Baghdad Burning

バグダードバーニング by リバーベンド

... I'll meet you 'round the bend my friend, where hearts can heal and souls can mend...

友よ、私の心が失われあなたさえ見分けることができなくなったら、どうか私を偉大な文明をはぐくんだ、チグリス・ユーフラテスの胸元に連れて行って欲しい。そこで私は心を癒し、魂を再生させるでしょう。

2013年4月9日火曜日

あれから10年・・・。

2013年4月9日で、バグダード陥落からちょうど10年になる。あの侵略 から10年。数百万のイラク人の人生が永劫に変わった日から10年。とても信 じられない。日々の営みを世界中と分かち合っていた頃が、ほんの昨日のことの ように感じられる。今日は、再び、私の思いをこのブログに書き留めておかなけ ればならないと思う。おそらく、これが最後になるだろう。

2003年、私たちは、自分たちに残された命の長さを、あと何日、あと何週間 と数えていた。来月まで生き延びられるだろうか?この夏を越せるだろうか?生 き抜いた人もいたが、多くは逝ってしまった。

2003年には、1年が自分に残された寿命のように思えた。愚か者は「なにも かもすぐによくなるさ」といった。楽観主義者は1、2年の猶予を占領者に与え ようとしていた。現実主義者は「少なくとも5年は何事も改善しないだろう」と いった。悲観主義者は?悲観主義者は「10年はかかるだろう」といった。

この10年を振り返り、占領者たちと彼らの操り人形のイラク政府とが10年間 私たちに何にをしてくれたのか、みてみよう。この10年で、彼らが何を成し遂 げたのか?私たちは何を学んだのか?

私たちは多くのことを学んだ。

私たちは学んだ。人生は不公平だが、それにもまして死は不公平だということ を。 ―死は善き人々を選んで連れ去る。さらに、死ぬ際にも運・不運がある。 運のいい人たちは「正常に」死ぬ・・・がんや、心臓発作や、脳卒中といったあり ふれた死に方で。不運な人たちは、ばらばらになった肉塊を拾い集められること になる。その家族は、夥しい血に染まった地面から、どうにかかつての面影をか き集め、救い出し埋葬する。不思議なことに路上の血は赤くないのだ。

私たちは学んだ。国が原油の海に浮かんでいても、国民が貧窮にあえぐようなこ とがあるのだと。街がどぶ川に変わり、妻や子がごみをあさって食べ、異邦の地 で金銭を乞うようなことがあるのだと。

私たちは学んだ。今、この時代において、正義は勝利しないと。罪のない人々が 日常的に迫害され処刑されている。ある者は法廷で、ある者は路上で、そして あ る者は私的な拷問部屋で。

私たちは学びつつある。堕落がひろがっていることを。パスポートを発行してほ しいって?あいつに金を払えばいい。公文書がほしいって?そいつに金を払え。 ある人を殺したい?やつに金を払えばいいさ。

私たちは学んだ。何十億もの人々を消し去るのはそう難しいことではないと。

私たちは学びつつある。2003年までは当たり前と思っていた快適な設備―そ う、ぜいたく品よね―電気、蛇口から出るきれいな水、歩くことのできる道、安 全な学校―、そうしたものは、それに値する人々のためのものなのだと。自国 に占領者を受け入れたりしない人々のものなのだと。

私たちは学びつつある。占領を最も熱烈に歓迎したやつら(売国奴め、お前たち のことよ)は結局のところ海外に去ってしまったということを。やつらはどこへ 行ったのか?十中八九アメリカへ、鼻の差でイギリスへってとこ。もし私がアメ リカ人だったら、ひどく憤慨しただろう。あれだけ莫大な金と多くの人命を費 やしたんだから。イラクのチャラビやらマリキやらハシミやらといった、けち な連中にはイラクに留まっていてもらって、つけはきっちり返してもらわない とってね。 私がアメリカやイギリスの入国審査官だったら、イラクを逃げ出し たやつらにこう言ったろう。「あんたたちの国を我々が侵略してやったとき、あ んたは幸福だったんだろ?解放してやったときも、 幸福だったんだよな?あん なに幸福だったんだから国に戻れよ、イラクは自由になったんだから!」

私たちは学びつつある。民兵は殺す相手を選ばないということを。世界一簡単 ないいかたをすれば、シーア派の民兵はスンニー派を殺し、スンニー派の民兵 はシーア派を殺す、となりそうだけれど、実際にはそうはいかない。そんな単純 なものではないのだ。

私たちは学びつつある。指導者たちが歴史をつくるのではないことを。人々が 歴史をつくるのでもなく、歴史家たちが歴史を記すのでもない。マスコミがやる のだ。世界中で、フォックスニュースが、CNNが、BBCが、アルジャジー ラが、歴史をつくるのだ。彼らは自分たちに都合のいいようにものごとを捻じ曲 げてしまう。

私たちは学びつつある。仮面は剥ぎ取られたと。いまや偽善を恥じるものなどい ない。ある国(たとえばイラン)に対抗しておきながら、どこか別の場所(たと えばイラク)を通じてイランを支援するなんてことができる。(たとえばアフガ ニスタンで)宗教的過激派に反対だと宣言しておきながら、どこか別の場所(た と えばイラクやエジプトやシリア)では宗教的過激派を助長することができる。

2003年には占領が自由と民主主義への入口だと思っていた人たちが、それは 過ちだったと学びつつある(遅きに失するが)。占領者たちは、占領される者の 最善の利益なんて気にかけていない。

私たちは学びつつある。無知は文明社会の死であり、皆が自分の偏った考えを他 人も共有すると思い込んでいることを。

私たちは学びつつある。偏見に固まった人々を操ることがいかにたやすいか を。 また、政治と宗教は決して融合しないことを。たとえ、ある超大国が融合 すべきだといったとしても。

でも、悪いことばかり学んだわけではない・・・

私たちは学んだ。まったく期待していなかった相手から親切を受けることがあ ることを。私たちは学んだ。その人々に対して持たれている固定観念を踏み越え て、私たちを驚かせてくれる人々がしばしばいることを。私たちは学び、今も学 び続けている。民衆には強さがあり、イラク人はそう簡単に押しつぶされな い ことを。機はいずれ熟す・・・

そして、私たちには知りたいことがある・・・

アフメド・チャラビ、イヤド・アラウィ、イブラヒム・ジャーファリ、タレ ク・ アル・ハシェミ等々のハゲタカどもは、今どこにいるのだろう?アメリカ やイギリスなどにある隠れ家にこそこそ這い戻ってしまったのか?マリキはこ れからの1、2年、どこにいるだろう?イラク人を殺して手に入れた巨万の富を 取りにイランに舞い戻り、ヨーロッパのどこかの国に亡命しようとするのだ ろ うか?怒れるイラクの民衆から遠く離れて・・・

ジョージ・ブッシュ、コンディ、ウォルフォヴィッツ、パウウェルはどうなるの か?彼らは、イラクにもたらした荒廃と死の責任を問われるだろうか?サダム は 30万人のイラク人の死の責任を問われた・・・もちろん、100万人もの死の 責任を、誰かが問われるべきよね?

最後に、全てが語られ行い尽くされた後で、これが何のためだったのかを忘れて はならない―そう、アメリカをより安全にするため・・・で、アメリカ人たち、以前 より安全になった?もしそうなら、なぜ、あなた方の大使館や外交官が襲撃され たと耳にすることがこんなに増えているのかしら?なぜ、こっちの国やあっちの 国に行かないようにといつも警告されるの?10年経った今は、ちょっとはまし になった?数百人、数千人の風変わりなイラク人と一緒にいて、以前より安全だ と感じるかしら?(仮に半分は女性と子どもだとしても、子どもは育ちますか ら、ね?)

そして、リバーベンドと家族にはなにがあったのか?私は結局シリアから脱出 した。激しい戦いが始まる前に、醜悪な事態になる前に、脱出した。なんとも 幸運だった。私は近隣の国に移り住み、ほぼ1年滞在した。それからまた、3つ めのアラブ圏の国に移住した。望みを持って。こんどこそは、しっかりと・・・っ て、いったい、いつまで?悲観主義者でさえ、もうなにも確信することができ ない。いつになったらよくなるの?いつになったら普通に暮らせるようになる の?いったいどれだけの時がかかるの?

醜い現実を再び突きつけられてがっかりした人は、フォックスニュースをみたら いい。そっちでなら、あなたの良心を慰めてくれる報道をやってるはずよ。

私について尋ね続け、私がどうしているか案じ続けてくれた人たちに、感謝す る。"Lo khuliyet, qulibet..."「もし世界から善き人々が消えたら、世界は終 わるだろう」という意味だ。。いますぐ終わってしまうことはないってことは、 届いたメールをチェックするだけでわかる。

午後10時20分 リバー

(翻訳:伊藤美好・金克美)

2007年10月22日 月曜日

国境なきブロガー団・・・

シリアは美しい国だ。少なくとも私はそう思う。「私は思う」と書くのは、この国を美しいと感じる時、自分は安全や安心や安定を「美」と取り違えているのではないかと思ったりもするからだ。ダマスカスは本当にいろいろな点で戦争前のバグダードに似ている。賑やかな通り、時折起きる交通渋滞、いつも買い物客で混みあっているように見える市場・・・。でもまた多くの点で違う。建物はより高く、通りは一般により狭く、そしてカシヨン山が遠くにそびえ立っている。

この山が気になってしょうがない。多くのイラク人、とくにバグダードから来た人たちはそう。北部イラクは山がちだけれど、イラクの他の地域はまっ平らだ。夜になると カシヨン山は真っ暗な空に溶け込み、その存在を示すのは、無数にまたたく小さな光だけになる。この山に数々の家やレストランが建っているのだ。写真を撮るとき、私はいつもカシヨン山を画面に入れようとする。カシヨン山を背景に人を写そうとする。

ここに来てすぐの数週間はちょっとしたカルチャーショックだった。この3か月間ずっと、戦争後のイラクで身につけたある種の習慣から抜け出そうとしてきた。通りで人の視線を避けるとか、渋滞に巻き込まれた時は熱心に祈りを唱えるとかいうようなしぐさを身につけてしまい、自分が奇妙なことをしていると気づきもしないのって、おかしなことだ。またきちんと、つまり、顔を上げて、しょっちゅう後ろを振り返ったりせずに歩けるようになるまでに少なくとも3週間はかかった。

