議論のできない人たち(2)



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 私の理解した範囲では、パウロによれば、信仰は神の一方的な恵みであり、信仰を恵まれるのは別にその人が立派だとかそういう理由は何もありません。むしろ、この世的にはとるに足りない、いてもいなくてもどうでもいいような者を選んで信仰を恵んだのだといいます。ところが、信仰を恵まれた人たちの中には、「わたしが信仰を恵まれたのは、わたしがこの世的に立派だったからだ」とか勘違いしてしまう人たちがいるのです。パウロは「あなた方が信仰を恵まれたときのことを思い出して下さい。あなた方は知恵があるから選ばれたわけでも身分や地位があるから選ばれたわけでもないでしょう。むしろ、それらとは無縁な存在だったではありませんか」と戒めていますが、信仰を恵まれるとそれを「自分は神から選ばれたのだ。これは自分が優れているからだ」とか勘違いして傲慢になって、信仰を恵まれていない人たちを見下すようなケースがあるのです。

 このような人たち(勘違いキリスト者)は結局のところ神をも自分より「下」に置くことになります。彼らが神を崇め称えるのは、神が奇蹟を起こして自分の願いを叶えてくれるからです。神が沈黙し続ければ、この手の人たちはたちまち神を信じなくなるでしょう。別のもっと「ご利益」のある神様に乗り換えるかも知れません。なぜなら、彼らは「奇蹟」という名の現世ご利益ゆえに神を信じているからです。彼らにとっては、神を信じられのは神が「あんなことができたらいいな」「こんな夢があるけど」という自分の願いを奇蹟で叶えてくれるからなのだそうです。まるでドラえもんのような神です。あるいは、より正確にいえば、アラビアンナイトに登場するランプの精(ジン)のような存在です。主人は人間であって、その願いを叶えるために奉仕するのがジンなのです。要するに、この手の人物の場合、神を「主」と呼びながら、実際には神を自分の僕として扱っているのです。これを勘違いといわずに何と呼べばよいのでしょうか。

8198 Re:奇蹟ゆえに神を信ずる人たち lightofway 2007/04/12 10:08

信仰がないことを劣等感をもってひがんでいる方へ

どうか、ひがんだり、妬んで、悪口など言って自分に裁きを招くようなことを止めて、そのままの姿で、教会に行ってご覧になりませんか?

私も同じ人間ですから、信仰など持ってもいず、神の存在など全く知らなかったものです。

自己中心の汚らしい人間で、今もご指摘のように、あまり人のことを心に掛けるようなものではありませんでした。

でも、あなたのように、クリスチャンの喜び、平安が羨ましく、妬ましく思っていたものです。

神の賜物である信仰、希望、愛が自分には無い、ということが分からずに、努力や勉強、研究や知識で何とかなるものだと思っていました。その中には、自分に対する信頼、自信過剰な頑張りと
高ぶりで他の人よりも何とかよく見えるように、見栄をはる馬鹿な自分がありました。

でも、神はそんな私を見捨てず、クリスチャンの暖かな交わりの中に入れて、聖書の間違った読み方を糺し、生きて働く神ご自身にトマスのように現れて下さったのです。

出会いが無ければ、私は今頃、不信仰とつぶやきと恨みつらみの中で滅んでいたでしょう。



8200 Re:奇蹟ゆえに神を信ずる人たち 流木 2007/04/12 14:31

> 信仰がないことを劣等感をもってひがんでいる方へ

 こういう発想が出てくるのは、この人が信仰を恵まれたことを自慢に思っているからです。

> どうか、ひがんだり、妬んで、悪口など言って自分に裁きを招くようなことを止めて、そのままの姿で、教会に行ってご覧になりませんか?

 こういう人と「永遠の隣人」になどなりたくもありませんね。一部のキリスト者は、神から恵まれた信仰を自力で獲得したものであるかのように勘違いして、信仰を恵まれていない人たちをこのように見下すわけです。

> 自己中心の汚らしい人間で、今もご指摘のように、あまり人のことを心に掛けるようなものではありませんでした。

 結局、この人は信仰を恵まれる前も今も何も変わってはいないということですね。意見交換の場である掲示板で議論の勝ち負けにこだわって、前後矛盾しまくるような話を平気でやって、それを指摘されると「神様が矛盾したお方なのです」とか神様のせいにまでするわけです。

> でも、あなたのように、クリスチャンの喜び、平安が羨ましく、妬ましく思っていたものです。

 まぁ、この人は信仰を恵まれた喜びの実感なんか何もないんでしょうけど。ちっとも嬉しくないからこそ、ことさら「嬉しい」と強調せずにはいられないのです。

> 高ぶりで他の人よりも何とかよく見えるように、見栄をはる馬鹿な自分がありました。

 今でも同じではないんですか。今でも、他のキリスト者さんから「あなたは模範的な信仰者だ」といってほしいだけでこの人はこの掲示板に書き込んでいるんですから。



8201 Re:奇蹟ゆえに神を信ずる人たち 裁定者 2007/04/12 17:57
(略)

流木さんが求める”完璧な人間”は存在しませんよ。そんなに厳しく人を裁いてはいけません。人間は多かれ少なかれ”虚栄心”をもっています。全ての聖人と呼ばれる人々はこの虚栄心との戦いだったと思います。”神の完全無欠の愛”と”醜い自分”の葛藤は死ぬまで、すべての人々の心の中で行われるのです。



8203 Re:奇蹟ゆえに神を信ずる人たち 流木 2007/04/12 23:51

*裁定者さん

>流木さんが求める”完璧な人間”は存在しませんよ。そんなに厳しく人を裁いてはいけません。

 とはいえ、自分のことを本心では完璧だと自惚れて他人を裁く信仰者は掃いて捨てるほどいるのではありませんか。そういう人に限って、誰からも尋ねられてもいないのに、「わたしは小さな者です」とかいって謙遜しているフリをするわけです。ああいう偽善的な行為はいい加減止めてほしいものですね。

 結局のところ、「わたしは救われました!」とかやたらと強調するキリスト者さんの言動というのは、信仰を恵まれる前も恵まれた後も何も変ってはいません。職場で同僚と口論して、「イエスさまもパリサイ人と口論したのだから、わたしもするのです」と開き直ってみたり。イエスの論争と彼らの口論とは同じレベルのものなんでしょうか。あんなことをいって、恥ずかしくないんですかね。

 今回、lightofwayと名乗る勘違いキリスト者さんが「ひがんでいる」だの何だといってきたのも、ご自分のこれまでの支離滅裂な発言についてきちんと説明することができないからでしょう。彼らはあの手の「悪口」しかいえないのです。

 果たして信仰を恵まれたことで、彼らは以前よりもよくなったといえるのでしょうか。信仰を恵まれて、神様という後ろ盾を得たことで、彼らは以前にも増して傲慢になっているようにも思えるのですが、私の錯覚なのでしょうか。



8204 Re:奇蹟ゆえに神を信ずる人たち 流木 2007/04/12 23:59

*裁定者さん

>流木さんが求める”完璧な人間”は存在しませんよ。そんなに厳しく人を裁いてはいけません。

 なお、私が勘違いキリスト者さんに求めてきたのは、

(1)言葉を自分勝手な意味で使うのは議論がいたずらに混乱するもとになるので、自分勝手な意味で使うのならその意味を明確にすること。
(2)前後矛盾することをいわないこと。これまでの主張を翻すのなら、その理由をきちんと説明すること。
(3)調べれば簡単にわかることは調べること。

などです。これは「完璧な人間」でなくても、議論をする上では当然のこと、最低限の要求だと思います。彼らはこの程度のことすら守れないのです。議論にならないのは当然でしょう。





 さて、ここから議論のやり方をきちんと理解できていないように思える「種」と名乗る人が登場します。この人のキリスト教信仰上の立場は、「聖書を文字通りに受けとめるのは危険」というもののようで、その点ではしばしば名前の挙がっているlightofwayさんとは正反対ですが、以下で見るように、議論の基本的なスタイルには本質的な違いはありません。

8210 Re:奇蹟ゆえに神を信ずる人たち 種 2007/04/14 04:15

初めまして、流木さん

手厳しい、ご意見ですね。
でも、これはあなたが求める議論の形であって、それをあなたの掲示板でもない場所で他者に求めることは出来ないでしょう。
少々、横暴に感じますね。



8211 Re:奇蹟ゆえに神を信ずる人たち 種 2007/04/14 04:31

キリスト教は人を裁いてはいけないと教えています。
プロテスタント的に言えば、「聖書にそう書いてあります」かな。

また、信仰は恵まれるものではありません。
信仰とは神からのギフトです。
受け取るか受け取らないかはそれぞれの自由です。

キリスト者になったから、救われるわけでも恵みを受けるわけでもありません。
私たちは、皆、平等に既に救われており、また恵みを受けております。

例えば、このような公の場に於いてキリスト教について議論できるということ自体、恵みです。
中国では未だにキリスト教者は見つかれば死刑です。

信仰を持ったから、良くなるのではありません。
人間は既に「良い」のです。
でも、良い行いを出来る人は少ないのです。
信仰を持ったものはこの良い行いを意識的にしています。
なぜなら、そうすることで天の父が喜んでくれるからです。

キリスト者だけが傲慢に映るのでしょうか?
だとしたら、キリスト者を「良い人」と思っていないでしょうか?
キリスト者が特別に良いわけではありません。
皆、同じです。
ただ、キリスト者は神に似た人間になろうと努力しますから、その分、意識的に行動するので若干、違うように映るかもしれませんが。



8212 議論のできない人たち 流木 2007/04/14 08:52

*種さん

> でも、これはあなたが求める議論の形であって、それをあなたの掲示板でもない場所で他者に求めることは出来ないでしょう。

 では、あなたは、相手がある言葉を自分勝手に使い、しかもそれをどういう意味で用いているのかも明確にせず、さらに、さっきいったこととまるで正反対なことを平気でいっても、その相手と議論ができるのでしょうか。どこの掲示板に行こうが、彼らのようなスタイルで議論をすれば批判を浴びるのは当然でしょう。

 例えば、ある人が「神癒」という言葉を使ったとします。その人は最初は「医者が見離した病気が信仰で奇蹟的に治った」ことを「神癒」と呼んでいましたが、その人が「不治の病」だとした病気が実は医学的には治る可能性がある病気だとわかりました。ところが、その人は医学事典を調べて確認することもせず、「不治の病というのは医者がいったことで、わたしはそれを伝えただけ」とかいいわけをしつつ、その病気が治ったことはあくまでも「神癒」だといい張りました。さらに、「あいつは神癒なんかないといっている」「神癒なんかウソだといっている」「医学事典に書いてあることが本当だとは限らないのに、この世の知識だけで否定しようとするのですからたまったものではありません」とかいい出しました。ところが、ある日、突然、「人間の自然治癒力も、医学の知識も全部神から来たものなので、自然に治っても、医者や薬で治っても、全部神癒です」といい出しました。

 さて、あなたはこんなスタイルで議論をする人とまともに議論ができますか。

> 少々、横暴に感じますね。

 それはあなたの感じ方ですね。議論というのは共通のルールがあって初めて成り立つのではありませんか。私が求めたようなことは特別にハードルの高いものではありません。勘違いキリスト者さんのような(キリスト者でない人たちにもそっくり同じスタイルが見られることもありますから、勘違いキリスト者さんに特有というわけではありませんが)議論のスタイルというのは、中身以前に議論にならないものです。

 結局、彼らは意見の交換である議論(交換ですから当然勝ち負けはありません)を勝ち負けだと誤って捉えて、相手に勝とうとか相手に負けまいとしてアレコレいい逃れをしているに過ぎません。その結果、彼らの発言を時系列で追っていくと、いっていることが前後矛盾しまくることになります。しかし、彼らには元々何かいいたいことがあったわけではなく、掲示板での議論で形の上で「勝った」(?)ことになるのが目的ですから、それでも平気なのです。要するに、他人から誉めてほしくて彼らはアレコレいっている過ぎません。中身などどうでもよいのです。



8214 Re:奇蹟ゆえに神を信ずる人たち 流木 2007/04/14 09:16

*種さん

>また、信仰は恵まれるものではありません。
>信仰とは神からのギフトです。
>受け取るか受け取らないかはそれぞれの自由です。


 「恵まれるもの」も「ギフト」も同じですよ。受け取ることも拒否することもできます。あなたにとっては、「恵まれるもの」と「ギフト(贈り物)」とは違うのでしょうが、私は両者を区別していません。

> 中国では未だにキリスト教者は見つかれば死刑です。

 これは事実ではありませんよ。一部のキリスト者が弾圧を受けていることは新聞その他でも報じられていることですが、キリスト者だというだけで死刑になってはいません。

 そもそも、中国がそんなことをやっているのなら、キリスト者が多い西側諸国が北京でのオリッピックを認めるとでもお考えでしょうか。

> 信仰を持ったから、良くなるのではありません。
> 人間は既に「良い」のです。
> でも、良い行いを出来る人は少ないのです。
> 信仰を持ったものはこの良い行いを意識的にしています。
> なぜなら、そうすることで天の父が喜んでくれるからです。


 おかしなお話ですね。キリスト者は、自分が救われたという喜びから自発的によいことを行うのではありませんか。信仰者でなくても、自分の心に余裕があるときには、普段よりも他人に親切になったりするものです。天の父を喜ばせようとして、意識的にムリしてよい行いをするのは、両親が喜んでくれるからとムリをして「いい子」を演ずるようなものです。それは不自然ですし、そんなムリを重ねていれば、いつか破綻してしまうでしょう。

> キリスト者だけが傲慢に映るのでしょうか?

