Baghdad Burning
 イラク女性リバーベンドの日記   

…いつかあなたと会いましょう、弧を描き流れる河の岸辺で。そこは心を癒やし魂が甦る街、バグダード…

2007年10月22日月曜日
国境なきブロッガーたち…

シリアは美しい国ー少なくとも私はそう思う。「私は思う」と言うのは、シリアを美しいというとき、安全・セキュリティ・安定した状態を私は「美しさ」だと勘違いしているのではないかと思うことがあるから。いろいろな意味でダマスカスは戦前のバグダッドに似ている。にぎやかな通り、ときたま起きる交通渋滞、買物客でごった返す市場…。でも、バグダッドとは異なる点も。ビルは高く、道路は狭く、遠くにぼんやりとカシヨーン山が見える。

山は多くのイラク人がそうであるように私の心をかき乱す。特にバグダッドから来たものにとっては悩ましい。イラクは、北部には山があるが、あとは平野ばかりだから。夜、カシヨーン山は暗い空に溶け込み、ちらちら灯るたくさんの灯りが見えるー山の中に家とレストランが建っているのだ。写真を撮るときはいつもカシヨーン山を入れることにしている。人を撮るときも背景にはいつもカシヨーン山が見えるというわけ。

ここに来た当初はある種のカルチャー・ショックを受けていた。戦後のイラクで身についた習慣を取り去るのに3カ月かかった。通りで人々の目を避けたり、交通渋滞に巻き込まれたとき小声で夢中になって祈りを捧げたりするような変な習慣を身につけ、奇妙なことをしているのさえ気がつかないのはこっけいだ。後ろを振り返ることなく、頭を上げて、再びきちんと歩くようになるまで少なくとも3週間かかった。

今、少なくとも150万人のイラク人がシリアにいると言われている。そうだろうと思う。ダマスカスの通りを歩くと、いたる所でイラク訛りを聞く。イラク難民であふれたGeramanaとQudsiyaのような地域がある。これらの地域にシリア人はあまり住んでいない。その地域の公立学校はイラク人の子どもでいっぱいだ。イトコは今Qudsiyaの学校に通っている。彼のクラスには26人のイラク人の子どもと5人のシリア人の子どもがいる。それは時に想像を越える。ほとんどの家族は自分たちの貯えで生活しているが、すぐに家賃と生活費で使い果たしてしまう。

ここに来てから1カ月くらいたったころ、多くの国がそうであるように、シリアもイラクからの入国にビザが必要になるという話が伝わってきた。イラクの政権を握っている傀儡たちは、シリアとヨルダンの当局者たちに会い、イラク人の最後の安全な避難場所であるダマスカスとアンマンを奪い去ろうと決めたのだ。この話は8月の下旬に始まり、10月前半まで伝わってきた。今シリアに入国しようとするイラク人は、シリアの領事館かもしくは自分がいる国のシリア大使館発行のビザを必要とする。イラク国内のイラク人の場合は、内務省の承認が必要であるとも言われている(内務省の民兵から逃げる人々にとって、それは難しい)。今日、国境でのビザ取得に50ドル必要だという話が伝わってきた。

ビザが発行される前にシリアに入ったイラク人は国境で1カ月有効のビザを手に入れている。ビザが切れたらすぐにパスポートを持って地域の入国管理事務所へ行く。運が良ければ、1〜2ヵ月ビザを延長できる。シリア大使館でのビザ発行が始まったとき、シリアは国境でのビザの延長を止めた。私たちは素晴らしいアイデアを思いついた。ビザ騒動が始まる前、私たちのビザの更新が必要となる前に、私たちは国境検問所に行くことを決めた。イラクに渡り、再びシリアに戻ってくるのだ。誰もがそうしていた。それで少なくとも2ヶ月のビザを手に入れることができる。

9月前半の暑い日を選んで、6時間かけてKameshli(北シリアの国境の町)まで行った。おばと彼女の息子も私たちと一緒に行った。彼らもビザの延長を必要としていた。KameshliにはYaarubiyaと呼ばれる検問所がある。イラクとシリアの国境がわずか数メートルしか離れていない楽な検問所だ。シリア領土を出て、再びイラク領土に歩いて入る。簡単で安全だ。

Yaarubiya国境検問所に着いたとき、愕然とした。何千人ものイラク人が私たちと同じようなことを考えていたのだ。国境への列はどこまでも続いていた。出国ビザが押されたパスポートを持って何百人ものイラク人が長い列をなして待っていた。私たちも人々の列に加わって、待った。待って、待って、待ち続けた…。

