竜馬暗殺の謎を探る(後編)




 今回は、いよいよ各説の疑問点を指摘し、あるいは支持し、できるだけその真相に迫ってみたいと思う。
 その前に、もう一度、現在の捜査でいう現場検証を行ってみたい。

時:慶応3年11月15日午後9時頃
所:京都河原町蛸薬師下ル西側・醤油商近江屋新助宅二階
被害者:
坂本竜馬(海援隊隊長)33歳
    ほとんど即死。全額部(致命傷)、左肩先から左背骨、さらに全額部に傷
    (喉に2箇所の突き傷(トドメ)があったという資料もある。)
    中岡慎太郎(陸援隊隊長)30歳
    2日後死亡。後頭部、肩、胴、背、股等12箇所に傷
    (頭を3度ほど突き刺されていたという資料もある。)
    藤吉(下僕)
    死亡。背等に6箇所の傷
現場における刺客の遺留品:
    ろう色の刀の鞘
    先斗町の瓢亭という料理屋の下駄の片方
目撃者の証言:
    藤吉「犯人は十津川郷某と名乗り、名刺を出した。」
    中岡慎太郎「刺客が斬り込んだ時、『こなくそっ』といった。」
         「刺客はトドメを刺さず、『もうよい、もうよい』といった。」
         「入ってきた刺客は、2人だった。」


これらのことを踏まえて、前編で打ち立てた仮説を順々に考察していきたいと思う。




新撰組犯人説


刀の鞘
 現場に残された有力な証拠である刀の鞘について、これを原田左之助のものだと証言したのは、当時、近藤勇と対立して袂をわかっていた伊東甲子太郎一派から出ているので、信頼できないのではないかという疑問が湧いてくる。つまり、新撰組に濡れ衣を着せれば得をする立場にあったのである。
下駄
 その上、下駄まで残されているのも不可思議である。
中岡慎太郎の証言
 「刺客はトドメを刺さず、「もうよい、もうよい」と言った」
 「もうよい、もうよい」というほど憎らしいほど余裕のある刺客が、何故刀の鞘や下駄を残していくのか。刀の鞘を残せば、自分の身元がばれてしまうわけで、それを残していくこと自体おかしい。 また、下駄を履いて斬り込むということなど考えられないのである。ましてや新撰組は、プロの暗殺集団である。自分の身分を明かすような証拠品をわざわざ残していくはずがないのである。
デッチ上げ
 つまり、竜馬を斬った犯人たちは、新撰組を犯人に仕立てるため、わざわざ刀の鞘と下駄を残していったと考えられる。新撰組というのは、絶えず暗殺のようなことをしているから、デッチ上げておけ、というふうに、誰かが策略し、新撰組を利用したのではないか、と考えられるのである。
近江屋の室内
 これに対しては、いやいや近江屋というのは、天井も低く、非常に狭い室内では、鞘を差したまま斬り込むのは邪魔になるから、一応腰から抜いておいたとも考えられる。
谷干城の「坂本中岡暗殺事件」
 これによれば、竜馬の刀は、「太刀折りのところから六寸ほど鞘越しに切られている。身は三寸ほど刃が削れて鉛を切ったように削れている」
 それくらいだから、刺客の刀もかなり痛んだはずで、鞘におさまらないから置いて行ったのだ、という反論も考えられるのである。