 キリスト者だけが傲慢なのではありません。例えば、マルクス主義者でも同様に傲慢です。

> だとしたら、キリスト者を「良い人」と思っていないでしょうか?
> キリスト者が特別に良いわけではありません。
> 皆、同じです。


 でしたら、木の善し悪しをその実によってどうして知ることができるのですか。救われたという喜びを本当に実感しているならば、抑えようとしても隠そうとしても自然とよい行いをしてしまうのではありませんか。救われているのに、職場で同僚と口論をして、「イエスさまもパリサイ人と口論したのだから、わたしもするのです」とか開き直るような人が救われた喜びを実感できているとは到底思えませんね。

> ただ、キリスト者は神に似た人間になろうと努力しますから、その分、意識的に行動するので若干、違うように映るかもしれませんが。

 人間がどんな努力をしても、神に似たものになれるはずはないでしょう。背が高いとか低いとかいってみても、エベレストと比べれば無意味な比較です。そもそも、人間が善悪を知り神に似たようなものになろうとしたから、エヴァとアダムとは知恵の木の実を食べ、2人を放置すると命の木の実まで採って食べて永遠に生きる者になると恐れたから、神は2人をエデンの園から追放したのではありませんか。被造物が神のようになろうとするのは、被造物の思い上がりでしょう。



8216 Re:奇蹟ゆえに神を信ずる人たち 流木 2007/04/14 09:20

>  キリスト者だけが傲慢なのではありません。例えば、マルクス主義者でも同様に傲慢です。



8217 この程度は調べてほしいものですね 流木 2007/04/14 09:24

>b>> 中国では未だにキリスト教者は見つかれば死刑です。

 例えば、ここ

http://www.threeweb.ad.jp/logos/china/church.html

には、中国のキリスト教会のリストがありますが、あなたはこれをどう解釈するのでしょうか。

 なお、上のサイトはYahoo!で「中国」「キリスト教会」をキーワードに検索したところ、最初にヒットしたものです。



8218 恵まれたものとギフト 流木 2007/04/14 09:30

>  「恵まれるもの」も「ギフト」も同じですよ。受け取ることも拒否することもできます。あなたにとっては、「恵まれるもの」と「ギフト(贈り物)」とは違うのでしょうが、私は両者を区別していません。

 もっとも、「信仰は恵まれたもので、勝手に捨てることはできません」とおっしゃるキリスト者さんもおられますね。そういう人の場合、「恵まれたもの」と「ギフト」とは区別されているのでしょう。ギフトはいったん受け取ったあとで捨てることもできますからね。



8221 Re:奇蹟ゆえに神を信ずる人たち 種 2007/04/14 11:58

>  人間がどんな努力をしても、神に似たものになれるはずはないでしょう。

人間は、神によって神に似た者として創造されました。
私たち人間に霊性があるのはそのためです。



8222 Re:恵まれたものとギフト 種 2007/04/14 12:05

> >  「恵まれるもの」も「ギフト」も同じですよ。受け取ることも拒否することもできます。あなたにとっては、「恵まれるもの」と「ギフト(贈り物)」とは違うのでしょうが、私は両者を区別していません。
>
>  もっとも、「信仰は恵まれたもので、勝手に捨てることはできません」とおっしゃるキリスト者さんもおられますね。そういう人の場合、「恵まれたもの」と「ギフト」とは区別されているのでしょう。ギフトはいったん受け取ったあとで捨てることもできますからね。

流木さん、少し、落ち着かれてはいかがですか?
誰も、あなたが書いたことを悪いとか、間違ってるとか思ってないでしょう?
どのような内容のものを書いたとしても、完璧に読み手に伝わることはありません。

「恵まれるもの」「ギフト」を同じだと考えるのなら、それで良いじゃないですか。 私にすれば、そんなことどっちでもいいことですよ。



8224 Re:議論のできない人たち 種 2007/04/14 14:17
流木さんが運営されてるサイトを覗いてきましたよ。
そこにおいて、あなたの言う「勘違いキリスト者」がいたわけですね。

読んでみて、確かにあの方の言い分はおかしいですよね。
でも、だからといって議論の方法を勘違いキリスト者さん用に焦点を当てるとするのもどうでしょうかね。

管理人曰く、我々が良識を持ってこの掲示板を使用する以上はどのようなスタイルの議論も良いわけでしょ?
議論というのは共通のルールがあって成り立つものだと考えるなら、あなたの一方的な求めを他者に押し付けるような書き方ではなく、意見を伺う姿勢はないんでしょうかね。 これじゃあ、横暴と感じられてもしょうがないでしょ?

議論を勝ち負けだと誤って捉えているのはあなただと思いますよ。
一度書いた自分の投稿に対して、どんどん補足していく辺りなど、まさしくですよ。



8226 Re:この程度は調べてほしいものですね 種 2007/04/14 15:36

了解しました。



8227 Re:議論のできない人たち 流木 2007/04/14 17:15

*種さん

> でも、だからといって議論の方法を勘違いキリスト者さん用に焦点を当てるとするのもどうでしょうかね。

 「議論の方法を勘違いキリスト者さん用に焦点を当てる」とはどういう意味でしょうか。議論のやり方が先にあって、勘違いキリスト者さんたち(繰り返しますが、キリスト者以外でもそっくり同じスタイルの人たちはいます)はそれに合っていないということであり、彼らに合わせて議論のやり方を私が作り出したわけではありません。

> 管理人曰く、我々が良識を持ってこの掲示板を使用する以上はどのようなスタイルの議論も良いわけでしょ?

 では、あなたは彼らのようなスタイルで良識を持って議論が可能とだとお考えですか。あれでは議論にならないのではありませんか。何しろ、彼らにはいいたいことがないんですから。最初は「真実ではなく、事実です」といっておきながら、最終的には「真実です」といって平気な人たちが良識とやらを持って議論しているとでもあなたはおっしゃりたいわけですか。彼らのあのような議論のスタイルというのは、彼らの知的不誠実さを反映しているだけではないのですか。

> 議論というのは共通のルールがあって成り立つものだと考えるなら、あなたの一方的な求めを他者に押し付けるような書き方ではなく、意見を伺う姿勢はないんでしょうかね。

 先に述べたような、「自分勝手に言葉を使うのなら、どういう意味を込めてその言葉を使っているのかを明確にするべき」とか「前後で矛盾するようなことをいわない。これまでの主張を変えるのなら、その理由をきちんと説明する」とか「簡単に調べればわかることぐらいは調べる」というのは、議論のルールについての私個人の特殊な見解なのでしょうか。彼らのようなスタイルで議論をすれば、どこにいっても受け容れてはもらえないでしょうね。

> これじゃあ、横暴と感じられてもしょうがないでしょ?

 ですから、それはあなたの感じ方でしょう。あなたは彼らのようなスタイルでもOKなんですか。話の中身以前に議論のスタイルとしてアレでは問題だと思わないのですか。

> 議論を勝ち負けだと誤って捉えているのはあなただと思いますよ。
> 一度書いた自分の投稿に対して、どんどん補足していく辺りなど、まさしくですよ。


 そう思うのはあなたの勝手ですが、そう思う根拠が補足説明をすることというのはわけがわかりませんね。自分が書いたものを読み直して、「ここは誤解しそうだな」とか「説明が足りなかったな」というところを補うことがなぜ勝ち負けだと誤って捉えていることになるのでしょうか。

 議論を勝ち負けだと誤って捉えているのなら、議論に勝つ(?)ためには、自分の主張をコロコロと変えることになります。これまでいったことと180度違うことをいい出したりするわけですが、補足説明をそれと同じだとでもお考えでしょうか。もし、あなたのいい分が正しいとすれば、「中国ではキリスト者というだけで未だに死刑になっています」というあなたの見解を撤回することすら不可能となります。いったん口にしたことは二度と引っ込めたり直したりできなくなるわけですからね。あなたのお考えでは、そういったことは全部「議論を勝ち負けだと誤って捉えている」ことになりますが、それでよいのですか。



8228 Re:恵まれたものとギフト 流木 2007/04/14 17:31

*種さん

> 「恵まれるもの」「ギフト」を同じだと考えるのなら、それで良いじゃないですか。 > 私にすれば、そんなことどっちでもいいことですよ。

 どっちでもよければ、「恵まれるものではなくギフトでしょう」とあなたがおっしゃったのはどうでもよかったわけですか。意味がわかりませんね。



 ご自分で「信仰はギフトであって恵まれる物ではありません」といっておきながら、「どっちでもいい」とかいい出しています。そろそろ馬脚をあらわし始めましたね。

8229 人間は努力で神に似た者になれるのか 流木 2007/04/14 17:46

> 人間は、神によって神に似た者として創造されました。
> 私たち人間に霊性があるのはそのためです。


 人間が霊性を備えているのは、神がそのように造ったからであって、人間の努力とは関係のない話でしょう。私は「被造物に過ぎない人間がどんな努力をしても創造主である神にはなれない」という話をしているのです。人間が元々霊性を備えたものとして造られたというご指摘は失礼ながら的外れではありませんか。



8230 Re:議論のできない人たち 種 2007/04/14 18:13

流木さんへ
一文章毎に意見するのがあなたの議論の仕方なんですね。
そういった形の意見の交換をあなたはしたいわけですね。
しかし私が、あなたの文章を読んで感じた感想を意見と捉えられても困ります。

あなたが補足のために投稿の上に投稿を重ねる結果になっていると言うのでしたら、それでいいですよ、私はそうは感じなかったと、伝えただけです。
しかし、投稿する前にもっと確認することが必要でしょう。

私が思うのに、あなたの考え方は極端です。
あなたの投稿の仕方に対して私が感想を述べたからといって、それが私自身を正しいとすることにはならないでしょう?
>背が高いとか低いとかいってみても、エベレストと比べれば無意味な比較です。
これはあなたが8214で投稿した中にあったものです。
この考え方も極端ですよね。

私は極端な考え方は好みません。
極端な考えを持ち出すことで、その問題のレベルの低さを計るわけでしょう?
そういった歪曲された解釈を私は好みません。

>「自分勝手に言葉を使うのなら、どういう意味を込めてその言葉を使っているのか>を明確にするべき」
これも極端です。
これが出来なくても、意見の交換は出来ると思いますよ。

>「前後で矛盾するようなことをいわない。これまでの主張を変えるのなら、その理>由をきちんと説明する」
誰のために説明しろと書いているんでしょうね。
確かに議論途上で矛盾が生じたり、主張が変わったりすることで、問題自体の焦点がずれることがあるから、気をつけなくてはいけないけど、あなたがそれを主張できるのかな?と思うのですが。

>簡単に調べればわかることぐらいは調べる
これは何を基準になんでしょうね?
あなたにとって簡単なことが、一般的にも簡単なことであるとは限らないでしょう?

中国に於けることについては、牧師からそのように聞いていたもので、別に調べもせずに「そうなんだ」と信じていたのです。
ただし、事実を確認せずに投稿したことはいけないことです。
ですから、私は素直にあなたの意見に対して了承しました。



 確かに、中国は今でも情報統制を行っていますし、アムネスティ・インターナショナルのレポートを見るまでもなく、共産党の一党独裁体制を死守すべく広範囲に人権抑圧を行っているわけですが、「中国では未だにキリスト者は見つかれば死刑です」なんて話が本当かどうかは、ネットで検索してみれば一発でわかるようなことでしょう。そういうのが「調べれば簡単にわかる話」なんですよ。ましてlightofwayと名乗る勘違いキリスト者さんの場合、1年間も猶予があったにもかかわらず、クロンカイト・カナダ症候群が助かった人が一人もいない「不治の病」なのかどうかをネットの医学系サイトや医学事典で調べることすらしなかったわけです。結局、調べれば自分の間違いを認めざるを得なくなるから、「対抗して調べまくるつもりはありません」とかいって逃げているに過ぎません。自分の間違いを認めると、議論に負けたような気分になるから認めたくないのです。そのくせ、「真実を探求」とか口にするのですから、全くお笑いですね。

8231 努力して神に似た者になれるのか 流木 2007/04/14 18:14

*種さん

【8211でのご発言】

> ただ、キリスト者は神に似た人間になろうと努力しますから、その分、意識的に行動するので若干、違うように映るかもしれませんが。

【8221でのご発言】

> 人間は、神によって神に似た者として創造されました。 > 私たち人間に霊性があるのはそのためです。

 上記を続けてお読みになって、ご自分のお話が首尾一貫しているとお考えでしょうか。最初は、キリスト者が神に似た者になろうと「努力」しているとおっしゃていたのに、あとの方では神から霊を吹き込まれたので神に似た者として「造られた」というお話に変っていますね。前後でおっしゃっている中身が丸っきり変わっていることにお気づきでしょうか。

 なるほど、神は人間を神に似た者(霊性を備えた者)として造ったでしょうが、キリスト者がどんな努力をしたところで神に似た者に「なれる」わけではありません。



8232 Re:恵まれたものとギフト 種 2007/04/14 18:30 流木さん
>  どっちでもよければ、「恵まれるものではなくギフトでしょう」とあなたがおっしゃったのはどうでもよかったわけですか。意味がわかりませんね。

> 多分こう書いてくるだろうなと思ってましたよ。
あなたは文章毎に納得していかないと全体を把握できないんですか?
文章というのは全体を読んで書き手が何を伝えようとしているかを読み取ることが大事だと思いますが、どうですか?

私にとって「恵まれる」という言葉と「ギフト」は違いますよ。
何故、違うか。
感覚的に違うと捉えているからです。

しかし、私はそのことに関して、意見を交換したかったわけではありませんよ。
キリスト者だけが救われているといった考えは違うと言うことです。
イエスキリストの十字架の死は全人類を救ったのです。

文章の一語一語を捉えて議論を醸し出すことで、あなたは何を得ようとしているんでしょうね。



8233 Re:議論のできない人たち 流木 2007/04/14 18:42

*種さん

> 一文章毎に意見するのがあなたの議論の仕方なんですね。

 不明確な点を放置しておいた結果、議論がお互いにすれ違った例をいくつも見てきました。わからないところはなるべくそのときに明らかにした方が長い目で見れば議論はスムースに進むでしょう。

> そういった形の意見の交換をあなたはしたいわけですね。

 いちいち確認なんかしなくても議論ができればそれにこしたことはありませんが、なかなかそうもいかないので、次善の策としてアレコレ確認するわけです。

> しかし私が、あなたの文章を読んで感じた感想を意見と捉えられても困ります。

 例えば、「感想を意見と捉えられても困ります」とあなたがおっしゃるとき、あなたの頭の中では「感想」と「意見」とは明確に区別されているのでしょうが、他人にはすんなりと理解できるとは限りません。こういうところをそのままにして議論を進めていけば、ときとして大きなすれ違いが生まれてしまいます。

> しかし、投稿する前にもっと確認することが必要でしょう。

 そうですね。補足しないで済むのが理想です。

> 私が思うのに、あなたの考え方は極端です。

 物事は極端な場合を考えることで単純化され、明確になるものでしょう。「鉄の玉のような重いものとトリの羽根のような軽いものとはどちらが速く落ちるのか」という実験は空気があるところで行えば、鉄の玉の方が先に落ちてしまいます。アリストテレスが「重いものの方が軽いものよりも速く落ちる」と述べたのは日常の観察事実としてはなるほどその通りでしたが、空気を抜いて真空にしてやれば誤りだとわかります。

> 私は極端な考え方は好みません。 > 極端な考えを持ち出すことで、その問題のレベルの低さを計るわけでしょう? > そういった歪曲された解釈を私は好みません。

 「レベルが低い」といいたくて極端な話を持ち出すわけではありません。話のおかしなところが極端な例を出せば、誰の目にもわかりやすく示せるからです。

> これも極端です。
> これが出来なくても、意見の交換は出来ると思いますよ。


 「思う」のはあなたのご自由ですが、実際にそれで議論をすれば無用に混乱するだけです。

> 誰のために説明しろと書いているんでしょうね。

 議論をしている相手と掲示板を覗いている人たちに対してですよ。

> 確かに議論途上で矛盾が生じたり、主張が変わったりすることで、問題自体の焦点がずれることがあるから、気をつけなくてはいけないけど、あなたがそれを主張できるのかな?と思うのですが。

 あなたが「思う」のはご自由ですが、あなたは相手がいっていることをコロコロと変えてもまともに議論ができるのですか。

> これは何を基準になんでしょうね?
> あなたにとって簡単なことが、一般的にも簡単なことであるとは限らないでしょう?

