神々の酩酊

 

神人と俺たちの、唯一にして最大の違い。

それはチカラだ。チカラってのは、ヤツら特有のあの能力のこと。心を読む能力のことだ。アレがなければ、俺たちと神人に、何の違いもない。てめぇらで勝手に神人なんて名乗ってるだけで、もともとは、ヤツラだって人間だったんだ。

ヤツラ同士で心を読みあうときは、無制限に読めるわけじゃないらしい。読ませる方が許可して心を開くことで、『読ませてもいい』と思ったことだけを、読ませることが出来るんだそうだ。もっとも、 SF映画のように垂れ流しで誰かの思いが流れ込んでくる、なんて言うんじゃぁ、神人どもだって、たまったものじゃないだろう。

俺たちを蔑んでるヒマもなく、お互いに殺し合いを始めるに違いない。

それはともかく、この能力について特筆すべき点はもう一つ。その『許可する』ってのが、神人にしかできないと言うことだ。つまり、そんな能力を持たない俺たち人間の心なら、いつでも読めるってわけ。もちろん、ものすごく不公平な話だと思う。

だが、事実としてそこにあるのだから、まあ、仕方ないとあきらめるしかない。心を読める、いや、正確には『心を隠せる』神人が、心を隠せない俺たち人間を下に見るのは、自然なことだと思う。俺だって、一方的にヒトの心が読めたら、世界を取ったような気になるだろうから。

「無理に理解したフリをしなくてもいいんですよ。あなたの心の根底に、我々への嫌悪と憎しみが流れていることは、私には手に取るようにわかるのですから。憎んでも構わないし、嫌うのも当然でしょう」

これだ。

これだから、神人は嫌なんだ。

「まあ、嫌でもなんでも、協力してゆくしかないでしょう? 数の上では、あなた方が圧倒的に多いです。でも我々は、あなたたちの心を読むことが出来る。争ったって意味はないし、争えばたぶん、我々が有利です」

まあ、そりゃぁそうなんだが、そっちに言われると腹が立つんだよ。

ところで、神人と話してて、唯一、良いと思うことがある。それは、口を利かなくて済むことだ。話しかけられても、そっぽ向いてればいい。どうせヤツラは、俺らの心を勝手に読むんだから、わざわざ顔を見て口を開く必要はないんだ。

「そうとんがらずに、出来れば顔を見て話をして欲しいんですけれどね」

嫌なこった。

てなわけで、俺たち人間はいつでも、神人の存在がないもののように、完璧に無視することに決めている。神人と本気で話すのは、子供とキチガイくらいのものだ。まっとうな大人だったら、神なんぞ無視してしかるべきってわけさ。

もっとも、神人は俺たちが心の中で何を思おうと、怒ったり咎めたりしない。心の中が筒抜けなんだから、具体的な害意を持てば、その瞬間に看破できるわけだし、実際に被害がなければ、いちいち怒る必要もないってことなんだろう。

「あなた方だって、いちいち犬猫に腹は立てないでしょう? せいぜい、噛み付いたら叱るだけで。それと同じようなことですよ。我々には余裕があるんです」

元は同じ人間だった彼らが、この能力を持ち始めてから、自らを神と呼び始めた理由は、まさにこの考え方、この心境にある。『人間が犬猫にしか見えなくなった。それは自分が神だからだ』と言う、単純な理屈だ。 そして単純だが、神じゃない側からは止めようのない感情だ。

つまり俺たちは、神々が実際にそばにいて、俺たちのやることにいちいち口を出すと言う、人類史上最も悲惨な、神話の世界の住人なのだ。それも、最悪の部類の神話だ。ああ、言ってて悲しくなってきた。

クソッタレの神話世界に、乾杯。

「そんなに強い酒をイッキに呑んでしまっては、身体に悪いのに」

クソッタレの神々に、ひとつだけ対向する手段。

それが酒だ。

グラグラになるまで酩酊してしまえば、心を読んだって切り張りだらけのスクラップブックを見るようで、意味のある言葉を引き出せないどころか、場合によっては『心酔い』してしまうらしい。 心酔いってのは、前衛芸術や試験映画みたいに、次々と切り替わる心の画面を見ているうちに、読んでいる神人が気持ち悪くなってしまう現象のことなんだそうだ。

まあ、ヤツラが気分を害するなら、なんだって大歓迎だね。

俺たちの本当の神、酒に乾杯。

「ああ、酔いが回ってきましたね。悪酔いしたくないので、これで失礼しますよ」

ざまぁみろ! 追い返してやったぜ!

すると、店のマスターが、にやりと笑って親指を立てる。

「お疲れさん。上手に追い返したな。しかし、あいつらの好奇心と言うか、おせっかいにもあきれたもんだ。酒場にまで顔を出すことないだろうに」

「まったくだ。神人は神人らしく、ヤツラの溜まり場に行けって話だよな」

「違いねぇ。ところで話は変わるんだが」

「なんだ?」

「ツケがだいぶん、溜まってる。そろそろ、払ってくれないか?」

ああ、神も仏もあるものか。

 

神人が俺たちを牛耳るようになってから、しかし、確かに平和になった。

なぜか?