シリア国境から4時間後に、イラク国境の列に並んだ。それはさらに長かった。私たちは疲れきってイライラしたイラク人の列の1つに加わった。「ガソリンの行列に似ているね」と、若いイトコは冗談を言った。太陽の下の4時間待ちの始まりだ。赤ん坊のハイハイのように行列はゆっくりと進んだ。行列はさらに長くなった。イラク入国のスタンプが押される場所までパスポートの行列は続いていたが、ある場所に来ると、行列のはじめと終わりが見えなくなった。行列のわきを行ったり来たりしている少年たちがいた。彼らは水、チューインガム、タバコを売っているのだ。叔母が一人の少年の腕をつかんだ。「私たちの前に何人の人がいるの?」彼はヒューと口笛を吹きつつ、様子を見るように2、3歩下がった。「100、いや1000かな!」と走り去って行ったが、少年はとても嬉しそうだった。

私は複雑な気持ちでそこに並んでいた。故郷への切ない思い、何かの拍子にときたま襲われるホームシック、押しつぶされそうな不安などで私の心はいっぱいだった。彼らが私たちの再出国を認めなかったら?可能性がないとは言えないけど、でも本当にそうなったら?これがイラク国境を見る最後だったとしたら?何かの理由でイラク入国がもう許可されなかったとしたら?そしてイラク出国が二度と許可されなかったとしたら?

私たちは4時間の間、立ったり座ったり、しゃがんだり、もたれたりしながら、行列に並んだ。太陽は皆の上に等しく照りつけた。スンニ派もシーア派もクルド人も。E.は手続きが早くなるだろうから家族のために気絶することをおばに説得した。しかし、おばは軽蔑したような眼つきで私たちを見ると、より背筋を伸ばして立った。人々はおしゃべりしたり、悪口を言ったり、あるいは黙ったまま、そこに立っていた。それはまたイラク人の別の集まりにもなった。お互いの悲しい身の上話をして、遠い親類や知人の消息を知る絶好のチャンスだった。

私たちも自分たちの番を待つ間に知り合いの2家族に会った。私たちは長いこと合わなかったかのように互いに挨拶して、ダマスカスでの電話番号とアドレスを交換しあい、訪問を約束した。私は23歳の息子Kのいる家族に彼がいないことに気がついた。湧き上がる好奇心を抑えて、彼の居所を尋ねるのをやめた。母親は私の記憶より老けてみえたし、父親は絶えず物思いにふけっていた。おそらく深い悲しみにあったのだろう。私はK.の生死を知りたくなかった。彼はどこかに生きていて国境やビザで思いわずらうことなどないのだと信じたかった。知らないというのは、時にこの上なく幸せなことでもある… 。

シリア国境に戻ると、疲れきりお腹を空かせた大きな一団の中で待った。スタンプを押してもらうためにパスポートを渡すのだ。シリアの入管職員は数十冊のパスポートをふりわけ、名前を呼び、パスポートを渡すとき忍耐強く顔を確かめた。「後ろに下がって。下がって」。私たちが立っている混雑した部屋の後部で叫び声があがった。誰かが倒れたのだ。助け起こされたのは老人だった。彼は杖をつき家族とともに息子に付き添われていた。

私たちはシリアに再入国して、Kameshli行きのタクシーに向かった。私は自分たちが難民であったという事実を改めて思い知らされた。インターネットや新聞、あるいはテレビで難民について読んだり見たりしてはいた。シリアにおよそ150万のイラク難民がいると聞いても、ノンと頭を横に振る。自分や自分の家族が難民のひとりであると思ってもいずに。だって、難民はテントで眠り、飲料に適した水にアクセスできない人々のことでしょ?違う?難民はスーツケースの代わりにバッグで身の回りのものを運び、携帯電話やインターネット・アクセス出来ない人々でしょ?違う?シリアでの2ヶ月延長が押された、私の命を保障したようなパスポートを握り締め、私は間違っていたのだろうかという思いに打ちのめされた。 私たちは皆難民だった。私は突然数字になった。どれだけ裕福であるか、教育があるか、良い環境にいるかは重要ではない。難民は難民だ。難民とは、自分の国も含めて、どの国でも歓迎されない者のことだ…特に自分自身の国で。

私たちは2家族のイラク人が住んでいるアパートにいる。上のフロアはペシュメルガによって村から追い出された北イラク出身のクリスチャンの家族だ。私たちと同じフロアにはバグダッドの家を民兵に盗られたクルドの家族がいる。彼らはスウェーデン、スイスのようなヨーロッパの国への移住を待っている。

私たちがスーツケースをひきずりながらヘトヘトになって到着した最初の晩、クルドの家族が代表を送り込んできた。2本の前歯がない9歳の少年だ。彼は傾いたケーキを持っていた。 「僕はお向かいに住んでいるアブ・ムハンマドの家族です。ママが何かあったらなんでも聞いてって。これがウチの電話番号。アブ・ダリの家族は2階に住んでいて、これが彼らの番号。僕たちも皆、イラク人だよ…。このアパートへようこそ。」

