移りゆく心

 

本作は、拙作『妖精の住む街』の続編に位置します。なるべく単独で話が通るように書いたつもりですが、お時間が許すようでしたら前作をお読みいただいたのち、改めて本作を読んでいただければ、より楽しめるものと愚考する次第です。

 

「僕はね、美しいものが好きなんだ」

細くて白くて冷たい指先が、少女のやわらかい背中に触れる。

しかし少女は何の反応もしないまま、うつろな瞳で宙を見つめていた。つやつやと光り輝く見事な黒髪が小さな尻にかかるほど長く、流れ落ちる滝のようだ。背中に触れた指の白さにも負けないほどの、陶磁器のように真っ白な肌は、今はほんのり桜色に染まっている。

銀色の長い髪をたらし、切れ長の瞳で少女を眺めていたレイナスは、大理石の湯船から手桶で湯をすくって優しく少女にかける。かけられたお湯が真珠のように転がり肌を滑り落ちる。その幼さの残る身体は、こうして毎日、レイナスの手によって隅から隅まで清められるのだ。

「美しいものが、好きなんだよ」

もう一度つぶやいたレイナスは、湯をかける作業をやめ、ゆっくりと少女を抱き寄せた。

背中から抱きすくめられ、それでも少女はまったく反応しない。

レイナスは、大理石から切り出された彫刻のような裸身のまま、その少女の身体を抱きしめて、柔らかな肌に指を這わせる。どう見ても淫猥な行為であるにも関わらず、その光景はとても美しかった。一枚の絵画のように美しかった。

なぜなら。

少女を抱きしめる身体が、『少年と言っていいほどの若さ』だったからだ。

均整の取れた彫刻のような身体は、しかし、その落ち着いた物腰や言葉には到底そぐわない、異常と言って良いほどの若さだった。己が身体を洗ってやっている少女と、五歳は離れてないだろう。黙って並んでいれば、美しい兄妹のように見える。

その少年の物腰はしかし、完全に成熟した大人の男のそれだった。

少年の身体を持ったその男の瞳には、怜悧な、見るものの魂をつかんで引きずり出し、ヤスリにかけるような恐ろしさと違和感を感じさせる光が宿っていた。まぶたを閉じていればあどけなささえ感じさせるその顔には、満足げな、酷薄な笑みが張り付いている。

やがて、惜しむかのようにゆっくりと少女の身体を引き離し、レイナスは立ち上がった。湯殿の出入り口へ歩き出すと、控えていたメイドが数人、音も立てずに近づいてくる。十代半ばにしか見えない身体を数人のメイドに拭かせながら、男は独り言のように小さくつぶやいた。

「風邪をひかせないように」

ガウンをまとって歩き出す主人に、湯殿の外で待ち構えていた秘書が続く。

身体を拭いていたメイド達は、少年のような主人の姿が見えなくなると、あわてて少女に駆け寄った。万が一にも風邪などひかせたら、彼女たち全員、地獄を見ることになる。

必死のメイドたちによって、湯船に漬けられた少女は、じっと天井を見ていた。いや、天井にある天窓から見える夜空と、そこで瞬く星々を、食い入るように見つめていた。黒く大きな瞳に言い知れぬ憂いを湛(たた)えながら、いつまでも見つめていた。

やがて充分に暖められた少女は、湯船から引き上げられ、大きく柔らかいタオルで拭われる。

数人のメイドに促され、少女は与えられている二階の自室へ戻った。

彼女ひとりを住まわせるにはいささか無駄が多いだろう、ちょっとした会議室ほどの広さを持つその自室で、最低ひとりはいるメイドに見守られながら就寝する。メイドは少女が眠りにつくと、静かに部屋を出た。

少女は闇の中でゆっくりと眼を開ける。

電気をつけると自動的にメイドの控え室に知らされてしまうので、そのまましばらく闇を見つめて目を慣らした。やがて瞳孔が開き真っ暗闇だった室内が、薄ぼんやりと見えるようになってきた。少女は静かに静かにベッドから降りると、そうっと窓辺に寄って分厚いカーテンを開く。

もうずっと前から決めていたことだ。

窓辺に立つ大きな木の枝を見つめてから、クローゼットに近寄ってそっと扉を開け、手近の服を急いで身につける。いつもの習慣で、これからやることに必要のないレースの髪飾りまで付けていることに、少女自身は気づかない。

そして、すべての服に小さなチップが仕込まれていて、すぐに居場所がわかってしまうことも、もちろん少女は知らない。

着替えを終えると、大きく息を吸った。

生まれて十年あまり、初めての大冒険だ。ゆっくりと息を吐き出した少女は。

意を決して、窓を勢いよく開ける。

じりじりじり!

とたんに警報が鳴り出した。しかし少女はまったくあわてることなく、窓辺に伸びた枝をつかむと、思いっきり引っ張って離す。それから素早くベッドの下にもぐりこんだ。程なく部屋の扉が乱暴に開かれ、メイドや執事が飛び込んできた。

目の前の窓が大きく開かれ、そこに伸びた木の枝が揺れているのを確認すると、入ってきた執事は素早く窓に寄って下を見た。それから窓辺の木を見たが、大きな木は枝が入り組み、奥の方まで見通すことが出来ない。

木は一本ではなく、後ろはそのまま庭の小さな森に繋がる。

広大な敷地の中にある森を捜索すると言う、降ってわいた残業に、ふんと鼻を慣らし、執事はメイドたちを伴って階下へ駆け下りる。そのすべてをベッドの下から見つめていた少女は、誰も居なくなった自室を出て、廊下を階段とは反対の非常口へ向かって駆け出す。

非常口をそうっと開けて辺りをうかがった少女は、ブーツを手に持ってはだしのまま鉄製の階段を駆け下りた。途中でつまずき二三段踏み外して、踊り場に向かって転げ落ち、手すりに身体をしたたかにぶつける。派手な音を立てたが、警報のお陰で気づかれなかったようだ。

手すりにぶつかって、一瞬、息が詰まる。

しばらくしゃがみこんだまま痛みに耐えた少女は、やがて痛みが治まってくると、よろよろと階段を下り始めた。手すりに身体をぶつけたときに、幸運にも発信チップが壊れたことにはもちろん気づかず、非常階段を降り切ると、庭の森とは反対方向に駆け出した。

この日はメイドのひとりが夜遊びするために、裏の通用口を開けておいてくれと友人に頼んでいるのを聞いたのが、ちょうど二週間前のことだ。それから少女はこの計画を立てた。計画と呼べるほど綿密なものではなかったが、少女は成功を疑っていなかった。

色々な幸運が重なって、彼女は無事、通用口から通りに出る。

ブーツをはいた少女は、やり遂げた喜びに頬を上気させながら、夜の闇の中を駆け出した。

 

ケンイチは涙を堪(こら)えて、マイクの前に立った。

今はしっかりと気を張って、黒尽くめの人々の前で挨拶をしなくてはならない。本当ならこれは母の役目なのだが、彼女は長く連れ添った愛する夫を亡くし、傷心のあまり何も出来ない。今も別室で妖精たちに慰められながら、止まらない涙を流し続けているだろう。

その母の代わりに喪主としての挨拶をするのが、今のケンイチの使命だ。自分を見守る、喪服に身を包んだ生前の父の友人や親戚、そしてその『妖精』たち。彼らの視線の先で、ケンイチは唇をかみ締めると、決心したように顔を上げ、ぐっと胸を張って挨拶を始めた。

『妖精』と言う正体不明の生き物と『人生を共にする』のが、この世界の『律』だ。

成人すると行なわれる『成人の儀』によって、誰でもひとりにひとり、妖精が『つ』く。妖精たちは肉体を持ち、食事も排泄もするが、成長はしない。最初に『つ』いたときの姿のまま、『つ』いた人間が死ぬまでともに生きる。それがなぜなのか、妖精自身にもわかっていない。

彼らは彼らの世界で幽体のような状態で存在しつつ、『順番』が来るのを待つ。やがて順番どおり肉体を得て、順番どおり人間に『つ』く。乱暴に言ってしまえば『それだけ』だ。ついたあと何をするという目的もなければ、ついた人間に協力するのもジャマをするのも自由だ。

妖精の能力はただひとつ。

人の精神に作用し、活動のエネルギーを貰ったり、逆にある程度コントロールすることができる。大雑把に言うと、『食事で肉体を維持し、精神エネルギーで幽体を維持する』といったところだろうか。もちろん人間にも彼ら自身にも、その具体的なメカニズムは一切わからない。

人の心を楽しくさせるニッコリス、さわやかな気分にさせるサッパリス、やる気を起こさせるシッカリスなど、妖精の能力は自身のファミリーネームとなっている。が、エネルギーを貰ったりコントロールできる精神の種類が、妖精によって偏っているだけで、基本的にはどれも『同じチカラ』だ。

正の眷属、負の眷属と分けられたりもするが、これは完全に人間の分別である。

人間は妖精と人間を姿だけでは見分けられないが、妖精はお互いを見極めることが出来る。妖精にも喜怒哀楽はあるが、それが他の妖精のエネルギーになることはない。あくまで 、『人間の喜怒哀楽』だけが、彼らの(幽体の)エネルギー源なのである。

「皆様、本日は亡き父の葬儀にお集まりいただき……」

最後まで涙を見せず、ケンイチは大役を勤め上げる。

最後に一礼してマイクの前を離れると、大きく息を吐いてゆっくり歩き出した。集まった100人近い人々の間から、拍手と啜(すす)り泣きが聞こえる。早すぎた故人への涙、あるいは健気なケンイチへの涙だ。

遺族の控え室へ入ると、泣きはらして眠ってしまった母の横に、母の妖精シッカリス、ケンイチの妖精ガッカリス、そして亡き父の妖精サッパリスが立っていた。白いひげを蓄えた老人姿のシッカリスは、子供のような表情で眠っている母の頭をなでながら言った。

「ケンイチ、よく頑張ったな。立派だったぞ。主(あるじ)もきっと安心しているに違いない」

ケンイチは肩をすくめて、穏やかに笑った。するとガッカリスがにやりと笑う。

「ケンイチ、ヤルじゃぁないか」

「ガッカリス、ありがとう。母さんの心の傷を軽くしてくれて」

「マザーのガッカリを完全に無くしてやってもよかったんだが、人間ってのは不可解だ。マザーの心の中に、『つらくて苦しい』のと同じくらい強く、『悲しみたい』って気持ちがあったから、とりあえず死なないくらいに弱めるだけにしておいた。あとは何もしてないぞ」

「ありがとう。それでいいんだ」

父を失ったことは、母には耐えがたい悲しみだろう。

だが、だからこそ。母はこの哀しみを失いたくないのだ。先に逝く父の無念を、その万分の一でも感じていたいのだ。おそらくそれを理解した上で『あえて哀しみを残してくれた』のだろうガッカリスに、ケンイチは頭を下げた。

そして最後に、サッパリスを見る。

父親が成人してからずっと傍らに居続けた、ずっと歳を取ることのない永遠の子供は、泣き腫らした瞳でケンイチを見上げた。ケンイチの父親が逝ってしまった以上、その妖精であるサッパリスも、ほどなく姿を消すことになる。

「妖精は死なないよ、ケンイチ。一緒に居た人間が亡くなってしまったり、自分の宿った肉体が修復不能なほど壊れてしまったら、幽体の姿にもどって妖精の住む場所、妖精郷へ帰るのだ。そこで次の順番が来るまで、何十年かのあいだ肉体を持たずに暮らすのだよ」

葬儀の準備の合間、サッパリスの今後を聞いたケンイチに対して、シッカリスはそう話してくれた。そしてサッパリスはずっと子供のままの感性と記憶を持ち続けるから、こうして一緒に居たヒトが亡くなるたびに、子供の純粋さで苦しみ、哀しみ、泣くのだ、という事も。

それを聞いたとき、ケンイチは戦慄した。

永遠に子供の、無垢で純粋な心のまま、何度も何度も『大切な者との別れ』を経験し、そのたびに苦しみ、悲しまなくてはならないとは。サッパリスには何の罪も無いのに、なんというすさまじい運命なのだろう。そしてそんな思いをしてまで、妖精はなぜ人のそばにくるのだろう。

「その分、喜びや幸せ、思い出の暖かさも、より純粋で大きいのだろう。それで哀しみが相殺されるわけではないが、少なくともわずかの救いではある。もっとも、それは我々がそう思いたいだけ、サッパリスへの救いと言うよりも、そばにいる我々への救いでしかないのかも知れないが」

そうつぶやいたシッカリスの、なんともいえない複雑な顔を思い出しながら。

ケンイチは、サッパリスの顔を見つめる。

長く『つ』いていた友人を失ったサッパリスは、いくたび経験しても慣れることのない哀しみに心を引き裂かれながら、それでもケンイチの母の姿に冷静さを取り戻し、集まったみんなに向かってさびしそうに笑った。

一番悲しいのは自分じゃない。

そんなことを子供ながらに(何百年も生きてるとは言え)思ったのかもしれない。

やがて……

「お母さん、ケンイチ兄ちゃん、おじい、ガッカリス兄ちゃん……さよなら」

ケンイチは、ゆっくりとうなずく。

母は泣きつかれて眠っているが、その方がいいかも知れない。

息子みたいに可愛がってきたサッパリスがいなくなると言うのは、最愛の夫を失った今の彼女にとっては、耐えられないことだろう。だからと言って、彼女がガッカリスの力を借りて、別れのつらさを忘れようとするとも思えない。

(目の前で居なくなるサッパリスの姿は、母の代わりに自分が記憶に刻もう)

ケンイチは心を奮い立たせて、サッパリスの姿を見つめる。

そして、その時は来た。

「ボク、忘れないよ」

サッパリスはそれだけ言うと、にっこりと笑い。

次の瞬間、崩れ落ちるように倒れる。

ケンイチが手を伸ばすより先に、ガッカリスがその身体を支え、抱き上げた。それから外で待機している係りの人間を呼ぶ。ヒトが亡くなると、その妖精もかりそめの肉体から離れて、妖精郷へ帰る。残された肉体は、ヒトと一緒に荼毘に付されるのである。

