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インド西部大地震災害義援金募集中

"think globally, act locally"

目次

FRIENDS OF ALL (NGO) について

6月2日開催「災害復興活動ワークショップ」

現地活動レポート

第一回および第二回の義援金募集は終了させて戴きました。皆様のご協力により、合計242,799円に達しました。心より感謝申し上げます。

第一回募集分(2001年2月15日〜3月1日)

第一回の募集期間は終了させて戴きました。おかげさまで、94,500円となりました。みなさまのご協力に、心より御礼申し上げます。こちらは、2001年3月2日付の東京三菱銀行のcash selling rate にて米ドルへ交換し、筆者が直接現地へ納入致しました。FRIENDS OF ALLより領収書を徴求致しましたので、掲載致します。

◆第1回募集分経過報告(2001年3月2日現在)◆

預り金  

\94,500

(7名様および1団体様)

外貨両替(2001年3月2日東京三菱銀行cash selling rate:US$@\120.40)   

\94,393

(US$784.00:筆者がインドへ持参)

 
残金

\107

(端数。第2回募集分へ繰り越し)

外貨両替計算書(2001年3月2日・東京三菱銀行)     (PDFファイル)    Acrobat Reader 4.0Jのダウンロード )

FRIENDS OF ALL領収書(2001年3月6日付)     (PDFファイル)

第二回募集分(2001年3月2日〜6月1日)

第二回の募集期間も終了させて戴きました。おかげさまで、148,406円となりました。みなさまのご協力に、心より御礼申し上げます。2001年6月12日付で東京三菱銀行より送金されました。FRIENDS OF ALLより領収書を徴求次第、掲載致します。

◆第2回募集分経過報告◆

預り金  

¥148,406

(9名様および4団体様。含第一回募集分繰越分およびFRIENDS OF ALLから直接預かった某在日インド料理店の日本円小銭募金分。含ワークショップ収益分)

外貨送金(2001年6月12日東京三菱銀行TTS:US$@¥122.95)

¥144,406

(US$1,174.51)

 
送金手数料

¥4,000

 
残金

¥0

外国送金計算書(2001年6月12日・東京三菱銀行)  (PDFファイル)  Acrobat Reader 4.0Jのダウンロード )

FRIENDS OF ALL領収書

当基金にて集められた募金は、インド・グジャラート地方で活躍しているNGO “FRIENDS OF ALL”(本拠地アーメダバード)を通じて、現地の復旧のために有効に利用されます。朝日新聞、読売新聞、共同通信等で当NGOの活動について採りあげられております。また、当団体はいかなる宗教・政治思想等とも関係がありません。筆者は当NGOを通じて復興活動を行いました。尚、FRIENDS OF ALLでは、今後数年間はブージにキャンプを設置し、ボランティアを随時募集しております。皆様の積極的なご参加をお願い致します

国際協力事業団(JICA)とFRIENDS OF ALLがそれぞれ支援のもと、地元医師団により運営されている診療所(ブージのFRIENDS OF ALLキャンプ敷地内)JICAとの共同運営の仮設病院

FRIENDS OF ALLの過去の主な活動内容について(別ページへ)

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インド西部大地震 災害復興活動ワークショップ

FRIENDS OF ALL

当イベントのチラシはこちら  437Kbyte(PDFファイル)   Acrobat Reader 4.0Jのダウンロード )

2001年6月2日(土) 15:00より、京都・円山公園上のお宿「吉水」にて開催されました。読売新聞京都版やDeveloping Magazine(メールマガジン)にイベント広告が掲載されました。

読売新聞記事 (平成13年6月2日(土)付):

【トピックライン】 きょう災害支援の勉強会

インド西部大地震で、災害復興ボランティアとして活躍した現地のNGO 「FRIENDS OF ALL」の日本人スタッフら5人が2日午後3時、今後の災害支援のあり方を考える座談会形式の勉強会を、京都市東山区円山公園弁天堂上の旅館「吉水」で開く。

活動に加わった中川亮平さん(東京都台東区)らが活動報告した後、阪神大震災の教訓を災害支援にどう生かすかなど、参加者の好きなテーマを選んで議論する。参加費1000円(茶菓子付き)。問い合わせは中川さん(090・9624・6214)。

ワークショップ概況 (新家江里香さんに議事録をとって戴きました。ありがとうございました。以下、敬称略)

発表者:中川亮平、酒井ルミ子、安倍由夏、佃佳樹 (発表順)

来場者:酒井保、新家江里香、白井友里、加島亜希子

議論風景議論風景

@ワークショップ開催の趣旨説明(中川)

中川がボランティアとして参加していた3月頭前半当時でボランティアは常時7〜8名で、段々先細りしている状態であり、認知度が薄れてきている印象があった。また日本に帰国してからも、「もうあの地震は終わったんじゃないの?」との話を時折耳にした。

インドでの実情を改めて人に伝える必要性を感じたとともに、自分たちの活動を風化させたくないというのが、当ワークショップ開催の動機である。当ワークショップでの議論によって、今後の災害復興支援活動への何らかの指針になれれば幸甚である。

AFRIENDS OF ALL(以下FOA)についての説明(中川)発表風景

B発表(A.動機 B.何をして C.何を考えたのか)質疑応答→討議

中川(本人によるホームページ参考資料)中川亮平

A.動機

偶然まとまった時間があった

・今後開発分野を勉強してゆく身として、途上国の災害復興の現場で草の根の活動を経験したかった

ボランティア活動は初めて(阪神淡路大震災の時に何もしなかったことに対し、自分自身の中に疎ましさを感じていた)

 B.何をしたか

物資がまだあまり届いていない農村部に行って、交渉して、交渉が上手く行けばモノを渡す。テント、食料、衣料、物資の仕分、病院の慰問(子どもたちと戯れていた)

印象に残った三つのエピソード

バダジャール村(ブジから車で30

事前の村長との交渉では…世帯数80→テントは14で良いと。

行ってみると…その時に村長は不在で、村中の人が集ってきた。「うちにはないのか?」と言われた。テント14個では埒があかず、また「村長からそんな話は聞いていない」との反応があり、交渉決裂。FOA側は村のNo.2の人を中心に村民同士で議論させることになったが、結局「14張だけでは争いになるので1張もいらない」と言うことで、テントを渡さずに持ち帰ることになった。このようなことはFOAでも初めての経験であったようである。

C.考えたことなど

行動する前に事前の交渉が本当にそれでいいのかどうかを確かめる必要があるのではないか。「テントを一張もいらない」と言われたことに関して、日本だったら、「とりあえずもらえるだけもらって、後から追加」と考えるかもしれないが、パダジャール村では村の秩序維持を大切にするということがとても印象に残った。

・ブジョリ村(織物の町、建物は到壊)

ある織物職人さんの家へ行った。他の人々は避難キャンプへ移っていたが、その一軒にだけ職人さんが残っていた。「どうして避難しないのか、危険ではないのか」と尋ねると、「他の家が倒壊する中で、うちだけ倒れなかったことは、そこに「残れ」という神のメッセージがある。だからここに残るんだ」との答え。

C.考えたことなど

日本では、他の人と一緒に生活をした方が良いと考えるのではないのか?震災にあったインドの人々からは悲壮感を感じなかったが、その理由の一つにここに見たような信仰があるのではないのか、と考えた。

・アンジャール(瓦礫野原となっていた

病院の慰問、子どもたちとたわむれていた。多くの子どもたちに、”Did you come here for help?”と聞かれ、最初は ”Yes”と答えていたが、この町の凄まじい瓦礫野原を前に無力感に襲われ、疎ましくて“Yes”とは言えなくなった。医療や介護のスキルはないが、恐怖体験によるトラウマを排除するためにも、場を和ませるべく病院の子供たちと戯れていた。

質疑応答

Q.神戸の震災を目の当たりにしました。物資の配給の時に日本では礼儀正しく並んでいたことが世界中の話題になりましたが、インドではどうでしたか。また、震災の地では、どこへ行ってもお茶などでもてなしてくれると聞いたのですが、その反面、物資の取り合いなどの争いもあるのでしょうか。(白井さん・・・来場者)