簡単な理屈だ。人間って言うものは、共通の敵があるとき、比類なき団結力を見せるのだ。政治、宗教、人種、すべての対立も、神人の出現と言う問題の前では意味がなかった。人類は、史上初めて、本当に一体となった。

そしてその快挙が達成されたとき、残念ながら俺たちは、神人の奴隷に成り下がっていたのだ。天敵が現れ、自らの自由が拘束されて初めて、みんなが一致団結できたと言うのだから、まさに、神の成せる強烈な皮肉である。

もちろん、最初は彼らに追従する連中もいた。

しかし、こちらがどれだけおべっかを使おうと、本心はバレバレなのだ。心の中を看破され、その醜さを嘲笑されてしまう。その上、周りの人間には、裏切り者扱いをされてしまう。結局、開き直って神と敵対するしか、残された道はない。

これで彼らが、突然やってきた宇宙人なんかであるならば、あるいは信仰の対象になった可能性もあっただろう。そして、これから先、あと100年くらいしたら、もしかしたら本当の神として敬われる時が来るかもしれない。

しかし、彼らが現れたのは、まだほんの10年前なのだ。

俺たちは、彼らが俺たちと何も変わるところのない、ただの人間だったことを知っている。隣人を突然『神として敬え』と言われて、そう簡単にうなずけるものではない。俺たちはただ身を低くして、この災難をやり過ごしてゆくしかないのだ。

俺の子供たちや、その子供たちの代になれば、きっと上手に順応してゆくだろう。生まれたときから神人の存在を当然と思う世代が出てくるまで、数十年、神人と敵対しながらも、何とかやっていくしかないのだ。

さらに絶望的なことに、俺たちの子供の中にも『チカラ』を持ったものが生まれはじめている。いや、正確には10年前から、心を読む人間は少しづつ増えてきたわけだが、ここへ来てその数が、急激に増えてきているのである。

彼らは親の心を読むので、育てることがものすごく難しい。

最終的に、ほとんどの人間が子供を神人に預けてしまう。長い目で見れば、そのほうが子供たちのためだろう。親のウソをすべて見抜けるとしたら、これほど悲しい子供はいないし、これほど悲しい親はいない。 これほど悲しい親子関係はないだろう。

それでもがんばって育てる者もいるのだが、結局、思春期になれば子供たちは神人の元へ去ってゆく。そんな悲しい思いをするくらいならと、生まれた子供が能力者だったときは、早めに神人へ預けてしまうことが当たり前になった。

そして、子供を持つこと自体を恐れる人間が、とても多くなってしまった。悲しいことではあるが、これが世代交代、いや、進化と滅亡というものなんだろう。新しい人類が出てくれば、古い人類は滅ぶしかないのも道理だ。

ただ、滅亡にはまだ時間が掛かるだろう。あとニ、三世代はかかるはずだ。つまり俺は、少なくとも人類滅亡の時だけは見ないですむというわけで。今となっては、それだけが唯一の慰めだ。

ふん、神も仏も、あるものか。

 

ヤツラは、今日も悟り済ました顔をしている。

向こうに害意がないことはわかっている。彼らの興味は、俺たちにはないのだ。ただ、あの悟ったような顔を見ていると、どうにも監視されているような気がして、俺はムカっ腹を押さえ難くなる。

怒ったって、何の解決にもならないことはわかっているんだが、こればっかりは仕方ない。毎日毎日、見透かされるような視線にさらされれば、悟り済ました神様みたいな顔をぶん殴りたくなるのも、無理はないだろう?

俺のオヤジや爺様の時代は、ヤツラが現れてすぐだったこともあって、ヤリあおうってなガッツのある人間もいたようだ。だが、俺たちのように生まれた時からヤツラの視線に晒されている世代には、そんなガッツも根気も持ち合わせがない。

具体的に害があるわけじゃないし、むしろ害意を持っているのはこっちの方なわけで、せいぜい無視を決めるのが関の山だ。最初の変化があったときに、もう少し対処を考えていれば、こんな状態にはならなかっただろう。

なんて言ったって、時すでに遅し。今さらどうにもならないことだが。

「私たちに、敵対の意思はないのです。仲良く協力していきませんか?」

始まった。ムカつくぜ。

何がって、ヤツラがこれを本気で考えているところが、最高に気に入らない。

いや、違うな。

ヤツラが本気で考えていることを、俺が『読めてしまう』のが気にらないんだ。ヤツラは俺たちを「大切な隣人として、心から愛している」と言う。それが、まぎれもなく本当のことなんだと、チカラによって理解できてしまうことが嫌なんだ。

