無条件幸福

 

 

 

 そういった星の下に生まれてきたのだからと、諦めるような真似はしたくなかった。
 でも、仕方のないことなのかもな、と妥協しそうになったことは、何度もあった。
 緒方智絵里は、自分が運のない人間だと思っている。
 もし彼女が幸運であったなら、幼い頃に交通事故に遭うこともなかったし、祖母はまだ健在であったし、両親の仕事は上手くいっていて、智絵里を家に残して仕事に没頭することもなかったはずだ。
 勿論、そんな仮定は無意味だと彼女も悟っている。もう、空想の世界に思いを馳せて、逃げ場を求めても許される子どもではないのだ。
 けれど。
 緩やかな土手に生えた草っぱらから、四葉のクローバーを探すことだけは、どうしてもやめることができなかった。
 そんな些細な願掛けを頑なに信じて、まるでそれをやめてしまったら、自分はもっと不幸になってしまうのだとでもいうように。

 

 アイドルの卵として、プロデューサーに選ばれてから、一ヶ月が経った。
 学校に通う傍ら、レッスンを行い、いつか来るデビューに備える。運命の日がいつ訪れるのか、それはまだ誰にも解らない。そもそも、智絵里が自ら歩みを止めれば、アイドルの道など完全に閉ざされてしまう。
 果たして、自分に成し遂げることが出来るのだろうか、と自問自答する。
 最近は、その繰り返しだった。今の自分と、昔の自分に何とか折り合いを付けようとして、その難しさと、無意味さに打ちひしがれる。
 本当に、これでいいのかと。
 自分は、幸せになってもいいのだろうか、と。
「……、気持ちいい、な」
 地元より少し生温いけれど、河川敷に吹き渡る風は、それでも涼やかで気持ちが良い。
 日曜日は大抵、野球少年たちが陣取っているベンチも、今日は誰も座っていなかった。犬の散歩や、ウォーキングをする人たちを見掛ける他は、大きな声も工事の音も聞こえない、穏やかな休日の昼下がり。
 膝を抱えて座り込む、とまではいかなくとも、それに準ずる行為であることは認めざるを得ない。膝に置いた手はまるで動かず、ここに来てからおよそ一時間、立ち上がることさえ出来ずにいる。
 犬の耳のように括られた髪の房が、風に煽られてぱたぱたと揺れる。
 目の前を通り過ぎるゴールデンレトリーバーに笑いかけようとしたけれど、飼い主と目が合いそうになったから、慌てて目を伏せる。足音が、智絵里から十分に遠ざかった後、艶やかな毛並みの大型犬を、後ろからにこやかに見送る。
 日がな一日、こうして時を浪費するのも悪くない。この休息が暇に思えたら、土手に生えているシロツメクサの中から、四葉を探し出せばいいのだし。それだけで、時間は無為に過ぎてくれる。何も考えなくていい。未来のことも過去のことも、自分のことも他人のことも。緒方智絵里を取り巻くちっぽけな世界のことも。これから智絵里を取り囲むことになるかもしれない、とてつもなく大きな世界のことも。
 何もかもだ。
「……、んっ、ぅ」
 息苦しさを感じて、背中を丸める。きっ、と強く目を瞑り、その仕草が無理やり泣こうとする仕草に思えて、その浅ましさに嫌気が差す。ゆっくりと目蓋を開けて、目頭と目尻を指で擦り、瞳が潤んでいないことを確認する。可哀想な自分に涙するほど、落ちぶれてはいないと思いたかった。思いたかっただけで、そうなっていない保証はどこにもなかったけれど。
 ただ、溜息だけを吐く。
 吐いたかどうかも聞き取れないほどの、ささやかな量を。
「……は、ぁ……」
 だから、青天の霹靂だった。
「あれー?」
 頭上から、聞き覚えのある声が降ってきたのは。
 鬱屈した、緒方智絵里の小さな世界を叩き壊す、あまりにも軽やかな一撃が振り下ろされたのは。
「にょわーっ! 智絵里ちゃんだー!」