 ネットで検索一発でわかるようなことぐらいは簡単にわかることでしょう。ある病気が不治の病なのかどうかは、ネットの医学系サイトを覗くとか、医学事典を調べるとかすればわかります。相手がそういう手順を踏んで「あなたが『不治の病』だといった病気は、医学的には治る可能性があるとされていますけど?」といってきたときに、「対抗して調べまくるつもりはありません」と答えるようでは簡単にわかることすら調べようともしないといわれても止むを得ないのではありませんか。特殊な才能や専門的な知識や大変な労力をかけなくても、あの程度のことは容易にわかります。

> 中国に於けることについては、牧師からそのように聞いていたもので、別に調べもせずに「そうなんだ」と信じていたのです。

 弾圧を受けているキリスト教会が一部にあると報じられているのは事実ですから、その牧師さんはその話をしたのかも知れません。

 間違っているとか誤解を生みそうだと思えば直すのはむしろ当然のことであり、直したからといって、「あいつは議論を勝ち負けだと誤って捉えている」ということにはなりません。あなたの先のご主張は根拠薄弱と私には映ります。



8234 Re:努力して神に似た者になれるのか 種 2007/04/14 18:47 流木さん、
あなたの議論の仕方を真似ましょうね。

>  上記を続けてお読みになって、ご自分のお話が首尾一貫しているとお考えしょ>うか。

違いますか?

>最初は、キリスト者が神に似た者になろうと「努力」しているとおっしゃていたのに、あとの方では神から霊を吹き込まれたので神に似た者として「造られた」というお話に変っていますね。

神から霊を吹き込まれたので、などとは書いてませんよね?
勝手に付け足すのはやめて下さい。
人間は神に似た姿に造られましたが、その後のアダムとエバの行為により罪が入りましたよね。
全て良しとして創造された人間がそうではなくなった。
けれど、創造されて原罪を犯した後でも人間の中には神に似たものがちゃんと残されているんですよ。
それは「良心」です。
人間それぞれが持つ良心を育てることが=神に似た者となるよう努力するものであると私は考えています。

>前後でおっしゃっている中身が丸っきり変わっていることにお気づきでしょうか。

変わってはいないことが、わかっていただけたでしょうか?

>
>  なるほど、神は人間を神に似た者(霊性を備えた者)として造ったでしょが、>キリスト者がどんな努力をしたところで神に似た者に「なれる」わけではありませ>ん。

あなたがなれないと信じるなら、あなたはなれないでしょう。
私の考えからですと、なれるんですけどね。



8235 没論理的ですね 流木 2007/04/14 18:54

*種さん

> あなたは文章毎に納得していかないと全体を把握できないんですか?
> 文章というのは全体を読んで書き手が何を伝えようとしているかを読み取ることが大事だと思いますが、どうですか?

 個々の部分が不明確なまま全体の意味を汲み取れるとでもお考えなのでしょうか。「いいたいことは何となくわからないでもないけど」というレベルでは議論になりませんよ。不明確な点は明確にした方が結局は議論がスムースに進むでしょう。

> 私にとって「恵まれる」という言葉と「ギフト」は違いますよ。
> 何故、違うか。
> 感覚的に違うと捉えているからです。


 これで議論になるのなら世の中簡単でよいですね。「キリスト教は間違っていますよ。なぜ、間違いか。感覚的に間違いだと捉えているからです」という人が出てきても、あなたはOKですか。そういう没論理的な人と良識とやらを持ってあなたは議論ができますか。

> キリスト者だけが救われているといった考えは違うと言うことです。 > イエスキリストの十字架の死は全人類を救ったのです。

 とはいえ、自分が既に救われていると知らなければ、それは救われていないのも同然でしょう。自分の借金が帳消しになっていることを知らなければ、その人は自分は借金を抱え込んでいると思って生活していくわけです。イエスをキリストだと受け容れる者は自分が既に救われていることを知るのです。

> 文章の一語一語を捉えて議論を醸し出すことで、あなたは何を得ようとしているんでしょうね。

 個々の部分を疎かにして、全体が論じられるとでもお考えなのでしょうか。小さなことを大切にしない者は大きなこともできませんよ。



8236 Re:議論のできない人たち 種 2007/04/14 19:07

流木さん、

言葉尻をいちいち指摘することで建設的な議論になっているのでしょうか?
思うことが私の自由であるならば、いちいち指摘して下さらなくていいですよ。
それとも何も返信しないことで、私に負けたと思うのでしょうか?

>  間違っているとか誤解を生みそうだと思えば直すのはむしろ当然のことであり、直したからといって、「あいつは議論を勝ち負けだと誤って捉えている」ということにはなりません。あなたの先のご主張は根拠薄弱と私には映ります。

やはり、あなた自身が「議論は勝ち負け」だと思っているのではないですか?
私は、あなたが補足のために投稿の上に投稿を重ねているのならそれでいい、と書きましたよね。
本当にあなたが議論は勝ち負けではないと考えているのなら、細部に拘ることはしないのではないでしょうか?
間違っているとか誤解を生み出そうだと思えば直すのはむしろ当然、などと考える辺り、あなたも相当に傲慢な人間ですよね。

もっと、きちんと的を得て議論を成立させましょうよ。
これじゃあ、ただの水掛け論です。
それとも、水掛け論もあなたにとっては議論なのかな?



 この人は、議論の細部をほったらかしにして、「きちんと的を得た(正しくは「的を射た」)議論」とやらができるとお考えのようです。この人にできるのは、せいぜい議論みたいなものでしょうね。何しろ、この人の主張の根拠は結局のところこの人の「感覚」なんですから。「何となく」「感覚的に」で万事済むのなら世の中ずいぶんと楽ですけどね。

8237 流木さんって、面白い人なのね 種 2007/04/14 19:12

>小さなことを大切にしない者は大きなこともできませんよ。

これって、こういった議論に当てはまるんでしょうかね?
逆じゃないですか?
文章の端々、一語一句捉えて意見交換していったら何について議論しているのか分からなくなるんじゃないでしょうか?



8238 またまたタレ流しですか 流木 2007/04/14 19:14 *種さん

> 神から霊を吹き込まれたので、などとは書いてませんよね?
> 勝手に付け足すのはやめて下さい。


 聖書には何と書いてあるのでしょうか。アダムはどのようにして霊を備えた者となったのですか。他にどういう方法で塵から造られた人間は霊性を備えるようになったのでしょうか。

> 人間それぞれが持つ良心を育てることが=神に似た者となるよう努力するものであると私は考えています。

 はぁ、またまた新しいお話ですね。霊性と良心とは同じですか。こういう態度が「議論の勝ち負けにこだわっている」というのではありませんか。元の話からどんどん変っていますね。

 キリスト者がよい行いをするのは、あなたがおっしゃったような「天の父が喜ぶから」という理由なのでしょうか。そうではなくて、自分が救われた(より正確にいえば、自分が既に救われていたと知った)ことで嬉しくなってついつい親切にしてしまうというものではないのですか。義務感でやるものではないでしょう。義務感でやっているのは、その人が救われた喜びをちっとも実感できていないからです。

 いずれにせよ、人間が自分の力でできる程度のことをやったところで、神に近づけるわけではないでしょう。「わたしはこんなに努力したから、神に近づいた」などというのは、ずいぶんと傲慢な考え方だと思いますけどね。

> 変わってはいないことが、わかっていただけたでしょうか?

 全然わかりませんよ。人間が霊性を備えているのは神が人間をそのように造ったからであって、人間の努力とは関係のない話です。霊性と良心とを同一視することで話の前後を無理やりに結びつけようとされているようにしか思えませんが。

> あなたがなれないと信じるなら、あなたはなれないでしょう。 > 私の考えからですと、なれるんですけどね。

 「私の考えからですと、なれます」では議論はおしまいですね。あなたのはご自分の感じたままをただいいっ放しにするだけです。これでは議論になりません。「なれます」「なれません」とただいい合うことがあなたのおっしゃる良識を持った議論なわけですか。なるほど、これが議論なら言葉の意味など明確にする必要はないでしょう。感じたままを単にタレ流せばよいわけですからね。



8239 Re:議論のできない人たち 流木 2007/04/14 19:26

*種さん

> 言葉尻をいちいち指摘することで建設的な議論になっているのでしょうか?

 結局、こういう話になるわけですね。ご自分の議論のアラを指摘されると、「言葉尻をいちいち指摘」とかいい出すわけです。あなたのようなスタイルの人たちはこれまでも山ほどいましたよ。

> それとも何も返信しないことで、私に負けたと思うのでしょうか?

 そういいつつ、あなたご自身が返信しているではありませんか。そのことに何の矛盾も感じないわけですね。

> やはり、あなた自身が「議論は勝ち負け」だと思っているのではないですか? > 私は、あなたが補足のために投稿の上に投稿を重ねているのならそれでいい、と書きましたよね。
> 本当にあなたが議論は勝ち負けではないと考えているのなら、細部に拘ることはしないのではないでしょうか?


 議論なんてものは、ほとんどが細部の話なんですよ。三位一体説の形成過程でもお調べになればおわかりになるでしょうが、細部を無視して「いいじゃないか」とはなりません。

> 間違っているとか誤解を生み出そうだと思えば直すのはむしろ当然、などと考える辺り、あなたも相当に傲慢な人間ですよね。

 間違いを直したり、誤解されそうなところを先回りして説明しておくことが傲慢なのであれば、「中国ではキリスト者は未だに見つかれば死刑です」という話をあなたが撤回されたのも傲慢な行為となってしまいますが、ご自分でおっしゃっていておかしいと思われないのでしょうか。間違いを直したりすることが傲慢などという話は聞いたこともありません。間違いを指摘されて、本人も間違いだと認めざるを得なくなってもあくまでも直そうとしない態度こそが傲慢でしょう。

> もっと、きちんと的を得て議論を成立させましょうよ。
> これじゃあ、ただの水掛け論です。
> それとも、水掛け論もあなたにとっては議論なのかな?


 水掛け論はあなたがやっていることですよ。根拠も示さずに、「わたしの考えではこうだ」で終わっているんですから。あれがあなたのおっしゃる議論なら、確かに言葉の意味などどうでもよいでしょう。感じたままのタレ流しなのですから。



8240 何が面白いんだか 流木 2007/04/14 19:33 *種さん

> 文章の端々、一語一句捉えて意見交換していったら何について議論しているのか分からなくなるんじゃないでしょうか?

 個々の話をしていたら、元の話が何だったのか忘れてしまう人も確かにいるでしょうが、そういう人がいるからといって、個々の話をするべきではないとか、する必要がないということにはなりません。

 「真実ではなく、事実です」といっておきながら、最後には「真実です」といって平気な顔をしているような人の場合、「真実」とか「事実」とかいう言葉をその人が一体どういう意味で用いているのかを明確にしなければ議論は先に進みません。まぁ、その人は「神の愛を何とかお伝えしよう」とか思っているのかも知れませんが、いっていることがコロコロ変って前後で矛盾していくのでは、その人のいいたいことが何なのかは見ている側にはさっぱり伝わらないのです。



8244 議論は意見の交換です 流木 2007/04/15 01:27

 議論というのは、意見の交換です。交換には勝ち負けはありません。海で獲れたサカナと畑で採れた野菜とを交換したとき、どちらが勝ったとか負けたとかいうのはおよそナンセンスでしょう。貿易も交換の一種ですから、ある国が黒字であって、他の国が赤字であっても、それは黒字の国が貿易で勝ったわけでもありませんし、赤字の国が負けたわけでもありません。もっとも、貿易を国同士の競争のように誤解して勝ち負けで論じたがる人たちが多いのは事実ですが、経済学の入門的な教科書ぐらいはきちんと読んでほしいものですね。

 議論を行う上で、自説にこだわるのは当然です。自分がその時点で最も納得できて正しいと考える説にこだわり、それがとりあえず正しいとした上で相手の主張を検討することになります。検討した結果、自分にとって不明確な点や納得のできない点については食い下がります。それを「議論の勝ち負けにこだわっている」という人がいますが、的外れなご意見としかいいようがありません。

 先に述べたように、議論には勝ち負けなどそもそもありませんから、ありもしない勝ち負けにこだわるのはバカげた態度です。また、議論を勝ち負けだと誤解して勝ち負けにこだわる人たちというのは、自説をコロコロと変えていきます。都合が悪くなると、いっていることをどんどん変えてしまうわけですね。その結果、その人のいっていることを時系列で追ってみると、前後で矛盾しまくることになります。

 例えば、ある病気のことを「不治の病」だとし、「医者も見放した病気が奇蹟的に治った。これは神癒だ」といっていた人が、最後には「人間の自然治癒力も医学の知識も全部神から来たものですから、医者や薬で病気が治っても神癒です」と突然いい出したりするわけです。なぜこんなふうに最初にいっていたことと丸っきり違うことをいってしまうのかといえば、勝ち負けにこだわったからです。主張したいこと、訴えたい自説がちゃんとあって議論をしているのではなく、ただ相手に勝とうとするので、いっていることがどんどんと脈絡なく変わってしまうのです。彼らは自説にこだわっているのではなく、勝ち負けにこだわっているに過ぎません。恐らくは議論に負ける(?)とご自分のプライドが傷つくのでしょう。

 むろん、人間の考えというのは変っていくものです。それ自体は否定しませんし、私自身のことを考えても、考えはずいぶんと変って来たわけです。とはいえ、エリシャのハゲ頭を笑った幼い子どもたちを神が2頭のクマに引き裂かせたことを「あれも神の愛なのです」といっていた人が、突然、「あれが神の愛だなんて、一体誰が信じるでしょう」といい出し、数日後には「神の愛です」とかいうようなのは、単なる無節操でしかないでしょう。

 そして、自分の支離滅裂ぶりを指摘されると、「信仰を恵まれていないからひがんでいる」とか「悪口をいっている」とかいうわけです。そのくせ、ご自分のことは模範的な信仰者だとか自惚れているわけですから、全くお笑いですね。ああいう人たちが教会で大きな顔をしているというのも、日本で総人口に占めるキリスト者の比率が1%にも満たない理由の一つではないでしょうか。彼らの同類になりたいと思う人はそうそういないでしょうからね。



8245 またまたタレ流しですかって、思い込みの激しい人ですね。 種 2007/04/15 04:37

流木さん、

神から、霊を吹き込まれたのではないでしょ?
神から、息を吹き込まれて人間は生きるものとなったのでしょ?
それとも、あなたは「息」を「霊」と解釈するのかな?
霊性は神の姿でしょ?
人間が神に似た者として造られたと言うことを、まさかあなたは「姿、形」を似せられてと思っているのではないでしょうね?

