心のままに

ここに私の大切なお友達を紹介いたします。



始めに日本からずっと励ましてくれた人です。
名前はリリーさん。ファーちゃんという小さな女のこのお母さんです。


昔からの友人の中で安心して読むことが出来るメールをくれる唯一の人でした。
なかなか誰にも自分の置かれた状況を知らせることが出来ないでいた頃
彼女は日本で何かを察知したのか電話をくれて、
こちらからはどこへも掛けることの出来ない電話口に
懐かしいお友達の声が聞こえてきて、話を始めたら、今までの我慢が
堰を切ったように溢れてきて・・・・・電話を切った後なが〜いメールを
書いてしまいました。

でもその頃は自分の苦しい状況は話したのですけど
それがドメスティックバイオレンスなのだと言う認識はしていませんでした。

自分の状況についてやり取りをするようになっても
長い事自分の状況は今世間でにわかに注目をあびて来ているDV等では
決してありえないと思って、夫をかばいながらの苦しい心の内を
話していた様に記憶しています。(未完)





このエッセイを書き終えないでいる間に5〜6ヶ月もの歳月が流れてしまった。
冒頭に書いてあるように、私が誰とも交信できなくなっていた時も彼女からの
メールだけはどんな時でも安心して読むことが出来た。
あたかも傍にいて、私の心情を察知しているかのような、暖かい励ましであり、
私の怯えを一緒に感じてくれ、私の喜びをいっしょに分かち合う事が出来ていた。
彼女への私に付いてのニュースソースは私の書くメールからではなかった。
確かに解ってもらえる事の安心感から書いていたことは事実だけど、
彼女はわたしのこのwebsiteの中から、私の心情を読み取ってくれていた。
真剣に、そして一生懸命私と向かい合ってくれていたのだと信じて私は疑わない。
そして何度も読み、私を解ろうとしてくれたのではないかと思われる。
多分多くの友達も、同じように私のことを解りたいと、
理解しようと思っていてくれているに違いないのだろうけど、
何が違っているのだろうか。

彼女は時々夢を見ては「こんな夢を見たけどお元気でしょうか?」と言って
メールをくれたりする事があった。
偶然なのかもしれないけど、確かに何かがあったりして
タイミングの一致を見る事がしばしばあった。
それと娘のファーちゃんがまたスゴイと言うか、夢を見たり、子供らしからぬ言葉を
発したりしていて、そのことをよく知らせてくれるのだけど、
読んでこちらも驚かされたことしばしば。
どうもリリー母子は予知能力に長けた母子なのでは?無かろうか???と
少し現実離れした考えが頭をよぎってしまう。

他の友達もわたくしの事を心配している心は同じだと思うし、
いつの時でも案じてくれているに違いない。
いつでも助けてもらってきたし、まるで本当に姉妹のようにも接してきた。
そう言う長い付き合いの家族のような人が私には何人かいる。
子供の時からの友、大人になってからの友と、どの人とでも、もう何十年も
付き合って来ている。
人との会話が困難になった時に、それらの人たちが決して悪いのではなく
私の心が病んでいて、誰であろうと話ができなかったのである。
自分の世界でだけ生き、その中でも生きることが難しくなり
どこかでこの世との接点を求めていた時に、たった一人の人を
天の導きかのように選んでしまったのではないだろうか。
人を拒絶していたのではなく、つながっていたいのだけど、人との関わりの困難さから
私の友達全ての代表のような形でリリーとつながっていたのではなかろうかと
思ってしまう。
こんな突拍子の無い事を書いていると、まだ病んでいるといわれてしまいそうだけど、
いつの時でも彼女からのメールは慈愛に富んでいた。
だからといって決しておごりも無かった。
どんな言葉を掛けられてもつらかった時に、彼女からのメールは
決して私を窮地に追いやる事は無かった。
最初に見つけたHPのTちゃんやマサチューセッツのMさんとの
交信の時と同じである。
彼女達には同じ共通点がある。
それは決して自分側からの発言ではない事。主語が自分ではないこと。
多分、私の立場を自分に置き換えて、
そして私の心の痛みを感じてくれていたのではなかったのかと思われる。

私は本当に人によって生かされたことを実感するとともに、
感謝の気持ちをどうやって表してこれから先、恩返しをしたらいいのだろうと
考えずにはいられない。
とにかくそのためにも、すこしでも早く元気な心と身体を取り戻し、
社会生活が無事に営めるようになりたいと心から願っている。

こうして少し体調も良くなり、厭世観や、虚無感の中から這い上がる事が出来、
まだまだ、ケースマネージャーや、多くの人々の手は借りているのだけど、
リリーの私に対するサポートの力は大きい。
本当に私の命を守ってくれたと心から思っている。
彼女に対するこの思いは他の私の友達にも思っていることで、
やはり彼女は私の多くの友達の代表を務めているのだろう。
勝手に日本の友達の代表にしてしまって、リリーさんには申し訳ないけど、
この場を借りて友達全員に感謝の気持ちを述べたいと思う。
少し元気になりました。
まだ全快とは行きませんが、確実に今までとは違うと思います。
これからもどうぞ宜しくお願いいたします。

