蒼穹

「あすこに皆がいるわけじゃなし、墓を拝んでも仕方なかろう」

ぼそりと言って遠くを眺める源太(げんた)に、光太郎(こうたろう)は首を横にふる。

そして子供を諭すように言った。

「そうじゃぁない。墓参りは、死んだ者のためではなく、生きている者のためにするんだ」

「俺なら平気だ。悲しくないとは言わんが、もう慣れた」

源太がさびしげに微笑むと、光太郎はまたも首を横に振って笑う。

「だれがおまえの心配をするか。おまえが墓参りに行かないと、『あいつは何故、墓参りをしないんだろう。もしかしたら死んだ家族は偽者で、あの男はほかの圏の間諜なのではないか ?』などと勘繰る者もいるのさ」

「勘繰りたければ、勘繰るがいい」

「おまえはそれで済むだろうが、周りの連中は不安になる」

真っ青な空を仰いで、うぅむと腕組みしていた源太は、それでも光太郎の言葉に一理を見い出したのだろう。やがてゆっくりとうなずくと、共同墓地の方へ向かって歩き出す。その後ろ姿を見ながら、光太郎は肩をすくめて薄く笑った。

子供の頃から、我慢ということが出来ない。

正義感が強すぎるとでも言えばいいのだろうか。自分のこと ならばそれほど頓着しないのに、他人のこと、それも弱いものが虐げられていたり、悪やズルがまかり通っている状況に対して、妥協をすると言うことがまったく出来ない。

それが黒金(くろがね)源太という男だった。

もちろん、そんな少年漫画のような生き方が通用するほど、世間と言うものは甘くない。学生ならばまだしも、源太はもう、二十八歳。分別とか、世の中の仕組みというものを、もう少し理解してもいい、いや、しなければならない年齢である。

もっとも彼自身も、そんな愚直さにどれほどの意味があるのか、とは思っている。しかし、かといってほかの生き方は知らぬ。源太は、頑固にそのまっすぐな生き方を守っていた。 そして 当然、そんな生き方をすれば周りとの軋轢を生む。

そんなとき、彼と世間の潤滑油の役目を果たしてくれるのが、光太郎だった。

光太郎は源太より三つ四つほど年下だったが、人間的にどちらが大人かと問われれば、言うまでもなく光太郎の方だ。源太が世間とぶつかるとき、光太郎は双方を上手に取り持った。世間に対しては源太の方が正義であることを、源太に対しては彼が世間を騒がせていることを 示して、お互いの妥協を促すのだ。

源太は、光太郎が彼のために動いてくれていることを理解できないほど愚鈍ではなかったし、たいていの場合、彼が力押ししても言うことを聞いてくれなかった者が、光太郎の言葉で行いを正す ことが多い事態を見ていたので、彼の調整者としての能力を、高く評価していた。

もっとも、それならばおまえも、光太郎のようなやり方で周囲を正せばいいではないか、と言われれば、彼は首を横に振っただろう。

(それがやれるなら、最初からやっている。俺は光太郎のように、皆の気持ちを推し量って、それぞれが納得いく形で場を収めるなんて芸当は出来ない。自分の思う生き方を、ただ貫くだけだ)

仏頂面でそうつぶやくのが関の山だ。

だからこそ源太は、光太郎の言うことにはたいてい、従うのである。

 

共同墓地には、今日も何人かが墓参りに来ている。

平成最後の大震災の折、関東圏は軒並み大きな被害を受けた。しかし、それ以上に彼らを傷つけたのは、周りの圏からの被災地への応援や援助、救済と言ったものが、まったくと言っていいほど成されなかったことであった。

源太あたりは、震災時分には生まれたばかりの赤ん坊だから、詳細はよくわかっていない。年配の人間から聞く、『各圏は昔、県と呼ばれていて、日本は単一の国家だった』と言う、想像もつかないような荒唐無稽な話ばかりだ。

日本列島を支配、いや、奪い合っているのは、北海道と関西圏、九州圏の三大勢力であり、その各圏独立のきっかけとなったのが、平成の関東大震災である。歴史として源太が知っているのは、せいぜいこのくらいのことだ。

助けの来なかった関東は、ろくに立ち上がれないうちに、次のパンチをもらう。

各圏からの『圏交断絶』である。

江戸時代の国と国の境の比ではない、強大なバリケードと警戒態勢は、かつての東西ドイツを思わせる徹底ぶりだった。近隣の諸圏にしてみれば、警察体制も整わず、無頼の輩が横行している関東から自分たちを守るのは当然である。

しかし、被災した関東の人間にしてみれば、自分たちが今日の食い物にも困っているときに、目の前でうまい物を食われているのだ。勢い、圏境での争いごとは絶えることなく、結果、関東はますます孤立していった。

このあたりのいきさつは、次作に譲る。

コンクリートで作られた、 画一的な安っぽい墓標がならぶその下に、骨、もしくは遺体が安置されている例はほとんどない。ここは死者を安置する場所ではなく、生者が死者を思い出すための道具であり、場所なのであった。

打撃から立ち上がった関東の人間が、個人個人、何とか生き抜く算段が出来て落ち着いたあと、最初に協力してやったのが、この墓地を作ることだった。

「さて、ウチの墓はどこだったか」

小さくつぶやいた源太は、黒金の『く』のブロックを探すために、入り口の案内板を見上げた。

 

ひな子は途方にくれていた。

エンジンはうんうんとうなるばかりで、クルマは一向に前へ進もうとしない。タイヤはずるずると空転しながら、むなしくドロをかき上げるばかりだ。助手席で友美が大きくため息をつくと、ひな子に向かって肩をすくめる。

「まさか、私に降りて押せなんて言わないよね?」

ひな子は黙ってうなずくと、小さな声で言った。

「友美、運転を代わってくれる?」

「まさか、あんたが押すって言うの? その華奢な、吹けば飛ぶような身体で?」

ひな子がこくんとうなずくと、友美ははじけるように笑った。

「はははっ! ああ、おかしい。バカねぇ、あんたみたいなのが押したって、大木に蚊がとまったようなもんだって。あぁ、もぅ、わかったよ、あたしが押すよ。あんたに比べりゃ、あたしのほうがナンボかマシだろうからね」