A.例えば、子どもたちに服を配るときに、並ぶように促していました。FOAでは村内での無用な争いを回避するため、このような方針をとっています。他の団体の中には、物資をトラック一杯に積んできて、村の前でザーっと流し落として帰ってしまうところもあるようです。他には、ブジの街中で物資の取り合いを見ることもありました。(中川)

A.配給に関しては、私はルワンダや地震の被災地、コソボなどと関わりましたが、最も重要な問題はニーズの把握だと思います。ニーズを誰が調べるかが鍵となり、本当にそうなのかをどのように確かめるか、です。神戸の震災の時に、私は大阪から支援を行いましたが、配布する際には神戸の人の道案内が不可欠でした。また、専門性、とりわけ医療の専門性があるかないかはとても重要です。しかしながら、医療活動は環境が整わなければ行うことができず、その環境のセット・アップは別なので、全体のコーディネートを行う人が必要になってきます。援助として、ヒトとモノのどちらを送るのか、ということに関しては、NGOとしては緊急援助のお金を常備しています。「ヒトはあまっているからいらない」と言われることも多いのです。また、緊急援助ではムダが多いです。例えば阪神・淡路大震災の時に、「おにぎりや電池が足りない」と言うと全国から山のように集ります。しかしながら本当にニーズのある人にどう配るのかはまた別です。実際のカウントはとても難しいです。ロスが出たり、転売などによってどこかで消えてしまいます。また、役所による配布では、役所として関わっているところにしか配れない、ということもありました。(酒井保さん・・・来場者)

A.転売などに関しては、FOAでは、配布したテントに “NOT FOR SALE”と記入し、また援助に際してもただ物資を配給する、というのではなくて、自立的な方向を考え、当地での職業復興に不可欠なミシンをリースにするなどの対応をしていました。(中川)

Q.それではテントもリースにすべきではなかったのですか。リースだと、管理が必要になりますね。支給すると管理する必要がありません。管理ということに関しては、それがいつまで必要なのかを誰が決めるのか、という問題も生じます。(酒井保)

A.これは対象となるモノの性質によると思います。テントは災害直後に早急に必要なもの、ミシンは自立復興を促すもの、という違いがあると思います。FOAではこの違いをもとに判断しているのではないかと思います。(中川)

Q.インドのカースト制度についてはどうですか。(酒井)

A.切実な社会問題であることは確かなようです。しかし、たいへんデリケートな問題ですので、私のような前提知識がない者がここで議論すべきではないと思います。(中川)

  酒井(ルミ子)酒井ルミ子

 A.動機

ウルドゥ語を専攻しており、震災関連の情報を知るにつれて何かしたいが、何を良いか分からない状況の中で、NHKのボランティアネットでFOAのボランティアの募集のことを知った。何らかの専門的な技術があるわけではなかったが、何でも良いからしてこようと考え、現地へ赴いた。ブジでは旧市街がひどい状況であり、そこで10日間ボランティアとして活動した。活動内容としては、中川のものと重なるところが多いので、今回は帰国後の大学での取り組みについて発表する。

 B.C.何をしたか、考えたことなど

ウルドゥー語、ヒンディー語専攻の学生が「何かできることはないか」と、デリーを拠点とした被災地支援セールを行った。留学生に頼んで品物を仕入れ、値段を自分たちで設定し、東京スタジアムでのフリーマーケットに月一回出店した。一回で9万円の収益を得ることもあった。また学内バザールも行い、そのチラシを作成し(会場にて回覧)、更にモノを売るだけでなく、カッチ地方に詳しい写真家の沖さんにグジャラートの写真を借りて展示したり、現地で文化人類学の研究を行っている方の協力を得て、パソコンでのスライドショーなどを行った。

こうして日本でつくった情報、バザールなどの紹介を現地へ送った。またバザールで得た資金44万円をニューデリーのガストカールに送るなど、学生らしいアプローチができたと思う。自ら動いて品物を運んでくることで、その過程において現地のことをよく知ることができた。そうして運ばれてきた品物を買う側にとっても、それを買うことによってどういう人たちが被災したかが分かるのではないかと思う。

質疑応答

Q.この活動のアイディアは現地の産業復興や自立を助けるという意味ではとても重要だと思いますが、継続性の問題がありますね。(中川)

Q.何人くらいの学生がこの活動に関わったのですか。(新家)

A.ヒンディー、ウルドゥー語の専攻の学生は120人ですが、関わった学生は50人くらいで、有志が行ったので、とても円滑に活動を展開することができた。目的としては職人さんたちへの自信にも繋がることをも意図していた。(酒井ルミ子)

安倍2.14から3.14まで活動、配布資料をもとに)安倍由夏

配布資料(地震の概要、FOAの活動内容、今回の細部の反省を含め、かなり詳細な内容です)は、ここをクリックして下さい。

A.動機

もともとインドのマンドゥーへ行くつもりだったが、そのすぐ近くで地震があったので、ネットでボランティアのことを知り、被災地へ行くことにした。

B.何をしたか

行ってみると拍子抜けした。マダプルに10人くらいのボランティアがいたが、「することがない」と行って帰るボランティアが続出。後、ブジにFOAのキャンプが移って物資が輸送されて来たので、その仕分などを行った。ブジでは建物の9割が倒壊し、解体作業ははかどっていなかった。

以後56日に倒れかけのビルが倒れ、6人の方々が下敷きになった、というニュースから、まだ撤去作業が進んでいないことがわかった。ブジの旧市街は道が狭く、そこに商店などが軒を連ねていて、ショベルカーやクレーンが入れないため、住民が手作業で瓦礫などを撤去するなどしていた。政府は街そのものを移そうとしているが、住民はもとの場所に留まろうとしている。また6月末からのモンスーンの季節には衛生上問題があると言われている。

C.考えたこと

元気づけようと思って行ったが、被災地の人々はとても明るくて元気だった。このような状況のなかでなぜあれだけ笑顔でいられるのか、と考えた。被災地の村々はもともとあまり豊かではなく、生活用水などについても厳しい中を堪え忍んできた人々であり、今回の震災においても戦ってゆく強さを持っていると思った。先程から議論に上がっている「ヒトかモノか」の問題に関して、FOA代表のPrem Kumar氏は「ヒトとモノ」がセットであることが大切で、その地域以外の人が来て活動することで感謝の気持ちが生まれ、また離れていても自分たちのことを想ってくれる人々がいると知ることで精神的なケアに繋がると言っていた。

(配布資料をもとに発表)佃佳樹

 A.動機

大学を一年間、休学し、半年お金を貯めて残りはんとして一人で旅行にでかけていた。この旅の目的は、特になかった。ただ、若いうちにいろんな事がみたい、経験したいと考え、就職してしまえばなかなかそういった機会がないと思ったからである。当初、タイからトルコまでいくつもりであったが、ネパールについた頃インドで地震があったことを知り急遽予定を変更してボランティアをすることにした。なぜならトルコまでなら、大学4回生になってからの夏休みや冬休みでいけると思ったからである。それにくらべて、ここでのボランティアはいましかできないこの目的のない旅において最後になにかしらの目的を持ちたかったからである。そして、その経験が日本に帰ってからの生活に役にたてばと考えたのでこのボランティアに参加した。  

 B.何をしたか

当初、とりあえず現地にいけばなんとかなると考えていたがたまたまインターネットで現地のことを調べているとFriends Of Allとゆうボランティア団体がボランティアの募集をしていたのでこの団体にコンタクトをとり、活動に加えてもらった。

1.この団体に所属するボランティアの医師による村周りに同行して簡単な手伝いをする。

2.村々に、衣服や食料などを配給する。

3.仮説のテントの設営を行う。

4.災害の少ない村にミシンを貸し与えて、女性の自立を促す。

5.仮説病院で清掃、食事作り、荷物運びなどを手伝う。

6.子どもと遊ぶ。

 C.考えたこと

1.ボランティアに現地に行ったとき、すでに1月もたっていたが瓦礫もそのままで政府の対応の悪さがあきらかに分かった。

2.村があまりに多すぎて、政府がその位置を把握しきれていない。

3.各国からの援助金を政府や州政府がねこばばして援助資金が実際にはまわっていない。

4.各NGOがそれぞれに支援しているため、村への支援がだぶってしまうことがある。実際に、支援が行われていない村には隣村が援助をしている。又、村々によって援助の比重がバラバラである。

