体質改善計画




 眠い時に眠れない、そんなことがある。
 身体は眠ることを欲し、その欲した気持ちに応えるべくベッドに身体を横たえたにも関わらず、何故か一向に睡魔が訪れてくれない。
 そう、今のように…
「…何故だ?」
 確かにここのところ寝不足なのに満足に寝られない日が続いた。来年のセンター試験に備えて少しずつ勉強をしているからだ。
 予習と復習、その繰り返しをしていると段々わからないことがわかるようになり、勉強することが楽しくなっていって、気付けば結構な時間になっていたりする、そんな日が続いている。
 だからたまには早く眠ろうと、週に一度ぐらいは勉強を休んで早く寝るようにしたんだが…最初からこんなんでいいのか?全く意識が沈むような感覚がやって来ないぞ?
「まさか、コーヒーの飲みすぎなんてわけじゃないだろうな…」
 「眠気が飛びますよ」と、秋子さんが作ってくれたスペシャルブレンドを毎晩三杯ほど飲んでいるが、今日は飲んでいない。
 というか、子供じゃないんだからコーヒー飲んだぐらいで眠れなくなってたまるかよ、あゆじゃあるまいし。
 大体カフェインは緑茶の方がずっと多いんだ。コーヒー程度で…って。
「そういえばコーヒーカップを提げに行った時、秋子さんに付き合って緑茶も飲んだような…って、何を考えているんだ俺は」
 そりゃ昨日の話だ。昨日はちゃんと寝たっていうのに、どうして今眠れないんだよ…
 羊の数でも数えるか。
 …いや、止めておこう。疲れるだけだ。気を休める意味もあるというのに、わざわざ自分を追い込む必要もないだろう。
「数が重なってくると、あれは厳しいからな…」
 というわけで却下だ。
 しかし、静かだな。
 いつも思うことだが、この周囲はとても静かだ。閑静な住宅街とはこの辺りのことを言うんだろう。
「今日は真琴も大人しいみたいだしな」
 名雪は…この時間に騒ぐことなんて奇跡でもない限りは起こらないだろう。針はもう一時を回っている。
 真琴もさすがに寝ているかもしれない。最近は「よふかしはお肌の大敵よぅ!」とか言っていたしな。
 だが、そんな言葉も名雪を見ていると納得できてしまう。名雪の肌はとても綺麗だからな。
 勿論裸を見たというわけじゃあない。時々ノースリーブのシャツとかホットパンツとか、ラフな格好で家にいることがあって、その時に見た程度だ。
 後は時々風呂の方から真琴が「名雪は本当にすべすべだねー、いいなーいいなー」とかでかい声で喋るから嫌でも聞こえてしまうというのもある。
「真琴も夜更かしはしなくなったのかな…」
 まあ、いいことだ。
 ……うーむ。
「やっぱり全然眠くならん」
 どうしたんだろう。習慣になって眠れなくなったとか言うんじゃないだろうな。まさか、そんなアホらしいことはないだろう。
 目が冴えている。瞼が全然重くない。
 こういう時に勉強をやれば捗るかもしれない。
 だが、今日はやらない。そう決めた以上は貫いた方がいい。

『一度決めたものをあっさりと方向転換すると、後で色々と皺寄せが来るから、「この日に休む」と決めたら貫いた方がいいわよ。もっとも、後悔するのは相沢くんだから、あたしの忠告なんて無視してくれても全然構わないんだけどね』

 成績トップクラス常連のありがたい忠告だ。従うべきだと思う。正直な話肖りたい。
 つまり、何が何でも寝てやる。勉強しないで絶対に寝てやる。
 要はクセをつけろということなんだろう。でないとこの先、もっと寝たくても寝られないことが増えてくるんじゃないかと思うし。
「負けてたまるかよ」
 意地でも寝てやる。しつこいようだが絶対に寝てやる。
 俺はぐっと目を閉じて、羊の数を数え始めた…………


 って。
 羊を数えるなと言うのに!
「くそ…全然休まらないじゃないか」
 何も考えずに、というのは難しいものだ。真っ白にしたつもりでもつい何かを思い浮かべてしまう。そのことについて考えてしまうんだ。
 軽く頭を振ってみる。
 この程度のことで余計な思考が消え去るとは考え難い。だがやらずにはいられなかった。
「…水でも飲むか」
 多少の満腹感でも得られれば眠くなってくれるだろう。ベッドから這い出て、部屋を出る。