>  はぁ、またまた新しいお話ですね。霊性と良心とは同じですか。こういう態度が「議論の勝ち負けにこだわっている」というのではありませんか。元の話からどんどん変っていますね。

別に新しい話ではないですよ。
説明の仕方を変えることがあなたの思考では話を変えることになっているのでしょうか?

>  キリスト者がよい行いをするのは、あなたがおっしゃったような「天の父が喜ぶから」という理由なのでしょうか。そうではなくて、自分が救われた(より正確にいえば、自分が既に救われていたと知った)ことで嬉しくなってついつい親切にしてしまうというものではないのですか。義務感でやるものではないでしょう。義務感でやっているのは、その人が救われた喜びをちっとも実感できていないからです。

もちろん、救われた喜びからそういった良い行いをしたくなると言うこともあるでしょう。
でも良い行いは皆が普通の生活に於いて自然にしているものでしょう?
ただキリスト者の場合、少し意識して行うようにする部分があるのです。
意識することを無理をすることと同じと解釈されてるようですけど、全てがそうとは解釈できないでしょう。
好きになった人のために良いことをしたいと意識的にすることはないでしょうか?
好きになった人と同じにはなれないけれど,似た者になろうと努力することはありませんか?
あなたが神を畏れて特別扱いにしていることは良いことですが、それは旧約時代の神を考えるからではないでしょうか?
新約時代以降はイエスキリストによって「父」と呼ばれるように,もっと私たちに近い存在になっていますよね。

>  いずれにせよ、人間が自分の力でできる程度のことをやったところで、神に近づけるわけではないでしょう。「わたしはこんなに努力したから、神に近づいた」などというのは、ずいぶんと傲慢な考え方だと思いますけどね。

自分勝手な思い込みを主張することが、あなたの豪語する議論の方法ですか?
私がキリスト者は神に似たものとなれるよう努力すると考えることが、何故、「わたしはこんなに努力したから、神に近づいた」といった傲慢な考えに至るんでしょうか?
「議論を行う上で、自説にこだわるのは当然です」だとお考えなのでしょう?
だとしたら、私が霊性と良心を同一視(これも極端な解釈ですが)しているとしても問題ないのではないですか?
それとも,自説に拘っていいのはあなただけなのですか?

根拠薄弱だとか,タレ流しだとか、そういった捨て台詞で終わることが,正しい議論の仕方だとは思えません。



 キリスト教では、人間は「肉体(ソーマ)」「生命(プシュケ)」「霊(プネウマ)」の3つを備えた存在だとされています(第一テサロニケ5:23やヘブル4:12などを参照)。霊(プネウマ)とは、元々は「風」とか「息吹」という意味です。旧約聖書の「創世記」(2:7)には、「 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息(πνευμα:プネウマ)を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とあります。アダムは地の塵から造られました。地の塵から造られたのは、アダムの肉体です。で、鼻から「命の息」が吹き込まれたわけですね。この「命の息」を生命(プシュケ)だとすると、アダムは肉体と生命とを備えただけの存在となり、アダムの中に霊はありません。霊性を備えている点が人間が「神に似た者として造られた」という理解なら、霊の入っていないアダムは動物と何ら変らないでしょう。神は霊であり、アダムが備えた霊も神から来たものです。神が入れない限り、アダムに霊が備わることはあり得ません。それとも、この「種」と名乗るキリスト者さんは地の塵の中に霊が含まれているとでもお考えなのでしょうか。

 イエスが神を「父(アッバ)」と呼んだとしても、被造物に過ぎない人間が創造主である神のようになれるわけではありません。どこまでいっても、創造主である神と被造物である人間とは別なのだというのがキリスト教の人間観の基本にあるのではありませんか。

 「だとしたら、私が霊性と良心を同一視(これも極端な解釈ですが)しているとしても問題ないのではないですか?」とは恐れ入りました。自分が納得できない限り、自説にこだわるのは当然です。とりあえずは自分で最も納得できる説を唱えているんですから。しかし、その自説が他人から批判されて、自分でもおかしいと納得できたら、改めるのに躊躇すべきではありません。そのような経緯で自分の考えを改めたからといって、誰もそれを「前後矛盾したことをいっている」とはいわないでしょう。むしろ、自分でもおかしいと認めざるを得ないような状況に陥っていながら、あくまでも自説にこだわって、白を黒というような態度は好ましいものではありません。多分、この「種」という人にはその区別なんかつかないんでしょうね。

8246 Re:議論のできない人たち 種 2007/04/15 04:46

流木さん
>  結局、こういう話になるわけですね。ご自分の議論のアラを指摘されると、「言葉尻をいちいち指摘」とかいい出すわけです。あなたのようなスタイルの人たちはこれまでも山ほどいましたよ。

と言うことは,あなたはキリスト教云々に関して議論したいのではなく,「アラ探し」をしたかったわけですね。
ああ,そうか。
だから、こんなにも細部に拘るんだ。
あなたにとって議論はアラ探しだったんですね。

>  水掛け論はあなたがやっていることですよ。根拠も示さずに、「わたしの考えではこうだ」で終わっているんですから。あれがあなたのおっしゃる議論なら、確かに言葉の意味などどうでもよいでしょう。感じたままのタレ流しなのですから。
>
根拠ですか, それはあなたにとって納得のいく根拠ですか?
アラ探しを議論と勘違いしているあなたに納得のいく根拠を提供して何を得るというのでしょうか?



 まぁ、この人の根拠っていうのは、この人が「感覚的に」そう感じたということなんですから、議論にはおよそなりませんね。ただの開き直りです。

 「アラ探し」というのは、全体としてはきちんとしている中で細かな不備(アラ)を探すことをいうわけです。その点、この「種」というキリスト者さんのいい分はアラだらけ、というか、そもそもアラしかないんですから、探すまでもありませんね。

 それにしても、「横暴」だとか「勝ち負けにこだわっている」とか「水掛け論」とか「アラ探し」だとか、いろいろとおっしゃっていますが、何一つまともな根拠は示せないようですね。万事「感覚」の方ですから、それも当然でしょうけど。

8247 Re:何が面白いんだか 種 2007/04/15 05:03

流木さん、

だって,例えが的を得ていないのだから、何だか気が抜けてしまっておもしろいでしょう?
「小さなことを大切にしない者は大きなこともできませんよ」って、議論上で小さなこと,大きなことって何ですか?
それを言うなら,「小さなことに拘っていては大きなことは出来ない」という考えはどうなるんですか?

「大、小」,「善、悪」,「勝ち、負け」,「高、低」など、これがあなたが他者に意見する時に使う考え方ですよ。
ところが反論が返ってくると急に「〜のようなこともあるでしょう」とか「〜のようなひともいるでしょう」とかって、濁しますよね。
これって,すごく都合よくないですか?

あなたの投稿によく,過去ログで議論された(あなたは議論とは考えていない議論でしょうが)ことを例題に取り出されてますが,過去の議論をそのまま私との議論に当てはめないで下さい。
あなたが過去に勘違いキリスト者と言い放った方達と私は違う人間です。
数名のキリスト者から得た考えなどを盾に、偏った思い込みで議論されても迷惑です。



 自分は彼らとは違うとでも? お笑いですね。この方のような議論のスタイルはこれまでにも何度も見られたものです。何一つ違いはしませんよ。ただただ感じたままをタレ流して、それで議論になっていると勘違いしているわけです。何しろ、根拠はこの方の「感覚」なんですから。なるほど、感覚的にどうかということも無視してよいものではないでしょうが、普通はその感覚的なものを論理的に説明しようとするのではないでしょうかね。「わたしの感覚ではこうだ」では議論になりません。こんな当たり前のこともわきまえずに、自分は議論ができていると思っているんですから、本当にオメデタイ人ですね。

 「反論」? この人は何か反論したつもりにでもなっているんでしょうか。この人は、相手のことを「横暴」だとか「勝ち負けにこだわっている」だとか「水掛け論」だとか「アラ探し」だとか中傷して来たに過ぎません。以前にも、相手のことを「心が狭い」だの「腐った人間」だの執拗に罵るしか能のない人がいましたが、あの人とこの「種」と名乗るキリスト者さんとは一体どれだけ違うというのですか。あれがこの人の「反論」とやら称するもののようですが、ずいぶんと「的を得た(的を射た)」「建設的な」ご議論ですね。ただ悪口を並べただけじゃありませんか。

 さて、自分が救われた(既に救われていたと知った)ことで嬉しくなって、ついつい他人に親切にしてまう場合、それは自発的な善行です。一方、「天の父が喜んでくれるから」とか「キリスト者としてふさわしく行動しなければ」とかいう理由で行う善い行いは、結局のところ、自分の両親を喜ばせるために「いい子」を演ずるようなものです。喜ばせたいのはあくまでも自分の両親であって、自分が親切にしてあげる相手のことは考えていません。相手は自分の「いい子」ぶりを両親に見せるための手段でしかないのです。こういうのは偽善というのではありませんか。この「種」というキリスト者さんのいう通りだとすると、キリスト者というのはそういう偽善のかたまりということになりますが、そういう認識で果たしてよいのでしょうか。

◆8424 Re:大坂さんへ 流木 2007/05/17 07:25

>ですから、他者に対してもクリスチャンの方だろうと、他の宗教の方だろうと、その信仰に於ける考えや、言動を批判しないように心がけています。

 他者の言動を批判しないように心がけているそうですが、この種という人が実際にやってきたのは以下のようなことですね。

◆8210 Re:奇蹟ゆえに神を信ずる人たち 種 2007/04/14 04:15

>初めまして、流木さん

>手厳しい、ご意見ですね。
>でも、これはあなたが求める議論の形であって、それをあなたの掲示板でもない場所で他者に求めることは出来ないでしょう。
>少々、横暴に感じますね。

◆8230 Re:議論のできない人たち 種 2007/04/14 18:13

>確かに議論途上で矛盾が生じたり、主張が変わったりすることで、問題自体の焦点がずれることがあるから、気をつけなくてはいけないけど、あなたがそれを主張できるのかな?と思うのですが。

◆8236 Re:議論のできない人たち 種 2007/04/14 19:07

>言葉尻をいちいち指摘することで建設的な議論になっているのでしょうか?
>思うことが私の自由であるならば、いちいち指摘して下さらなくていいですよ。
>それとも何も返信しないことで、私に負けたと思うのでしょうか?

>やはり、あなた自身が「議論は勝ち負け」だと思っているのではないですか?

>間違っているとか誤解を生み出そうだと思えば直すのはむしろ当然、などと考える辺り、あなたも相当に傲慢な人間ですよね。

>それとも、水掛け論もあなたにとっては議論なのかな?

◆8237 流木さんって、面白い人なのね 種 2007/04/14 19:12

◆8245 またまたタレ流しですかって、思い込みの激しい人ですね。 種 2007/04/15 04:37

>自分勝手な思い込みを主張することが、あなたの豪語する議論の方法ですか?

◆8246 Re:議論のできない人たち 種 2007/04/15 04:46

>あなたはキリスト教云々に関して議論したいのではなく,「アラ探し」をしたかったわけですね。
>ああ,そうか。
>だから、こんなにも細部に拘るんだ。
>あなたにとって議論はアラ探しだったんですね。

これで「他者の言動を批判しないように心がけている」つもりなわけですか。言行不一致も甚だしいといわざるを得ませんね。

>そのように書くことで、人の気持ちを逆なでることが目的なのだとしたら、それは悲しいことですが、

 他人の神経を逆なでしようとしているのはこの種さんの方じゃないんですか。



◆8425 Re:大坂さんへ 流木 2007/05/17 07:54

 この種という人は口先では「他人の言動を批判しないように心がけています」だとかご立派なことをいいつつ、実際にやっていることはそれとは正反対で、しかもそのことに何の矛盾も感じないという方のようです。

>大坂さんがクリスチャンであろうと、無かろうと面識も無い相手に対して馬鹿にするような書き込みというのは一般的に考えても失礼ではないでしょうか?