5.何かを配給するにあたっては、全員にものがいきわたらないと喧嘩になる。実際に何度か喧嘩しているのを目撃している。

6.一度、配給で物資をもらった人が何度ももらいにきて本当に必要としている人に物資がいきとどかない。

7.服の仕分けが大変。ばらばらに送られてくる。

8.震災被害と同じくらい生活習慣病で苦しんでいる人が多かった(特に子ども)。

9.お国がらもあり、病院のなかでもかなり不衛生である。

10.Friends Of Allは、今回のような大規模な震災における援助活動を行ったことがなく、多数のボランティアを受け入れたことがないため、ボランティアをうまく活用することができていなかった。

ボランティアに来たものの、特になんのスキルもない自分が本当にここで役に立っているのか分からなかった。自己満足しているたけなのではと常に葛藤していた。しかし、村や病院をまわって被災者に喜んで受け入れてくれるのをみるにつけそんな気持ちもふきとんだ。電気もガスも水道もなく、自然と共に常にぎりぎりの生活を強いられている人にとって今回の地震もしかたないこととして素直に受け入れているように見えた。とても、感動した。

質疑応答

Q.「することがない」とボランティアの何人かが帰ったということですが、井戸や学校の問題に関してはどうですか。(酒井保)。

A.井戸に関しては雨季が空けてからの井戸掘りのボランティアを募集している、ということを聞いています。(新家)

A.FOAのボランティアのコーディネートに関しては、FOA代表のPrem Kumar氏と話をした。「一日一回はミーティングをするなどしてボランティアを統率したほうが良いのではないか」と尋ねると、氏は「ボランティアはそういうものではない、自分でやることを探し、見つけてくるものであり、当方から管理するつもりはない」とのことであった。氏の真意は、あくまでもボランティアの自主性を尊重するものであった。阪神淡路大震災に関するある書物にこうあった。「災害復興支援の全体像とは、音楽で例えるならジャズのようなもので、その場その場でバラバラの因子が積み重なることで一つの音楽を作り上げるような即興的な、臨機応変な態度が必要である」と。もっともだと思う。(中川)

コメント:(政府の対応の悪さ、という件について)阪神大震災の時もそうですが、政府は実際は人を動かしているわけですが、「政府は何もしない」と言うとき、それを妻を震災で亡くした市の職員の怠慢と言えるのでしょうか。そこで一体何が起っているのか、社会を見ることがとても大事です。(政府が村の位置を把握していない件について)日本には戸籍があるけれど、これほどはっきりしている国はないわけですね。日本の価値観を持って現地に行くと、ものごとを否定的にしか見られなくなる可能性もあります。ボランティアとしてかかわる時、大きな枠組みの中でできていないことに、自分のできることとしてどのようにかかわっていけるのか、素人の発想で、技術者には解らない面のニーズを拾い上げていき、それを伝え、組織化し、具体的なアクションを起していくことが大事ではないでしょうか。(酒井保)

C閉会(中川)

「ボランティアはどう動くべきか」という、ある程度発表者が共通して抱いていた疑問を払拭できた、という点において、今回こうしてワークショップを開催した意義があったのではないでしょうか。

これからも、こうして知っていることを共有し、知らないことについては謙虚に学ぶ、という姿勢で勉強して参りたいものです。本日はお忙しい中、ありがとうございました。

各参加者によるレヴュー

【新家】

考えたこと

 NGOとして様々な場で活動された酒井氏の意見には考えさせられることが多かった。まず、酒井さんの意見の提示などから受けた一番の印象は、以前新聞で読んだ犬養道子の「現実主義」というものだ。被災地などに行き、その状況に愕然とし、立ち尽くしても意味がない。その状況の中で何ができるか、するかが大切だ、ということばを思い出す。日本とは違う状況の中で必要なものを見つけ、それをいかに得るのか、私にはやはり具体的なイメージは未だに浮ばない。PREMさんが「最低でも1ヶ月、2ヶ月来て欲しい」と言われたのは、具体的な手続きの方法もわかってくる、というのもあるのかも知れない。

 中川さんからのPREMさんによるボランティアに関する話から、日本で生活していると、何かとトップ・ダウン式のモノの考え方が日常としてあるのかもしれない、というのを考えた。芸予地震での瓦礫の撤去作業のボランティア活動の後に書く感想で求められたものの多く「リーダーシップ」というものだった。瓦礫を撤去する際に20名くらいのチームで活動したが、災害ボランティアセンターの活動の終盤になると、手持ち無沙汰を感じている人が多く、それを解消する手段として要求されたのが、「リーダーの指導性」というものだった。意識していたかどうかは別として、「手持ち無沙汰」と感じた理由は実はリーダーシップの欠如のみにあったわけではないと思う。他にもできることはあっただろうし、実際そうしたかったかもしれないが、それがリーダーの指導性の欠如に結び付けられていたのではないだろうか。そうだとすれば、トップ・ダウン式の考え方、行動様式が身についていると言えなくもない。とはいえ、人々が「何かしたい」と言うエネルギーを持っているということ、それは何かの始まりであることは確かだと思う。

 トップ・ダウン式のものの考え方を知らず知らずのうちに身につけている私たちが、今回のインドの被災地に行けば、いきなりボトム・アップ式に切り替えることができるか、というと、そう簡単ではないのかも知れない。ボトム・アップ式の思考、行動に重要性を見出すのならば、日常生活の中でそれを実践する必要があるだろう。

 また、安部さんが見ることのできた被災の状況の中での人々の強さには共感するところがあったが、「豊か」ということに関して、日本で生活する私がイメージする「豊かさ」とは根本的な違いがあるのではないか、とも思う。そして、自然に対する考え方も日本とインドという異なる気候に生活する中での相違点もあることにも留意したい。

 インドでのボランティアの活動も今回の会合もその一つ一つを一回きりの意味あるものとし、またそれを受けて今後にどのように繋げていくのか、自分の中の大きな課題である。

【酒井ルミ子】

 私がボランティアに参加した理由は、1月26日にインド・グジャラート州を襲った大地震の被害の状況を知るにつれて、自分に何か出来る事はないだろうかと、考えるようになったからだった。大学でウルドゥー語を専攻していたり、インドに行った事もあったのでこの地震に関する関心は非常に強く、遠いところで起きている他人事の様には思えなかった。

そんな時ちょうど、フレンズ・オブ・オールと言うインドのNGOがボランティアの受け入れを行っているという事を知り、ブジに行く事を決め、春休みに入ってからすぐにインドへと向かった。

私がブジに滞在したのは3月1日からの10日間と、短い期間だったので、活動内容は他のボランティアの方とほとんど重複するものと考え、報告会では今回の地震に関して私が参加したもう一つの活動について紹介した。

そのもう一つの活動とは、私の通う東京外国語大学の、ウルドゥー語・ヒンディー語専攻の学生たちは、この地震によって多くを失った人達の助けになるような事をしたいと考え、インドで最も豊かな伝統手工芸職人の宝庫であるカッチ地方の手工芸品のバザールを東京で行うことにした。そのバザールを開催するにあたり当時デリーに滞在していた藤岡恵美子さん(国際交流基金ニューデリー事務所長・小川忠氏夫人)のご協力も受けた。藤岡さんはデリーを拠点とする
VRINDAVANDASTKARという被災地カッチの伝統手工芸品を販売する支援セールを始めていた2つのNGOのショップからなどバザールで販売する品物を現地で集めてくださった。

バザールの開催が4月の新学期が始まる頃に決まったので、春休みを利用して旅行等でインドに渡航した学生10数名が藤岡さんの集めてくださった荷物や、自分たちで買いつけた品物を手分けして運んで帰ってきた。

この様にして集めた品々を大学でのバザールの前に、大学キャンパスの近所に最近オープンした、東京スタジアムでのフリーマーケットに参加して販売する事となった。ここでは予想以上のたくさんの方に来て頂き、中にはネット上で情
報を見て遠くからきたという人もいた。ここでは寄付を含めて、一日で94,900円の収益をあげる事が出来た。

そして4月の10日〜13日の4日間では、東京外国語大学のキャンパス内でのバザールを行った。学内でのバザールではただ販売するだけではなく、被災したカッチ地方はどの様な地域なのかという事を良く知ってもらうためにカッチ地方の人々の暮らしを紹介する展示コーナーも設けた。