「ふー」
 水は冷たい。そんなことは最初からわかっている。わかっているがつい思ってしまう。いかんこんな当たり前のことをいちいち考えているから寝られないんだろうが。
 何も考えるな。余計なことだ。
 俺が今しなければならんことは眠ることだ。余計なことは全部意識しないようにしろ。
「…もう一杯飲んでおくか」
 グラスに水を注ぎ、一気に飲み干す。
 喉を通して冷たい水が体内に流れ込んでいく。体内に不足した水分が補給されていく。
 そして余剰水分は、排泄され…
「…まさか、今度はいい感じで睡魔が来た時にトイレに行きたくなったりしないだろうな…ってだから、余計なことを考えるなというのに」
 どうしてこう余計なことばかり頭に浮かぶのか。
 部屋に戻ったら少し精神を落ち着けるために座禅でも組んでみるか。
「その前に水をもう一杯…んくっ、んくっ…ぷは…ってだから飲んだら駄目だろうがっ!」
 こういうことだけ何も考えずに行動してしまう俺は一体何なんだろうな…




 そしてもう一度ベッドに。
 一度深呼吸をして、目を閉じた。
 眠れそうな気が全くしないが、目を閉じていれば眠くなってくれるだろう。
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 ……………
 …駄目だ。
 やっぱり眠気が来ない。
「どうしたもんかな…」
 クセをつけるために、何があっても寝てやろうという気持ちは今も持っている。
 だが、こう眠れないとクセもへったくれもあったもんじゃないぞ。
 時計を見る…ぐあ。
「最初にベッドに入ってから、もう二時間も経っているのかよ…」
 すごく無駄なことをしている気分だ。何もやっていないというのに時間だけが過ぎ去っていく。
 だが、香里曰く今のうちにクセをつけておかないと、後にもっとしんどい思いをすることになるらしい。
「どうすりゃいいんだよ…」
 それにしても…俺ってこんなに神経質だったのか?
 割とどこでも寝られるような人間だったはずなんだが。
 ここで暮らすようになってから、変わったのかもしれない。
 思い当たることもある。
 綺麗な未亡人とその一人娘。しかも俺に好意的な接し方をしてくれている。
 同居人の女の子も俺に好意的…しかも一つ屋根の下だ。
「まるで恋愛ゲームの主人公みたいだよな、俺…」
 以前北川にそう言われたことがあったが、まさにそうだ。
 そしてその環境は、俺に緊張状態を作っている。
 偶然着替えを覗くようなことにならないように。もしくは風呂場で出くわしたりしないように。
 あるいは洗濯物に下着が紛れ込んでいないように誤って歯ブラシを間違えて使ったりしないように。
 ご飯粒を迂闊にもくっつけて「取ってあげる」とか言われて指で摘まれたりしないようにいやそれどころか舐め取られて「えへへ」とかはにかまれたりしないように。
 いやいやそんな生易しいもんじゃなく…って何を考えているんだ俺は。
「こんなしょうもないことばかり考えるから寝られなくなるんだよ、ったく…」
 舌打ちの一つでもしたい気分だが、あまり舌打ちという行為が好きではないので我慢した。
 が、我慢出来ないものもあるということで…
「ああくそっ!」
 やっぱり水を飲みすぎた。トイレ行こう。乱暴にしたいのを堪え控えめにドアを開け閉めする。