  犯行現場は土佐藩邸に近いこともあって、この暗殺は一瞬の内に行い、第三者に目撃されない内に、速やかに逃亡しなければならなかったはずである。とすれば、犯行には余裕があったとしても、そういうものが残っていたとしても、ちっとも不思議ではない、という反論である。
しかし、やはり前述したように、この反論には無理があるようだ。
大義名分
 次に、京都市中の取締りをする新撰組にとって、竜馬は一種の指名手配の犯人であった。寺田屋事件の際、竜馬はピストルで役人に傷を負わせている。つまり、幕府側にとってみれば、竜馬は、当然の警察行為の対象である。新撰組としては、公務執行妨害の犯人として逮捕したいし、それは大義名分が立つのである。問題はここである。大義名分があるのだから、竜馬殺害は、新撰組にとっては、大手柄であったはずである。誇るべきことなのである。事件直後に発表すべき手柄であるはずである。ところが、発表するどころか、記録にも残っていないし、近藤勇もしていないと言っている。
新撰組の大石鍬次郎の証言
 板橋で官軍に捕縛されたとき、「竜馬暗殺は新撰組の仕事ではない。見廻組である。事件の翌日、近藤らが、剛勇の竜馬を仕留めた見廻組の今井信郎、高橋某のはたらきは感賞するに足る、と言っていたのを聞いたことがある。この記憶は間違いない。」と証言
大石鍬次郎の証言
 その後、前言を翻し、「俺が殺ったのだ。俺が斬ったのだ。」と証言。
 これは官軍側の激しい拷問に耐えかねてのことで、信憑性はないといえる。
近藤勇の証言
 流山で官軍の手よって捕らえられ、執拗な取調べの末、苦し紛れに「俺は知らん。しかし、新撰組の誰かが殺ったのかもしれん。」と証言したのも同じようなもので、信憑性はない。第一、新撰組の局長である近藤勇ほどの人物が、「竜馬や中岡を斬ったのは、俺は知らんが、新撰組の誰かが殺ったのかもしれん。」では通用しない。
方言
 刺客の「こなくそっ」という言葉も、松山地方でよく使われる罵言ということだが、何も原田左之助だけがその出身ではない。
証拠がない?
 こう考えてくると、有力証拠であるはずの刀の鞘や下駄は何の意味も持たないことになってきて、新撰組が犯人だという証拠は、何一つなくなってくるのである。刀の鞘についても、たとえ急いでいて忘れていったとしても、それが新撰組の原田のものだとどうして断言できるだろう。同じような種類のものが他にも売られているし、全く決め手にはならないといえる。


 やはり、これだけは新撰組の仕業ではなかったようだ。




紀州藩犯人説


「いろは丸事件」
 これには証拠も何もないのである。ただ、竜馬暗殺の年の4月に、紀州藩は、「いろは丸事件」によって、竜馬に多額の賠償金を支払わされていた。そのため、紀州藩士は坂本の辣腕に深く恨みを抱いていた。そこで、まず疑われたのが、紀州藩随一の利け者といわれた公用人三浦久太郎であった。そこで天満屋で襲撃されたのだが、これは陸奥陽之助の誤解であったらしい。これは、いわば紀州藩黒幕・新撰組犯人説だったが、すでに新撰組犯人説は否定したところである。