まず、写真家の沖守弘さんのご厚意により被災する前のカッチの村々、伝統手工芸職人、婚礼儀式などの特徴的な文化を映す50枚の未発表写真をお借りし、展示する事が出来た。そのほか、NGO「ブリンダーバン・ジャパン」を立ち上げた写真家・松本栄一さんと松田紘子さんから3月中旬のカッチ地方を撮影したビデオをお借りして、上映した。

また、初日の10日にはNHK国際放送局のウルドゥー語、ヒンディー語、ベンガル語各班が取材のために来場し、翌日にバザール関連の番組が南アジアに向けて放送された。最終日には、カッチ地方で文化人類学調査を行っている金谷美和さん(日本学術振興会特別研究員・京都大学人文科学研究所研究員)に京都からおこしいただき、「カースト・アイデンティティ、手工業、ファッションとしての布・・・インド、グジャラート州カッチ地方職人の事例より」、と題した公演をしていただいた。

このバザールでは4日間で215,700円の収益をあげる事が出来た。売上のほかにも何人かの方から協賛金・寄付金を頂いた。これらを東京スタジアムでの収益と合わせると最終的に448、689円のお金を集める事が出来た。この売上げはすべて金谷美和さんが代表の「サラの会・西インド地震被災地手工芸復興の会」を通して、ニューデリーに設立された Dastkar Kutch Craft Relief Fund (ダストカール・カッチ手工芸品復興基金)に送られ、職人たちの工房の再建や、技術トレーニングなどに役立てられる。

今回のこのバザールではただ物を売るだけでなく、この地方のもつ伝統文化、人々の暮らし等を紹介し、この地震によってどのような人や文化が被害を受けたのかという事を、多くの人に伝えることが出来たのではないだろうかと思う。そしてバザールで買い物をしてくれた人達が、その品物が手元にあることによって、わずかでも自分がこの地震の復興の援助をしたのだという事と、まだまだ復興には長い時間がかかりいまなお大勢人々がの日々の生活で苦難を強いられていると言う事を忘れないでいて欲しいとおもっている。また、この地震ですべてを失った職人の方々が、自分たちの作った手工芸品が遠く日本でも売られていると言う事実を知り、それが生活を再建していく活力になってくれたらと願っている。

安倍】

ワークショップを終えて

62日にインド西部地震のワークショップが無事終わりました。もっとたくさんの人に来ていただけたら良かったと思う反面、結果的に同窓会のようになった今回の形が私たちにとっては良かったのかもしれないと思っています。やはり緊急援助について大勢の人の前で話せるだけの知識がないことを、参加者の一人である日本国際飢餓対策機構の酒井さんという方からの厳しいご意見を頂いたことから痛感しております。しかし今回のワークショップに参加できたことは私自身にとってとても良かったと思います。ここ日本にいてはインドはやはり遠い国です。それだけ早く人々の記憶から忘れられていきます。実際に現地を見てきた自分自身でさえ、段々と鮮明だった記憶が思い出のようになりつつあったときに、このワークショップの話が決まり、その準備のためのレポート作成や情報収集を通し、今一度自分が見聞きしてきたこと、感じたことを思い出し整理する機会を与えられたという感じがしています。短期間ではあれ、その救援活動に関われたことで、グジャラート、特にカッチに対して何か特別な感情を抱くようになりました。何より与えられることの多い日々でした。様々なひとの思いに触れ、消化不良を起こしそうなときもありましたが、今はその全てに深く感謝しています。これから長い長い時間をかけて続けられていく復興活動にできる形でこれからも関わっていきたいと思っています。ありがとうございました。

佃】

今回のインド西部地震災害ボランティア報告会は、当初、現地でボランティアをしていた人の同窓会程度の集まりだろうと気楽に参加したわけだが、この震災において改めて考えさせられることがあり、さまざまな事を学ぶことが出来た。特に、数少ない参加者の一人である日本国際飢餓対策機構の酒井さんには、NGOの第一線で活躍されている人として、今回の震災で初めてボランティアに参加した者には気付きにくい点を教えていただいた。例えば、ボランティアの在り方やについて、私は現地団体の指示による組織だったボランティアの活動体制が必要だと考えていた。しかし、ボランティアとは誰かの指示によって活動するのではなくて、主体的、自発的に行うものであると気付かされた。

また、諸外国の事について考えるときは、日本と比較するのではなく、客観性がいかに必要で、大切であるか教えていただいた。なぜなら、客観的に物事を分析しないと大変な誤った認識をうみだすことになるからだ。私が震災から一月ほどたって現地に行ったときに、未だに死体が瓦礫にうもってあり、瓦礫の処理が終わっていないことから、阪神淡路大震災と比較してインド政府の対応が遅いと考えた。しかし、あの震災の規模の大きさやインドとゆう国の文化や経済状態を考えるならばやむをえないことではないかと考えなおした。

また、酒井 るみこさんはボランティアをしただけで終わらず、日本に戻ってからも被災者のため自身の大学の有志とフリーマーケットをして援助金を調達するとゆう活動に従事していたことには、私が日本に戻ってから特に何の取り組みもしていなかった事もあり、反省させられた。これから、私も某団体でボランティアをしようと考えているため、彼女のような積極性と自発性を持って活動に取り組もうと思う。

今回、報告会で国際協力に興味を持つ人、またすでに携わっている人と話をする機会を持てたことは、これから国際協力に関係のある仕事に就きたいと考えている私にとって意識を高めると共に、自分自身の考えを変えることが出来たという点でよい経験になった。

この報告会で学んだことを今後に生かしていきたいと思う。

【中川】

(自身の活動・発表について)

今回の中川個人のテーマ

@災害復興支援に関する専門性を持たない者がボランティアとして参加する意義

Aボランティアのとるべき態度(自発性か従属性か)

@については、今回のワークショップで他でも触れていたが、とにかく参加できるものが参加して、自ら現場の問題点を探し出し、それを改善すべく行動を起こすことにあると思われる。つまり、ボランティアが有する専門性は関係がない。相手が人間なので、こちらが人間である限りは誰でも役には立つ。

Aについては、今回がボランティア初体験であったことと、全く事情のわからないインドの地に着いた翌日からの早速の活動であったため、当初はNGO代表の指示のままに従属的に動いていた。しかし、他のボランティア参加者等の活動を見ていると、それぞれが必要に応じてその日の活動内容を決めている様子を見て、ボランティアのあるべき姿を見た。FRIENDS OF ALLが全体のミーティングを行っていなかった理由は、ボランティアの本質はそこにあるからだと思われる。これは、インドを去る前日にPrem Kumar氏と話をして確認したことでもある。

(ワークショップ運営について)

開催の経緯・・・ボランティア参加後、義援金を戴いた方々への報告という形で活動レポートを書かさせて戴いた。この時点で一旦自分の行動と問題点を反省してみた。更に人前での説明・質疑応答をすることで、参加者が経験を共有する必要を感じ、今回のワークショップを開催させて戴いた。

以下、反省点。

広報・・・読売新聞、国際開発メールマガジン、国際開発メーリングリストで漫然と広報を行ったが、特定の  関連団体等への売り込み等をせず、結果来場されたのは8名であったこと。

進行・・・そもそも発表者自身が皆素人であったため、当初の予定であった議論中心形よりも、むしろ今回のように、稚拙な我々の発表やレジュメに対して、プロの方にご指摘・ご教示戴く形で良かったのかも知れない。最終的に、ボランティアは自発的に動くべきだ、との核心のテーマに話題が移ったのは、偶然の産物とはいえ、我々の活動を省みるには無難な繋がり方であった。

成果・・・このワークショップの最大の目的であった、@「インドの現場の実情を世間に伝えること」 A「各自の経験を風化させないこと」 B「今後の災害復興支援への布石となるような充実したディスカッションを行うこと」 については、

@成果ナシ    A成果アリ    B成果ナシ

であったと思われる。@については、広報が甘すぎた結果である。Aについては、発表した事実そのものが成果であるが、内容とは別問題。Bは、タタキ台としての発表の質と、運営・進行の甘さによるもの。ただ、結果的にはプロの方からご指摘・ご教示戴いたことによって、なんとか全体が取り繕われた形となった。