 直後、地鳴りと呼んで差し支えない響きと共に、一人の少女が智絵里に向かって駆け出してきた。本能的な、非捕食者的な恐怖から腰が浮きかけたが、あまりに長く同じ体勢を維持していたため、足が上手く動かなかった。それに、逃げたところですぐに追いかけてくるだろうし、追いかけっこに勝てる自信もない。避けられたと解釈されて、相手を無駄に傷付けるのもうまくない。
 智絵里はベンチに座ったまま、首だけを後ろに向けて、騒がしくも逞しい少女の来訪を待った。
「うきゃーっ!」
 草むらを突っ切って、その勢いのまま智絵里の肩に手を置く。彼女なりに加減はしているのだろうが、彼女の成長度合いからすれば、加減をしてしすぎることはない。
 身長は一八〇センチメートルを越え、その割に体重は六〇前後、しかも出るところは出て引っ込むところは引っ込んでいるというスーパーガール。
 諸星きらりは、常に幸せを口にする。自分に、他人に、世界にその幸福を絶えず振りまいている。
 その、あまりにも対照的な同僚の存在を、羨ましく思いこそすれ、疎ましく思ったことは一度としてなかった。
 だって。
 きらりは、かつて智絵里が思い描いていた理想そのものだったから。
「……お、おはよう……ございます」
 身体を捻って、覗き込むようにきらりの顔を見上げる。おはよう、という時間帯でもなかったが、きらりはにこにこと挨拶を返してくれた。
「おはよーっ。うにゅ、智絵里ちゃんはここで何してたのー?」
「わたしは……、別に、何も」
 猫のように縮まった唇が、体躯にそぐわない愛嬌を帯びている。きらりは智絵里の正面に素早く回り込み、高低差を考えないまま勢いよくベンチに腰を下ろした。
 がすんっ、と、ベンチの老朽度合いによっては破損しかねないレベルの揺れが智絵里を襲う。一瞬、腰が浮いたと感じたのもあながち勘違いではないように思えた。きらりは膝をめいっぱいに伸ばし、屈伸の体勢で懸命に指先を伸ばしている。が、身体が硬くて届く気配がない。
「うきゅう……、手が届かないぃ……」
「……あ、あんまり、無理しない方が」
「そうだにぃ……、そうするよー」
 智絵里の忠告に従い、きらりは軽やかに身を起こし、両手と一緒に大きく背筋を伸ばした。一挙手一投足が非常に大振りで、なおかつ喋り方も特徴的だから余計に人の目を引く。幸か不幸か、今は人通りも少ないから必要以上に注目を浴びることはなかったけれど。注目を浴びる立場なのに、そうあることを恐れる自分に智絵里は大きな矛盾を抱く。
 その、口にも出せない不安を察したわけでもあるまいに、きらりは小さく握られた智絵里の手に触れる。
 きらりの手はとても温かった。智絵里が膝の上に置いて、動こうともしないふたつの手を引き寄せて、きらりは智絵里の手を包み込んだ。
「……あ、あの」
「んぅー?」
 困惑する智絵里を翻弄するように、きらりは小首を傾げる。普段は大型犬のようにパワフルなのに、こういうときだけ猫のように澄ました素振りを見せる。
 ころころと表情を変え、見る者を決して飽きさせない。諸星きらりという、輝き。
「にゃはは。智絵里ちゃんの手、あったかいにぃー」
 そう言って、屈託のない笑みを浮かべる。
 語尾にハートか星が付きそうなくらいの声色は、智絵里を照れさせるのに十分すぎるほどの威力を持っていた。
「そ……、そんなこと、ないです。諸星さんの方が、よっぽど……」
「きらり」
 やや語気を強めて、きらりが智絵里の言葉を遮る。文脈を読み取れない智絵里に対し、きらりは顔の横でピースをして例のポーズを決め、おまけとばかりにウィンクをする。
 時と場所を選べば、それはまさにアイドルを象徴するポーズであった。
「きらり、って呼んでほしいにゃー。智絵里ちゃん、きらりんとおんなじ仲間だから。だから、智絵里ちゃんもきらりと一緒にハピハピすうぅー!」
「う、わあぁ……!」