運ばれてゆく、『もはやサッパリスではなくなった身体』を見送りながら、ここでようやく。

ケンイチの瞳から、大粒の涙がこぼれた。

「さよなら、サッパリス。さよなら、父さん……」

「ヘイヘイヘイ! サッパリスは死んだわけじゃないんだぜ、ボ〜イ?」

殊更おどけたように言うガッカリスに、ケンイチは無理やりに笑みを作って応えた。

「わかってるよ。妖精郷に帰ったんだろう? きっと向こうで楽しくやってるんだね」

「さぁ、それはどうかな。大体あそこは、何の刺激も無いし、肉体が無いから物も食えないし、もちろんトレーニングもコンテストもないから、ひどくつまらないんだ。しかも順番が回ってくるまで何十年も待たされるんだからな。たまったもんじゃないぞ、ホント」

いつものように、ピシリピシリとポーズを決めながら、ガッカリスが叫ぶ。

(この明るさには、救われるなぁ)

そんな風に考えて苦笑するケンイチには頓着せず、ガッカリスはうれしそうに叫んだ。

「しかし、葬儀場と言うのはまったくステキだな。この世で一番ガッカリの集まる、俺様にとっては最高の場所だぜ。全身の筋肉にパワーがあふれてくるったらないね。ヘイ、ケンイチ! 見ろよ、この上腕二頭筋っ! キレが違うだろ? まったく、世界中が葬式であふれればいいのに」

傍若無人な言い草に、しかし、ケンイチはにっこりと笑った。

ガッカリスが、その吐き出す言葉ほどひどい男、いや、妖精ではない事をよくわかっているのだ。

もちろん、言葉に出してそう言えば、彼は照れ隠しにもっとひどいことを大声で口走るだろう。その言葉は、自分はともかく、他の参列者や別の葬儀で来てる人々にとっては、ひどく不愉快に違いないから、あえて彼を刺激するようなことは言わない。

ガッカリスの扱いには、すっかり慣れてきているケンイチだった。

 

母とシッカリスをタクシーに乗せ、先に自宅へ帰すと、ケンイチはのんびりと歩き出した。

風が、はっきりと冷たい。

土手沿いのサイクリングコースの両脇に植えられた花々も、すでに枯れている。(そう言えばよく、父さんやサッパリスと一緒に自転車で走ったっけ)と、ほんの数ヶ月前の記憶を思い出して立ち止まったケンイチは、黙ったまま空を見上げた。

抜けるような秋の空は、遠くに小さな雲をぽっかりと浮かべている。

「ケンイチ、帰りにプロテインを買ってくれ」

声をかけられ、ケンイチは見上げた空から視線を落とす。

秋風の中、タンクトップに軍用パンツと言う『季節感を完全に無視した格好』をした筋肉の塊を見て、ケンイチは薄く笑った。いつまでもこんな調子で居るつもりはないが、今はもう少しだけ、哀しみに浸っていたい。父やサッパリスとの思い出に浸って、充分に哀しみたい。

「ま、それが人間ってモノらしいからな。俺は構わないぞ、プロテインさえ買ってくれるなら」

肩をすくめて歩き出したケンイチは、少し歩いてまた、足を止めた。

しかし、今度は思い出に浸ったわけではない。ケンイチの視線の先を追ったガッカリスの瞳は、川のほとりでうずくまる、小さな黒いものを捕らえる。それはうずくまったまま、にごにごと動いていた。悲しみを忘れてしばらくそれを眺めているケンイチの後ろで、ガッカリスが叫ぶ。

「なんだ、アレは? 犬か?」

「だとしたらかなりの大型犬だね。でも、残念ながら違うようだよ、ガッカリス」

ケンイチは黒いものの正体に見当をつけると、土手を降りながら口にした。

「アレは子供だね。黒い服を着てしゃがんでるんだ」

「オゥ、本当だ。あのリトルガールは、あんなところで何をしてるんだろう?」

二人はのんびりとそんな話をしながら、近づいていった。すると突然、彼らの目の前でその少女が川に入り、そのまま深みに向かって歩き出した。ケンイチはビックリして駆け出すと、ばしゃばしゃと水を蹴立てて駆けつけ、小さな身体を抱きすくめる。

「いやっ! 離して!」

「そうは行かないよ!」

叫びながら少女を抱き上げると、川岸に向かって歩いてゆく。

すると、気が利くと言っていいのだろうか、ガッカリスが焚き火を起こしているところだった。この短時間に落ちている木を拾ったのかと思いきや、ガッカリスが燃やしているのは木製の看板だった。『焚火禁止』と書いてある看板を、太い腕で叩き折って砕き、燃やしているのである。

呆れたケンイチが少女を背負って近づいてゆくと

「どうだケンイチ、一石二鳥だろう?」

「禁止の看板を燃やしたって、焚き火しちゃいけない事には変わりないよ」

それでも濡れた服を乾かすにはありがたい。少女はそれほど深いところまで行ってたわけではないので、濡れたのは履いているスカートのすそ、長いブーツ、それに靴下くらいのものだ。ケンイチもジーンズとスニーカーと靴下くらいのものなので、三十分もあればすべて乾くだろう。

ここでようやく、ケンイチとガッカリスは、少女をしげしげと眺めた。

色素が欠落したかのような恐ろしく白い肌に、真っ黒なツヤのある長い髪。その髪には白いレースの髪飾り。襟元に、袖口に、ところ構わずひらひらのついた、丈の短い黒のワンピース。膝上までの黒いストッキングに、底の厚い編み上げブーツを履いた足は、折れそうに細い。

しかし、河原でしゃがんでいるのはそぐわないその派手な格好も、少女が顔を上げた瞬間、すべて霞んだ。黒く大きな濡れた瞳。軽くすぼめられた、ぽてっとした唇。小さな顔は流れ落ちるサラサラの黒髪に半分隠れているが、そのあどけなさと美しさの見事なバランスは隠せない。

「なんてガールだ。パーフェクツじゃないか!」

小さく叫んだのは、ガッカリスだ。

「おいおい、ガッカリス。おまえ、ロリコン趣味があったのか?」

「何の話だ? 俺は美しいものが好きなだけだ。ちなみにこの格好はゴスロリと言う」

ガッカリスが口を尖らせてそう叫ぶのと、「美しいものが好き」と言う言葉を聞いた少女が「ひっ」っと悲鳴をあげてあとずさるのは、ほぼ同時だった。それを見てケンイチは、あわてて微笑むと、優しい声で話しかける。

「ごめん、ビックリしちゃったね。このおじさんは、見た目ほど怖くないから心配しないで」

「ケンイチ、俺はおじさんじゃないぞ? ファイターでボディビルダーでマッスルマイスターだ」

「いいから黙っててくれ。おびえてるじゃないか。大丈夫だよ、お嬢ちゃん。お名前は?」

「……」

警戒するように見つめられて、ケンイチは笑顔を崩さずに続ける。

「お兄ちゃんはケンイチって言うんだ。お名前、教えてくれないかなぁ。ダメ?」

「おいケンイチ、俺がおじさんで、ユーがお兄さんなのか?」

「……ソ、ソフィア」

「ソフィアちゃんか。かわいいね。でもどうして川に入ったの? 泳ぐには寒いと思うんだけど」

「ケンイチ、フルシカト(完全無視)とはどういう了見だ?」

「わからない」

「ふぅ〜ん、そうなんだ。ソフィアちゃんは川が好きなの?」

「ふん、まぁいい。その代わりプロテインは一番高いやつを買ってもらうからな?」

「……わからない」

「おうちはドコなの?」

「……」

「帰らないの? おうちまで送ってあげようか?」

「イヤっ!」

大声で叫んだソフィアは、ケンイチをにらみながら、じりじりとあとずさった。その声の勢いと親の敵を見るような視線の強さに、ケンイチは一瞬、気圧(けお)される。しかし、無理に自宅を知ろうとする試みはうまくいかないと瞬時に悟って、穏やかな微笑のまま話題を変えた。

「ステキなお洋服だね。お母さんが選んでくれたのかな?」

「こんなの嫌いっ!」

機嫌をとろうとした話題が、どうやら裏目に出たようだ。どうにも、うまくいかない。

ケンイチが途方にくれていると、しばらく静観していたガッカリスが、自分の番だとばかりにしゃしゃり出てきた。もともと、いつまでも黙ってられる性格ではないのだ。

「ガ〜ル! ユーは細すぎるな。もう少し筋肉をつけなくちゃダメだ」

「……?」

どういう意味だ? とばかりに大きな瞳を見開いて、小首をかしげる少女。その無言の返事に力を得たガッカリスは、嬉々として話を始める。少女と話すにはあまりにあまりな話題に、ケンイチは思わず額に手を当てて、天を仰いだ。

「よくいるだろう、『筋肉がついちゃうとカッコ悪いから、あんまりハードなトレーニングはしない』とか言い出すバカな連中が。あいつらは、ビルダー達がどんなに苦労して筋肉をつけているかも知らなけりゃ、筋肉のすばらしさ、重要性をちっとも理解しちゃいないんだ。筋肉こそ全てなのに」

「おいおい、ガッカリス。女の子にそんな話をしたって……」

「きんにく、大切なの?」

驚いたことに少女が興味を示したから、さあ大変。

ガッカリスは力強くうなずいた。

「もちろんだ。筋肉こそすべてだ」

ビックリして黙り込むケンイチに、それ見たことかと勝ち誇って続けざまにポーズをピシピシと決めて見せると、ガッカリスはさらに勢いを増して、少女相手にマニアックな話を聞かせる。

「筋肉をつけたからって、背が伸びなくなったりはしない。常識を超えた負荷をかければその限りではないが、やりすぎは何だって毒なのは同じだろう。それよりも成長期の今のうちに筋肉を増やし、脂肪細胞がつかないようにコントロールしておけば、成長してから太らないぞ」

「強くなれる?」

思わぬ返事に、ガッカリスはにやりとする。

「おぉ、ガール! ユーはすばらしい。そうだ、それこそが一番大事だ。だが、強さと言うものの定義によって、その答えは変わる。まぁ、話の流れから、肉体的な強さだとして話すが、もちろん、答えはイエスだ。筋肉を鍛えれば健康になって身体が強くなる」

すると少女は、ぶんぶんと頭を振った。

「ちがう。悪いやつをやっつけるの」

ガッカリスは一瞬目を見開いてから、おもむろに相好を崩した。

「グレイツ! ガール、ソフィアと言ったな? ユーはなんてファンタスティックなんだ。ベリィキュートなルックッスに、黄金の魂を併せ持つとは、まさに得がたい資質だ。その幼さで求めるモノが、容姿や健康ではなく、正義だとは。俺は今、すばらしく感動しているぞ、ケンイチっ!」

「ああ、そう」

「リッスンだソフィア。ユーはとっても見込みがある。強くなるための一番の資質は、強くなりたいと強く願うことなんだ。だが、もちろん願ってるだけじゃダメだぞ? かと言って日々のトレーニングだけでも足りない。強くなるためには、頭もよくなくちゃいけないんだ」

「アタマも?」

「イエス! バカじゃ強くなれないし、バカじゃ何が正義かもわからないだろう?」

「じゃあ、おまえは最弱で極悪じゃないか」

ケンイチがまぜっかえすのも気にせず、少女は少し考え込んでから、小さな声で反論した。

「ソフィアはおりこうさんじゃないの。悪い子なの。でも、もっと悪いことはわかるよ」

「激しくザッツライッ! それはつまり、ユーがバカじゃないってことだ。おりこうさんになど、ならなくていい。ユーが悪い子なのは、言いつけを守らなかったり、言うことを聞かないからだろう? でも、『そんなことより、ずっと悪いことがある』って言うのは理解できてるんだろう?」

少女は、我が意を得たりとばかりに、ぶんぶんとうなずいた。

その返事にガッカリスは、ひどく満足げな表情で微笑む。

それからくるりと後ろを向きざま、背中の筋肉を盛り上げてピタっとポーズを決め。

太く低い声で、しかし、優しく優しく語り掛ける。

「ならば、ユーはバカじゃない。だから、ユーの心が正しいと思うように生きればいい」

少女はまた、強くうなずいた。

その時、土手の上から女の声がかかる。

「ソフィアっ!」

呼ばれたソフィアは、ビクっとして声のした方に視線を向け、「だ、大丈夫? ソフィアちゃん?」と、思わずケンイチが声をかけたくなるほど絶望的な顔をした。この世のすべての不幸を背負ったその表情に、しかし、ガッカリスは腕を組んでしかめっ面をしたまま、黙って視線を送っている。

そして少女がこちらを見た瞬間、うむと、力強くうなずいた。

「ユーの心を信じろ」

「でも……」

「どうしてもダメなら俺を訪ねて来い。マッチョ・ガッカリスは、この街の誰でも知っているから」

「まぁ、確かに」

ケンイチが大きなため息をつきながら、しぶしぶ同意した。彼の言葉通り、街中の人間が知っているほど、ガッカリスは天才的なトラブルメーカであり、マイナス方向に有名人なのである。もちろんそれは、ケンイチがマイナスに有名であることも意味するのだが。

「ソフィア、こんなところに居たのね」

ソフィアの母親だろうか。近づいてきた女もまた、凄みのある美女だった。

漆黒の長い髪をきりりと結い上げ、強く印象的な瞳でこちらを見ている。地味なパンツスーツごときでは、彼女の匂い立つような色気は隠しきれない。白いシャツの胸元は、意外なボリュームでスーツを押し上げている。印象としては細いのだが、よく見ると驚くほど起伏に富んでいた。

ケンイチがビックリして見とれていると、その女はこちらを向いて頭を下げた。

「申し訳ありません、ちょっと目を放した隙に。なにか失礼はなかったでしょうか?」

「と、とんでもない。すごく賢いお嬢さんで、こいつとふたり舌を巻いていたくらいです」

客観的に見て失礼なのはガッカリスの方だから、ケンイチはあわてて手を振りながらあとずさる。ガッカリスが筋肉の話を蒸し返さないうちに、また、先ほどのように「パーフェクト」だの失礼な事を言い出さないうちに、厄介者を連れて退散しようとしたのだ。