今回のインド西部大地震により犠牲になられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。また、今回のイベントでたいへん美しい会場を破格の条件で提供して戴き、またイベント運営についてもたくさんのアドバイスを下さった、お宿「吉水」の中川誼美さん・小野さん、無理を言ってイベント情報を掲載して下さった読売新聞の西堂路綾子さん、ワークショップで貴重なご指示・ご教示を戴いた国際飢餓対策機構の酒井保さん、多忙にも拘わらず参加して下さった皆様に、心より御礼を申し上げます。

尚、当ワークショップによる収益金1,542円は、2001年6月12日付でFRIENDS OF ALL宛に送金させていただきました。ありがとうございました。

クリックすると大きくなりますお宿「吉水」庭にて

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現地活動レポート

2001年3月4日〜17日(現地活動は6日〜14日)、私はインド西部グジャラート州ブージ(Bhuj)を拠点に、地震災害復興のボランティアに参加しました。現地での活動の内容をご報告し、現場が抱えている問題点について列挙させて戴きました。

サイドプールにて

FRIENDS OF ALL → 私がボランティアとして参加した現地のNGO(上記のFRIENDS OF ALLについての記述ご参照)。

JEN → Japan Emergency NGOS. (日本緊急支援NGOグループ)。1994年6月より、紛争国であるセルビア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナでの難民・被災民支援活動をスタート。主に旧ユーゴ諸国で支援実績がある。

JHP(学校を作る会) → Japan Team of Young Human Power(NGO)。91年、クルド難民・カンボジア帰還難民の救援を実施した日本国際救援行動委員会の活動の中から発足。主にカンボジアでの学校建設及び教育助成等を行っている。

日時 場所 内容
3月4日

出発    成田 → デリー → ムンバイ(ボンベイ)泊

3月5日 午前 ムンバイ → アーメダバード → ブージ方面 朝6:45アーメダバード空港に到着。アーメダバードのハルサッドさん(FRIENDS OF ALLの代表Prem Kumar氏の友人)宅より、パランプールにあるNootan Bharati学園経由、ブージへ向け出発(自動車)。

 

朝8時にハルサッドさん宅へ遊びに来た近所の子ハルサッドさん宅近所の子供
午後 パランプール(Nootan Bharati学園)

→ ブージ

Nootan Bharati学園を見学。学生6人をピックアップ。当学園は幼稚園から大学、職業訓練学校まで揃っており、インディラ・ガンディーと血縁の医者が48年前に建てた私立学校。階級による差別を行わずに生徒・学生を受け入れている。FRIENDS OF ALLは当学園で長年支援活動を行っており、学園内の病院、女性就学、奨学金等のバックアップを行っている。

幼稚園から順に見学。私がやや控えめに両手をあわせ「ナマステー」と挨拶をして教室に入ると、全員が右手をいっぱいに上げて、満面の笑みで私に手を振って迎えてくれた。しかも、どの学年も共通して。日本なら、中学・高校にもなれば、擦れてこんなことはとてもできないだろう。決して物が揃っている学校とは言えないが、生徒・学生の笑顔は実に美しかった。夕方、車が学校を出ようとすると、私の名前をたどたどしく「リヨヘー、リヨヘー!」と叫びながら学校中の子供たちが群がり、車が立ち往生してしまった。すさまじい砂ぼこり。こんなに手厚い見送りは、生まれて初めてであった。

深夜1時、ブージのFRIENDS OF ALLのキャンプに到着。

職業訓練学校(ミシンで裁縫をやっていた)NootanBharati職業学校

とても元気のいい中学生NootanBharatiの中学校

熱烈な見送りで車が動けない!NootanBharati熱烈な見送り!

3月6日 午前 ヴァダジャール村(ブージより車で30分) 先方約60人、当方16人(含JEN・JHP)。テント支給・設置の作業を行うため訪問。事前に村長と交渉済で、家屋の破壊状況等から、80世帯中あるにも拘らず14のテントでよい、との合意であった。

ムスリム約60%の、アウトカースト(カーストの階級にも入っていない最下層)の村。ムスリムが多い理由の一つとして、社会的迫害から逃れるためにヒンドゥーから仏教や回教に改宗する人が続出している、とのこと。

今日は村長は出かけており、村の第2番目の人物が登場。14のテントでいい、という合意のことを知らず、周りの村人たちは我も我もと群がって来てしまい、収拾がつかない。14のテントをこのまま渡してしまうと、村の内部で争いが起きかねないことから、彼らに時間を与え、その場で村人同士で話し合って意見を集約するよう求めた。

しばらくして、第2番目の人物が、「私たちは話し合いもロクにできないような、どうしようもない人間です。こんな私たちがテントなどをもらう資格などありません」と、全面的にテントは不要である旨申し出てきた。村人たちが依然車に群がっており、もみ合いになる懸念もあることから、当方は即刻撤収した。

私にとって最初の活動にしていきなり失敗に終わったが、村内の和が崩れる懸念があるのなら、テントをもらう利益をも放棄する彼らに吃驚した。日本の常識なら、とりあえず14のテントはもらっておけ、となってしまうのではないか。彼らは最貧層と言われ乍ら、実に誇り高く、我々が学ぶべきところは大きい。

今日の交渉が頓挫した原因として、@村内での話し合い不足であることA当方の交渉・意思確認が不十分であったことB村が直接民主制のために話し合いの収拾がつかないこと等が考えられる。

午後1 ラコンド村(ブージより車で20分) 先方約30名、当方14名(含JEN・JHP)。現状の非難生活についてヒヤリングをするため訪問。まずは具体的な支給物資については話さず、様子を伺った。

ラコンド村内の幹線道路脇の原っぱに、25`離れたモタ・バンドラ村(人口約800人)というところから一部の住民が非難して来た集落。ワンカールという織物職のアウトカースト(最貧層)。9日前に移動してきた、とのこと。応急的なテントが約20棟見える。電気・水道はなく、近くにあるあまりきれいとは言えない池が水源。

もともとモタ・バンドラ村は織物で生計を立てていて、カッチ県内のブジョリ村やブージ市が主要な販売先。ストールほどの大きさの織物を1枚150〜200ルピー(約400〜550円)で販売している。ここに非難して来た住民は、壊滅状態の村ではなく、新たな場所で織物に専念するために、ラコンド村の議会の承認を得て移ってきた。これからも徐々にこの場所に住人が増えて、いずれはアワドナガルという新しい村を作る予定とのこと。

地震後、グジャラート州政府から、1世帯につき2,000ルピー(約5,500円)の資金援助と、麦20`、米5`、灯油4gを支給された由。

彼らは織物で村の復興をしようと意気盛んで、早くも自力で苦難を克服しようという勤勉さには頭が上がらない。

ラコンド村非難住居風景(一切日陰のない原っぱ)ラコンド村

モタ・バンドラ村の経済の礎であった織物ラコンド村にて

午後2 ブジョリ村(ブージより車で15分) 村の被害状況と避難生活の様子を伺うため訪問(含JEN・JHP)。午後1で訪問した、元モタ・バンドラ村の織物の主要販売先である織物の村。村に入るなり、同行したボランティアの女性のサリー(女性用の布の被り物)を見て、「あら、いいわね。あんたのこれ、どこの織物?」と詰め寄ってきた。流石、織物職人の村だけあって、村の女性は皆おしゃれであった。

村はほぼ完全に壊滅状態。破壊された家々の内装は芸術性に富んでいたが、「今後新しい建物が建つと、冷たいコンクリート塗りのものになってしまう」と、村のある青年が嘆いていた。

織物の世界ではインドの人間国宝級の方の息子さんの家へ。色々と織物を見せて戴いた。家は奇跡的に崩れなかった。なぜ他の村人と一緒に村の奥のキャンプで生活しないで、周りには誰も住んでいないうえにいまだに倒壊の危険にさらされているこの家に残っているのか、と質問すると、「私の家だけ崩れなかったということは、私はこの家に留まれ、と神が言っているに他ならない」とのこと。被災者たちが予想以上に前向きに生きようとしているのは(あるいは少なくともそう見えるのは)、地震も大きな自然の流れの一部であるから、それを許容することは彼ら彼女らにとって必ずしも困難ではないのかも知れない。彼ら彼女らは、自然の前では人は無力であることを悟っているようであった。