ぽんぽんとまくし立てると、友美はさっさとクルマを降りてしまう。

ひな子は黙ったまま、すまなそうに身を縮めた。

引っ込み思案で気の弱いひな子は、いつも元気で積極的な友美に押し切られてしまう。しかし、今のやり取りでもわかるように、口は悪いが、シャキシャキとした性格をもつ友美の言葉や行動の裏には、いつも、ぶっきらぼうなやさしさがあった。

私も何かしなければと思いつつ、言い出せないでいるうちに、結局ないもできないで終わる自分に比べ、友美の生き様のなんと爽快なことか。ひな子はそんな友美に惹かれ、まぶしく思う。

おとなしい彼女が、勇気を振り絞って人に意見するのは、友美が馬鹿にされた時だけだ。友美もそれを知って、ひな子のことを妹のように思っている。もっとも、歳は二人とも同じ、今年二十歳になったばかりなのだが。

「ほら、遠慮しないでさっさとアクセルを踏みなさいよ!」

すでにかき上げるドロで真っ黒になりながら、友美が叫ぶ。ひな子は何とか脱出しようと、アクセルを踏むのだが、空回りしたタイアは友美にドロを浴びせるだけに過ぎなかった。それでも知美が懸命にクルマを押していると、突然、背後から声がかかる。

「俺が代わろう」

振り返った先には、男がひとり立っていた。

「ギヤを二速に入れて、ゆっくりとアクセルを踏むんだ」

言いながら男は、友美の返事を待たずに、上着を脱ぎつつ近寄ってくる。一瞬、気おされた友美が、はっと自分を取り戻して何事か言おうとする前に、男は脱いだ上着をタイアの前に敷くと、もう一度、友美を促す。

「さぁ、二速に入れて、ゆっくりと。できるね?」

言葉に詰まった友美は、きびすを返して運転席へ向かう。何事かと戸惑うひな子に

「運転席、汚すよ?」

とだけ言うと、ドロだらけの格好のまま、彼女と交代して運転席に座る。ひな子はクルマを降りて横に立ち、 運転席の友美と、クルマを押す男の間で視線を泳がせる。一方、友美の方はシフトレバーをドライブからセカンドに入れて、ゆっくりアクセルを踏んだ。

「ふんっ!」

同時に、男が気合一閃、クルマを押す。

と、あれだけ嫌がっていたクルマが、ひな子の目の前でじわりとぬかるみを脱出し始めた。じわじわと前に進み、クルマはやがてぬかるみを完全に乗り越える。そこで男は、腹の底から響く力強い大声で、運転先の友美に向かって叫んだ。

「そこで止まらずに、その先の乾いたところまで一気に走るんだ!」

その言葉に従って、友美はクルマを進める。乾いた場所まで進めると、クルマを停め、ドアを開いてあわてて駆け出した。先ほどの男が上着を拾っているところに、ひな子がお礼を言いに近づいていくのを見たからである。

スレてないひな子では、このまま男が『おまえの家でシャワーを貸せ』だの何だの言い出せば、うっかりうなずいてしまいかねない。そんな保護者的な気持ちが、友美を彼らの元へ走らせた。が、その走りは途中で速度を落とし、やがて歩きに変わってしまった。

歩いてひな子の元へ行くと、ドロだらけの上着を肩に引っ掛けて、墓地の方へ歩いてゆく男の後ろ姿を見ながら、彼女に問いかけた。

「あの男、なんて?」

ひな子は首を横に振った。

「お礼を言おうとしたら、『この墓地の駐車場は、雨が降るとすぐこれだ』と笑って、そのまま」

「行っちゃったんだ? へぇ、ヤルじゃない。それとも、女が苦手なのかな?」

そう 友美がいぶかしむのも無理はない。それくらい、ひな子は美しいのだ。華奢な身体に雪のごとく真っ白な肌。真ん中で分けた長い黒髪のあいだからのぞく、大きな濡れた瞳。女の自分が見ても、綺麗だし可愛いと思う。

客観的に見れば、友美だってひな子とは違った健康的な魅力があるのだが、ひとと言うものは、とかく自分にない魅力をうらやましいと感じるものだ。何事にもよく気がつく友美だが、ひな子が自分をうらやましいと思っていることにだけは、一向に気づくことがなかった。

と、ひな子が小さな声で友美を伺う。

「お墓参りみたいだから、戻ってくるのを待つ?」

「おや、おとなしいひな子さんにしては、積極的じゃない?」

からかわれて首筋まで染めながら、ひな子は消えそうな声でつぶやく。

「だって……あのひと、ドロだらけになってしまったのよ?」

「あたしだって、これ以上ないほどドロだらけなんですけどね」

そう言って笑った後、友美は言葉を続ける

「別に、本人が好きでやったんだから、いいんじゃないの? お礼しろってんなら、まあ、食事くらい付き合ってやってもいいけど、別にそう言う目的でもないみたいじゃない? まぁ、困った人を放っておけない、ってな奇人変人の類(たぐい)なんでしょうよ」

「そんな……奇人変人だなんて」

「このご時世に関東に生きてて、親切だけで人助けをするなんて、奇人変人じゃなかったら間違いなく、腹に何かイチモツ持ってるに決まってるよ。こうやって油断させておいて、ノコノコお礼を言いに来たあたしらを、さらって北海道か関西に売り飛ばすんだ」

「友美、ひどいよ!」

軽い 冗談に、思いのほか強く言い返されて、驚いた友美は、くっくと笑う。

「こりゃ、重症だわ。あんたね、ドラマじゃないんだから、こんなことで恋に落ちたりしないようにね? ただでさえ、世間知らずなんだから。世の中にはね、そう言う輩だっているんだよ? まったく、この友美姉さんを心配させるんじゃないっての」

ドロだらけの顔で友美は、からからと豪快に笑った。ひな子も、友美の言葉がひな子を守る気持ちから出たことは誰よりよく理解していたから、一瞬、ふくれっつらを装って口をすぼめた後、たまりかねて笑い出してしまった。

女ふたりの嬌声は、抜けるような青空に吸い込まれていった。

 

「おい、源太っ! 驚けっ!」

「いきなり驚けといわれても困る」

ニヤニヤ笑いながらやってきた光太郎に、いつものごとくぶっきらぼうに答える源太。

「いいから驚けっ! 俺はな、会長になるんだ」

「ふむ、キサマには向いているかも知れんな」

自分の果て無しなく巨大な野望を、『向いてるかも知れんな』のヒトコトで片付けた朋友に対し、光太郎は拳骨の制裁を加える。ゴンという音がして、頭を抱えた源太は、そこでようやく破顔して言った。