いま、シリアにはイラク人が150万人以上いると言われている。そのとおりだろうと思う。ダマスカスの通りを歩くと、いたるところでイラク訛りが聞こえてくる。 ジャラマーナとかクディシーヤといった地域はイラク難民でいっぱいだ。この二つの地域にはシリア人がほとんどいない。ここでは公立学校さえイラクの子どもばかりだ。私のいとこは今クディシーヤの学校に通っているが、クラスにいるのはイラクの子ども26人とシリアの子ども5人。時に信じ難い気がしてくる。ほとんどの家庭は蓄えに頼って暮らしているが、その蓄えは家賃と生活費ですぐに底をついてしまう。

ここに着いて一月も経たないうちに、他のほとんどの国のようにシリアもイラク人にビザを求めるようになるという噂が立ちはじめた。どうやら権力を持った我らのご立派な操り人形たちがシリアとヨルダンの当局と会い、イラクの人々にわずか2つだけ残された安全な避難場所、ダマスカスとアンマンを取り上げることに決めたらしい。この噂は8月末に流れ始めたが、つい最近、10月初めまでは噂にとどまっていた。今ではシリアに入国するイラク人たちは、シリア領事館か、一時滞在している国の大使館発行のビザを得なくてはならない。まだイラクに留まっているイラク人の場合は、イラク内務省からの許可も必要だという(まさにその内務省の私兵集団から逃げようとしている人々にとっては大変なことだ)。今流れている噂は、国境でビザを得るには50ドルかかるらしいというものだ。

ビザが必要になる前にシリアに入国したイラク人たちは、国境で1か月間の訪問ビザを受け取っている。その月が終わったらすぐにパスポートを持って地域の入国管理局に行く。運がよければ1〜2か月の追加ビザをもらえた。シリア領事館発行ビザの噂が始まった頃、初期の国境ビザが延長されなくなった。私たち家族は素晴らしいことを思いついた。ビザのごたごたが始まる前、そして私たちが更新しなくてはならなくなる前に国境検問所に行ってイラクに渡り、それからシリアに戻ってこよう―みんながやってることだ。そうすればいくらか時を稼げる―少なくとも2か月は。

9月始めの暑い日を選び、6時間かけて北部シリアの国境の町、カミシュリまで車で行った。おばとその息子も一緒だった―彼らもビザを延長する必要があったのだ。カミシュリにはヤーアルビーヤ という国境検問所がある。ここはもっとも楽な検問所のひとつ。イラクとシリアの国境がたった数メートルしか離れてないからだ。シリア領土から歩いて出て、イラク領土に歩いて入る―簡単で安全だ。

ヤーアルビーヤの国境警備局に着いた時、私たちの素晴らしいアイディアを何千人ものイラク人が同時に思いついたことがわかった―国境警備局へと続く列は果てしなく長かった。何百人ものイラク人が長い列に並び、パスポートにスタンプを押してもらい、出国ビザをもらうのを待っていた。私たちも列に加わり、待って、待って、待って・・・

4時間かかってシリア国境を出ると、こんどはイラク国境への列だった。この列はもっと長かった。 疲れきり、イライラしたイラク人たちの列の一つに私たちも加わった。「ガソリンを買うための列みたいだね・・・」いとこが冗談を言った。このあとさらに4時間、太陽の照りつける中を待ち、よちよちとわずかずつ前に動き続けた。列の先ではイラクに入国するためにパスポートにスタンプが押されるのだが、ある地点までくると、列の先頭も最後尾も見えなくなった。少年たちが列の脇を行ったり来たりして、水やチューインガムやタバコを売っていた。おばは、私たちの横を駆け抜けていこうとする少年の腕を捉え、「私たちの前にいったい何人くらいいるのかしら」と尋ねた。少年は口笛を吹き、数歩下がって様子を見て言った。「100人!1000人!」商売をしようと駆けていく少年は、ほとんどはしゃいでいるかのようだった。

私はひどく複雑な思いを持ちつつ列に並んでいた。故国を切望する思い、時たま妙な瞬間に襲ってくる一種のホームシックと、重苦しい不安との両方に捉えられていたのだ。もし再出国することを認めてもらえなかったら?そんなことは実際あり得ないことだけれど、でも、もし、そういうことが起きたら?もしこれがイラク国境の見納めだとしたら?なんらかの理由でイラクに入ることを許されないとしたら?イラクからの出国を決して許されないとしたら?

4時間の間、列に並んで、立ったり、かがんだり、座ったり、もたれかかったりした。太陽はどの人にも等しく照りつけた―スンニ、シーア、クルドのだれにも同じように。E.は、自分たち家族の順番を早くしてもらえるように、気を失ってみないかとおばを説得したが、おばは厳しい目で私たちをにらみ、かえって身体をしゃんと真っ直ぐにした。人々はただその場に立っておしゃべりをし、文句を言い、あるいは黙っていた。これもまた一種のイラク人の会合となった。悲しい物語を伝えあい、遠い親戚や知り合いについて尋ねあう絶好の機会だった。

順番を待っている間に、知り合いの2家族に会った。私たちは、ずっと音信不通だった友人のように挨拶をかわし、電話番号とダマスカスでの住所を教えあい、訪問する約束をした。一方の家族に23歳の息子のK.が欠けていることに気づいた。好奇心を抑えこみ、彼がどこにいるか聞くのをやめた。母親は私の記憶にあるよりも老けていたし、父親はずっともの思いに沈んでいるようだった。悲しみに沈んでいたのかもしれない。K.の生死を知りたくなかった。彼は生きていて、どこかでうまくやっていて、国境だのビザだののことなんか気にかけていないと信じるしかなかった。時には、知らないほうが幸せということが本当にある・・・

シリアの国境に戻ると、疲れ切り、お腹をすかせた大集団とともにパスポートを渡し、スタンプを押してもらうのを待った。シリア入管の職員は数十冊のパスポートを次々に持ち換え、名前を呼び、パスポートを手渡す際に辛抱強く顔を確かめた。「後に下がってください―下がって」。私たちのいた混雑するホールに声が響いた。誰かが倒れたのだ。倒れた人が引き起こされてみると、息子に付き添われ、杖をついて家族と一緒にいた老人だとわかった。

シリア国境から再入国し、 カミシュリへ行くタクシーに戻る頃には、自分たちは難民であるという事実を受け入れざるを得なくなっていた。私はインターネットや新聞やテレビで毎日難民について読んだり聞いたりする。推計で150万人以上のイラク難民がシリアにいると聞いて頭を振ったりする。私自身や自分の家族がそのうちの一人だなんてまったく思いもせずに。だって、難民ってのは、テントで寝起きして、飲料水ポンプも給水設備もない人たちじゃないの?難民は、持ち物をスーツケースじゃなくて袋で運ぶんでしょ?携帯もインターネットのアクセスもない人たちでしょ?生命がかかっているかのように、あと2ヶ月シリアに滞在できるスタンプが押されたパスポートを手に握り締め、自分の思い違いに気づいた。私たちはみんな難民だ。私は突然ただの番号になってしまった。どんなにお金持ちでも、教育があっても、快適に暮らしていても、難民は難民だ。難民というのは、いかなる国でも本当には歓迎されない人のことをいうのだ。自分自身の国を含めて・・・いや、特に自分自身の国で。

私たちが住んでいるアパートには他に二組、イラク人家族が住んでいる。上の階にいるのは北部イラクからきたクリスチャンの家族で、ペシュメルガ[クルド人の私兵組織]に村を追われたという。同じ階にはバグダードの家を私兵に取られてしまったクルド人の家族がいて、スウェーデンかスイスか、そういったヨーロッパの難民避難所に移住できるのを待っている。

私たちがスーツケースを引きずり、消耗しきって、心はみなばらばらになって、ここにたどり着いた初めての夜、クルド人の家族が代表を送ってきた―前歯が2本欠けた9歳の男の子が、ちょっと傾いだケーキを手にして言った。「 ぼくたちはアブー・ムハンマド家です。みなさんのお向かいです。ママが、もしなにか要ることがあったら、なんでも尋ねてくださいって。これがうちの電話番号です。アブー・ダーリアさんちは上の階に住んでます。これが電話番号です。ぼくたちはみんなイラク人です・・・この建物にようこそ」

その夜私は泣いた。長い間で初めて、こんなに遠くくにから離れたところで、2003年以来私たちが奪われていた一体感を感じたからだ。

午前1時42分 リバー 

(翻訳:いとうみよし)

2007年9月6日 木曜日

我が家を離れて・・・

2ヶ月前、私たちはスーツケースに荷物を詰めた。私の一つきりの大きなスーツケースは6週間近くの間、寝室に置きっぱなしだった。着るものや身の回りのものをぎっしりと詰め込んだので、スーツケースを閉じるのに、お隣りの6歳の子とE.に手伝ってもらわないといけなかった。

このスーツケースに荷物を詰めるほど難しいことは、これまでほとんどやったことがない。まさに「ミッション インポッシブル」。「R君、さて今回の君の任務だが、30年近くの間に君がため込んだ品々を調べ、必要不可欠なものを決定することにある。この任務の困難な点は、選んだ品々を 1メートル×70センチ×40センチ の空間に収めねばならないところだ。このなかには、もちろん、君が今後数ヶ月着用することになる衣服や、写真、日記、ぬいぐるみ、CDなど、私的な記念品も含まれる」

荷物を詰めては中身を出すのを4回やった。中身を出すたびに、どうしても必要というわけじゃないものは排除すると自分に誓った。荷物を詰めなおすたびに、前よりたくさんの「がらくた」を付け加えてしまった。一月半経ったところでE.がたまりかねてやってきて、私がしょっちゅう中身を更新したくならないように、かばんをしっかり閉めてしまおうと主張した。

ひとり一つずつスーツケースを持っていくというのは、父が決めたことだ。みんなで準備しかけていた種々雑多な思い出の品々の入った箱を父が一瞥し、最終決定が下された。同型の大きなスーツケース4つを買った。家族のみんなにそれぞれ一つずつ。洋服ダンスから引っ張り出した5つ目のちょっと小さなスーツケースには、卒業証明や身分証明書類など、家族全員に必要な書類を入れた。

私たちは待って・・・待って・・・待った。6月中旬から下旬に出発する予定だった。その頃にはさまざまな試験もすんでいるだろうし、叔母と二人の子どもも一緒に脱出するつもりだったから、全員にとって一番都合がいい時期だと思ったのだ。最終的に「出発日」に決めたその日、2キロと離れていないところで爆発があり、外出禁止令が出た。旅は一週間延期された。次に旅立つ予定の日の前夜、私たちを国境まで乗せていくGMC[ゼネラルモーターズ社の車]を持っている運転手が旅を断ってきた。兄弟が撃たれて亡くなったのだ。再び、出発は延期となった。

6月の終わりごろ、荷造りしたスーツケースに座りこんで泣いてしまったような時もあった。7月初めになると、もう決して出発することはないだろうと確信していた。私にとって、イラク国境はアラスカの国境と同じくらいはるか遠くにあるんだと思い定めた。飛行機でなく車で脱出すると決めるまでに2ヶ月以上かかった。行き先をヨルダンではなくシリアに決めるのにもう1ヶ月かかった。出発日程を組みなおすのに、いったいどれだけかかるだろう?