見廻組犯人説


定説
 現在では、元見廻組今井信郎、佐々木唯三郎らが殺ったというのが定説になっているのだが、はたしてそうなんだろうか。
大義名分
 では、まず、この説を否定する立場にたって考えてみる。
 最初に疑問に思うのは、見廻組とは、浪人の力が強いので取締りに不安を抱いていた幕府が治安力を増強するために取った措置である。そして、竜馬はいわば指名手配の犯人である。見廻組としては、当然の警察行為として竜馬を追っている。これには、大義名分があるのである。このことは、新撰組も同様で、既に述べた。当然の警察行為として、竜馬を殺害したのなら、大手柄で事件直後に公表してもよさそうなものである。当然、見廻組の記録にも残ってしかるべきである。それがまるでない、ということは、見廻組が殺ったのではないという、ひとつの重大な根拠になるのではないだろうか。
今井の自白
 見廻組犯人説の根拠は、明治3年2月から9月まで、兵部省、刑部省が、今井を捕らえてもう追求した挙句出てきた自白である。しかし、この自白を唯一の信憑性のあるものとするのは危険ではないだろうか。長い間、追及された後の自白というのは、信用できない。
 最近の事件を見ても、そのことを強く物語っていることは、周知の事実である。何時間も何十時間も拘束され、責められた後というのは、苦しさのあまりや、あるいは極限状態に追い込まれて精神や頭脳に異常を起こして自白するということもありうるのである。
 ましてや、当時、どんな拷問を受けたかわかったものではない。また、時には、大物犯罪者ぶりたい衝動からチンピラが偽の自白をすることだってありうるのである。
証言と現場の一致
 肯定説では、今井の供述が、現場とピタリと一致したというが、刑部省では、既に現場の状況は皆知っているのであるから、追求の果てに自白をそれに合わせていくことくらいは容易にできるのである。
功名心
 また、謎になっている竜馬・中岡の暗殺事件の下手人を突き止めようという功名心に焦っていたかもしれないのである。
 では、もう一度、その今井信郎の自白の内容について検討してみたい。
今井信郎の証言
 それによると、佐々木唯三郎から、「坂本竜馬という男がもう一人の男と河原町三条下ルの旅宿に潜んでいる。だから、今日、これを上のほうからの命令で捕まえに行って、万一手に余れば斬ってしまう。」と言われた。
竜馬の潜伏先
 ここで疑問に思うのは、何故竜馬がもう一人の男と近江屋にいることがわかったのかということである。竜馬が酢屋嘉兵衛宅もそろそろ危険だということで、近江屋に移ってきたのは、事件のわずか3日前である。しかも、ここに隠れているのを知っているのは、本当に親しいごくわずかな人だけで、さらに近江屋新助は家人にも知らせず、安全なように土蔵に潜ませていたのである。
偶然の在宅?
 また、結果的には、確かにその時、竜馬と中岡がいたわけだが、中岡がいたのは全く偶然で、風邪をひいていた竜馬は、はじめ一人でいたわけである。だから、今井が命令されたその時点で、坂本竜馬がもう一人の男と一緒にいるから、行って捕まえて来いというのは、事実に反している。どうも、結果からみて、合わせた供述調書ではないかと思えるのである。
在宅の確認
 当日、桂隼之助が一足先に宿に入り、家人を偽って、竜馬の在宅を確かめる。たまたま初めは留守中だったので、同夜9時頃、再び訪れ、佐々木唯三郎が先に立ち、松代藩と書いた偽名の手札を差し出した、というのであるが。これも、また奇妙なのである。桂一人で、まず在宅を確かめに行ったというのであるが、もし、その時、竜馬が在宅していたらどうするつもりだったのだろう。確かめて、すぐ帰り、あらためて他の6人と共に襲撃するというのだろうか。そんなことをすれば、いかに竜馬とはいえ、警戒するではないか。暗殺者にしては、少し慎重さが足りないのではないだろうか。
手札
 佐々木が差し出したという手札についてもおかしい。自白では、「松代藩と書いた手札」とあるが、事件後駆けつけた谷干城が中岡から聞き出した話では、「十津川藩」だという。この違いはどうなっているのか。しかも、刀の鞘や下駄は現場に残っていたのに、その手札はどこにも見当たらなかった。これだけ持って帰ったのだろうか。これもおかしいのである。
主犯か共犯か
 2階に上がって直接手を下したのは、渡辺、高橋、桂の3人で、佐々木は階段の上がり口を警戒し、土肥、桜井、今井の3人は、下で家人が騒ぐのを取り鎮める役目を果たしたという。この点で信頼できないのは、直接手を下したのを他の3人にし、自分は佐々木の命を受けて、家人を取り鎮めていただけだという箇所である。現在でもそうだが、罪を逃れようとする共犯者がよく使う手だからだ。しかも、その3人は既に死んでいる。何を言ったところで、死人に口無しなのである。
「近畿評論」の記事
 そして、今度は、明治33年5月号の「近畿評論」に、今井信郎は、自分が竜馬を斬ったと旧友の息子に語ったことが掲載されたのである。それによると、桑名藩の渡辺吉太郎と京都の与力で桂隼之助という人物ともう1人の4人で、近江屋を襲い、今井ともう一人が8畳間で竜馬を斬ったと述べている。明らかに矛盾している。人数も違えば、今度は自分が斬ったなどと、この点でも今井信郎の自白には信憑性が乏しいのである。
刑部省口書
 また、刑部省口書は、前略、下略となっているので、あるいは省略部分に何かが隠されているのかもしれないが、とにかく全面的に信頼できないのである。今井信郎という人間も、竜馬暗殺に関わったかもしれないが、実際にはどの程度関係があったかということになると、ちょっと疑問なのである。