「会長になろうって人間が、他人に暴力を振るうとは何事だ」

「ふん、おまえは他人じゃない」

光太郎がしかめっ面でそう言った後、ふたりは同時に吹き出した。

しばらく快活に笑うと、やがて、少しまじめな顔になって、源太は光太郎の顔を見る。光太郎も笑いやめると、源太の強い瞳を見返した。そのままにらみ合うかのように、お互いに黙ったままだったが、やがて、源太が口火を切った。

「ふん、どうやら本気なのか。なんだってまた、あんな面倒な仕事をしたがるんだ? キサマにそんな上昇志向があったとは、今の今まで知らなかった。この町を牛耳って、いったい、なにをやらかすつもりだ?」

「文化の復興だ」

キョトンとする源太には構わず、光太郎は強い口調で語りだした。

「関東は今、荒れ放題の荒野に等しい。無頼の徒は横行し、それを止めるすべさえない。ひとはみな、夕方になれば家に閉じこもり、手製のカギやしんばり棒を噛ませて、それでもおびえながら眠るのだ。これは正しい国のあり方じゃないだろう?」

「さぁ、俺が物心ついたときすでに、世界はそう言うものだったから、なんとも言えん」

光太郎は肩をすくめると、それには答えずに続きを話す。

「あえて嫌なことを言うが、聞いてくれ。おまえのご両親は、善良な人だった。少なくとも、あんなふうに無残な殺され方をするゆえんは、何ひとつなかった。強盗に入った無頼漢は、しかし、そんなことには構わず、おまえのご両親を殺した」

源太は憮然としたまま、うなずいた。

「たまたま俺の家に泊まりに来ていたおまえは助かった。そして、そんな境遇にいるのは、おまえだけじゃない。町の人は皆、そうしておびえながら暮らしている。だが、こんなのは本当の人間の生き方じゃない。みんながもっと安全に暮らせる世の中、そいつを俺は作りたいんだ」

光太郎のまじめな瞳に、源太は強くうなずいた。

「そう言うことなら力になろう。俺はキサマを守る盾になろう。進む道に立ちふさがるものを、すべてたたき伏せ、キサマの前を切り開こう。しかし光太郎、俺はキサマを誤解していたかも知れん。事なかれ主義 なヤツに思っていたが、その見識を改めよう」

源太がそう強く言うと、光太郎はくすぐったそうに照れた。

「まぁ、口先で言うなら、誰にでも出来るさ」

自嘲気味に言った光太郎に、源太はまじめな顔で返す。

「ならば、それを事実にすればいい。俺が力を貸す」

「ああ、おまえがついてくれるなら、百人力だ」

ふたりはそう言ってお互いを見、また、快活に笑った。

「それでは早速、会長に立候補してくる」

「俺も行こう」

「おいおい、気が早いな。まだ俺を狙う暴漢はいないと思うぞ?」

「あたりまえだ」

笑いながら、ふたりは町の中央会館を目指して歩き出した。

もちろん、本当に立候補出来るわけはない。そんなこと、口に出した瞬間、大笑いされるのが落ちである。会長どころか若頭にさえ程遠いふたりは、それでも現在の自分たちの中心である中央会館を、この目で見てみたいと思ったのだ。

中央会館とは名ばかりの、壁面にヒビの入ったかつての体育館の前に来たとき、ふたりの目の前に立つものがいた。正確には、源太の目の前に立ったその人は、蚊の鳴くようなか細い声で、何事かをつぶやく。 源太はその言葉を聞き逃し、首をかしげて問い返した。

「すまない。聞き取れなかった」

「あ、ごめんなさい。あの……この間は、ありがとうございました」

「この間? さて、何の話だろう?」

「おい、源太。この美形は誰だ?」

首をかしげる源太の脇を、小声でそう言いながら光太郎がつつく。

「あの……先日、クルマの……」

「ひな子、なにしてるの?」

明るい張りのある声が、中央会館の前に響いた。会館から出てきた女性が放ったものだ。もちろんそれは友美の声だったし、源太の前で今にも消え入りそうな状態で立っているのは、だれあろうひな子その人だ。

「おぉ、王子様を見つけたか。ひな子の一念、岩をも通したね」

かっかと笑いながらやってきた友美は三人に向かって、まぶしいほどの元気な笑顔を向けた。

実は友美、ひな子が源太を見つけて駆け寄っていくところから見ていたのだった。そして、源太が怪しげなそぶりを見せたら、駆け寄っていってひな子を助けようと思っていたのである。おせっかいな話ではあるが、 『姉、保護者』を自認する身としては、当然のことだ。

そして、美形のひな子に話しかけられた源太が、心底困った風に考え込むのを見て、ようやく源太と言う男に下心や他意がないと見て取り、愁眉を開いたというわけである。根はまっすぐな、人のいい女なのだ。

「この間、共同墓地の駐車場で助けられたのよ。こんな美人を覚えてないの?」

「おぉ、あのときの。思い出した。いや、あの時、君はドロだらけだったから、こんなに美しい人だとは気づかなかった。こちらのお嬢さんとは、何も話してないし」

無神経な言葉でひとを傷つけてしまうのは、鈍感な源太の悪いところだ。本人に悪気も他意もないのだから、なお、始末に困る。そしてこの場合、源太はひな子の気持ちなど知る由もなかったのだから 怒られる筋ではないが、友美はそれを許容するには若すぎた。

いくらひな子の姉や保護者を気取っていても、彼女も同じ二十歳の娘なのである。源太の無神経さに腹を立てた友美は、言外に眼中ないと言われてさびしそうに目を伏せたひな子の顔をちらと見てから、彼女らしい率直さで怒りをぶつけた。

「何も話してなくはないでしょう? 彼女に『この駐車場はいつもドロだらけだ』と言ったはず」

「ま、まあ、それは言ったかも知れんが、俺はあのとき、早いところ墓参りを済ませてしまおうと、そればかり考えていたものだから……いや、あの……」

源太が言葉に詰まってしまったのは、当惑したからだ。この太陽のように明るく美しい女は、いったい、なにを怒っているのだろう? 自分の言葉のなにが、彼女を怒らせてしまったのだろう? そんな風に驚いてしまって、言葉を返せずにいた 。