2003年1月14日 記         Ruby





ロザリオ(rosario)

私は、ロザリオを持っている。
私はクリスチャンでは無い。でもロザリオがある。

一つは、いつだったか、そうもう20年は前の事だったと思う。
長崎に行った時にビードロ屋さんで見つけ、幼い日の郷愁からか買ってしまった。
その幼い頃の思い出のブルーの綺麗なロザリオは
どうしたのかの記憶も無いけど、遠い昔に既に手元には無かった。
というのも、まだ就学前だった私は教会の日曜学校に小銭を持って、なぜか行っていた。
毎週毎週、日曜日になると、その教会へ行きキリストの話を聞いていた。
なぜその教会へ行く様になったのか、そのブルーのロザリオを、
なぜ持っていたのかは遠い記憶で不明である。
母がくれたものかもしれないし、自分がねだって買ってもらったものかもしれない。
両親のいなくなってしまった今では、そのことを調べ様も無く、
不明のままではあるけれど、なぜかそのロザリオの色や形を克明に覚えていた。
後になって、突然そのビードロ屋さんでブルーのロザリオを見かけた時に、
その思い出が強く蘇り、つい買ってしまった。
でもこれは多分ロザリオとは言わないのだろう。
アクセサリーとして売ってあり、本来クリスチャンの人たちが持っている
ロザリオとは違うのかもしれない。
でも、子供の時に持っていたブルーのは確かにロザリオだったと確信できる。
それは神父様がビーズの玉を数えながらお祈りをするのだと言って、
話してくれたことがあった。(多分ビーズの玉数は定められている(?) )
どの様にして何を言いながらビーズを数えるのかは、記憶にはもう全然無い。
私が4〜5歳の頃の話で、もう既に、と〜〜〜い昔の話になってしまっている。
クリスチャンではないけど、なぜか鮮明な記憶でそのロザリオは
私の中に居座りつづけ、その後、その見つけたブルーのクロスは
いつの時でも私の傍にある。こうしてアメリカに住むようになってからも
いつでも私の傍にある。

そして次に、これをなんと呼ぶかは知らないけどイスラムの人が使う数珠も持っている。
昔の生徒にパキスタンから来たイスラム信者がいた。
その生徒から一時母国へ帰り、又日本に戻ってきた時に
お土産だと言ってくれたものの中にそれがあった。
それも数珠を数えながらお祈りをするのだと聞かされた。

もう一つ、これはロザリオではなく金のネックレスなのだけど
翡翠の十字架のついたものを持っている。
これももう2〜30年も前から持っているもので時々身につけることがある。
多くのアクセサリーに意味が無いように、これにも意味は無い。
ただ好きなだけで着ている服とのコーディネイトで
その翡翠の色と合うときに使っている。

日本のお数珠。これもいくつか持っている。これは当然かもしれない。

そしてもう一つ、本当のロザリオも(言い方が変だけど)持っている。
これには大きな思い出がある。
ある人から別れの時に頂いたものだ。
その別れの時の約束を私は反故にしてしまっている。
約束が守れなくなった事は手紙で知らせたから、
反故にしたとはいえないかもしれないけど、
気持ちの上では約束を破ってしまったとの思いが自分の中では強い。


その約束とは2000年の八月にその人とローマで逢う事を約束していた。
1997年その人は日本を離れ母国のポルトガルに帰ってしまった。

その人は上智大学でフランス語とポルトガル語を教えていた。
もう日本での生活も長く、生涯を日本で終えるかもしれないとさえ話していた。
お互いそうだと思い込んでいたから別れる日がその様にして突然来るとは
思ってもいなかったのだけど、結果的にそう言う日がきてしまい、
2000年の8月ローマで逢う事にしましょうと約束をして別れた。

カソリックのシスターである彼女は、上からの指令には絶対であったのだろう。
ロザリオはその時の彼女のからの贈り物で、今でもその彼女のぬくもりを感じ
いつも優しく私を包んでくれている。

2000年には彼女に逢える事を私はずっと信じていた。
なぜ2000年のローマだったかと言うと、
彼女がポルトガルからローマ法王の祭典(?)式典(?よく解らない?)に
バチカン王国へ出向くということで8月と指定し、私も当然ずっとそのつもりでいた。
2000年になり、夫からの求婚を受け、結婚が8月になってしまい、
私は彼女へ行けなくなったお詫びの手紙を書いた。
2000年3月には、私はローマ旅行ではなく、アメリカに住むようになってしまった。
もしかしたら約束を守れなくなった私に天罰が下り、
こんな苦しい時間を過ごしたのだろうか・・・・
なんてそんな事はありえない。天のお方はそんな狭い了見ではないはずだから!!
思わず天に向かって「ごめんなさい」と今、言ってしまった。ゴメンナサイ!!