しかし、母親らしきその女は、こぼれんばかりの笑顔で

「お相手してくださって、どうもありがとうございました。この子はちょっと変わってるから、大変だったでしょう?」

「いえいえ、そんなことはちっとも……ソフィアちゃんは川に入ろうとしていたのですが、さすがにもう水泳には寒いですから、やめさせて濡れた服を乾かしていたところです。もう、すっかり乾きましたから、僕らはこれで失礼します」

ケンイチがあわてて手を振っていると、ソフィアが突然、叫んだ。

「一緒に来てっ! おねがいっ! 一緒に来てっ!」

「ソフィア!」

女が強く静止するのにも関わらず、ソフィアは駆け出してガッカリスの後ろに逃げ込む。ケンイチはおろおろし、女も驚いたように少女とガッカリスを見比べる。ソフィアはガッカリスの後ろに隠れて顔だけ出し、女をにらんでいた。そして防波堤にされた当の本人、いや妖精はと言うと。

「ヘイ、レディ! ユーはこの子のマザーじゃないな?」

「…………」

「ユーのハートにはガッカリが少なすぎる。普通、子供を探してる母親は、全身にガッカリが充満してるもんだ。そして子供を見つけた瞬間、それは霧散する。ところがユーのガッカリは、そういう大きな変化がない。イコール、ユーはソフィアの母親じゃない。違うか?」

黙って聞いていた女は、ガッカリスに問われて大きなため息をついた。

「ああ、あなたは妖精さんなのですね。それで私の感情がわかったと。ええ、おっしゃる通り私はは母親ではありません。その子には両親がいないのです。私は、ある方からその子の世話を頼まれている者です。お疑いでらっしゃいます?」

「そ、そんな。とんでもない! こちらこそ、事情も知らずに立ち入ったことを言って申し訳ありませんでした。おい、ガッカリス! もう、帰るぞ! ソフィアちゃんを返さないか」

「ソフィアは帰りたくないそうだ」

「ちょ、ガッカリス! バカなこと言ってるんじゃない!」

「俺は何もバカなことは言ってないと思うが……そうだ、そちらのお宅まで行こうじゃないか、ケンイチ。それでソフィアの言ってることが見当はずれだと判ったら、おとなしく帰ればいい。乗りかかった船だ、最後まできちんと責任を取るべきじゃないか?」

まくし立てられたケンイチが、大きく息を吸って反撃しようとした矢先、件(くだん)の女がうなずいて笑った。

「本来は家庭内の話なのですが、私が母親でないと判った以上、嫌がる子供をその手に渡すのがためらわれるのは当然ですね。警察を呼んだりして事が大きくなれば、あとで困るのはそちら様でしょうし、ソフィアを保護してくださったご恩もありますし、それにお洋服もまだ完全には乾いてないようですし……」

女は肩をすくめて、もう一度にっこりと笑う。

「お屋敷にご招待しますわ」

そう言って彼女は、土手の上に停まっている黒塗りの高級車を指差した。とたんに、ガッカリスがため息をついて傲慢に言い放つ。

「マイナスワン、だな。どう見てもまともな人の乗る車じゃない」

「や、やめろ、ガッカリスっ! おまえは黙ってろっ! すみません。本当にすみません。こいつは近所でも有名なバカなんです。しゃべる人形かなんかだと思って、カンペキに無視してやってください。や、ホント申し訳ありません」

「いえいえ、確かにこんな車では、妖精さんの疑惑が高まってしまっても仕方ありませんね」

穏やかに笑う女に、ケンイチは思わず見とれてしまう。若い男に見とれるなと言う方が無理な、匂いたつような美貌なのだが、ケンイチの顔を見たガッカリスは、そのだらしない顔を指差しながら後ろに隠れたソフィアに向かって、静かに、決め付けるように言った。

「ソフィアガ〜ル、見ておくんだ。卑屈にして好色、アレがダメ人間と言うものだ」

「ちょ、ガッカリスおまえ!」

「ひくつに……こうしょ……ダメニンゲン?」

「強いものに弱くて、しかも助平……ずるくて、えっちな、お・に・い・さ・んってことだ」

おにいさんの部分を強調したのは、先ほどおじさんと言われたのを根に持っているのだろう。ガッカリスの説明を聞いて、ソフィアはケンイチをにらむ。ケンイチがあわててにっこりと笑うと、ぷいと横を向いてしまった。女は苦笑しながら高級車のそばまで行く。すると中から人が降りてきた。

上品なスーツに身を包んだ初老の男は、本物の『執事』だった。

「なんとバトラーじゃないか。いまどきなんて趣味だ。マイナスツーだな」

「おい、いい加減にしろよガッカリス、おまえどうしたんだ?」

ガッカリスは確かに口が悪い。だが、いつもなら幾らなんでも初対面の相手に向かってここまでケンカ腰にはならない。ガッカリスが、わざと相手を怒らせようとしているように思えて、ケンイチは声を潜めてもう一度「おまえ、どうしたんだ? 何を考えてる?」と聞いた。

「においが気にいらないんだよ。この女も、あっちのバトラーも」

「におい?」

「あぁ、気分の悪いにおいがプンプンする」

「さぁ、どうぞ」

促されて、ケンイチとガッカリス、ソフィアの三人は後部座席に乗り込んだ。

ボックス席のように向かい合ったそのシートは、素人目にも判る高級品だ。ソフィアが小さいとは言え、ガッカリスはそれを補って有り余るほどデカい。それなのに三人並んでも窮屈な思いをしないで済むのだから、シートも、クルマ自体も、相当に大きい。

対面に座った女は、穏やかに微笑んで三人を均等に見た。表情は柔和で、取り立てて不審なところはない。少なくともケンイチにはそう見える。執事は運転席とボックス席の間にある座席に座り、微動だにしない。その後頭部をじろりとにらんでから、ガッカリスがおもむろに口を開く。

「ところで、ひとつ納得のゆく説明をしてくれないか?」

「と、言いますと」

「ソフィアガールのおびえ方は尋常じゃない。ここでお屋敷に連れて行かれて、そこでナニを聞かされようと正式な書類を一万枚見せられようと、ソフィアガールがおびえている理由が分かり、それが取り除かれるまでは、俺は黙って手を引く気はないぜ、レイディ?」

女は肩をすくめて沈黙したまま、しばらくの間ガッカリスを眺めていた。ソフィアはガッカリスと女の顔にかわるがわる視線を送りつつ、つかまっているガッカリスの軍パンを、ぎゅっと握り締める。気づいたガッカリスは、女から視線をそらさないまま、そっとソフィアの頭をなでた。

ソフィアは暖かい安心感に包まれて、ちいさく「ほっ」とため息をつく。

最初こそおろおろしていたケンイチは、その安堵の表情を見てようやく腹をくくった。

「確かにボクも彼女のおびえ方は腑に落ちません。家庭の事情に口を挟むのは非常識な話ですし、あなた方に僕らを安心させる義務なんてありません。だから、断られてしまえばそれまでなんですが、出来ればその辺の説明をしていただけるとありがたく思います。いかがでしょう?」

女はふっと瞳から力を抜くと、穏やかに微笑んだ。

「申し訳ありませんが、あなたがおっしゃるようにこちらに説明する義務はございませんし、また、何の疚(やま)しいところもございません。ですがこうしてソフィアがご迷惑をおかけしてしまっていることですし、話せる範囲でお話しましょう」

おそらく、『この子はメイワクなどかけてない』とでも言いたかったのだろうガッカリスの軍パンを引っ張って黙らせると、ケンイチは女に向かってもう一度「申し訳ありません」と頭を下げた。女はすうっと空気を吸い込むと、張りのある美しい声で話し始めた。

「自己紹介が遅れました。高柳と申します。ソフィアの後見人の代理としてお屋敷の管理、ああ、これは書類だとか税金だとかと言う意味で、実際のお掃除やなんかではありませんけれど。そういう方面の、いわば秘書のような仕事をしています。そしてこちらが」

言いながら女は、真ん中の座席に座って前を向いたままの執事へ緯線を向ける。

「そしてこちらが『私がやらない方』のお屋敷の管理を担当する、川上です」

川上と呼ばれた初老の男は、こちらに軽く顔を向けて会釈だけを返した。

執事と聞いて慇懃な物腰を想像していただけに、このそっけない態度に違和感を覚えたケンイチは、やがてその理由に思い当たる。なるほど、自分たちを客として扱う気はなく、歓迎する気もないと言うことか。柔らかい物腰に惑わされないようにしなければと、改めて気を引き締める。

女はケンイチの硬い表情を見てふっと微笑むと、静かに話し始めた。

「ソフィアは孤児です。5歳まで施設で育った彼女を、5年前に引き取ったのが、私の雇い主であるレイナス様です。レイナス様はお若い……大変お若いながらもすばらしい才能をお持ちの方で、現在、IT系の会社を三つも経営する実業家でいらっしゃいます。お若すぎて商売敵や顧客に侮られてしまうため、表に出ることは一切ありませんが」

「年寄りならともかく、それほど若い実業家がなぜ養子を必要とする? なにやらキナ臭いな」

ガッカリスが尊大な口調で言う。執事がじろりとこちらを見たが、女は構わず続けた。

「これはプライベートな話ですので、私に話す権限があるのかはわかりませんが、特に隠してらっしゃるご様子もないので、お話しましょう。ここだけの話として聞いてください。実はあの方の出生も孤児でらっしゃるのです。ですから、孤児院の子供たちを他人とは思えないのでしょう。現にあちこちの施設に多額の寄付をしてらっしゃいますし」

「寄付をするのはわかるが、養子に迎えるのはまた違うんじゃないか?」

「そうでしょうか?」

「まとまった金を寄付するのと、成長するまで面倒を見るのは全然違う。それがソフィアガールのように可愛らしい子となれば、周りに邪推する者だって居るだろう。ましてそんな立場の人間なら、足を引っ張ろうとして、あらぬうわさを立てるものも居るんじゃないか?」

「マンガの読みすぎですよ、妖精さん」

「そうか? だが、俺だったらかんぐるぞ? アンタの雇い主ってのは、こういう幼い女の子を金に飽かせて養女にし、自分の思い通りに育てながら弄(もてあそ)ぶ、変態的な性癖を持っているんじゃないだろうかって。金持ちの変態なんて手がつけられない。生き物として最悪だ」

刹那。

ほとんど目に見えないような、とんでもない速度で、黒い影が走る。

ケンイチが気づいたときには、前に座っている執事の右腕がガッカリスの首に食い込んでいた。いや、正確には必殺の力を持って放たれたその右手は、指が太い首に食い込む寸前のところでガッカリスに手首を捕まれていた。ケンイチとソフィアは息を呑み、ガッカリスと執事がにらみ合う。

「言葉を慎め、妖精」

「ただのバトラーかと思ったら、やるじゃないか、オールドマン」

「レイナス様はキサマごときが口の端に乗せて良いお方ではない。これ以上あの方を愚弄するなら、その見苦しい肉の塊を切り裂くぞ。貴様ら妖精を殺しても、器物破損にしかならないコトは知らぬわけではあるまい? 放り出されたくなければ、口をつぐんでいろ、妖精」

「妖精は死なないぜ、オールディ」

「どうやら、スクラップにされたいようだな、筋肉ダルマ」

強烈な殺気と、それに似合わぬ淡々とした口調に、ケンイチは背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。ソフィアは完全におびえてしまい、隠れるように丸くなって、両手で耳をふさいでいる。その姿を悲しそうに見たケンイチは、勇気を振り絞って口を開く。

「乱暴をするのは、やめていただけませんか。こいつの失礼な言い草はお詫びします。ですが、あなたにこの妖精を殺す、いや、壊す権利はないでしょう? それこそ、警察沙汰になると思うんですが。ああ、ちなみに……」

何か言おうとした執事に向かって、ケンイチはポケットから携帯電話を取り出して見せる。

「今までの会話は録音してあります。自動で5分ごとのファイルに分割されて、ボクのパソコンに保存されています。これからは動画に切り替えて、証拠として記録します。ガッカリスの言葉は失礼だったかもしれませんが、あなたのそれは脅迫です。もう少し落ち着いて話しませんか?」

執事がむすっとして黙ると、高柳と名乗った女が手を叩いて笑い出した。

「あははははっ! もうだめ、我慢できない」

イキナリ雰囲気の変わった女の様子を、ケンイチは唖然と、ソフィアはおびえながら、そしてガッカリスと執事は苦々しい表情で見ていた。女は笑いながらシャツのボタンをひとつ外し、前をはだける。豊満な胸が半分ほど顔を出して、ケンイチは真っ赤になって目をそらした。

「やるじゃない、ケンイチ君。軟弱な男の子かと思ってたけど、川上をやり込めるなんてなかなか大したもんよ。馬鹿にしてたお詫びに素で話してあげる。川上も猫かぶるのやめたみたいだし。それにしても、あんたたち、本当におせっかいね? 黙ってソフィアを返していれば、めんどくさい話にならなくて済んだのに」

「ボクも本当はそうしたかったんですけどね」

「ノウ! なんて情けないことを言うんだ、ケンイチ! ユーは本当にチキンだな」

ガッカリスはそう言いながら、優しくソフィアの頭をなでる。ガッカリスにすっかりなついているソフィアは、執事と女に恐怖と敵意の混じった視線を向けながら、軍用パンツにしがみついて黙って唇をかんでいた。妖精はその状態で、女に向かってにやりと片頬をあげてみせる。

「まぁ、変に猫をかぶってたって俺にはお見通しだ。ユーたちの心は見づらい。それは心をコントロールできることを意味するが、そのコントロールっぷりが普通の範囲じゃない。特殊な訓練でも受けない限り、ここまで自由に心をコントロールできるもんじゃないからな」

「残念でした。そんな特殊部隊みたいな怪しいものじゃないよ。確かに猫はかぶってたけど、さっき言った通り私はレイナス様の秘書だし、川上は荒事も担当するけど基本的には執事。妖精さん、あなたがどう思ってたって構わないけど、これは本当のこと」

ガッカリスはフンと鼻を鳴らして薄く笑うと、わざと大きな声で話し出した。

「とにかくまぁ、これでソフィアガールがおびえてる理由がわかってきたようだ」

「そう?」

「こんな物騒なオトコの飼い主だ。ロクなもんじゃない。間違いなく変態……」

びゅっ!