「やめて、友美……おねがいだから……」

こちらも当惑気味に、そう止めに入ったひな子を見ながら、勘のいい光太郎はこの段階で、おおよそのところを察した。同時に彼は、調停者としての非凡な才能を発揮する。彼は友美に向かって笑顔を見せながら、張りのある声で言った。

「お嬢さん、あなたの言いたいことはわかる。この男は、ちょっと愚鈍なくらい実直なので、傷つけた事実に気づかないことさえよくある。俺が代わりにと言うのも変だが、そのことについては詫びよう。しかし、まずはお互い自己紹介をしてからでも、遅くはないと思うのだが?」

言われてようやく冷静になった友美は、心持ち顔を赤らめてうなずいた。その顔を美しいなぁと思いつつ、ぼうっと見つめる源太。その源太の顔を、喜びや寂しさの混じった複雑な思いで見つめるひな子。 すばやく状況を察して、光太郎はおどけた声を上げた。

「俺は、井上光太郎。この夏で二十四になる。いずれこの町の会長になり、自警団を結成して、みんなを夜盗や無頼漢の恐怖から開放する予定の男だ。と言ってもいまのところ、まだ 立候補さえしていない、ただの大工組の若衆だけどね」

そう言いながら、ひな子と友美を均等に見つつ、ウインクする。

「私は、安西友美。二十歳。食堂組で働いてるよ」

友美の顔を見てぼうっとしていると、光太郎に脇を突っつかれ、あわてて源太が続く。

「黒金源太。二十八。大工組の若衆をしてる」

三人の目が集まるなか、いよいよ消え入りそうな声で、ひな子がささやいた。

「高柳ひな子です。二十歳です。父が会員なのでそのお手伝いを」

「へぇ、ひな子ちゃんのお父さんは、会員さんなのか。それはすごいなぁ」

無法地帯になった関東をなんとか形だけでも律しているのは、キリスト教の教会であった。彼らは本国から送られてくる物資を均等に分配し、みなが作ったり集めたものや、労働力そのものも、公平に分配する役目を持っている。

キリスト教会のすぐ下に属するものを会員と言い、それを束ねる会員の代表が会長である。会長は各教会の長である神父と会員をつなぐ役割を持つ、いわば地方自治体の長である。会長を中心に、会員がそれぞれ組と呼ばれる組織を持ち、役割を分担して復興に努めているのだ。

会員の下に各組の組頭がいて、実際面でのもろもろを統括する。組頭は数人の若頭を束ね、若頭は若衆と呼ばれる若者たちを現場指揮する。 つまりひな子の父親は、源太や光太郎から見たら、雲の上の人間と言うことになる。

しきりに感心する光太郎に、ひな子は少し居心地の悪い思いがした。

会員と言う重責を担っているのは大変なことだが、それはあくまで彼女の父親の業績であり、彼女自身は手伝いといっても大したことが出来るわけでもない。同級生だったものの中には、ひな子が組に属さず父親の力によって優遇されていると陰口をたたくものもいる。

ひな子自身は、それを事実だと思うから、黙って言われるままでいるのだが、もちろん、そんなときは本人の意思と関係なく、友美の援護射撃が繰り出される。陰口や意地悪を言ったものは、彼女の攻撃、いや、口撃によって打ち負かされ、ほうほうの体(てい)で逃げ帰ることになるのだ。

「んで、あんたたち、どこへ行くの?」

相手が年上だと知っても変わることなく、友美は堂々と口をきいた。そのシャキシャキとした感じを好ましく思いながら、珍しく源太の方が口を開いた。

「中央会館を見学にきた」

「それは残念。中央会館は会員じゃないとは入れないよ」

友美の言葉に、光太郎はがっかりと肩を落としながら、それでも食いつく。

「でも、ひな子ちゃんは入れるんだろう? 俺も入れてもらえないかな?」

「それは……できなくはない……と思うんですけど……」

ひな子が逡巡する横で、「 なんで今日会ったばかりのあんたのために」、と言いかけた友美は、ふと、なにごとか考え込んだ。それから、にやっと笑うと、ひな子に向かってうなずいて見せた。

「そうね。ひな子と一緒なら、少しくらい見せてもらえるんじゃないかな?」

それからひな子の耳元で小さくささやく。

「あの光太郎って男に恩を売っておいて、源太って人の情報を仕入れてきなよ。あたしは本人に、イロイロと聞き込んでおくから」

そう言って、にっこりとウインクする。

が、ひな子にしてみれば、源太と友美をふたりっきりにはしたくなかった。

ヒトのことには聡(さと)い友美も、自分のこととなるとからっきしだ。おそらく、源太が自分に惹かれていることなど、想像だにしていないだろう。しかし、彼女の親切心を無駄にするのも気が引けるし、確かに、本人より友人の方が、イロイロなことを聞きやすいかもしれない。

しばらく逡巡した後、彼女は小さくうなずいた。

「源太、友美ちゃんに悪さをするんじゃないぞ?」

会館の入り口でそう軽口をたたく光太郎に、ぶすりとした表情で『バカ者』とだけ答えたぶっきらぼうな横顔を見つめつつ、ひな子は胸にちくりと痛みを感じた。光太郎も、源太が友美に惹かれていると感じたのだろうか?

ふたりは、中央会館の中へ入っていった。

残された友美は、さあてと腕まくりする気分で源太に振り向くと、こぼれるような笑顔を見せる。それは『ひな子のために、少しでもこの男のことを聞きだしておかなくちゃあね』と言う、ひどくおせっかいなやる気だったのだが、その輝くような笑顔を、源太はまぶしく見つめ返した。

 

ひな子の心臓は、今にも爆発しそうだった。

手のひらには汗がにじみ、血管が脈打っているのがわかる。自分がどんな表情でいるのかさえ、見当がつかない。外から見たらいつもどおり、穏やかに微笑する儚い風情の麗人なのだが、その内心は今にも倒れそうなほど、緊張と期待、不安と恐怖がない交ぜになっ ていた。

油断したら、倒れこみそうだ。

そんな彼女の心の内など知る由もなく、源太は仏頂面でひな子の二三歩先を歩いてゆく。とはいえ、彼とて怒っているのではない。不器用な、特にこういうことに関して不器用な彼は、とにかく、どうしていいか分からず当惑しているのだ 。

友美の健康的な美しさに惹かれたのは事実だが、それは恋と言うのも気恥ずかしいほど、淡くはかない感情であったし、実際、彼自身、果たして友美が好きなのか、それほどでもないのかさえ、判然としていな かった。