 押し倒すように抱き着いてくるきらりを押し返すだけの力が、今の智絵里に備わっているはずもなく。
 さながらレトリーバーにじゃれつかれる飼い主の如く、困ったような、そのくせ喜びを隠しきれないといった照れ笑いを浮かべながら、撫でられたり頬ずりされたり、されるがままにじっとしていた。
「うにゅー。やわらかーい」
「ちょ、き、きらり、さん……く、くすぐったい……です」
「うきゃー! かわいーっ!」
 わずかながらの抵抗も逆効果にしかならない。諦めて、視線を向こう岸に投げる。が、きらりの肌が近すぎて、他の何かに意識を払うことができない。
 他人の体温をこれほど強く感じたことも、久しく無かったように思う。
 半ば強制的に距離を詰められ、逃げられないと諦めて受け入れるのはいつもと同じだけれど。
 今は、そんなに悪い気分じゃなかった。
「……きらりさん、あの」
「んうー? なあに、智絵里ちゃん」
 抱き着いたまま、抱き着かれたまま、ふたりは言葉を交わす。
「きらりさんは……、どうして、そんなに幸せそうなんですか……?」
 絞り出すように智絵里が口にした後で、きょとんとするきらりの横を、素知らぬ顔をした黒猫が行き過ぎる。きらりが目ざとく熱い視線を送ると、一時は足を止めた猫も、数秒経つとぷいっと知らん顔をして去って行ってしまう。
 きらりはその歩き姿を少し残念そうに見送って、また智絵里に視線を戻す。
 猫を見付けた時とは確かに違うのだけれど、どう違うのかはまだ説明が付かない。ただ、自分がここから逃げ出してしまったなら、彼女はきっと深く悲しむのだろうな、という確信はあった。
「さっきの答えだけどね、智絵里ちゃん」
 いつもより少し真面目ぶった声色で、いつもと何ら変わりのない調子で、きらりは智絵里の質問に答える。漠然とした、ともすれば揶揄にも取れる曖昧な問いにさえ、きらりははっきりとした答えを出す。
「きらりは、幸せになりたいっていつも思ってるから、そう見えるんじゃないかにゃー。智絵里ちゃんが幸せになれば、きらりも一緒にハピハピできるし! 幸せはね、自分から追いかけてないとだめなんだよ。きらりは、いつだってそう思ってるし……てゆーか、うきゃー! まじめうきゃー!」
 顔を手で覆って、きらりはじたばたと足を動かす。
 きらりの拘束が外れ、智絵里は彼女の感触が残る肌をそっと撫でる。甘い香りがした。吐息も心なしか甘い気がする。お菓子のような、母親のような、安心感を与えてくれる香りだった。
 ひとしきりじたばたし終わったきらりは、少し火照った頬を指で擦って、静かに智絵里の言葉を待つ。身体を左右に小さく揺らして、うにゃうにゃと歌にもならない鳴き声を零しながら、じっと、智絵里が自ら話すのを待っている。
 きらりは答えを出してくれた。
 智絵里は、どうだろうか。
 彼女の答えに見合うだけの、自分の言葉を持っているだろうか。
 ――解らない。今は、まだ。
 あるいは、これからも、ずっと。
「……、……あ、あの」
 しかし、智絵里はきらりの目を見る。ある種の決意に満ちた視線を、ともすれば、場違いとも勘違いとも捉えられかねない真剣な眼差しを、他ならぬきらりに向ける。
 きらりは、そんな智絵里から目を逸らさずにいてくれる。
 たったそれだけのことが、どんなにか智絵里を安堵させただろう。
「私……、羨ましいです、きらりさんのこと。ずっと、自分が不幸だって思ってたから」
 軽く握った手を、自分の胸に添えて鼓動を聞く。落ち着いている、と思う。面と向かって、自分の思いを吐露しているのに、不思議と緊張はしていなかった。
「でも、……いいんでしょうか。……私が、幸せになっても」
「……?」
 智絵里の言葉に、きらりは珍しく理解できないといったふうに首を傾げた。頭の上にはてなマークが浮かんでいるのが、傍から見てもなんとなく解る。