「ちょっと川上っ!」

女が叫んだときにはすでに、川上の手に握られた小さなナイフが、ガッカリスの首筋を襲う。その切っ先をこともなげにかわしたガッカリスは、向かい合ったシートの背、女の座っているすぐ横を力任せに蹴飛ばす。ボコっと鈍い音がして川上はシートの背ごと蹴り飛ばされていた。

転がった川上は瞬時に体勢を立て直し、攻撃態勢に入る。女は腰を浮かせてシートと運命を共にするのを避けていたし、運転手はバックミラーでその様子を見ながらも、無表情で淡々とクルマを走らせた。この状況に眉一つ動かさないのだから、この運転手も尋常ではない。

「危ないから、こんな狭いところで暴れないの! ほら、お屋敷よ」

状況からすればありえないほど呑気な声で、女がふたりをたしなめる。その言葉にケンイチが前を見ると、クルマはちょうど巨大な門をくぐり抜けるところだった。門の両側には3メータはある高い壁がずーっと続いている。(こりゃ、入っちゃまずいだろう)とケンイチはガッカリスをつついた。

「おい、ガッカリス!」

「大丈夫だよ、ケンイチ。この物騒なバトラーは、しかるべき時が来れば俺がぶっ飛ばしてやる。それに、ここで逃げ出すんじゃ、何のためにこんなところまで来たんだか判らないじゃないか」

言ってることは確かにもっともなのだが、もはやケンイチにはこれが現実のこととは思えない。ほんの三十分前まで、父とサッパリスを失った悲しみをかみ締めながら土手を歩いていただけなのに、気づけば黒塗りの高級車で、どう見てもまともじゃない大きな屋敷へ連れ込まれている。

しかも道案内は、怪しげな女と物騒な初老の男だ。

(冷静に考えて、今すぐこの場から逃げ出すべきなんだろうなぁ)

ケンイチのそんな思いをよそに、クルマは門をくぐって、悠然と屋敷の中に入っていった。

 

「やぁ、いらっしゃい」

ステンドグラスのはまったガラス製の大きな玄関扉を開いたとたん、目の前に立った少年のような男が微笑みながらそう挨拶するのを聞いて、おもわず固まってしまう。多めに見積もっても自分より10センチは背の低い少年に、しかし、ケンイチは気圧されていた。

10代半ばにしか見えない幼さの残る顔立ちと、凄みを感じさせる瞳が、恐ろしくバランスを欠いている。たっぷり五秒ほどたってからようやく、しどろもどろで挨拶した。その脇にはガッカリスが仁王立ちで腕を組んでいる。彼の後ろに隠れたソフィアに向かってレイナスは声をかけた。

「ソフィア、川に入ったそうじゃないか。風邪をひいたりしなかったかい?」

つやのある優しい声だったにもかかわらず、そして、芸術的と言ってよいほど美しい顔には穏やかな微笑が湛(たた)えられていたにもかかわらず、ソフィアは身を硬くしてガッカリスにしがみつく。その様子に気分を害した風もなく、少年〜レイナスは視線を部下に移した。

高柳と名乗った女の方は、最初のキリっとしたイメージを完全に捨てて、面白がっているような表情でレイナスを見返し、執事の川上はガッカリスに食って掛かったのがまるで嘘のように表情を消して、主人の前に控えている。二人を均等に見てから、レイナスは口を開いた。

「それで、コレはいったいどういうことなのか説明してくれるかな?」

姿だけ見れば、その口調は生意気な中学生にしか見えないが、執事の川上は、まるで歳とった主(あるじ)に接するかのように、緊張と尊敬の表情で少年に対している。高柳はもう少し砕けた感じだったが、それでも子供を見る目つきではなく、上司に対するような物腰だ。

「どういうことも何も『こんなにおびえているのに、はい判りましたと返すわけにはいかない。どうでも事情を聞かない限りは、ソフィアを返さない』って言うんですもの。力ずくで取り返すにはこの妖精さん、ちょっと厄介そうだったし、騒ぎを起こすのもアレでしょう? で、メンドウだからあなたに判断してもらおうとして、つれて帰ってきたの」

高柳がニヤニヤしたまま答えると川上は一瞬むっとした顔をしたが、主人の前をはばかったのか、何も言わずに黙っていた。レイナスはふうとため息を吐いて肩をすくめると、ケンイチ、ガッカリス、ソフィアの三人を見た。そのしぐさはまるで思春期の少年のようだ。

それから、困ったような表情で、ケンイチに話しかける。

「それで、どうしたら納得してもらえるのかな、え〜と、ケンイチ君」

「納得? 何の冗談だ? 俺が納得したのは、ソフィアをここにおいては置けないってことだけだぞ、このキチガイ野郎。俺たち三人をここからおとなしく解放するなら、何も騒がずに黙っていてやる。お前らには二度と関わらないでいてやるよ、シルバーヘッド」

ケンイチの代わりに答えたガッカリスのあまりの言いように、ケンイチは思わず息を呑んだ。当然、川上はその瞬間にガッカリスへ向かって襲い掛かったが、彼の腕が妖精に触れる前に、レイナスの澄んだ声が、川上の動きを鋭く制止する。

「川上、やめなさい」

驚いたことに、執事は一瞬で殺気を引っ込め、今までと同じように静かに立つ。

「さすがに、飼い犬のしつけはカンペキだな」

ガッカリスが皮肉な笑いを浮かべると、銀髪の美形は優しい微笑のまま、まるで中世の貴族のように大仰なしぐさで頭を下げて見せた。そしてまた、そんなしぐさがぴたりとハマっている。それから頭を上げてもう一度、暴言を吐いた妖精をしっかり見つめたレイナスは、小首をかしげた。

怪訝な表情で、そのまま長いことガッカリスを見つめていたが、やがてゆっくりと微笑んだ。少年の顔には決してそぐわない、恐ろしく老獪な粘液質の微笑を浮かべたまま、レイナスは高柳に向かって満足げにうなずく。

「高柳、よくやってくれました」

「は?」

「偶然とは言え、あなたは最高の仕事をしました」

「あ、ありがとうございます」

何のことだかわからないと言った調子で礼を述べた高柳にはもはや目もくれず、レイナスは舌なめずりでもしそうな勢いで、ガッカリスをじっくりと見つめる。もちろん、見られている方は限りない不愉快さを隠そうともしない。

「ソフィアはつれてゆく。こんな変態の屋敷には置いておけない」

「人の家に上がりこむなり、ずいぶんとまぁ、勝手なことを言う妖精さんだねぇ」

表面だけ見れば、ガッカリスを怖がりながらも虚勢を張っている少年だ。しかし、彼は断じてそんなわかりやすい生き物ではなかった。声に含まれた『怖い』ものを感じて、ソフィアがひっと悲鳴を飲み込みながらガッカリスにいっそう強くしがみつく。

その髪を優しくなでながら、ガッカリスはケンイチを振り向くと、野生の獣のように獰猛な表情で、しかし薄気味悪いほど穏やかに言った。

「ケンイチ、俺がさっき、この女やバトラーのことを臭いって言ったのを覚えてるか?」

ケンイチは状況を飲み込めないまま、ぶんぶんとうなずいた。

「失礼な妖精ね。あたしの香りに参らない男なんていないって言うのに」

「レイディ、においはユーのせいじゃないから、ユーを非難してるわけじゃない。ただ、この銀髪のクズのそばに長く居すぎただけさ。そっちの物騒なバトラーだって、俺は言うほど嫌いじゃない。イライラしてたのは、ユーたちにこのクソボーイのにおいがついていたからなんだ。今ならもう気にならない。ユーたちの悪臭なんて、生ごみの前では存在しないに等しいからな」

「コレはまた、初対面なのに、ずいぶんと嫌われたものだ」

「シルバーヘッド、お前もしかして、俺が気づいてないとでも思っているのか?」

「さすがにイキナリこれだけ嫌われてて、そこまで厚かましくないよ、僕は」

レイナスの言葉に、ガッカリスは女と執事を指差して聞く。

「それじゃぁ聞くが、彼らはわかってて協力してるのか?」

「すべてを、ではないけれどね」

「なら、同罪か」

「ねぇ、妖精」

「ユーにそんな風に呼ばれる筋合いはゼロだ、クソボーイ」

「その呼び方もずいぶん無粋だと思うけど? 僕にはレイナスと言う名前があるんだ」

「その名が本当じゃないことは、よくわかってる」

「僕はねぇ、ガッカリス。美しいものが好きなんだよ」

「俺もだ。だからユーの前にいるだけで、生理的な嫌悪が抑えきれない」

「僕もだよ。その醜くいびつに膨れ上がった筋肉には、我慢ならない」

静かに。低く。淡々と。

ふたりのあいだで交わされる会話を聞きながら、周りの人間たちは固唾を呑んでいた。

初めて会った人間にここまで突っかかり、しかもいつもの皮肉な調子ではなく、明らかに爆発寸前のガッカリスにケンイチは驚いている。いつも不敵な笑みを絶やさずに、どんな大物でも簡単にあしらっていたレイナスがここまで真剣な表情をしているのを、高柳と川上は初めて見た。

「でもねぇ、ガッカリス。僕は君となら仲良くなれそうな気がするんだけどな」

「俺は1ミリグラムたりとも、そんな薄気味悪いことは思わないけどな」

「ふふふ、まあいいさ。僕は君と争う気はない。仲良くやりたいと思っているってのは掛け値なし、本当のことさ。君ならよくわかっていると思うけどね。そして、僕がそのためにならどんな犠牲も厭わない事も。さて、高柳、川上。皆さんを特別応接室にご案内しなさい」

レイナスの言葉と同時に、川上の身体が跳ねた。初老のような見た目からは考えられない俊敏な動きは、しかし、クルマの中で一度経験していたガッカリスを驚かすまでには至らない。地を這うような姿勢で見えない下から突き出されたナイフを、妖精は余裕を持ってさける。

「ガッカリス! ガッカリ攻撃だ!」

ケンイチは思わず叫んだ。

落胆をつかさどる妖精ガッカリスは、かつてケンイチの前で三人のチンピラを精神攻撃によって廃人寸前まで追い込んだことがある。本来なら刑事処分の対象だが、この時はケンイチに対する正当防衛(妖精自身には、正当防衛は適用されない)と言うことで事なきを得ている。

しかも今回は、戦ってる相手はひとりだ。容易に片がつくとケンイチが考えても無理ない。

しかしガッカリスはその言葉が聞こえないかのように、あくまで肉体攻撃だけで戦っている。ひゅんと風を切って飛んでくるナイフ、拳、蹴りをかわしながら、こちらも丸太のような腕を振り回し、ケンイチの胴体より太い足で蹴りを繰り出す。焦れたケンイチがもう一度叫ぼうとしたとき。

間合いを取っていったん離れたガッカリスが、顔を川上に向けたまま叫んだ。

「ケンイチ! 変な名前をつけるなっ!」

『ガッカリ攻撃』と言う名が、気に入らなかったようだ。

「こいつらは訓練を受けている。いや、そこの銀髪ヤロウに毎日心を読まれているせいで、嫌でも精神をコントロール術(すべ)を覚えたんだろう。どっちにしてもこいつらは、精神攻撃の効果が薄いのさ。その上、当のシルバーヘッドまで邪魔をしやがる、シット!」

しゃべってるところを火がつきそうな鋭い蹴りで攻撃されて、ガッカリスは大きくよけた。

「高柳」

レイナスが冷ややかに言った瞬間、女は身を翻してケンイチとソフィアの頭を抱き寄せる。ヘッドロックのような形で大きな胸を頬に押し当てられ、こんな場合だと言うのにケンイチは真っ赤になった。ソフィアは高柳に触られた瞬間「ひぃ」と悲鳴を上げてすくんでしまう。

ガッカリスは、チッと舌打ちしてから、肩をすくめて両手を挙げ、降参の合図をした。

この手を使われればどうしようもないことは、最初からわかっていたのだ。戦いが始まった瞬間にケンイチがソフィアを抱えて逃げ出そうとしてもムダだっただろう。それくらい、高柳の動きには隙がなく、しかもすばやかった。ガッカリスは手を上げたまま、レイナスをにらみつけている。

そこへ川上が近寄ってくると、あっという間にガッカリスを後ろ手にして手錠をはめた。

「こんな道具まで持ってるのか、銀髪。ユーは掛け値なしの変態だな」

言い終わるか終わらぬうちに、ガッカリスのわき腹に恐ろしいイキオイで拳が叩き込まれた。ぐっとこらえて悲鳴を飲み込むと、筋肉妖精は顔をめぐらせて川上をにらみつけながら、不敵な表情を作ってつぶやく。

「手錠してからじゃないと、怖くて俺を殴れないのか、チキン?」

ぼすっ!