どうやら、見廻組の仕業でもなかったようだ。



 ここで、もう一度、当時の竜馬を巡る政治状況を見てみたい。


大政奉還
 1ヶ月前に、竜馬らが建言した大政奉還が行われた。これは、竜馬から後藤象二郎へ、そして藩主山内容堂に伝えられた。しかし、土佐藩内での竜馬の立場は、中岡らと必ずしも一致していない。中岡は武力討幕派であり、この凶行の直前、2人はこのことで激論を闘わせていたとも言われている。 また、後藤象二郎との関係もよくなかった。
討幕の密勅
 かつて竜馬が仲介した薩摩、長州の二藩には、大政奉還の同じ日、討幕の密勅が出ているのである。とすると、竜馬の意見と西郷、大久保らとの意見は、必ずしも合わない。そして、幕府は、大政奉還が、結局、幕府の息の根を止めたとして、当然竜馬を狙う。その方法は、京都守護職派配下の見廻組、新撰組を使う。
「いろは丸事件」
 紀州藩も「いろは丸事件」で竜馬に恨みを持っている。
 つまり、竜馬は、あらゆるところから狙われている八方塞がりの状態なのである。
竜馬の潜伏先
 しかし、今までのところで述べてきたように、一体刺客たちは、どのようにして竜馬が近江屋に潜伏しているのを突き止めたのだろうか。幕府側としては、常に竜馬を狙っていたが、竜馬は幕府側の監視の目を逃れて、アジトに潜伏して活動を続けていた。しかし、以前からアジトとなっていた酢屋嘉兵衛宅もそろそろ危険になってきたというので、竜馬が河原町三条の近江屋へ移ってきたのは、事件のわずか3日前のことだったのである。
偶然の不運?
 近江屋の主人の新助は、竜馬の身を案じて、裏庭の土蔵に密室を作り、万一の場合には、裏手の誓願寺境内へ脱出する準備まで整えていたのである。このことを、新助は家人にも知らせず、下僕の藤吉が竜馬の身の回りの世話をしていたのである。しかし、凶行の前日に竜馬は風邪をひき、用便なども不自由だというので、母屋の2階へ移っていた。凶行の当日も、たまたま中岡慎太郎らが来ていたので、母屋の2階にいたのである。まさに、そこへ、刺客たちが踏み込んできたのである。なんという不運というべきか。
身辺の警戒
 これほどまでに竜馬の身辺が警戒されていたのに、何故刺客たちは竜馬の居所を知ることができたのか。不思議だとしか言い様がない。ところが、この情報の出所が、もし、竜馬と繋がりのある仲間内の密告によるものであると考えると、なるほどとうなずけるのである。つまり、討幕派によって裏切られて殺られたのではないかと。
トドメ
 もうひとつ、犯行の際、刺客が「もうよい、もうよい」と言ったのを思い出してほしい。これは、中岡に対して、トドメを刺そうとなおも斬りつけようとする共犯者に対して言っているわけで、竜馬さえ確実に殺ってしまえばそれでいい、ということになる。
竜馬の面体
 斬り込んだ際、そこに2人いた。どちらが竜馬か中岡かわからない。見廻組だとしても新撰組の連中だとしても、彼らは面と向かって坂本竜馬に会ったことはないわけで、おそらく顔を知らないはずである。にもかかわらず、犯人は知っていて、竜馬の方を主にして斬っている。だから、犯人は、前もって竜馬とはこういう風体の人間だということを知っていたに違いないのである。
討幕派の謀略
 これらのことからも、竜馬・中岡の暗殺は、実は幕府側ではなく、討幕派の仕組んだ謀略に違いないのではないだろうか。
 とすれば、それは、薩摩か長州か、土佐か。その説については、すでに前編の後藤象二郎犯人説以下で述べた。が、これだ、と断定するには、具体的資料がなさ過ぎるのが現実なのである。私自身も、後藤象二郎や西郷隆盛、大久保利通、桂小五郎といった人物をもっともっと深く研究しないことには、何とも言えないし、薩摩、長州、土佐の藩の内実といったものをじっくり研究する必要があるのである。