一夜にして事態が変わった。おばが胸躍るニュースを電話で伝えてくれた。おばの近所に住む家族が、息子が脅迫されているので48時間以内にシリアに向けて発つというのだ。そして、別の車に乗って道をともにする家族を求めているという。ジャングルのガゼルと同じように、集団で旅をするほうが安全なのだ。それから二日間、あわただしく動き回った。もしかして先々必要となるかもしれないものが全部ちゃんとそろって荷物に入っているかチェックした。うちに家族ぐるみで住んでくれることになっている母の遠戚の人に、出発の前夜に来てくれるように打ち合わせた(他人に取られてしまうので、家を空けたままにして発つわけにはいかない)。

涙でいっぱいのお別れだった。旅に出る朝、おばとおじがさよならを言いにきてくれた。厳粛な朝だった。最後の2日間、私は泣かないようにずっと心の準備をしていた。私は言い続けた。泣かないわ、だって戻ってくるんだもの。戦争の前にモスルやバスラに行った時みたいなちょっとした旅なんだから、泣かないわ。無事に戻ってこれると自分自身に請合ったというのに、出発前の数時間、喉の奥には大きな塊がつかえたままだった。そんなつもりはないのに、目は赤くなり、鼻水が流れた。私はアレルギーのせいよと自分自身に言った。

出発前夜、私たちは眠らなかった。やっておかないといけないちょっとしたことがあまりにたくさんあるように思えたからだ・・・その上電気がまったくこないときた。地域の発電機は動かなかったし、「国家の電気」は絶望的な状態だった。眠るどころじゃなかった。

我が家で過ごした最後の数時間はぼうっと霞んでいる。旅立ちの時がくると、私は部屋から部屋へと歩いてなにもかもにさよならをした。高校から大学の間ずっと使っていた机にさよならと言った。カーテンとベッドとソファにさよならと言った。子どものころ、E.と二人で壊してしまった肘掛け椅子にさよならと言った。食事の時にみんなが集まり、宿題もやった大テーブルにさよならと言った。かつて壁にかかっていた額入りの写真の幻影たちにさよならと言った。額はもうとっくに壁からはずされしまわれているからだ。でも、どの写真がどこにかかっていたか、私は知ってる。いつもみんなが夢中で遊んだくだらないボードゲームにさよならと言った。アラブ版のモノポリーで、カードもお金も欠けているけれど、誰もが捨てるにしのびなかったものだ。

いまの私にわかっているように、その時だって、どれもただの物にすぎないってことはわかっていた。 人間のほうがずっと大切。だけど、一軒の家はひとつの歴史を伝える博物館のようなものだ。カップ一つ、ぬいぐるみ一つを見ても、思い出の詰まった一章が目の前に開かれる。私は突然、置いていってもいいと思えるものが自分で思っていたよりずっとわずかしかないことに気づいた。

ついに午前6時がきた。外にGMCが待つなかで、私たちは必要なものをかき集めた。熱いお茶を詰めた魔法瓶、ビスケット、ジュース、オリーブ(オリーブ?!)その他。オリーブを持って行こうと言ったのは父だ。おばとおじは悲しげに私たちを見守っていた。この表情をこれ以上何と言っていいかわからない。親戚や友人たちが国を去ろうとしているのを見て、私が目に浮かべたのと同じ表情だった。怒りを帯びた無力感と絶望感。どうしていい人たちが出て行かなくちゃいけないの?

いざ出発という時になって、私は泣いた―泣かないと約束したのに。おばも泣いた・・・おじも泣いた。両親は冷静でいようと努めていたが、さよならと言う時の声が涙で震えていた。いちばん嫌なのは、さよならを告げる時、この人たちと再び会うことができるだろうかと思うことだ。おじは、私が頭に被ったショールをしっかりとまきつけて「国境にたどり着くまではずしちゃだめだよ」ときつく忠告してくれた。車が車庫から出る時、おばが後ろから走り寄ってきて、鉢一杯の水を地面にぶちまけた。これは、古くからのしきたりで、旅人が無事に帰ってこられるようにと願って行うものだ・・・いつの日か。

旅は長く、単調だった。ただ、覆面をした男たちがやっている検問所が二つあった。男たちは身分証明を見せろと言い、パスポートをざっと見て、行き先を尋ねた。後続の車も同じようにされた。検問所は恐ろしかったけれど、私は視線を合わせないようにして質問に丁寧に答え、小さな声で祈りを唱えるのが最上の方法だと知っていた。母と私は念のため、宝飾品に見えるものを身に着けないよう気をつけていた。二人とも長いスカートをはき、ヘッドスカーフをかぶっていた。

ヨルダンを除けば、シリアはビザを持たない人々を受け入れている唯一の国だ。ヨルダン人は避難民に対して酷くあたるようになっている。多くの家族がヨルダン国境で送り返されたりアンマン空港で拒絶されるのを覚悟の上でヨルダンに向かう。たいていの家族にとってこれはリスクが高すぎる。

一緒にいた運転手が「コネ」を持っていたのにもかかわらず、何時間も待たされた。「コネ」というのは、彼が何度もシリアに行ったり来たりしていて、国境を無事に越えるには誰を買収すべきか、よく知っていたという意味だ。私は不安な思いで国境に留まっていた。バグダードを後にして1時間ほど経ったころから涙は止まっていた。汚れた街路、廃墟となったビルや家、煙の立ち込める地平線を見るだけで、より安全なところに行くチャンスがあることがどんなに幸運なことか、はっきりとわかったのだ。

バグダードの外に出た頃には、心はもう出発してしばらくの間のようには痛まなくなっていた。国境ではまわりの車に不安になった。いつ爆発するかわからない多くの車に囲まれているのが嫌だった。私の内のある部分はまわりの人たちの顔を観察したいと思った。ほとんどがふつうの家族だった。でも、私の別の部分、やっかいな事にかかわらないようこの4年間訓練された私は、目を上げないでと自分に言った。もうすぐ終わるのだから、と。

ようやく私たちの番になった。金が手渡されている間、私は車の中で身体をこわばらせて待った。パスポートを調べられ、ついにスタンプが押された。私たちは通過するよう誘導された。運転手は満足気ににっこりし、明るく言った。「楽な旅でしたね、アルハムドゥリッラー[神さまのおかげで]」

国境を越えて最後のイラク国旗を見たとき、涙がまた流れてきた。国境を越えている間、車の中ではだれもが黙っていて、脱出の物語の数々を語る運転手のおしゃべりだけが響いていた。隣に座っている母をそっと見ると、やはり涙を流していた。イラクを離れる際に言葉はひとつも出てこなかった。泣きじゃくりたかったけれど、赤ん坊のように見えるのは嫌だった。この4年半地獄のようになっていたところから抜け出せることを感謝していないと運転手に思われたくなかった。

シリア国境もほとんど同じくらい混雑していたが、ずっとリラックスした雰囲気だった。人々は車の外に出てストレッチしていた。お互いに気づいて手を振ったり、悲惨な話や噂話を車の窓越しにやりとりしている人もいた。なにより重要なのは、私たちはみんな平等だということだった。スンニもシーアも、アラブ人もクルド人も・・・シリア国境要員の前では私たちはみな平等だった。

私たちはだれもが難民だった―金持ちも貧乏人も。難民はみな同じように見えた。どの顔にも独特の表情があった。悲しみの混ざった、不安を帯びた安堵の表情。どの顔もほとんど同じように見えた。

国境を越えてから数分の間、心は極限に達した。安堵と悲しみがいちどきにどっと押し寄せて私を圧倒した・・・たった数キロ、たぶん20分くらい離れただけで、こんなにもはっきりと生と死が分かれるとは。

だれひとり見ることも触れることもできない国境が、車両爆弾や民兵や殺し屋集団と・・・平和と安全の間に横たわっているなんて。今も信じるのがむずかしい。ここでこの文を書きながら、どうして爆発音が聞こえてこないのかしらとふと思ってしまう。

飛行機が頭上を通過する時に窓がガタガタいわないのが不思議だ。黒装束の武装集団が今にもドアを破って入ってきて私たちの命を奪うのではという思いからなんとか抜け出そうとしているところだ。道路封鎖や早期警戒機[レーダーを取り付けた軍用機]やムクタダの肖像画などなどがない街路に目を慣らそうとしている。

車でほんのちょっと行った先には 、こういったものすべてがあるというのに。

午前0時6分 リバー

(翻訳:いとうみよし)

2007年4月26日 木曜日

万里の長城−隔離壁…

…現イラク政府が(アメリカ人の援助指導で)建設している壁のことだ。今やバグダードでの最大の「スンニ」地区とみなされている地域を分離し孤立させようと建設されている壁だ。−アメリカ人が何も築き上げていないとは誰にもいわせない。イラクの操り人形たちとアメリカ人たちがでっちあげたプランによれば、それはアーダミーヤ(現在のイラク政府と彼らの殺し屋集団がスンニ派イスラームを根絶やしにできなかった住宅・商業地域)を「保護」するのだそうだ。

もちろん、その壁は誰をも保護などしない。 私は時々、ヨーロッパで強制収容所が始まる時もこんなだったのではないかと思う。 ナチ政府はおそらくこう言っただろう「いいかい、私たちはこの小さな壁でユダヤ人たちを保護しようとしているだけなんだよ。これで、誰もこの特別地域に入って彼らに危害を加えることはできなくなるだろう!」と。 しかし、それはまた、そこから出られなくなるということでもある。

この壁はイラクの社会をもっと滅茶苦茶に壊すための最新の取り組みだ。 内戦を促進し、支えるだけでは十分ではなくなってきたようね。イラク人は、ムッラー(訳者注1)、アヤトラ(訳者注2)、およびヴィシーのリーダー(訳者注3)よりしぶとく骨があるということがほぼ証明された。壁が崩壊する前のベルリンや現在のパレスチナのように、今こそアメリカにとっては、物理的に分割して征服する時になった。このようにして、彼らは、「シーア派地区」からスンニ派を、「スンニ派地区」からシーア派を追い出し続けることができるというわけだ。
(訳者注1:イスラーム知識人への尊称)
(訳者注2:12イマーム派のイスラーム緒学を修めた知識人への尊称) (訳者注3:第二次世界大戦時にナチスドイツに協力したフランス政権。ここではイラクの傀儡政権のことを喩えている)