もう一度鈍い音がして、反対側のわき腹に拳を叩き込まれたあと、手錠を掴まれて後ろ向きに歩かされながら、ガッカリスとケンイチは『特別応接室』と言うの名の座敷牢へ連れて行かれた。ガッカリスは絶望的な表情をしているソフィアに向かって片目を瞑ると

「ソフィアガール、心配は要らない。ユーの心を信じろ。そして俺とケンイチを信じろ」

ソフィアはもちろん、この状況が理解できないほどおろかではないが、それでも唇をかみ締めて、力強くうなずいた。濡れたような漆黒の瞳には、今までにない強い力が燃えていた。その様子を見てガッカリスは、捕らえられているとは思えないほど底抜けに明るい笑顔でうなずいた。

「ファンタスティック! やっぱりユーはパーフェクツだ」

 

座敷牢とは言いながらも、驚くほど豪奢(ごうしゃ)なつくりの部屋だった。

広く、天井も高く、置いてある調度品はどれも一流のものだ。しかし、現在そこに監禁されているふたりにとっては、どれも意味を成さない。ソフィアと引き離され、金属の手錠で後ろ手に拘束されたガッカリスは、部屋に入って監視の目がなくなると、ケンイチに向かって言った。

「ヘイ、ケンイチ。この手錠を外してくれ」

「おまえはボクを、マジシャンか泥棒だとでも思ってるのか? ボクだって手錠されてるんだぞ? もっとも、されてなくたって手錠抜けなんて出来ないけど。僕が出来るのはせいぜい……」

言いながら後ろで拘束された手を尻の方に持ってくると、そのまま両手を跨ぎ越える。これでケンイチの拘束は、後ろではなく前になった。もっとも、だからと言って手錠を外せるわけではない。しかしこの姿を見たガッカリスは、にやりと笑ってうなずいた。

「イナ〜フ。充分だケンイチ。それじゃぁ俺が同じことをするのを手伝ってくれ」

細身のケンイチと違い、ガッカリスは腕も足も太い。身体の柔軟さに欠けるわけではないが、発達した筋肉はこの場合、かなりジャマになるようだ。床に転がってもぞもぞやっている姿を見て吹きだしながら、ケンイチは使えそうなものを探す。と、陶器製の花瓶が目に入った。

「ガッカリス、水をかけたら少しはすべりがよくなるんじゃないか?」

「ま、待ってくれケンイチ。もう少し頑張れば抜けられ……うわっ! やめろ! 冷たっ!」

花瓶の水を浴びせられて思わず身じろぎした勢いで、ガッカリスのほうもどうにか、拘束された両手を身体の前に持ってくることが出来た。「なんてひどいヤツだ」ブツブツ文句を言いながら、ガッカリスはぶるぶると巨体を振って動物のように全身の水をはじき飛ばす。

ケンイチは、あまりありがたくないシャワーを浴びる羽目になった。

「さて、お次はこの手錠だ」

言うなりガッカリスは、手錠を力任せに引きちぎろうとする。

かなり本格的なものではあったが、しょせん警察で本当に使用されているものに比べれば、つくりはお粗末だ。左右の手かせをつなぐ三つの鎖のうち真ん中の輪が、若干ゆがみ始める。その様子を眺めていたケンイチは、やがて大きくため息をつくとガッカリスに話しかけた。

「それで鎖が切れても、手かせが残るって事には気づいてるんだよね?」

「…………おぉ、そう言えばそうだ。ケンイチ、どうにかしろ」

「それが出来ないから、さてどうしようって悩んでるんじゃないか」

「針金か何かで、はずせば良いだろう」

「ここに押し込まれた段階で、真っ先にそれを考えたよ。いいかい、ガッカリス。まず針金やそれに類するものが見あたらない。あっても僕らにはそれを使って手錠をはずすスキルがない。はずせたとしても逃げ出すルートがほとんどない。つまり僕らは八方塞(ふさがり)ってことさ」

「ノー、ケンイチ。逃げ出すわけには行かない。ソフィアガールを救うんだ」

ケンイチはうなずいて、ガッカリスを見る。冷静に、冷静に。自分はガッカリスを助けて戦うことなんて出来ない。平均より少し貧弱な、ただの大学生だ。だとしたら自分がやるべきは、このキレやすい妖精の代わりに、冷静になって打開策を考えることだ。

腹をくくったケンイチは、そんな風に考えて話し出す。

「とりあえずソフィアちゃんが殺されてしまうことは考えづらいだろう。探しに来たってことは、彼らにとって大切だってことだからね。そして僕らのことも殺すつもりはないみたいだ。機会はいくらでもあったし、わざわざこんな座敷牢に入れていることからも、きっと間違いない」

「俺が殺されかけたことを、もう忘れたのか?」

「妖精なら殺人じゃなくて器物破損だから、ちょっと荒っぽい連中なら妖精を壊すことにためらいはないだろう。だが、ボクやソフィアちゃんは人間だ。簡単に殺してしまうわけにはいかない。さらに言えば、そこまで凶悪な犯罪組織ではなく、相手はお金持ちだけど一般人だ」

だから……と言いかけて、ガッカリスが首を横に振っているのに気づく。

「なんだい?」

「確かに今すぐソフィアガールが殺されてしまうことはないだろう。だが、あまり甘い考えは持たないほうが良いと思うぞ、ケンイチ。あのクソッタレは本物の外道だ。人間の命なんてなんとも思っちゃいないに違いない。なんたってあいつは、移ってやがるんだからな」

「うつる?」

「そうだ。あのどう見てもガキにしか見えない銀髪の外道は、人間じゃない」

「え?」

「あいつは、妖精なんだ」

ケンイチは目を丸くして絶句した。

「妖精は人につく。そしてついた人が死んだら、肉体を捨てて妖精郷に戻る。妖精の肉体って言うのは材料こそ人間と似ているが、成長しないことからわかるように、肉で出来た人形だ。いわば、生きた洋服なんだよ。寿命はだいたい50〜60年くらい。それ以上は持たない」

「だから20歳、成人のときヒトに『つ』いて、その人が死ぬころ一緒に滅びるんだね」

「イエス。そして妖精郷に帰るんだ。だが、ごくまれにだけど肉体が滅んでも帰ってこないやつがいる。そういうヤツラはみな、肉体を移って現世で生き続けるんだ。そして妖精の肉体ってのは妖精郷でもらうんだけど、それは一回に一体と決まっている」

「それじゃぁ、どうやって……まさか?」

「イグザクトリィ、そのまさかだ。ヤツラは人間の肉体をのっとって、自分の身体にしてるんだ!」

吐き捨てるように言ったガッカリスの言葉は、ケンイチをひどく動揺させた。

「でも、それじゃぁ、あのレイナスってひと、いや、妖精の少年みたいな肉体は、一体誰のものなんだい? レイナスが『つ』いた人間は、もうとっくに死んでるってこと? どのくらいこの世界で『生きて』るんだ?」

「ケンイチ、それは俺にもわからないよ。ただ、あいつの身体からする『死臭』みたいなものは、充分感じ取れる。本当のにおいじゃなくて、妖精だけが感じ取れる、魂のにおいみたいなもんだ。あの臭気からして、今の肉体もそう長いことないだろうな」

「どう見てもまだ子供なのに?」

「成長しないんだから、見た目じゃわからないさ。妖精の肉体と人間の身体は、構成物は似てるけど、根本的に違うものだ。人間の身体は、命が消えたら腐り始める。普通は持ってせいぜい一年だ。たった一年しか持たないんだ。そして、ここからが一番大切なんだが……」

ガッカリスは分厚い胸に息を吸い込んで、ゆっくり吐き出した。

「それが成長期の若い活発な肉体なら、死体でも数年は持つんだ」

今度こそ、ケンイチは完全に言葉を失ってガッカリスを見つめる。妖精の言ったことが何を意味するか理解したからだ。つまりあの銀髪の妖精は、長く持つ肉体を得るために孤児院を援助し、そこから気に入った『洋服』を選んで、養子に取るのだ。自分自身も子供の姿だから、その代行として高柳や川上が動くのだろう。

恐ろしい話の内容に、ケンイチは身体が震えだすのを止められなかった。

「そんな……そんな……それじゃぁ?」

ガッカリスはものすごく不愉快な顔で、ゆっくりとうなずいた。

同時にケンイチは、なぜガッカリスがアレほど怒り、けんか腰で突っかかっていったのか、その理由を嫌と言うほど理解した。高柳や川上の身体に染み付いたレイナスの不快なにおいと、そいつが孤児を養子にしていると言う事実から、ガッカリスはすぐこの事に思い当たったのだろう。

むしろ、よく怒り狂わなかったものだ。

ものすごい不快感と嫌悪感に襲われながら、ケンイチは立ち上がった。

「だとしたら、のんきに監禁なんてされてる場合じゃない。ソフィアちゃんを取り戻して、レイナスを妖精郷へ送り返さなくちゃ。野放しにしてたら、何人の子供が犠牲になるか。そんなことをして警察に捕まっていないんだから、相当上手く網の目をくぐってるんだろう」

「ザッツライ。そしてケンイチ、俺たちがそれを知ってることを、ヤツも知っている」

「そうなのか? でも、だったらすぐに殺されてもおかしくないじゃないか」

「そうは行かないのさ。第一に準備を整えて計画を立ててから殺した方が発覚しづらい。第二にケンイチを生かしておけば、俺に対する人質に使える。第三に、これが一番の要因なんだが、あの銀髪はどうしても俺が欲しいんだ。何とか懐柔して、仲間にしたいんだよ」

「なんでガッカリスなんか?」

「ヘイ、ケンイチ! ユーほど失礼なヤツは見たことがないな。言っておくが、ガッカリスの眷族は『移り』をやりたいやつにとっては宝石の山より貴重なんだぞ? 目をつけた人間に『移る』のに一番手っ取り早いのは、その人間を殺すことだ。人間の自我が、幽体の定着を妨げるからな。だが、俺たちガッカリスの眷族がいれば話は変わってくる」

「どういうこと?」

「ユーも見たことがあるだろう。俺の力なら、人間を生かしたまま殺すことが出来る。廃人にして自我を崩壊させることが出来るんだ。『移り』をするとき、一番都合が良いのは自我の崩壊した人間だ。それなら、相性にも寄るだろうが、五年以上同じ肉体でいることも可能だ。だが、そういう人間は、たいてい監視がついてたり施設に入ってる場合が多い」

「だろうね。それで一年ごとに肉体を移る煩雑さに耐えるわけか」

「その上あの変態は、美しい身体じゃなくちゃ嫌だなんて抜かしてる。そんな都合の良い死体や廃人なんて、早々見つかるもんじゃない。だから精神の固定が弱い子供を、殺すなり廃人にして『移る』んだろう。今まではそうやって、数年ごとに肉体を『着替えて』きたはずだ」

「それこそ、少年でも少女でも良いってことか」

「イエス。ソフィアガールもヤツにとっては、そんな『洋服』のひとつだったんだ。だから丹念に、好みの身体に仕上げていたと言うわけさ。しかし、ここで大きく話が変わってきた。そんなメンドウをしなくても、これと決めた好みの身体を何の苦労もなく一瞬で廃人に出来る、まさにヤツがもっとも欲しがっている能力を持った妖精が、向こうからのこのこやってきたのだ」

ガッカリスは忌々しげに歯軋りした。

「肉体を長く持たせられるだけじゃない。場合によっては必要な人間に乗り移って、その人間の持つものをすべてそっくりいただくことが出来るんだ。環境も、収入も、地位も、名誉も、そっくりそのままだ。ヤツには俺が、世界中のどんな美女よりも『美しく』見えるだろうよ」

「筋肉は嫌いだって言ってたけどね」

「ああ、当然だ。筋肉を大切にする人間に、悪いやつはいない。本当の悪人って言うのは、たいがい、筋肉を馬鹿にした頭でっかちと相場が決まってるからな」

それも極端な話だが、今はそれどころじゃない。ケンイチは底知れぬ戦慄を覚えながら、今度こそ本当の本気、死に物狂いでここから出ることを考えなくてはならないと、決意を新たにした。周到に作戦を練り、冷静にそれを実行しなくては、そんな化け物を出し抜くことは出来ない。

「とりあえず鎖を切って、あとは出たとこ勝負だな」

まさに正反対の事を言い出したガッカリスに、ケンイチは思わずがっくりと肩を落とす。

「ケンイチ、確かにここでガッカリをくれるのはありがたいが、そんなに無理しなくていいぞ?」

「別におまえのためにガッカリしたわけじゃないよ。おまえのせいでガッカリしたんだ」

わかってるのかわかってないのか、ガッカリスはにやりと笑って親指を立てた。もう一度肩を落としたケンイチは、それでも気力を振り絞って作戦を考える。だが、一介の大学生であるケンイチがいくら冷静になろうが脳みそを絞ろうが、そう簡単に良いアイディアが出てくるはすもない。

今まで見た映画をいろいろと思い出し、そこから、なにかしら応用しようと考えるのが関の山だ。どうしたらいい? 何が出来る? 必死になって考えていると、真横でふいにガヂン! と音がした。なんだとそちらを見てみれば、ガッカリスが鎖を引きちぎったところだった。

「タイムアップだ、ケンイチ。俺を手に入れれば、ヤツにはソフィアガールは必要なくなる。だが、俺やおまえに対しての人質にはなると考えてるだろう。そのあいだはガールの命は心配ないが、だからと言って奴が今までのように大切に彼女を扱うかは疑問だ。時間がないぞ」

獰猛な笑みを浮かべたガッカリスは、ケンイチに近づくと彼の鎖も引きちぎる。

「どうやらグッドプランは思いつかなかったようだな?」

ケンイチはしょんぼりとうなずく。そのガッカリを吸ってパワーアップした妖精は、もう一度、歯をむき出して笑った。獰猛な肉食獣が笑うとしたら、こんな風だろう。ケンイチはガッカリスの、怒りにはちきれんばかりの恐ろしい笑いを見ながら、そんなことを考えていた。

「オゥケイ、ならばここからは俺のターンだ」

言い放ったガッカリスは、分厚い胸板を膨らませて大きく息を吸い込むと、のそりと座敷牢の出入り口に向かって歩いてゆく。ケンイチは緊張した面持ちで、その後ろ姿を見つめる。やがてドアの前に立った妖精は、吸い込んだ空気を思いっきり吐き出しながら叫んだ。

「イッツ、ショウタイム!」

妖精の丸太のような足が、座敷牢のドアを蹴破った。

 

じりじりじりじりじりじりっ!

