聖書人物伝シリーズ 1

 

   アダムとエバ(イブ)     主日説教('09年 6月)

                                旧約聖書「創世記」1~3章参照

 

                                                  司 祭 パウエル 及川  信

 

  神は言った。

 「さあ、われわれは、われわれの姿に(われわれに)似せて人をつくろ

 う。そして、海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべてのものと、地の

 上に這うものを治めさせよう」

  神は人間をつくった。神の姿(エイコーン)に人間をつくった、彼ら

 を男と女につくった。(七十人訳聖書「創世記」1章参照、河出書房新社)

 

神が創造された

   神妙・叡智の存在者・被造物である人間

 神は「助け手・補助者」の一人、人格を持つ者として、人間を創造された

ともいわれています。ただし全能の神には本来、助け手は不要のはずです。

 神がなぜ天地、そして人を創造されたのかは、(多くの聖人らの言葉によ

っても)なぞです。しかし創造の神秘は、人が再びかつての楽園、いいえ新

たな楽園、神の国に生活し始めた時、必ず明らかにされるでしょう。

 

創造主を探し求めることは

   自己の存在(人間)を知ることにつながる

 人を造った創造主とは、神とは、いったいどういう存在、何者なのでしょ

うか。これを知ることは、人間の本質、自己の存在(理由)を知ることにつ

ながることでしょう。

 神の像と肖を求めることは、創造時の「原初の人間の姿」を究めることで

あり、真の神の子・人の子イイススとの体合(一体)を実現することは、罪

を乗り越えた人間がそう成っていくべき「究極の目的たる姿」を獲得するこ

となのです。

 創造の神秘を探る旅は、生命の本源を追求する「信仰の道」なのです。

(参考書、谷隆一郎『人間と宇宙的神化』「エクレシアの諸相とその全一的かた

ち」証聖者マクシモスにおける自然・本性のダイナミズムをめぐって、知泉書館)

 

人間は神により像と肖とをもって創造された

 最初に引いた聖書本文では、われわれの姿「像」、われわれに似せて「肖」

がこれに相当します。

 像とは、たとえば、あるがままの姿、見た瞬間のイメージ(印象)・造形を

表します。人は神の像を内包し表現しているとも言えます。

 像とは、聖像(イコン)です。人は「生けるイコン」でもあります。人は

神の恵まれた人生、信・望・愛に満たされて生きていく、生活することが重

要です。信仰とは、理想的な人生を夢想することではなく、そこに生きて生

活することをいいます。

 生けるイコンの最高の姿は、祈りの姿勢です。神に祈願、感謝そして讃美

の祈りの献げる清純な姿の中に、人の本来あるべき像が秘められています。

 そういう意味では、像と共に肖が重大な意味を持ちます。

 肖とは、成長していく内在的な力、伸張力、心身を鍛え、夢と希望とをもって

生きていく創造力を内包しています。

 肖は、人が自らの自覚によって豊かにできる、神の創造を真似し模倣でき

る、すばらしい力です。

 逆に言うと、善用するばかりでなく、悪用することも可能なエネルギーを

秘めており、神がいかに膨大な恵みを人に与えたかのもわかります。

 人のさまざまな創造的な仕事、芸術、スポーツなど、夢や希望をもって生

きる生活の中にも、「肖」が生きています。

 この像と肖を恵まれる至高の場こそ「聖体礼儀(機密)」の聖体・聖血の

「領聖」聖体拝領です。

 神の像と肖は、人の心身に満たされ息づいています。

 

人には自由意志が恵まれた

 自由意志とは、存在者が自己責任を持って認識し行動するもので、人は生

まれた時から、その範疇を生きています。

 自由であるとは何でもしてよいという、アンタッチャブルな権限、つまり

他者の言動の浸潤を許さない不可侵の権能を意味しません。

 たとえば人が人を殺害してしまった時、あとで後悔しても、真の責任が取

れるでしょうか。もう一度その人を復活させ、再生させることができるでし

ょうか。できません。人は根源的に生命にかかわる責任が取れないのです。

 唯一、その責任を果たすことができるのは、まことの神にして人である、

救世主イイスス独り。ここに受難、十字架、死、復活の神秘があります。

 この自由意志は、もう一人、天使にも与えられました。

 

天使(神使)と悪魔

 創られたのは人間の夫婦(アダムとエバ)だけではありませんでした。

 天使(神使)とは、ギリシャ語のアンゲロス(エンジェル)に由来する名

前で「神の御意志を告げ知らせる使者(報信者)」という意味です。

 神は悪魔をも造ったのか、これは昔から議論を呼んでいることですが、

聖書ではこう述べられています。

「自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たち」が

存在している、と(新約聖書「ユダの手紙」6)

 神が悪魔を造ったのではなく、天使の中には罪を犯したアダムとエバのよ

うに、神から離れていった天使(いわゆる堕天使)がいるというのです。

 この神から離れて生活する者を、教会では「罪犯者(ざいはんしゃ)」と

いいます。しかし罪犯者や悪魔にも、神の救いの業(わざ)、救済の道が用

意されています。

 

人はすべての動植物に名前をあたえた

 名前とは全存在、生命を持った「格」を表します。

 人は子供が生まれたら、必ず名前をつけ、家族の一員とし、その存在を親

身のものとします。「名前」とは、生命そのもの、「生きている」ことを証します。

 名前とは「神言葉(ロゴス)」です。

 神の子供としてこの世に生を受けた人は、名前をつけられ、言葉を心身に

満たし、その自覚を持ったときに(成長した時に)「人間」として生き始めます。

 

初人(しょじん)としてのアダムとエバ

 万物の霊長。霊長とは「神によって与えられた霊妙な力を秘めた、最も優

れた存在」を意味します。

 この優れた存在とは、謙虚さを意味します。

 謙虚・謙遜とは、自らの存在の有り様(全容)を把握・理解し、なおかつ

他者の良所・長所、優れたところを認めることができる人を指します。

 

楽園の長としての二人

 天国、神の国とは、ただ単に、人間にとって住みよいだけの世界ではあり

ませんでした。

 人と動植物の双方にとって、もっとも穏和で居心地の良い、家庭的な雰囲

気に溢れた「楽園」でした。

 神の楽園の長としての責務が二人には与えられていました。

 

創造物の統合の絆(きずな)
    要(かなめ)としての人間

 神と人、人と人(たとえばアダムとエバの子、兄カインと弟アベル)の離

反・別離、すなわち分裂は、神の創造された天地・自然と人との分裂をも引

き起こしました。 

 でも神は、自然の支配者としての権限を人に持たせているわけではありま

せん。そういう傲慢さこそ、人が神から離れ、罪を犯す原因なのです。

 

アダムとエバの陥罪、罪と罰

 悪魔の化身たるヘビの狡猾な誘惑に屈したことよりも、そのあとの二人の

態度が、「生命」ではなく「死」をもたらしました。

 二人は神との約束を破って(善悪を知る)果実を食べたあと、

一、自ら神のもとへ行き、自分たちの行為を話し、赦しを請いませんでした。

二、神の人を捜す足音をきいて、園の中を逃げ回りました。

三、神の「どこにいるのだ」という問いかけに、二人は木の間に隠れたまま

 返答をしました。

 (裸体にいちじくの葉を紡いだ腰巻きをまとったのもその一例)

四、アダムは素直に謝らず、責任転嫁をして言い逃れようとしました。

 「あなたがわたしの連れ合い(妻)としてくださった女が」

 木の実をくれたから食べてしまったのだ、と強弁しました。

五、夫のその態度をいさめねばならない妻エバも責任転嫁をしました。

 「ヘビがわたしをだましたのです。それで食べてしまいました」

 問題は、どうして神が詰問し、罰を与えたのか、二人にはよくわからず、

その後も謝罪の言葉が残されていないことです。二人のこうした傲慢な姿勢

に神はがっかりしながらも、寒さをしのぐ毛皮のコートを与えたことが記録

されています。ここに人への神の信と愛が垣間見えます。

 また罪を犯してしまった、失敗したと言うことは、人間が完全無欠の「完

成者」ではなく、失敗を乗り越えながらも成長していく「未熟者」可能性を

秘めた者であったことを表しています。ここに神の救いの秘密があります。

 

「どこにいるのか」

 あの時「あなたはどこにいるのか」と神は人に尋ねました。

 しかし今、「主はどこにおられるのか」(エレミヤ2章参照)と人が神を捜

し求めています。

 神と人との矛盾した関係、すなわち神と人との乖離(かいり)した関係、

人と人との乖離・分裂した関係の奥底に、罪の原点が潜んでいます。

 

罪とは

 原罪という言葉があります。

 簡単に言うと、死へと至る罪が「遺伝として人に引き継がれた」とするの

が原罪、たしかに強烈な悪影響ではあるが遺伝ではないとするのが、正教会

の教える罪です。

 ただこの罪は伝播力が強力で、もはや人の自力では克服できない、そこで

まことの神にして人である、救世主イイススが降誕し、救うために人として

生活され、ついには死を体験されたというのが、わたしたちの信仰の核心です。

 この神秘の救いは、復活の讃詞(トロパリ)にも明らかです。

「ハリストス死より復活し、死をもって死を滅ぼし、

墓にある者に生命をたまえり」

 

第一のアダムと第二のアダム

 この第一のアダムの罪を覆い、死ではなく生命をもたらしたのが、第二の

アダム、新たなるアダムである、イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)

です。イイススは父性の愛、強靱な生命力を湛えた愛を示しました。

主の復活のイコン

 第一のアダムと第一のエバを、第二のアダムである主イイススが、

死の深淵、死の枷(かせ)、死の縄(なわめ)より解き放しました。

 主の復活のイコンでは、生命の主が、死の暗黒に囚われていたアダムと

エバを、力強く引き揚げ、救われる姿が描かれています。

 人間(と全宇宙)は、いままさに「死より命に遷移(うつ)れり」


第一のエバと第二のエバ

 真の伴侶、人間を救う母体となったのが、第二のエバ、生神女(しょうし

 んじょ)永貞童女(えいていどうじょ)マリヤ(マリア)です。

 マリヤは、真の母性とはいったいどういうものなのか。たおやかで強靱な

母の愛を明らかに示しました。

 

聖人である二人

  二人はあらゆる人間の「祖」です。(元祖・原祖)

 罪を犯した一面はありますが、二人のすばらしい業績、生きざまは、まだ

まだわたしたちの模範となるものです。

 アダムという名は、ヘブル語の大地(アダマ)から転じてアダム(人間)

に、エバは、ヘブル語の命ある者(ハッワ)そしてギリシャ語のゾーイ

(命)から転じてエバ(生命・命)となったといいます。

 

すべての人間の父、母であるアダムとエバ

 神の創造の業(わざ)は、大昔に終わってしまったのではありません。

 いまも続いています。その一例が、聖洗礼儀(洗礼式)であり、聖体礼儀

(機密、領聖)です。

 わたしたち一人一人に、そのすばらしい創造の業、可能性が引き継がれて

います。アダムとエバを知る過程は、生命の本源、わたしたち一人一人の生

き方・存在理由・生きる目的などを求める「信仰生活」なのです。

 またエデンの園(楽園)への回帰とは、教会という意味をもって多用され

る「エクレシア」の堅立を指しているのではないでしょうか。

 天国は実はここ「教会」(エクレシア)に存在しているのかもしれません。

 わたしたちが気づいていないだけで。なぜなら神の名の下に「二、三人集

まり祈るところに神はおられる」からです。

 天地創造、人の新たな再生の歩み、復生(ふくせい)の道は、いまも開拓

され、わたしたちの眼前に鮮やかに広がっています。



聖書人物伝シリーズ 2

  カインとアベル(アウェリ) 主日説教('09年7月)

                       旧約聖書「創世記」4章参照

                

 しかるにカインは、神諭(しんゆ)を軽んじて、ますます妬心(としん)を増長し、

ある日弟アウェリを野に誘い出し、ひそか逼(せま)りてこれを殺せり

(ボゴスロフスキー『旧約聖史』)

 

長男カインは弟アベルを野原で殺害した

 人間の祖アダムとエバの子が行った犯罪は、尊属(そんぞく)殺人でした。

 その衝撃は、創世記4章に緊迫した筆致で綴られています。

 アダムとエバの神からの離反は、ついには人と人との離反・分裂、それも

完全に相手を否定し抹殺する兄弟間の「殺人」となって現れてしまいます。

 

ふたりの職業

 牧畜者の始祖アベルと農耕者の始祖カイン

 ことの発端は、神による二人の祈祷・献げ物への対応が異なったことでし

た。神はアベルの初子(ういご)の仔羊(と脂膏)は受け、カインの献げた

地の実り(果実・野菜)は受けられなかったのです。これに怒った(正教会訳では「憂いた」)

カインに神は優しい言葉をかけました。

 

あなたの献げ物は「善」なるか

 神は言います。

「あなたが善を行っているのならば、顔をあげなさい。善ではないならば、

罪が門の傍らであなたを待っている。あなたはその罪(悪の誘惑)を制御せ

ねばならない」

 罪が門の傍らで待っているとは、非常におもしろい表現です。

 悪い言動の門をくぐったとたん、罪を犯させるさまざまな自我・欲望が、

飢えた狼か虎のように人に襲いかかり、人は逃れる術がないというのです。

 またその昔、「門(城門)」とは、単なる町の通用口ではなく、さまざまな商取引、

証人を立てた契約、そして「裁判を行う場所」でもありました。
 
 すなわち、門をくぐった結果が「有罪」と決まっているような人生の選択をしては

いけない、と神が諭しているわけです。

 あなたの献げ物、祈りの心は「善」の発露でしょうか。

 善意、すなわち神への愛、人への愛、たとえば家族愛、兄弟愛、隣人愛か

ら感謝と讃美の献げ物をしているのならば、神はその献げ物を受けます。

 しかし虚偽の心、悪意、他者への対抗心、自分の地位や名誉、独占欲を満

足させようとする偽善の献げ物ならば、神はお受けになりません。

愛情(兄弟愛)を拒否し「攻めて殺した」

 カインが野原へ行こうと弟を誘うと、アベルは何の疑いもなくついていき

ます。幼い頃たのしく遊んだ思い出があったであろう野原。そこでカインは

弟を殺害します。

 正教会の訳では「弟アベルを攻めて」とあります。

 弟の何を攻めたのでしょうか。

 両親の愛情、神の愛顧を独占しているアベルが憎かっただったのでしょう

か。おまえはずるい奴だ、要領が良すぎる、と攻めたのでしょうか。

 「肉親は血が濃いゆえに愛憎も数十倍に増す」と語った人がいます。

 カインの側に何かそういう愛憎の原因があったとしか思えません。

 

致命者そして受難者

 熱い信仰を保とうとしたがゆえに迫害や弾圧を受け、致命(ちめい)した

人を正教会では、聖なる致命者・致命女といいます。(一般には殉教者)

 聖像(イコン)では、頭に栄冠をつけ、たびたび白い衣を着、手には十字架

や花を持っていたりして表現されます。

 致命とは「信仰者として表信し、その命を全うした者」という意味です。

 広義には、時の政権や政策によって、迫害・弾圧を受けて永眠した者を致

命者と称するのに対し、本人の意思とは関係なく不可抗力で不幸な事態に遭

遇して、はからずも苦難を受け永眠した者を「受難者」と称するようです。

 アベルは、人間の歴史はじめての致命者であり、「聖なる受難者」の原型

・ひな型でもあるのです。旧約聖書ヨブ(イオフ)記の主人公、義人ヨブは

受難者であり、教会は「多難者」と呼んでいます。

 

カインはユダ(イウダ)のひな型?

 かつて愛した者を裏切り殺害したカインを、イイススを裏切り、受難・十

字架上の死に追いやったイスカリオテのユダの、原型・ひな型とする見方が

あります。

 もしユダが自らの献身・献げ物が恩師に受け入れられなかったために、イ

イススの死を望んだのだとすると、あまりにもカインに似ています。

 しかしユダは失望して自殺してしまった(マタイ福音27章、事故死という

見解は「聖使徒行実(使徒行伝)」1・18)のに対し、カインはノド(ナイ

ド、さすらいの地の意味)に追放され、農耕者として生を全うしました。

 神は自殺を認めず、生きてさえいれば、本人の希望・志と可能性さえあれ

ば、悔い改めて新たに生きることを待っておられるのです。

 ちなみにカインの名の意味はヘブライ語の「得た(カーナー)」に由来し、

ケニ人という部族の祖とされています。「得た」という言葉に両親の深い喜

びが表れています。またアベルというの名には「息、牧場」という意味があ

るそうです。

 

カインは審判者になろうとした?