「ゆういぢいいいいいいい!」
「…………………」
「なんがいっでえええ!」
 ……いや、その、あれだ。何を言えと?
 と、その前に状況を整理してみよう。あまりにも唐突過ぎて頭真っ白になってしまったではないか。
 トイレに行こうとして部屋から出たら、真琴がいきなり抱きついてきた。良く見ると涙目だった。
 …冷静になったら簡単に状況を把握してしまった。
「…で。何なんだ?」
 懸命にしがみつく真琴を適度な力で引き剥がす。こんなところ名雪に見られたら恐ろしい、秋子さんに見られたらもっと恐ろしい。
「…トイレ連れてって」
 子供か。
「一人で行け一人で」
「一人じゃ行けないから連れてって欲しいのよおっ!」
「何でだよ、ってとりあえずもう少し小さな声で喋れ。名雪が起きる」
「あう…」ったく。
「で?何で一人じゃ行けないんだ?」
「………」
 無言で俺を睨まれても困る。
 俺は超能力者じゃないんだから、言ってくれないとわからん。
 真琴はもじもじとしている。どうやらかなりヤバイ状態にあるらしい。何でそんなに我慢しているんだか。
「言いたくないのなら別に言わなくてもいいが、その代わり一人でトイレに行けよ」
「祐一の意地悪―――――――――!乙女に恥をかかせるつもりなのっ!?」
 聞きたいことを教えてもらえないのに、どうして恥をかかせることになるのか教えてもらいたいものだ。
「とりあえず声を小さくしろって」
「あう…」
 かなり切羽詰っているようにも見えるが、俺の言うことを聞いてくれるぐらいだからまだ若干の余裕はあるようだ。
 だがもうほとんど余裕がないところまで来ているのはわかる。内股状態だ。
「…じゃあこうしよう。連れて行くから、その後で理由を教えること。それならいいぞ」
「……祐一の鬼」
 だからなんでその程度で鬼扱いされなければならんのだ。
 文句言ってやりたいところではあるが、俺もあまり余裕がある方じゃない。真琴の後で用を足すことになるだろうし、ここは黙っておくことにしよう。
「肯定と判断したぞ。ほら」
 手を出す。真琴がぶっきらぼうに、それでも痛いぐらいに強く握ってくる。心なしかその手は震えているように思えた。堪えて、ということではないように思える。
 …とにかく用を足してからだな。そのまま無言で歩き出す。




「…なるほど」
「ふん!笑いたければ笑うがいいわ!」
 …開き直るなよ。
 しかし、やっぱりお子様だなこいつは。怖いマンガ見て夜中にトイレに行けなくなるとは…
 だが、笑うつもりはない。俺にはもう一人怖がりの知り合いがいるからな。
 ホラー映画観た後で「怖くてトイレ行けなかった、膀胱炎になったらどうしよう」と涙目で相談してきたやつが。
 そいつに比べれば真琴は年下だ。可愛いぐらいだ。
 …もっとも、あいつだって十分可愛いんだけどな。
「別に笑わないよ。俺だってそんな経験あるからな。誰だって経験することだ」
「本当っ?」
「ああ、名雪は途中で起き上がっても寝ているだろうからわからないが、秋子さんだってきっと経験があるはずだ」
「そっか。あたしだけじゃないんだよね?じゃあ美汐もそうなのかな」
 …天野の場合は逆に相手を怖がらせそうだ。何て言ったら真琴に密告されて仕舞う可能性があるから言わないでおこう。
「さて、じゃあそろそろ戻ろうぜ。手、握っておくか?」
「…………うんっ!」
 北川にこんな姿を見られたら「このエロゲー主人公が」とか言われそうだな…




「…それで結局眠れずじまいで朝を迎えたわけだが…ふぁ」
「大変ね、相沢くんも」
 言葉に棘があるような気がするが…そんなことはないか。
 真琴を部屋に戻した後も一向に眠気がやってくることはなく、気がついたら空は白み、寝るのを断念、着替えて勉強を少しやってしまった。まあ夜ももう明けているから問題はないだろう。
 正直今日一日は静かな授業がないことを祈ろう。
「高校受験時代の香里がそうだったね」
 名雪が懐かしいものを見るような目で俺を見ていた。
 高校時代の香里って、どういう意味だ?
「だから言ったじゃない。あたしは経験者だって」
 ああ、そういうことか。
 つまり俺に語って伝えたことっていうのは、その時の経験談なわけだな。
 ということはやっぱり水を飲みすぎてトイレに行きたくなって栞に止められて付き添って…いかん、嵌り過ぎだ。
「…何をよからぬことを想像しているような顔しているのよ」
「してないって」鋭い奴だな。こういう時は話題をずらそう。
「名雪。当時の面白エピソードはなかったのか?授業中に爆睡して叩き起こされた上、バケツ持って立たされたりとかいう愉快な話は」
「いつの時代よ、それ」
「さすがにバケツはなかったけど…」
「ちょっと待ちなさい名雪。それじゃあまるであたしが授業中に爆睡して叩き起こされはしたみたいに聞こえるじゃないの」
「大丈夫だよ。祐一はそんな風に思ったりしないよ」
「そうかもしれないけれど…」
「確かに思わないが、何かあったみたいだな。一体何があったんだ?」


「確かあの頃「四日目でやっと寝られるようになった」とか言ってたよね」



 その記録だけは更新しないようにしよう。そう固く誓う俺だった。

おしまい

2004・5・1UP



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