Baghdad Burning

バグダードバーニング by リバーベンド

... I'll meet you 'round the bend my friend, where hearts can heal and souls can mend...

友よ、私の心が失われあなたさえ見分けることができなくなったら、どうか私を偉大な文明をはぐくんだ、チグリス・ユーフラテスの胸元に連れて行って欲しい。そこで私は心を癒し、魂を再生させるでしょう。

2006年1月18日 水曜日

イラク人の知恵の証

2006年1月17日は、1990年のイラクによるクウェート占領(少しの間だけど)後に起こった1991年の湾岸戦争15周年だ(アメリカの用語法に従えば、1990年イラクによるクウェート"解放"後かしら)。

42日間、バグダードなど大きな都市も町々も、国際的に推計されているところでは、14万トンの爆薬で爆撃された。爆撃は、学校、集合住宅、工場、橋、発電所、行政の建物、下水処理場、精油所、通信施設、そして防空壕に対してさえも、容赦なかった(イラクでたった一つの赤ちゃん用粉ミルク工場や約400人もの民間人が爆撃によって殺された、かのアミリヤ防空壕もある)。

"イラク復興局"と復興関連省庁が公表しているところでは、42日間続いた爆撃、および様々な破壊行動による2003年戦争/占領以前の被害は、以下のとおりである。


学校および教育施設−3960カ所
大学、研究室、寮−40カ所
保健医療施設(病院、診療所、医薬品医療器具会社の倉庫)− 421カ所
電話交換所、通信塔など− 475カ所
橋、ビル、集合住宅− 260カ所
倉庫、ショッピングセンター、穀物貯蔵庫−251カ所
教会とモスク− 159カ所
ダム、給水所、農業用施設− 200カ所
石油関連施設(精油所など)− 145カ所
一般サービス、(避難所、汚水処理場、公共施設)− 830カ所
工場、鉱山、工業設備− 120カ所

…いやこれだけではない。ラジオ放送塔、博物館、孤児院、老人ホームなどまだまだある。ダム、橋、倉庫、省庁の建物、食物貯蔵庫などへの大規模被害は軍用機とミサイルによるものだが、南部やキルクークなどでの小規模施設の被害は、主に破壊行為によるもので、主にイランから南部に潜入し、イラク国内に支持者を見つけたグループ「後悔する者たち」(the Repentant)(アラビア語ではタワッブン)が火をつけた"インティファーダ"(蜂起)のしわざだった (タワッブンの大部分は現在のバドル旅団である)。

1991年に南部で起こったのは、2003年にバグダードで起こったことと同じ−爆撃、略奪と攻撃。戦争の間、共和国防衛隊が、地方に撤退した後に地域は大混乱に陥った。いっぽう、アメリカ軍はクウェートから撤退していくイラク軍を爆撃し、タワッブンは戦車と銃を捨て南部を徒歩で戻ろうとしていたイラク軍兵士を殺戮した。攻撃、略奪と爆撃で死んだ軍や民間人の多くは集団墓地に埋められた。私たちがとりあえず、ぜーんぶサダムや共和国防衛隊のせいにして、それ以上は文句を言わないのは、独裁者を非難するほうが簡単だからというだけのこと。

脱線してしまったけれど、今日の話題は復興。 戦争が終わるとすぐに、関係省庁は、復興を果たすために招集された。課題はインフラ−製油所、電気、水、橋、通信網をもとに戻すことだった。

これは難題だった。というのも、ひじょうに多くのイラクの基幹施設や建築物は、フランス、ドイツ、中国、日本などの世界中の企業が設計し建設したものだからだ。外国の専門技術は1991年以降、戦争と経済制裁で入手できなかった。イラク人の技術者は、限られた物資と自分たちだけの力で湾岸戦争後の荒廃に立ち向かわなければならなかった。

2年という年月とおよそ80億ディナールを費やして、被害の90%近くが再建された。およそ6,000人の工学者(すべてイラク人)、4万2000人の専門家、そして1万2000人の管理者を投入し、橋はやがて架けなおされ、電話はおおむね繋がり、精油所は稼働し、水は出ていたし、電気は100%ではなかったけれど、確かに今よりはましだった。 最初の2年で、大小100以上の橋、精油所16基、工場や工業複合施設50カ所以上が再建された。

完璧とはいえなかった。ハリバートンじゃなかったし・・・、KBR(ケロッグ・ブラウン・アンド・ルート)でもなかった・・・けれど、でもイラク人の手によるものだった。戦争の間破壊された建物や橋なりが、機能し以前より立派になってくるのを見るのは、何ともいえない満ちたりた、誇らしい気分だった。

現在、イラク戦争から3年近くたつけれど、建物群はまだ残骸の山のままだ。電気はひどい。水道は、いったん途絶えると何日もそのままだ。 電話回線は止まったり、通じたり。石油生産は戦前のレベルにさえ届かない…そして、イラク人は何十億という金が費やされては消えていく話を聞いているだけ。十億は治安に…五億はインフラの整備に…数百万は選挙に…イラクは借金地獄に堕ちていく…技術者に職のないのは単に彼らが宗教団体や政党に属していないから…そして国内はめちゃめちゃのまま。