 大坂さんに対してこういう「もっともな」意見を述べるのであれば、その前にこの種という人物ご本人がそれを実践したらどうですかね。他人には「面識のない相手に対してバカにするような書き込みは失礼だ」といいつつ、先の過去ログでおわかりのように、ご自分は他人をあれこれバカにするようなことをいっているわけです。

 説教でいっていることは立派でも、実際にやっていることはダメダメというのでは、パリサイ人と同じではありませんか。

>私自身が自らの考えを矛盾と認めなければ子供じみているとお考えなら、それでも結構です。

>そのように書くことで、人の気持ちを逆なでることが目的なのだとしたら、それは悲しいことですが、私はそういった言葉も大坂さん自身として、受け止めます。


 「他人の言動を批判しないように心がけている」といいつつ、大坂さんの忠告をこのようにしか受け止めることができないわけです。大坂さんと私とではもちろん立場も考え方も違いますが、少なくとも、私の知る限り、大坂さんは他人の気持ちを逆なですることを目的とするような人ではありません。

 大坂さんにせよ、既にここを去られたマックPCさんにせよ、私とずいぶん激しいやり取りもされましたが、この種さんのように、「横暴」だの「アラ探し」だのと繰り返すようなマネはしてこられませんでしたよ。



◆8426 流木さん、お久しぶりですね。 種 2007/05/17 09:29

長い間、書き込みにいらっしゃらないからどうしたかと心配していました。
久しぶりに戻ってこられてパワー全開と言ったところでしょうか?

>他人には「面識のない相手に対してバカにするような書き込みは失礼だ」といいつつ、先の過去ログでおわかりのように、ご自分は他人をあれこれバカにするようなことをいっているわけです。

これは解せません。
私がどこで、馬鹿にするようなことを書いたのでしょうか?
あなたは過去ログから抜粋するのが上手なのですから、抜粋してみて下さい。
本当に、私が馬鹿にした箇所があれば、お詫びしたいと思いますから。

>  「他人の言動を批判しないように心がけている」といいつつ、大坂さんの忠告をこのようにしか受け止めることができないわけです。

私は、先の投稿において大坂さんをありのままに受け止めております。
尚、大坂さんが書いてこられたことが忠告であったとは、あなたの解釈ではありませんか?

>  大坂さんにせよ、既にここを去られたマックPCさんにせよ、私とずいぶん激しいやり取りもされましたが、この種さんのように、「横暴」だの「アラ探し」だのと繰り返すようなマネはしてこられませんでしたよ。

よほど、癪に触られているようですね。
文面が感情的すぎて、何を伝えたいのか理解できませんでしたが、久しぶりに戻ってこられて、私自身少し嬉しかったので返信いたしました。



◆8427 Re:大坂さんへ 種 2007/05/17 10:36

流木さん、

以前から何度かお伝えしていますが、ご自分で都合の良いように投稿内容を改竄するのはやめて下さい。
私は「その信仰に於ける考えや、言動を批判しないように心がけています」と書いたのですよ。
それを下記のように;

>  他者の言動を批判しないように心がけているそうですが、この種という人が実際にやってきたのは以下のようなことですね。

と、自説を通しやすいようにして、あなたの気に入らなかった投稿内容をズラズラと下記のように列記するのです。

(中略)

何が目的なのか、さっぱり解せません。
以上のような投稿を私がしたことは認めますが、これが全てではなく、この文節に至るまでの前後の文章があり、あなたからの返信があります。

お伝えしておきますが、あなたのこういった投稿を読んで、私をそういう人だと思う人たちがたくさん出現したとして、私には何ら影響はありません。
そういったことを承知の上でこのような投稿をされているのだとしたら、これは単なる嫌がらせでしかありませんが、いかがなのでしょう?

私には、どうしてあなたがギャラリーに助けを求めるような書き方をしたがるのかが、分かりません。
そのようにしなくとも、ギャラリーはそれぞれの思考でもって私という人間を想像して下さっているでしょう。

とにかく、この掲示板の方に訴える形をとらないで、私あてに直接投稿して下さい。 対処の仕様がありません。



◆8428 流木さんへ 種 2007/05/17 11:37

以前にも投稿したことですが、流木さんが長らく参加されていなかったので、もう一度投稿します。

あなたが言う議論はARGUMENTなのです。
つまり、理解を超えてとことん追求、批判し合うところに意義を見いだすものです。 これに引き換え、私の言う議論はDISCUSSIONです。
異見に対して理解や受容を認めながら、結果を見いだそうとします。

つまり、これ以上のあなたと私の議論はギャラリーに取って漫才のようなものでしかないように思われるのです。

私が一番困ったのは、あなたが提議された問題とは全くな違ったところで議論を展開されるときです。
これは、本来提議している側の意向から外れる行為ですが、それさえもあなたは「分からないことはとことん追求する」と正当化されるわけです。

ルールも何もなく、常に自己の満足のために他者を追求しているにしか過ぎない考えを私なりに受け止められるところは了承し、それなりに議論を重ねてきましたが、ここに至って、あなたは議論という形を取らずに私に対して攻撃をかけて来ていますから、これはもう議論の余地はありません。

今後、また別の議題が提示され、それぞれに投稿を重ねるでしょうが、私はあなたの意見に何ら触れることはしません。
あなたが、今後もずっと私という人物を攻撃したいのなら、どうぞご自由になさって下さい。

私には神以外に恐れるものは何もありませんから。



 「私には神以外に恐れるものは何もありませんから。」とかクリスチャンが口にする場合は大抵負け惜しみなんですよね。議論に勝ち負けはないので実際には「負けて」いるわけではありませんが、ご本人の主観においては「負けて」いるのです。きちんと反論できないことで、自分が議論に「負けた」ような気分になって、悔しいからこんなふうに神を持ち出すわけです。「主の名をみだりに唱えてはならない」というのを知らないんでしょうかね。

◆8429 Re:流木さんへ 流木 2007/05/17 23:15

> これに引き換え、私の言う議論はDISCUSSIONです。 > 異見に対して理解や受容を認めながら、結果を見いだそうとします。

 この人のやっている「議論」なるものはディスカッションでもありません。何しろ、この人の主張の根拠は「感覚的にそう思ったから」なんですから。この人がやっているのは、ご自分が感じたままのタレ流しに過ぎません。「異見を受容」?初対面の相手を「横暴だ」と罵り、相手の議論を「アラ探し」だの何だの中傷することがこの人にとっては「異見の受容」なわけですか。バカバカしくて、お話にもなりませんね。

> ルールも何もなく、常に自己の満足のために他者を追求しているにしか過ぎない考えを

 おやおや、この人は自分が開設したわけでもない掲示板で相手に議論のルールを求めるのは「横暴だ」と非難されたわけですが、もうすっかりお忘れのようですね。管理人さんのおっしゃったように、「良識をもって」やりとりすればいいんでしょう。違うんですか?

>あなたは議論という形を取らずに私に対して攻撃をかけて来ていますから、これはもう議論の余地はありません。

 ご自分の言行不一致を指摘されると、「攻撃」ですか。「攻撃」されるようなことをやっているのは、一体誰なんですかね。

> 今後、また別の議題が提示され、それぞれに投稿を重ねるでしょうが、私はあなたの意見に何ら触れることはしません。

 結局、過去ログを挙げられて、まともな反論ができないというだけでしょう。そうやって逃げるわけです。今までもこの種というキリスト者さんと同じように、「もうあなたにはレスをしません」とかいった人たちがいましたが、そういいつつもアレコレいってきたりするんで、実に見苦しい限りです。守れないのなら、最初から「もう何もいいません」とかいわなければいいのです。

> あなたが、今後もずっと私という人物を攻撃したいのなら、どうぞご自由になさって下さい。

 「人物」が問題なのではなく、この種という人のやっていることが問題なんですけどね。種という人物には私は何の興味も関心もありません。私の興味・関心は言動のパターンであって、人物などどうでもよいことです。

 意見交換と人格攻撃との区別もつかないような人には、「罪を憎んで人を憎まず」という諺の意味は多分理解できないでしょう。

> 私には神以外に恐れるものは何もありませんから。

 この人は神も畏れてはいませんけどね。何しろ、被造物に過ぎない人間が創造主である神に近づけるとか思っているわけですから。



◆8432 Re:大坂さんへ 流木 2007/05/17 23:44

> 以前から何度かお伝えしていますが、ご自分で都合の良いように投稿内容を改竄するのはやめて下さい。

 過去ログそのままを載せるのが「改竄」ですか。「改竄」というのは、元の文章を勝手に直してしまうことですよ。一体どこが変更されているというのでしょうか。

> 何が目的なのか、さっぱり解せません。

 この種という人がやっていることが言行不一致だという事実を指摘しているんですよ。大坂さんにエラそうに意見するのなら、その前にご自分が実践してみせたらどうなんでしょうかね。ご自分ができもしないのなら、エラそうに他人の言動を批評などしないことです。

> 以上のような投稿を私がしたことは認めますが、これが全てではなく、この文節に至るまでの前後の文章があり、あなたからの返信があります。

 発言番号も示しているんですから、全文が読みたければ読めるじゃありませんか。引用というのは一部を載せるから引用なのですよ。全部載せたら転載です。

> お伝えしておきますが、あなたのこういった投稿を読んで、私をそういう人だと思う人たちがたくさん出現したとして、私には何ら影響はありません。

 この種という人は結局、ご自分の言行不一致を認めようとはしないんですね。

> そういったことを承知の上でこのような投稿をされているのだとしたら、これは単なる嫌がらせでしかありませんが、いかがなのでしょう?

 ご本人が「何ら影響はありません」といっているのに、なぜ「嫌がらせ」になるのでしょうか。ご本人が嫌がるから嫌がらせというのですよ。ご本人が平気なことがなぜ「嫌がらせ」なんですか。この種というキリスト者さんのおっしゃることは全く意味不明ですね。

 「何ら影響はありません」といいつつ、この種というキリスト者さんは実は不都合な事実を指摘されて困っているというのが本当のところなのではありませんか。だから、「嫌がらせ」だとかいい出すのです。しかし、指摘されて困るようなことを述べたのはご本人なわけですよ。ご本人の発言を引用して「嫌がらせ」になるのなら、オリジナルのご本人の発言も「嫌がらせ」となりそうなものですが、ご本人がご本人に嫌がらせをしているんでしょうかね。意味不明ですね。

> 私には、どうしてあなたがギャラリーに助けを求めるような書き方をしたがるのかが、分かりません。

 助けを求める?なぜ、助けなど求める必要があるんですか。過去ログを引用されて不都合な事実を指摘されたことで、助けてほしいのはこの種という人の方でしょう。

> とにかく、この掲示板の方に訴える形をとらないで、私あてに直接投稿して下さい。
> 対処の仕様がありません。


 掲示板は、不特定多数が覗き、書き込みが可能な場です。相手に「私あてに直接投稿して下さい」と求めるのなら、メールでやりとりすればよいのです。



【用語解説】
 国語辞典によれば、改竄(かいざん)とは、

>変造 変改 書き変える 書き加える 改める ⇒関連語あらためる【改める】(『必携 類語実用辞典』三省堂)

>[名]スル《「竄」は文字を変える意》文書などの字句を直すこと。特に、悪用するために、勝手に直すこと。「登記簿を―する」(『大辞泉』JapanKnowledge)

ということであり、原文をそのまま引用したことを「改竄」とはいいません。どうも、この種という人は自分がちゃんと意味もわかっていない言葉を使いたがるようですね。前後の文脈から切り離して引用されたことで元々の意味が変わってしまうというのなら、「恣意的な引用」とでもいえばよいのです。

◆8435 Re:流木さん、お久しぶりですね。 流木 2007/05/18 00:14

> これは解せません。
> 私がどこで、馬鹿にするようなことを書いたのでしょうか?


 この人はご自分が「バカにしていない」と主観的に思っていたら、相手もそう受け取るものだとお考えのようですね。まるで児童虐待で逮捕されて、「しつけのつもりだった」と弁解する親のようです。

> あなたは過去ログから抜粋するのが上手なのですから、抜粋してみて下さい。

 といいつつ、実際に過去ログから抜粋すると「改竄」だとか「嫌がらせだ」とかいい出すわけですから、本当に意味不明なご発言ですね。

> 本当に、私が馬鹿にした箇所があれば、お詫びしたいと思いますから。

 本心ではなく、形だけ謝罪などされても何の意味もありません。

> 私は、先の投稿において大坂さんをありのままに受け止めております。

 物事を「ありのままに受け止め」られるとするのは、逐語霊感訳説と同じ立場ですよ。この種という人はそういう立場の危険性をここで訴えたいとおっしゃっていたはずですが、いつの間にお考えが変わられたのでしょうか。

> 尚、大坂さんが書いてこられたことが忠告であったとは、あなたの解釈ではありませんか?