私はその夜泣いた。故郷から遠く離れ、2003年以来長い間奪われていたイラク人同士のつながりを初めて感じたからだ。

リバー@午前1時42分
2007年9月6日木曜日
故国を離れて…

2カ月前、荷造りをした。6週間近く私の部屋に置きっぱなしになっていた大きなスーツケースは、衣服と身の回り品をいっぱい詰め込みすぎて、Eと隣の6歳の子どもに助けてもらい辛うじてファスナーをしめた。
スーツケースの梱包は、これまで私がしなければならなかったことの中でも最も難しい作業だった。まさにスパイ大作戦:リバー、あなたの任務は30年間集めたもののなかからどうしても必要なものを選び出し決めること。この任務の困難な点は、それらの品物を1メートル×0.7メートル×0.4メートルのスペースに収めること。これにはさまざまな個人的な思い出の品々、たとえば写真、日記、ぬいぐるみ、CDなどのほか、これからの数カ月に着る衣服もを含んでいる。

私はそれらの品々を収めては取り出し、なんと4回も繰り返した。荷物を取り出すたびに、絶対に必要でない品物は捨てると誓った。が、やり直すたびに、さらに多くのものを詰め込んでいた。 1カ月半たって、私がスーツケースの詰め替えを繰り返しているのを見て、ついにEが自分でバッグを閉めると言い出した。

各自1個ずつのスーツケースという決定は父によってなされた。父は私たちが用意し始めたさまざまな思い出のつまった箱をチラッと見て、その結論に達した。家族それぞれのために同じ大きさのスーツケースを4個購入し、クロゼットから書類を入れるための小さな引き出しを5つ引き出した。それには卒業証書、身分証明書など必要な書類を入れた。

私たちは待って…待って…待ち続けた。試験が終わる6月の中旬から下旬に出発すると決めていた。おばと彼女の2人の子供も一緒に行くことになっていたので、その時期が一番いいだろうと考えられていたのだ。ところが、最終的に「出発日」と決めた日、2kmも離れていないところで爆発が起こり、外出禁止令が出た。旅行は1週間延期された。そして次の出発前夜、私たちを国境まで運ぶ予定であったGMC[註 ゼネラルモータースの車。イラクでは長距離用に使われている頑丈で大型の四輪駆動車]の持ち主のドライバーに断られた。彼の兄弟が銃撃され殺されたのだ。再び、出発は延期された。

6月の終わりころ、荷物がいっぱい詰まったスーツケースに座り、私はただただ泣いていた。7月始め頃、国を出ることなんて到底出来ないと思いこんでいた。私にはイラク国境がアラスカ国境のように遠く思えた。飛行機の代わりに車で出発すると決めるのに2カ月以上かかった。ヨルダンの対案としてシリアに決めるまでにさらに1カ月かかった。出国の予定を組み替えるのにいったいどれくらい時間を費やしただろう?

一夜のうちにハプニングが起きた。おばが心踊るような知らせを電話してきたのだ。息子の命を脅迫された隣人のひとりが48時間後にシリアに向けて発つつもりだという。そして彼らは別の車で同行する家族を探しているらしい。ジャングルのガゼルのようにグループで旅行するほうがより安全だからだ。それからの2日間は忙しく動き回った。私たちは、これからの生活に必要となるであろう品物がすべて梱包されているかをチェックした。留守番をしてもらう予定の母の遠い親戚には出発前夜に来てもらうように頼んだ。留守にすると誰かに家を盗られてしまうので空っぽに出来ないのだ。

家を離れるときは涙でいっぱいだった。その朝、おばとおじが別れのあいさつを言いにやってきた。厳粛な朝だった。私はこの2日間泣かないようにと心構えをし続けていた。泣くもんか。だってここに戻ってくるのだからと私は言いつづけた。泣くもんか。戦前、モスルやバスラに行ったときの小旅行と同じなんだから。安全かつハッピィに戻ってくると自分に納得させたにもかかわらず、のどの奥に大きな塊がつかえていた。泣かないぞと思ったのに、目は真っ赤になり鼻水が流れてきた。アレルギーのせいよと自分に言い聞かせた。

私たちはやるべき小さなことがあまりにたくさんあって出発前夜寝ていなかった。電気もまったく来なかった(地域の発電機も動かず、公共の電気は絶望的だった)。眠る時間などなかった。

