この本は、フランスの作家パスカル・キニャール氏による作品である。ここには、三つの作品が納められており、表題作でありこの作品の中心として捉えられそうな「舌の先まで出かかった名前」と題された短編が中央に納められて、その枕的な文章「アイスランドの寒さ」がその短編の前、この本の最初に納められている。そして、この作品の内容に深く関連した論文的作品「メドゥーサについての小論」が、この本の最後に配されている。
三つの作品に分かれていながらも、中身は一貫しており、それは、正にこの本のタイトルであり、つまり言葉と人間の関係について言及している。そして、それは言葉の限界について述べているともいえよう。言葉のみでは捕まえきることの、表現しきることの出来ない物事のただ中に在りながら、言葉による認識によって多くのことを得る人間という生物。その特性が見事にこの中に、三つの形態によって表現されている。
作品の並べられている順番に簡単に通して鑑賞していこう。「アイスランドの寒さ」という作品によって、短編「舌の先まで出かかった名前」の作品の起源が紹介されている。ちょっとした情景から話を始めながら、少しずつ革新的な話題をちりばめていく展開は巧みである。それは、この本を構成する3作品の並びにも出ている。この小片によって、「舌の先まで出かかった名前」というテーマに少しずつ、様々な方面から近寄る。凍ったモカ・アイス、ボタン、ユエという作家の作品。また、ここにおける記述からすると、音楽に付けるテキストとして、「舌の先まで出かかった名前」は誕生したようである(ここでは特に言及しないが、この作者と音楽の関係はかなり深いようだ。)。この、言語的なテーマを音楽にのせてという表現手法にもまた興味をひかれるところだ。しっかりとイントロが演奏し終わった後に、いよいよ主題が始まる。別の平面へと移動しての表現とも取れる。短編「舌の先まで出かかった名前」における主要な要素は、最初の2段落に記述されている。この基礎の上の物語が構築され、その舌の先まででかかった名前の及ぼすものが表現されていっている。舌の先まで出かかった名前。分かりそうで分からないもの。この物語の中では、その舌の先まででかかった名前そのものも、その名前が出てこないことが及ぼす影響もいずれも具体的な物事として表現されている。故に、この物語のみを平然と鑑賞してしまうと、寓話的な表現のために淡々と内容を読み過ごしてしまう危険性があるようにも思える。そのときには、先ほども言及したこの物語の最初の2段落に戻るべきであろう。すると、物語の彩りを確認できるはずだ。このような経験をふまえて、読者は次の「メドゥーサについての小論」に導かれていく。ここでの文章は、約1ページごとに区切られており、その区切りによって論は飛躍し、時に思わぬところで戻ってきて、複雑に接合される。故に論理展開は少々理解困難な部分もある。私自身も、ここでの論理の展開にはまだ理解できないところがいくつも在る。しかし、全てが即時に理解できるわけがないのは、むしろ当然のことであろう。それが故に、この作品自体にも深い意義があるというものだ。さて、私がこの作品を読みながら様々に揺れ動いた思考をここに広げていこう。言葉、記憶、それらを媒介にして、我々個人は、社会と接続される。言葉無くして人間の存在を語ることは出来ない。全ての物事を、人間は言葉によって認識する。いや、認識というそのこと自体がむしろ言葉の存在を表しているといえよう。言葉を介さないので在れば、そもそも何も理解しない。何も意識的に認識はされない。感知したものは、感知したそのものでしかなく、それが2次の意味を持つことはない。しかし、人間は常に2次の意味を感知した事象に与える。もしくは、与えようとする。そして、そのことによって不安が解消され、存在が安定する。しかし、一方でその言葉は完全ではない。そして、人間の認識自体も完全ではない。故に、言葉が不足する、もしくは、出てこない。そのことが人間に及ぼす影響とは、そして、さらにそこに在る人間の特性とは。そこには、アイデンティティとして表現されるものの人間にとっての意義が垣間見えるようにも思える。例えば、「・・・言葉を失って、あんぐりと口を開け、顔を捨て・・・」という、この本の中の文章にも、そのことが語られていると取れるのでは無かろうか。作者の母の言葉を探る表情を元に展開される言葉の喪失と顔の喪失についての言及などは、つまり、アイデンティティの喪失と言葉の喪失についてと翻訳できるのでは無かろうかと。(勿論、そうで在ればそう表現するところを、顔の喪失として表現したこと自体に重要性があり、その翻訳を全てとして捉えてはならず、むやみにこの翻訳を振りかざすべきではないであろうが、そのことは認識しつつ話を進める。)これは、人間の本質に迫る重要な指摘であり、深く認識すべき問題では無かろうか。それは、安部公房氏が「他人の顔」の中で展開した顔という媒体を通しての、個人と他者の関係に対する追求とも相通じるものがあるようにも思える。違う側面からのアプローチとでも言うべきか。そして、個人と他者は、結局言葉で接続されているということになるのではと、そして、その言葉は完全ではなく、しばしば、それを失い、そして、混乱が訪れるという、つまり、この本の中では結局個人と他者との関係について分析がなされているのではないかと、そして、その分析は表面的な情などというものを用いずに、人間の特性に迫ることで行われているという、より公正な判断であると取れるのでは無かろうかと、そのようにして、この本によって私の思考は刺激され一つの認識にとりあえずの結実を見た。
この本は、あまりに見事に内容が凝縮されている。故に、読解を文にしようとすると、正に「舌の先まで出かかった名前」のごとくに表現に詰まってしまう。