 解釈抜きに物事を「ありのままに受け止め」られるなどというのは幻想です。そういう幻想の延長線上に聖書の言葉を「文字通りに信じています」という立場が出てくるのですよ。結局、この種という人はご自分が批判しようとした対象と同じ立場に立っておられるわけですね。

> よほど、癪に触られているようですね。

 この種という人の話には、中身がないからですよ。あるのは、「横暴」「アラ探し」といった言葉だけです。本当に伝えたい中身が何もありません。その点では、立派な信仰者だと誉められたいだけでここに書き込みを続けているlightofwayさんと同じです。その証拠に、この種というキリスト者さんは最初は「信仰は恵みではなく、ギフトです」といっていたのに、いつの間にか「信仰のきっかけは恵みです」とか立場が変わっています。あの調子だと、1年もすると、「信仰は恵みです」とかいい出しかねませんね。

> 文面が感情的すぎて、何を伝えたいのか理解できませんでしたが、

 もともと、この種という人には相手のいい分を理解する気持ちも能力もないんじゃありませんかね。自分のいいたいことだけいって、その根拠を問われると、「感覚的にそう思うから」で済ませてしまう没論理的な人ですから。



◆8436 本当に必要なこと 流木 2007/05/18 00:56

> 本当に、私が馬鹿にした箇所があれば、お詫びしたいと思いますから。

 本当に必要なのは、「お詫び」ではなく、この種という人がまともに議論できるようになることです。この種というキリスト者さんは、他人の言動に対しては「もっともな」批評をしながら、ご自分はちっとも実践しようとせず、そのことに何の矛盾も感じていない人です。いい分が正しいとかどうとかいう以前に、議論のやり方から勉強した方がいいと思いますね。

 というか、海外に在住しておられるのなら議論をする機会も結構あるはずなのですが、この掲示板のような調子で大丈夫なのでしょうか。主張の根拠を問われて、「感覚的にそう思うから」と平然と答えるようでは相手は呆れてしまうでしょうね。

 私がlightofwayさんにアレコレいったのも、いい続けることでひょっとしたらlightofwayさんがご自分の議論のおかしな点に気がついてくれるのではないかと淡い期待を抱いていたからですが、結局、ムダなことでした。あの人には訴えたいことなど、実は何もなかったからです。訴えたいことが何もない人と議論をしても、仕方ありませんからね。だから直接あの人あてに投稿するのは止めたのです。



◆8438 ダライラマ14世、新聞掲載記事からいただいた言葉 種 2007/05/18 12:49

先日、ダライラマ14世が訪米されました。

私はダライラマ14世という方についてほとんど皆無に等しく存じ上げませんでした。
掲載内容を呼んで初めて、この方がチベットの方であり、生ける仏であること、また今は自国から追放されていること、政治に関わる諸々のことなど、知った次第です。

私は、師が言った「Jew good, Christian good, Hindu good, Muslim good. All religions basically teach the same thing - be happy, be nice to people, be nice to yourself.」

この言葉に同感であり、「ぬるま湯的な信仰相対主義」だと呼ばれても自らの信仰を守り、それぞれの投稿に真摯に参加させていただこうと考えます。

私に対して、数々の反論がありますが、それらは何ら私に影響するものではありません。
個々の相違を認めずに自説を通して他者を変えようとする言動に断固反対し、戦っていきます。

私を非常に矛盾した考えの持ち主であると解釈されている方もいますが、説明の方法、また理解しやすいようにと言葉や表現を変えたことを「矛盾」とは呼びません。
当人が誤解、また偏見を持って理解していることに気がついていないのです。

また、掲示板に参加する方々を「人」とは思わず「研究材料」として見ている方がいます。
人格を全く無視した立場で議論されることに、何ら罪悪感を感じていません。 気をつけて下さい。

また、自由をはき違えて理解していらっしゃる方もいます。
「自由」とは何をしてもいいと考える方です。
自由とは、何らかの決まりのもとに成り立つものであって、何の決まりもない状態は無法状態であり、非常に危険であることを知りません。
この掲示板にはルールがありません。
しかし、「良識に従って」というルールが一つだけ存在し、それは個々の良識に従うものであると理解しております。

個々の異見の受容を求めると共に、私自身も受容し、また新たな学びにしていこうと考えております。



◆8439 恥の上塗りですね 流木 2007/05/18 13:19

> 私に対して、数々の反論がありますが、それらは何ら私に影響するものではありません。

 要するに、他人の意見など聞く耳持たないということでしょう。

> 個々の相違を認めずに自説を通して他者を変えようとする言動に断固反対し、戦っていきます。

 意見が違うから議論するんですよ。意見が同じなら議論などする必要はありません。議論を通じて自分の考えも相手の考えも変わっていきます。そんなことは常識じゃありませんか。

> 私を非常に矛盾した考えの持ち主であると解釈されている方もいますが、説明の方法、また理解しやすいようにと言葉や表現を変えたことを「矛盾」とは呼びません。

 この種のいう人の言行不一致は「説明の方法」や「理解しやすいように言葉や表現を変えた」ようなことではありません。完全なすり替えですね。

> 当人が誤解、また偏見を持って理解していることに気がついていないのです。

 これって、ご自分のことじゃないんですかね。

> また、掲示板に参加する方々を「人」とは思わず「研究材料」として見ている方がいます。
> 人格を全く無視した立場で議論されることに、何ら罪悪感を感じていません。
> 気をつけて下さい。


 こういうのが掲示板の参加者に「助け」を求める行為なわけです。まともに反論できないから、こうやってギャラリーに助けを求めているに過ぎません。

 研究対象にすることが人格無視なら、学者は研究できませんよ。全くバカバカしい話ですね。



◆8441 議論の意義 流木 2007/05/18 18:26

> 個々の相違を認めずに自説を通して他者を変えようとする言動に断固反対し、戦っていきます。

 まぁ、勝手にご自分が妄想の中で作り上げたワラ人形と戦ったらいいんじゃありませんか。誰も邪魔なんかしないでしょうから。もっとも、そういう言動と戦って自説を通して相手を変えようとしているのはこの種という人ですから、この時点で矛盾しまくりなわけですけどね。

 いずれにせよ、これでこの種というキリスト者さんが議論を「勝ち負け」だと誤解していることがはっきりしたわけです。戦うってことは、勝ち負けがあるわけですからね。つまり、この人が「わたしはあんな人たちとは違います」とおっしゃったlightofwayさんたち勘違いキリスト者さんと結局同じ立場だったわけです。

 繰り返しますが、議論は意見の交換であって、交換に勝ち負けはありません。議論の意義は最終的に自分のいい分が通るかどうかという点にあるわけではなく、議論の過程を通じて自分のいい分の不充分な点が明らかになるところにあります。場合によっては最初の自分の立場は間違いだとして捨てる必要が出るかも知れませんが、それは別に議論に「負けた」というわけではありません。もし、議論をしていなかったら、自分のいい分のおかしな点には気がつかなかったわけですから、議論の相手から容赦なくおかしな点を指摘されるのは大いに歓迎すべきことでしょう。

 もっとも、自分のいい分というのは、とりあえずその時点で自分にとって最も納得できる考え方なわけですから、相手からの批判に納得がいかない限り、食い下がるのは当然のことです。食い下がってみて、やはりこれはダメだということになれば、最初の自分のいい分は捨てることになります。大事なのは、自分のあれこれのいい分を死守することではなく、自分のいい分をより納得のいくものにブラッシュアップしていくことです。

 それが気に入らなくて、他人からいろいろいわれるとムキになって「断固反対して、戦っていきます」とか大見得を切るような感情的な人物は、最初から議論などしなければよいのです。掲示板に書き込みなんかせずに、自分のWebサイトで好きなことを好きなだけいえばよいのです。そうすれば、誰もその人の邪魔なんかしませんからね。



◆8442 Re:議論の意義 種 2007/05/18 20:47

過去ログにける自らの投稿をずっと読んできました(まだ最後までいっていませんが)。 私の投稿の仕方に対し、流木さんが丁寧に説明して下さっていた箇所がたくさんあり、また、私自身が非常に感情的な文面を投稿していたことにも気づきました。

私の始めの頃の投稿は良かったのですが、流木さんより反論をいただき、その反論に対して全く受容できていませんでした。

私は、自分では冷静に対処していたと信じていましたが、かなり高圧的な態度になっていたり、また闇雲に反論する場面も見受けました。

今、こちらは午前一時半です。
気持ちを落ち着けて、第三者的な目で自己の投稿、また他者の投稿を読みふけるうちに、自分の愚かさ、また愛のなさに気づき、神に無条件に愛されていることにうつつを抜かして、わがまま勝手な行動を取っていたと反省しています。

議論の方法、やり方についてネットを使用して学んできました。
今後は、倫理的に、建設的な議論が出来るようにしたいと思っています。

ご指摘の「矛盾」についてですが、受容をしていくことを課題としているのに、全く出来ていなかったこと、それが最大の矛盾であったと思います。

尚、これは別に流木さんを追求するものではありませんが、過去に於ける投稿を読み帰ってみて、若干、疑問に思った箇所がありましたので、引用します。
もし、お答えいただければ幸いです。

8214の投稿です。

>また、信仰は恵まれるものではありません。
>信仰とは神からのギフトです。
>受け取るか受け取らないかはそれぞれの自由です。

 「恵まれるもの」も「ギフト」も同じですよ。受け取ることも拒否することもできます。

これは流木さんから私への返信ですが、この時点では流木さんは「恵まれること」と「ギフト」は同じものであり、受け取ることも拒否することも出来る、と書いています。 しかし、その後の話の展開では確か、信仰は恵まれるものであり、受け取るか受け取らないかの選択肢はないとの考えを説いておられました。これはどのように解釈すればよろしいのでしょうか?

一度は流木さんとの意見交換を断ち切ろうと考え、そのような投稿をいたしましたが、自己の過失に気づき、このようにまた返信しています。
種々の非難の声もあろうかと思いますが、返信くださると幸いです。



◆8447 Re:議論の意義 lightofway 2007/05/19 22:29

>  いずれにせよ、これでこの種というキリスト者さんが議論を「勝ち負け」だと誤解していることがはっきりしたわけです。戦うってことは、勝ち負けがあるわけですからね。つまり、この人が「わたしはあんな人たちとは違います」とおっしゃったlightofwayさんたち勘違いキリスト者さんと結局同じ立場だったわけです。
>
議論は意見の交換、勝ち負けではない。
間違いや批判されることをきちんと受け止めて、直したり、主張をかえればいいので、それは、勝ち負けではない。

それはそうですが、それなら、感情的に侮蔑的なことばや、ギャラリーに自分の意見を確かなものと印象付けるような、扇動的なことを言うのは、やはり、勝負を意識しているからですね。

勘違いキリスト者という根拠は何ですか?ただ、信じるものと信じないものの違いだと思いますけれど。信じなければ「勘違い」とか「何も主張がない」とか決め付けてしまうのも当然です。

しかし、信じるものからすると、キリストについて、真理について、真実について、聖書の内容について、大分勘違いをしておられるので、色々書き込みましたが全然通じないですね、わけが分からないことは、勝手に相手のせいにしている。お互いどうも、平行線ですね。さて、

私の神である主は、奇跡と超自然の愛の神、聖書のことばの通りの神です。それは、創世の昔から変わらず、永遠の未来まで、すべてを創り歴史を支配する神です。ことばによって聖霊によってこの世のあらゆる問題を解決し、人間の祝福と幸せを心底願っておられるお方です。

もし、まともに議論をするなら、結局、こういう神の存在の有無を論じたり、信じる信じないの問題になって、果てしない平行の
論議になってしまうでしょう。

ですから、今現在、主なるキリストが、みことばによる奇跡や癒しを通して、人々を変え、神を信じる幸いな人生に変えられた事などを証するほかないのです。それを信じようと信じまいと、ご勝手ですよ。

これでは、本当に議論にならず、いらだたせてしまうのは、仕方がありませんね。あしからず。(^^)/



 毎度毎度の見事なまでの勘違いぶりですね。まぁ、この手の人が教会でエラそうな顔をしているうちは、日本でキリスト教が広まることはほぼ確実にないでしょう。「勘違いキリスト者という根拠は何ですか?」−−一体何度いえばわかるのでしょうか。ご自分の信仰をご自分の力で獲得したものだと勘違いしているからですよ。これが最もはなはだしい勘違いです。キリスト者にとって、「主」であるはずの神を自分に奇蹟という名の現世ご利益をプレゼントしてくれる「僕(しもべ)」扱いする以上の勘違いがあるなら教えて下さい。

◆8448 Re:議論の意義 流木 2007/05/19 23:02

*種さん

> 尚、これは別に流木さんを追求するものではありませんが、過去に於ける投稿を読み帰ってみて、若干、疑問に思った箇所がありましたので、引用します。
> もし、お答えいただければ幸いです。
>
> 8214の投稿です。
>
> >また、信仰は恵まれるものではありません。
> >信仰とは神からのギフトです。
> >受け取るか受け取らないかはそれぞれの自由です。
>
>  「恵まれるもの」も「ギフト」も同じですよ。受け取ることも拒否することもできます。
>
> これは流木さんから私への返信ですが、この時点では流木さんは「恵まれること」と「ギフト」は同じものであり、受け取ることも拒否することも出来る、と書いています。
> しかし、その後の話の展開では確か、信仰は恵まれるものであり、受け取るか受け取らないかの選択肢はないとの考えを説いておられました。これはどのように解釈すればよろしいのでしょうか?


 種さんが「ギフト」という言葉を用いられる以前に、誰かが信仰を「ギフト」と呼んだ例を私は知りません。私が知っているのは、信仰を「神様から恵まれたもの」とか「神様からのプレゼント」とか呼んだ例があったということです。私の理解した範囲では、「恵まれたもの」=「プレゼント」であり、両者に違いがあるとは思えませんでした。

 種さんが「信仰は恵まれるものではなく、ギフトでしょう」とおっしゃったことを、「ギフト」=「プレゼント」と捉え直して、「恵まれるもの」(=「プレゼント」)=「ギフト」なんだから、両者に違いはないでしょうと申し上げました。これが

>「恵まれるもの」も「ギフト」も同じですよ。

と申し上げたところに当ります。

 しかし、キリスト者の中に「わたしの信仰は神様から恵まれたものですから捨てられません」とおっしゃる方がおられるのも事実ですし、そのことを想い出したので、種さんは「恵まれるもの」=「捨てられない」、「ギフト=捨てられる」という区別をひょっとするとされているのかなと思って、

◆8218 恵まれたものとギフト 流木 2007/04/14 09:30

> もっとも、「信仰は恵まれたもので、勝手に捨てることはできません」とおっしゃるキリスト者さんもおられますね。そういう人の場合、「恵まれたもの」と「ギフト」とは区別されているのでしょう。ギフトはいったん受け取ったあとで捨てることもできますからね。

と述べました。「そういう区分を種さんが採用されているのであれば、種さんの先の『信仰は恵まれるものではなくて、ギフトでしょう』というご発言も理解できますけど、そういうことなんですか」という話です。ここで「ギフトは捨てられる」というのは、いったん受け取ったギフト(贈り物)であっても、不要となって捨てることができるという一般論を踏まえています。もっとも、信仰は、いらなくなった家具や家電製品などとは違って、誰かに譲ったりできませんから、「ギフト」と呼ぶのもあくまでも喩えに過ぎませんが。

 以降の私の投稿は、「恵まれたもの=捨てられないもの」、「ギフト=捨てられるもの」という区分を採用した上で、「わたしの信仰は神様から恵まれたもので捨てられません」とおっしゃる一部のキリスト者さんのお立場を仮にとったとき、種さんのおっしゃる信仰は捨てられる(受け取るか受け取らないかを人間の側が自由意志で選択できる)というお立場がどう見えるのかを論じたものです。

 上記の「わたしの信仰は神様から恵まれたもので捨てられません」という立場は、理屈で論理的に納得したわけでもないのに、常識に反するような教理(三位一体説やイエスの死者の中からの甦りなど)をキリスト者に「なった」人たちがすんなりと受け容れることが可能となるのはなぜなのかをそれなりにうまく説明してくれるものです。いろいろと勉強してキリスト教のアレコレの教理にいくら詳しくなったところで、それでその人がキリスト教信仰を持つようになるわけでもないでしょう。非キリスト者のキリスト教研究者もいますし、キリスト者であるためにキリスト教の教理に詳しくなる必要などないからです。かつて大坂さんがおっしゃったように、「文字の読めないお婆さんでもクリスチャンでいられる」わけです。イエスをキリストだと心で信じて口で告白する人、心底から受け容れることができる人はキリスト者なのであり、三位一体説その他のことはいってみれば枝葉のどうでもよい話でしょう。