最後の数時間はぼんやりとしている。家を離れる時間が来て、私はすべてのものにさようならを言うため部屋から部屋を歩き回った。机さん、さようならーこの机は高校から大学まで使い続けたものだった。カーテン、ベッド、ソファたち、さようなら。子どもの頃、Eと一緒に壊してしまったひじ掛け椅子さん、さようなら。家族が集まって食事をしたり、宿題をした大きなテーブルさん、さようなら。かつて壁にかけられていた額入り写真の亡霊さんたち、さようなら。それらの写真はすでに取り外されしまわれてしまったが、私はどこに何がかかっていたかを覚えている。みんなで夢中になって遊んだボードゲームさん、さようなら。カードとお金がなくなったアラブ版モノポリー。でも誰も捨てる気にはならなかった。

それらがすべて単なる品物であることはわかっているし、わかってもいた。人々のほうがずっと大切だということも。けれど、家は歴史を語る博物館に似ている。カップやぬいぐるみを見れば、それにかかわる思い出の数々が目の前に広がる。突然、私は自分が考えていた以上の離れがたい思いにうちのめされた。

ついに午前6時が来た。私たちが熱いお茶の入った魔法瓶、ビスケット、ジュース、父が持っていくと主張したオリーブ(オリーブ?!)などなどを用意している間、GMCは外で待っていた。おばとおじは悲しげに私たちを見つめていた。どう云ったらいいのだろう。旅たつ親類や友人を見つめていた私の目にあったのと同じような表情だ。怒りをこめた無力感と絶望。善良な人々がなぜでて行かなければならないのか?

泣かないと決めていたにもかかわらず、別れる際になって私は泣き出した。おばも泣いた…おじも泣いた。両親は冷静だったが、別れの挨拶は涙声となっていた。最もつらいのは、さようならを言った後、再びこの人たちと会えるのだろうかと思うことだ。おじは、私の髪にまきつけたショールをしっかりと締め直し、「国境に着くまでかぶり続けているんだよ」とアドバイスした。おばは、車が車庫から出ると背後にまわり、地面にボールの水をまいた。それは旅行者が無事に戻ってくるようにという伝統的な儀式だ。

旅はえんえんと、何事もなく過ぎていった。そして覆面をつけた男たちのいる2箇所のチェックポイントを通った。彼らは、身分証明書を見せろといい、パスポートをちらっと見て、私たちがどこに行く予定かと尋ねた。私たちの後ろの車にも同じことが行われた。チェックポイントは恐ろしかったが、視線を避け、礼儀正しく質問に答え、小さい声で祈ることがベストな方法であることがわかっていた。母と私は念の為宝石と思われるようなものは身につけないように気をつけていた。そしてロング・スカートをはき、ヘッドスカーフをかぶっていた。

シリアは、ヨルダンを除き、ビザなしで入国できる唯一の国だ。ヨルダン人は避難民にひどい仕打ちをしている。何家族もがヨルダン国境で追い返されたりアンマン空港で入国を拒否されるという危険を犯している。多くの家族にとっては高過ぎるリスクだ。 私たちは一緒にいたドライバーが「コネ」を持っていたにもかかわらず、何時間も待った。コネとは、彼が何度もシリアを往復したことから、国境を無事に通過するための賄賂を渡すべき人間をよく知っているということだ。私は落ちつかない気持ちで国境にいた。涙はバグダッドを出たおよそ1時間後に止まっていた。汚い通り、廃墟となったビルと家、煙が立ち込めた地平線を見るだけで、より安全な場所に行ける機会を持ったことがいかに幸せかがわかったからだ。

バグダッドを出たときから、もはや私の心には別れを言ったときのような痛みはなかった。国境では周囲にいる車も私を不安にさせた。爆発する可能性の高い自動車の間にいたくはなかったのだ。とはいえ、周囲にいる人々(ほとんど家族だったが)がどんな顔をしているのかを見たい気持ちもあった。他方ここ4年間トラブルを避けることも私の習い性となっていた。しかし、それももう終わりだと、私は自分に言い聞かせた。

ついに私たちの番が来た。私は体を固くして、お金が手渡される間、じっと待っていた。パスポートがチェックされ、やっとスタンプが押された。私たちは入国するよう誘導された。ドライバーは満足そうに微笑み、「楽な旅でしたね、アルハムドリッラー」と明るく言った。

国境を越え、最後のイラク国旗を見たとき涙が再び流れはじめた。国境を越えている間、車内は静かだった。ドライバーだけが脱出劇の数々のおしゃべりをしていた。隣に座っていた母をそっと見ると、母もまた涙を流していた。イラクを出たというだけで私たちは何もいえなかった。すすり泣きたかったが、赤ん坊のように思われるのは嫌だったのだ。ここ4年半地獄のような場所から脱出する機会を与えてくれたドライバーに恩知らずだと思われたくもなかった。

