雨が降っていた。決して強くはないけれど、いつ止むのかも判らないさめざめとした雨。
村人は家の中からその雨粒を眺め、まるで天使が泣いているようだ、と嘆いた。
ぴちゃぴちゃと、ぬかるんだ道を踏み締める足音が響く。あてどもなく、さまようだけの足取りを見かねて、ひとりの人間が家を飛び出し、その迷い人を迎えに行った。彼はこの村の長であり、面倒見の良い性分でもあった。
足音の主は、村の中心から動かなくなっていた。
立ち止まり、泣きじゃくるでも叫び出すでもない、その小さな人影を、年老いた村長はただ黙って眺めるしかなかった。
「……、ぁ」
呆けている、と表現するのが正しい。降り続く雨を全身で浴び、身体が濡れることも厭わず、むしろ濡れることを楽しんでいるかのように、三歳くらいの女の子は空を見上げていた。
その立ち姿が、あまりに似合っていたものだから。
村長もまた、そぼ降る雨に身を委ねるしかなかった。
「……、ん」
空を仰ぐのにも飽きたのか、女の子がおもむろに振り返る。そこに呆然と立ち尽くしていた村長の姿に、一度は驚いたものの、すぐににんまりと相好を崩し、頼りない足取りで彼の元に歩み寄ってくる。
女の子は、真っ白なワンピースを身に纏って、靴もちゃんと履いていた。
伝承に歌われるエルフのように、先の尖った長い耳を持っている他は、際立った特徴のない、小さな女の子。
捨て子か、家出か、どこか釈然としないけれど、村長は女の子に問いかける。
「君は……」
突然の出来事に、二の句が告げられなくなった村長に、女の子は屈託のない笑顔を向ける。
そして、小さな唇をめいっぱいに開いて。
「アナンタ」
と、言った。
村長には、それが何を意味するのかわからなかった。名前なのか、それ以外の意味を持つ言葉なのか、女の子に問い返しても、意味のある答えは帰って来なかった。
ただ、「アナンタ」と。
自分はそれしか持ってないとでも言うように、何度も同じ言葉を繰り返す女の子を、村長は自然に抱き締めていた。女の子も、特に抵抗することもなく、大人しく村長の腕に抱かれていた。
村長も、女の子も、お互いに何が起こっているのかわかっていない。いずれ、その真相が明かされるにせよ、個人の手の届かぬところで全てが回っているのだと、理解してしまっていた。
だから、せめて。
この、寂れた村に降り立った女の子を、守らなくてはと思った。
いつか、この子に起こった何もかもを、少女自身が知る時まで。この子が生きていられるように。自分の足で立てるように。
雨粒は、次第に小さくなっていった。まだ、彼らの服は雨に濡れたままだったけれど。
「……アナンタ」
「ぁ、……」
呼び名に応えるように、女の子は小さく喘ぐ。
それが少女の名前なのかはわからないけれど、女の子が微かにでも笑っていたから、決して悪くはない響きなのだろう、と村長は思った。
――かくして、ひとりの女の子が、辺境の村に招き入れられた。
女の子が唯一持っていた手掛かりから、少女はアナンタと名付けられた。
名乗り出る親もおらず、近辺の村を捜しても手掛かりは得られなかった。
次第に少女は村に馴染んでいき、村人の中には、アナンタの境遇を知らぬ者も増えた。だが、村長は元よりそういう境遇の者を受け入れられる懐を持った人物であったから、そのことを不自然に思う者はあまりいなかった。
やがて、少女がみずからの足で立てるようになり。
村の片隅にある、今はまだ小さな洞窟に興味を持って、ようやく。
彼女たちの物語が、始まる。
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