 しかし、一方でそうやってキリスト者に「なった」あとで、いろいろな事情でキリスト教信仰から離れてしまう人たち、棄教する人たちの存在を説明することについては、「信仰は神様から恵まれたもので捨てられません」という立場は必ずしも十分な説得力を持つとはいえません。何しろ、実際にある人たちは信仰を捨てているわけですから。

 むろん、私も種さんとのやりとりの中で述べたように、「ある人が自分の信仰を捨てられるものなら、その人は最初から信仰を恵まれていなかったのだ」という解釈は確かに可能なわけですが、それは結果論に過ぎないともいえるでしょう。結果としてどこかの時点でその人がキリスト者であることを「やめて」しまえば、その人の信仰は神様から恵まれたものではなかったという話になるわけですが、じゃあ、その人のそれまでの「信仰」は一体何だったのかという疑問も当然出てきます。本人の単なる錯覚だったのでしょうか。それこそ「自己洗脳」みたいなものだったのでしょうか。この点については私はまだよくわかりませんから、「わたしの信仰は神様から恵まれたものですから捨てられません」とおっしゃる一部のキリスト者さんのお立場を全面的に採用するわけにもいかないのです。



◆8450 Re:議論の意義 流木 2007/05/19 23:23

 私の立場は、「信仰は、自分の自由意志で選び取ったものではなく、神様から一方的に恵まれるものでその点では人間の側には拒否などできないけれども、いったん受け取った信仰は捨てることができる」といえばいいのかも知れません。「受け取りを拒否できなくても、あとから捨てられる」といい換えてもよいでしょう。

 信仰は人間が自分の力で獲得したものではなく、神から一方的に与えられるものだが、一部のキリスト者さんのおっしゃるように決して「捨てることができない」わけではなく、捨てられるのではないかということです。この立場は現時点では最も納得ができるという意味で暫定的なものであって、もっと納得のいく説明があれば私はこの立場を喜んで捨てます。

 種さんの「受け取るか受け取らないか自由」というお話を伺って私が覚えた違和感は、「受け取るか受け取らないかが自由なら、その人の信仰はその人が自力で獲得したものとなるのではないか」ということでした。信仰が自力で獲得したものであれば、獲得した自分は獲得しなかった人たちよりも立派なのだとか優れているのだとか勘違いする人たちが出てくるでしょう。そう考えて、それはおかしいのではないかと感じたわけです。むろん、これは論理的にはそうなるだろうという話であって、種さんが実際にそうなのかどうかとは関係のない話です。突き詰めていけばそういう話になるのではないかという疑問を抱いたに過ぎません。



◆8451 勘違いキリスト者さんの勘違いぶり 流木 2007/05/20 00:22

> 議論は意見の交換、勝ち負けではない。
> 間違いや批判されることをきちんと受け止めて、直したり、主張をかえればいいので、それは、勝ち負けではない。


 議論が勝ち負けではないのは、議論が意見の交換だからです。交換に勝ったとか負けたとかはないでしょう。野菜と魚とを交換して、一体どちらが勝ったことになるのでしょうか。交換に勝ち負けを持ち出すのは、交換の本質からいっておかしいわけです。

 とはいえ、「議論に絶対勝つ方法」とかいう本もあったりしますね。あの場合は、自分のいい分を相手に受け容れさせる必要がある場合に、どうやれば自分の説を押し通せるかを説いていて、自分の説を受け容れさせることができれば「勝ち」、自分の説を受け容れさせることができなければ「負け」と呼んでいるわけですが、あの場合の「勝ち・負け」というのは「成功・失敗」ということでしょう。自分の説を相手に飲ませることに成功した、失敗したというのを「勝った・負けた」といっているのであって、言葉の本来の意味での勝ち負けとは違います。

> それはそうですが、それなら、感情的に侮蔑的なことばや、ギャラリーに自分の意見を確かなものと印象付けるような、扇動的なことを言うのは、やはり、勝負を意識しているからですね。

 議論が意見の交換である以上、そこに勝ち負けはそもそも存在しません。存在しもしない勝負をなぜ意識する必要があるのでしょうか。

> 勘違いキリスト者という根拠は何ですか?

 ご自分の信仰をご自分の力で獲得したものだと勘違いしているからですよ。これが最もはなはだしい勘違いです。ご自分の力でご自分の信仰を獲得したと勘違いしているから、信仰を恵まれていない人たちや他の宗教を信じている人たちをキリスト教信仰の高みから見下ろしてバカにできるのです。神を畏れ神を誇るのではなく、傲慢に自分を誇ることになります。

 さらには、自分が世間的、この世的な意味でも優れていた(優れている)とか勘違いしている人たちもいます。パウロの時代にもそういう勘違いをしているキリスト者がいて、パウロが「あなた方が信仰を恵まれたときのことを思い出してご覧なさい。あなた方は知恵があったわけでも、財産があったわけでも、地位があったわけでもないでしょう。むしろ、世間的にはいてもいなくてもよいような存在だったではありませんか。そんなあなた方を神は選んで信仰を恵んで下さったのですよ」と戒めていますね。

 もっといえば、聖書に書かれていることを「事実」だと勘違いしている人たちもいます。聖書は信仰の書であって、その価値はそこに書かれていることが事実だという点にあるわけではありません。事実であることに価値があるのなら、電話帳でもありがたがっていればよいのです。聖書に書かれていることを「事実」だと勘違いするから、天地創造説の立場から進化論を否定しようとかすることになります。

 lightofwayさんの場合、上記のいずれにも該当しますから、典型的な勘違いキリスト者だといえるでしょう。

>ただ、信じるものと信じないものの違いだと思いますけれど。信じなければ「勘違い」とか「何も主張がない」とか決め付けてしまうのも当然です。

 私がキリスト者全員を「勘違い」と呼んでいるのならそういう解釈も可能でしょうが、私が「勘違い」キリスト者と呼んでいるのはキリスト者の中の一部の人たちだけです。

 なお、「何も主張がない」というのは、最初にいっていたから主張の中身が無節操にどんどん変わっていくからです。過去ログを読めば、このlightofwayと名乗るキリスト者さんが前後矛盾しまくる主張を繰り返した例を挙げることができます。

> しかし、信じるものからすると、キリストについて、真理について、真実について、

 この人は「真理」とか「真実」とかいう言葉をどんな意味で使っているのかさえきちんと定義できません。雰囲気だけで言葉を使うのはいい加減に止めてほしいものですね。

>聖書の内容について、大分勘違いをしておられるので、色々書き込みましたが全然通じないですね、わけが分からないことは、勝手に相手のせいにしている。お互いどうも、平行線ですね。さて、

 このlightofwayという人物は、自分は聖書を「文字通りに」正しく理解しているけれども、自分と違う解釈をしている連中は全部間違っているのだ、救われないのだとかおっしゃるわけです。しかし、聖書に限らず、書かれたものを「文字通りに」読むことなど人間にはできません。読むということは、必ずその人の解釈が入ります。「聖霊の導きで正しく読める」という人もいますが、その聖霊に導かれているはずのキリスト教会がこんなにもさまざまな教派に分裂している状況を一体どうやって合理的に説明できるのでしょうか。

 lightofwayさんの聖書の解釈はlightofwayさんにとって最も納得できるものであり、私の解釈は私にとって最も納得のいくものです。 lightofwayさんにとっての「真実」はlightofwayさんにとっては疑い得ない本当のことでしょうが、それは他人にとってもそうだとはいえません。「真実」は人の数だけあるのです。無数の「真実」の中でどれかが正しいわけではなく、どの「真実」もその人にとっては本当のことです。にもかかわらず、lightofwayさんにとっての「真実」を万人が認めざるを得ない「事実」であるかのように勘違いしてアレコレおっしゃっているから、批判されているのです。批判されているのは、lightofwayさんの聖書の解釈そのものではなく、lightofwayさんがご自分の聖書の解釈のみが聖書の「文字通り」の解釈であり、他は全部間違いだとしている点なのですよ。つまり、自分にとっての本当のこと=「真実」を、誰にとっても本当のこと=「事実」だとしているところが問題なのです。

> 私の神である主は、奇跡と超自然の愛の神、聖書のことばの通りの神です。それは、創世の昔から変わらず、永遠の未来まで、すべてを創り歴史を支配する神です。ことばによって聖霊によってこの世のあらゆる問題を解決し、人間の祝福と幸せを心底願っておられるお方です。

 ですから、それはlightofwayさんにとっての「真実」でしょう。それを誰もが認めざるを得ない「事実」だとして他人に押し付けるから批判されるんですよ。

> もし、まともに議論をするなら、結局、こういう神の存在の有無を論じたり、信じる信じないの問題になって、果てしない平行の
> 論議になってしまうでしょう。


 なりませんよ。lightofwayさんは何が問題となっているのかも全く理解してはおられないわけです。

> ですから、今現在、主なるキリストが、みことばによる奇跡や癒しを通して、人々を変え、神を信じる幸いな人生に変えられた事などを証するほかないのです。それを信じようと信じまいと、ご勝手ですよ。

 ですから、それはlightofwayさんにとっての「真実」であって、誰もが認めざるを得ないような「事実」ではありません。lightofwayさんがご自分にとっての「真実」を信ずる自由は信仰の自由として尊重されるべきものですが、それを他人に「事実」として押し付けることは問題でしょう。

> これでは、本当に議論にならず、いらだたせてしまうのは、仕方がありませんね。あしからず。(^^)/

 まぁ、このlightofwayという人は他人と真面目に議論するつもりなどないし、その能力も欠けていることが既にはっきりしていますけどね。この人は誰かに「立派な信仰者ですね」と誉められたいだけでここに書き込んでいるんですから。ご主張のあまりのバカバカしさや厚顔無恥ぶりにただただ呆れ果てるだけです。



◆8452 お詫びと訂正 流木 2007/05/20 01:11

>  私の立場は、「信仰は、自分の自由意志で選び取ったものではなく、神様から一方的に恵まれるものでその点では人間の側には拒否などできないけれども、いったん受け取った信仰は捨てることができる」といえばいいのかも知れません。「受け取りを拒否できなくても、あとから捨てられる」といい換えてもよいでしょう。

 ああ、でも、元の発言だと、私は「受け取ることも拒否することもできます」と述べていますから、上で述べた立場に照らせば、矛盾しますね。受け取りは拒否できないのですから、あれは間違いとなります。あの箇所では、正しくは、(信仰を)「持ち続けることも拒否することもできます」というべきでした。お詫びして訂正します。



◆8460 Re:勘違いキリスト者さんの勘違いぶり lightofway 2007/05/21 23:14

> ご自分の信仰をご自分の力で獲得したものだと勘違いしているからですよ。

そんな勘違いをしないで下さい。
非常に信じがたいことでしょうが、神の存在とその素晴らしさを啓示された時、即座にこれが、祖父や父の信頼していた、聖書の神だと悟らされたのです。その後、多くのクリスチャンの方々にどんなに祈られていたか、知らされる度に、神の愛の並々ならぬすごさに感動してきました。これが、自力で頑張って獲得したことではない理由です。

又、真理は永遠に変わらないもので、万人に認められるものです。それは、人はどんな人も、真実な愛を、変わらない愛を求めている、ということ。それが、その愛が、私たちを創造した真理であり、道であり、いのちである唯一の神である、と聖書は言います。

>  さらには、自分が世間的、この世的な意味でも優れていた(優れている)とか勘違いしている人たちもいます。パウロの時代にもそういう勘違いをしているキリスト者がいて、パウロが「あなた方が進行を恵まれたときのことを思い出してご覧なさい。あなた方は知恵があったわけでも、財産があったわけでも、地位があったわけでもないでしょう。むしろ、世間的にはいてもいなくてもよいような存在だったではありませんか。そんなあなた方を神は選んで信仰を恵んで下さったのですよ」と戒めていますね。

それが、主イエスが十字架にかかった理由です。
私たち人間が、如何にはかない、罪に穢れた、悪魔に騙されている存在かを、あのくらいはっきり示している事実はないのです、
滅びに定められている死ななければならない存在です。それを知っているものが、どうして何かを誇ることが出来るでしょう。
ただ、救い主のみわざを崇め、褒め称えるだけです。


>
>  もっといえば、聖書に書かれていることを「事実」だと勘違いしている人たちもいます。聖書は信仰の書であって、その価値はそこに書かれていることが事実だという点にあるわけではありません。事実であることに価値があるのなら、電話帳でもありがたがっていればよいのです。聖書に書かれていることを「事実」だと勘違いするから、天地創造説の立場から進化論を否定しようとかすることになります。

進化論は、事実と違います。世界が滅びの方向に向かっているのに、進化して、良い方向に向かうとし、また、すべての存在の起源を偶然としています。

あらゆる宗教は、人間が考え悟り創りだしたものですが、聖書は
先ず、神が創り、永遠に変わらない愛を持って、この素晴らしい世界を創り保ち、すぐれた法則のもとに、自然も人間も支えられていると言っています。

今も大ベストセラーである聖書が、世界や人を変える書物であることを私たちは知っているのです。神が、どんなにこの世を愛して下さっているか知らせる書物なのです。

ですから、この真実な神をいないとか、事実でないとかいうことは論外で、議論の余地はないというのが、私の認識です。



◆8465 Re:勘違いキリスト者さんの勘違いぶり 流木 2007/05/22 12:33

> これが、自力で頑張って獲得したことではない理由です。

 どこが理由なのか全然わかりませんね。信仰を神様から恵まれたものだとするならば、自分を誇ることはできません。しかし、信仰を自分の力で獲得したものだと勘違いするなら、信仰を獲得できた自分を誇ることになります。裏を返せば、ご自分を誇るキリスト者は口では何といっていようとも、信仰を自分の力で得たものだと思っていることになります。