大規模かつ複雑でありながらひじょうに迅速に遂行された復興プロジェクトの1つはバグダードにあるドーラ 精油所だった。 それは、イラクの最も古くて大きな精油所の1つ。 湾岸戦争の間、何度か爆撃され、産油は休止した。 戦後に、イラク政府がイタリアの会社に再建を交渉したが、会社が要求してきた額はとてつもなく高額だったといわれている。再建事業は国内の力だけで行われることが決められ、直ちに開始された。 数カ月後の1991年夏、イタリアの専門家が被害の査定に戻ってきたとき、彼らは精油所が機能していたのがわかった。

以下は、再建に関わった、現在アンマンで失業中の技術者が私に送ってくれた何枚かの写真である。写真は、痛ましく、同時に元気づけてもくれる。15年後の今日、この国にもたらされた破壊の跡を見るのはつらい。しかし、これら「その後」の写真たちは、占領者と干渉者に抗して、イラクが再び立つ日があることを確信させてくれる。


注:ほんとは「その後」写真にそっくり全部「アメリカ人が再建したにあらず」ってスタンプを押したかったの。一カ月とたたないうちにとんちきな共和党員が「ほれ見ろ、我々が復興してやったんじゃないか」と書いて送り返してくるだろうってことはわかっているんだけれどね。

 
ドーラ精油所(復興前) ドーラ精油所(復興後)
アルウィーヤ電話交換所(復興前) アルウィーヤ電話交換所(復興後)
バスラのファイハ橋(復興前) バスラのファイハ橋(復興後)

復興に関する写真と情報を送ってくれたM.ハマッドさん、ありがとうございます。

午前1時52分 リバー
(翻訳:金克美)



2006年1月12日 木曜日

音楽に捧ぐ・・・

一週間前、米紙クリスチャン・サイエンス・モニターの記者ジル・キャロルさんが拉致されたことを聞いたとき、なによりも悲嘆を感じた。それは、これまでに他のジャーナリストが拉致されたり殺されたりするたびに感じた重苦しい気持ちと同じもの。知人が現在のような状況において苦悩していることを聞いたときにほとんどのイラク人が心の内に重く沈ませている気持ちとたぶん同様だと思う。

このニュースはテレビの字幕放送で読んだ。あの数日間インターネットに接続が不可能で、詳細について読むことができなかった。私が知り得たすべては、あるジャーナリストが拉致され、彼女のイラク人通訳は殺害されたということ。今月初旬アル・アディル地区でジル・キャロルさんを拘束する際、通訳は非情にも撃ち殺された・・・彼は即死には至らず、警官に事情を話すまで生き延びそして事切れたという。

つい最近、殺された通訳が親しい友人の-「アランのメロディ」のアラン、であることを知ったのだ。私はこの2日間泣き暮らした。

彼は皆にイラク風アラビア語で「アラン」または「エリン」として通っていた。
イラク戦争前、彼はバグダードでも好立地のアーラサットにミュージックショップを営んでいた。アラビア音楽やインストルメンタル曲を売る他に、彼には彼の顧客-洋楽を渇望する欧米化したイラク人がいた - 私たちのようにロック、オルタナティブ、ジャズなどを聴く者。彼の商売敵はほとんどいなかった。

海賊版のCD、カセット、DVDも扱っていた。彼の店は単なるミュージックショップではなく- 癒しの場だった。彼の店で買ったCDやカセットを抱え、音楽が与えてくれる現実逃避への期待を胸一杯にして家路につくのは、私の至福の時に数えられる。

彼のところには、アバからマリリン・マンソンまでなんでも揃っていた。彼はすべて扱っていた。とにかく彼のところに行って「アラン、ラジオでいい曲を聴いたんだよ・・・探して!」って頼むだけ。そうすれば、彼は忍耐強く対応してくれる。「だれが歌ってた?分からないって?じゃあ、男だった女だった?よし、なんか歌詞を覚えてる?」彼が聴いたことがあり、歌詞の一部を覚えていればチャンスありだ。

経済制裁の間、イラクは文字通り外の世界と隔絶されていた。たしか4〜5のテレビ局しかなく、インターネットが一般的になったのはこれより後のこと。アランは他の世界に通じるリンクの一つだった。アランの店に立ち寄るのは、まるで一時的に外の世界を訪れるようなもの。店に足を踏み入れればいつだって、すばらしい音楽が彼のスピーカからあふれ、そして、彼と店員のモハンマドがジョー・サトリアーニとスティーヴ・ヴァイのどちらがすばらしいか議論していた。

ドアの側にはビルボードの最新ヒットチャートを貼りだしてあり、彼はお気に入りの曲を集めた「コレクション」CDを編集していた。また、わざわざ最新のグラミーやアメリカン・ミュージック・アウォード、オスカーなどの授賞式の録音を手に入れに出かけていた。彼のところに二度訪れれば、三度めには、あなたの好みの曲を覚えていてくれ、関心を持ちそうな曲を薦めてくれる。