私は、イラク人の戦争支持者たちがいつも外国の首都のテレビでインタビューされるのを聞く(彼らは外国の首都という安全なところからでしかテレビに出ることができない。なぜって、誰かイラク国内で戦争支持であることをおおっぴらにしてみればわかることだわ)。 彼らは、彼らの宗教的に偏向した派閥政党がこのスンニ・シーアの抗争を煽っているということを信じようとしていない。この状況が戦争と占領によって起こされた直接の結果であることを彼らは認めようとしない。彼らはイラクの歴史についてべらべらとしゃべり、まことしやかにスンニとシーアがいつも争いあってきたかのように説明しているけれど、私にはそれが許せない。祖国を捨てて何十年もたつ一握りの国外居住者が、イラクに実際に住んでいる人々よりずっと知っているふりをしていることに、私は我慢ならない。

私は、戦争の前の、どこにでも住むことのできたバグダードを覚えている。隣人が何であるかなんて、知らなかったし、そんなこと誰も気にしなかった。誰も宗教や宗派について尋ねることはなかった。あなたはスンニかシーアかなどという、つまらない話題に誰も煩わされることなどなかった。そりゃ礼儀知らずで、時代錯誤なひとだったら尋ねたかもしれないけど。 でも、私たちの生命は現在そんなつまらないことに振り回されている。 私たちの生存は、尋問で止めたり、夜中に家捜ししたりする覆面の男たちのグループによって、それを隠したり、はっきりさせたりすることで決まってしまうのだ。

私的なことについてだけど、私たちはついに立ち退くことに決めた。今にしてみれば、私たちがしばらく離れることになるだろうと、私にはうすうすわかってはいた。 私たちは家族で何十回もそれについて議論した。 初めのころ、誰かがいつもおずおずとその話題を持ち出したものだった。なぜなら自分の家や親類縁者から離れて祖国から去っていくなんていうことは、全くばかげた考えだったから−何をしに?どこへ?

去年の夏以来、私たちはそのことについて議論し続けてきた。提案されたことが、すぐに具体的な計画に固まっていくのは時間の問題に過ぎなかった。 ここ2、3カ月、それはもう手段の問題になっていた。 飛行機か車か?ヨルダンかシリアか?家族みんなで去るのか? または、まずは最初に私たち姉弟だけいくのか?

ヨルダンかシリアの後はどこへ? どちらかの国に入れたとしても、そこはどこか他のところへ行くための通過点にしかならないのはわかりきっている。どちらもイラク難民であふれているし、彼らは口を揃えて、仕事を得るのが難しいこと、居住権を手に入れるのはもっと難しいことを訴えている。 また、国境で追い返されるという「ちょっとした」問題もある。 何千というイラク人がシリアやヨルダンに入れてもらえていない、そして入国のための明確な基準もなく、決定はパスポートをチェックする国境警備隊の気まぐれに委ねられている。

飛行機が必ずしも安全というわけではない。バグダード国際空港への旅自体が危険だし、飛行機でシリアやヨルダンに到着しても入国が許可されないかもしれない。なぜシリアかヨルダンなのかと思われるかもしれないけど、ビザなしでイラク人を受け入れてくれるのはこの2つの国しかないからだ。バグダードで機能しているわずかな大使館や領事館に、ビザ発給を求めることは不可能以前の話だ。

それで、私たちは忙しくしている。 私たちの人生のどの部分を後に残すかを決めようとすることに忙しくしている。 どの思い出がなくても済むのか? 多くのイラク人と同じく私たちは、着るものだけ背負って他に選択の余地がないような典型的な難民ではない。私たちが去ることを選択しようとしているのは、他の選択、つまり、ここに留まり、待ち続け、生き抜くことが、まさしく長い悪夢の継続にほかならないからだ。

一方で、国を去ってまだどこかわからないところで新しい生活を始めることはとても大変なことなのだから、小さな関心事などどうでもよくなってしまうだろうということは、私はわかってはいるのだけれど。 おかしいのは、私たちの生活はどうやら些細なことに占められているように見えること。 私たちは、写真アルバムを持っていくかどうかを議論している。 4歳の時から持っている私のぬいぐるみを持っていってもよいかしら? 弟Eのギターの余地はある?どんな服を持っていく? 夏服? 冬服も? 私の本については? CDや赤ちゃんの写真についてはどうかしら?

問題は、私たちはこれらの物を再び見ることができるのかどうかわからないということだ。家を含めて私たちが残すもの何でもが、いつか、もし帰って来たとき利用可能なのかどうかわからない。 ばかものが侵略しようと思いついたという、ただそれだけのために、国を去らなければならなくなるほどの不正義が、すべてを飲み込んでしまう時もあるのだ。私たちが、生き残って普通の生活をするために、家や、家族の生活の痕跡や友人を後にしなくてはならないなんて不公平だわ・・・そして何に向かって?

自動車爆弾と私兵集団か、それとも、確実なものが何もない未来のどことも知れない場所に、なじみ愛しているものすべてを捨てて去っていくか、どちらがより怖しいかを判断するのはむずかしい。

午後5時03分  リバー

(翻訳:ヤスミン植月千春)

2007年2月20日 火曜日

マーリキーの態度…

思ったとおり、レイプ疑惑はすべて嘘だとアル=マーリキーは主張している。 どうやら彼の部下はその警察官たちにサーブリーン・アル=ジャナービーを レイプしたかと無邪気に尋ね、彼らはやってないと答えたらしい。すべてが明らかになって何と嬉しいこと。

["Car Bombs Kill 11 Across Baghdad" というAP通信の2月20日付記事より一部抜粋]

「一方で、ヌーリー・アル=マーリキー首相は、シーア派が牛耳っている警察の3人の警官たちにレイプされたとスンニの女性が証言した後、スキャンダルを鎮めるために迅速に動いた。

警官たちの味方をし、証言が信用できないとしてしまおうとする政府の態度は、大衆の一層激しい反発をもたらす恐れがある。

アル=マーリキー政権は、「ある政党」(おそらくスンニの政治家たちの)が、先週から実施しているバグダードの治安作戦における治安部隊の妨害を企てるために、その主張をでっちあげていると非難する声明を出した。その声明が出されたのは、月曜日の夜にアル=マーリキーがその事件の調査を命じたほんの何時間か後のことだった。

その20歳の既婚女性は、武装勢力を助けたという理由で、日曜日に西バグダッド近隣のアミールで警察の特殊部隊に拘留された後に暴行されたと言った。彼女は警察の駐屯地に連れて行かれてレイプされたと証言した。

「診察の結果判明したことは、その女性は全くどんな性的な暴行も受けておらず、また、 治安機関が発行した彼女に対する3通のれっきとした逮捕令状があるということである。」 と政府は声明を出したが、詳細には触れていない。

「疑惑が誤っていると立証された後、首相は告発された警官に褒章を与えるように命令した」 とあるが、ここでも詳しい説明はされていない。」

私はマスメディアが憎い。イラク政府が憎い。彼らはこの暴虐非道な行為を、スンニとシーアの泥沼の争いという、まったくちがう話にすりかえてしまっている。サーブリーンがスンニとシーアのどちらなのか、(アル=ジャナービーの部族はスンニ、シーア両方で構成されている)あるいはアラブとクルドのどちらなのか、といったことが問題であるかのように。 マーリキーは、女性をうそつきに仕立て上げただけではなく、彼女が告発した警官に褒章を与えている。まったく言語道断、怒りでいっぱいだ。

この状況下で−いえ、どんな状況にしろ−イラク人の女性であれば、間違っても公にレイプされたと主張したりなどしない。 あまりにも多くの危険が存在するからだ。 社会的に疎外されるというリスクがあり、また、部族間で果てしない復讐の殺し合いが始まるリスクがある。公衆の面前に出てきて、この種のことについて話すことは大変なタブーであり、恥ずべきことなので、彼女と彼女の夫は、彼らの評判にリスクを負うだけでなく、生命の危険を冒すことになるのだ。

バグダードの治安活動を弱体化させるためだけに、誰もこのような嘘はつかない。 そんなことは、単にこの1〜2週間に何十人の人が死んだかを数えてみればいい。あるいは、無実の人たちが大量に拘束されていることを書くとか、人々がイラクやアメリカの部隊が盗んで行かないように、再び彼らの貴重品をどのように埋めているかに関して書けばよい。

サーブリーンが証言してから彼女が訴えた人々にマーリキーが褒章を与えるまでは14時間たらずだった。 14時間で、マーリキーは彼らの無実を立証しただけでなく、彼らを彼自身の個人的な英雄に仕立て上げた。マーリキーが彼自身の妻と娘の安全を彼らに委ねることができるのか、私は疑問に思うけど。

このことは他の拘束された人たちの勇気をくじくことになる、特に自ら名乗り出てイラク軍やアメリカ軍を糾弾する女性 たちを。もし彼の傲慢で酷薄なやりかたで、イラクの人たちの頭からこのことを消し去ることができると考えているのなら、 マーリキーは世界中で一番馬鹿な男だ(もちろんブッシュの次にだけど)。彼がこんなやり方を続けていくことによって、 彼の支配、彼の政府の下では、自警団で正義を守っていくしか方法がないのだということが、ますます明白になってきている。どうして治安部隊や警察に任せなくちゃならないの?私兵やギャングを雇ってかたを付ければいいじゃない。もし、彼がいくらかでも彼女に正義を見せないのであれば、彼女の部族はいやおうなく..ということになるわ。ジャナーバート(アル=ジャナービー)の部族はなかなか侮りがたい勢力よ。若いイラク女性をレイプすることは、今日のイラクにおいては、少なくともまだとんでもないことなんだというふりだってマーリキーはできるでしょうに。

午後3時39分 リバー

(翻訳:ヤスミン植月千春)

サーブリーンのレイプ...