 神に背を向け、視線を合わせようとしなかったカインは、アベルの命を奪

いました。神に成り代わって裁く者、審判者になろうとしたのでしょうか。

 しばしば神は被造物の生殺与奪の権を握っていると思われがちですが、人

が罪を犯し神から(命から)離れていったその深淵に、死が入り込んだので

す。本来、神が与える賜物は「生命」であって、「死」ではありません。

 神が罰し死をもたらさなくても、いずれは寿命がきて人生を閉じざるを得

ない人間がいます。にもかかわらず、人を罰せざるを得ない神の悲しい心に

こそ、わたしたちはもっと心を尽くし、深い思いを巡らさねばならないと感

じるのです。   

 

アベルの受難は

   主イイススの受難のひな型

 アベルの受難を主イイススの逮捕・受難・十字架上の死という苦難の道行

きに重ね合わせる見方があります。この場合、人々の怨嗟(えんさ)、憎悪、

嫉妬(しっと)、敵愾心(てきがいしん)、神の愛の独占欲などによって殺害

されたイイススの姿を垣間見させる原型・ひな型が、受難者義人アベルでは

ないでしょうか。

 

真の奉献とは

   信・望・愛をもっての献げ物

「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。こ

れこそ律法と預言者である」(マトフェイ(マタイ)7章) 

 愛したい、愛されたい。信じたい、信じてもらいたい。希望を持ちたい、

希望を持たせて欲しい。そう願うのならば、素直に祈りましょう。

 ひねくれて、人の心の裏読みをしてそう願うのではいけません。

 純真に、素直な心で祈り願わねばなりません。

 だからこの聖句を「黄金律」というのです。

 愛してくれなければ対抗措置を実行するぞ、と相手を恫喝し、恩を売り、

見返り・恩恵を強要するのは、真の献げ物ではありません。

 真の奉献とは、素直な信・望・愛を献げるものです。

 その最も顕著な一例が、主イイススの十字架です。

 カインの対極にある心は、次の聖句にも明らかです。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわた

しの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はな

い。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」

                    (イオアン福音(ヨハネ)15章)



 

 ☆カインとアベルについて、さらに探究したい人は次の小冊子を

  どうぞお読みください。

   信

 『アベルはなぜカインに殺されたのか~真実の奉献のあり方の探究』

  〈創世記4章 正教会訳、日本聖書協会新共同訳、旧約聖史を収録

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聖書人物伝シリーズ 3

 

   ノア(ノイ)と箱舟    主日説教('09年 8月)

                               旧約聖書「創世記」6~9章参照

 

            ノアは、神の前に恵みを見出した。ノアは義しい人だった。

      その世代(人びと)の中で完全完璧だったのである。

      ノアは神を喜ばせた。(七十人訳旧約聖書『創世記』6章参照)

 

神は不正不義に満ちた地上を見て後悔した

 人間の祖アダムとエバの神からの離反は、カインとアベルの完全に相手を

否定し抹殺する兄弟間の「殺人」へと発展し、ついには人と人との離反・分

裂を引き起こします。

 聖書は不正不義、つまり堕落と不法、ヘブライ語の聖書では「暴虐」に満

ちた状態だと語っています。神が定めた人の生きる道、信・望・愛を、人間

がめちゃめちゃに破壊し尽くした、と神は見定めたのです。

 

死に満ちた世界を滅ぼす神

 生きる喜び「生に満ちた世界」ではなく、絶望が支配する「死に満ちた世

界」が地上を覆い尽くしていました。生まれ出て物心がついた時、なんで自

分は生まれたのか、なんで親は自分を生んだのか、生きる意味なんてあるの

か、生きていても仕方がない、夢も希望もないと実感させる世界でした。

 神の目から見て、ほんとうに真実生きている人間は、ノア(とノアの影響

を受けたノアの妻、三人の息子とその妻)しかいませんでした。

 ほかの人々は、神の声に、いっさい耳を傾けない陰惨な人間ばかりでし

た。ゾンビのような「生ける屍(しかばね)」でした。

 神はやむなく、この世を滅ぼす決意を固めました。

 

ノア「箱舟」を造る

 箱舟は神と人との「契約の証(あかし)」です。

 人が創る契約書、証者が箱舟です。長さ約120m、幅約20m、高さ約

12m、窓はほとんどなく、内部はアスファルトで隙間を埋めた3階建て

(ヨセフスは4階建てと伝える)巨大な木造船でした。

 1隻だけだったのか、何隻も造ったのか定かではありませんが、地上の動

物すべてを夫婦(つがい)で乗りこませるほどの準備をしたのです。

 この奇蹟の話は、いかなる奇蹟も入念な準備なしには起こりえないことを

示しています。勝負事のたとえ話に「勝ちに不思議の勝ち在り、負けに不思

議の負け無し」といいます。信仰生活も同じで、ノアのように「神の前に恵

みを見出そうとする」真剣な生き方、ほんとうの健康と幸福を神の前に正し

く実現しようとする真摯な姿勢なくして「奇蹟は起きない」ことをノアと箱

舟が教えてくれています。 

 

大雨と大洪水 ハトとオリーブ

 大雨は40日40夜降り続き、大洪水は150日続き、ようやく水が引い

て箱舟はアララト山に漂着しました。漂着後40日たって、まずノアはカラ

スを、つづいてハトを放しましたが、むなしく飛び回るばかり。さらに7日

後ハトを放したところ、ハトはオリーブの葉をくわえて戻り、地表の現れた

ことが判明しました。教会はハトとオリーブは非常に大切な表徴(しるし)、

シンボルとしています。神による救いを知らせる前兆の象徴です。

 

静かに救いを待つ

 大嵐のまっただ中にあって、箱舟の中はじつに静かでした。一説では箱舟

は吃水(きっすい)が深く安定感があり、また荒れ狂う海の深い海中に潜水

艦のようにもぐったまま漂流したのだ、と説明する人もいます。

 希望をもち救いを確信しているノアは神を信じ、ノアの家族は神とノアを

信じ、動物らも神とノアを信じたのです。準備万端にして神の救いを待つ、

確信に満ちた謙虚な姿勢がわかります。

 

疑ってはいけない

 かつて聖使徒ペトルは、イイススの乗った小舟に歩み寄ろうとし、つい激

しい風浪に荒れた湖面を見て怖ろしくなり、溺れかけました。

 ノアは一点の曇りもなく神を信じ続けました。

 「信じる」ことの基本は「疑わない」ことだと痛感させられます。

 

箱舟は教会堂(聖堂)のひな型

 教会堂(聖堂)には、十字架型をはじめ、いくつかの型(タイプ)があり

ます。その最も有名な形が「舟型(船型)」です。

 教会堂の舳先(へさき)を東の方角「光」「復活」に向け、信徒がその船

に乗りこみます。乗った人は安心して神にすべてをゆだねるのです。

 

洪水後の最初の仕事 虹(弓)の契約

 これはノアとその家族の献祭(祈り)をうけて、もたらされた恵みです。

 この神の契約はノアを代表とする人ばかりでなく、すべての生ける物との

間に結ばれています。神はまず第一に、今回のような大洪水は二度と起こさ

ないことを約束します。第二に折々の種蒔きと収穫、四季と寒暖、昼夜の休

みない運行を約束しました。第三に人が人の血を流すことを禁じています。

(殺人の否定)。第四に人に対して「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」という

繁栄の祝福をしています。

 なによりもまず、最初に「祈り」があります。

 祈りの心、祈りの場、祈りの時を持てる人は、謙遜・謙虚です。

 

ノアは不言実行ではなく 有言実行の人だった

 箱舟づくり~洪水後の虹の契約時まで、聖書はノアの言葉を記録していま

せん。なんという沈黙・静寂でしょうか。ノアの寡黙は、不言ということで

はありません。ノアはいつも神と対話していました。献祭(祈り)を通して

です。ここにノアのすごさがあります。

 雄弁は銀、沈黙は金といいますが、ただぼけらっと沈黙しているのではあ

りません。ノアは誰よりも神の心を察し、献祭(祈り)を通して、神と語り

合っていたのです。

 

ノアは父なる神の像(イメージ) 箱舟は母なる神の像 

 地上の生きとし生ける物を箱舟に導き、慈しみ守ったノアには、力強い父

なる神の像があります。箱舟には人と生ける物に安全と平安を与え、安息の

地に導いた、生命の揺りかご、愛情あふれる母なる神の像がみられます。

 ノアの箱舟には、人と動植物が安穏に暮らした、かつての楽園「エデンの

園」の像が秘められています。わたしたちの家庭生活、信仰生活、そして教

会の原点が、ノアと箱舟の中に息づいているのです。

 

「愛には恐れがない」 

 聖使徒 福音者 神学者聖イオアン(ヨハネ)は言います。

「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」(手紙Ⅰ、4章参照)

 ノアは神を疑いません。箱舟を造っている間も、周囲の人々の罵声や嘲笑

を退け、船の完成後なかなか降らない雨を待ちながら神を信じ続けました。

 神への愛で心身を満たした時、あらゆる不純な欲望・暴虐はすべて押し出

されてしまいます。恐れのない愛情をノアは体現しました。

 

義人ノアは葡萄栽培者の祖 聖血(尊血)は赤葡萄酒

 農耕者の祖とされるカインは殺人によって死をもたらしましたが、静かな

農耕者ノアは箱舟をもって多くの生き物を救い、生命をもたらしました。

 義人ノアは、葡萄栽培者の祖とされ、わたしたちが聖体機密(聖体礼儀)

で聖なるパンと甘い赤葡萄酒をつかうのは、けっしてノアとは無縁ではな

い、むしろ深くつながっていると確信しましょう。

 ノアの子孫であると言うことは、痛悔(悔改)と領聖の心を受け継いで、

生きていく者であることを、深く心身に刻まねばなりません。

 

 8月18日 葡萄に降福する祝文

  主や、この新しき葡萄の実、なんじが気候の順和(やわらぎ)、

  雨露の点滴(したたり)、天時(てんのとき)の清静(おだやか)

  なるをもって、この成熟に至らしめしを喜びし者に祝福して、

  われらにこの葡萄の産するところを飲むをもって楽しみを得せしめ、

  またこれをなんじに奉(たてまつ)るをもって、

  諸罪の潔(きよめ)を得せしめたまえ。

  なんじのハリストスの至聖なる体血に由(よ)りてなり。

  なんじは彼と至聖至善にして生命(いのち)を施す

  なんじの神(しん)と共に崇め讃めらる、

  今も何時も世々に、アミン。


聖書人物伝シリーズ 4

 

   アウラアム(アブラハム)     
                   
                      主日説教(
'09年 9月)

                              旧約聖書「創世記」12~25章参照                        

      わたしはおまえ(の子孫)をおびただしく増やし、わたし

      はおまえを諸民族(の父)とし、王たちはおまえ(の子孫)

      から出るであろう。わたしはわたしとおまえとの間に、そ

      しておまえの後に代々につづくおまえの子孫との間に、わ

      が契約を未来永劫にわたる契約として立てる。(それはわ

      たしが)おまえの、おしておまえの後につづくおまえの子

      孫たちの神となるためである。

                 (七十人訳旧約聖書『創世記』17章参照)

 

神の民の先頭に立つ者

 元祖、これは言うまでもなく人間の祖アダムとエバ(イブ)です。

 アウラアムは時おり「太祖」といわれます。イスラエルをはじめとする諸

民族の祖だからです。また彼は「列祖」の筆頭を成す人物です。

 アウラアム・イサク・イアコフ(ヤコブ)の神といいます。

 重連祷でわたしたちは、

「主、全能者、わが列祖の神や、なんじに祈る、聞き入れて憐れめよ」

 と祈ります。

 沈黙の人、ノアとは対照的に、彼は雄弁です。神(あるいは神の使い)と

の対話が、聖書に克明に記録されています。

 アウラアムは比類のない人格者と言っていいでしょう。

 アウラアムは、わたしたちの弁護をしてくださる心の広い父の像(イメー

ジ)をもった、神と人、人と人との仲立ちをする仲保者です。

 

至聖三者(三人の天使との対話)

 聖像画家、聖アンドレイ・ルブリョフ「至聖三者(聖三位一体)」の聖像

(イコン)に有名な、神の派遣した三人の旅人(天使・神使)との出会いが、

創世記18章に記録されています。

 饗応(もてなし)の主宰者アウラアムの奔走ぶりは、ほほえましいかぎり

です。旅のほこりで汚れた足を洗う水を持って来させ、妻サラにはパン菓子

を作ることを命じ、自ら牧場に走っていくと肉質の柔らかそうな若い雄牛を

選んで調理させ、さらに自分は世話役に徹し立ったまま給仕の仕事をしてい

ます。天使(神様)の到来が、よほど嬉しかったのでしょう。

 神様との出会い、神様との交流を、わたしたちはこれほど喜び祝っている

でしょうか。儀礼的にぼんやりスーと神様に向かっていないでしょうか。

 聖堂に行く時、祭壇の前に立つ時、祈りに向かう時、わたしたちはアウラ

アムのように浮き立つような喜びにあふれ、勇んでいるでしょうか。

 アウラアムの純粋で真摯な信仰の在り方が胸を打ちます。

 

10人の義人のために救いを備える

 ソドムとゴモラの町の不義と暴虐は、地上だけでなく天の神の耳にまで届

くほど、ひどい状況でした。神はこの町だけは赦せないと判断したのです。

 この決断を聞いたアウラアムは、自分のことのように狼狽し、真剣に神の

使いに反論します。「義(ただ)しい者と不敬虔な者とをいっしょに滅ぼされ

るのですか。義しい者と不敬虔な者とは同列ではないので、いっしょに裁

かないでください」。せめて義人が50人いたら、いや40人、30人と続

て、ついには10人の義人がいたら町を滅ぼさないと神に確約させます。

 考えてみれば、数万人の悪者のために正しい10人が苦しむかもしれない

のです。にもかかわらずアウラアムは、必死になって命乞いをしました。

 結局ロトの家族以外に正しい者はおらず、ソドムとゴモラは天から降り注

ぐ硫黄と火によって滅亡してしまいます。それだけにアウラアムの生命を尊

び、人を愛し赦す姿勢はきわだっています。(創世記18章)

 ソドムとゴモラのあった所は死海(塩の海)になったと言われています。

 

愛息イサクの奉献

 創世記22章。神はアウラアムに愛する息子イサクを山の頂上で献げるよう

命じます。ひどい話です。しかしアウラアムは黙って従います。

 この献祭を焼祭(燔祭・やきまつり)といいます。イサクは自らを焼くた

めの薪(たきぎ)を背負い、父の言うままに山を登ります。

 わが子を手にかけようとした瞬間、神がその手をとどめます。見ると一頭

の雄羊が茂みにいました。神は言います。

「おまえはわたしのために、愛するひとりの子さえも惜しまなかった」

 この壮絶な話は、主イイススの受難・死・復活を象徴しています。神は至

愛の独り子イイススを、人の救贖(きゅうしょく)のために遣わされたので

す。奉献の聖パンを「神の羔(仔羊・こひつじ)」というのは、このアウラアム

とイサクの奇蹟、この奉献の話も影響しています。

 

神の花婿と花嫁

 長い創世記24章は、イサクの嫁探しの話がすべてです。すでに最愛の妻サ

ラを失っていたアウラアムは、イサクの幸福な結婚を希望し、嫁探しを自分

の家の長老である家僕に一任します。家僕は旅に出て、血縁のリベカという

娘を発見します。リベカは降って湧いたような破天荒な結婚話を諒解し、家

僕と一緒に、即座に夫となるべきイサクのもとへ旅立つ決断をします。

 この逸話は、生神女、神の母マリアの福音(受胎告知)の予兆・前兆とい

われています。神の独り子のために神が備えられた花嫁は、誠実に常に同じ

返答をします。「主の御心のままになりますように」

 黙示録では花嫁は救い主に「来たれ」と呼びかけます。その意志は同じで

す。神の花婿は来たり、神の花嫁は準備をすべて整えて待つのです。

 

至聖なる神の祭司

    メルヒセデク(メルキセデク)

           パンと葡萄酒による祝福

 創世記14章後半に、突然登場するメルヒセデクは、じつに謎に満ちた神秘

的な聖なる人です。彼はただ祭儀を司るだけの祭司ではありませんでした。

一、サレムの王  サレムとは、エルサレムの旧称といわれています。神の

        山シオンの宰相、神の代理人的存在として登場します。

二、祭司長(司祭長) メルヒセデクは聖体機密を司るイイススのひな型と

          されています。この司祭長・聖務長としての在り方は

          主教職・司祭職のひな型・原点ともされています。

三、聖なるパンと葡萄酒 メルヒセデクがこの二つをもって祝福したことは

           のちのイイススの「機密の晩餐(最後の晩餐)」の

           予象・前兆と言われています。何千年の昔にすでに

           いまの聖体機密の予兆のがあったことは真の奇蹟、

           神のなせる神秘(機密)の業(わざ)です。 

  

義侠心と憐情、克己と有信の人アウラアム

 公正無比、神の心を最優先に考えながらも、ソドムとゴモラの民を惜しむ

雄大な度量を秘めた人物です。アウラアムは万民の庇護者です。

 ソドムとゴモラの時には、少数の義人を救うため、あるいは非情・暴虐な

大多数の生命を惜しみ、神に論争を仕掛けています。アウラアムが傲慢不遜

な人間であったなら、神は最初から話し合わなかったと思います。

 ところがイサク奉献の時には、一転ノアのように沈黙を守り、神の導きに

従い、従容(しょうよう)として(愛する独り子を奉献するという)苦難を

甘んじて受け容れています。アウラアムは神と人のためなら、一瞬にして自

己を無、犠牲にできる人でした。

 アウラアムはわたしたちの「太祖」・信仰の原点です。素直・率直に神と

話し合うことを実践した、理想・模範とすべき信仰者です。

 でもその実像は、いまお話ししたように、感情豊かな人間味を帯びた態度

を併せ持った有情の聖人なのです。


聖書人物伝シリーズ 5

 

    イ サ ク           主日説教('09年 10月)

                             旧約聖書「創世記」21~35章参照

 