ソフィアが逃げ出した晩に鳴り響いたのと同じ警報が、屋敷中に響きわたる。

「ふん、あのデカブツが騒ぎ出したか?」

嘲笑を浮かべたレイナスは、顔に飛び散った血液をぬぐうと、足元に転がるものを見た。レイナスの足の下には全裸で縛られた少女が、芋虫のように転がされている。はぁはぁと波打つ小さな胸が、彼女がかろうじて生きていることを示していたが、その全身は血に染まっていた。

レイナスは裸にして縛り上げたソフィアを、折檻と称してムチで叩いたのだ。

それも、皮膚が破れて血が飛び散るほどに。

叩かれるたびに悲鳴を上げながら、それでもソフィアは歯を食いしばって痛みに耐えた。

今までは次々と姿を見せなくなる友人たち(物心ついたときからこの屋敷で育てられたソフィアには、一緒に養子にされた数人しか、友達と呼べる者はいなかった)の末路に悲しみつつ、次は自分だと言う恐怖に、ただ、震えていた。

毎日毎日、バランスの取れた栄養のある食事を取らされ、湯浴みをし、運動して、眠る。

レイナスの求める美しい『洋服』になるためだけの単調な生活(レイナスは彼女たちの心を殺すために、その事実をあえて本人たちに告げていた)の中で、だんだん何も感じなくなり、ゆっくりと 心が死んでゆくのを自覚しながら、ただ生きて、いや、生かされていた日々。

何とか逃げ出したはいいものの、どうやって生きてゆけば良いかさえわからず、すべてに絶望していたあの日。冷たい川に入れば死ねると思い、ゆっくりと川に入りながら、それでも泣くことさえ出来なかったあの瞬間。彼女の生まれてはじめての『希望』が、そこに立っていた。

巨大な筋肉と、輝くような生気をまとった妖精は、彼女のたった一つの希望になった。

妖精は話をしてくれた。

妖精は生きろと言ってくれた。

妖精は信じろと言ってくれた。

今なら、耐えられる。どんなに痛くても、どんなに苦しくても、きっと耐えられる。単調な生活の中でただ絶望だけを抱きしめて、死ぬために生かされていた今までとは違う。妖精はきっと来てくれる。妖精は必ず助けてくれる。この希望さえあれば、何だって出来る。

裸で縛られて血だらけになりながら、それでもソフィアの瞳には光があった。

レイナスがもう一度ムチを振り上げ、ソフィアがぐっと奥歯をかんだ時、ドンドンと扉が乱暴に叩かれた。「なんだ?」と答えたレイナスの声に、扉の向こうから悲鳴に近い声が聞こえてくる。声はメイドではなく、高柳のものだった。女は震える声で扉の向こうから報告する。

「レイナス様、妖精が座敷牢を破壊して屋敷の中で暴れています」

ふんと鼻を鳴らしたレイナスは、扉を開けた。あわてた高柳が飛び込んでくる。

憔悴しきったその姿へ興味なさそうに一瞥をくれ、少年の姿をした化け物は「代わりにソフィアを見張っていなさい」とだけ告げると、まるで何事もなかったかのようにゆっくりと歩き出した。言われて床に転がる血だらけのソフィアを見た女は、そのあまりの凄惨さに思わず息を呑んだ。

一方、座敷牢へ向かったレイナスは広い玄関ホールで暴れている妖精の姿を見つけ、酷薄な笑みを浮かべると近づいていった。三階まで吹き抜けになったホールの階段では、ガッカリスと川上の戦いがすでに始まっていた。ケンイチはどこに行ったのか、姿が見えない。

レイナスはホールの中央に腰を下ろすと、無邪気とさえ言えそうな表情で叫んだ。

「川上、痛めつけるのは良いが、壊すなよ? そいつには働いてもらわなくちゃならない」

「承りました」

階段の上で数段下のガッカリスをにらみながら、川上は小さくうなずいて答えた。

初老に見えた執事は英国風のスーツをガッカリスに破り裂かれ、その顔の下についているとは思えない、鍛え抜かれた強靭な身体をさらけ出している。ガッカリスのほどのボリュームはないが、その分速度があり、ふたりの力は今のところ拮抗している。

「バトラー! ユー、痛みを『抜かれた』な? ロボトミー手術か」

ガッカリスが叫ぶ。するとホール中央に座ったレイナスが、ニヤニヤしながら言った。

「そういうこと。さすがだな、ガッカリス。川上は痛みを感じないから、どんなトレーニングにも耐えられるし、その鍛えた能力を極限まで使うことが出来る。止めるには、完全に破壊するしかない。痛みというリミッターをはずした人間の能力は、なかなか侮れないよ?」

「そんな身体にされて、なぜあんなクズに忠義立てする?」

ガッカリスの問いに川上は言葉ではなく、強烈な蹴りで応えた。

鍛えぬいた身体から繰り出される、自分の身体をものともせずに、持てる力を潜在能力まで100%解放されたその蹴りは、当たればガッカリスの太い首さえへし折るだろう勢いで、風をまいて襲い掛かってくる。間一髪それをかわしたガッカリスは、そのまま川上へ向かって飛んだ。

接触と同時に胴を抱え、そのままもう一度、今度は階段の下へ飛ぶ。

川上の胴体をガッチリと締め付けたまま、ふたりはもんどりうって階段を転げ落ちた。ガッカリスはそのあいだも川上の胴を締め上げ、川上は自由になる肘や膝で攻撃する。だが、腰や身体のねじりを使えず、手や足だけでの攻撃では、ガッカリスの筋肉の鎧を破ることは出来ない。

痛みを感じない川上は冷静に攻撃を加え続け、やがて目の前の筋肉の塊には打撃が効かないと判ると、隠し持っていたナイフをしっかりと握って刺そうとする。その刃が突き刺さる寸前、ごぐんと鈍い音がして、川上は動きを止めた。

ガッカリスは渾身の力で締め上げるが、首ならともかく胴をいくら絞めても、痛みや苦しみを感じない川上に効果があるとは思えない。ニヤニヤと薄笑いを浮かべて見ていたレイナスは、しかし、その音がした瞬間、表情を硬くした。我知らず、怒りにぎりりと歯を食いしばる。

ぬうっと立ち上がったガッカリスの足元で、川上はもがいていた。

背骨を折られて脳からの命令を受け付けなくなった下半身を引きずり、何とか上半身だけで動こうとする。ガッカリスは無表情、いや、わずかに苦しげな表情で、川上を蹴ってうつむけにさせると、右腕をつかんで肩の関節をはずした。それから左腕もはずす。

ごくん、という音とともに自由に動かせなくなった自分の腕を、不思議そうに見つめる川上。それでも握ったナイフを離さない姿に、ガッカリスは恐怖や怒りよりも、畏敬の念さえ感じた。何とか立ち上がろうともがいている川上に、ガッカリスは優しいとさえ思える声でささやく。

「ジ・エンドだよ、バトラー。ユーはもう戦えない」

射殺すような視線でガッカリスをにらみつけた川上は、決して飽くことなく立ち上がろうとする。その努力はむなしいのだが、その姿には、なにやら神々しささえ感じられた。少なくともガッカリスには感じられた。本人が言っていたように、ガッカリスはこの男がそれほど嫌いではないのだ。

「川上、ユーのファイティングスピリッツには、敬意を表する。だが、ユーの身体はもう、絶対に戦えない。両腕が使えず、下半身も動かないのだから、どうしようもないんだ。ユーなら首から上だけでも戦いそうだが、俺はもうユーには近づかないし、ユーは歩けも這えもしないんだ」

やさしく諭すように、ガッカリスは話しかけた。すると、レイナスが川上に向かって叫ぶ。

「川上っ!」

川上は自由になる首を動かして、主(あるじ)を見た。その表情には、悔しさや情けなさ、申し訳なさが浮かんでいる。主のために働くことの出来ない無念と、役立てない申し訳なさで、川上は歯噛みしていた。少年にしか見えない男は、そんな川上に冷ややかな声で言った。

「動けないのか? もう戦えないのか?」

「申し訳ございません」

「そうか……では死ね」

その言葉にガッカリスが唖然としたのと、川上がうなずいて舌をかんだのはほぼ同時だった。

「ノー! バトラーっ! ダメだっ!」

ガッカリスが叫びながら近寄る。

そして川上の口を開かせようとした瞬間、その口が大きく開かれると同時に、川上は最後の力を振り絞ってガッカリスののど笛に噛み付こうとした。しかし、下半身の助けがないその攻撃は、絶望的に飛距離が足りなかった。ガッカリスが川上のカミツキをよけると、最後の賭けに敗れた執事は、噛み切った舌を吐き出して沈黙した。

先の切り取られた舌の根元が収縮し、気管をふさぐ。あっという間に窒息して顔が真っ赤になり、額に血管が浮かんでいるにも関わらず、川上は何の表情も浮かべないまま、ガッカリスを見つめ、続いてレイナスを見つめ、静かに目を閉じた。ほどなく、その身体は動きを止めた。

川上は、死んだ。

死んでもナイフを離さないその遺体は、彼の強烈な生き様そのままだった。

ガッカリスは沈黙した川上を見つめて立ち尽くしている。向こうは殺そうとしてきたし、自分もそのつもりで戦った。背骨を折ったのだから、あのまま命が助かったとしても、半身不随で一生車椅子の生活になったかもしれない。そして、そうなったとしても自分は後悔しなかっただろう。

命を懸けて戦うというのは、そういうことだ。

死ねと言われて素直にうなずいて死んでいったのだから、川上を動かしていたのは恐怖や報酬ではなく、レイナスに対する忠義とかそれに類するものだったのだろう。だとしたら彼の言うとおりに死んでゆくことに、川上は納得しているのだろう。それはそれでいい。

だが……

「なんだ、ガッカリス。君は無傷なのかい? まったく川上も存外、役に立たないな」

「その、薄汚い口を、二度と、開くな」

ガッカリスの身体が、むくりと一回り大きくなったような錯覚に、レイナスは一瞬驚いて固まった。それから気を取り直したように、にやりとほくそ笑む。その顔を構成するのは確かにあどけない少年のものだったが、浮かんだ表情と鋭い目の光は、断じて子供のものではない。

「おぉ、怖い怖い。川上でさえ歯が立たなかった君とやりあうなんて、バカげてるよねぇ」

「口を開くなよ、クソチビ」

「だから僕は僕なりの方法で戦うとしよう。おっと、彼を放っておいていいのかい?」

飛び掛ろうとしたガッカリスに嘲笑を浴びせながら、レイナスが指差す先では、ソフィアを探して見つけられず、肩を落として帰ってきたケンイチが、こぼれ落ちんばかりに目を見開き、虚仮のように口をぽかんと開けている。瞬時に事態を把握したガッカリスは、レイナスに向かって強烈な視線を送った。

瞬間、ケンイチが呪縛から解かれたように崩れ落ち、空気の抜けたような状態でぺたんと座り込んでしまった。無意識のうちに胸に手をやり、思い出したようにバクバクと鳴る心音を確認する。それから思い出したように、ひゅうと息を吸い込んだ。呼吸を忘れていたのだ。

ガッカリスはレイナスをにらんだまま、声だけを上げる。

「ケンイチっ! 気をしっかり持て!」

言われてケンイチは、先ほど自分を襲った心臓をわしづかみにされたかのような強烈な驚きが、冗談のように消えていることに気づき、きょとんとした表情で妖精を見ている。それから痛みではなく恐怖ですくみ、座ったまま両腕を抱いて震えだした。

「そうそう、ケンイチ君への精神防御を怠ると、彼がつらい思いをすることになる。彼ほど若くて健康なら死ぬことはないだろうけど、僕の能力は心臓によくないからね」

「やはり、ドッキリスの眷属か」

「ずいぶん移っちゃったせいで、能力は半減してるけどね」

「び、ビックリした……って、あれ? ボク、何にビックリしたんだろう?」

ケンイチが首をかしげている様を視線の隅に捕らえながら、顔はレイナスに向けたまま、ガッカリスは歯噛みする。コレでは人質をとられたも同然だ。妖精の能力は見えている範囲にしか効かないから、ケンイチをレイナスの目の届かないところまで逃がす必要がある。

「ケンイ……シット!」

ぱんっ!

ケンイチをレイナスの精神攻撃から守るために意識を向けると、レイナスのムチが飛んでくる。

高い破裂音は、ムチの先が音速を超えた証拠だ。ムチ先を音速で操るなら、レイナスは一流のムチ使いである。ガッカリスの肉体を破壊することも可能だろうし、そのまま痛みで戦闘不能になる可能性もある。かと言って意識をレイナスにむければ、ケンイチが攻撃される。

「ケンイチ、逃げろ!」

ビシュッ!