シリア国境もイラク国境と同じように混雑していたが、リラックスした雰囲気にあふれていた。人々は車から出てストレッチングをしていた。互いに気づいて手をふったり、車窓ごしに悲惨な話や意見を交換しあっていた。最も大切なことは、私たちが皆同じ立場だということだ。スンニ派とシーア派、アラブ人とクルド人…私たちは皆、シリア国境職員の前で等しく平等だった。

私たちは金持ちか貧乏人であるかを問わず全員避難民だった。そして、難民はすべて同じように見えた。顔には独特の表情があった。安堵と悲痛がないまぜになり、不安そうにも見えた。誰もが同じような顔をしていた。

国境を通り過ぎた瞬間、限りない安堵と限りない悲しみで、私の心は押しつぶされそうだった。わずか数キロ、たぶん20分くらいしか離れてないのに、こんなにもはっきりと死から生を分かつとは…。

目には見えず触ることも出来ない境界線が車両爆弾、民兵、殺し屋集団と平和、安全の間に立ちはだかっているとは…。それが今でも信じ難い。

私は、ここでこれを書いていて、爆発音が聞こえないことを不思議に思ったりする。飛行機が頭上を通過するとき窓がガタガタいわないことに驚く。黒づくめの武装集団がドアを蹴破り私たちの生活に入ってくるのではないかという恐れを追い払おうと努めている。道路封鎖、ハマー(註 米陸軍の野戦車両)、ムクタダの肖像画などのない道路に自分の目を馴れさせようと努力している。

なぜ?ここから車でほんのちょっと行った先ではこれらすべてのことがあるというのに。

リバー@午前12時6分
2007年4月26日 木曜日
分離壁…

…それは(アメリカの指導と支持で)現イラク政府が造った壁。バグダッドの最も広い'スンニ'地域を切り離し、隔離することを意図する壁だ。アメリカが何もしていないとは言わせない。操り人形とアメリカがでっちあげたプランによるとアダミヤ地区を「保護」するためという。アダミヤは現イラク政府と殺し屋集団がスンニ派ムスリムを追い出すことができなかった住宅・商業地域だ。

壁はもちろんだれも保護しない。私は、ヨーロッパの強制収容所ができたときはこんなだったのだろうと思う。ナチスはたぶんこう言っただろう。「見たまえ、我々はこの小さな壁でユダヤ人を保護するつもりだ。人々が襲撃のためにユダヤ人区域に入ろうとしても困難だろう!」 しかし、出るのもまた困難だ。

壁は、イラク社会の崩壊をさらに加速させる最新の手段でもある。どうやら内戦を促進し支持するだけでは事足りないのだろうーイラク人が、一般に、ムッラー、アヤトラ、および傀儡政権のリーダーより粘り強く許容性があることがわかったのだ。アメリカが物理的に分割して征服する時が来たー壁が崩壊する以前のベルリンのように、あるいは現在のパレスチナのように。こうして、彼らは、「シーア派地域」からスン二派を、「スンニ地域」からシーア派を追い出し続けることが出来る。

私は、いつもイラク人の好戦家たちが外国の首都でテレビのインタビューを受けているのを聞く(彼らは安全な外国の首都からのみテレビに出演する。なぜってイラクでおおっぴらに戦争賛成なんていえるわけないから)。彼らは、宗教的に偏った宗派政党がすべてのスンニ/シーア派の紛争をあおっていることを信じようとしない。彼らは、この状況が戦争と占領の直接的結果であると認めるのを拒否する。 彼らはイラクの歴史においてスンニ派とシーア派が常に衝突しあっていたと言い続ける。私はそれがたまらない。この国に何10年も住んでいない一握りの国外居住者が、そこに実際に住んでいる人々より、それに関して知っているかのような態度をするのが耐えられない。

私は戦前のバグダッドを思い出す。人はどこにでも住むことができた。隣人が何をしているかなんて知りもしないし、気にもかけなかった。宗教宗派について尋ねる者などいなかった。「貴方はシーア派、それともスン二派?」なんて、つまらない話題にわずらわされる者などいなかった。粗野で遅れている人ならそんな事を尋ねたかも。私たちの生活は現在、それにふりまわされている。私たちの生存は、検問したり、あるいは真夜中に家を襲ったりするマスクをかぶった男たちに宗派を隠すか表すかで左右される。

個人的なことを書くと、私たちはついに去ることを決めた。私たちが今しばらく(バグダッドから)去るであろうことはわかっていた。私たちはそれについて何十回も家族で議論しあった。初めに、誰かがためらいがちにほのめかした。それは不合理な考えでもあったー我が家と親戚を離れ、故国を離れ、何をする?どこに行く?

去年の夏以来、私たちは繰り返し議論し続けていた。提案された最終シナリオが始まったのは時間の問題だった。すぐに実行されるべくプラン化された。ここ2、3カ月、どう移動するかの問題になった。飛行機?それとも車?ヨルダン?それともシリア?みんな一緒に引越す?それとも、初めに私と弟だけが行く?