      イサクはそこから「誓いの井戸」に上って行った。

     その夜、主が彼に顕現(けんげん)して言った。

    「わたしは、おまえの父アウラアム(アブラハム)の神である。

    恐れることはない。わたしはおまえと一緒にいるからだ。

    わたしはおまえを祝福した。わたしはおまえの子孫を、おま

    えの父アウラアムのゆえに多くする」

     彼はそこに祭壇を築き、主の名を呼んだ。そして彼はそこに

    自分の天幕を張った。イサクの家僕たちはそこに井戸を掘った。

                 (七十人訳旧約聖書『創世記』26章参照)

 

自らの献身・努力で軛(くびき)を振り落とせ

 創世記27章は、双子の弟イアコフ(ヤコブ)の奸計と、これをそそのかし

た母リベカの行き過ぎた愛情をあますところなく語っています。ここでは詳

細は述べませんので、ぜひご自分で聖書、創世記を読んで下さい。

 高齢に達していたとはいえ、あまりにも簡単にだまされてしまった義人イ

サク。ともすれば温厚篤実ながら、だまされやすい単純な人に見えてしまい

ます。そんな、あっさりした単純な信仰の持ち主がイサクなのでしょうか。

 本来長子(長男、跡取り)が受けるべき神の祝福、それは言葉のみの口約

束ではなく、アウラアムの築いた全資産、人的財産の相続をも含んでいます。

それを、弟が計略を使って、というよりも深く考えずに母の入れ知恵に盲目

的に従って、イアコフは横取りしてしまいます。

 これを知り、涙を流して悔しがる兄エサウに対して、父イサクが愛情を込

めて語った言葉が、次の祝福の言葉です。父は泣きじゃくるエサウに愛情を

込めて奮起を促します。

「おまえはおまえの剣で生き、おまえはおまえの弟に仕える。しかし、おまえが

おまえの首から、彼の軛(くびき)をはずし、振り落とすときが来るであろう」

 普通は間違ったらやり直しをします。でも神の祝福は人間の常識を越えます。

イサクは断固としてイアコフに告げた祝福の言葉を撤回せず、神の恵み・

神の言葉は一度発出したら、後戻りのできない事実を冷徹に証言します。

 実はここにイサクの信仰者としての真骨頂があります。

 すなわち現状、目の前の結果の如何(いかん)にかかわらず、すべてを事

実として受けとめ、神の意志・意旨に則って生きる、というものです。

 現状の責任の所在を他者のせいにしたり、責任転嫁をしません。

 自分をいまの立場・現状に押しやった相手を憎み、一生恨んで、何十年と

生きた時、人生のさいごに、いったい何がその人の内に残るのでしょうか。

 一生の遺恨は暗闇の人生、転じて光に生きる者には希望の人生、すなわち

復活の生き方、永遠の生命が待っています。

 いつ、いかなる状態に置かれても、生活の神、自分に恵みを賜る神を信じなさ

い。必ずや、神はあなたを助け、導き、新たな局面を拓くであろう。

 ずる賢く狡猾だと言われたイアコフも、兄エサウの憎悪を逃れてからは、

異邦の地で、誠実無比に生活し、想像できない試練を体験します。のちの兄

エサウとの和解は、イサクのこうした生き方を、双子の息子たちが理解した

証拠ではないでしょうか(創3233章)。

 

追いすがる敵対者と争わず、回避し、

          三度、井戸を掘る

 創世記26章、イサクはペリシテ人(ゲラル人)アビメレクの郎党・家僕の

妨害を受けます。先住の彼らの邪魔にならず刺激しないようにと、僻遠

(へきえん)の地にわざわざ移り住み、井戸を掘ったにもかかわらず、井戸水が

湧き上がる度に彼らがやって来て、「その水はおれたちのものだ」と言い、

イサクらを追い出そうとしたのです。

 イサクは黙って耐え、一回目、二回目にも争わずに引き下がります。

 井戸を掘るとはたいへんな難行苦行です。何と言っても手掘りです。苦労

して井戸を掘っても、飲める水が出るとは限りません。一族郎党、家僕ばか

りでなく、牛・山羊・羊・馬・ろば・にわとり・牧羊犬にいたるまで、のど

を渇かし、水を待っています。

 おまけに井戸を横取りされた家僕を納得させて、我慢しながら、もう一度、

さらにもう一度、苦労を重ねて、新たな井戸を掘らねばなりません。

 イサクの寡黙・篤実の姿は、信の熱さをうちに秘めたイイススの受難を想

起させます。善意を尽くし、神の導きを待つ。膨大な「信」のエネルギーを

秘めて、神よりの救いを慕い求める、忍耐・受苦の生き方です。

 この姿勢には、人は独りでは生きられない、神と共に、人と共に、必ず生

きねばならない、そうでなければ人ではない、という信仰が満ちています。

 

神は必ず救いを待つ正しい人を助けてくださる 

 旧約聖書は二つのおもしろい在り方を記録しています。

 一つは「逃れの町」(民数記35章、申命記4章、ヨシュア記2021章)。

 たとえば故意に因らない過失で人を死なせてしまった場合、自分が悪くな

いのに相手が死んでしまい、なおかつ相手の家族・親族が復讐を叫び、正し

い裁判を待っている余裕がない場合には、そこを離れて逃れの町に行き、そ

こで公平・公正な裁判・宣告の到来を待ちます。

 日本の時効制度は、国、法律・行政上の措置で、時として加害者優遇の制

度(いわゆる逃げ得)になりがちですが、逃れの町はあくまでも不幸な加害

者(もしかしたら一番の被害者)を救う制度です。日本人には有り得ない発

想です。

 それは「正義の神は生きておられ、正しい不遇者を救われる」という救贖

(きゅうしょく)の信仰が基礎になっています。ここには日本流の時効の考

え方がありません。

 もう一つは「寄留者(仮寓者)」です。

  中近東アラビアの遊牧民ベドウィンはいまでも(戦争状態や山賊でない

場合)、突然訪れた旅人を(たとえ異民族であっても)もてなし助ける、平

たく言うと一宿一飯の恩義を施す慣習があるそうです。

 荒野・砂漠では、人は孤立しては生きていけません。どんなに過酷な待遇

を受けても、まずは生き延びることが重要です。それが他民族・異国であっ

ても、彼らの保護・庇護を受け、神の助け・教導、新たな機会を待ちます。

 先の井戸の話では、三度も井戸を掘るきっかけをつくった宿敵ペリシテ人

の領主アビメレクと結局は、友好の契約を結び、和解しています。

 イサクは、いざこざのあった相手に(自分に非がないにもかかわらず)膝

をかがめ、仲直りをし、平和を誓うことを恥とは感じません。つまらない誇

り(プライド)より尊いものがあります。一族郎党の生活を守るばかりでな

く、神との契約、信仰を強固に保っていく、崇高な人生の目標が大事です。

 わたしたちがいつも「われらの首(こうべ)を主に屈(かが)めよ」と祈る

のは、たんに謙虚さを聖堂で形として示すのではなく、実生活において心身

を低くし練達のうちに生きよ、という神の命に従うためなのです。

 生きて虜囚の辱めを受けず、という日本的発想ではなく、非常にあきらめ

の悪い、ある意味あくの強い、したたかな生き方が根底にあります。

 日本人は格好いい信仰を求めすぎます。わたしたちの信仰は泥くさい、な

りふり構わない、熱中して神を求める、しつこい信仰であっていいのです。

 ここにキリスト教の「復活」の信仰につながる、苛酷な生き方があり、静

かな義人イサクには、この熱中する謙遜な心が溢れていると思います。

 

温柔(おんじゅう)なる者は福(さいわい)なり

 創世記を読んで、ややイサクの信仰、人生はわかりにくく見えます。

 イサクは、子に祝福の言葉をかける時、自分の「魂の祝福」と言っていま

す。わたしたちは、自分の愛する近親者にそういう心持ちをもって接してい

るでしょうか。イサクは、父アウラアムの信仰を確実に受けとめ、双子の息

子にそれをきちんと伝えています。

 日本人は昔ながらのお寺や神社は集落の団体的な信仰ととらえながら、

キリスト教の信仰は個人的なものだと勘違いしています。

 全然間違っています。

 キリスト教は、真に家族的な、ファミリーの信仰です。

「温柔(おんじゅう)なる者は福(さいわい)なり、彼らは地を嗣(つが)

んとすればなり」という聖句があります。地を嗣ぐとは、単に財産を子孫に

残すということではありません。次の世代に、自分の子孫に、すばらしい生

き方、神の懐(ふところ)にある豊かな人生を、神の国を伝えたいという熱

い信仰を受け継いでいくということです。

 

イサクは不屈の信仰の体現者

 イサクはイイススのように「魂を尽くし、心を尽くし、思いを尽くして」

神を信じ愛し、そして他者に対してもそうして生きました。

 三度の井戸掘りの逸話に見られるように、イサクは、忍耐と非暴力・無抵

抗の一面を示していますが、それは消極的な逃げの信仰ではありません。

「わたしはこの現実から眼をそらさない。すべてを受け容れ、希望の光を信

じ、神そして人と共に生きる」という不屈の闘志がイサクには有ります。

 神と人に向かって真っ直ぐの、能動的な「信・望・愛」、それらを確固と

して心身に保っているイサクは、柔軟・強靱、温柔なる信仰の具現者だった

のです。



聖書人物伝シリーズ 6

 

    イアコフ(ヤコブ)  主日説教('09年 11月)

                             旧約聖書「創世記」25~36章参照

 

                                          
    「この20年間、わたしはあなたの家におりました。わたしは14年間を

    あなたの二人の娘のために、そして6年間をあなたの羊の群れ の

    中で、あなたに仕えてきました。あなたは(わたしを)騙してわたしの

    報酬を10頭の子羊にしました。もし、わが父アウラアム(アブラハム)の

    神とイサクの畏(おそ)れがわたしになかったならば、今、あなたはわた

    しを無一文で追い出していたでしょう。神はわたしの両の手の労苦を

    ご覧になって、昨日あなたを諭されたのです」

                        (七十人訳旧約聖書『創世記』26章参照)

 

労苦を癒し、希望の光を灯す神

 母と共に兄エサウをだまし、父を落胆させ、神の祝福を強奪したイアコフ(ヤコブ)を

待っていたのは、苦渋と悲嘆に満ちた異邦での日々でした。

 ここには詳しく述べませんので、ぜひ聖書を読んでください。

 では冒頭に引いたイアコフの述懐は、いわゆる「怨み節」なのでしょうか。

 長年の憂さを晴らすための、非難の合唱なのでしょうか。

 そうではありません。義父ラバンに語った内容は大きく二つ。

 自分(イアコフ)の日々の生活・得た家財には一点の曇りもないのだから、

両家の兄弟親族を招集して、公明正大に裁いてもらいましょう。

 二つめは、神は生きておられ、自分と家族とを護っているという確信です。

 この堂々たる信仰告白を聴いた義父は、急におどおどし、仲直りの石塚を

造り、神に仲立ちをお願いして、和平の契約を結ぼうと言い出します。

 本来ならば、イアコフが妻とした二人の娘、多数の孫のために、歓送の贈

り物くらい用意すべき熟年の男は、たいへんな「どけち」吝嗇家でした。

 妻の実家の家長、それはとんでもない舅(しゅうと)なのですが、イアコ

フは、誠実な生き方を変えません。イアコフは、兄エサウの内奥の苦悩と愛

憎を、体験として、いまようやく理解しました。父イサクの真情、現実を直

視し不正を働かずに正攻法で乗り越える生き方を貫こうとします。

 イアコフの苦労は、妻子、従僕郎党・家政婦、得た家財の維持のためばか

りではありません。神への「信」は彼自身の「生きがい」へと変容したので

はないでしょうか。

 神は常に生活の神、あなた、そしてわたしと一生を共にする「常在の神」です。

 

兄エサウとの和解

 創世記32章。故郷へ帰るイアコフがいちばん頭を悩ましたのが、兄エサウ

との仲直りです。自分と同じく強情で一本気な兄の心を和らげ、謝罪を受け

容れてもらうにはどうしたらいいのか。母の願いとはいえ、20年前に行った

不正を痛悔していたイアコフは、自らの後悔を伝えたいと念願します。

 第一に、プレゼント(贈り物)攻勢をします。雌山羊200頭、雄山羊20頭、

雌羊200頭、雄羊20頭、乳の出るラクダと子ラクダ30頭、雌牛40頭、雄牛10頭、

雌ろば20頭、若いろば10頭を3グループに分け、それぞれ時間をずらせて出

発させました。そして三つのグループが兄エサウに会う度に言わせます。

「イアコフは兄エサウにこれらの贈り物を送られました。あなた様の僕イア

コフも、この後からまいります」

 それから400人の男(家僕)を伴った豪族の領主、兄エサウがやって来る姿

を目のあたりにし、七度伏拝しつつ、兄を待ちました。そして二人は、泣きながら

抱き合って再会を祝います。

 このイアコフの第二の態度、「七度の伏拝」は、その後の正教会の

痛悔(告解・悔改)機密の原点となります。

 イイススは痛悔・謝罪と赦し(許し)についてこう強調します。

「もし兄弟が罪を犯したら戒めなさい。そして悔い改めれば、赦してやりな

さい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と

言ってあなたの所に来るなら、赦してやりなさい」(ルカ17章参照)

 弟子の「七回まで罪を赦すべきか」という問いには「七回どころか七の七

十倍までも赦しなさい」(マトフェイ〈マタイ〉18章参照)と力説します。

 これらの会話の奥には、エサウによるイアコフの謝罪の光景が広がってい

ます。イイススは生きている人間には「躓(つまづ)きは避けられない」と

言います。対人関係での失敗は不可避です。でもそれを自ら悔い改めず、あ

るいは悔いた人を赦さず受け容れない人はもっと不幸ではないでしょうか。

 

イアコフ、神使と相撲をとる

 このエサウとの和解の直前、ヤボク川の川辺に一人になったイアコフは、

夜中に神の使い、天使と相撲(組み打ち)をします。

 イアコフは兄の怒りと怨みを想像して、死を意識しました。その受難を逃

れたい、逃げだしたいと思ったのでしょう。家畜・家財・家僕・妻子に川を

渡らせ一人になった時、恐怖が全身を包み、怯えたのです。

 この受苦を前にした悶絶は、イイススの受難前の祈り、オリーブ山での主

の祈りに相当します。神の祝福を横取りした報いをいま受けねばなりません。

イアコフの懊悩(おうのう)、恐怖心はわたしたちの想像を超えたものです。

 その場に現れたのが神の使いです。得体の知れない何者かが、イアコフに

戦いを挑み、イアコフは最初は仕方なく戦い、ついには自ら相手を捕まえ、

明け方を迎えます。

 イアコフは苦悶し、心身の壮絶な戦いを経て、己に打ち勝ちます。

 「克肖者」(こくしょうしゃ)の原像がここに見られます。

 そして神使はイアコフに、名を「イスラエル」と変えるよう命じます。

 

その名はイスラエル

 イスラエル(神は戦うの意味)。

 この体験はイアコフのすべてを変えます。狡猾で、ともすれば現実から逃

げだそうとしがちだったイアコフ(狡猾なという意味もある名前)を真の信

仰者へと変容させます。

 ヤボク川はヨルダン川の上流(支流の一つ)と言われています。

 わたしたちは洗礼時に、聖名(洗礼名)を獲得しますが、その聖洗礼儀、

洗礼式の原点がここにあります。変えるのは名前ばかりではなく、その後の

生き方でした。ほんとうに「人間が生まれ変わった」、変容したのです。

 

イアコフ、天幕に住む

 創世記3317、イアコフは兄エサウの許しを得て家を建設するとき、石や

レンガで造った豪華な家ではなく、天幕というか小屋を建てます。

 その土地をスコト(スキート)と名づけます。

 正教会では、修道士の修業する小屋(庵)をスキート(スケーナイ、スケ

ーティ)ともいいますが、その原点がここにあります。

 このエピソードにも、イアコフの心根が表れています。

 四世紀の聖大アントニー(アントニオス)も、修道士は心身の戦いを避け

られないといい、その戦いを乗り越え克服した者だけが神と出会える、神と

一体となれると教えています。また修道士は一度定めた居住地、小屋(スキ

ート)をむやみに変えてはいけないと言います。

 信仰者が住む家は、慎重に丁寧に選択され、祈りと共に建てられます。

 もちろんイアコフには膨大な家財・家族があり、一修道士とは異なります

が、ヤボクでの心身の争闘を経て、信仰者として甦えり、復活したイアコフ

・イスラエルは、清貧な人として、スコトの地で小屋住まいを始めます。

 あれほど恐れた兄の近く、そして何よりも神と共に生きることを自ら選ん

だのです。イアコフは本当の意味での、信仰者、神の民の祖となったのです。

 イスラエルという名には「神と共に生きる不屈なる者」の意味もあるそうです。


聖書人物伝シリーズ 7

 

    モイセイ(モーセ)  主日説教('09年 12月)

                              旧約聖書「出エジプト記」参照

 

        モーセは神に向かって言った。

    「ご覧ください。わたしはイスラエルの子らのもとに行きます。

    そしてわたしは彼らに向かって『おまえたちの父祖たちの神が、

    わたしをおまえたちのもとに遣わしたのです』と言うとします。

    すると彼らはわたしに『その名は何か?』と尋ねるでしょう。

    わたしは彼らに向かって、何と答えればよいのでしょうか?」

     神はモーセに向かって、

    「ホ・オーンである」  

      と言った。 (七十人訳旧約聖書『出エジプト記』3章参照)

 