> 又、真理は永遠に変わらないもので、万人に認められるものです。

 「真理」の反対は「うそ(虚偽)」です。「事実」とセットになっているのは「真実」です。「真実」というのは、ある人にとっては疑い得ない本当のことです。一方、「事実」は万人が認めざるを得ない本当のことです。「事実」は1つだけれども、「真実」は人の数だけあるともいえます。

 もし、聖書の教えが「事実」であれば、キリスト教信仰など不要でしょう。なぜなら、信じる必要がなくなるからです。事実は証明されるものであって、信じるものではありません。

>それは、人はどんな人も、真実な愛を、変わらない愛を求めている、ということ。それが、その愛が、私たちを創造した真理であり、道であり、いのちである唯一の神である、と聖書は言います。

 このlightofwayというキリスト者さんはこんな具合に「真理」だとか「真実」だとかおっしゃるわけですが、きちんとした言葉の定義をしておられるわけではなく、何となくその場の気分で使っているに過ぎません。だから、議論がちっとも前に進んでいかないのです。

>あのくらいはっきり示している事実はないのです、

 「事実」なら信じる必要はありません。事実は知ればよいのです。信仰の出る幕などどこにもなくなってしまいます。

> ただ、救い主のみわざを崇め、褒め称えるだけです。

 このlightofwayというキリスト者さんがご自分をこの世的にも優れていると自慢してきたことはここの過去ログを読めばはっきりします。

> 進化論は、事実と違います。世界が滅びの方向に向かっているのに、進化して、良い方向に向かうとし、また、すべての存在の起源を偶然としています。

 進化論でいう「進化」は「進歩」ではありません。こんなのは、進化論の基本中の基本です。また、「進化論では生物は偶然に進化してきたといっているけれども…」というのも、典型的な誤解ですね。遺伝子の突然変異は偶然ですが、自然選択は偶然ではありません。

> ですから、この真実な神をいないとか、事実でないとかいうことは論外で、議論の余地はないというのが、私の認識です。

 神がいるかいないかは誰にも証明できません。証明が不可能であることが既に証明済みです。人間にできるのは、せいぜい「神はいる」と信ずるか「神はいない」と信ずることだけです。わかっているのはそれだけです。

 聖書の価値は、このlightofwayというキリスト者さんがおっしゃるような「事実の集大成」だというとことにあるわけではありません。書いてあることが「事実」であることに価値があるのなら、電話帳でもありがたがっていればよいのです。電話帳は人生の指針を与えてはくれませんよね。

 結局、このlightofwayというキリスト者さんは「事実」とか「真実」とかいう言葉の意味をきちんと考えもせずに、上記のようにテキトーに使っているわけです。



◆8468 知ることと信じること 流木 2007/05/22 14:31

>「事実」なら信じる必要はありません。事実は知ればよいのです。信仰の出る幕などどこにもなくなってしまいます。

 この話は過去に何度も繰り返しましたが、lightofwayと名乗るキリスト者さんには相手の話を真剣に理解しようという姿勢もその能力もどうやら欠けているようで、未だにご理解いただいておりません。過去ログを読むのも面倒かも知れませんから、ここを覗いている皆さんの便宜を考えて、なぜ上記のようにいえるのかを簡単に説明をしておきます。

 例えば、今日私たちは地球が丸いということ、そういう事実を知っています。今日、「私は地球が丸いと信じています」とわざわざいう人はいません。地球が丸いということは既に証明済みであり、私たちはそれを知ればよいのであり、信ずる必要などありません。

 もし、聖書が、lightofwayと名乗るキリスト者さんのおっしゃるように、「事実の集大成」であれば、私たちは聖書に書かれていることを知ればよいのであり、信ずる必要はなくなります。つまり、キリスト教信仰は居場所を失います。必要なのは証明であり、知ることです。信ずる必要などなくなります。

 聖書の「正しさ」というのは信仰の上での正しさであって、何かの証拠に照らして正しいとか間違いだとかいうときの正しさではありません。その区別がついていないから、進化論のような学問の話と天地創造のような信仰の上での話とを混同して、公立学校の理科の時間に聖書の創造説を教えるべきだとかいい出すわけです。

 進化論は学問上の仮説ですから、何かの証拠が出てくれば間違いであると否定され捨てられます。一方、聖書は神の永遠の真理を説いているとされているのですから、アレコレの証拠で覆されたりするようなものではありません。それとも、進化論と聖書の創造説とを同列に並べて論ずる人たちは、何かの証拠があれば聖書の創造説を捨てるのでしょうか。そうではなく、あくまでも正しいのだ、永遠の真理なのだというのであれば、それは学問上の仮説ではないのですから、進化論と同列に並べることはできません。



◆8474 手間が省けました 流木 2007/05/22 21:34

 私は、

> もっといえば、聖書に書かれていることを「事実」だと勘違いしている人たちもいます。聖書は信仰の書であって、その価値はそこに書かれていることが事実だという点にあるわけではありません。事実であることに価値があるのなら、電話帳でもありがたがっていればよいのです。聖書に書かれていることを「事実」だと勘違いするから、天地創造説の立場から進化論を否定しようとかすることになります。

と述べましたが、それに対して、lightofwayと名乗るキリスト者さんは、

> 進化論は、事実と違います。世界が滅びの方向に向かっているのに、進化して、良い方向に向かうとし、また、すべての存在の起源を偶然としています。

と述べて、ご自分で創造説の立場から進化論を否定していることを示してくれました。つまり、ご自分でご自分が勘違いキリスト者であることを告白したも同然なわけです。

 なお、私は「進化論が正しくて創造説が間違っている」といっているのでは『ありません』。進化論は学問の話で、創造説は信仰の話なのだから、両者を同じ土俵で論じてどちらか一方の立場からもう一方の立場を間違いとするのはおかしいだろうといっているのです。創造説の立場から進化論を否定しようとするのも、進化論の立場から創造説を否定しようとするのも、どちらも学問と信仰との区別がついていません。

 もっとも、進化論の立場から創造説を否定しようとする人はほとんど見かけませんけどね。逆の例は腐るほどありますけど。



◆8470 事実と真実について 種 2007/05/22 16:17

事実と真実の違いについて質問があります。

流木さんの言葉を借りれば、

「事実」とセットになっているのは「真実」です。「真実」というのは、ある人にとっては疑い得ない本当のことです。一方、「事実」は万人が認めざるを得ない本当のことです。「事実」は1つだけれども、「真実」は人の数だけあるともいえます。

と、あるわけですが、インターネットで意味を調べますと(大辞林、大辞泉より)
『事実』
1 実際に起こった事柄、現実に存在する事柄
2 本当に、実際に

『真実』
1 嘘偽りのないこと、本当のこと、またそのさま、まこと
2 本当に、確かに

というようになっています。
これらの意味を正しいとするなら、真実だけが人の数だけ存在するのではなく、事実も人の数だけ存在してよいことになります。

私に知り合いの方で、臨終したはずの祖母が何十分後かに生き返ったという話があります。
これを聞いたほとんどの人は「ナンセンスだ」としましたが、そのご家族にすれば実際に起こった事柄であり、事実であると言えると思います。

「万人が認めざるを得ない本当のこと」が「事実」の真の意味なのか、今後、議論を進めていく上でこの二つの言葉を明確にしておくことはとても大切ではないかと思い、投稿しました。

みなさま、それぞれの意見をお聞かせ願えれば幸いです。



◆8472 Re:事実と真実について 流木 2007/05/22 21:13 *種さん

> 事実と真実の違いについて質問があります。

 私が使っている「事実」と「真実」との区別は、遠藤周作さんが『イエスの生涯』の中で用いたものに準拠しています。ですから、国語辞典の用法とは必ずしも一致しません。

 なお、法律用語としての「事実」は単に「出来事」といった意味のようです。

 いずれにせよ、lightofwayと名乗るキリスト者さんのように、自分が一体どういう意味で「事実」や「真実」や「真理」という言葉を使い分けているのかさっぱり明確にされないのでは、お話にもなりません。



◆8475 Re:事実と真実について 流木 2007/05/22 21:43

*種さん

>  私が使っている「事実」と「真実」との区別は、遠藤周作さんが『イエスの生涯』の中で用いたものに準拠しています。

 それから、lightofwayさんには遠藤周作さんの「事実」と「真実」との区別を示した上で、「事実ではなく、真実なのではありませんか」とお尋ねしたところ、「真実ではなく、事実です。ビデオカメラに記録できるような事実です」とおっしゃいました。ところが、その後、「真実な事実」とか「事実に基づく真実」とかいろいろおっしゃって、結局、「真実です」とおっしゃるようになりました。つまり、最初の立場とは全く変わってしまわれたわけです。

 その間、lightofwayさんが一体どういう意味で「事実」や「真実」という言葉を用いておられるのか繰り返しお尋ねしましたが、明確なお答えは何もありませんでした。そのはずです。元々、意味をちゃんと考えて使っていたわけではなく、その場、その場の雰囲気で何となく「事実」だとか「真実」だとか使っておられたわけですから、あとから一貫性を持って説明できるはずがないのです。



◆8477 Re:事実と真実について 種 2007/05/23 04:38

流木さん
>
>  私が使っている「事実」と「真実」との区別は、遠藤周作さんが『イエスの生涯』の中で用いたものに準拠しています。ですから、国語辞典の用法とは必ずしも一致しません。
>
>  なお、法律用語としての「事実」は単に「出来事」といった意味のようです。

ご意見、ありがとうございまず。

流木さんの場合、遠藤周作さんの考えを準拠しており、国語辞典通りの解釈は使用はしていない、ということですね。

また、その考えは流木さん自身の「事実と真実」における「物差し」であり、万人に対して「正しい」とするものではない、と言う理解でよろしいでしょうか?



◆8478 Re:事実と真実について 流木 2007/05/23 07:29

*種さん

> また、その考えは流木さん自身の「事実と真実」における「物差し」であり、万人に対して「正しい」とするものではない、と言う理解でよろしいでしょうか?

 ある言葉にどういう意味を込めているのかは人によって違います。国語辞典に載っているのは、ある程度共通の理解が得られそうな解釈ですが、ありとあらゆる場面に当てはめることはできません。国語辞典にある言葉の意味として、いくつか上がっているのは、そういう異なる意味で同じ言葉が実際に用いられているからです。

 その人がその言葉をどういう意味で用いているかを明確にしなければ議論はいたずらに混乱します。私は「事実」と「真実」という言葉を遠藤周作さんに準拠してこれこれの意味で用いていますが、lightofwayさんの場合はどういう意味で「事実」や「真実」という言葉を用いておられるのですかとお尋ねしたにもかかわらず、きちんとしたお答えは返ってこなかったのです。ですから、議論はそこから前に進みませんでした。

 種さんは以前、「言葉の定義を明確にしなくても議論はできると思います」とおっしゃいましたが、お互いに同じ言葉を全く異なる意味で用いていれば、一見議論が進んでいるようでも、実はすれ違いに終始してちっとも前に進んでいないというようなことが起きてしまいます。その結果は、多くの場合、「あいつのいうことは意味不明だ」とか「あいつはバカじゃないのか」とかいうものです。同じ言葉に込めたお互いの意味を明確にするところまで忍耐力が続かないで感情的になって議論を打ち切ってしまうのです。

 テレビの討論番組などでも、議論が紛糾する理由の中には、この手の、同じ言葉を参加者が全然違う意味で使っていることに由来するものも結構あります。「日本の農業をどうするか」といったテーマでも、「農業」という言葉でイメージするものが参加者によって異なり、ある人は稲作を、ある人は都市近郊農業を、ある人は牧畜を念頭に置いて、それを明確にしないまま議論を進めれば、噛み合わないのは当然でしょう。もちろん、それでも議論できないわけではありませんが、ムダな労力がかかるだけですし、本題に入る前に、議論の入口のところで終わる蓋然性が高くなります。



◆8479 Re:事実と真実について 種 2007/05/23 11:54

流木さん

流木さんがそのように事実と真実を区別されていることが分かり、また議論に於いて生じる問題にそれぞれが持つ言葉のイメージがあるとの考えは共鳴するもです。

過去ログを振り返りながら以前も私は同じ質問を流木さんに投げかけていました。

8326 返信 Re:聖書を読む 流木 2007/04/29 12:17
> 流木さんの説明だと、真実というのは「個人的な事実」であって、事実とは「社会的に証明されるもの」というふうな理解なのでしょうか?

*事実は1つでも、真実は人の数だけあります。事実も真実も「正しい」わけですが、事実の正しさというのは万人が認めざるを得ないように証明が可能なものです。一方、真実の正しさというのは、それを真実と信ずる人にとっては疑い得ない本当のことだということです。

今と全く同じ内容のことをおっしゃっているのですが,この上記の書き方は私にとって誤解を招くものとなりました。

叉、以下では

> 私が神に似た霊性とは良心であると信じるという信仰は真実であり事実です。
> そして、全ての人間の心に良心が存在するということも真実であり、事実です。

としましたが、

*事実と真実との区別については上で述べた通りです。あなたのおっしゃる事実と真実との区別は私にはわかりません。

という返信でした。
国語辞典の意味をそのまま利用した結果の回答な訳ですが,この場合,相互理解を得られていません。

議論をより建設的なものとするために、

>
>  その人がその言葉をどういう意味で用いているかを明確にしなければ議論はいたずらに混乱します。私は「事実」と「真実」という言葉を遠藤周作さんに準拠してこれこれの意味で用いていますが、lightofwayさんの場合はどういう意味で「事実」や「真実」という言葉を用いておられるのですかとお尋ねしたにもかかわらず、きちんとしたお答えは返ってこなかったのです。ですから、議論はそこから前に進みませんでした。
>
>  種さんは以前、「言葉の定義を明確にしなくても議論はできると思います」とおっしゃいましたが、お互いに同じ言葉を全く異なる意味で用いていれば、一見議論が進んでいるようでも、実はすれ違いに終始してちっとも前に進んでいないというようなことが起きてしまいます。その結果は、多くの場合、「あいつのいうことは意味不明だ」とか「あいつはバカじゃないのか」とかいうものです。同じ言葉に込めたお互いの意味を明確にするところまで忍耐力が続かないで感情的になって議論を打ち切ってしまうのです。


すれ違いや誤解を防ぐ意味でも,言葉に対する相互理解、同じ種類の言葉の多用を避けること、またオリジナルポリシーでない限り参考にした資料の記述など、大切ではと思いました。




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