最近、ブログするエネルギーと決意がなかなかわいてこない。 イラクの状況を考えるだけで消耗し落ち込むからだろうと思う。 でも、今夜は書かなくてはならない。

これを書いている今、チャンネル4(ナイル衛星放送で見られるMBCのチャンネル) では、借金から抜け出す方法をオプラ[トークショーの司会者]がアメリカ人に 教えている。スタジオを埋める、見るからに買い物しすぎてるアメリカ女性たち に対して、ブランド品をもっと減らしてもやっていけるとゲストが話している。 収入と財産をいかに増やすか、彼らがしゃべっている時、アル=ジャジーラでは 若いイラク女性のサーブリーン・アル=ジャナービーが、イラク治安部隊に家から 拉致され、レイプされたと語っているのだ。視聴者には彼女の目しか見えない。 彼女の声はかすれ、上ずったり詰まったりする。ついに彼女はもうこれ以上話せない とレポーターに告げ、恥ずかしさのあまり目を覆ってしまった。 

彼女は誰よりも勇気あるイラク女性かもしれない。アメリカ軍とイラク治安部隊が 女性たち(男性たちも)をレイプしていることはみんな知っている。でも実名で このことを世間に明らかにしたのは、彼女が最初ではないだろうか。彼女が自分の 身に起こったことを語るのを聞くと、私の心は痛む。彼女をうそつきという人も いるだろう。他の人たち(戦争を支持するイラク人も含む)は彼女を売春婦と 呼ぶだろう―あらかじめ言っておく。恥を知れ。

サーブリーンを誘拐するとき、どんな口実を使ったのだろうか。たぶん彼女は 「テロリスト容疑者」といういつもの見出しでやつらが拘束する何千人もの人々 の一人なのだろう。CNNやBBCやアラビーヤの字幕で「イラク治安部隊が暴徒を 13人拘束した」と出たうちの一人だったかもしれない。彼女をレイプした男たち は、ブッシュとコンディがあんなに自慢しているあの治安部隊、つまり、アメリカ 人に訓練された人々なのだ。これはアメリカのイラク占領ドキュメンタリーをひも とけばすぐに見つかる章。レイプされ、殺され、両親と妹たちとともに焼かれた 14歳のアベールのことを語る章だ。

やつらは、バグダード南部のハイ・アル=アミルという地域にある家から彼女を 誘拐した。ギャングなんかじゃない。イラク平和維持隊か治安部隊。アメリカに よって訓練されたやつらじゃないの?どういうやつらか知ってるでしょ。彼女は 残酷に集団レイプされ、今そのことを語っている。彼女は、安全のためかプライ バシー保護のため、顔を半分隠している。彼女が語ったことをここに翻訳してみる。

「私は『私は何も持ってない(私は何もしてない)』とその人に言いました。彼は『何も持ってないって?』と言いました。ひとりの男が私を地面に投げつけ、私はタイルで頭を打ちました。彼はそのことをやりました―つまり、私をレイプしました。次の男が来て、私をレイプしました。3人目もまた私をレイプしました。(間―すすり泣く)私は彼らに頼み、叫びました。すると、一人の男が私の口を覆いました。(不明瞭、泣く)別の男が来て言いました。『終わったか?おれたちも番を待ってるんだ』すると彼らが言いました。『だめだ、アメリカ人の委員が来た』。彼らは私を裁判官のもとに連れて行きました。

キャスター:サーブリーン・アル=ジャーナビーは、治安部隊のひとりが彼女のビデオ/写真を撮り、レイプのことを人に話したら殺すと脅したと語っています。彼女が調査官に会ったあとで、また別の将官が彼女をレイプしました。

サーブリーンは続ける。
「男たちの一人が言いました…私は彼にこう言ったのです。『どうか―あなたのお父様とお母様にかけて―私を放してください』彼は『いや、いや。母親の魂にかけて、おまえを放してやるさ。ただし条件がある。お前がたった一つこっちにくれさえすればね』と言いました。私は『何を?』と尋ねました。彼は『レイプしたいのさ』と答えました。私は『だめ―できません』と言いました。すると、彼は私を武器のある部屋に連れて行きました・・・そこには武器、カラシニコフがあり、小さなベッドが(不明瞭)、彼は私をそこに座らせました。それから(将官が来て)彼に言いました。『この女を置いていけ』。私はクルアーンにかけて誓い、言いました。『預言者の光にかけて、私はそのようなことをしません・・・』。彼は言いました『そのようなことをしないって?』私は答えました。『はい』。

  (泣く)彼は黒いホースを持ち上げました。管のようでした。それで腿をぶたれました。(泣く)私は言いました『私になにをしてほしいというの?レイプしてと言えというの?私にはできないわ・・・私は***(売春婦)じゃないもの。そういうことはできないわ』。すると彼は『俺たちは欲しいものを取る。欲しいものでなければ殺す。それだけだ』と言いました。(すすり泣く)もうこれ以上話せない・・・ごめんなさい。最後まで話せません」

この女性を見て、激しい怒りのほか何も感じることができない。私たちはいったいなにを得たのだろう。私は知っている。外国人が彼女を見ても、決してわが身に引き寄せて感じることはできないだろう、ということを。彼らは気の毒だと思うだろうし、少し怒りを感じるかもしれない。でも、彼女は私たちの仲間で、彼らの仲間じゃない。彼女はTシャツとジーンズに身を包んだ少女ではないから、彼らはせいぜいぼんやりとした同情を感じるだけだろう。かわいそうな第三世界の国々―女性たちはこんなことに耐えている、と。以前は決してこんなことに耐える必要がなかったことを知ってほしい。イラク人が路上でも安全でいられたときがあったのだ。もうずっと前のことになってしまったけれど。戦争の後、私たちは、少なくとも家にいればしばしの間安全だと慰めあった。家庭は聖域、じゃなかった?もうそんなこともなくなってしまった。

彼女は、自分自身の家やイラクの刑務所で暴行された数十人、あるいは数百人のイラク女性の一人にすぎない。彼女は私のいとこに似ている。友達に似ている。たまに道で会うと立ち止まって噂話をした隣人に似ている。彼女を見るイラク人はみんな、彼女のうちに、いとこを、友達を、姉妹を、母を、おばを、見るだろう・・・。

来月3人のイラク女性の処刑が予定されていることについて人道機関が警告を発している。ワッサン・ターリブ、ザイナブ・ファディル、リカ・オマル・ムハンマドの3人だ。いずれも「テロリズム」の罪に問われている。つまり、イラクレジスタンス組織とつながりがあるということ。これは、彼女たちが、レジスタンスに加わっていると疑われる人物の親戚かもしれないという意味だ。あるいは、彼女たちがたんに悪いときに悪いところにいただけのことかもしれない。一人は刑務所で出産した。彼女たちがどんな拷問に耐えたのだろうと思う。アメリカの占領下でイラク女性は少なくとも“ある程度は”平等だったなんて、誰にも言わせない―いまや男性と同じように処刑されるほど平等なのだ。

そしてまた、国内や国外にいるイラク人とイラクにいるアメリカ人、どちらにとっても状況は悪化し続けているときに、アメリカにいるアメリカ人はいまだに戦争や占領を――勝ったのか、負けたのか、良くなったのか悪くなったのかと討論している。

ぐずぐずと問い続けているあらゆる馬鹿者たちのためにはっきりと言おう:状況は悪くなった。もうおしまい。あなたの負け。あなたが持ち込んだ、アメリカじこみの猿どもの歓呼を受けて、戦車でバグダードに乗り込んだ日に、あなたは負けた。兵士が陵辱したすべての家族を、あなたは失った。アブ・グレイブでの写真が公表され、私たちが目の当たりにしている、この路上で繰り広げられた残虐行為が、収容所の壁の向こうと同じだと実証されたとき、勇ましく、まっとうなイラク人をあなたは失った。殺人者を、略奪者を、無法者を、そして暴力団の親分たちを権力の座につけ、イラクの最初の民主政府として彼らを迎えたとき、あなたは負けた。身の毛のよだつ処刑を最も偉大な達成と称したとき、あなたは負けた。かつては持っていた敬意と評判を失った。3000以上の兵士を失った。それがアメリカが失ったもの。せめて石油がそれだけの価値あるものであったと願いたいものだ。

午前1時9分 リバー

(翻訳:伊藤美好・金克美)

2006年12月31日 日曜日

リンチ(私刑)...

公式発表。マーリキーとその一派はサイコパス[破壊的に精神に異常を来した危険な人物のこと]だ。これは本当に類をみない卑劣なことだ。イード[イスラームの祭]期間中の処刑執行など常軌を逸している。世界中(イランは除くけど)のイスラーム教徒は激怒している。イードは平和な時だ。少なくともイードの間くらいは口論や怒りなどは脇においておくものだ。

これは来るべき年が良くないことの予兆だ。実際、狂ったやつらが聖日の期間中にこんなことをするなんて誰も想像していなかった。それは宗教的に容認できることではないという以前に憲法違反だ。私たちは少なくとも何日間かの平和と、新年と同時のイードの休日を楽しむことができると思っていた。 私たちは聖なる休日の最初の2日間を汚らわしい私刑の場面を見ることに費やせられたのだ。

救世主アメリカ…およそ4年経って、ブッシュがイラクでしてきた一番の業績はリンチだったってわけね。ブラボー、アメリカ人たちよ。

マーリキーは彼の生涯の誤りを犯した。特にイード・アル=アドハー(何百万ものムスリムたちがメッカへの聖地巡礼をする)の最初の日の、彼の署名とこの処刑全てにわたって見せたおおっぴらな喜びようは、彼のすでにボロボロになっている評判にますますダメージを与えるだけでは済まなくなるだろう。彼はまるでスーツを着たハゲタカ(そうでなければ、頭のはげかかったイタチ)のようだ。それにはほとんど恥ずかしくなってしまうくらいだ。彼が死刑執行文書に署名している時に口の端から流れ出るよだれを、今にもムワーファク・アッ=ルバーイが駈け寄って拭くのではないかと私は思った。こんな人たちが新生イラクを代表する人たちなの?私たちはこれまで考えた以上に大変な窮地に立たされている。

BBCが報道しているようなお祝い騒ぎはまったくない。 少しの地域を除いて通りには人影も見えない。 さてCNNはどうか。CNNのジャーナリストたちよ、怠慢に恥を知るがいい。処刑についての話を書くのであれば、最低限最期の言葉くらい正確にしてほしいものだわ。あなたがたの記事は世界中で読まれていて、参照されるものとして将来にわたって歴史に残るのよ。世界最大のネットワークなんだから、マシな翻訳者を雇うくらいのことぐらいできるでしょ。以下の記事によれば、サッダームの最期の言葉は「ムクタダ・アッ=サドル」だとムニール・ハッダードは主張しているようだけど、それは間違いよ。少なくとも、テレビで映していたそのところを見さえすれば、誰にだってそれがわかるわ。

「目撃者であるイラク人裁判官のムニール・ハッダードによれば、死刑執行人のひとりがフセインに対して、元独裁者であるあなたがイラクを破壊したのだと言ったところ、それがきっかけになって部屋にいた何人かの政府の役人が参加した口論に火がついた。

そしてフセインの首の周りにロープが締められたとき、死刑執行人のひとりが“ムクタダ・アッ=サドル万歳”と叫んだとハッダードは言う。強力な反米のシーア派の宗教指導者のことである。