エジプトで苦役に苦しむイスラエル民を救い出し

 シナイ(ホレブ)山で二枚の石板(十誡)を恵まれた義人

 出エジプト記、民数記、レビ記、申命記の四書は、モイセイの事蹟と、彼

に教え導かれたイスラエル民の歩みを述べた書と言っていいでしょう。

 なぜなら創世記から申命記までの5冊は、「モイセイの五書(モーセ五書)」

と呼ばれ、聖書の中で古来より特別な位置づけをされています。

 ここでは、モイセイの若き日々、前半生に焦点を当ててお話しします。

 

イアコフ・イスラエルの子イオシフ(ヨセフ)の導き

 兄弟に捨てられ、隊商に売られ、本意ではないのにエジプトへ行き、ある

婦人の嫉妬と詐略(さりゃく)にはめられて牢獄に投ぜられたイオシフ。

 イオシフは神の夢を解き明かすという不思議な先見(預言)の能力を発揮

してエジプト王(ファラオ)の信認を得、総理大臣(宰相)の地位にまで昇

ります。そして世界的な飢饉のなか、エジプト国民を豊かに生活させ、ユダ

ヤの地で水のない飢餓の生活に苦しみはじめたイスラエル民、つまり自分を

異郷へ売り渡した無情な兄弟らと父イアコフをエジプトへ救い入れます。

 ところが数十年、数百年後、この壮大なドラマを知らない、宰相イオシフ

の貢献を知らないエジプト王は、人口が増加し影響力を増したイスラエル民

に脅威を感じ、都市建設の労務者として奴隷のように酷使しました。さらに

エジプト人の助産婦を召し出して、生まれた男子を殺せとさえ命じました。

しかし助産婦はうまく言い逃れをして男子の赤ん坊を助けました。そこで、

エジプト王はついに、「生まれた男子の赤ん坊はすべて川に投げ捨てよ」、

と命令したのです。

 

水から救い出された人 聖洗機密の預象(よしょう)

 智恵と勇気に裏打ちされた不思議な奇蹟がこの挿話に満ちています。ぜひ

出エジプト記2章を読みましょう。これは母と娘の愛のドラマと言っていい

でしょう。しかし生まれたての赤ん坊を助け、養育費用をあたえ、さらに養

子とし、名前を与えたのは、ファラオ、エジプト王の娘です。おそらくイス

ラエル民としての幼き日の名前はあったのでしょうが、聖書は記録していま

せん。もちろん「モイセイ(モーセ)」が幼名だった可能性もあります。

 でもモイセイ(モーセ)は、エジプト語の「水、モーウ」から救い出され

た人を意味します。イスラエル民の名前ではないのです。

 たしかに聖洗機密、洗礼の預象です。

 水から引き揚げられ救われた人に違う名前をつける。敵対関係にあったエ

ジプト人の名前をつける。ずっと疑問でした。

 なぜ? どうしてなのか? 

 敵とも言えるエジプト人から名づけられた名前を生涯の名とする。

 みなさんなら、そうしますか。わたしならしません。

 

殺人者だったモイセイ

 モイセイはこのあと、おそらく少年期にエジプト人を殺してしまい、怖く

なって逃亡します。単身、逃げに逃げて、神の山ホレブ、シナイ山近くの遊

牧民の祭司に救われ、その娘と結婚し、息子を恵まれます。

 その子には、ゲルショム(ギリシャ語表記ではパロイコス)、寄留者(仮

寓する者)と名づけています。

 

落魄(らくはく)と慟哭(どうこく)

 この頃のモイセイは、落魄(らくはく)の人だったとわたしは感じます。

 人前では元気を装っていても、一人になると、孤独な寂寥感(せきりょうかん)

に怯え、みじめに落ちぶれ、苦しんでいたのだ、と。

 だから最愛の子供に、寄留者という、寄る辺のない名前をつけたのです。

 いままさにモイセイの苦悩がわたしの心身に迫ってきます。辺境の地で、

愛する妻と生活しながら、次第に歳をとっていく、その恐ろしさ。

 慟哭の最中、モイセイはホレブの燃える柴(茨)と出会います。

 

聖山ホレブ(シナイ)の燃える火

 ホレブの山で、モイセイは、燃え尽きない火を体験します。

 それはモイセイの心身に宿る、朽ちない希望、勇気、信仰の火を再び点火

させる、「復活の種火」ではなかったのか、と想像します。

 

不遇な人間を支えるものとは

 ひと口に「人を支えるのは信仰だ」というのは簡単です。

 でも不遇な人間を支えたのは、辺境の地の義父、最愛の妻子だけでしょうか。

古里で待っている家族だけでしょうか。わたしはここにもう一人加えたい。

 それは義理の母、エジプト王の娘です。

 なさぬ仲ではありながら、民族のちがう、生い立ちの違う子供を、エジプ

ト王の娘、育ての母(継母)は、心から愛したのです。

 その愛があったればこそ、モイセイは、この名前を一生の名前として名乗

り続けたのだと、わたしは思います。

 この愛があったればこそ、モイセイは異郷での不遇を正面から耐えられた

のではないでしょうか。

 無償の愛、人の愛、神の愛の果実が洗礼名(聖名)であると断言します。

 

ホ・オーン(オ・オン)の意味
 
        (主イイススの聖像にもたびたび描かれる聖なる文字)

 わたしは有る(在る)、神は存在している。

 愛はある。

 これがモイセイの原点、根幹だと思います。

 

乗り越える人、救いの奇蹟を自ら受け容れる人

 モイセイの奇蹟の根底、それは愛に応える生き方ではないかと思います。

 生みの母や姉の愛に応え、異郷で巡り会った義父や妻子の愛に応える。育

ての母(継母)の愛に応える、そして神の愛(召し出し、召命)に応える。

 民族・人種を越えて恵まれた愛です。それは人を助ける愛なのです。

 モイセイは、乗り越える人でもありました。

 育ての母が乗り越えたように。

 川・水の死を乗り越え生命へ、殺人者としての苦悩を乗り越え生命を恵む

人へ、指導者としての力量不足を自覚して乗り越える努力の人へ、あらゆる

憎悪・怨恨・嫉妬、自らへの自虐を乗り越え、生命、神の愛、信仰の絆を築

いた神の人へと成長し続けたのです。

 あの素晴らしい笑顔、満ち足りた生活を謳歌している信仰者の姿。

 それはモイセイの生き方に生き写しです。

 若き日から熟年へと至るモイセイの生き方、年月の過ごし方は、まさに、

わたしたち自身と重ね合わせであることを、肝に銘じましょう。



聖書人物伝シリーズ 8

 

    ヨシュア        主日説教(2010年 1月)

 (イイスス・ナウィン)  旧約聖書「ヨシュア記」参照 
 

     「ヨルダン川の流れは、主の契約の箱の前でせき止められた。

     箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の流れはせき止められ

     た。これらの石は、永久にイスラエルの人々の記念となる」

     「ヨシュアはまた、契約の箱を担いだ祭司たちが川の真ん中で

     足をとどめた跡に十二の石を立てたが、それは今日まで

     そこにある」               (『ヨシュア記』4章参照)

 

モイセイ(モーセ)の後継者ヨシュア

   奇蹟ふたたび「水の壁」

 イアコフ・イスラエルの子、義人イオシフ(ヨセフ)の庇護を受けたイス

ラエル民(ユダヤ民)は、異郷の地エジプトで人口が増えました。

 幾世代かへたとき、神の民はエジプトを離れ、故郷アウラアム・イサク・

イアコフの地へ帰る旅路につきました。

 これを妨げたのがエジプト王、ファラオの軍勢です。神がモイセイに命じ

てその手を差し伸べさせると、追撃してきたエジプト軍は、海の激浪に呑み

尽くされ全滅しました。

 この劇的な旅立ちの奇蹟を聖書はこう記録しています。

「モイセイが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風を

もって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。イス

ラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のよ

うになった」(出エジプト記14章参照)

 信仰者が新たな決意を固め、旅立とうとする時、道が大きく開かれ、なん

の障害物もなくスーと行ける、わたしたちはそう考えてしまいます。

 はたしてそうでしょうか。人生とは分かれ道(岐路)の連続です。「狭き

門より入れ」と主は言われます。逆巻きそそり立ち、頭上に崩れ落ちそうな

海門をくぐる恐怖心。信じられない光景、畏怖すべき水底(みなそこ)の道

を歩かねば、神の指し示す救いの地へ、たどり着けない人生もあります。

 正教会は、たびたびこの奇蹟を、生神女福音の証とします。童貞女マリヤ

の神秘の懐妊、神の子の出産を「紅海の奇蹟」に重ね合わせます。また洗礼

による新たな生命の受容もこの奇蹟の表すところだと信じます。

 信仰者が目を前に向け、両手を差し伸べ、神に信仰を告白して生きる時、

水の壁が顕われ、神の恵みによって行くべき道が切り拓かれていきます。

 モイセイの奇蹟、水の壁は旅立ちの奇蹟の象徴です。しかしこの最初の

水の壁の試練を体験した多くの民は、故国にはたどり着けませんでした。

 

次の世代の旅立ち(継承)

 シナイ半島、荒野における信仰生活は世代交代を促し、モイセイの従者ヌ

ンの子ヨシュア(イイスス・ナウィン)が民を率いて出発しました。

 彼らはモイセイの生きざまを見、ヨシュアの薫陶を受けた「信の精鋭」と

も言うべき人々でした。彼らは身を清めて祈り、契約の箱(聖櫃・アーク)

を先頭に川岸に到りました。そのとき多くの民は、生まれて初めて(過去に

年長の家族親族に聞いたことのあった紅海の奇蹟に等しい)「ヨルダン川の

奇蹟」を目撃、体験します。

「春の刈り入れの時期で、ヨルダン川の水は堤を越えんばかりに満ちていた

が、箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ると、川上から流れてくる水は、はるか

遠くのツァレタンの隣町アダムまで壁のように立った」 (ヨシュア記3章参照)

 

新たな「水の壁」 帰還の奇蹟

 人の生、信、心、精神、信仰は、自分のものであって、じつは個人の秘匿

物ではありません。わたし、あなたが水を満たす壺(つぼ)だとすると、神

の恵み「水」を生涯かけて充たしていけば溢れていきます。溢れた恵みは多

くの人を潤し、分かち合う人の生活・人生を豊かにします。

 ヨルダン川の奇蹟は、信仰の先輩の体験のたんなる追憶体験ではなく、

「神の時、神の恵みの共有」です。神の時という水に充たされた時、わたし

たちは、新たな自分を得、人生の試練に立ち向かう勇気を持ちます。

 神は生きておられる、あなたは一人孤独ではない、その真実が信仰者を感

動させ、甦らせます。紅海の水の壁が旅立ちの奇蹟だとすると、ヨルダン川

の水の壁は帰還の奇蹟だともいえます。

 わたしたちは常に自分個人が救われたいと思います。キリスト教は家の宗

教ではなく、個人的信仰だから洗礼を受け入信したと言う人もいます。

 少なくとも正教会、オーソドックスは、血のつながりを重視する信仰だ、

そう実感せざるを得ません。これは血縁という狭い範囲ではなく、聖なる伝

統の継承、たとえば聖洗礼儀(洗礼式)、司祭(神父)の養成の仕方をみても

後継者への機密の連続性を大事にしています。

  そこにオーソドックスの信仰の原点があるのです。

 

ヨシュアはラハブの一族を救う

 ヨシュア記2章・6章、エリコの町攻略に際しては、主なる神を信じた女

性ラハブとその一族を救助します。家計を助けるために、ラハブは遊女(娼

婦)に身を落としていましたが、神を畏れる誠実な信仰者でした。

 エリコの町を、七人の祭司を先頭にした信仰者の集団が、七日間町を一周

し、七日目に七回町を周回したとき、奇跡が起き町の城壁が崩れました。

 これは正教会の「十字行」(十字架を先頭にした信仰者の行進)の原型と

されています。また聖傅(せいふ)機密(七人の司祭が七つの福音箇所を朗

読し、重病にある者を救う機密)の原点とも言われています。

 「サルモンはラハブによってボアズを」、ラハブはイイススの系図の通り、

聖王ダビィド(ダビデ)の祖、主イイススと生神女マリアの保護者イオシフ

(ヨセフ)の祖となります(マタイ福音1章参照)。

 神の恵まれた福楽の地を目前にして引退し、次世代あるいは次の次の世代

へとバトンタッチしたモイセイはじめ多くの先輩の背中を見たヨシュアは、

ラハブを救うことで、愛情によって民族をこえ、信仰がふくらんでいくこと

を明示します。寡黙なヨシュアは、律法が定めたいわゆる罪人(娼婦・收税

人・金貸し・強盗・重い皮膚病人など)をイイススが救ったように、ラハブ

と一族を救い、神の救いが広大無辺であることを告知します。

 イスラエルは血筋・民族の純血性を尊ぶ民ではなく、信仰の血筋を尊重す

る神の民であることがわかります。民族、言語の違い、肌の色は関係ありま

せん。神を信ずる「信仰の一体」が大切であることを、ヨシュアは明確に示

します。

 それゆえヨシュアは、救い主イイススのひな型とされています。

 

ヨシュアは救世主イイススのひな型

 申命記27章とヨシュア記8章、エバル山の自然石の祭壇という不思議な話

を読むと、モイセイの預言を成就したのがヨシュアだということが鮮明に理

解できます。

 預言とその成就、約束(契約)とその成就、人の苦難の歴史と人が求めて

やまない神の国・天国への入城。

 実は旧約聖書の旧約(救い主イイスス降誕の約束)、新約聖書の新約(復

活の主イイススの再臨の約束)の在り方の原点は、モーセ五書(創世記~申

命記)とヨシュア記にあるのです。さらに詳しく述べると、新約聖書の四福音の

あとに「聖使徒行実(使徒行伝)」があるように、モーセ五書のあとにヨシュア記

があります。
 
 「旧約の神の民」の創世が旧約聖書のヨシュア記の証するところならば、

「新たなる神の民」教会の創世を確証するのが聖使徒行実なのです。

 神によって恵まれた地イスラエル(ユダヤ)の地に異郷へ行っていた神の

民が帰還するという約束(モーセ五書)を、新たな指導者ヨシュアが成就す

る(ヨシュア記)、これは旧約・新約聖書の成り立ちとそっくりです。

 またエデンの園を追放された人間が、新たな救助者、復活と生命の恵贈者

イイススに伴われて、エデンの園・神の国に帰還するという、人間の究極の

目的をも、ヨシュアは暗示させます。

 神の民の先導役・羅針盤の役割をはたしたモイセイと、実際に指導者とし

て、次世代の民を率いたヨシュア。

 ヨシュアの彫り上げたような厳しい風貌を、わたしは思い浮かべます。

 ここに、わたしは、ついつい自分たちの役割をも重ね合わせ見てしまいま

す。

 わたしたち親、大人、人生や信仰の先輩にも、おそらくそういう役割があ

るのでしょう。





聖書人物伝シリーズ 9

              

      サムソン          主日説教(2010年 2月)

   (サンプソン)           旧約聖書「士師記」参照

 

          あなたはみごもって男の子を産む。その子は胎内にいるときから、

     ナジル人として神に献げられているので、その子の頭にかみそりを

     当ててはならない。彼は、ペリシテ人の手から解き放つ救いの

     先駆者となろう。

     この女は男の子を産み、その名をサムソンと名づけた。

     主はその子を祝福された。  (『士師記』13章参照)

 

士師(しし)とは

 ヨシュアそして信の精鋭たる神の民の世代が交代していくなかで、いろい

ろな信仰上・生活上の問題が生じてきました。

 民を率いて故郷、父祖の地イスラエルに帰ってきたヨシュアたちは、入郷

を拒む者には戦いを挑みましたが、和平を望み、友好的な部族とは交戦せず、

共存繁栄の道を選びました。

 その結果、同じ地に唯一の神への信仰を保つイスラエル民(ユダヤ民)と、

多神教で土俗の信仰をもつカナンの民が共存し、困ったことに神の民はそれ

らの悪影響を受けることになります。結婚相手に地元民を選ぶ信仰者も多く、

カナンの宗教が混在する家庭が続出しました。

 こうしたなか、神は士師、「裁き司(つかさ)」と呼ばれる指導者を立て、

神の民を教導しました。士師は、その時どきの強力なリーダーであり、国王

や君主ではありませんでした。

 サムソンが生まれたとき、神の民は精強なペリシテ(フェリステア)人の

圧迫下に置かれるようになっていました。ペリシテ人は、クレタ島やアフリ

カ北部から渡ってきた海洋民族で、フェニキア文字(アルファベット)を駆

使したフェニキア人の末裔と言われ、鉄製の生活用品や武具を活用した人々

でした。

 イスラエル民は文化面でも先行しているペリシテ人に憧れの感情を抱いて

おり、それが信仰面の誘惑、堕落につながったのだともいわれています。

 

士師記とは

 神の民の背信、地元カナンの民やペリシテ人らの圧迫(迫害)、士師をはじ

とする信仰者の悔い改め、その痛悔を受けられた神による救いが、士師記の

中心軸となっています。

 すなわち救世主イイススの降誕・福音までの過程が述べられているのが、

士師記だということができます。

 