二十八にしてそんな純情は、むしろ薄気味悪いと言う感もないではない が、彼の育った環境と彼自身の性格を考えれば、仕方ないとも言えよう。早くに両親をなくし、自治体の共同で育てられた実直なこの男にとって、恋愛と言うものこそ、もっとも不可解な難しい問題 なのだ。

「ひな子さん、寒くはないか?」

怒ったようにぶすりと声をかけられただけで、ひな子の脈拍は飛び上がる。友美と光太郎がおせっかいにもセッティングしてくれた今日のデートは、ひな子にとって最大の喜びと 同時に、最大の恐怖をもたらした。

中央会館の前で再会したあの日以来、四人は連れ立って遊びに行くことが多くなった。大工組のふたりと食堂組の友美の休みである週末に近くなると、ひな子の心臓の音は、毎回、どくんどくんとうるさいほど高まる。

ひな子自身はとくに決まった休みはなく、休みたいときに休んでも、父親は文句を言わない。もともと、それほど丈夫でないひな子の身体を慮(おもんぱか)ったからだろう。

両親とも、大工組の若衆や食堂組の女の子と遊びに行っている事は知っていたが、彼らと付き合うようになってから、ひな子の体が目に見えて丈夫になり、瞳が生き生きとしてくるのを見てしまえば、親として口を挟むいわれはない。 むしろ 彼らは娘の元気を、何よりも喜んでいた。

あの日、会館に入ってしばらく見学したあと、ふたり休憩所でコーヒーを飲みながら、光太郎はひな子に向かって、驚くようなせりふをいきなり切り出してきた。

「ねぇ、ひな子ちゃん。君はもしかして、源太のことを好いちゃぁいないかい?」

突然の、しかもあからさまな質問に、ひな子は思わず耳まで真っ赤になって、うつむいてしまう。その赤面とうつむきを、肯定と解釈した光太郎は、陽気な調子でからかうように言った。

「ははは。突然、妙なことを言ってすまない。しかし、君の友達の友美ちゃんも、おそらくは君の気持ちに気づいているんじゃないかな? 俺と友美ちゃんは、多分、同じことを考えてるよ。君の想いを、あのヤボ天に届かせたいってコトをね」

思わず顔を上げると、そこには驚くほどやさしい光太郎の顔があった。あわてて目を伏せると、それこそ茹で上がったように真っ赤になりながら、ひな子は小さく、小さく声を出した。

「あの人に、迷惑じゃないでしょうか?」

「君に好かれて迷惑だと思う男は、きっとこの世にいないよ」

「あのヒトには、好きな人は?」

「俺はあいつとガキのころからの連れだけれど、あいつを好きな女も、あいつが好きな女も、どっちも聞いたことはないなぁ。まあ、二十八の健康な男子としては、逆に問題だとは思うけれど」

「そ、そうですか」

ひな子の胸に、安堵が広がる。

大きくため息をついた彼女の様子を、光太郎は存外冷静な表情で見つめていた。

それから彼は、彼女に聞かれたことも聞かれないことも含め、知りうる限りの源太の話をした。いかに曲がったことを嫌うか。そのために、どれだけ周囲と軋轢を起こすか。それを調停する自分の苦労話の形で、時におどけ、時に真剣に、彼は源太のことを語った。

その口調に、彼も源太を好きなんだと知ったひな子は、会ったばかりの光太郎に対して、非常な好感を持った。それは源太を好む同志の共感であり、彼が男だという安心感でもあった。少なくとも源太を奪い合うことはしなくて済むのだ。

ほどなく光太郎とひな子は、冗談を言い合うまでに意気投合していた。

会館を出てみると、なにやら大声が聞こえる。

そちらに目を向けたふたりは、思わず顔を見合わせて笑ってしまった。遠くてなにを言っているかは聞こえないが、友美が大声で突っかかっている相手は源太で、しかし、源太自身は肩をすくめて仏頂面のまま、黙って立っているのだ。

「やっぱりなぁ。源太のヤツはデリカシーがないから、友美ちゃんを怒らせたんだ」

「友美の気が短すぎるんですよ」

ふたりはもう一度くすりと笑うと、それぞれの友人に元へ向かって歩きだした。

「おいおい、いったいどうしたんだ?」

光太郎の言葉に、友美が口を尖らせる。

「どうしたもこうしたも、この男ったら、最強の格闘技は空手だってぬかすのよ?」

「当然だ。ボクシングなんて、両手しか使えないじゃないか。蹴り一発で終わりだ」

「バカじゃないの? 手のスピードって言うのはね、足の何倍も速いのよ。だから……」

「ストップっ! なにをもめているかと思えば、おまえらずっとそんな話をしてたのか?」

源太はぷいっと横を向き、友美はひな子の顔を見て、自分が『何でこの男と話し出したのか』を思い出し、自分の使命をすっかり忘れていたことに気づいて、おもわず天を仰いだ。それからひな子の耳元で、ごめんと小さく詫びる。ひな子は思わず 吹き出してしまった。

光太郎は肩をすくめながら友美に近づく。耳元にクチを寄せようとして、一瞬、身体を引いた友美に、心配するなと言った風に笑いかけると、小さな声ですばやく言う。

「そっちが遊んでる間に、コッチはずいぶん話を進めたぜ? なにやってんだよ」

責められるような口調に、唇を尖らせながら言い返そうとして、光太郎のしてやったりといった笑顔を見た瞬間、思わず笑ってしまった。

「なにをコソコソと話してるんだ?」

相変わらず仏頂面のまま、しかし、ちょっと不安そうにそう聞いた源太の顔を見て、三人は思わず吹きだしてしまう。きょとんとしたその表情に、光太郎が追い打ちをかけるように

「これでこの中じゃぁイチバン年上だって言うんだから、困ったもんだ」

とからかい、また、三人で大笑い。

その中心にいながら、わけも分からず首をかしげる源太を、ひな子はとても好ましく思った。

 

それから四人は一緒になって遊びに出ることが多くなった。

もちろん、おせっかいな友人ふたりは、そのたびになんとか源太とひな子をくっつけようと画策するのだが、この驚くほど鈍い正義漢は、そんな彼らの努力を水泡に帰すことにかけては、まさに天才的だった。