彼女との出会いは上野にある都立美術館。
友人の彫刻家の作品展の時に知り合った。
話をしている内に意気投合して、その後、逢うようになり、
お互いの住まいを行ったり来たりした。
彼女は日本語が達者で意味も良く判っているためか
私の詩をこよなく愛してくれた。
私の曲もヒーリングで心地良いと、好んで聴いてくれた。
そして私の生き方に心から賛同してくれて、
「あなたこそ、本当に神に選ばれた人でクリスチャンのお勉強をしてみたら」
と何度か言われた事があった。
わたくしには神の存在を否定するものは何も無い。
でもクリスチャンとして生きていく気持ちも無かった。
私は何よりも自分自身を信じていると言うか「苦しい時の神頼み」というのが
どうしても自分とうまく融合しない事を知っていた。
でも反面「神」と言う存在かどうかは別にして神に値するような存在が
あることも感じていた。
宗教を持っている人ならば、その存在を
「ジーザス」や「釈迦」などと特定できるかもしれないけど
宗教観の無い私には「神」と言う言い方がおこがましく(?)
言い方の無い私には、その存在を「至高存在」として表現していた。
それをどんな時に感じていたかと言えば、
風がフワ〜ッと吹いてくるように曲が出来上がった時や、
空気の色を感じ、詩がフ〜ット出来上がったときには
自分の力だけではない、大きな力が働いていると感じさせられた事は何度もあった。
イントロからエンディングまでおよそ同時に出来てしまうのだから、
なんだか風が持って来てくれたのではないかと自分で勘違いをしてしまうくらいだった。
そんな時にいつも私は「神様(至高存在)はいる」と言う感じがして、
なぜか「私は天に好かれているのだ」と思いながら過ごしてきた。


話は少しそれてしまうけど、私の生徒は外国人ばかりで
クリスチャンの人が多かった。
ボリビアから来た生徒と、よく彼らの教会へ行ったことがあったのだけど
その時もその教会で「先生はクリスチャンですか」とよく言われた。
その教会はラテンアメリカの人たちの来る教会で、二世や三世が多い。
それでスペイン語と日本語が解る、
ポルトガル語と日本語が話せると言う人が沢山いた。
なぜ私のことをクリスチャンと思ったかと言えば、その日本語のわかる人たちが
私の詩を読み「自分たちは生まれた時からクリスチャンで、
こうして毎週教会に来ていつもお勉強していても先生のような詩は書けない。
どうしてこんな詩が書けるのですか。聖書をお勉強しているのですか」と
よく聴かれていたからだ。
私の人生観を素直に言葉にしただけの事で意図する所は何も無い。
まして宗教を持っていないのだし、むしろ生徒がいろんな国の人だったために
いつも市民レベルで中立でありたいと思いながら暮らしていた。
ただ曲の題名が「恵みの光」「神住大地」「夜明け前」
「月のしずく」「羽衣の舞」「失われた聖堂」その他etc・・・・
などと、なんとなくそれらしい雰囲気はあったかもしれない。

話が本当にそれてしまったけど、私の宗教観とはそういうもので
宗教を大切に生きている方達に言わせると「ふとどきもの」?かもしれない!!
ただいつも自分は運がいいと思うことは多かった。

今回の夫からの逃亡生活にしても、そのことだけを考えると悲運だけど
そのことにより多くの人たちに手助けしてもらい、
一時は無くしかけた生きる事への自信もどうにか無くすことなく
取り戻せてきている事を思うと、助けてくださっている方々には
本当に心から感謝しているし、出会えた事を心からありがたく思っている。


さて話を戻して、シスターとの私の交際は、時々、美術館へ行ったり、
家へ来てもらったり、シスターの居住地に行ったりという事を繰り返していた。
彼女の家は上智大学の女子寮と同じ敷地内にある古い邸宅で、
初めて伺った時にはその家の持っている重厚な雰囲気に驚いてしまった。
上品にしっとりとつやのある大きな柱や、古い大きなテーブルも
なんと存在感のあることか、まるで資料館のような、保存しなくてはならない
大切なものという印象があった。
そのことを言ったらシスターが教えてくれた事でさらに驚いた。
それもそのはず、この旧邸宅は5・1・5事件で殺害された、総理大臣犬養毅邸だったのだ。
随分以前の事らしいけどNHKからの取材もあったりしたと言っていたから、
確かにそうだろうと納得してしまった。
これがなんとも上智大学の持ち物????なんともすごい!!
こうして誰かが買い取ってくれた事で保存できている事に
感謝したいと思うほどの建物であった。
私たちのいつもの楽しみと言えば、二人の大好物の「バニラアイスクリームに
マデラワインを掛けて食べる」ということ。
マデラワインとは勿論ポルトガルにあるマデラ島で作る赤ワイン。
いつもそうして楽しんでいたのだけど、
今では一人で時々食べてみては彼女の事を思い出している。

2000年以来多くの人との交流を断ってしまった今、
どうしたらこの復旧が可能なのか解らない。
ロザリオはいつも静かに私の傍にある・・・・・
自分の体調と相談しながら、少しずつではあるけど
連絡をしてみたいとの思いでいっぱいである。

2003年1月下旬











TOPページに戻る