ケンイチに声をかける隙を狙って、ムチがガッカリスの腕の肉を切り裂いた。皮膚が裂けて真っ赤な血しぶきが飛ぶ。ここでようやくケンイチは、自分がガッカリスの『枷(かせ)』になっていることに気づいた。あわてて立ち上がると、玄関に向かって走り出した。同時にレイナスが叫ぶ。

「高柳っ!」

玄関先には、いつの間にか高柳が大きな荷物を抱えて立っていた。それを見て取ったケンイチは、高柳の横を駆け抜けようとして、思わず足を止める。ガッカリスが「ケンイチ! 逃げろと言ってるんだ!」と裂けんでも、動こうとしない。いや、動けないのだ。

ケンイチは驚愕に目を見開き、ガッカリスはレイナスの攻撃がケンイチを襲ったのかと冷や汗を流す。しかし、レイナスの攻撃は今、自分が確実に防いでいる。ならばケンイチはどうして……

次の瞬間、ガッカリスの全身の毛が逆立った。

「ソフィアガールっ!」

高柳が抱えていたのは、血だらけの少女だった。呼ばれて顔を上げたところから、とりあえず死んではいないことだけを確認したガッカリスは、獣のように吠えて高柳に襲い掛かる。高柳がひっと息を呑んであとずさるのと、ケンイチが声にならない悲鳴をあげて硬直するのは同時だった。

「ノー! ケンイチ!」

ガッカリスがあわててレイナスの攻撃を防ぐ。

とたんにケンイチは崩れ落ち、胸を押さえて息を荒げた。両手をついて跪(ひざまず)きながら、それでも高柳をにらみ上げる。いや、その目は高柳ではなく、荷物のように縛り上げられ、血だらけでうなだれるソフィアを凝視していた。ケンイチの全身にも、怒りが充満してゆく。

「なんてことをっ!」

叫びながら高柳に飛び掛った。ソフィアの身体を確保しようとしたその試みは、しかし、ただの秘書ではない高柳によって、簡単に阻まれる。高柳はスナップを聞かせた裏拳でケンイチを叩き落すと、肩をすくめて凄惨な笑みを浮かべた。

「ここまでやるのはさすがに気持ちよくないんだけどね。毒を喰らわば皿までって言うじゃない?」

言いながら、整った長い足でケンイチを蹴る。ケンイチは蹴られる痛みや、いつ襲ってくるかもしれない『驚愕』を恐れながら、それでも勇気を振り絞って立ち上がる。ガッカリスが動けないのは自分のせいだ。ならば逃げてる場合じゃない。自分がソフィアを助けなくては。

ガッカリスにとっては、ケンイチがレイナスの見えないところへ行ってくれるのが一番助かるのだが、ケンイチにそんな予備知識はない。ガッカリスへの負い目と高柳に対する怒り(ケンイチはソフィアのケガを高柳のせいだと思っている)、何も出来ない無力感と何かをせねばと言う責任感。

色んな感情が入り混じって、ケンイチは痛みを忘れた。

高柳の蹴りから転がって逃れると、むっくりと立ち上がる。

「この代償は高くつくぞ、レディ」

まるでガッカリスのようなセリフを吐いて自分を鼓舞したケンイチは、そのまま高柳に向かって飛び掛る。その動きを充分予測していた高柳は、自分からすばやく間合いを詰めてケンイチに体当たりする。と、バランスを崩したのか抱えたソフィアやケンイチの身体と一緒に、もんどりうって玄関扉に突っ込んだ。ステンドグラスのはまったガラス製の扉は、一瞬にして粉々になる。

三人はそのまま絡み合うようにして、玄関の向こうへ転がってゆく。

ケンイチの姿がレイナスから見えなくなったその一瞬、ガッカリスは風をまいて襲い掛かった。しかしレイナスもそれを予期していて、細い銀髪をひらりとなびかせながら、まるで闘牛士のようにガッカリスの巨体をひらりとかわし、すれ違いざまにムチの一撃を放つ。

わき腹を激しく打たれて、ガッカリスは思わず「うぐっ」っと声を上げた。

しかし今は千載一遇のチャンスだ。怒りを鎮痛剤に代えて歯を食いしばると、両手を広げて逃げ場をなくしながら、もう一度レイナスに近寄ってゆく。レイナスはだらりと下げた手にムチを揺らしながら、ガッカリスの動きを真剣ににらんでいた。彼もガッカリスとやるのは、命がけなのだ。

軽くさばいているように見えるが、内心は冷や汗と脂汗である。

体格も筋力もガッカリスに劣るレイナスは、ムチのリーチと速度だけが相手に勝っている武器だ。一度でも捕まったら勝ち目はない。細心の注意を払って攻撃をかわし、ムチを喰らわせ続ける。ムチの攻撃に一撃の威力はないから、相手が倒れるまで攻撃を加え続けるしかない。

そして、それはガッカリスもよくわかっている。捕まえさえすれば、攻守は一瞬にして交代する。

気をつけなければならないのは、目をつぶされることだ。目をやられれば、そこで戦いは終わる。そしてガッカリスを廃人製造機として使おうと考えているレイナスにとって、ガッカリスが光を失ってくれることこそ、最高の結末だ。遠慮はしないだろう。いや、確実に目を狙ってくるだろう。

「どうやらクライマックスだな、シルバーヘッド」

「の、ようだね。マッスルマニア」

「ソフィアガールをあんな風にしたのは、おまえだな?」

「聞き分けのない子供は、ああして躾(しつ)けるものだろう?」

自身もほとんど変わらないティーンの姿のまま、銀髪の妖精は毒々しい笑みを浮かべた。ふたりはそのままにらみ合いつつ、じりじりと間合いを詰めてゆく。やがて、間合いに入った。しかしそれはムチの間合いであり、ガッカリスの手足の届く距離ではない。

ガッカリスが目をかばったまま距離を詰めてくれば、こちらの姿が見えなくなる。もちろん、それは向こうもわかっているだろうから、こちらが移動する先を読むつもりのはずだ。おそらく片手で顔をかばいながら視線を下げ、足の動きで先を読むに違いない。

音速を超えるムチを捕らえることは、例えガッカリスにも不可能だ。ヤツは身体を押さえに来る。

だからその裏をかいて後上方に跳べば、視線が下に集中しているから、こちらを見失う。そこで手を外してこちらを目視しようとするはずだ。例え後ろに飛んだとしても、自分も間合いを詰めながらなら、本来ならムチの間合いにはならないのだから。

だが、ガッカリスは知らない。自分が眼前10センチの的をムチで射抜けることを。

ひゅん、ひゅん、ひゅん

勝利を確信したムチ先が、薄気味悪い唸りを上げて、ヘビのように動き始めた。

ムチの間合いのままじっと動きを待ち、ガッカリスが動いた瞬間、レイナスは踊るように滑らかに動いた。ムチを繰り出しつつ、ガッカリスが予想通り手で顔をかばったのを見て、左右のフェイントを入れててから、思いっきり後上方に跳躍する。ガッカリスからは消えたように思えるだろう。

あわてて手を外した瞬間、ムチの先を目に叩き込んでやる。

そう思いながら宙を舞ったレイナスは、チッと舌打ちした。ガッカリスはかばった手を外さないまま、前方低空に思いっきりダイブしたのだ。ヘッドスライディングのように飛んでゆくガッカリスの背中を見ながら、レイナスは瞬時に対応し、畳んだ足を思いっきり伸ばして後頭部を踏みつける。

ごん!

鈍い音がして、ガッカリスのアタマがレイナスのカカトと床に挟まれた。

だがレイナスの身体は軽い。普通の相手なら致命傷になるだろうが、踏み抜いた足先の感触は相手がまだ動けることを示していた。いったん間合いを取ろうと、レイナスはガッカリスを踏みつけた反動でそのまま横っ飛びし、次の瞬間、驚愕に色を失った。

「な……」

踏みつけられて立ち上がったガッカリスの手には、ムチの先が握られていた。

ガッカリスの後頭部を蹴りつける瞬間、ムチの先を止めてしまったのだ。そしてガッカリスは、最初からこれを狙って、自分の後頭部を囮(おとり)に差し出したのである。ひとつ間違えれば、そこで絶命していてもおかしくない。いや、妖精は死なないから、絶命ではなく幽体離脱だ。

「自分のドッキリじゃぁ、自分のエネルギーにはならないよな、クソボーイ」

ガッカリスは、 鼻血で真っ赤になった顔面をにやりとゆがませた。

そして次の瞬間、レイナスが反応するより早く、ムチを全力で引っ張った。ムチを離してはガッカリスとは戦えないと言う思いが、レイナスの判断を鈍らせる。ムチを取られた驚きと、一瞬の判断の遅れ。ガッカリスが反撃するには、充分な時間だった。強く引っ張られてバランスを崩したレイナスは、仕方なくムチを離す。

「離すならバランスを崩す前だったぜ!」

ガッカリスの叫んだとおり、タイミングが少し遅すぎた。引っ張られて、バランスはガッカリス側に崩れている。踏みとどまって反対側に飛ぼうとしたときには、振りかぶったガッカリスの腕が、ものすごい勢いで近づいている。次の瞬間、丸太のような腕がレイナスのアタマをなぎ払った。

全身のバネと体重を乗せた右腕全体がぶつかって、レイナスの身体が縦に一回転する。

天才的な反射神経で片手を上げたその手ごと、首の骨が折れそうな勢いで太い腕を叩きつけられたのだ。プロレスで言うラリアートである。レイナスは棒切れのように縦に回転して、糸の切れた操り人形のように不自然な姿勢で床に叩きつけられた。

ガッカリスは腕を叩きつけた勢いでそのまま、転がったレイナスの身体に飛び掛る。

衝撃に一瞬気を失ったレイナスが気づいたときには、ガッカリスは彼の身体に馬乗りになっていた。下から相手のゆがんだ笑いを見て、レイナスは反射的に両手を上げて頭を守る。ガッカリスはそんな様子には頓着せず、そのまま腕を振り上げて、底冷えのする低い声で言った。

「バイバイ、ボーイ」

ぶん!

ガッカリスの拳が唸りをあげてレイナスの腕に叩き込まれた。かばった腕を叩き折られて、レイナスは自分の腕ごと鼻をつぶされる。端正な顔に血しぶきが飛び、食いしばった歯の間から悲鳴が漏れそうになる。次の瞬間には、反対側の拳が反対側の腕を折りながら叩き込まれる。

がごんっ!

レイナスの前歯が、一瞬でなくなった。

それでも強烈な意思の力で悲鳴を堪えたレイナスは、折れた前歯をガッカリスの顔面に吹きつけた。ガッカリスは一瞬目をつぶったが、しかし、気が狂いそうなほど激怒している彼は、驚いて頭を引こうとはしなかった。逆にそのまま前に出て、アタマをレイナスの顔に叩き込む。

かなり身体の軽い者でも、体重を乗せた頭突きと言うのは威力がある。ましてガッカリスの巨体と太い首から繰り出される頭突きだ。間に挟んだボロボロの両腕がなければ、レイナスの頭蓋骨が砕かれていただろう。真っ赤に染まった顔面のまま、レイナスは意識を失った。

ガッカリスはしかし、容赦しない。

立ち上がると振りあげた拳を、今度はレイナスのみぞおちに全力で叩き込む。

ぼす!

「ほげっ!」

悲鳴と言うより、『つぶされて肺から空気が漏れた』というような声を上げて、レイナスは気絶から覚めた。それが地獄の始まりだった。ほとんど抵抗できない状態のまま体中に拳を叩き込まれ、レイナスは痛みと苦しみに涙を流す。しかし、助命の言葉さえ言わせてもらえない。

ぼす、ぼす、がん、がん。

ガッカリスの拳は、その威力や怒りの度合いとかけ離れた冷酷さで、淡々と、ただ淡々とレイナスの身体を破壊してゆく。そのたびに、もはや抵抗の気力を根こそぎ引っこ抜かれたかのような、レイナスのか細い悲鳴が玄関ホールに響く。血しぶきが飛び、悲鳴と打撲音が入り混じり。

やがて。

ダース単位でガッカリスの拳を叩き込まれて、レイナスは完全に沈黙した。

大きく息を吐きながらレイナスを見つめていたガッカリスは、視線を上げると玄関に向かって走り出す。もっとも、それほど心配していなかった。高柳と言う女は川上に比べれば精神的なバランスがずっと安定しているように見えたから、イキナリふたりが殺されたりすることはないはずだ。

まずは様子を見るだろう。

玄関を出ると思ったとおり、高柳はソフィアを抱えたままケンイチと話をしていた。友好的とは言えないが、一触即発と言うわけでもなさそうだ。安心して息を吐き出す。すると、顔を出したガッカリスの姿を見て、高柳は肩をすくめ、ケンイチは破顔した。

「ガッカリス! 大丈夫か?」

「あたりまえだ、ケンイチ。俺を誰だと思っている。それよりソフィアガールは?」

「大丈夫よ。見た目は派手だけど、傷は治療しておいたから。ムチで殴られてアチコチ腫れてるから、熱を出してはいるけど、命には別状ないと思うわ。今も私がこれをやったなんてとんでもない濡れ衣を着せられて、ケンイチ君に責められてたのよ。ほんと女を見る目がないわよね」

「ふん、そんなことよりユー、どうする気だ? レイナスは終わりだぞ?」

無言で肩をすくめるのに高柳は構わずに、ケンイチが恐る恐る聞いた。

「ガッカリス、あの男を殺したの?」

「今はまだ死んでない。だが、身体の方は徹底的に破壊したから、今すぐどうこうすることは出来ないだろう……いや、まてよ? あの屋敷には他に誰かいたんじゃないか? 少年少女なりメイドなりが! しまった、移られるっ」

「ああ、それは大丈夫」

高柳ののんびりした返事に、ガッカリスは女へ視線を移す。

「あんたが暴れだした段階で、事情を知らないメイドたちは逃げちゃったし、子供はもう、ソフィアしか残ってなかったから。この屋敷には今、私たちしか残ってないわ。 だから私を見逃してくれればソフィアちゃんには何もしないし、ケンイチ君にもなにもしないよ」

ソフィアを抱えた高柳は、ガッカリスよりもケンイチに近い。何が出来るのかはわからないが、底の知れない女だから、無理をして危険をおかす必要もあるまいと考えて、ガッカリスはゆっくりとうなずいた。ソフィアさえ無事で帰ってくれば、高柳などどうでもいいのだ。

「オーケイだレイディ。ソフィアガールをケンイチに渡して、ドコへなりとも……どうした?」

目を見開いて固まった高柳の姿に、彼女の視線を追って振り返ったガッカリスは、「シット!」と叫んで走り出した。屋敷の中、玄関ホールで倒れていたはずのレイナスが、ずるずると身体を引きずって動いていたのだ。レイナスはボロボロのまま、川上の死体へ近づいてゆく。

「クソボーイ! ユー!」

叫んだガッカリスより一瞬早く、レイナスは川上の死体にたどりつく。

それから死体の上でナニゴトかもぞもぞ動いたあと、驚くべきことに死体と唇を重ねた。血だらけの真っ赤な唇が、色のない川上の唇と重なる。少年が老人に口づけているような、おぞましい、奇妙な光景に、玄関ホールに入ってきたケンイチと高柳は息を呑んだ。

「シット! 移られた!」

ガッカリスはレイナスの身体を押しのけて、そのまま川上の死体の上にのしかかる。次の瞬間、川上の死体が起き上がって……はこなかった。「ワッツ?」つぶやいたガッカリスに、移ったと見せかけたレイナスが、最後の力を振り絞って飛びついてきた。

両腕が折れているので他に攻撃の方法もなく、死に際の川上と同じように、レイナスは首筋に噛み付いてくる。ガッカリスは反射的に長い銀髪をつかんだ。と、急激に手応えがなくなる。ガッカリスは息を呑む。しかし、それをガッカリスの落ち度とするのは、この場合は少々酷だろう。