ヨルダンかシリアのあとはどこへ?明らかに、そのどちらの国も、いずれかへの中継地でしかない。そのどちらもイラク避難民であふれ、そして、そこに住むどのイラク人もが仕事は得るのが難しいと言っている。ましてや居住権を手に入れるのはさらに難しい。国境で戻されるという小さな問題もある。何千人ものイラク人がシリア・ヨルダンに入国できていない。入国の明確な基準もない。それはパスポートをチェックする国境警備隊の兵士の気まぐれによるからだ。

飛行機がもとより安全だということはない。バグダッド国際空港への旅行が本来危険であり、たとえ飛行機で到着してもシリアとヨルダンへ入国するのは同じように難しい。なぜシリアかヨルダンなのかって?それはビザなしでイラク人を入れる唯一の2つの国だから。バグダッドのわずかに機能している大使館か領事館へビザを取りにいくなんてほとんど不可能。

それで、私たちはずっと忙しかった。私たちの人生のどの部分を残したらよいかを決めるのに忙しいのだ。どの思い出が必要かしら?多くのイラク人がそうであるように、私たちは選択の余地もなく衣類のみを背負っている古典的な避難民ではない。私たちは、他の選択肢がーすなわち、ここにとどまり、待ち、生き残ることーがひとえに長い悪夢の継続だから去るのを選んだのだ。

一方で、私は、国を離れ、未知の場所で新しい生活をすることは、些細な関心などちっぽけなものになってしまうほど大変だということを知っている。おかしいのは、私たちの人生を占めているのがほんの些細なものだということだ。私たちは、アルバムを持っていくか、置いていくかを議論している。4歳のときから持っているぬいぐるみを連れていってもいいかしら?E.のギターを持っていく余地はある?どんな衣服を持っていく?夏服?冬服も?私の本は?CD、赤ん坊の時の写真は?

問題は、私たちが再びこれらのものを見られるのかどうかさえわからないことだ。家を含めて、私たちが残していくものが利用可能になるかどうかもわからないし、いつ戻るのか、戻るのであるかどうかさえわからない。侵略しようと思いついたバカな人間が圧倒的な力を持つために、出国しなければならないという不当な仕打ちを受ける瞬間があるなんて。生きながらえて普通の生活をしていくにはあまりにも不公平だ。私たちは家族と友人を残し我が家を出なければならない…何のために?

車両爆弾と民兵、それとも知りぬいた大好きな場所を離れ、定かではない未来の不特定な場所に行くか。そのどちらがより恐ろしいだろう。決めることなんて出来やしない。

リバー@午後5時3分

2007年2月20日 火曜日
マリキの反応…

予想どおり、アル=マリキは、レイプ疑惑がすべて偽りだと主張している。彼の一派が、サァブリィン・アル=ジャァナァビをレイプしたかどうかを隊員たちに尋ねたところ、否定したらしい。そのことが明らかになってとてもうれしいわ。

スンニ派の女性がシーア派に支配された警察の3人の隊員によってレイプされたと言ったあと、ヌーリー・アル=マリキ首相はスキャンダルを鎮めようとすばやく動いた。政府の反応はー隊員に同調して、彼女の主張を疑いーさらに多くのバックラッシュをもたらすと脅かした。

マリキ側の声明によると「とある政党」を起訴したーおそらくスンニ派の政治家たちー 先週始まったバグダッドの治安作戦が進むなか治安部隊を阻止しようとしてクレームをでっちあげたと。声明はマリキが調査を命じた月曜日の夜、ほんの数時間後に出された。
20歳の人妻は、警察の部隊が日曜日西バグダッドのアミル付近で抵抗勢力を助けたかどで逮捕され、拘留されたあとに襲われたと語った。彼女は警察の駐屯地に連れていかれ、レイプされたと言った。

「診察の結果、女性はいかなる性的な攻撃をも受けていず、彼女に対する治安機関からの3通のはっきりとした逮捕状が出ている」と政府声明が出されたが、詳しい説明はなかった。「告発が間違っていたと立証された後、首相は、告発された隊員に報酬を与えるよう命令した」とも発表されたが、これも詳しい説明はない。

私はメディアが嫌いだ。私は、この残虐な行為を別のことがらーたとえばサァブリーンがスンニかシーアかあるいはアラブかクルドか(アルジャナァビ一族はスンニ派とシーア派が混在している)というようなスンニとシーアの混乱に置き換えているイラク政府が嫌いだ。 マリキは女性をうそつきに変えただけではなくて、彼女が告発した隊員たちに報酬を与えている。まったく腹立たしい。