ブジョリ村の瓦礫の様子ブジョリ村

ブジョリ村の倒壊した家屋のキッチン。内壁は芸術的ブジョリ村

ブジョリ村の子供たち(私を撮って、とのリクエスト)ブジョリ村の子供たち

3月7日 午前 ラコンド村(ブージより車で20分) 先方約25人、当方約20人(含JEN・JHP)。第2回ヒヤリング。当方からはFRIENDS OF ALLの代表Prem Kumarが指揮をとって交渉。

各テントに2〜3世帯が暮らしているため、実際は42家族いるらしい。各家族の顔と家族構成を聞きながら、ざっくばらんなトーク。私が銀行員時代にやっていた、取引先とのネゴシエーションに似ていた。互いの心を開くためには肩肘張らずに先方に飛び込んで行け、という極意は、おそらく万国共通なのだろう

子供たちから、「日本ってどこにあるの?」と聞かれ、メモ帳に世界地図を描いた。そのまま国当てクイズになり、メモ帳いっぱいに世界地図が出来上がった。次第に子供たちとの距離は縮まっていった。折り紙で百合の花を折ってあげた。

午後 サイドプール村(ブージより車で約45分)

先方約20人。当方10人(含むJEN・JHP)。3月5日に立てた居住用の24のテントに「JEN/JHP/FRIENDS OF ALL ‐not for sale」とペンキで記入するため訪問(これをやらないためにテントを転売されてしまうケースが多い由)。日陰もなく、凄まじい炎天下。

乾燥したサバンナのような丘の上にポツンとある集落。ムスリム(回教徒)約60%のアウトカーストの村。とても親睦的で、ペンキ作業中にチャーイ(インド風の甘いミルクティー)を振る舞ってくれたうえに、作業後には大変貴重なヤギの肉をごちそうになった。昨日がムスリムの正月であったらしい。カレー味で大変美味であった。無数のハエがたかっており、当たってしまう心配もあったが、誰一人この肉のために腹痛を起こした人はいなかった。我々が肉をほおばっていた横に、おそらく明日殺されてしまうだろうヤギさんが、すました顔をして見つめていた。

インドに来てとても印象的なのが、「お茶飲め」「カレー食っていけ」と、私たちを一所懸命にもてなしてくれることだ。そしてヒンディー語もグジャラート語も解からない私に、写真や怪我の痕を見せたり、倒壊現場に連れていったりして一所懸命に地震の説明をしてくれる。家族全員を紹介してくれる。私が日本の京都で銀行員をしていた時に感じたこととは正反対だ。京都で「ぶぶ漬け(お茶漬け)いかがどすかぁ〜」というのは、「早よ帰りなはれ」を意味する。インドで見たおもてなしは、取り繕うことなく、素直に心から歓待してくれるもので、おもてなしをも賃金換算されてしまう日本のものとは大違いであった

テント配布・設置事業の問題点として、コスト・人員がかかることと、「現状よりも良いものが欲しい」「なぜうちにもくれないのか」と、被災者側の欲が出てしまい、キリがないこと等が考えられる。テントやシェルターの設置については国際機関や政府・軍などが大掛かりに手がける方が効率的で、小体のNGOとしてはこれらの機関の手の届かないところ(被災者のトラウマ・ケアや配給物資の仕分け、支給作業等)に努めたほうがよいのではないかと思った。NGOとしては、村との交渉などの木目細かい業務を行い、搬送・設置などは外部委託できる体制が調えられていればスムーズに活動ができる。

 

サイドプール村に立てたテントサイドプールのテント

サイドプール村での交渉風景サイドプールでの交渉

サイドプール村にて、3団体共同プロジェクト記念撮影サイドプールでの記念撮影

サイドプール村で貴重なヤギ肉をごちそうに!お腹大丈夫かしら?

3月8日 午前 マダプール(ブージより車で5分) FRIENDS OF ALLの配布品(衣類・食糧・家庭用品)倉庫の所在地。衣類の整理、梱包作業。作業員5名。
午後 マダプール(ブージより車で5分) → 2箇村経由 → サイドプール村(ブージより車で約45分) 倉庫より衣類搬出。衣類配布の目的で各村訪問

1箇所目のチュブラック村で、大型トラックに物資を積んだボンベイのキリスト教系NGOとバッティングし、先方に譲った。2箇所目でも何も配布せず。3箇所目のサイドプール村(昨日午後訪問先)で、マットレスを各家庭2枚支給。

夕方、ブージのキャンプでもらったコーヒーのミルクに当たり、腹痛。ついにインド恒例の洗礼を受けた。

サイドプール村の色男(?)タメキトナ・ワルシュトナ君25歳。草刈正雄にそっくり!草刈正雄クン
3月9日 午前 ラコンド村(ブージより車で20分) 第3回訪問。村の子供たちへ衣類配布のため訪問。先方約40人、当方10人。炎天下。私は体調不良のため、車内に待機。

子供一人あたり上・下・上着の3点を配布。全く取り合いになることもなく、子供たちが一列になって座り、おとなしく順番を待っている光景は実に美しかった。まずは全員の名前、年齢を聞き、ちょうど合うサイズのものを順々に渡していった。子供たちはとても素直に喜んでくれた。

ラコンド村の子供たちへ衣類を配布。和やかな光景子供たちとの楽しいひととき
午後 ブージ 腹痛のため休憩。
3月10日 午前 ブージ市内 カッチ県(ブージ周辺のグジャラート州西部)唯一のメンタル・ホスピタルへ。土曜日であったため、ドクター不在。

ラジコットからの大規模な被災者のキャンプを見学訪問(Friends of Allキャンプ地から車で約10分)。一度に200人程度が並んで食事をしていた。全体的に悲壮感はあまり感じられず、むしろ活気がある印象。大人たちが我々を囲み、日本のことを色々と興味深げに質問していた。

しかし、活気があるのは震災後まだ1ヶ月半しか過ぎていないからであり、阪神淡路の時がそうであったように、時間とともに次第に被災者たちのストレスや鬱憤が溜まってきてしまうのではないか。阪神淡路のときには自殺者も出ている。彼らへの精神的負担を極力軽減する方法は、NGOなどが慰問する以外にはないのだろうか。

市内最大級の病院を見学。

ラジコットからの被災者キャンプの昼食風景昼食風景
午後 ブージ市内 市内被害状況見学(個人行動)。
3月11日 午前 アンジャール(ブージよりバスで1時間) 病院慰問。Anjar Lohana Mahajani Wadiという元結婚式場へ。ここは地震で負傷した人たちの家族が集まり、自然発生的に素人病院となったもの。患者80人、医者2人。面会相手の青年バヴェシュ君の妹が大地震の当日(1月26日)ここで結婚式を挙げていたが、瓦礫により亡くなった由。

1月26日はインドの独立記念日であったため、子供たちによるパレードが行われていた。瓦礫は子供たちを一気に飲み込み、パレード中の400人の子供が死亡。病院にいたナンシーちゃん(12歳)は一命は取りとめたが、頭部と腕に痛ましい傷を負っていた。また、私は直接お会いしていないが、リタさん(20歳)という小学校の先生は、パレードでクラスの多くの子供たちを亡くし、そのトラウマに苛まれていて、当方のボランティアの一員が誠心誠意付き添ってあげていた。

地震により、片親または両親を亡くした子が多く、この町だけで100〜150人の孤児が発生。孤児は親戚が面倒を見るが、親戚がいない場合は、非難キャンプで世話をする、とのこと。

病院にいたダハルムシ・ナルンギ・ルパレル氏(67歳)は、各町村によって支援の比重がバラバラであることを嘆いていた。また、7月〜10月の雨季までに、高床のテントが必要であることを訴えていた。

バヴェシュ君とその友人2人が、町の被害状況を案内してくれた。凄まじい光景であった。今まで見た中で、もっとも被害が大きいように見えた。みなトランプの建物のように跡形もなく崩れ落ち、辺りは広い瓦礫の丘が広がっていた。この瓦礫の下には、まだまだたくさんの収容されていない遺体が眠っているに違いない。無力感に襲われた。これまで、Did you come to India for help?と聞かれ、 Yesと答えていた自分がひどく疎ましく思えた