ナジル人とは

 その来歴は定かではありませんが、民数記6章に誓願を立てる者として説

明されています。神の前の誓願者は、葡萄の房から作ったものはいっさい食

べません。また不思議なことに、髪の毛に剃刀をあてない、つまり髪を切り

ません。

 新約聖書・福音書に登場する洗礼者(前駆授洗者)イオアンや、主イイス

スを抱いた抱神者聖シメオン、預言女アンナもナジル人のような存在です。

 ナジル人は、オーソドックス・正教会の修道士・修道女の原型・ひな型で

はないかと言われています。

 正教会の修道士も、いろいろな決まり事、誓約を守り、一度誓願を立てた

ら生涯髪の毛を切らないからです。

 生長し続ける髪の毛には、神の恵みが宿るとされ、修道士はとても大切に

します。正教会の神父(司祭)が髪の毛やヒゲをたくわえるのも同様の理由

からです。

「白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる」(箴言1631

 髪の毛は、生活の豊饒を支える収穫(麦の穂・葡萄の房、果実そのほかの

あらゆる実り)、神の秘儀・真理を探りつづける叡智(智恵)、神の恵みによ

って得られるゆたかな生活、尽きることのない神の恩寵などを象徴します。

 サムソンは、士師、ナジル人として、神の恵みに満たされて生活しました。

 

サムソンの弱

 容貌魁偉(ようぼうかいい)、怪力無双、士師記によると、頓智(とんち)

というか「とっさの機転」の利く、体力だけでなく、頭の回転の速く、刑事

・民事を問わず、みごとな裁断をくだす士師(さばきつかさ)サムソンでし

たが、唯一、弱点がありました。

 異民族ペリシテ人の美女に弱かったのです。東洋系のイスラエル民(ユダ

ヤ人)は日本人のように黒髪の美女が好まれたのですが、ペリシテ人は、海

洋民族フェニキア人の末裔だったので、青や碧(みどり)の瞳、金髪やブロ

ンド美人もいたようで、サムソンは、こうした洋物の美女に心ひかれました。

 若い頃にペリシテ人の美女と結婚して失敗し(いわゆるバツイチになり)、

壮年にいたっては、デリラという美女に惚れてしまいます。

 宿敵ペリシテ人の有力な領主たちは、デリラにサムソンの弱点を探らせま

す。「愛しているなら隠し事はしないはず、あなたの怪力の源泉を教えて」

とせがまれ、ついに惚れた者の弱みでサムソンは、髪の毛の秘密を明かして

しまいます。髪を切ったら「並の人間になってしまう」と。

 サムソンはデリラの膝枕で眠ってしまい、髪の毛を刈りとられ、ペリシテ

人に捕まり、両目をえぐられ、奴隷のようにこき使われます。

 しばらくして髪の伸びたサムソンは、最後の力を振り絞って、大邸宅の石

の柱を押し倒し、自分を慰み者にしていたペリシテ人三千人と共に、永眠し

ます。ちょっとかわいそうな晩年です。

 

欠点も含めて愛されたサムソ

 このサムソン、ギリシャ神話のヘラクレスやアトラス、北欧神話のトール

といった、怪力をふるった者のモデルとされています。

 士師として、ユダヤ人を20年も率いたサムソンは、それでも神と人々に

愛されました。

 たしかに誰にでも欠点、弱点、短所があります。

 これさえなければ、すごい人なのに、といわれる人があります。

 サムソンの場合には、他民族の紅毛碧眼の美女に弱かったのですが、それ

さえなければ、こんな残酷な死に様を晒すことはなかったでしょう。

 でもこれがサムソンだったのです。

 信仰者は、すべての欠点・弱点を帳消しにし、一点の曇りのない清潔無比

の人物以外、真の信仰者になれない、もっと極言すれば、何一つ罪のない人

間しか神の恵みを受けられず救われないのだとしたら、はたして誰が救われ

るのでしょうか。イイススの救贖(きゅうしょく)は虚しくなります。

 サムソンは、信仰上欠陥のある人を馬鹿にしたり、あなどったりはしませ

んでした。気は優しくて、力持ちだったのです。

 洋風の美女を愛し求めたのは、裏返せば、自分にはない美を求めたのであ

り、(裏切られはしましたが)心から愛したのは、寂しがり屋で愛されたい

と切望していたからではないでしょうか。

 もうひとつ、これは聖書には書いていないのでわたしの推測なのですが、

同じイスラエル民の中にはサムソンの恋愛や結婚相手が見つからなかったの

ではないでしょうか。男は見た目の容姿・面貌ではないといいながら、男同

士では「なぜこの男の良さが理解できないのか、見る目のない女ばかりだ」

と言われ、なかなか結婚できない男性がいます。立派な指導者・士師であり

ながら、同じ民族の中からは相手が見つからない孤独、言いようのない寂し

さ、これがサムソンを苦しめていたのかもしれません。

(だからといってその欠点・弱点を、そのままほったらかしにしておいて良

いというわけではありませんが)

 サムソンには大きな欠点があり、信じられないような失敗、過ちを犯して

しまいますが、その純粋さゆえに人からも神からも愛されました。

 神はその人の欠点・弱点も含めて、あなたを、わたしを愛しています。

 人は神に愛されています。もっともっと人を愛し、神を愛しましょう。



聖書人物伝シリーズ 10

  サムイル         主日説教(2010年 2月)

    (サムエル)        旧約聖書「サムエル記」参照

 

         サムイルは年老い、イスラエルのために裁きを行う者として

     息子たちを任命した。長男の名はヨエル、次男の名はアビヤ

     といい、この二人はベエル・シェバで裁きを行った。しかし、

     この息子たちは父の道を歩まず、不正な利益を求め、

     賄賂を取って裁きを曲げた。(『サムエル記上』8章参照)

                 

さいごの士師にして
    最初の預言者サムイル

 エジプト脱出時に神の民を導いた「主の契約の箱」約櫃・聖櫃(アーク)は、

誠実・有能な士師エリのあと、一時期ペリシテ(フェリステア)人に奪われて

いましたが、ようやくキルヤト・エリアムという地に安置されました。

 その後イスラエルは、朴訥な祈りの人エルアザル、それから士師サムイル

が指導し、しばらくの間安定します。とくにサムイルは宿敵ペリシテ人と戦

って打ち破り、イスラエルの民と領土に平和をもたらした、民事ばかりでな

く軍事においても有能な指導者でした。

 聖書はサムイルに対して、「主の預言者」という特別な敬称を奉っていま

す(上3・20)。

 ところが、サムイルは、年老いた時、民の薦めもあって、息子二人に士師

の座を譲ります。二人なら、欠けたところを補い合って、民の良い指導・裁

きができると思ったのでしょうか。

 神の如き指導・裁きを行ったサムイルも親バカな一面がありました。

 目が曇っていたとしか思えません。

 

苦難を経験し
  良き果実を収穫した者のみが

     心豊かな指導者に成長する

 中国の故事があります。ある非常に優れた宰相のところに、これまた人々

の信望を集めていた大臣がやって来て、まだ年若い自分の息子(あるいは部

下という逸話もある)がとても有能なので、大都市の総督に任命したい、

きっと彼はやる気を出して、ますますその能力を磨き開花させるだろう、と

得々と自慢しました。すると宰相は無言で去っていきました。

 その態度に驚いた大臣は、すぐに宰相のところを訪れて、なぜ何も言わな

いのか、不安になって、何度も何度も頭を下げて訊ねました。

 ようやく宰相は顔をあげ、その人事ではあなたの息子はダメになると言い

ました。下積みの経験をせずに、いきなり上(トップ)に立てば、ダメにな

る。使われる人の心を知らず、民の世情も悟らず、自らの能力が評価されて

上に立ったと誤解し、一度傲慢・驕慢になれば、自らも他者も正当な目で評

価できない、ダメな指導者になってしまう、と指摘したのです。

 この言葉を聞いた大臣は、ショックを受けます。そこで、ある都市の厳し

くて有能な管理者の配下につけて修行させるべく派遣したい、と思い直しま

した。すると宰相は「幸甚(こうじん、非常に幸いだ」といいました。良い

アイデアだと。「かわいい子には旅をさせよ」という格言があります。

 日本の商家でも、「他人の家の飯を食わせる」すなわち「若いうちは修行

をさせる」、苦労はお金を払ってでも買え、といいます。

 その苦労を良い苦労とするか、ただの徒労としてしまうのかは、本人の心

がけ、生きる目標の設定し方、その生き方次第ではなかろうかと思います。

 しっかり苦労していない指導者は、目のくもったままの、愚鈍な勘違いし

た指導者になります。それをこの故事は教えています。

 さてサムイルは、どこが悪かったのでしょうか。

 良き伝統は、正しい後継者育成によってしか育たないことを忘れていたの

ではないでしょうか。

 信仰の指導者として、稀代の士師、政治家、軍政家、行政家として希有な

才能を発揮したサムイルにして、子供に対しては、親としての視点に狂いが

あったとしか言いようがありません。

 

実は悪い前例を見ていたサムイル

 サムイルの師、士師エリの息子二人は、賄賂を強要する、神への献げ物は

横取りする、臨在の幕屋に勤める女と寝るなど、悪行の限りを尽くし、イス

ラエルの大敗北・ペリシテ人による契約の箱の一時強奪の原因をつくってい

ます。それでも父エリは、息子らに厳しい叱責を与えましたが、士師の座か

ら息子を退けはしませんでした。エリの息子二人は非業の死を遂げます。

 ところがサムイルは息子らに叱責することすらできません。聖書は記録し

ていません。民の嘆きの声を聞いて息子らを士師の座から退けず、代わりに

国王を立てることを望む民の声に屈してしまいます。

 なんとしたことでしょう。

 肉親の情が、心の目を眩(くら)ましてしまったのでしょうか。

 それでもサムイルの功績は偉大です。イスラエル初代の王サウルに膏(あ

ぶら)を注ぐ預言者でした。ただこのサウル王はのちに心身の目を曇らせ、

神の道を曲げ、結局ペリシテとの戦いで戦死します。

 次いでサムイルは、まだ少年だったダビィド(ダビデ)に膏を注ぎました。

サムイルが選んだと言うよりも、神が選んだサウルとダビィド、しかし信仰

者として充実し、成長するには本人自身の努力が必要です。

 自らをきびしく律する克己心と忍耐力が欠かせません。

 

父なる神の(イメージ) 聖なる像(イコン)

 ところが視座・観点を180度反転させると、次のような見方も成り立ちます。

サムイルの生き方は、ある一面正しい父親の像(イメージ)を示唆してはいないかと。

 たとえ聖人、預言者、士師であっても何らかの欠点があります。しかし神

の寛容と忍耐は、信仰の礎石(いしずえ)です。

 ルカ福音書の「放蕩息子(蕩子)」のたとえ話はこれを表しています。

 この父親は一見すると甘やかし放題、放任主義の父親のようでいて、じつ

は子供の可能性を信じて待つ父親、主なる神の像を表しています。

 サムイルは父失格のように見えながら(あるいは師匠のエリも)、もしか

したら、放蕩息子の帰還を待ちわびる、子の復活への希望を胸に秘めた父、

神の像を鮮明に表しているように思います。

 

士師はいまの聖職者のひな型・予象

 王が人々の頂点、ピラミッド型の支配形態の頂点に立つとすると、士師は

民の中央、惑星群の軌道の中心核、太陽のような存在です。

 王は自分がいなければ民や国が成り立たないと確信し絶大な権力を発揮す

る存在、士師は民の信認があって自分がいると信じ、民に押し立てられ神に

認められて信仰の力を発揮する存在です。

 士師は正教会の聖職者、主教や司祭を暗示しているように思います。

 正教会が、神品(しんぴん)機密、叙聖式で、先輩聖職者・信徒一同が

「適任」(アクシオス)と呼応し合うのは、神そして人に認められてこそ、

聖職者が存在するからです。

 お互い信じ合えるからこそ、祈りが成り立ちます。

 つねに敬愛し合っているからこそ、すべての機密が成立します。

 士師の在り方は、正教会の成り立ち、神と人、人と人との関係を象徴して

おり、預言者サムイルは、全知全能を傾注してその職を全うしたのです。

 


聖書人物伝シリーズ 11

 

   ダビィドとヨナファン 主日説教(2010年 4月)

   (ダビデとヨナタン)    旧約聖書「サムイル記」参照


     ダビィドがサウルと話し終えたとき、ヨナファンの魂は

     ダビィドの魂に結びつき、ヨナファンは自分自身のよう

     にダビィドを愛した。サウルはその日、ダビィドを召し

     抱え、父の家に帰ることを許さなかった。ヨナファンは

     ダビィドを自分自身のように愛し、彼と契約を結び、着

     ていた上着を脱いで与え、また自分の装束を剣、弓、帯

     に至るまで与えた。  (『サムエル記』上 18章参照)

 

質実剛健、容姿端麗

    文武両道の知勇・忠義の士(おとこ)ダビィド

 ユダの部族、ベツレヘム出身、豪族イエッセイ(エッサイ)の八人兄弟の

末っ子、父の羊の牧者をしていたダビィド。牧畜を襲うライオン(獅子)や

熊に対峙しても物怖じせずに撃退した肝っ玉の太さを持ち、石弓(手製の投

石機、石投げの紐)一つで宿敵ペリシテ(フェリステア)人の巨人・怪傑ゴ

リアテ(ゴリアト)を打ち倒した英雄です(サムエル記上17章)。

 その一方竪琴の名手で、妄想に悩むサウル王の心の弦線を慰め、数多くの

詩を謳い、聖歌を作曲しました。旧約聖書の詩編(聖詠)にはダビィド作の

詩が非常な数、収録されています(正教会では聖詠経と尊称しています)。

正教聖歌の最古の作詞者の一人と言ってもいいでしょう。

 サウル王は初め、王女(娘)を嫁がせるほどにダビィドを寵愛しましたが、

ひとたび猜疑心の虜となるや、強制的に離婚させています。ダビィドが王と

王の家族に敬愛の念を深めれば深めるほど、王の憎悪が増していきます。

 ユダヤ初代の王サウルの嫉妬と憎悪を浴びながらも、さいごまで王に忠義

を尽くしたダビィド。その心根の強靱な優しさは、兵士・民衆あらゆる階層

の人々、男にも女にも愛され慕われました。

 

サウル王の後継者ヨナファン

 このダビィドと好一対の人物が、サウル王の長男ヨナファンです。

 ふたりは、双子と言っていいほど似ていました。武勇に優れ、これまた人

々に愛され慕われたヨナファン。

 新月の宴会のとき、サウル王による暗殺を恐れたダビィドは欠席します。

 それをとがめた王に対してヨナファンはダビィドを擁護します。

 すると激昂した王は息子ヨナファンを罵倒します。

「心の曲がった不実の女の息子よ、お前がエッサイの子をひいきにして自分

を辱め、自分の母親の恥をさらしているのを、このわたしが知らないとでも

思っているのか。エッサイの子がこの地上に生きている限り、お前もお前の

王権も確かではないのだ。すぐに人をやって彼を捕らえて来させよ。彼は死

ななければならない」

 おそらくはヨナファンの心愛(しんあい)を紡ぎ育てたのは、母の家庭の

力が大きかったのでしょう。その母を、自分の妻をもこき下ろしています。

独占欲の固まりとなってしまった王は、周囲の信頼と愛情を集めるダビィド

を平静な心で受けとめることなどできません。

 一代の英雄でありながら、心の狭くなってしまった王サウル。権力者のか

かる病気、保身と嫉妬。才能の優れた人物をとりたてて、自らも高めるので

はなく、かれらの才を嫉妬(ねた)み、かれらの人望に怨嗟(えんさ)し、

かれらの誠実・忠勇の真情を嫌悪する、悲しむべき状態です。逆に言うと、

ヨナファンがどれほど広大な懐の持ち主であったのかがわかります。

 怒り狂った父王は、自分の王権を継ぐはずの長男を殺そうとして、ダビィ

ドを殺すために用意した槍を投げつけています(同上20章)。

 それでもヨナファンは父を愛し、生涯父を守り抜こうとします。

 

ダビィドを逃がすヨナファン

 ヨナファンはダビィドと約束していた野原に出て、矢を三本射って、矢を

取りに走った年若い従者に向かって叫びます。

「矢はもっと先だ、早くしろ、急げ、立ち止まるな」

 これはダビィドを逃がすための、暗号でした。

 ところがダビィドは、姿を現すと三度伏拝し、二人は抱き合い、別れの接

吻をし、激しく泣きます。

 ヨナファンはこの友情は子孫までつながることを友に語ります。

「安らかに行ってくれ、わたしとあなたの間にも、わたしの子孫とあなたの

子孫の間にも、主がとこしえ(永遠)におられる、と主の御名によって誓い

合ったのだから」

 

ヨナファンへの挽歌(ばんか)

 強敵ペリシテとの決戦、ギルボア山の戦いで、イスラエル軍は大惨敗を喫

します。サウル王とヨナファンをはじめとする三人の息子、数多くの精兵が

討ち死にしました(サムエル記下1章)。

 これを知ったダビィドは、自分の命を奪おうとした王をそれでも愛しており、

さらには親友ヨナファンのために悲傷の詩(うた)を献げます。

「サウルとヨナファン、愛され喜ばれた二人、鷲よりも速く、獅子よりも雄

々しかった。命ある時も死に臨んでも、二人が離れることはなかった。

泣けイスラエルの娘らよ、サウルのために。紅の衣をお前たちに着せ、

お前たちの衣の上に、金の飾りをおいたサウルのために。

ああ、勇士らは戦いのさなかに倒れた。

ヨナファンはイスラエルの高い丘で刺し殺された。

あなたを思ってわたしは悲しむ、兄弟ヨナファンよ、

まことの喜び、女の愛にまさる驚くべきあなたの愛を。

ああ勇士らは倒れた。戦いの器は失われた」 

 