いかなる状況のもとであろうとイラク女性は自分がレイプされたと間違っても公表しない。あまりに多くのリスクがある。社会的に排除されるというリスクがある。部族間では、終わりなき報復と復しゅうによる殺人が始まるリスクがある。このようなタブーなことがらについてカミングアウトして、話すことは恥だ。彼女と彼女の夫はこの話をすることによって、彼らの評判を落とすだけでなく、生命の危険もともなう。

だれも、バグダッドの治安作戦をおびやかすためだけに、このような嘘は言わないだろう。

サァブリィンの告発からマリキが彼女に告発された人々に報酬を与えるまで14時間もかかっていない。14時間で、マリキは彼らの無実を確立しただけでなく、彼らを彼自身の個人的な英雄に変えた。マリキは彼自身の妻と娘の安全を彼らにゆだねるかしら。

これは他の囚人(特に女性)が、イラク政府と米軍に対して告発を行うことを阻むことを意味する。マリキはこれまででもっとも愚かなヤツ(もちろん、ブッシュ以降だけど…) その傲慢さとこの状況の無慈悲な対処は、イラク人の心から今回の問題を忘れさることができると思うのかしら。 彼がしたことによって、彼の政府の下での彼のやり方がかつてないほどクリアになった。 自警団だけが頼みだ。なぜ治安部隊と警察に任せるの?報復のために民兵かギャングを雇うことね。彼が何らかの正義を彼女のために果たさないと、彼女の部族はせざるをえないだろう…ジャァナァバァト(ジャァナァビ一族)は復讐するだけの力がある。
マリキは、ともかく若いイラク人女性のレイプが今日のイラクの暴挙であるふりをすることができた…

リバー@午後3時59分

サァブリィン…

最近ブログをするのに、多くのエネルギーと決心を必要とする。イラクについて考えると次第に元気がなくなり憂鬱になってしまうからだと思う。でも、今夜は絶対に書かなければ。

私がこれを書いている今も、オプラーがチャンネル4(衛星通信ナイルサットで見ることの出来るMBC放送のひとつ)で、借金を減らす方法を放送している。ゲストは、ブランド品を少なくして生活することを、見るからに買い物し過ぎのアメリカ女性であふれたスタジオで話している。彼らが収入と資産の増加について話している間、アル・ジャジーラでは、サァブリィン・アル=ジャァナァビ(若いイラク女性)が、イラク治安部隊がどのように彼女の家から彼女を拉致し、レイプしたかを語っていた。彼女は目だけは見ることは出来るが、声はかすれ、ときどき話が中断した。最後には、それ以上話すことができず、恥ずかしさで顔を隠した。

彼女はまさしく今までで最も勇敢なイラク女性かもしれない。誰もが米軍とイラク治安部隊が女性(男性も)をレイプしているのを知っている。たぶん、彼女は実名で公表した最初の女性になるだろう。彼女の話を聞いていると私の心がズキズキと痛む。ある人は彼女をうそつきと呼ぶだろう。他のもの(戦争を支持したイラク人たちも含めて)は、彼女を売春婦と呼ぶだろう。言っておくけど、あなたたち恥を知りなさい。

彼女を拉致したとき、一体彼らはどんな口実を使ったのだろう。彼女は「テロリスト容疑者」という大見出しのもと彼らが逮捕した何千人ものうちの一人といえよう。彼女はCNN、BBCあるいはアル=アラビヤの字幕に書かれた「イラク治安部隊によって捕らえられた13人の武装勢力」の一人であったかも知れない。彼女をレイプした男たちは、ブッシュやコンディがとっても誇りに思っている治安部隊-そうーアメリカ人が訓練したもののひとつ。イラクにおけるアメリカ占領の記録の一ページ;思い出して。レイプされ、幼い妹や両親とともに殺され焼かれた14歳の少女の話を。
彼らはハイ・アル=アミル(南バグダッド)の彼女の家から彼女を拉致した。否、彼らはギャングじゃない。イラクに平和をもたらす治安部隊ー米軍による訓練を受けた軍隊のひとつでしょ?彼らを知っているでしょ。彼女は、残酷にも輪姦され、今、そのことを語った。プライバシーと安全のために彼女の顔は半分隠されている。以下に彼女が言ったことを翻訳しました。


私は『私は何も持っていません[私は何もしていません]』と彼に言いました。彼は『何も持っていないって?』といい、彼らの一人が私を地面に投げつけ、私の頭をタイルに打ち付けました。彼はしましたー彼は私をレイプしたという意味です。2番目の男が来て、私をレイプしました。3番目の男も私をレイプしました。 [停止ーすすり泣く]私は彼らに懇願し泣き叫びました。すると彼らの一人が私の口をふさぎました。 [不明瞭、泣く]もう一人の男が来て言いました。「終わったか?俺たちの番だ」。彼らが答えました、「いや、アメリカ人の委員が来る」。彼らは私を裁判官のところに連れていきました。