再度病院へ。子供たちに悲壮感はなく、フラフラ来て何もできない外国人を、ここまで暖かく迎えて戴けることが、恐縮する一方、心が洗われた気がした。助けに来たというよりも、寧ろ自分自身が助けられてしまった気分であった。何度もお茶と夕飯を誘われたが、丁重に感謝の意を伝え、ブージへ戻った。

アンジャールの臨時病院のキッチン。カレー調合中アンジャールの仮設病院にて

アンジャールの凄まじい瓦礫の丘。無力感に襲われる無惨・・・

瓦礫片に「パレード中にここカトリジョにて、生徒165名(12〜14歳)、教師21名、スタッフ1名死す」と書かれていた「ここに死す」

午後
3月12日 午前 ブージ旧市街 被害の大きかったオールド・ブージを見学(個人行動)。
午後 ブージ アンジャールへ行くためにバスに乗ろうとしたところ、ボランティア隊の一人がバイクに跳ねられ負傷。脚を3針縫った。アンジャール行きは中止。

ボランティア隊の一人であった看護婦の方が熱射病に。この日見た限りでは、昼間は43度の猛暑。この土地での体調管理の難しさを痛感した。ここでの昼間の労働は危険であり、美徳ではない。

夜、日本人が日本食(と言っても味噌汁スープスパゲッティ)を全員に振る舞ったが、インド人はほとんど手もつけず。残念。グジャラート人は菜食主義者で、肉、魚、卵、酒はタブーらしいが、この料理にはこれらは何も入れなかったのに。

3月13日 午前 アンジャール(ブージよりバスで1時間) 病院慰問病院に入るなり、子供たちから抱き着かれたり叩かれたり、とても暖かい歓迎を受けた。子供たちとひたすら戯れ、夢のような時間を過ごした。

折り紙で百合と鶴を折ってあげた。しかし、出来上がったものが子供同士で取り合いになってしまい、即刻撤収。もし音楽を披露できれば、子供たちにも負傷者にも、平等に理想的に安らぎを分かち合えるように思う

明日ブージを去らなくてはならないことをバヴェシュ君に告げ、再会を誓った。

午後 ラコンド村(ブージより車で20分) 第4回訪問。生活状況ヒヤリングのため訪問。先方約15名、当方9名。

織物で早速復興を志している村であり、織物機の実演を見せて戴いた(女性用衣類パンジャービー)。昨日初めて織物機を瓦礫のモタ・マンドラ村から運び込んだ、とのこと。今後も随時運んでくる予定。

明日、貯水タンクが到着の予定(5,000g/日)。食糧は他のNGOからの支給もあるが、あと3日程度で底をつく見込。しかし、あくまでも自力復興にこだわる彼らは、我々からの食糧支援は受け付けなかった。社会的身分が低いにも拘らず、彼らの誇りの高さには感心させられた。ここも必ず再度訪れたい、正直者の村であった。

FRIENDS OF ALLとJENの共同プロジェクト(テント・仮設トイレ・トラウマケア等、合算で149,051米ドル)が日本の外務省で承認となったため、当方のインド人スタッフがテント65基を提供すべく検討する旨話をつけた。

3月14日 午前 ブージ→アーメダバード 車にて移動。
午後 アーメダバード ガンディ・アシュラム見学(独立運動縁の地)。
3月15日 午前 アーメダバード FRIENDS OF ALL代表のPrem Kumar氏宅訪問。以下の点について氏と話し合った。

@ボランティアのとるべきイニシアチブについて → 参加していたボランティアの意見として、スタッフとボランティアとの意思疎通が足りないことを指摘し、毎朝数分の話し合いの機会を作ることを提案。氏の意見としては、ボランティアは文字通り自分の意思で行動し、自分の適性に合致した仕事を見つけてほしいので、ミーティングの場は特に授けず、運営スタッフが彼らをコントロールすることはできない、と。常に流動的であるボランティアの扱いについては、氏がこの19年NGOを運営する中で考え続けてきた重要な問題であり、これが現状辿り着いた氏のやり方である由。

Aインド人スタッフが階層にこだわらずに復興支援の活動をできるか → 現場での活動にNootan Bharatiのインド人学生たちが参加しているに拘らず、彼らが村人や子供たちに話し掛けたりしないことが気になっていた。もし、その原因が階級の違いによるものであるとしたら、FRIENDS OF ALLの活動が果たす社会的効果は限定的であることを指摘。この件については、返答はNo。FRIENDS OF ALLとNootan Bharati学園との契約に基づいて教育の一環として彼らが救済復興活動に参加している、とのこと。村人や子供たちに話し掛けていないとすれば、それは単に彼らがまだ若く初めての体験であるからで、次第に自然に接触できるようになるはずである、と。しかし、仲良くなった学生の一人と話をしていると、「自分は上流階級で彼らとは違う」との発言が随所に見られることもあり、FRIENDS OF ALLのスピリッツとは無関係に、個人レベルにおいては我々日本人には理解が容易ではない実情がインドにはあると思われる。(一つ心残りなのは、インド人と階級制度について率直な意見を聞く機会がなかったことである。)

午後 アーメダバード 市内散策。FRIENDS OF ALL代表のPrem Kumar氏宅再度訪問。諸事務請負。
3月16日

帰国       アーメダバード → ムンバイ(ボンベイ) → デリー → バンコク → 成田(翌朝)

以下は、現場で活躍されていた方々からの情報に大きく寄与しております。皆様に御礼申し上げます。

@医療の現場

日本の国際協力事業団(JICA)とFRIENDS OF ALLがそれぞれ物資を支援している仮設診療所がブージのキャンプ敷地内にあったが、運営は基本的に現地の医者によるもので、日本の常識では考えられない衛生状態であった。物資が限られている事情はやむを得ないことではあるが、消毒用の脱脂綿が複数の患者に使い回されているため、外傷患者は殆どが化膿してしまっているとのこと。また、仮設診療所前の路上には使用済の注射針が無造作に廃棄してあるなど、管理は明らかに不十分であった。これらはインドに限らず、途上国全般が抱える問題であるが、日本から参加しているボランティアが少しずるでも改善すべく、現在も試行錯誤を続けている。

A災害と国際機関

1月26日に大地震があったにも拘らず、国際機関(WHO(世界保健機構)・国連開発計画(UNDP)等)が現地入りしたのは2月に入ってからであり、初動体勢は不十分であったと思われる。

国連関連機関は当初、現地入りしている全団体参加の全体ミーティングを毎日行っていて、これでは本来の救済復興活動の時間を奪われてしまう、とのこと(3月上旬現在では週2回になっている)。また、活動の全てをミーティングの指示に従っていては、時間ばかり掛かって効果的な支援ができない。今回のような緊急事態では、現場の状況に応じて臨機応変で柔軟な対応が必要とされるため、トップダウンの指示はかえって非効率になり兼ねない。ミーティング自体は各団体からの報告の場とし、ボトムアップの構造に変えた方が良いのではないか。

加えて、ミーティングや報告書の言語は英語に指定されているため、現場の声が十分に伝わらない可能性もある。ツールとして共通言語である英語を用いるのは国際機関内の都合によるもので、より迅速かつ効果的なミーティングとするには、英語のみならず、グジャラート語・ヒンディー語をも受け付ける体勢を整えるべきではないか。

B災害と政府・自治体

過去の非常事態において、インド政府は外国からの救援を拒んできたが、今回の大地震においては受け入れる決定を迅速に行っており、これについては評価できる。

懸念するのは、政府高官等ばかりが外国からの支援の恩恵を受け、最貧層まで行き届かない、という事態である。これを回避する意味でも、FRIENDS OF ALL等の現場で活躍するNGOやボランティアの存在価値は高い。

復興段階に入った際に重要なのは、あくまでも地域経済の復興は地元からの内発的なものであるべきであり、住民主体の復興計画を促すよう配慮すべきである。

C災害と日本

初動が遅い。1月26日に地震が発生していながら、自衛隊は2月4日に現地へ出発した。瓦礫の下での人間の生存は、長くても5日が限度であり、これでは派遣の意味がなく、日本の外交上の面目を保つために行ったパフォーマンスに留まってしまう。また、自衛隊員の殆どがメカニックであったため、テントの受け渡しをしてからはあまり役に立たず帰って行ったとのことである。