 智絵里もまた困ったように微笑み、どう言い表すかを思いあぐね、結局は諦めた。
 不幸であることに酔ってはいない。けれど、これから幸せになってしまえば、今まで不幸だった自分に、家族に申し訳が立たないような気がしていた。
 それはきっと不幸な錯覚で、家族は智絵里が幸せになることを喜んでくれるし、だからこそプロデューサーに娘を預けたのだろう。決して、娘の世話をする手間が省けるから、なんてことを考えて送り出したわけではないのだろう。
 でも、智絵里は、自分が事務所にお世話になれば、それだけ家族の負担も減るのではないか、と考えてしまった。アイドルになりたいという思いより、その思いが強く背中を押した。
 不純な動機である。真にアイドルになりたいと夢を抱き、事務所の扉を叩いた同期に比べれば、束の間の居場所を確保しておきたいだけの、子どもの我がままでしかない。
 ――でも。
 智絵里は、ワンピースに皺が付くのも厭わず、強く拳を握る。
 泣くためではなく、振り切るために硬く目を閉じて、すぐに開く。
 そして心配そうにこちらを見ているきらりに、精一杯の笑みを返す。
「……幸せに、なれるでしょうか……?」
 今度こそ、きらりは「うんっ」と力強く頷いた。
 言葉数の少ない智絵里に釣られるように、きらりの語る言葉はそう多くなかった。お喋りなきらりには珍しいことだと、プロデューサーが見ていたならそう評したかもしれない。
 だが、これが智絵里の空気なのだ。
 不幸な自分を嘆き、俯いて溜息を吐いている彼女ではなく。
 弱々しくとも、確かに笑う彼女の成せる業なのだ。
 きらりもまた、いつもの屈託のない笑みとは趣の異なる、はにかんだような笑顔を見せる。こうした側面を引っ張り出せるのも、他ならぬ智絵里の力であった。
「智絵里ちゃんは、いつもそんなに難しいこと考えてたんだにぃー。きらりはこんなだから、あんまり難しいこと考えるとにょわーってなるんだよぉ……」
「きらりさんは……、すごく、かわいいです。……あの、えっと……、ほ、本当ですよ……?」
 きらりが目をぱちくりさせていたので、お世辞に取られたかと不安に思った智絵里だったが、彼女がすぐさま「うきゃーっ!」と星マークが付く勢いで抱き着いてきたから、正直ほっとした。
 かわいぃ、かーうぃ、と何度も頬ずりをされたり、頭を撫でられたりして、きらりの香りが自分にも移ってしまいそうだった。
 智絵里は、こういう生き方はできそうにないな、と他人事のように思った。
 それがほんの少し悲しくて、ほんの少しだけ、嬉しかった。
 自分にも、自分にしかできない生き方があるような、そんな気がしたから。
「……、あ」
 行き場のない目線が、シロツメクサの群れの中に四葉のクローバーを見咎めた。が、気のせいかもしれなかったし、確かめられる状態でもなかったから、諦めた。きらりの拘束があるとはいえ、こうもすんなりと諦められることが、驚きではあった。

 風に揺れる草の葉の音を聞き、智絵里は未来に夢を見た。
 変われるのかもしれない。変われたのかもしれない。そう簡単に、変われるはずがないことも解っている。変われないはずがないことも、それが嘘でないことも知っている。
 全ては、始まったばかりだということも。
「んーっ、智絵里ちゃん、いい匂いがすうぅー」
「あ、ゃ……、そ、そこは」
 ――陽はまだ高い。いやらしいことに。
 このまま延々と抱き締められているのも悪くはないのだけど、そういうわけにもいかないし、何よりお腹が空いてしまうから、良いタイミングで声を掛けよう。
 例えば。
 どちらかのお腹が空気を読んで、可愛らしい鳴き声を上げてしまうまで。
 願わくは、この束の間の幸福を。

 

 

 

 



SS
Index

初出:2012年5月28日  藤村流
THE IDOLM@STER シンデレラガールズ
二次創作小説