いま求められている

    無垢、無玷(むてん)の愛

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの

掟である。友のために自分の生命を捨てること、これ以上に大きな愛は

ない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」

(イオアン〈ヨハネ〉151214

 正教会訳では自分の命を「捨てる」は、「捐てる」を充てています。義捐

金(ぎえんきん)の捐の字です。これはゴミをぽいと捨てるのとは意味が違

います。自らの生命を惜しみなく与える、自分の意志で生命を分かち合うこ

とを意味します。単なる犠牲ではなく、死をもって死を滅ぼし、共に生きる

こと、死中に活を求めると言ってもいいでしょう。

 純真無垢、無玷の愛が、いまこそ求められています。

(玷とは宝玉に傷のあること)

 

打算も要求もない、ほんとうの友情

   それが信仰者の生きる糧となる愛に生きる姿

 ダビィドとヨナファンの友情、愛情の絆を、生神女、神の母マリアと主イ

イススの愛の神髄と視ることはできるでしょう。父なる神と子なる神の結び

つきの強さを示唆しているとも言えるでしょう。

 二人の友情は、三千年の時を超えて、わたしたちの心琴を震わせ鳴らします。

骨肉の友情、自らの骨の骨、肉の肉のように、魂の底から愛し合ったふたり。

 刎頸(ふんけい)の友、刎頸の交わり。共に斬首されてもかまわないという、

すべての打算を排し、互いに何の要求もしない、真実の愛の姿です。

 あるがままに素直に愛し、愛されたヨナファンとダビィド。

 人間同志そして信仰者が、主なる神に向かう真摯な生き方がここにあります。

 救い主イイススは、ダビィドの末裔、ダビィドの子と称されます。

 救世主はダビィドの家、ダビィドの町ベツレヘムから生まれると預言されてきました。

ヨナファンの深い愛がダビィドを救い、ダビィドはこの信と愛に慈しみ育てられました。

 主イイススの生涯には、ダビィドとヨナファンの生き方が投影されています。

神の子イイススはわたしたち、人をこよなく愛し救われたのです。





聖書人物伝シリーズ 12

 

    ソロモン       主日説教(2010年 5月)

                    旧約聖書「列王記」参照

                    
     神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天も

     あなたをお納めすることができません。わたしが建てた

     この神殿など、なおふさわしくありません。

     わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みてください。

     今日僕が御前に献げる叫びと祈りを聞き届けてください。

     そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。

     ここはあなたが「わたしの名をとどめる」と仰せになった所です。

     この所に向かって祈り求める願いを聞き届けてください。

     どうか、あなたのお住まいである天にいまして耳を傾け、

     聞き届けて、罪を赦してください(『列王記』上 8章参照)

     

知恵と行動の人 聖なる王ソロモン

 ヘブロンで7年、エルサレムで33年、計40年王位にあり、イスラエル

民に平和と繁栄をもたらしたダビィド王(ダビデ王)。

 ダビィドが羊飼い出身、野にあって活躍した軍人出身の王、武と才覚をもって

国家を統一し、国民を総覧した王であったとすると、ソロモンは父ダビィド王の

忠実な後継者、父の教えを守り育て、智恵と行動をもってイスラエルの国に

栄耀栄華をもたらした三代目の王でした。

 ソロモンという名には、「平和」という意味があります。

 

日本にも影響を与えたソロモン王の逸話

 シルクロードを経由して日本に伝わった挿話はいくつもあります。

 たとえば、聖徳太子を厩戸(うまやど)の皇子というのは、救世主イイススが

ベツレヘムの馬小屋で生まれた聖伝承に由来しています。聖徳太子が一度に

7人の声を聴いて裁いたという挿話は、ソロモン王のことをさしています。また聖

徳太子が鳥や獣の声を聴きわけたという伝説もソロモン王の伝説から来ています。

 次に取り上げる、聖徳太子の裁判、いいえ大岡越前守忠相(ただすけ)の大岡裁きで

知られる逸話は、ソロモン王の裁きが原典だといわれています。

 

人の真の幸福を希求し
  
   神の正義を求めたソロモン

 ふたりの遊女が同じ家に住んでいて、ほぼ同時に(3日のうちに)赤ちゃんを

産みました。ところが片方の赤ん坊が死に、その母親は自分の死んだ子を

生きている赤ちゃんと入れ替えました。朝になって、自分の子ではない、死んでいる

赤ん坊を見た母親は仰天します。自分の生きているわが子は、こともあろうに

別の女のベットに寝ていて、その母親はこれは自分の子だと言い張って赤ちゃんを

返してくれません。この争いの裁きがソロモン王の所に持ち込まれたのです。

 ソロモンの面前でも、双方の主張は平行線、今と違ってDNA鑑定など無い時代

ですから、決着はじつに困難と見られました。

 するとソロモン王は、ひと振りの剣を持ってこさせ、生きのこっている赤ん

坊を半分に切り、それを女二人に分けると宣言しました。一人の母は半狂乱

になり、「この子を生かしたままこの人にあげてください。この子を絶対殺

さないでください」と叫びます。もう一人の女は無情にも「この子を切り裂いて分け

てください」と主張します。

 ソロモン王は言います。

「この子を生かしたまま、最初に助けてくれと叫んだ女に与えよ。

殺してはならない、この女がこの子の母である」

 くわしくは列王記上3章に掲載されていますので、ぜひお読みください。

 

ソロモンの知恵の書

 旧約聖書には『ソロモンの箴言(しんげん)』、いまは新共同訳の続編と

して『知恵の書』が掲載されていて、じっくり読むことができます。

 ソロモンは言います。

「主に依り頼む人は真理を悟り、信じる人は主の愛のうちに主と共に生き

る。主に清められた人々には恵みと憐れみがあり、主に選ばれた人は主の訪

れを受けるからである」(3章)

「知恵は自分にふさわしい人を求めて巡り歩き、道でその人たちに優しく姿

を現し、深い思いやりの心で彼らと出会う。教訓を真心から望むことが知恵

の始まりであり、教訓に心に配ることは知恵への愛である」(6章)

 神すなわち知恵(ソフィア)の源泉、神の叡智は、受け入れるにふさわし

い人を捜し求めています。逆に言うと、準備さえ整えられれば、その努力を

日々に重ねていれば、叡智がその人に宿ります。イイススはたびたび宴会

(婚礼)のたとえを語っていますが、礼服を着て待つこと、つまりふだんの

準備がその人に神の知恵を宿らせ、知恵の成長を促進させます。

「知恵は人間にとって無尽蔵の宝、それを手に入れる人は神の友とされ、知

恵のもたらす教訓によって高められる」「知恵は永遠の光の反映、神の働き

を映す曇りのない鏡、神の善の姿である」(7章)

 ソロモンの知恵とは生きている活動体、信と愛の現れです。

「この霊は単一で、多様で、軽妙な霊、活発で、明白で、汚れなく、明確で

害を与えず、善を好む、鋭敏な霊、抵抗し難く、善を行い、人間愛に満ち、

堅固で、安全で、憂いがなく、すべてを成し遂げ、すべてを見通す霊」

「知恵はどんな動きよりも軽やかで、純粋さゆえにすべてに染みこみ、すべ

てを貫く。知恵は神の力の息吹、全能者の栄光から発する純粋な輝き」(7章)

 

祈りの家 神殿の建設

     ダビィドが準備をし、ソロモンが成就する

 人間の歴史上、もっとも優美華麗、荘厳精緻といわれる「神の家」「祈り

の家」を建設したのがソロモン王です。天幕に置かれた「神の契約の箱(聖

櫃・約櫃・アーク)」をようやく、人々は屋根のある神殿に納めたのです。

 その建設資金、建設資材のすべてを準備したのが、父であったダビィド王

でした。でもお金と資材だけで建てたのではありません。

 神殿建築には、基礎が据えられたから7年の歳月がかかっています。

(ちなみに東京復活大聖堂の建設にも7年かかっています)

 この間、イスラエルの国の周辺では平和な状態が続きました。

 ダビィド王は、周辺各国・諸民族との融和・和平につとめ、文字通り、平和な

(ソロモン)状態を築き上げました。建築資材や労働力の提供には、こうした

周辺各国・諸民族の理解と協力があったのでした。

 ツロの王ヒラムはダビィド王との友情ゆえに、子のソロモンの希望をかな

えるため、樹齢3千年以上の巨木レバノン杉を贈りました。

 神様には、最高・最善のものを献げる、これは信仰者の本分です。

 そしてここには、お金や物ばかりではなく、尽くせる限りの心をこめるこ

とも含まれます。

 至高至善の心に、用いることのできる最高の建築資材、これがあってこそ

神の家が建設されます。この心があって、次の世代、多くの人へと信仰が受

け継がれていきます。

「和平を行う者は福(さいわい)なり、かれら神の子と名づけられんとすればなり」

 とは、聖堂(神殿)建設にこそふさわしい聖句です。

 神の祈りの家、聖堂は、「平和の基点」、和平と和解、和睦の原点でなけ

ればなりません。

 その理想的な在り方が、父ダビィドと子ソロモンの信仰の相続です。

 わたしたちはこれを自らの信仰の規範としましょう。

 

聖書人物伝シリーズ 13

    イリヤ(エリヤ)      

                     主日説教(2010年 6月)

                    旧約聖書「列王記」参照

 

          主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。

     見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。

     主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。

     しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。

     しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。

     しかし、火の中にも主はおられなかった。

     火の後に、静かにささやく声が聞こえた。それを聞くと、

     イリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。

     そのとき、声はイリヤにこう告げた。

     「イリヤよ、ここで何をしているのか」 (列王記上19章参照)

                    

旧約の根幹「律法と預言」

  預言者の先駆けとなった聖なるイリヤ

 主イイススの顕栄(変容)の聖像(イコン)で、光り輝く救い主をはさんで、

律法者モイセイ(モーセ)と預言者イリヤ(エリヤ)が神を讃美し、語り合っています。

 十誡(十戒)を規範とする律法の基礎をつくったモイセイ、神言葉を正確に

神の民に伝えたイリヤ。この二人がアダムとエバ(イブ)の陥罪後、救世主

降誕の聖なる道を備える重責を担ったわけです。

 律法と預言が準備、律法が信仰生活の外郭を固める規範・法治、預言が信

仰生活の精神的主柱・心的基準だとすると、救い主イイススは、人の子の限

界を超えて死よりの復活という奇蹟の恵みをもたらす成就の人、旧約の究極

の到達点を表す神の子でした。

 苦難のうちに神言葉を人々に誠実に伝えようとしたイリヤは、主イイスス

の生き方を暗示するような生き方をします。

 正しい預言者は「イリヤの外套を受け継ぐ者」と言われるようになりました。

前駆受洗者イオアン(ヨハネ)がラクダの毛皮の外套を着ていたのは、

格好をつけるためではありません。預言者イリヤの使命を受け継いだ者として、

毛皮の外套を着、神の道を備え、洗礼(聖洗礼儀)をもたらしたのです。

 

イリヤが戦ったバアル信仰とは?

 日本では八百万(やおよろず)の神々といいますが、しいて言えばこれらに非常に

似通った信仰だと言えるかもしれません。(詳細はぜひ旧約聖書を読みましょう)

大地の生産性を神化した偶像礼拝でいろいろな形の偶像を造りました。

 陰惨な側面があり、神殿や祭壇の近くに娼家を設けて祈祷儀式に利用したり(列王上14章)、

動物だけでなく人間の子供を焼き殺して献げたり(エレミヤ19章)、

アシタロテ像やアシラ像と共に崇拝されました。

 ギリシャ・東地中海には乳房の数多い女神、大地豊饒の女神像があります。

 バアルは、セム語で「所有者・主人・夫」と言う意味のある言葉だそうですが、

文字通り、人々を支配した空想・偶像でした。素朴であるだけに、信仰しやすい、

時には残酷な悪魔礼拝にもつながった宗教です。日本でも、明治時代まで

難工事には人柱を立てましたが、これらにもつながる悪しき慣習を含んだ、

感染力の強い怖ろしい信仰がバアルです。

 他の神々に香をたき、無実の人の血を流して礼拝する残酷さを、神は預言

者エレミヤにこう嘆いています。

「わたしはこのようなことを命じもせず、語りもせず、心に思い浮かべもし

なかった」(エレミヤ19章)

 この人命を軽視する悲惨な宗教、信仰を絶つべくイリヤは孤軍奮闘したのです。

 

烏(カラス)に養われた預言者

 列王記上17章は語ります。数年間続いた旱魃(かんばつ・)日照りの中、

ヨルダン川のほとりケリト(ケリテ)で、イリヤはカラスに養われて生活します。

預言者は神に養われました。逆に言うとバアルを信仰している国王を

はじめとする追っ手の攻撃はそれほど厳しかった、つまり多くの人がイリヤが

「神の人」であり正しいことを実践していることを知りながら、聖なる預言者を

匿(かくま)うことを嫌い、偶像を崇拝する権力のある偽善者に味方したと

いうことです。どれほどの孤独と寂寥(せきりょう)がイリヤを蝕(むしば)んだ

ことでしょうか。察するに余りある光景です。

 

サレプタのやもめと共に生活したイリヤ

 川が涸れ、カラスが来なくなるとイリヤはひとり息子と生活しているやもめの

家で養われます。不思議な奇蹟が起こります。

「主が地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない」

 と神は語り、三人を養います。

 男の子が重病で死んだ時には、母親が預言者を罵倒しなじりました。母にしてみれば、

神の人は何もせず、最愛のひとり息子の死を傍観したように見えたのです。

 イリヤは静かに祈り、奇蹟をもって甦らせます。

 イリヤが三度祈り、永眠した子供の上に三度身を重ね、三度息を吹き入れたのは、

主イイススの三日目の復活、あるいは洗礼で三度浸水し新たな生、

危篤の重症者のために祈る聖傅(せいふ)機密などを示唆しています。

 

450人のバアルの預言者を滅ぼしたあと

    イリヤは神の山ホレブ(シナイ山)に遁(のが)れる

 列王記上17章は横暴でありながら無力な、人々の寄生虫として生活している

バアルの預言者 450人を滅ぼしたイリヤの姿を描写しています。ところがこのあと

バアルの信仰者アハブ王の后イゼベルの追っ手から遁れるため、たった一人、

イリヤは荒野を横断し、神の山(ホレブ)に到達します。

 何という孤独でしょうか。

 イリヤに安心できる居場所はないのでしょうか。

 罪を犯し繁みに隠れたアダムに「どこにいるのか」と訊ねた神は、神の山の

洞窟に潜み、追っ手の恐怖に怯え疲れたイリヤに温かく語りかけます。

「イリヤよ、ここで何をしているのか」

 アダムは沈黙のあと言い訳をし、他者に罪を転嫁しましたが、イリヤは正直に

恐怖と疲労を神に告白します。傲岸さも恥もありません。

 神はイリヤに具体的に為すべきことを説明します。さらにバアルに屈せず

イリヤと共に生きる真の信仰者が7千人もいることを言い聞かせます。

 あなたは孤独ではない、一人ではない、あなたを待っていて、共に生きる者は、

国内に少数だがいることを明確に伝え、勇気づけたのです。そして母国に帰り、

後継者の預言者エリセイ(エリシャ)を正しく導くよう後押ししました。

 わたしたちは得体の知れない偶像、空虚な幻影に怯えますが、神の指示は

常に具体的・立体的です。

 たとえば「祈り」、「奉神礼(祈祷)」は極めて実践的ではありませんか。

 

人間味に満ちた

   神によって強くなる人、預言者イリヤ

 イリヤはなんと人間的なのでしょう。わたしたちに近い人なのでしょう。

 圧力に屈しやすく、すぐに弱くなり、あちらこちらと逃げ回り、こっそり

洞窟に引きこもっては、嘆き、泣き、孤独に祈ります。

 でもイリヤは、弱い時ほど強くなる人でした。絶望に身を置きながら、そ

れでも神を信じて生きのびようともがく人でした。

 その格好の悪い、汗くさく泥くさい、みっともないほど苦しんで悶え悩む

生き方のなかに、「復活の信仰」があるのだと、わたしは思います。

 イリヤの不屈の生き方がわたしたちを勇気づけ、希望をもたらします。


 もうひとつ、イリヤがたびたび隠棲した洞窟に注目しましょう。


 正教会では主の降誕祭の聖像での馬小屋は洞窟です。洞窟(地窟)は


神の懐(ふところ)、神の温熱の揺籠(ゆりかご)、生命の安住の地を意味


します。弱った人は神に抱かれて甦り、新たな生命を得、復活するのです。



「生(せい)の神」を信仰するのか

     「死の神」を信仰するのかを問うた預言者

 烏やサレプタのやもめの息子の甦りの奇蹟を見てもわかるように、預言者

イリヤの信仰は、骨太で奥深い信仰です。

 すなわち「生ける神」の「生」を人々に伝達するという生き方です。

 死の恐怖によって人を縛る信仰の、何と多いことでしょう。自然・素朴と

いう仮面をかぶっているだけに温厚で単純な信仰に見えます。たしかに

「いわしの頭も信心から」はわかりやすいのです。

 でもひとたび、イリヤが遭遇した数年間の旱魃や冷害、大洪水や地震など

を体験すると、神の怒りを静めるためにバアルの預言者は、人体の献祭、日

本で言う人柱を要求し、人々は実際にそれを実行してしまいます。

 一見親しみやすい、安心できるかに感じる素朴な宗教が、人の傲岸な欲望の

牙をむき出しにし、人命を軽視し、あってはならない要求をします。

 恐怖の神を作り出しているのは目の前の人間なのに、恐怖に敗北した人々は、

死の神を信仰します。

 神が心に思い浮かべも人に勧めもしなかった人身御供(ひとみごくう)を

強いる偶像礼拝、失われて良い生命などはないのに、平気で人を死に追いや

る傲慢な信仰をわたしたちは何としても拒絶しましょう。

 「生の神」こそが人を真に生かし、人に信と愛とを育みます。

 イリヤの生ける神との会見は、神の恵む生命が、優しく穏やかで静かに人を

養い包むことを体験させます。

 預言者イリヤは、神の懐に抱かれた、生ける神の代理人であると共に、ときには

孤独にさいなまれ嘆き悲しみ、それでも神の光、希望と勇気を求める

わたしたち自身の生き写し、共に人生を走る「生の同伴者」なのです。


聖書人物伝シリーズ 14


    マナッシヤ(マナセ)      