ハッダードの説明によれば、スンニであるフセインは死ぬ直前に、バカにした調子で“ムクタダ・アッ=サドル”と最期の言葉を発した。」

リークされたビデオでは、「ムクタダ・アッ=サドル万歳」と大声で言ったのは死刑執行人ではなかった。どう、これがマーリキー政権のもうひとつの救いようのない下劣さよ。彼らは自分たちに好都合な野次馬たちを処刑の場に居合わさせていたのよ。マーリキーは、彼らは「裁判の証人たち」だと主張したけど、彼らは明らかに野次るための人間だった。 サダムの首の周りに輪縄が巻きつけられるとすぐに、彼らは唱和し始めた。「モハンマドと彼の家族の上に神のご加護あれ...」その他うまく聞き取れなかったけれど(でもとても組織的だった)、続いて「ムクタダ、ムクタダ、ムクタダ!」と。彼らのひとりがサッダームに大声で叫んだ。「地獄へ行け…」 (アラビア語で)。サッダームは軽蔑して下を向いて言った。「ヒヤ ハイル マルジャラー…?」 「それがおまえの男らしさか?」というような意味だ。

少しは心ある者が野次る者に叫んだ「頼むよ、お願いだ、この男は処刑されようとしているんだ!」わずかに静かになり、そしてサッダームは立って言った「アシュハドゥ アッ ラー イラーハ イッラッラー、ワ アシュハドゥ アンナ ムハンマダン ラスールッラー…」これは「アッラー以外に神はなく、モハンマドは神の使徒であることを証言します」という意味だ。これらはイスラーム教徒(スンニ派もシーア派も同様に)が死に際して 言うべき言葉だ。もう一度とてもはっきりとこれを繰り返したけれど、言い終わる前に彼は殺された。

だから、CNNは間違っているわ。彼の最期の言葉は、馬鹿にした調子の「ムクタダ・アッ=サドル」ではなかった。ただの想像なんだから誰か訂正しなくてはだめよ。(あなた方、この記事を書いた6人の人たちに言ってるのよ!)

あるいはまた、間違った情報を彼らに与えたのは裁判官のほうだったということができるかもしれない。 イラク上訴法廷の判事、処刑命令を承認した判事団の一人ということになる。アメリカが後見している判事団は絶対に嘘をつかないと誰もが思ってるんだから−それでCNNの混乱を説明できるわね。

ムワーファク・アッ=ルバーイは「サッダームは弱々しく怯えていた」と言った。 ルバーイは違う私刑を見たらしい。なぜなら、リークされたビデオによれば、彼は全く怯えていなかったもの。彼の声は震えてなどいなくて、黒い覆面を被るのを拒否した。 彼は、運命を享受しているように見え、野次られている時には相変わらず挑戦的に見えた。 (昨年、アメリカ人に家を襲われたときにムフスィン・アブドゥル・ハミードの見せた有名なヒステリー発作と対照的だわね。)

ひとつ、私兵集団を人殺しに参加させること。これが言わゆるアメリカ人の誇る民主主義だ。私たちはこれほど血に飢えた恐ろしいものになってしまったの?これがいまのイラクを表しているということなの?処刑?他のアラブ諸国にさぞ感銘を与えることでしょうね。

世界で最も進んだ国のひとつは、イラクを再建するのを助けもせず、ちゃんとした憲法を作ることすら手助けしなかった。それどころか、彼らはとてもうまくでっちあげ裁判と私刑に貢献したわ。リンチはアメリカのイラクでの最も大きい業績として歴史に残されるだろう。そして次は誰? 何千・何百という誰が、この戦争と占領の直接の結果として死んだ何十万もの人びとのために誰が絞首刑になるの?ブッシュ?ブレア?マーリキー?ジャファリ?アラウィー?チャラビ?

間違いなく2006年は、マーリキーと彼の政府で象徴される。今までになかったほどの人殺しとリンチでのしめくくり。いたるところ死と破壊に満ちている。わたしはもうこれらすべてに疲れ果ててしまった...

リバー 午後10時12分

(翻訳:ヤスミン植月千春)

2006年12月29日金曜日

また一年が過ぎ去っていく・・・

こんなことがあれば、自分の国が深刻な問題に見舞われているとわかる。たとえば・・・

1. 国連が無秩序と流血状態をただ見守るだけの特別な部門「国際連合イラク支援ミッション(UNAMI)」を設置しなければならないとき。
2. 上記の部門が自分の国の指揮で運営されていない。
3. このひどい状態に国を追いやった政治家たちは、もはや国境の内にも国境近辺にもいなくなっている。
4. 米国とイランの一致できる唯ひとつの意見が、この国の状態が悪化しているということ。 5. 8年戦争(注:イラン・イラク戦争)と13年間の経済封鎖がこの国の「黄金時代」のように思えてくる。
6. 国は1日に2百万バレルの油を「売っている」らしいのだけれど、発電機のためのガソリンを買うために闇市で4時間も立ち行列して待っている。 7. 5時間ごとに1時間だけ電気がつくっていう状況なのに、さらに政府はそれさえ切り詰めると通告している。
8. 戦争を支持していた政治家たちはテレビ討論で、これは「宗派抗争」か「内戦」なのかということに時間を空費している。
9. 2週間行方不明であった親類の遺体の身元確認が実際にもしできるなら運が良いと人々は考えている。

平均的イラク人の1日の生活は、遺体の身元確認や、自動車爆弾を避けることや、監禁されたり、追放されたり、誘拐されたりしている彼らの家族たちを探すことだけに明け暮れている。

2006年は、はっきり言ってこれまでで最悪の年だった。間違いないわ。このすさまじい戦争と占領は、目下この国を全力で叩きのめしている。ここに大きな固く乾いた地面があって、それを粉々にするようなことを想像してみて。地面を穿つ最初のくさびの役割を果たすのがミサイルや最新の軍事技術で、これらが経済基盤を破壊することによって最初の裂け目ができる。次に幾つかもっと小さなくさびとして働くのが、チャラビやアル=ハキーム、タラバーニー、パチャチ、アラウィー、そしてマーリキーなどの政治家たち。裂け目は徐々に数を増し、固かった地面を横切って伸び、沢山の骸骨の手のように地面の端に向かって伸びていく。圧力をかけ、あらゆる方角から囲んで押したり引いたりすると、ゆっくりと、しかし確実に、あちこちで大小のかけらとなってバラバラになり始める。

それがいまのイラクよ。アメリカ人たちはとてもうまく粉々にしたわ。それがはなっからの計画だったんだと、ほとんど誰もがこの一年で確信するようになった。彼らには、単なる失敗だったというには、あまりに失敗が多すぎた。「間違い」で済ませるにはあまりに凄まじい破壊だった。ブッシュ政権が選んで支持し登用した人たちは、誰の目にも明らかにひどかった−詐欺師で横領チャラビから、テロリストのジャファリ、私兵を率いたマーリキーまで。イラク軍を解体したり、憲法を廃止したり、そして私兵集団にイラクの警備を任せるなどと決めたことはあまりに不利なことで、これを意図的と言わずしてなんと言うのだろうか。

今の疑問は、でも何故?ということ。この数日間わたしは自問自答してきた。イラクをここまで痛めつけて一体アメリカは何を得るというのか?この戦争と占領は大量破壊兵器だとかサッダームが現実的な恐怖があったからだとかいまだに信じているのは錯乱したばか者たちだけに違いない。

アル=カーイダ?笑わせるわ。オサーマが遠くアフガニスタンの山々の中の10ものテロリストキャンプで育成できただろうテロリストたちより、もっと多くの者たちをブッシュはこの4年間で効果的に生み出したわ。わたしたちのところの子どもたちは、今では「狙撃兵」や「聖戦戦士」ごっこをしてアメリカ兵の眉間を撃ったり軍用ジープを転覆させて遊んでいるもの。

この年は特に転換点だった。ほとんどのイラク人が多くのものを失った。本当に多くのものを。この戦争と占領によって私達が喪失したものを言い表すことなんて不可能だわ。毎日40体ほどの、切断され腐敗した様々な状態の遺体が見つかっていると知っていることから湧き上がってくる気持ちを言い表せる言葉なんてありはしない。イラク人ひとりひとりに覆いかぶさっている恐怖の黒く厚い雲を埋め合わせてくれるものなんてありはしない。手に負えなく怖しいものは、名前が「スンニ的」か「シーア的」かなんて馬鹿げたことで区別されること。もっと恐ろしいもの−戦車に乗ったアメリカ兵、地域をパトロールする黒いバンダナに緑の旗を持った警察、検問の黒い覆面をしたイラク軍兵士。

もう一度、自らに問いかえさざるを得ないのだけど、なぜこのようなことすべてが起こったのか?修復できないほどにイラクを破壊した理由は何だったのか?イランだけが得をしたように見える。イラクでのイランの存在はとても確固としたものになっていて、聖職者やアヤトラを表立って批判しようものならそれは自殺行為だ。状況はもはやアメリカの力を超えて、修復不可能なところまで行ってしまったのだろうか?それともこれは最初からの計画の一部?考えるだけて頭が痛くなってしまうわ。

今一番わからないのは、なぜ火に油を注ぐようなことをするのかということ。スンニとシーア穏健派は南部の大きな都市や首都から追い出されつつある。バグダードはシーアが立ち去ったスンニ地域と、スンニが立ち去ったシーア地域とに引き裂かれていっている−ある地域は脅迫のもとで、またある地域は襲撃の恐怖のうちに。人々は検問で大っぴらに銃撃されたり、ゆきずりの車から撃たれて殺されていっている...多くの大学では授業を中止した。何千人ものイラク人たちはもはや子供たちを学校にやってはいない−安全ではないからだ。

なぜ今サッダームの処刑を主張して事態を悪化させるのか?サッダームを絞首刑にして誰が得をするのか?イランよね、当然。だけど他には誰?この処刑がイラクを打ち砕く最後の一撃になるのではないかと私は本当に怖い。あるスンニとシーアの部族は、もしサッダームが処刑されたら、アメリカ人に対して仲間を武装させるぞと脅した。一般的にはイラク人たちは次に何が起こるか注意深く見守っていて、最悪に対して黙って準備している。

サッダームはもはや統治者でもなければ何者でもないというのに、やはり今だからやるのだ。アメリカの執拗な戦術的プロパガンダによって、サッダームはいまや全スンニアラブ人の代表となっている(彼の政権の殆どがシーアだったことは無視して)。アメリカ人たちは、演説やニュース記事そしてイラクの操り人形たちを通じて、彼が占領に対するスンニアラブ人の抵抗勢力を象徴していると主張してきた。基本的には、この処刑によって、アメリカ人たちが言っていることは「見よ、スンニアラブ人たちよ。これがおまえたちの首領(おかしら)だ。すっかりわかっているぞ。我々は彼を絞首刑にする。おまえらの運命も同じだ。」とこういうことだ。間違えないで欲しい。この裁判と判決、そして処刑は100%アメリカのものだということを。何人かの登場人物たちはまあイラク人だけれども、制作、監督、編集は正真正銘のハリウッドよ(安物のね、いっとくけど)。

だからこそ、もちろん、タラバーニーは死刑判決に署名したくなかった−ならず者が突然改心したわけでもなく、絞首刑にした責任をとりたくなかっただけのことよ−署名しても、はるか遠くまで逃げおおすことなどできないだろうから。

マーリキー政権は喜びを隠し切れなかった。彼らは実際の法廷に先んじて処刑承認を発表した。数日前の晩のことだけど、あるアメリカのニュース番組がマーリキーの事務局長であるバシーム・アル=ハッサーニーにインタビューしていた。彼はアメリカ英語訛りで来るべき処刑のことをカーニバルに参加するような口調で喋っていた。彼は品がなく、とんでもないばか面で座り、彼の会話は「'gonna', 'gotta' and 'wanna'」(注:アメリカ英語で通俗的な発音の仕方)..で散りばめられていた。つきあってるのがアメリカ兵たちばかりだと往々にしてこうなるのよね。

ただ一つ確実に言えることは、アメリカ人たちはイラクから撤退したがっているのだけれど、本格的な内戦にしてから出たいのだろうということ、なぜなら、もし撤退して状況が実際に良くなってきたりしたらかっこ悪いから、違う?