 ここでは、とりあえず、残りの諸説を否定する立場から、もう少し考えてみよう。




後藤象二郎犯人説


アイデアの盗用
 詳しくは、前編で既に述べた。簡単に言えば、後藤象二郎という男は、竜馬の盟友である武市半平太の粛清に一役買っており、もともと仇敵の間柄で、そればかりか後藤は、竜馬の大政奉還のアイデアを盗用して自分のものにした。つまり、慶応3年11月の時点で、アイデアの盗用が露見してしまえば、名声地に墜ちるという恐怖から、暗殺者を雇ったとする説である。そして、刀の鞘や下駄は、新撰組を犯人に仕立て上げるためのものだというのである。
暗殺の動機
 ただ、完全犯罪なので、証拠は何もない。史実としては確定のしようがないのである。また、暗殺の動機が、竜馬のアイデアを盗用したのが暴露されるのを恐れて、というのは、あまりにも弱いのではないだろうか。
同志?
 慶応3年10月に交わされた後藤と竜馬の間の手紙を見ても、そういう小さなことはあまり考えていないように見える。お互いに政治的な大きな夢を実現するためにどうしても必要だという同志愛さえあるように感じられる。それに、様々な政治構想のアイデアが竜馬のものであるということは、海援隊や陸援隊の間では、かなり知られていた事実ではなかったろうか。そうすると、竜馬一人を殺ったところで、たいした期待はできないだろう。
思想上の違い
 また、後藤は、慶応2年の後半、「いざとなれば幕府と戦うのもやむなし」との信念を山内容堂に述べたというから、竜馬との思想上の違いは大分縮まったようだ。


 とすると、いかに激動期とはいえ、後藤が竜馬暗殺を思い立ったとするのは、通常の人間の心理から、少し逸脱しているとはいえないだろうか。




討幕派犯人説


討幕には反対
 竜馬は討幕には賛成していなかった。国内の戦乱を避けて、なお改革を実現する。そのために将軍の方から大政を奉還して、恭順の意を表すべきだ。しかし、それに追い討ちをかける必要はない。
断乎討幕
 しかし、これには薩摩も長州も真っ向から反対であった。断乎として討幕すべきだ。土台から根こそぎ倒さなければならないとする。だから、彼らにとって、土佐一派の中途半端な動きはとかく邪魔になる。そのためには、大政奉還の真の推進者である竜馬を消すべきだ。そして、その罪を幕府側になすりつけて、土佐はじめ尊王諸藩の怒りを煽ったというのである。
根拠は希薄
 しかし、これはひとつの考え方に過ぎず、これを裏付ける具体的証拠は何もなく、新撰組や見廻組とは問題にならないほど根拠が希薄であり、ちょっと飛躍しすぎるのではないか、というのだが。
論争で解決?
 また、竜馬が本当にそのような甘い考え方を固持していたかどうかは、極めて疑問であり、従来の西郷や木戸との密接な交友ぶりから考えても、互いに論争、説得で済む問題であって、あえて抹殺しなければならないほどの討幕派のガンになっていたとは、とても考えられないのである。
変幻自在
 時勢の流れに応じて、君子豹変型であった端倪すべからざる竜馬の動きからみても、その必要が全くなかったのではないだろうか。
幕府の遺恨
 やはり、この場合、対立していた薩長二藩の勢力を結合させ、260年の徳川家の政権を奉還させる離れワザを演じた竜馬に対する怒りと憎悪から、彼の生命を狙う確立は、はるかに幕府側にあったと見てよいのではないか。