キャスター:サァブリィン・アル=ジャァナァビは、治安部隊の一人が録画/写真を撮り、もし誰かにレイプのことを話したら殺すと脅かされたと語っています。調査審判員に会ったあと、別の将校が彼女をレイプしました。

サァブリィンは続けます:
「彼らの一人が言いました…『お願いーあなたのお父さんとお母さんのところに私を連れて行って』と私が言ったら、『No,no−母の魂にかけてお前を連れて行ってやろう。けれどひとつだけ条件がある。それをお前が私にくれたらな』『何?』彼は答えました『お前をレイプしたい』『No、イヤです』すると彼は銃を持って私を部屋に連れて行きました…そこには兵器、カラシニコフ、小さなベッド[不明瞭]があり、彼は私をその上に座らせました。それから[将校が来て]彼に言いました。『娘を置いていけ』私はクルアーンにかけて誓いました。『預言者の光にかけて、私はそんなことはしません』。彼は言いました『お前はしてないって?』『はい』



[泣く]彼はパイプのような黒いホースを拾い、私のももを殴りました。 [泣く]私は彼に言いました、『あなたは私から何を得たいの?あなたは、私に、レイプしてと言って欲しいの?いいえ、私には出来ません…私は*****[売春婦]ではありません』。彼は私に言いました、『俺たちは欲しいものを取り、欲しくないものは殺す。それだけさ』[すすり泣く]これ以上は話せません…お願い、最後まで話せません」






私はこの女性を見つめた、そして、激しい怒り以外の何も感じることができなかった。私たちは何を獲得したの? 彼女を見ても外国人はなんら関心を持たないだろう。あわれみと多分ほんの少しの怒りを感じるだけだろう。けれど彼女は私たちのひとりなのだ。彼女がジーンズとTシャツを着ていないので、漠然とした同情を感じるだけだろう。貧しい第三世界の国々ー女性たちが我慢させられていると。以前、私たちは決して我慢させられていなかったことを知ってほしい。イラク人が街で安全に過ごした「とき」があったのだ。そんな「とき」は遠くに過ぎ去った。私たちは戦後、少なくとも自分の家だけはわずかながらに安全だと自らを慰めていた。家庭は神聖なはず、そうでしょ?それもまた過去の話。

彼女は、自分たちの家あるいはイラクの刑務所で暴力を受けたイラク女性の数十人のうちの一人、ことによると何百人のうちの一人。彼女は私のイトコに似ている。彼女は友人に似ている。彼女は時々街で噂話をしあった隣人に似ている。どのイラク人も彼女に自分のいとこ、友人、姉妹、母親、叔母の姿を見るだろう…

人権団体が3人のイラク女性が来月処刑されることになっていると警告している。女性は、ワッサン・タァリブと、ザイナブ・ファァディル、リカァ・オマァル・ムハンマドだ。彼女たちは'テロ'で起訴された。すなわち、イラク・レジスタンスと関係があるとされた。彼女たちがレジスタンスの容疑者と親類であることを意味する。あるいは彼女たちがたまたま運の悪い時運の悪い場所にいただけかもしれない。彼女らのひとりは刑務所で出産した。 彼女たちはどういう拷問に耐えたのだろう。イラク女性がアメリカ占領下で「いくらか」の平等しか得られなかったなんて言わせない。私たちはいまや平等に処刑を実行される。

そして、イラク内外のイラク人、イラク内の米兵の状況が悪化しているのに、まだ本国のアメリカ人は戦争と占領について討論しているー勝利かそれとも敗退か?良くなったか、悪くなったかと。

ぐずぐずと問い続けているおバカさんのためにクリアにしましょうか:さらに悪くなるわ。終わりよ。あなたたちは負けたのよ。戦車がバグダッドに入ってきて、アメリカ人によって訓練された猿の歓声でわいた日にあなたたちは負けた。あなたたちはあらゆる家族を失った。兵士たちが暴力を働いたときから。アブ・グレイブの写真が公表され、私たちが通りで見るものと同様に刑務所の壁の向うであなたたちの残虐さが立証されたとき、あなたたちはすべての良識あるイラク人を失った。殺人者、略奪者、ギャング、および民兵に力を与え、イラクの最初の民主政府として彼らを迎えたとき、あなたたちは失敗した。気味悪い処刑をあなたたちの最大の達成と賞賛したとき、あなたたちは失敗した。あなたたちはかつて持っていた尊敬と名声を失った。3000以上の兵士を失った。それはあなたがアメリカを失ったということ。せめてオイルが価値のあるものだったことを願っているわ。

リバー@午前1時9分
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