ここ2006年の終わりにきてわたしは悲しい。国の状況のためだけに悲しいのではなく、私たちのイラク人としての人間性の状態のために。わたしたちはみんな、4年前に私たちが誇りにしてきた思いやりや礼節を失ってきている。わたし自身を例にとってみると、4年ほど前には、アメリカ兵の死を聞くたびにわたしは身を縮める思いをしていたものだった。彼らは占領者ではあるけれど、彼らもまた人間で、彼らがわたしの国で殺されていっていることを思うと眠れぬ夜を過ごしていた。彼らは海を越えてこの国を攻撃しに来たのだから気にすることはないのだけど、実際に同情していたのだ。

わたし自身のこういった気持ちをまさにこのブログに書きつづっていなかったならば、かつてわたしがそんな気持ちでいたことがあったなんて信じられなかっただろうと思う。今では、かれらは単なる数字でしかない。この4年近くの間に3000人のアメリカ人が死んだ?本当?それはイラク人の1ヵ月の死者数にも満たないじゃない。アメリカ人には家族がいた?それはお気の毒さま。わたしたちもおんなじよ。道端の遺体や遺体安置所で身元確認を待っている遺体たちもね。 今日アンバールで死んだアメリカ兵の命はわたしの従兄弟の命よりもっと大切だって言うの?わたしはそうは思わないわ。従兄弟は6年もの間思い続けてきた女性と婚約したまさに先月のその夜に撃ち殺されたのよ。

アメリカ人の死者数の方が少ないからといって、アメリカ人の死の方がより重要だってことにはならないわよ。

午後1時 リバー

(翻訳:ヤスミン植月千春)

2006年11月5日 日曜日

なにもかもだめになったら・・・

・・・独裁者を処刑せよ。すごく単純な話。アメリカ兵が何十人と 束になって殺されているならば、占領した国がもっと小さな国々に 分裂するおそれがあるならば、私兵集団と暗殺部隊が通りをうろつ き、宗教指導者たちの集団が権力を握っているならば―独裁者を処刑せよ。

裁判の初日から、だれもがこの判決を予想していた。最初の裁判官で いけば、イラク国民が弁明を聞いて真相を知ることができるような、 まともな審理が行われるかもしれないと、みんなちょっと思ったのだ けど。そんな考えは、検察側が最初に出してきた偽の証人で消え失せ た。そのあとに起きたことは、あまりにもばかばかしい。今でも信じられないくらい。

弁護人や被告人が立ち上がって話し始めようとすると、決まって音声が突然 聞こえなくなってしまった。私たちに証人の声は聞こえたけれど、その姿を 見ることはできなかった―証人はカーテンの陰に隠れ、声も変えられていた。 ドゥジャイル事件で亡くなったはずの人たちが元気に生き返って証人として現れた。

裁判官が次から次へと換えられた。どの裁判官も公平すぎるとみなされたから だ。彼らは被告人にただちに刑を宣告しなかった(メディア対策のためだけだ としてもね)。いちばんの見ものは最後に連れてこられた裁判官。こいつは、 チャラビとしか張り合えないほどの名声の持ち主だった。有名な詐欺師かつ殺 人者で、政治的糾弾を逃れるためではなく、父親が経営するレストランで盗み を働いたあと、父親の激怒を逃れようとして、イランへ逃亡していたのだ。

だから私たちはみんな結果を前もって知っていたってわけ(マリキなんて、判決 の24時間前にテレビに出て、国民に対して「喜び過ぎないように」って言って いた)。現時点で私が驚いているのは、今のイラク政府があまりにも愚かだって こと。タイミングがばかばかしい。米中間選挙の直前よ?ブッシュにとってなん て都合のいいことでしょう。現在のイラクは、侵攻と占領開始以来最悪の状態。 今となっては2003年4月がハネムーン月のように思える。今こそサダム処刑 にふさわしい時ってわけね? 

すごく心配だ。これがブッシュの最後の切り札なのだ。選挙がやってきて過ぎ 去り、過激主義者と盗人たちが権力を握った(いや、いや、ワシントンのこと じゃなくて、バグダードのことを言ってるのよ)。イラク人の血の流れる川で 溺れてしまったかのような憲法は、選挙のあとは忘れられてしまった。操り人形 のだれかが国をばらばらにしたいと思ったときだけ、憲法は掘り起こされる。 復興は、来世で望むことになってしまった。私たちは、もはやビルも橋も望んで いない。分割されないイラクと安全があれば、十分すぎるほど。もしブッシュが 「独裁者を処刑せよ」カードを使う必要があるのなら、事態は想像以上に悪化し ているに違いない。

この数十年、イラクの状況が今ほど悪いことはなかった。占領は失敗だ。親米、 親イランのイラク政府はどれもこれも失敗した。新しいイラク軍は救いがたい 冗談となっている。今こそサッダームを殉教者にすべき時ってわけね?なにも かもあまりにひどいので、占領を支持するイラク人でさえ、初期のころの「ウィー  ラブ アメリカ」という熱狂を翻しはじめている。ライス・クッバ(別名ナマ ズ氏。大きな口をしているのと、いつも馬鹿みたいに見えるから)は、最近BBC に登場し、これは正義の始まりにすぎない、現在人びとの殺害に関与している 者たちもまた、法の裁きを受けねばならないと言った。彼は、自分が戦争と占領 の支持者だったことや、残忍な親米政府の一員だったことを忘れているらしい。 けれども歴史はクッバ氏を忘れはしない。

イラクでは判決に反対したり賛成したりするデモが起きている。サッダーム支持 のデモはイラク軍に攻撃されている。 今のイラクのメディアがどんなに自由か、次のようなことが示している。 サッダーム支持のデモを取り上げたテレビ放送は閉鎖させられた。 イラク治安部隊が突然襲撃したのだ。新生イラクにようこそ。これは、 サラヒッディン放送とザウラ放送からの映像。


ザウラ放送。
字幕には「バグダード ザウラ衛星放送は政府の命令により放映を停止しました」とある。



サラヒッディンの緑色のスクリーンが突然現れた。「サラヒッディン衛星放送」

シャルキーヤ放送が次のようなニュース速報を伝えた。
サラヒッディン放送とザウラ放送が閉鎖されました。治安部隊が放送局を襲撃しました。

これはあの男ひとりの問題じゃない―大統領たちは職については去っていく。政府も成 立しては消えていく。これは、国全体が、そして、イラク国内や国外にいるすべてのイ ラク人が、アメリカの政治に翻弄されていると感じることへのいらだちだ。思いのまま に前に後ろに動かされるチェスの駒にされてしまったと感じることへの憤激だ。こんな にも国民が必要としていることが見えず、気にもかけない政府を持っていることへの腹 立ちだ。政府の連中は、気にかけているふりをすることすら必要と感じていないかのよ うだ。そして死。何千人もの死者と死に瀕する人たち。ブッシュがのうのうと座ってに やにや笑い、グリーンゾーンの外側にいるイラク人が一人残らず負けつつあるこの国に おける進歩だの、勝利だのと嘘を並べているときに。

もう一度言おう・・・なにもかも、タイミングは完璧だ。米中間選挙の2日前。もしこれ でもわからないのなら、悪いけど、あなたは馬鹿よ。さあ、次の演説でブッシュは何回 この判決を「成功」と言い立てるでしょうね?

最後に一言。亡くなった米兵の家族たちが「息子たち、娘たちが何のために命を捧げた のか」を知るためにイラク北部を訪れるというのをどこかで読んだところ。それが訪問 の目的なら、じゃあ、「紳士淑女のみなさま―右手に見えますのは、イラク石油省でご ざいます。左手にはドーリー精油所がございます…みなさま、このギフトバッグをお受 け取りください。中には、アッ=サイード・ムクタダ・アッ=サドル(彼に末永き生命 と繁栄がありますように)の3×3インチのカラーポスター、シスターニー師のTシャツ、 南イラクイスラム共和国を添えて書き直したイランの正確な地図が入っております。 また・・・ちょっと、あんた、ほら―後ろにいる女―そこに見えているのは髪の毛か?きち んと覆いなさい、さもなければ家に帰れ」

そう、彼らはこのために命を捧げたのよ。

午後8時25分 リバー

(翻訳:伊藤美好)



2006年10月18日 水曜日

ランセットの調査・・・

わたしがこんなに長いことブログから離れていたことはなかった。ブログを書けなかった理由はいくつかあるけれど、その大きいものは、わたしがイラクとその状況について書かなければという衝動を感じるたびに、他のイラク人も同じように感じていると思うけど、言葉にすることのできない、どうしようもない絶望感でいっぱいになってしまうということだ。

今の時点で、インターネットに接続して、いわゆる専門家やアナリストや政治家によって書かれた記事を読もうとするのは、ひどく難しい。彼らは、まるでわたしが象牙海岸やカンボディアについて書いたらこうなってしまうかしらというような調子で、イラクについて書いたり論じたりしている−無関心で感情の欠如した−公平性を保ってるつもりなんだろうけど。

アメリカ人政治家のものは、もっと悪い。彼らはいつも、決定的に現実から目をそらしているブッシュのような馬鹿者たちか、戦争やそれに続いて起こる大混乱に乗じてのし上がろうというご都合主義者たちのどちらかだ。

最近戦慄しているのは、この戦争が始まって以来60万人以上のイラク人が殺されたと結論づけているランセット誌の調査結果だ。それを読んでわたしは複雑な気持ちだった。一方でそれは妥当な数字のように思えた。ぜんぜん驚くようなことじゃないもの。もう一方で、それが誤りであってくれればと切実に願った。でも...誰が信じられるの?誰を信じればいい?...アメリカの政治家?...それとも高い信頼のおける科学的調査技術を用いている科学者のほう?