 これが、討幕派犯人説を否定する立場である。


 以上で、竜馬暗殺についての諸説を一応述べ終えた。前回では、それぞれを肯定する立場から、そして逆に今回は、否定する立場から客観的な立場にたって述べてきたつもりだが、果たしてどうだっただろうか。
 前回、今回といろいろな本を読んでみると、通説は見廻組犯人説が圧倒的であった。証拠その他の記録からすれば、確かにそのような気もするが、巨大な権力や政治、あるいは巨大な利益の中で、常に蠢いているどす黒い挑発や謀略工作があることを考えると、そして、諸説の様々な矛盾点等を考えていると、これは、やはり、討幕派の謀略に違いない、という気がするのである。
 具体的な証拠や資料は何もない。しかし、それも討幕派が抹消したとも考えられる。
 また、幕府側犯人説にしたところで、既に述べたように、裏を返せば、何も決め手はないのである。討幕派、その中でも薩摩藩が企てた陰謀だという気がしてならないのである。もちろん、何の証拠もない。


 しかし、次のようなことが頭に残ってしょうがないのである。


なぜ公表しなかったか
 事件後に、新撰組も見廻組も、竜馬暗殺については、大義名分があるにもかかわらず、一切公表していないし、記録にもないというのは、やはり、これは幕府側には身に覚えのないことだったのではないだろうか。刀の鞘や下駄が、わざわざ現場に残されていたのは、幕府側に罪をなすりつけるための工作に違いないのではないか。
歴史の非情さ
 討幕派の一部には、竜馬が大政奉還策に動き始めた時点で、もう御用済み、かえって厄介者だとみなす風潮が密かにあったのではないか。過去の歴史をみると、歴史とはそれほど非情だったではないか。
あくまで武力討幕
 大政奉還などに、最も強硬な反対意見を保持していたのが、薩摩の西郷隆盛で、そのような生ぬるいやり方では、大きな革新などというものは、到底できるものではない。300年に及ぶ腐敗した徳川封建権力は、残酷なようだが土台から根こそぎ倒さなければならない。そのためには、絶対武力討伐が必要だ。革命が逆行するような可能性を残しておいてはならないのだ。断乎、討幕すべきだ、としていたのである。この違いは、論争では収まらない。この後の、征韓論のときもそうだ。
薩摩藩の体質
 また、薩摩藩の、会津と結んで長州を討つかと思えば長州と組んで幕府を討つ、という変幻自在のやり方にも引っかかるものがある。
助命運動
 さらに、今井信郎が竜馬暗殺容疑で、辰ノ口の糾問所から伝馬町の牢に移された時、一番熱心に助命運動に乗り出したのは、なんと、それまで今井とは一面識もないはずの西郷隆盛なのである。一体、これはどういうことなのだろうか。
不可解な薩摩藩
 また、谷干城が、今井犯人説を信じる近藤勇を拷問にかけて口を割らせようとしていたのを、薩摩藩が頑強に反対し、谷を押し切ってしまったのも、どうもおかしいのである。
暗殺の黒幕は?
 今井というのは、何らかの形で、竜馬暗殺に関わったのだろうが、暗殺の直接の実行者はともかく、暗殺の黒幕は、薩摩の最高首脳のうちの、ほんの一握りの人間ではないだろうか、というのが、私の予感なのである。


はたして、皆さんは、どう考えるだろうか。





参考・引用文献

竜馬がゆく     (司馬遼太郎)文春文庫
龍馬のすべて    (平尾道雄) 久保書店
幕末暗殺史     (森川哲郎) 三一新書
坂本龍馬      (池田敬正) 中公新書
暗殺秘録      (三好徹)  角川文庫
坂本龍馬             プレジデント社
歴史への招待    (三好徹)  NHK
歴史と人物            中央公論
歴史読本             新人物往来社
歴史と小説     (司馬遼太郎)集英社文庫