公園で二人っきりにしてやり、しばらくして帰ってみると、源太とひな子は迷子を抱えて、その母親を探している始末。あるいは歴史資料館へ出かけ、それとなくふたりきりにしてみると、資料を食い入るように読みふける源太の横で、ひな子はおとなしく座っていたり、といった具合だ。

どうにも進展が見込めないコトに、おせっかいな憤(いきどお)りを感じたふたりは、ついに、面と向かって源太に言い出すことにした。ある日の夕暮れ、仕事の帰り道、光太郎は友美との打ち合わせどおり、話を切り出す。

「源太。明日、ひなちゃんを連れて、川原を歩いて来い」

「なぜだ?」

「なぜでもだ。いいな? 明日の休み、かならず行くんだぞ?」

「理由を言え」

「やかましい、この朴念仁」

「なにを怒っているんだ? ははぁ、読めたぞ?」

源太は、にやりと笑って光太郎の肩をたたいた。

「キサマ、友美さんとふたりっきりになりたいのだな? なるほど、キサマがそんな風に思っているとは露ほども気づかなかった。それでキサマらは、俺のことを『朴念仁』とののしるんだな。してみると、友美さんもキサマのことを憎からず思っているというわけか。なるほど、なるほど」

光太郎は、唖然としたまま源太の顔を見ていたが、やがて大きく肩を落とした。

それでもこの光太郎のおせっかい企画は、友美の好みにも合ったようで、ふたりは何とか協力して、休日の川原(このときの関東には、遊園地などの気の聞いた場所はない)へふたりを行かせることに成功した のだった。

源太はひな子と連れ立って川原を歩きながら、友人に思いをはせる。

(今ごろ、光太郎は友美さんと仲良くやっているのだろうか)

彼らが自分たちをこそ心配しているなど、毛ほども気づかない朴念仁は、内心、にやにやと思い出し笑いのようににやけながら、表面上はいつもの仏頂面で、川原を歩く。

してみると、自分が友美を好いていると思ったのは、やはり勘違いだったのだ。もし好いているなら、ふたりが好き合っていると言うことに対して、これほどうれしい気持ちにはならないだろうから。

そんな風に己の心を分析しながら歩いていると。

「げ、源太さん、なにを笑っているんですか?」

精一杯の勇気を持って、ひな子が話しかけてきた。源太は驚いて彼女を振り返る。

「笑っている? 俺が?」

「ええ、とてもうれしそう」

それが自分といるからだと思い込めるほど、ひな子は強くない。 ただ、いつもの仏頂面に唇の端に、ほんのわずかにだが微笑が浮かんでいるのを見て取った彼女は、思わず聞いてしまったのだ。聞いてしまってから、間違っていたらどうしようと、また、どきどきして来る。

「ふぅむ」

とうなったきり、腕組みして立ち止まってしまった源太の様子を見て、ひな子は軽率なことを口走ったと、死ぬほど後悔した。そのまま放っておかれたら、本当に死んでしまったかもしれない。しかし、彼女が後悔と言う自己の毒で憤死してしまう前に、源太の口が開いた。

「こうなれば、ひな子さんにも話しておいた方がいいだろう」

意を決した様子の源太の話を、真剣な面持ちで聞いていたひな子は、ほどなく、安堵と脱力、それにちょっとの怒りの混じった、大きなため息をついた。

この鈍いこと国宝級の男は、あろうことか自分とひな子のために暗躍するふたりの様子を、単純に恋仲と勘違いしてしまっただけでなく、その恋を実らせてやりたいなどと、真剣な顔で嘯(うそぶ)くのである。 ひな子はあまりのことに、思わずその場にしゃがみこんでしまいそうになった。

それから、心配そうに(無論、ひな子のことではなく、彼女が自分に賛成してくれるかどうかを心配しているのだが)彼女を覗き込む源太の顔を見て、こんなに真剣に心配してもらえる光太郎が、少しだけうらやましくなった。 とたんに、緊張が解けて、ひな子は思わず微笑む。

しかし、源太のほうはまだ、心配事があった。

「もしかして、ひな子さん。あなたは光太郎を好いていたのだろうか?」

なんという無神経。

しかし、これが源太と言う男なんだと、少し強くなった心でひな子は思った。

「いいえ、私の好きな人は、他にいますから」

「それはよかった」

『光太郎の恋が無事に実りそうだと言うことに対して言った言葉だ』と充分に解っていても、自分に好きな人が居るという言葉に対して『よかった』と言われるのは、やはり切ない。今までのひな子なら、きっと下を向いて涙を流しただろう。

しかし、ひな子は、少しだけ強くなっていた。このタイミングを逃さず、勇気を振り絞って大切な質問をする。遠まわしな言葉では彼に届かないことはわかっているから、誤解しようのない、限りなく直球の質問をしなくては。

「それで、源太さんには好きな人が居ますの?」

この逆襲は予想してなかったのだろう、源太は思わず顔を真っ赤にして口ごもった。そのあとしばらく、いや、ひな子にとっては永遠とも思える時間が過ぎた後、源太は少しかすれた声で言った。

「はじめは、友美さんが好きなのかと思った」

ひな子は息を呑みながら、それでも源太の顔を見つめて話の続きを待つ。

「だが……どうもそう言うことではないようだ。光太郎が友美さんを好きなのだと知ったとき、何の屈託もなく、俺はうれしいと思った。もし友美さんが好きだったとしたら、こんな風には思わないだろう。だから、俺は友美さんが好きなのではない」

そう言ってから、緊張でこわばるひな子の表情を誤解したのか、あわてて付け加える。

「や、もちろんそれは嫌いと言うことではないし、友人としては好きだ」

「そう……ですか」

自分のことはどう思うのか、ひな子は何度も聞こうとした、しかし、いざ聞こうとすると、どうしても口が開かない。心を強く持ったはずなのに、それでも、最後の一歩、大切な一歩が踏み出せないのだ。ひな子は、自分の弱さが泣きたくなるほど嫌になった。

「風が、冷たくなってきた。ひな子さん、帰ろうか」

涙をこらえ、うなずくのが精一杯だった。

 

