて、藩主は、晋作に新しく100石を与え、これまでの労に報いた。奇兵隊の創設の直後、彼は新規160石をもらったが、脱藩の罪で没収されたままだったからである。


 4月14日未明、主治医の石井健伯が、庭先に田中顕助を呼び、「今日は、お大切になされい」といって辞去した。今日、恐らく生命が尽きるであろう、という意味である。

 皆、燈火を寄せ、晋作の枕頭に集まった。晋作は、ずっと昏睡状態にあったが、夜がまだ明けない頃、不意にまぶたをあけて、あたりを見た。意識が濁っていないことが、誰の目にもわかった。晋作は、筆を要求した。枕頭にいた野村望東尼が、紙を晋作の顔のそばに持っていき、筆を持たせた。



 晋作は、辞世の歌を書くつもりだった。
 ちょっと考え、やがて、みみずが這うような力のない文字で書きはじめた。


  おもしろき こともなき世を
   おもしろく

とまで書いたが、力が付き、筆を落としてしまった。

  晋作にすれば、本来おもしろからぬ世の中を、随分おもしろく過ごしてきた、というつもりであったのだろうが、望東尼は、晋作のこの尻切れとんぼの辞世に、下の句をつけてやらねばと思い、

    すみなすものは 心なりけり

と書き、晋作の顔の上にかざした。望東尼の下の句は変に道化めいていて、晋作の好みらしくはなかった。しかし、晋作は、今一度目を開いて、「おもしろいのう」と微笑みし、再び昏睡状態に入り、ほどなく脈が絶えた。

  ただその間、一度唇が動き、短くつぶやいた声を聞いたものがある。
 「‥‥吉田へ」ということばであった。
 27歳と8ヶ月という短い生涯であった。


 幕末激動の日本を、狂おしくも、また、聡明に行き抜いた青年武士高杉晋作の短い生涯は、それで終わったが、維新史における彼のすべての役割も、そこで終了していた。
  仮に、明治まで生きていたとしても、彼の登場すべき華麗な舞台は、もはや残されてはいなかったであろう。だから、第一幕の終演を見届けたかのように、「毛利恩顧の臣」高杉晋作は、永遠に主役の座から消えていったのである。


参考・引用文献

高杉晋作    (古川薫)       創元社
適塾と松下村塾 (奈良本辰也・高野澄) 祥伝社
吉田松陰    (田中俊資)      松陰神社維持会
世に棲む日々  (司馬遼太郎)     文春文庫
歴史と人物                中央公論社
歴史読本                新人物往来社