                     主日説教(2010年 7月)

                    旧約聖書「列王記下21章」

                    「歴代誌下33章」参照

 

賢王ヒゼキヤの長男

  偶像礼拝を自ら広めた暗愚の王

 マナッシヤ(マナセ)はわずか12歳で王位を嗣いだユダ王国の王(B.C.687~642在位)、

55年にも及ぶ在位中、その前半生は華やかではありながら、庶民の健やかな生活を

顧みず、残酷なバアルやアシュラ信仰、アシタロテの偶像礼拝にふけりました。

 聖書は残酷な光景を記録しています。

「彼は父ヒゼキヤが取り壊した聖なる高台を再建し、バアルの祭壇を築き、

アシュラ像を造った。さらに彼は天の万象の前にひれ伏し、これに仕えた」

「彼はベン・ヒノムの谷で自分の子らに火の中を通らせ、占いやまじないを行い、

魔術や口寄せ、霊媒を用いるなど、主の前に悪とされることを数々行って主の怒りを

招いた。彼はまた像、彫像を造り、神殿に置いた」(歴代誌下33章参照)

 神殿とは聖王ダビィドとソロモン王の築いた聖なる神の家です。そこに偶像を

持ち込み、神殿が荒れ果てるに任せました。このためマナッシヤの二代あとの王

ヨシヤは、国民から献金を募り、大がかりな神殿改修工事を行っています。

 

預言者イサイヤ(イザヤ)の殺害

 神の人、聖なる預言者イサイヤを殺害した王がマナッシヤでした。

 神の正義、罪と罰、祈りと救贖を訴えつづけ、ついに無辜(むこ)の血を

流し倒れたイサイヤを悼み、預言者エレミヤは語ります(2・2930)。

「なぜ、わたしと争い、わたしに背き続けるのか、と主は言われる。わたし

はお前たちの子らを打ったが無駄であった。彼らは懲らしめを受け入れなか

った。獅子が滅ぼし尽くすように、お前たちは預言者を剣の餌食とした」

 

アッシリア捕囚 

  鉤(かぎ)を通され 足枷につながれ 連行された王

 背教者マナッシヤは、神の怒りにふれます。戦争に敗けた王は多くの民と

共に、鼻や掌に鉤を通され、一対の青銅の足枷につながれて、アッシリア王

国の首都、バビロニアのニネベに連れて行かれます。

 そこで王と国民を待っていたのは、苛酷な強制労働でした。

 王は初めて、おのれの罪深さに感じ入ります。自分だけではなく、王の一

族、国民の大多数を奴隷状態に置きました。国民はみな離反し、相互に疑心

暗鬼となって疑い合い、生きのびるために、きのうまでの友を裏切り、家族

・親族すら頼りになりません。多くの民が愛する母国に帰ることができず、

異郷の地で永眠・埋葬され、いまや安息の祈りを献げる者すらありません。

 こういう国、国民、隣りの人を生み育てたのが、マナッシヤ自身でした。

 目の前の惨状を憂い嘆き、悔い改めるための「告解の祈り」が「マナッシ

ヤの祈り(祝文)」です。マナッシヤは生まれて初めて神の所へ帰りたいと

思ったのです。

 数年後アッシリアはマナッシヤや国民を解放し、ユダヤへ、エルサレムへ

の帰国をゆるします。往時の威勢のある独立国ではなく、アッシリアの同盟

国というよりも、属国・植民地ですが、それでもユダ王国は最小限の自治を

回復します。

 「喉元過ぎれば熱さを忘れる」の故事の通り、マナッシヤは偶像礼拝に戻

ったのでしょうか。いいえ王は主なる神のもとに帰り、誠心誠意の祈りを献

げました。たいへんな回り道をして、ようやくマナッシヤは神の子となりま

す。ルカ福音書の語る、家出した息子よりも凄まじい、近親者も含めたすべ

ての人を巻き込んだ、荒れ狂った放蕩息子だったわけです。

 しかし多くの国民は、神のもとへと帰った王の姿を見倣いませんでした。

アッシリア捕囚後も反省せず偶像礼拝を続けました。残念ながらマナッシヤ

が蒔いた悪魔礼拝の種は国民の中に根深くはびこったままだったのです。

 

預言者イサイヤの致命(ちめい)

  マナッシヤは聖使徒パウエルのひな型(前兆)

 マナッシヤの預言者イサイヤ殺害は、聖使徒行伝(行実)、聖致命者首輔祭

(しゅほさい)ステファンの致命(殉教)と重なります。聖使徒パウエル(パウロ)が

聖ステファンの殺害を人々に奨励し冷然と傍観したように、マナッシヤは預

言者イサイヤの殺害を指令し、冷酷に傍観したのです。

 その結果、サウロ(洗礼を受けてからパウエルになった)はダマスコで神

の奇蹟によって視力を失い、主イイススの声を聴いて衝撃を受け、三日三晩

飲食せずに祈りつづけ、ついに悔い改めて、福音を伝える聖使徒となります。

 マナッシヤが鎖につながれ、悲惨な生活を体験し、はじめて回心したこと

に酷似(こくじ)しています。

 

人の思いを越える神の救い

  神は人に向かって叫ぶ「信と愛とをもって近づき来たれ」

 たとえば殺人教唆(きょうさ)と実行犯の違いはあるのでしょうか。

 ありません。殺人者は殺人者です。

 しかし神は、悔い改め、贖罪、救いをもって、その人に臨みます。

 教会が本質的に自殺や死刑を否定する真因はそこにあるのです。

 生きていればこそ、神と出会い、悔い改めて生き直す機会が生まれます。

 裏切り者のイウダ(ユダ)は罪を償うために自殺した。死には死をもって

報いるべきだと叫ぶ人はいることでしょう。

 しかし主イイススと聖人らは叫びます。

「信と愛とをもって近づき来たれ」と。

 死んだとて、あるいは死刑にしたとて、その人は「生命の責任」はとれません。

死んだ人を生き返らせる事は不可能です。ならば神の与えたもうた生命を

全うし、生きて、悔い改め償うことが求められています。苦難の道ですが、

「恩讐(死)をのり越えて生命の愛に至る」ことが人の生きる道です。

 そんな都合の良いことがゆるされていいのかと怒る人もいるでしょう。けれども

神の賜る刑罰と救いの恵みは、人の想像を遙かに超えています。

「死よりの三日目の復活」

 復活の信仰は、この世に有りえない究極の奇蹟を祈る信仰。

 そうです。

 復活の信仰は、わたしたち一人一人の生き方、生活の中心です。

 

痛悔(イウデヤマナッシヤの祝文

全能者、わが先祖アウラアム、イサアク、イアコフ、及びそのなるよ、

天地とそのてのりとをり、爾が誡めの言にて海り、

じ、るべくしてえたるをもってこれを封印せり。

万物はそのれ、く。けだし光栄荘厳なる

前には誰も立つ能わず、罪人における厳しき怒りは堪え難し。

しかれども契約れみはく、し、

けだし仁慈にして寛忍鴻恩にして人の罪悪を憂うる至上の主なり。

爾主よ、爾が仁慈の多きによりて、爾の前に罪を犯しし者に

痛悔と赦罪とを契約し、爾が慈憐の多きによりて、

罪人のために痛悔を定めて救いを得しめたまえり。

ゆえに
爾主義人よ、にしてさざりしアウラアム、

イサアク、イアコフのためには痛悔てず、すなわちわれ罪人のために

これを立てたまえり。けだしわれ罪を犯ししこと海の砂の数よりも多し。

よ、わが不法し、わが不法し、

われは不義きによりて、ぎてきをるにえず。

われはくのにてめられ、わがぐるわず、

暫時んずるわざるにれり。

けだしわれはらせ、し、わず、

らず、れしことをい、誘惑くなせり。

わがめて、仁慈うをる。

よ、われせり、われせり、われはわが不法る、

しかれどもりてむ、よ、われをしたまえ、

われを赦したまえ。われをわが不法と共に亡すなかれ、

くわがうなかれ。われを地獄むるなかれ。

けだしよ、痛悔するなり、爾の仁慈を傾けてわが上に顕し、

なるれみによりて、われ不当いたまえ。

われけるめん。

けだし衆軍う、光栄は、世々す、アミン。

(*ふりがなの付された祈祷文は『聖語拾穂』を参照しましょう)



聖書人物伝シリーズ 15

    イオナ(ヨナ)      

                     主日説教(2010年 8月)

                    イオナ(ヨナ)書 参照
      

異邦民への呼びかけを拒否した預言者イオナ(ヨナ)

 アッシリア王国の首都ニネベの崩壊は、紀元前612年頃と言われていますから、

その少し前の時代の話です。マナッシヤ(マナセ)王のとき、ユダ王国を占領し、

国民の多くを強制労働に駆り出した、強大な帝国の首都ニネベ。

 この大事件は「アッシリアの捕囚」といわれています。

そこへ神の言葉を伝えるように命ぜられた預言者イオナは、こともあろう

に逃げだします。神はこうイオナに告げました。

「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ」

 イオナの乗った船は、荒れ狂う海の激浪に翻弄され、人々は、船の沈没、

死の恐怖に震えます。ところがイオナは船底で熟睡しています。船の乗員を

危険にさらした真犯人はだれか、くじ引きをします。すると、寝ぼけ眼のユ

ダヤ人にあたります。

 イオナは、仕方なく神の前から逃げたことを白状します。

 そこで人々は(ちょっと乱暴な話ですが)、イオナを神のもとに帰すべく

海に投げ入れる覚悟を固めます。しかし人々は、イオナを海に投げ込まずに

神の怒りが解けないか、ぎりぎりまで船の操作して、みんなが助かる努力をします。

かれらは、イオナを海に投じる前には切々と祈ります。

「ああ、主よ、この男の命のゆえに、滅ぼさないでください。無実の者を殺

したといって責めないでください。主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから」

 イオナが海に呑み込まれた時、荒れ狂っていた海は静まりました。


預言者イオナの祈り

 われ、わが患難の中に主に呼びしに、彼われに聴けり、地獄の腹より

 呼ばわりしに、爾わが声を聴きたまえり。爾われを淵の中、海の心に

 投げたるに、流水われを環り、爾の波濤、爾の巨浪は悉わが上を渡れり。

 われ言えり。われ爾の目の前より逐われたり。また爾の聖なる殿を

 観んや。水はわれを環りて、わが霊に及び、淵はわれを囲み、

 わが首は岩の間を潜れり。われ地の中に下れり。

 その永遠の柱と關とは、われを閉ざせり。主わが神よ、願わくは

 わが生命は淪亡より救われん。わが霊われを離れんとする時、われ

 主を記念せり、願わくはわが祈りは爾に至り、爾の聖なる殿に至らん。

 虚しくして偽りなる諸神を敬う者は、おのれの矜恤者を棄てたり。

 しかれども、われ讃美の声をもって爾に祭りを献ぜん。

 わが誓いしことは、これを償わん、救いは主に在り。

            ☆ふりがな付きの祝文は『聖語拾穂』参照

 この祈りは、主の受難、十字架、三日目の復活を証するひな型とされてい

ます。ただし、主イイススの場合とは大いに異なります。

 イイススは、人々の贖罪主(しょくざいしゅ)、「死をもって死を滅ぼし」

新たなる生命を賜う救世主、復活の主として、苦難を受けて死の淵に臨んだ

のに、イオナは、神の言葉を受けることを拒絶し、逃げ回り、人々がイオナ

の命を救おうと懸命の努力をしていた時には熟睡したり、ふてくされたよう

にわたしを海に投げ入れたらみんなが助かると、投げやりに放言しました。

 なんと傲慢で、自分勝手な預言者でしょうか。聖書の中に、これほどわが

ままで、神の言うことを聴かない預言者は、登場しません。

 しかしながらこのイオナの姿は誰かに似ています。そうです。

わたしたち一人一人に似ています。神は信じたい、でも神の「正しい導き」

「教導」などには、うまく応えられない。ときには反発し、神を無視しよう

とする。このわたしたちの姿の中に「イオナ的な性情」が垣間見えます。


わたしは神の言葉なんかを聴きたくない

 アダムとエバが陥罪したとき、エデンの園を歩く主なる神が「あなたはどこにいるのか」

と呼びかけた時、二人は逃げ回り返事をしませんでした。

 この神と人との距離感を「悪」といいます。

 神から離れれば離れるほど人は命から遠ざかり、死に近づいていくことを

「罪」と言います。これが罪と悪、罪と死との相関関係なのです。

 逆にいうと、神に近づけば近づくほど復活の生命、永遠の命に、信ずるこ

と、神と人とを愛することに戻っていきます。

 神の預言者でありながら、イオナは、この真実に目を背け、神から逃げます。

神の真意、意志など知りたくないイオナ。なぜこれほどに頑なで、頑固なのでしょうか。

 イオナの胸中に去来する思いは何なのでしょうか。

 ところが皆様が聖書に読むように、本人が反発し別行動をとればとるほど、

本人の意に反して、神の言葉・神の思いは実現していきます。

 これも現実です。目の前に解き明かされた神の真実を、人はほんとうは、

「現実」「事実」として受け容れねばならないはずです。

 知っていながらできないイオナの姿は、ある意味滑稽であり、おかしみさ

感じてしまいます。信と不信の間(はざま)に、のたうち回っているイオナ、

これがわたしたちの姿の一描写なのかも知れません。


人の思いを越えて人々を救う神の愛

 イオナは、巨大な魚の腹から吐き出されると、これまた投げやりに、仕方

なしに、ニネベの町で神の言葉を伝えます。

「あと40日すれば、ニネベは滅びる」

 身も蓋もないとはこのことです。これのどこが救いの預言なのでしょうか。

イオナもまさか、ニネベの人々が神の前に悔い改め、祈りの日々を送り、神

がかれらを赦し救われるとは思いもしませんでした。

 イオナは毒舌を吐き、神を詛い、自らの死さえも希望します。

「わたしにはこうなることがわかっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、

忍耐強く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。

主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです」

 このあと、とうごまの木の話がつづくのですが、イオナは、神の愛の独占

を図ったと言うよりも、自分以外の誰かが神に愛され、救われる光景を見た

くなかったと言った方が正しいでしょう。他者が神に受け容れられ、救われ

る事実を認めたくない。これは人の驕慢(きょうまん)、一面の真理でもあるのです。


神は罪人の祈りや願いを聴き入れるのか

 結論から言うと、どんな職業、どんな前科の咎人(とがにん)であっても、

その人が、全身全霊をあげて祈れば、その願いを神は聴き入れるでしょう。

 ひとは理不尽だと言うことでしょう。死罪こそ、あいつにはふさわしいのに。

あの人の悔い改めは、生きのびるための方便で、形だけのものじゃないか、と。

 それでも人の心の奥底を知る神は、その人を救われるかもしれません。

ユダヤ人を捕らえ、半ば奴隷化したニネベの人でさえ救われたのです。


乱暴な祈りや願いであっても神は聴き入れるのか 

 おそらくそれが、だれかの幸福や希望、救いの道につながるのであれば、

神は、傍目に観て、粗暴で野卑な祈りであっても受け容れることでしょう。

 祈りとは、機密とは、そういう側面を秘めています。

 救いは人の浅慮を覆い、人の良識を越えて、恵まれるのではないでしょうか。

イオナの悔し紛れの絶叫が、神の底知れぬ愛憐を裏付けています。

「わたしにはこうなることがわかっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、

忍耐強く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。

主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです」

 

聖書人物伝シリーズ 16

    ダニイル(ダニエル) 

                    主日説教(2010年 9月)

                   旧約聖書「ダニエル(ダニイル)書」

                      日本聖書協会 新共同訳 

                     旧約聖書続編「スザンナ」参照

 

長命をたもったとされる半ば伝説の預言者

 紀元前6世紀、ちょうどユダ王国がバビロニア王国に占領され、人々が囚

われて連行された頃(いわゆるバビロン捕囚)、その時代に活躍した預言者

がダニイル(ダニエル)です。

 やがてバビロニア王国はペルシャ帝国に滅ぼされ、ペルシャ王クロスはユ

ダヤの人々を解放します。のちの信仰者はこのクロス王と、マケドニア出身

でのちに東方遠征を行ったアレクサンドロス(アレクサンダー)大王を、す

べての捕囚人(とらわれびと)の解放者、すなわち救世主イイススのひな型

・先駆者とみなしました。

 

先見者として歴代の異国の王にも尊敬された預言者

 ダニイル書を読むと、たとえばネブカドネツァル、ベルシャツァル、ダレ

イオスなど、歴代の王がダニイルを畏敬していたことがわかります。

 