「あいつら、うまくやってるかな」

光太郎の言葉に、友美は肩をすくめる仕草だけで答える。

「源太の鈍さは、超越してるからなぁ」

「ひな子の引っ込み思案もね」

「違いない」

顔を見合わせてくっくと笑った後、光太郎はまじめな顔になって言った。

「ところで友美、話があるんだ」

それだけで友美は察したのだろう、座りなおして正面を向く。

「俺は」

そう言ってから、大きく深呼吸。

「友美が好きだ」

友美はその言葉を受け止めると、ゆっくりと咀嚼する。それから、いつになく真剣な表情で静かに、静かに話し始めた。

「ありがとう。私も光太郎のこと、好きだよ。だけど、光太郎と付き合うことは出来ないんだ。あのね、私、馬鹿みたいな話なんだけどさ……」

言葉を切ってしばらく逡巡してから、友美は意を決して光太郎の目を見つめる。

「源太が、好きになっちゃったんだ」

「な……おまえ……」

「うん、わかってる」

何か言おうとした光太郎を制して、友美は言葉を継いだ。

「ひな子が源太を好きだってことは、誰よりも知ってる。だから、こんな余計なおせっかいを焼いてるんだしね。ひな子と源太が上手くいけばそれでいいし、もしダメでも、代わりにしゃしゃり出ようなんて思っちゃいないよ。どっちにしても私の気持ちは、行く場所がない」

それから、キッと表情を引き締めて天を仰いだ。

「そんなことは、解ってるんだよ」

「それでも、源太が好きなのか?」

「まあ、女心と秋の空って言うしね。いずれは忘れるかもしれないけど、今はまだ……」

それ以上は、言葉にならない。

友美は空を見上げたまま、涙を流す。

光太郎は、まるで源太のように、仏頂面のまま友美を見つめていた。

が、やがて一緒になって空を見上げ、いや、にらみあげた。視界が見る見るゆがんでゆく。自分の破れた恋にではなく、行き場のない友美の思いのやりきれなさに、光太郎は両の拳をぶるぶると握ったまま、友美と一緒にいつまでも空をにらんでいた。

その晩、帰ってきた源太から、デートのいきさつを聞いた光太郎は、いつになく厳しい表情のまま、源太を夜の公園に誘い出した。彼の尋常ではない雰囲気に、源太は逆らうことも理由を聞くこともせず、ただ、後をついてゆく。

ふたりは満月が照らす公園で、対峙した。

どちらも黙ったまま、相手の顔をにらんでいる。源太の表情には、それでも少し当惑があった。光太郎が、なにを怒っているのか見当がつかないからだ。しかし、彼が自分に怒っているのなら、きっと理は向こうにあるのだろう。源太はそのとき、ふと思いついた。

「もしかして、友美さんのことか?」

見当はずれとばかりは言い切れないが、少なくとも今の光太郎にとっては見当はずれな、その答えを聞いたとたん、彼の心は爆発した。友人に悪気のないのはわかっている。しかし、その鈍さがどれだけのヒトを傷つけたのか。彼の鈍感は、もはや罪であった。

「おまえがそんな風だからっ!」

叫びながら、源太に殴りかかる。源太は、光太郎の拳を避けなかった。

ゴンっ!

鈍い音がして、目の前に火花が散る。

鼻っ柱を殴られた源太は、鼻血を流しながら、怒ったような顔で立っていた。無論、怒っているのではない。怒るとしたら、友人がこれだけ憤るのに、理由の見当がまったくつかない自分自身に 対してだ。だから、ふらつく足に力を込めて、源太は立っていた。

そこへまた、光太郎の拳骨が飛ぶ。

ガツン!

今度は横っ面を殴られた。

頬骨が折れたかと思うほどの衝撃に、しかし源太は相手の方を心配した。あれだけの衝撃じゃ、光太郎の方が拳をひどく痛めているかもしれない。それでも光太郎は、容赦ない拳を振るう。殴りながら、光太郎は泣いていた。源太も、涙を流していた。

やがて、はぁはぁと息を切らし、拳を腫れあがらせて、光太郎がその場に座り込んだ。殴られて腫れあがった顔のまま、源太は涙を流して立っていた。詳細はわからないが、おそらく、傷ついたのは自分ではなく友人の方だ。 そう確信して、彼は泣きながら立っていた。

ふたりは無言のまま、いつまでもその場から動かなかった。

と。

小さな悲鳴が聞こえたような気がして、光太郎は顔を上げる。

上げた視線が、源太とぶつかった。源太も無言のまま、強くうなずいた。光太郎は立ち上がると、源太に向かって無言で問いかける。源太も黙ったまま、南のほうを指差した。指差した先には、小さな明かりがひとつ。公園の管理をしている男の住む家だ。

「光太郎、神父様のところへ走れ」

それだけ言うと、源太は返事も聞かずに走り出した。 光太郎は、それを止めようとしてあきらめると、こちらも源太に負けじと全力疾走を始める。光太郎の足なら、教会まで十分かからない。そこでみなを説得して、ココまで戻ってくるのに、全部で三十分はかからないはずだ。

「源太、無茶はするなよ?」

走りながら、光太郎はつぶやいた。

走って、走って、走りぬけ。

教会へ飛び込んだ光太郎は、何事かと注目する人々に向かって叫んだ。

「公園で悲鳴が聞こえた。管理のおじさんの家が、夜盗に襲われているかもしれない」

教会の人々の反応は、すばやかった。

これが会館の方では、ここまですばやく動けないだろう。なんだかんだ、みんな夜盗や無法者は怖いのだ。だが、教会の神父様たちは、本国から武器を預けられている。

無法地帯になってしまった関東での布教は危険だから、あくまで身を守るために、拳銃を持っているのだ。厳密には法律違反だが、日本は分裂しているし、関東にはまともな政府機関さえないのだから、神父が拳銃を持つことをとがめるものは、誰もいない。

銃を持った神父様や、話を聞いて集まってきた人々を従えて、光太郎は走った。

走って、走って。

すると、みんなの足音が聞こえたのだろう、管理のおじさんが、家から顔を出した。

「どうしたんです?」

それから、先頭の光太郎を見て、ははぁと合点した顔で言った。

「なるほど、もうひとり勘違いしてたんだな」

「どういうことです?」

神父様が聞くと、おじさんはにっこりと笑って答えた。

「さきほど、若衆がひとり飛び込んできまして、どうやらワシと女房の夫婦喧嘩を、夜盗か何かと勘違いしたようなんです。そう言ったら、急に倒れこんでしまいまして。どうも、ずいぶん殴られたようで、顔が腫れあがっていましたから、そのせいでしょう」