いったいなんだって爺様どもは、自分たちを『神人』なんて名乗ったんだろう。まったく、信じられないほど薄らみっともない話だよ。まあ、爺様たちはきっとこんな状況なんて、想像もしてなかったんだろうな。

最初の兆候は、人間の心の変化だった。特に子供たちの変化だ。

人間の子供たちは心が『読まれるもの』『偽れないもの』という認識を持つようになった。

これが、そもそもの始まりだったんだ。

子供たちは神人とまじめに話す。 爺様たちも大人が自分たちを嫌うことは知っていたから、自然、子供たちと好んで関わりを持った。結果、子供たちは心を読まれ、内容を指摘される経験を繰り返す。 幼いうちに、ウソ偽りが看破されると言う『恥ずかしい体験』を何度もするわけだ。

当然、ウソをつくこと、偽りを言うことを自然にしなくなる。

禁忌だとか道徳ではなく、体験の中で学ぶわけで、それは心に強烈に刻まれるのだ。もしそのあと、人間同士ならばウソがバレないと言う知識を得たとしても、大人相手に嘘をつけば ほとんどの場合、見透かされる。やはり同じ経験を繰り返し……

やがて子供たちは、嘘をつかなくなった。

怒られるからではなく、間違っているからではなく、高い塀から飛び降りて怪我をした子が二度と飛び降りないように、嘘をついた結果生じる、『恥ずかしさや身の置き場のなさ』を経験することによって、彼らはウソをつかなくなる。

そしてその傾向は、神人だろうが人間だろうが、世の親の歓迎する事柄である。子供が正直に真摯に生きようとする姿を見て、嫌がる親はいない。人間は子供が正直に育っていくことを、単純に喜んだ。 そうして裏表なく育った人間は、神人を恐れなくなった。

心を読む能力があることを理解はしていても、大人たちのように、恐怖や嫌悪、反発を感じないのだ。彼らの認識は、『そういうものだ』と言う、ただそれだけなのである。ウソをつかないから、心を読まれてもどうと言うことはないのだ。

彼らはクリーンで、彼らはまじめで、彼らは正しかった。

そしてクソッタレなことに、彼らをそうしてしまったのは、俺たち自身だったのである。俺たちの先祖が、彼らの心をいたずらに読み、ウソを指摘してしまったせいだ。 たとえ心が読めても、黙って知らんフリをしていればよかったのに。

やがて成長した彼らは、自らを『神人』などと嘯(うそぶ)く俺たちなんかより、よっぽど『神の領域』に近い存在になってしまった。最初、人間を奴隷のように扱っていた俺たちの先祖は、やがてそれをやめた。

そりゃあそうだろう? 奴隷と蔑む格下だったはずの相手は、嘘をつかない正直で純粋な、まさに親が子供に『こうあって欲しい』と願う類(たぐい)の心を持っているのだ。どうしたって、いつまでも奴隷扱いは出来ない。

そして当然ながら、心を読めることが優位にならなくなった。相手の心は口に出したままなんだから、読んだって意味がないのだ。彼らの言葉は、俺たちの耳にも彼らの耳にも、同じように聞こえるわけ。

表裏がなければ、心を読める我々と読めない彼らに、何の違いもない。むしろ、自分の心を隠して都合のいい部分だけを見せ合っている俺たちより、完全に心をさらけ出しあっている彼らの方が相互理解は深いだろう。

そして俺たちは心を隠しているだけ余計に、彼らに対して引け目を感じる。

かと言って、そんな彼らを迫害するなんて、できるはずもない。表裏のない、偽ることを知らない純粋な人間を駆逐したあと、どのツラ下げて道徳を語れる? 子供たちに『嘘をつくな』『正直に生きろ』なんて言えるか?

少なくとも俺には、そんな厚顔さの持ち合わせはない。

しかも、彼らの数は、いまや圧倒的に少ないのである。俺たちの先祖のせいで、彼らは子供を作ることを怖がってしまった。そのために人口は激減した。彼らの数を晴らしたのは、間違いなく俺たちなのだ。

数少ない、心の美しい、守られるべき存在。

それが、今の彼らだ。

俺たちにできることは、彼らをお手本として祭り上げることくらいさ。彼らはもう、かつての人間ではなく、むしろ神の子とでも呼ばれるべき存在になってしまった。彼らの前に立つたびに俺たちは、自分の心の醜さを目の前に突きつけられるような気がして、居心地の悪い思いをする。

昔の人間が、神人の前に立った時だって、これほど居心地が悪くはなかっただろう。彼らは神人を単純に憎めたが、こっちにはそれさえも許されないのだ。『神の子』が俺たちを愛してくれていることは、誰よりも俺たちが知っているのだから。

そんなわけで俺たちは、『神の子』を見るとイライラして、憂さ晴らしに酒場に逃げ込む。『神の子』のいないところで、ヤツラの正直さと純粋さに文句を言い、その結果として自分の醜さを再確認しながら、苦い酒を飲むってワケさ。

くそっ、神も仏もあったもんじゃねぇや。

 


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