三人の信仰者(三人の少者・三童子)を記憶したダニイル書

 ネブカドネツァル王は、真の神を信仰するユダヤ人シャドラク、メシャク、

アベド・ネゴに怒りを発します。王が平原の中央に建てた黄金の偶像を礼拝

しなかったからです。

 そこで王はこの3人の家臣を縛り、燃えさかる炉(溶鉱炉)の中に投げ込

みます。一瞬にして焼け死に灰になってしまうはずなのに、3人は平然と炎

の中を歩み、なおかつ人数が4人に見えたことで王は恐怖に戦きます(ダニ

エル書3章)。

 いま日本聖書協会新共同訳聖書では、旧約聖書続編としてダニイル書補遺

「アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌」を収録しています。

 正教会では「三童子の祈り」、祈祷文として祈りに用いているほか(『聖語

拾穂』参照)、主日前晩祈祷(土曜日夜の晩祷)で、こう祈っています。

「生神女や、われら信者はなんじを見て、霊(たましい)ある炉(いろり)

となす、尊まるる者が三人の少者を救えるごとく、先祖の崇め讃めらるる神

は、なんじの腹において、全世界を改めたまえばなり」(早課第1カノン、第7歌頌)

 4人目の人物は、生神女より生まれた救い主、神の子イイススであること

を証し、その預言の讃歌を歌っています。

 

奸計にはまり獅子(ライオン)穴に投ぜられたダニイル

 ダニイル書6章には、ダレイオス王のとき、ダニイルの栄達に嫉妬した家

臣がダニイルを中傷し、王が獅子穴にダニイルを投げ込む話が載っています。

 ダニイルは飢えた獅子数頭がいる洞窟に閉じこめられ、一晩を過ごします

が、まったく無傷で翌朝生還します。おどろくべき奇蹟です。

「ダニイルは獅子穴にありて手を伸べて、獅子の口を閉ざし、敬虔の篤き少

者は徳を帯び、火の力を滅ぼして呼べり。主のことごとくの造物は主を崇め

讃めよ」(早課第4カノン、第8歌頌)

 

少年期から叡智・英明を謳われ

  神学者聖イオアン(ヨハネ)のひな型とされる

 聖使徒・福音者・神学者聖イオアン(ヨハネ)は、救世主イイススの12

人の弟子の中で最年少、おそらく十歳代だったといわれています。このイオ

アンに似ていて、青少年期より活躍したのがダニイルです。

 

スザンナを助けた叡智の人ダニイル

 くわしくは日本聖書協会新共同訳、旧約聖書続編、ダニイル書補遺「スザ

ンナ」を読んで欲しいのですが、人々の尊敬を集める民の長老であるにもか

かわらず、よこしまな欲情にかられた2人の裁判官(士師)は、思いどおり

にならなかった美貌の既婚女性スザンナを讒訴(ざんそ)します。

 スザンナが庭で、見知らぬ若者と不倫をしていたという話をでっち上げた

のです。律法によるとスザンナは死刑になってしまいます。

 スザンナは涙を流して無実を訴え、心より神に祈りました。

 そのとき「若者ダニイル」が現れ、作り話の裁判でスザンナに有罪を下し

た2人の裁判官、それぞれ一人一人を喚問しました。

 その情事を見た現場は何の木の下かと問うと一人は「乳香の木の下」、一

人は「柏(かしわ)の木の下」と返事をします。

 その結果、スザンナではなく2人の不実な裁判官が死刑に処され、あまね

く人々を包まれる神の眼、神の正義が実現します。

 この短編の探偵小説のような展開は胸のすくような展開です。

 わたしが以前書いた物語『破門審問』(新世社)を書いた時、この若き日

のダニイルの逸話を少し参考にしたことを補足しておきましょう。

 

正義を愛した優しい信仰者ダニイル

 この裁判の話は、サンタクロースのモデルとされるミラ州リキアの主教、

奇蹟者聖ニコライ(4世紀)を連想させます。

 聖ニコライも、無実の罪で処罰されそうになった人を、事件の真相を明ら

かにすることで救ったからです。

 主なる神、主イイスス、生神女、聖人らは、衰え弱り疲れはて、希望を見

失い、絶望に心ふさがれた人に希望の光を灯す存在です。

 ダニイルは若い日から、この愛の光に満たされていました。

 

あなたの若き日に神を覚えよ

  これを生涯つらぬいた預言者ダニイル

 「コヘレト(伝道の書)」を書いた賢者はこう語ります。

「青春の日々にこそ、お前の創造主を心に留めよ。苦しみの日々が来ないう

ちに。歳を重ねることに喜びはない、と言う年齢にならないうちに」(12章)

 ダニイルは年長じて、神学者イオアンのように黙示的・幻想的な神の預言

を体験しますが、幼少期よりの信仰が、ダニイルの信仰生活を支えたことが

わかります。ダニイルは不思議な神の言葉を預言書に書き留めています。

「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お

前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう」(12章)

 これは主の再臨、復活の預言だと言われています。

 しかしながら一方で、高齢に達し、希望を見失い、生きる活力をしぼませ、

他者の幸福に嫉妬し、不幸に生きる人の何と多いことでしょう。

 そういう人に向かってダニイルは、神への信と愛に満たされよ、人への信

と愛に満たされよ、雄々しく立ち上がって生きよと静かに激励します。

 生命の甦る永遠の日々、力に満ち希望に溢れたあの若き日のダニイル、そ

う、それはわたしたち一人一人でもあるのですが、年齢を重ねるたびに信仰

者は、かならずや立ち上がり、復活するのです。それをダニイルは生涯を通

して表信しつづけました。



聖書人物伝シリーズ 17

    トビトとトビア 

                    主日説教(2010年 10月)

                     旧約聖書続編「トビト書」参照

                      日本聖書協会 新共同訳 

                      

幸福を求める信仰家庭、親子の絆・情愛を語った一書

 この小説仕立てのような、軽快なストーリー(筋たて)、立体的な人物像

で描かれたトビト書は、紀元前2世紀頃にまとめられたと言われています。

しかしながら物語の内容は、さらに遡ること5百年ほど、ユダヤ人らがアッ

シリアの捕囚をうけた時代のことで、その後ユダヤ人はバビロニア王国の捕

囚もあり、ディアスポラ(離散の民)として世界各地に散って、信仰を守り

育てるという苛酷な試練を体験します。

 こうした時代背景にありながらも「トビト書」は、信仰をもって生きるこ

との幸せを、つらい出来事を体験しながらも、つねに明るく語っている希有

な書だということもできます。

 

捕囚で強制連行されたトビトの信仰

 ユダヤの故郷ナフタリからニネベへ強制連行されたトビトは、ハンナ(ア

ンナ)と結婚し、息子トビア(トビアス)が生まれます。異郷にあってもト

ビトは、毎日の祈りを忘れず、律法に忠実、困った人を見捨てることができ

ず、長男トビアが発見した、殺害され路傍に投げ出された見ず知らずの遺体

(死者)を、心をこめて埋葬したりもしています(2章)。

 ところがトビトは不幸に襲われます。眼病を患い、失明してしまったので

す。失望したトビトは悲痛な苦悩の祈りを献げました(3章)。

 トビトは自分の死後の妻子の行く末を案じます。トビトはメディアに住む

友人ガバエルに20年前、10タラントのお金を預けていました。それを息子ト

ビアに返してもらい、自分の死後の生活費とするよう息子に託します。

 その旅の伴侶として、ひとりの若者・青年が登場します。

 

守護天使ラファエルとの旅

 トビアと旅をしたのは、天使ラファエルです。

 信仰者には、守護天使あるいは守護聖人が付き添っています。

 その人の目には見えないことがあるかも知れませんが、有形無形さまざま

な形・出来事で、信仰者は彼らの恩恵を受けています。

 たとえば「良心のささやき」を聴いたことのない人は、おそらくいないで

しょう。悪事をためらわせ、善行をうながす心・意志。そこに守護天使や守

護聖人の働きのあることを忘れてはなりません。

 

トビア 7度夫を失った女性サラを救い結婚する

 旅の途中トビアは、7回結婚し、そのたびに悪魔の働きによって新婚初夜

に夫を失ったサラという女性と出会い、サラを救い、結婚します。

 男女の出会いと結びつきとは不思議な神秘です。

 ユダヤ・イスラエルの信仰観・人生観は、すこしばかり日本人に似ていま

す。不幸が連続して起こる家庭や人を見かけると、私たち日本人の中には、

不幸に襲われた人が悪いことをしていないか、あるいは先祖が悪事をなして

いないかと言ったりします。因果応報の思想です。でもその当事者が悪いわ

けではなにのに、突如として襲いかかってくる不幸があるのです。

 人力では払い除けることのできない絶望的な不幸。これを耐え忍び、打ち

勝つというよりも、その猛火(業火)、狂暴に浪たち風まく嵐の中をくぐり

抜けていくためには、神と人とを信じる「信仰心」が必要です。

 ほんとうに頼るべきは、お金や権力ではありません。

 苦難にある時に助けて下さる友人、そして何よりも神の臨在です。

 それをトビトとハンナ夫婦、息子トビアと新妻サラ、旅の付き添い天使ラ

ファエルが教えてくれます。

 

もう一人の旅の伴侶 それはトビアのペット 犬

 6章を読むと、トビアのペット、犬が一匹、旅のお供をしたことが描かれ

ています。家畜やたとえ話の小動物ではなく、信仰者のペットが登場する聖

書が、このトビト書です。

 犬ほど、無償の信頼と愛を恵み寄せてくれるペットはいないでしょう。

 数万年前から人間は、すでに番犬や狩猟犬として犬をペットにしていたと

いわれています。こんなに人に忠実な友なのに、日本では、保健所などで殺

処分されたり、野山に放り出されて死んでしまう犬や猫は、年間40万匹を

超えると言います。

 こういう残酷な仕打ちをしてはなりません。

 創世記6~9章「ノアの箱舟」では、多くの動植物が人間と共に船内で共

同生活を営みました。そのあとノアは、動物を船から解放しつつ神に祈りを

献げますが、それはエデンの園(神の楽園)の回復の予兆でもあります。

 「契約の虹」は、神が人と動植物へ恵んだ「希望の橋」だったのです。

 トビアとラファエルの長旅をいっしょに踏破し、疲れた旅人・信仰者にぬ

くもりと癒しを与えてくれた犬。このラファエルや犬を見ると、常にさりげ

なく神は信仰者と共にいる、あなたは気づいていますか、と言いたくなりま

す。トビト書は信仰生活の伴侶の尊さを教えてくれる貴重な聖書でもあるの

です。



聖書人物伝シリーズ 18

    イオフ(ヨブ) 

                    主日説教(2010年 11月)

                   旧約聖書「イオフ(ヨブ)記」参照


 主は大風と雲の中よりイオフに言えり。爾、天下の広さを窮めしか、

 その幾ばくなるを、われに告げよ。光はいずれの地に住めるか。

 晦冥のある処はいずこなるか。爾われをその境に導き得るか、

 これらに往く途を知れるか。爾これを知れるならん。けだしその時

 爾すでに生まれたり、爾の年の数は多し。爾、雪の府庫に入りしか、

 雹の府庫を見しか。これらは爾の用に、敵のある時、征戦と争闘との

 日のために蓄えられしか。イオフ答えて主に言えり。われ知る、

 爾はいっさいを能す、爾謀るところにおいて能せざるところなし。

 知ることなくして議を蔽う者は誰ぞや。然りわれはかつて悟らざること

 を言い、知らざるところの奇妙なることを述べたり。主よ、われに聴け、

 われも言わんためなり。われ爾に問わん、爾われを教えよ。われ先に

 耳をもって爾のことを聞きしが、今はわが目をもって爾を見たり。

           (ヨブ記38章、42章、ふりがな付は『聖語拾穂』参照)

 

理想的な信仰者像イオフ

「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」義人イオフ。

イオフには、7人の息子、3人の娘、羊7千頭、らくだ3千頭、牛5百、雌

ろば5百、多数の使用人があり、東の国一番の大富豪でした。

 おまけに10人の子供は働き者で仲が良く時折兄弟姉妹が集まっては宴会

を開いています。イオフは子供たちを集めては共に祈りました。

 「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思い、神に

ゆるしを請うていたのです。

 このようなすばらしい信仰者、父親、家庭に、たいへんな不幸が襲いかか

ります。

 

神と悪魔

 悪魔は神に言います。神がイオフを守っているから、イオフは信仰者とし

て立派なのだ、家族と全財産を失ったら、面と向かって神を呪うにちがいな

い。なんとおぞましい進言でしょうか。

 ところが神はこの悪魔の試みを受け入れます。

 羊、らくだ、牛、ろばなどの全財産と10人の子供が全滅。生き残ったのは、

その惨状を報告に来た4人の使用人とイオフ夫婦の6人のみでした。

 イオフは祈ります。

「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主

の御名は讃めたたえられよ」

 これを見た悪魔はさらに神に言います。

「イオフに手を伸ばして骨と肉ふれてごらんなさい。神を呪うにちがいあり

ません」

 おそろしいことにイオフは、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病に

かかりました。イオフは頭から灰をかぶってその中にすわり、よほど体中が

かゆかったのでしょう。素焼きの陶器のかけらで全身をかきむしり、血まみ

れになりました。この様子を見た妻は言います。

「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って死んだほうがましです」

 こう言われたイオフは妻をたしなめます。

「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは神から幸福をいただいたの

だから、不幸もいただこうではないか」

 お前まで、と言ったのは、おそらく周囲の人全てが、イオフを襲った不幸

のすさまじさに恐れ戦き、こんな不幸をもたらした神を呪うように勧めたか

らでしょう。

 イオフの親友3人は、友人の変わり果てた姿を見て愕然とします。

 3人はイオフのように着物を裂き、灰のなかにすわります。ですがあまり

の深い嘆きと苦痛を我が事のように感じ、7日7晩、ひと言も慰めの言葉を

かけることができません。

 イオフの苦悩の重さは、わたしたちの想像を絶します。

 

根源的な疑問に正面から向き合ったイオフの生き方

 イオフの苦悩の深さと重み、あとでもう一人加わった4人の親友の意見、

さいごに語られる神の言葉、これらはイオフ記を読んで体験して欲しいもの

です。

 ここで語られているのは、平たく言うと、世の中にはなぜ幸福な人間と不

幸な人間がいるのか、あるいはなぜ幸福な人間・家庭が時として不幸のドン

底に陥るのか、神が人間に不幸をもたらしているのか、神が悪魔を創造し、

悪魔は神の命令(ゆるし)で人間を不幸にすべく活動しているのか、という

信仰者・人間が向き合う、根源的な疑問、人生の難問です。

 

いま不幸にある人を納得させる直接の解答はない

 イオフ記を哲学書、深遠な思想文学の名作とする人が古今から大勢いま

す。じつはいま述べた人間の根源的な疑問に対する、わたしたち人間が納得

できる解答は、イオフ記にも、聖書にもありません。ないというよりも、天

地創造後のアダムとエバ、カインとアベルまで遡るほか、理解のしようがあ

りません。

 信仰者を襲う世の不幸は、神や悪魔、あるいは本人に原因がある、本人の

せいだとは言えないのです。

 

人は神の正面に立つ勇気があるのか

 神はイオフに、いいえ人間に言います。

「(神の正面に立つ勇気があるのなら)、わたしの前に立て。あえてわたしの

前に立つ者があれば、その者には褒美を与えよう」(41章参照)

 神は不幸にある者にあえて言います。

「神の前に立て」と。

 これに対してイオフはこう答えます。

「あなたのことを耳にはしておりました。しかし今この目であなたを仰ぎ見

ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」(42章参照)

 こんなに熱心な信仰者であったイオフが、初めて神と出会った、神を見たと

告白しています。なんということでしょうか。これまでの自分の信仰は、ウワサ話を信じる

空疎な領域にとどまっていたと切実に語っています。

 これは非常な驚きです。

 アダムとエバ、殺人者カインそして救い主を裏切ったイウダ(ユダ)も、

神の正面に立たず、顔を背けたり、神に背を向けたりして生きました。

 苦難の渦中の人は、人にも神にも近づき会話したり助けを求める余裕がな

いことでしょう。「誰の助けてくれないにちがいない」、孤独なのです。

 でも人は不幸にあった時ほど、顔をあげ、神の正面に立つべきではないでしょうか。

 イオフは、幸福も不幸も、全てを体験しくぐりぬけて生きるなかで、人間

は神に出会う、神の正面に立つ勇気が持てる、そして人間の生きる本質に出

会うと言っているのかもしれません。不幸な事態を乗り越えよ、などという

安易な希望的観測ではなく、惨禍に呑み込まれたままくぐり抜けて生きる、

という壮烈な生き方、その中で真の自分「人間」そして神に出会う、と飄然

と語っています。

 

受難者それは復活者への道

 イオフは受難者、多難者といいます。

 思えば、人間最初の致命者は、義人アベルでした。アベルは受難者でした。

主イイススは致命者(殉教者)でありますが、イイススを殺害したのは同じ

信仰を抱いていたはずのユダヤ人でした。そういう意味ではイイススは受難

者です。

 不幸、受難、人は同じには見ないでしょうが、人の持つ根源的な疑問に答

えているのはイイススです。

 イイススはその全生涯を通して、イオフの苦難とわたしたちの疑問に答えた

のです。

 神の正面に立ち、「神と共に生きる」、イイススは神の生命の中に生きてい

ます。わたしたちもイイススと共に、神と共に生きましょう。




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