おじさんはそう言うと、困ったように頭をかいた。その彼に光太郎は聞く。

「源太は?」

「奥で寝ているよ。いま、起こしてこよう」

そう言って引っ込みかけるおじさんの後ろから、源太の声が聞こえた。

「光太郎? 井上光太郎か?」

「源太、大丈夫か?」

軽い違和感を覚えつつ、なかに入ろうとすると、源太が大声で言った。

「井上、俺一人じゃ立ち上がれないんだ。手を貸してくれないか?」

刹那。

光太郎は後ろを振り向くと、神父様の手から拳銃を取り上げ、スタスタと家の中に入り込む。駆け込むでもなく、しかし、あまりにすばやくスムーズな動きに、神父様は一瞬、虚を突かれた。管理人のおじさんが、あ、と声を上げる。

「大丈夫か?」

と言いながら懐に銃を隠して家に入った光太郎は、ベッドにいる源太を抱き上げながら、彼の口元へ耳を寄せる。源太は小さな声で、『台所にふたりだ』とつぶやいた。そのままよろよろと源太を抱え起こすフリをして、次の瞬間、ふたり一緒に台所に飛び込む。

ぱん。

乾いた銃声がひとつ。

管理人のおじさんが悲鳴を上げる。その悲鳴で呪縛の解けた神父様たちは、あわてて家の中に駆け込んだ。台所までかけてゆき、そこでみな、動きを止める。管理人のおじさんの女房が、源太に抱き起こされるところだった。

そして、その脇には拳銃を持った光太郎が、夜盗に銃口を向けている。彼の足元には、おばさんを脅していたのだろう、もうひとりの夜盗が大きな山刀持ったまま、血を流して倒れていた。息をしているところ見ると、死んではいないようだ。

管理人のおじさんは駆け込んでくると、奥さんを抱きしめ、光太郎に噛み付く。

「万が一のことがあったら、どうするつもりだったんだっ!」

もっとも、彼自身、たとえ夜盗の脅しでやらされた芝居がうまくいき、みんなが首尾よく引き上げたとしても、そのあと、夫婦そろって殺されていた可能性は、充分によくわかっていたのだろう。表情を緩めて、深く頭を下げた。

「女房を助けてくれて、本当にありがとう」

光太郎と源太は、顔を見合わせて笑った。

「ところで光太郎、おまえ、なんで管理人さんが芝居をしていると分かった?」

神父様に問われ、ふたりは胸を張って答える。

「源太は普段、俺のことを井上なんてゼッタイに呼ばないんですよ」

「俺たちがお互いを苗字で呼ぶときは、『いま、まずい状況だぞ』って合図なんです」

「ふうむ、なるほどなぁ。昔、いたずらしたお前たちがなかなか捕まらなかった謎が、いま、ようやく解けたよ。おまえら昔から、口を利かずに意思の疎通をしてたんだな」

へへへと顔を見合わせて誇らしげに笑うふたり。

それを見て、こちらもうれしそうに微笑んだ神父様は、やがて顔を引き締めた。

「それはともかく、ふたりとも覚悟しろ。教会へ帰って、こってり絞ってやるからな?」

神父様に言われ、ふたりはあわてて笑いを引っ込める。

それから顔を見合わせて、もう一度、大声で笑った。

 

「まったく、バカじゃないの?」

教会の前の噴水に腰掛けて、友美は、あきれた顔で毒づいた。 言われてにやりと笑う光太郎に、友美は『処置ナシだ』とつぶやくと、改めて源太を見た。 光太郎に殴られて腫れあがった源太の顔を、ひな子がタオルに浸した冷水で冷やしている。

あのあと、危ないことをして万が一死んだらどうするんだと、神父様にこってりと説教された二人は、そのまま教会で一夜を明かした。 そして朝になり、もう一度、神父様に叱られてから教会を出ると、目の前の噴水のところに、心配そうな顔をした友美とひな子が立っていたというわけだ。

「ところで、源太の顔、なんだってあんなに腫れ上がってるのよ?」

「さあな。夜盗に殴られたんじゃないのか?」

「源太、本当?」

「さぁ、覚えてないな」

友美は二人に向かって、キッと表情を引き締めた。

「どれだけ心配したと思ってるのよ? 知らせを聞いたとき、ひな子なんて危うく気を失いかけたんだからね? まったく、夜中にいきなり大騒ぎになって、挙句の果てに源太と光太郎が夜盗に撃たれたって聞いたときは、心臓が止まるかと思ったよ」

そんなデマも飛ぶほど、町は混乱していたのだ。

「へぇ、俺のことも心配してくれたのかい? 源太だけじゃなく?」

ぱん!

すねたような口調で光太郎が言った瞬間、友美の平手が飛んだ。なにするんだと言いかけて、友美の瞳が涙でいっぱいになっているのを見た光太郎は、うつむいてから小さな声で 、『すまん』と言った。それから顔を上げて、もう一度、今度は大きな声を出す。

「心配かけて、すまなかった」

「まったく、仲がいいほどケンカするってやつだな」

見ていた源太の、信じられないほど能天気なセリフを聞いて、光太郎と友美は思わず全身の力が抜ける。その源太は、ひな子に膝枕してもらって、腫れた顔を冷やしてもらいながら、うれしそうに昨夜の武勇伝を語っている。

それをうんうんと聞くひな子も、本当に幸せそうだ。

大きなため息を吐いて肩を落とした光太郎に、友美は思わず吹きだしてしまった。ふたりは顔を見合わせて、今度は遠慮なく、大声でげらげらと笑う。その様子に話をやめた源太とひな子は、ふたりを見つめ、どちらからともなく、うれしそうに微笑んだ。

源太は相変わらず勘違いしたまま、ひな子に向かってやさしい声をかける。

「あのふたり、仲良くなれて本当によかったなぁ」

ひな子はどう答えていいか分からずに、困ったような顔で微笑を浮かべ、うなずいた。

そこで源太は、急に何事かを思い出したらしい。

笑いこけている光太郎に向かって、バツの悪そうな顔で聞いた。

「ところで光太郎、ゆうべはキサマ、なにを怒っていたんだ?」

こんどこそ、完全にあきれ果てた光太郎は、ため息をつきながら叫んだ。

「知るかっ!」

それから友美やひな子と顔を見合わせ、三人は同時に吹き出した。

「うぅむ、まだ怒っているのか」

源太はひとり、わけも分からず首をかしげる。

噴水の水が、真っ青な空にきらきらと光った。


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