意思決定が遅い。FRIENDS OF ALLとJENの共同プロジェクト(テント・仮設トイレ・トラウマケア等、合算で149,051米ドル)の給付申請を、外務省のNGO草の根枠として2月の第三週には申請していた。3月8日に決裁が下り、3月13日には各団体幹部がニューデリーで契約の署名を行った。しかし、3月は年度末で多忙との理由から、実際の支給日は4月5日になってしまう、とのことであった。多忙は皆同じ。被災者の生命よりも自分の事務処理を優先してしまうなど、言語道断である。

ピース・ウィンズ・ジャパン、JEN、JHP等のNGOが現地で活躍していたが、幾つかのNGOは、地震直後に現地入りしてい乍ら、何をしたらよいのか解からずに帰国してしまったとのことである。同じ地震国として、緊急活動のノウハウを常にブラッシュアップしておく必要があると思われる。

ある個人が国際協力事業団(JICA)のデリーの事務所に赴き、ボランティアとして救援活動をしたい旨申し入れたところ、「あんな危険なところには絶対に行くべきではありません」との回答であった由。実際の現場は、建物は到壊してはいるものの既に平穏な状況にあり、被災者はマジメに生活再建に向けて歩み始めている上に、犯罪も極めて少ない。現場の実情を理解していないのに、自粛を唱えておけば間違えはなかろう、という日本政府の安易な対応は見直して欲しい。現地の人々を侮辱している上に、ボランティアを必要としている組織にとっては全く迷惑な話である。

日本に帰国してみると、「もうあの地震は終わったんでしょ?」との発言を度々耳にする。阪神淡路の被害は、既に喉元を過ぎて熱さを忘れてしまっているのでは。阪神淡路の時は、自国のことでもあり、世間やマスコミの関心は時を追って rescue → relief → reconstruct と長続きしている。「対岸の火事」という認識は、あまりにも自己中心的な見方であり、是正されるべきである。

D災害とNGO

政府・自治体・国際機関にとって手の届かないところでのアクションと、柔軟且つフットワークの良さは高く評価すべきで、災害救助・復興・再建のコアとなるべき存在であると思料する。

問題は、公益性を訴える団体であり乍ら、その実績や名声は以後のファンド・レイジングにも大きく影響することから、量的アピールばかりで実際には効果的な活動ができていない団体もある、ということである。トラック一杯に積んだ食糧を、まるで家畜に飼料をやるかの如く置いて帰ってゆくところもあるらしい。実際、ブージの街の中で、支給された衣類を大人たちが引っ張りあって争っている光景を目にした。FRIENDS OF ALLは、時間と手間は掛かるものの、十分な対話の後に一つずつスタッフが直接被災者に渡す方法と採っており、被災者間での無用な争いを回避させている点で評価できる。

E災害とボランティア

阪神淡路の大地震は、延べ100万人を超えるボランティアによる救援活動が大きな役割を担った。無償によるマンパワーの提供は、現場のNGO活動の最大の基盤となっており、今後もボランティアが果たす役割は大きい。

災害救援の現場では、大筋のシナリオはあるものの、生々流転する現場の状況に応じた臨機応変な対応が必要なことから、参加している個人が全体の空気を見計らって、自他の活動内容を把握する客観性が重要になる。これは、3月15日にFRIENDS OF ALL代表のPrem Kumar氏との話し合いでも触れたことであった。

被災者のニーズと乖離した活動は意味がない。その点において、被災者と one on one で対話のできる個人単位でのボランティアは、組織にはできない対応が可能となる。

日本の企業は、ボランティア休暇などの制度によって、より積極的にフィランソロピーの認識を高める必要がある。それによって、企業のイメージアップにも繋がると思料する。

F被災者同士の協力

阪神淡路大震災の緊急事態において、倒壊した建物からの救出や消火活動において力を発揮したのは、行政でもNGOでもなく、近隣のコミュニティによるものであったと言われている。ここでも、組織のシステムにとらわれないことが最も効果的な対応であることがわかる。

訪問したアンジャールの結婚式場は、地震により負傷した人々が集まって、自然発生的に素人による病院となった。そこには負傷者の家族も同居し、全体の共同意識により、家族を失った悲劇のトラウマを和らげることに寄与している。

経済復興についても、政府、自治体、NGOはあくまでも自立までの後押しをするに留め、経済のダイナミズムを自発的に作り出せるように配慮すべきであると思う。

G災害とカースト

3月15日のPrem Kumar氏との対話にもあったように、基本的には階層の違いによる復興活動への歪みは生じないはずではある。しかし、上流階級になればなるほど援助の恩恵を被る、という事実が仮にあったとすれば、我々外国人が常時現場で直接復興支援を行わなければならないことになってしまう。しかし、それは物理的に限界がある。もしそうであれば、もうこれは緊急事態に限ったことではなく、平常時のインドの社会構造が抱える問題点ということになる。

この問題は、一介のボランティアであり、インドの歴史に精通していない私が触れるにはあまりにデリケートな問題であるため、ここではこれ以上の言及はしないことと致したい。

H災害と建物

グジャラートでの地震は、インド亜大陸が北上する際に地盤が反発して生じる「ズレ」の地震であり、50年に一度は定期的に発生しているものである。にもかかわらず、おそらく経済的理由から、来るべき地震に対処するような建物物は殆ど建てられていなかった、とのことである。現地の建築家は、もしムンバイ(ボンベイ)に同じような大地震が起きたら、ひとたまりもない、との話をしている。大都市の空間は縦に伸びて行く一方で、耐震性などは無視されているようである。

日本が提供できるノウハウの援助として、エンジニアを現地へ派遣することが重要である。同じ地震大国として、低コストでハイ・バリューの援助となるはずだ(飛行機で京大地震研究所の方々と出くわした。更なる積極的な行動を期待したい)。阪神淡路大震災の際、阪神高速の高架が見事に横倒しになった後、東京の首都高速では、「まず足腰を強くします」とのスローガンで橋桁を支える橋脚の強度を高める補強工事を全面的にスタートしている。この教訓を是非現地に伝えて欲しい。

I自己反省点と感想・今後の私にできること

1995年に阪神淡路大震災が起こり、私はテレビで刻々と変化してゆく現地の報道に釘付けであった。数多くのボランティアが現地入りし、その活躍が華々しかったことも知っていた。私の友人も、ボランティアに参加していた。まだ学生で暇を持て余していたにも拘らず、結局「何かしなくては」と思うことすらなかった自分が、後になってとても疎ましく感じていた。その後、仕事の忙しさに感けて、そのヒッカカリを解消する機会をつくることができないでいた。

昨年8月に、それまで勤めていた銀行を退職し、留学の出願が終りかけたところで、インドでの地震のニュースを見た。今回、留学出願の結果発表までの自由な時間を使って、現地へ赴いた。この動機は、自分自身のボランティア精神と、今後開発経済の勉強をする身として現場を見ることには意義があると思ったからである。

現場で発揮できる能力は特にないものの、とりあえず飛び込んでみた。そんな自分でも、役に立つ余地は十分にあることはわかった。被災者一人ひとりのケアができるのは、国連でも政府でもNGOでもない、ボランティア個人であるからだ。しかし、現場滞在10日間では、効果的な活動ができるわけではない。Prem Kumar氏が「1ヶ月はいてほしい」と言うのは、災害復興はとても時間がかかるもので、ほんの一瞬いただけでは実態を理解することはできない、という意味であろう。

最も印象的だったのは、被災者の村人たちが、社会的立場が低いにも関わらず卑屈な印象が全くなく、正直者で、大変誇り高い人たちであったことである。また、親を亡くした子供たちと遊んでいると、その純朴・素直さに、いつのまにかこちらの心が救われていた。そうしてみると、先進国による開発援助など、余計なお節介であるような気になってきた。途上国の政策に外国が関与する必要があるケースも多いにせよ、大方は胡散臭い。

再度現地に赴いて復興活動を行うのは時間的に困難ではあるが、外国にいる私にできることは、義援金を募ることと、現地の情報を継続的に発信することである。

このレポートを読まれて、少しでも現地の実情やフィランソロピーに興味を抱いて戴ければ、幸甚である。

 

 

 

(平成13年4月10日 国際協力事業団(JICA)確認済)

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