これに対する反応は典型的なものだった−戦争支持者たちは、そんな数字はナンセンスだと言う。それはそうでしょう、彼らが熱烈に支持している行為が60万の人々の死を(たとえそれが気の狂ったイラク人であったとしても...)引き起こしたと誰が認めたいだろうか?そのような数を認めるというのは、彼らが津波やマグニチュード9の地震や冷酷非情な超大国による発展途上国の占領によって、60万人の人が殺されても当然と認めたに等しいんだから...あ、待って−最後のは実際起こったことだわ。

これがそんなに途方もない数字かしら?何千人というイラク人が毎月死んでいってる−これは否定しがたい事実よ。そして、そう、彼らは戦争と占領の直接の結果として死んでいるのよ。(戦争支持者や操り人形たちがみんなをそう思わせようとしたみたいな無上の喜びのうちに死んだ人たちなんて、実際にはほんのわずかよ。)

最近では、みんな表向きアメリカの政治家や軍関係者たちに対しては、知らん顔して死体置き場の遺体や公式統計の数やその他について話しているように見える。

でも、全ての死が公表されるわけではないことなんてイラク人なら誰でも知っている。正しい死者数の公表を禁止されてからは特に、保健省や他の公式なイラクの機関から信頼できる数字を得るなんて、ジョージ・ブッシュからできるだけ文法的に正しく整合性がとれた文章を聞くようなものだわ。

今までのところ、この数が突飛なものだというふりをしているイラク人は、海外にいてイラクの現実を知らないで戦争を支持しているイラク人か、国内にいても占領で利益を得ている(彼らはドルをもらってる)――グリーンゾーンにいるイラク人だということをわたしは知っている。

混乱と適切な施設がないことで、人々は病院や死体安置所へ運ばれることなく埋葬されている。アメリカ軍がサーマッラーやファッルージャーのような都市を攻撃している間、犠牲者たちは庭に埋められ、あるいはサッカー場が集団墓地になったのよ。それとも、そんなこともう忘れてしまった?

誇張ではなく、わたしたちはこの3年で1親等か2親等の非業の死を見ていない家族を、ただのひとつだって知らない。誘拐、私兵集団、宗派間の暴力、報復殺人、暗殺、自動車爆弾、自爆、アメリカ軍の攻撃、イラク軍の襲撃、殺し屋集団、過激主義者、武装強盗集団、処刑、拘留、秘密監獄、拷問、えたいの知れない兵器――こんなにたくさん死ぬ方法があるのに、それでも突飛な数だっていうの?

正式な喪の終わりが近づいたと思ったら他の親戚が死んで、また新たに喪が始まってしまい、2003年以来喪服を一度も脱いだことのないイラク人女性たちがいるのよ。

じゃあ、60万以上というのはまったく間違いってことにして、一番小さい数を言ったものが勝ちってことにしましょうよ、40万くらい。これでどうかしら?そういえば、この戦争の前、サッダームは24年間で30万人ものイラク人を殺したとブッシュ政権は主張し続けていたわね。ランセット誌で発表された最新の報告の後では、この30万という数字は、極めて妥当で穏当ってことかしら。おめでとう、ブッシュさんたち。あんたがたの勝ちよ。

この戦争と占領の直接の結果としてのイラク人の死者に関する「公式な数字」が、現実のものよりはるかに小さいことなんて誰だって知っている(そう、タカ派のあなたでさえ知っているでしょ、ほんのちょっとでも心があるならね)。この最新の報告はすでに公表されたどの情報よりも真実に近いと思う。で、アメリカ兵の死者についてはどう?いつ誰が本当の数について調査するのかしら?ブッシュ政権が、イラク人の死者数についてこんなに強硬に嘘をつくのなら、アメリカ兵の死についての嘘の程度なんて容易に想像がつくというものだわ...

午後11時35分  リバー

(翻訳:ヤスミン植月千春)



2006年8月5日 日曜日

別れの夏・・・

バグダードの居住者は意図的に街の外に追い出されつつある。一部の家では朝起きてみると「この地域を立ち去れ、さもないと」と書かれた手紙とカラシニコフの銃弾の入った封筒を見つけるようになってきている。これらの攻撃や脅迫の後ろにいる犯人たちはサドルの追随者たちであるマフディ軍だ。これはみんな知っていることだけれど、誰もそのことを敢えて口にはしない。先月のことだ、殺すぞという脅しや攻撃のために地域を離れなければならなくなった二家族がわたしたちの家に滞在していた。スンニー派だけではなく、シーア派、アラブ人、クルド人など、中産階級の多い地域が、いまや私兵集団のターゲットになっている。

他の地域は武装したイスラーム主義者たちに牛耳られている。米軍は全くこれらの地域を制御していない。おそらく、単にその地域を制御したくないだけなのだろう。なぜなら、サドルの私兵集団や他の私兵集団との間に衝突があるときに、その地域を取り囲んで、ことを観察しているんだから。

7月初めからというもの、わたしたちの地域では男の人たちが通りを見回っている。いく人かは屋上を見回り、そして他の人たちは、その地域に通じる主な道路に作ったお手製の道路封鎖ブロックの上でじっと座っている。米軍や政府なんか当てにできるわけがない。できることは、ただただ家族と友人たちが、たとえ安全でなくても、何の保証もなくても、生きていてさえくれればと願うことだけ。

外出する時、わたしは敢えてスカーフやヒジャーブをしないのだけど、この6月には、もはやそういうわけにはいかなくなった。普段の生活でヒジャーブはしてないけれど、バグダードをドライブするときには、車の中でさえヒジャーブをせざるを得なくなった。これ以上がんばるのは利口ではないから。(ここで言う「ドライブ」というのは、「後ろの座席に乗る」ことよ。私、運転なんか長いことしてないもの。)頭になにもかぶらず車に乗ったり道を歩くってことは一緒に居る家族たちをも危険に晒すということになる。聞きたくもないことを言われる覚悟をしなくてはならず、そうするとお父さんや兄弟、もしくは従兄弟やおじさんは、言われるままにしておくわけにいかなくなるでしょ。私はもう長いこと車なんか運転していない。女性がハンドルを握っていたら、何をされるかわかったもんじゃない。

わたしが今まで着ていた洋服を見ると、ジーンズやTシャツ、色とりどりのスカート、まるで他の国や他の人の生活からもってきた洋服ダンスをのぞきこんでいるような感じがする。公共の場所に出かけるのでなければ別に何を着てもかまわないという時が、二年ほど前にはまだあった。友だちのところや親戚の家に行く時は、ズボンにシャツかジーンズといった、いつも外出する時の格好とはちがうものを着ても問題なかった。でももう私たちはそれはしない。なぜなら、常にいろいろな私兵集団に車を止められてチェックされる危険があるからだ。

ヒジャーブをかぶらなければならないという法はない(少なくともまだ)。でも、ターバンを巻いた頭からつま先まで黒づくめの男たち、占領によって自由にされた過激主義者や狂信者たちが居て、いつしかもう抵抗するのに疲れてしまう。じろじろ見られるのはもうたくさんだ。わたしは、出かける時にそのへんから適当にとってかぶる黒や白のスカーフがある程度自分を隠してくれているような気がする。黒に覆い隠された群集の中に混ざってしまうほうが簡単だもの。女性ならだれでも注意を惹きたくないと思うはずよ−イラク警察からも、黒づくめの私兵集団からも、アメリカ兵からも。注目されたくも見られたくもない。

選択肢のひとつであるならば、もちろんヒジャーブはかまわない。わたしの親戚や友だちの多くはスカーフをかぶっているが、そのほとんどは戦争のあとからかぶるようになった。最初はごたごたを避けるためだったり、不必要に注意を惹かないようにするためだったけれど、今では外す理由がないということで、それが当たり前になってしまっている。一体この国では何がおこっているの?

7月半ばに、私はこのことがどんなに当たり前になってしまったかということに初めて気がついた。幼ななじみのMが国を出る前に別れを告げに来たときのことだった。彼女は、後ろにぴったりと寄り添ったお兄さんに守られて、暑さや道路のことで愚痴をこぼしながら家に入ってきた。何か妙だなと感じていたが、それがやっと何であったかに気がついたのは彼女が帰るという時だった。日没前に帰るしたくを整えて、彼女は傍らにキチンとたたまれたベージュのスカーフを手に取った。彼女は近所の人が撃たれたことを話しながら、ぱあーっとスカーフを広げ、とても慣れた手つきで頭にかぶり、そしていつもヒジャーブをしている人のまちがいのない正確さで、顎の下でキュッと締めてピンで留めた。何百回となく行っているように彼女は鏡もなくこれら全てをこなし...何にも問題はなかった――Mがクリスチャンでなかったなら。

(クリスチャンの)Mにだってできるんだから――(ムスリム女性の)私にできないわけがない。

先月は数え切れないくらいの人々と「お別れ」をした。いくつかのものは急いでこっそりと。殺すぞとの脅迫を受けて、夜明けと共に出て行こうとしている近所の人に、夜にそっと言うような、そんなさようなら。

また、いくつかの「お別れ」はとても感情的で長々としたもので、内部崩壊していく国で生きていくことにもう耐えられない親族や友人たちへのものだった。

多くの場合は感情を抑えた「お別れ」だった――何気ない感じで――こわばった笑みを浮かべて「またすぐ会おうね」と...ドアを出たとたん、またひとり愛する人を失う重みに耐えられず泣き崩れるのだ。

こんなことの間、わたしはブッシュが2003年にした演説を思い出している。彼の主張した大きな実績のひとつは、「追放された」イラク人たちがサッダームの倒れた後に大喜びで祖国に帰還したことだった。現在一体何人のイラク人がブッシュの占領した国の外側にいるか教えてほしいものだわ...家や故郷を断念して国内で移動したイラク人のことまでは言わないから。

この希望のない夏に、一体何百何千のイラク人たちがこの国を出て行ったのかと時々わたしは思いをめぐらす。彼らのうちどれくらいの人たちが帰ってくるのだろう?彼らはどこに行くのだろう?どうやって暮らすのだろう?続いて行くべき時なのだろうか?この国をあきらめて、他のどこかで安定した生活を見つけるべき時がきたのだろうか?

午前0時38分 リバー

(翻訳:ヤスミン植月千春)

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