レイナスの身体から、首が消失していたのだから。

そしてその首は、ガッカリス自身が銀髪をつかんでぶら下げていたのだから。

あの時レイナスは、力を振りぼって川上の死体へ覆いかぶさると、死んでまでも強く握られていたナイフの上に、自らの首を勢いよく落としたのだ。ガッカリスが、その強烈な膂力で引っ張ったことが最後の一押しとなり、レイナスの首は引きちぎれたのだ。

突然。

高柳が魂消るような悲鳴をあげて、こちらに走ってくる。必死の形相は、ほとんどパニックだ。

「ノー! レイディ! こっちへ来ては……」

ガッカリスが立ち上がったので、 レイナスの首は完全に胴体と引き離された。

「ああああぁぁぁっ!」

高柳は狂ったようにガッカリスへ向かって走っている。

レイナスがめちゃめちゃに殴り倒されていても、高柳は鉄の冷静さで平静を装っていた。

今、動いてはいけない。この厄介な妖精どもをこの場から去らせて、それからレイナスの救助に向かえばいい。死んでさえいなければ、レイナスは復活できる。唇を寄せる死体か廃人がいれば、レイナスはいつでも新しい身体を得られるのだ。そう思って叫びだしたいのを堪えていた。

しかし、首を落とされてしまっては、レイナスの命もそう長くは持たない。いや、レイナスは妖精だから死ぬワケではないのだが、少なくとも高柳の生きてるうちに、二度と会えることはない。暴漢に襲われ、大勢の男に乱暴されていた自分を助けてくれた、あのレイナスに会えなくなる。

暴漢どもを一瞬にして血と脳漿の海へ葬り去った、あの救世主と会えなくなる。

何もない自分に自己嫌悪を感じながら、自堕落で享楽的な生活を送ってきた。刹那の快楽を求め、色香で惑わせた男の力で、人を恐怖で縛る。男への恐怖で自分にひざまずく連中を見て、薄暗い喜びを感じていた。結果、生意気だと言われ、面白半分に集団暴行を受けた。

その集団の首謀者が、高柳の身体に飽きた自分の男だと知ったとき、必死に逃げ、必死に助けを求めながらも、心のどこかで自業自得なのかもしれないとあきらめた。どうせくだらない人生なら、こんな風に終わってしまうのも良いかと、悲しい諦めとともに身体の力を抜いた。

まさにその時。

突然、現れたレイナスが、大勢の暴漢をあっという間に殺戮してしまった。返り血を浴びながら笑っているレイナスを見て、高柳は心の底から震えた。ほとんど性的絶頂感に似た圧倒的な感情のほとばしりに、気が遠くなるほどの開放感に、高柳は全身を震わせて崩れ落ちた。

恐怖ではなく、歓喜で崩れ落ちた。

高柳は、レイナスの前にひざまずいた。

それは、レイナスの気まぐれだったのかも知れない。

だが、あの時自分を救った、線の細い銀髪の男は、その瞬間、高柳の神になった。血だらけの笑顔で「僕のために働きなさい」と決め付けられたときの安心感は、高柳がずっと求めていた癒しだった。レイナスこそが、高柳の世界を救う救世主だった。

彼の身体が本物ではなく、数年で朽ち果てると聞かされたときも、その崇拝には一点の曇りも生じなかった。死体を使うことで、色素が抜けて銀髪のように見えてしまうことも、彼女の強烈な忠誠心をそぐものではなかった。その銀髪を、彼女は美しいと思った。

そのレイナスの首が今、切り落とされている。

高柳は半狂乱で駆け寄ると、気を呑まれて唖然としているガッカリスから、レイナスの首をもぎ取って自分の胸に抱きかかえた。焦点の定まらぬ瞳で必死にレイナスを見つめ、あぁあぁと意味を成さない声を上げている。それから川上の死体へ駆け寄ると、天を向いたナイフの上に、自らの身体を投げ出した。

それは自殺ではなく、頂礼(ちょうらい)だった。

聖職者が信仰のために身体を床に投げ出す、聖なる行いだった。高柳の身体は、まっすぐにナイフの切っ先へ向かって吸い込まれてゆく。ガッカリスが何事か叫んでいたが、もう、高柳の耳には入らなかった、入っても意味を成さなかった。ナイフは高柳の心臓を貫いた。

血を吐いた高柳は、首だけになった主に、ゆっくりと厳(おごそ)かにくちづける。

そしてそのまま目を閉じた。

唇には、満足げな笑みが浮かんでいた。

ガッカリスとケンイチ、ケンイチに抱きかかえられたソフィアは、その一部始終を動くことも出来ないで、ただ、見ているしかなかった。それほどまでに高柳の行動はすばやく、正確で、自信と誇りに満ちていた。ある種、崇高でさえあった。三人は、高柳の死に顔を見つめていた。

が、イチバン早く事態に気づいたのは、やはりガッカリスだった。

「ケンイチ! ソフィアガールを連れて逃げろ!」

ケンイチはうなずいて、ソフィアを抱き上げると全速力で駆け出した。

同時に、高柳の唇がゆっくりとゆがむ。そこに浮かんだ嘲笑は、断じて高柳のものではなかった。あるいは危うく消滅しかけた自分への嘲笑だったかもしれない。高柳の身体で復活したレイナスは、薄い笑みを浮かべながら、ゆっくりと立ち上がった。くっくっくと肩を揺らしている。

「逃がさないよ」

つぶやいたのと、ケンイチが悲鳴を上げるのはほぼ同時だった。ガッカリスがすかさず精神攻撃を止めたときには、すでにレイナスは走り出していた。先ほどまでの子供の身体ではなく、女とは言え鍛えられた高柳の身体だ。しなやかに駆け出したその速度は、ガッカリスを一瞬、置き去りにする。そして、それは一瞬で充分だった。

倒れたケンイチからソフィアを奪い取り、ガッカリスに向かって叫ぶ。

「見ていろよ、ガッカリス!」

ソフィアは金切り声を上げた。恐怖に我を忘れ、捕獲された野生動物のように暴れる。完全なパニックになったソフィアは、本能だけで暴れていた。動物と同じだった。そしてそれは、『移る』には充分な条件だった。高柳の顔をしたレイナスは、ソフィアの顔を無理やり自分の方へ向けると、最後にガッカリスへウインクして見せる。

そして血を吐いた唇が、今、まさにソフィアの唇へ触れようというそのとき。

レイナスの顔をガッチリとつかんだケンイチは、強引にその唇を奪った。

レイナスの霊体は、移りをやめるまもなくケンイチの身体へ移動した。同時に高柳の遺体から力が抜け、ソフィアは動物のようにその腕から逃れ出ると、悲鳴を上げて転がった。ケンイチはビクンと一度震えると、その場に倒れこむ。走りこんできたガッカリスが、ケンイチの体を抱きとめた。

と、ケンイチが目を開ける。

「ガッカリス、もう大丈夫だ。離してよ」

だが、ガッカリスはいっそう腕に力をこめた。

「レイナス、俺に芝居は通用しない。ユーはこのまま、ケンイチの中で最後の時を迎えるんだ。わかってるだろうが、妖精郷にそのまま戻れるとは思わないほうが良いぞ。ユーは最大の禁忌を、それも何度も犯したんだ。もう二度と、人の世界に戻ることは出来ないし、妖精郷で暮らすことも出来ない」

ケンイチの、いや、レイナスの顔が恐怖にゆがむ。

「離せガッカリス! 離してくれ! 離してください! お前と僕が組めば、何だって出来るじゃないか! この世界を統(す)べることだって可能なんだぞ! 妖精の棟梁、 アマテラスの一族にだって勝てるって言うのに、人間なんかに媚を売ってどうするんだ!」

「シャラップ、クソボーイ。世界なんかどうでも良いんだよ。俺の相棒はケンイチなんだ。俺はケンイチが死ぬまで、一緒に暮らすんだ。そしてケンイチの死因は、俺が老衰って決めてるんだよ。生きた強い意志を持つ人間の中では、霊体は生きられない。移りをやるような心の弱いヤツと組むなんて、真っ平ごめんだね」

ケンイチの強い意志に支配された身体の中で、レイナスは見る見る弱ってゆく。

「いいか、レイナス。妖精は長く生きる。人間の何百倍も長く生きる。だけど妖精は孤独だ。俺たちの一族は、一回にひとりしかこの世界に出て来れない。だから俺が戻るまで、俺以外のガッカリスは実体をもてないない。それは仕方ないことだけど、ひどくさびしいことでもある」

ガッカリスは、疲れた顔でつぶやいている。

「いいか? 人間に『つ』いて力を与えるんじゃない。俺たちは自分の孤独を埋めるために、人間に『つかせてもらって』、その代わりに少しだけ役に立つんだ。誰も何も教えてくれないけど、俺は人とかかわるうちに、そう思うようになった。人間がいなくちゃ、世界はひどく味気ない」

レイナスの霊体は、もうほとんど感じられない。

「あばよ、弱虫。お前の罪を無間地獄で永遠に償え」

ケンイチの身体から、がっくりと力が抜ける。すると、いつの間にか恐慌から脱出し、ぽつんとそばにやってきたソフィアが、ケンイチの顔を覗き込みながら、ガッカリスにたずねた。

「ケンイチ、死んじゃったの?」

「ノーだ、ソフィアガール。今のを見ただろう? ケンイチは強い男だから、このくらいのことでは参らない。ケンイチの強い魂が、レイナスの根性なしを拭き飛ばして、 妖精郷へ送り返したんだ。奴はそこで裁きを受け、おそらく無間地獄って言う何もない真っ暗な空間に送られる。そこではどんな荒くれ者だって、一日もしないうちに死にたくなる。だけど、死ぬことも狂うことも出来ず、ヤツラは永遠にさまようんだ」

ガッカリスの言葉の意味は半分しか理解できなかったが、それはとても恐ろしいことだと直感的に理解したソフィアは、思わずぶるっと身体を震わせる。すると筋肉の妖精は穏やかに微笑んで、ソフィアの頭を優しくなでながら言った。

「大丈夫、少なくともそこは、ソフィアガールやケンイチの行くところじゃない」

それから、独り言のように小さくつぶやく。

「俺は、行くことになるかもしれないけど」

 

逃げ出したメイドたちの証言で、ガッカリスが逮捕された。

そこで素直に事情を説明すれば良いものを、いつもの尊大な口調で「説明がめんどくさい」などと言ったものだから、結局、ケンイチから話を聞いたシッカリスが、国の妖精管理委員のお偉方とともに警察に事情を説明するまで、20日間も拘留されていたのだった。

幸い、レイナスの館から養子にした子供を殺した証拠が見つかり、 ケンイチが携帯で録音したり撮影していた音声や動画も役立って、レイナスが移りの妖精だということが証明されたので、ガッカリスは拘留21日目にようやく、無罪放免となった。

もちろんガッカリスのことだ。そのあいだにトレーニングと称して鉄格子を曲げたり、妖精用の留置場で筋トレを流行らせたり、相変わらす余計なことをしていたのだが。

ふたりは並んで歩きながら、家路についた。

「ソフィアガールはどうした?」

「ああ、ウチで預かってるよ。あのまま孤児院に帰すのもかわいそうだし、何より母さんが喜んじゃってね。父さんやサッパリスがいない寂しさを、ソフィアの面倒を見ることで紛らわせてるみたいだ。むしろこっちのほうが頼み込んででも、いてもらいたいくらいだよ」

「グレイト、そいつはよかった。マザーは今まで女ひとりだったから、余計に嬉しいのだろうな」

「災難なのはソフィアさ。着せ替え人形みたいに、毎日色んな服を着せられてるよ。もっとも、ソフィアも母さんが気に入ったみたいで、一緒になってきゃあきゃあ騒ぎながら、楽しくやってるみたいだけど。ソフィアは父さんとサッパリスがいた部屋に住むことになったよ。ボクも最初は戸惑ったけど、いつまでもメソメソしてられないからね。ちょうど良いタイミングだった」

そう言ってケンイチはにっこりと笑った。

「それにしても怖い体験だったなぁ。土手の上を歩いてたときは、なんでもない日常だったのに。父さんが死んで、死ぬってことを考え始めた矢先に、あんな事態に巻き込まれて、目の前で人がどんどん死んでいくんだから、なんだかすごく恐ろしかったよ」

「それにしては、最後はいいガッツだったぞ?」

「ソフィアを助けるために夢中だったからね。今思い返して、ようやく怖さを実感してるところさ。情けない話だけど、思い出すと震えがくるんだよ。心臓がドキーンってなるレイナスの攻撃とか、川上さんの形相とか、高柳さんがナイフに飛び込んだときのこととか」

少し青ざめた顔で、ケンイチがつぶやく。

「しかし、思い切ったことをしたな。レイナスを自分に乗り移させるなんて」

「あぁ……まぁね……」

力なく笑ったケンイチの顔を、ガッカリスは不思議そうに見つめる。それから不意に声を上げた。

「ケンイチ、ユーもしかして……」

「ほら、ガッカリス! 母さんとソフィアだ。シッカリスもいる」

そういって元気よく手を振りながら、ケンイチは駆け出した。

その背中にガッカリスは、複雑な表情で声をかける。

「ケンイチ! もしかして、あれがファーストキスだったのか?」

ケンイチは立ち止まると、ゆっくりとガッカリスを振り向いた。その顔は真っ赤だ。

「うるさい! 早く行くぞ!」

叫んで家族の元へ駆け出したケンイチの背中に、ガッカリスは、遠慮のない笑い声を浴びせる。それから、ケンイチの駆けていった先で手を振って笑っている、母、シッカリス、ソフィアの顔を見て満足そうにもう一度笑うと、珍しく照れたような顔でつぶやいた。

「悪くない……ふん、いや、ソーグッドな気分だ」

巨漢の妖精は彼の大切な家族の元へ、筋肉を揺らして駆け出す。

それからふと思い出し、ケンイチへ向かって大声で叫んだ。

「ヘイ、ケンイチ! そう言えばプロテインを買ってもらってないぞっ!」


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