彼は電気技師だった - でも情熱は音楽にあった。彼の夢は音楽プロデューサーになること。インシンクやバックストリート・ボーイズなどのいわゆる若手男性バンドを見下していたけど、「無名の」バンドを見いだしたと言ってイラクの若手男性バンドをいつも売り出そうとしていた。「やつらはすごい、アラーの名にかけて彼らには可能性がある」と彼は言う。そこでEは「アラン、やつらはひどいよ」と返答する。そうするといわゆるイラク人の誇りたっぷりにアランのレクチャーが始まる。いかに彼らがすごいか。なんてったって彼らはイラク人だからなのだ。

彼はバスラ出身のクリスチャンで、彼のことが大好きな愛らしいFという妻がいる。彼が結婚し家族をもったら音楽に対する興味が薄れるのではないかと、かつてからかったことがある。そんなことにはならなかった。アランとの会話は相変わらずピンクフロイドからジミ・ヘンドリクスを中心にしていたが、だんだん妻のFや娘M、小さな息子のことにも話が及ぶようになった。彼の家族、妻や子供たちに私の心は痛む。

彼の店に立ち寄るとレジカウンターに誰もいないことがある - みんな別の部屋にいてプレステで次から次へとFIFAサッカーゲームで遊んでいるのだ。彼は、レコードの蒐集もしていた。古ければ古いほどいい。最新の技術を取り入れる一方、彼はいつも年代物のレコードに勝る音質はないね、と言っていた。

私たちはアランのところにただ音楽を買いに行っていたのではない。いつも団欒のひとときになった。彼は椅子を勧め、最近のお気に入りのCDを聴かせてくれ、飲み物をいれる。そして彼が知っている最新のうわさ話になる。どこでパーティが開かれ、誰がベストDJか、誰が結婚しまたは離婚したかなど。地元から世界のゴシップまで通じているが、アランには意地の悪さは微塵もない。いつも楽しい話題だ。

もっとも大切なことは、アランは決して期待を裏切らないこと。絶対。あなたの望みが何であれ、最大の努力を払ってくれる。彼の友達になったら、音楽のことだけでなく、いろいろ大変だった週の後で、ただアドバイスするか耳を傾けるかだったとしても、ともかく彼はいつも喜んで困った人々に助けの手を差し伸べていた。

イラク戦争後、彼の店の界隈は物騒になった。車両爆弾や銃撃、バディル旅団が数棟の家屋を占有した。危険すぎるので人びとはアーラサット地区にだんだん足を踏み入れなくなった。彼の店は開いているより閉まっていることが多くなった。殺しの脅迫の後、手榴弾を窓から投げ入れられて彼は店を完全に閉めた。ある時、彼の車がカージャックされ、彼は撃たれた。それ以来彼はお父さんのくたびれたトヨタクレシーダの後部にシスターニの写真を貼って乗り回すようになり、「狂信者除けにね・・・」とウインクをしてにんまり笑うのだった。

戦後、閉店する以前にEと私はよく彼の店に立ち寄っていた。ある日、行ってみると、店は停電していて、ジェネレータもなかった。店内はランプでぼんやりと照らされ、アランはカウンターでCDをより分けていたが、私たちを見て大喜びしてくれた。音楽を聴く手段がないため、彼とEは彼らのお気に入りの曲を、歌詞を間違えたりでたらめに作ったりしながら歌い継いだ。さらに様々な着信音を聴いたり、最新の本日のお薦めジョークを言い交わした。気づかないうちに外界とは隔絶した2時間が経過していて、散発的な爆発音が私たちを現実に引き戻した。

その時、アランの店を安らぎの場- やっかい事や気がかりを忘れさせてくれるところ - にしていたのは、音楽ではなく、アラン自身だったのだと気づいたのだ。

彼は、ピンクフロイドが好きだった。

怯えおののく人びとを見たかい?
空爆の音を聞いたかい?
なぜ僕らがシェルターに逃げ込まなければならなかったか考えたことがあるかい?
真っ青な空の下素晴らしい新世界が来ると約束されていたというのに
怯えおののく人びとを見たかい?
空爆の音を聞いたかい?
戦火はすでに消えたけど、痛みは消えない
さよなら、青空
さよなら、青空
さよなら、さよなら

(Goodbye Blue Sky - Pink Floyd)

さよなら、アラン

午後10時5分 リバー
(翻訳:山口陽子)

2006年1月4日 水曜日

2006年・・・


さあ、2006年最初の週になった。「6」は何の象徴なのかしら?たとえば…1時間通電したあとの6時間の停電?それとも…2005年より3倍も高いガソリンを買うのに6時間並んで待つこと?それともうちの近所だけで1日に平均6回爆発が起こること?

新しい年の初めは見通しが明るいとはいえない。灯油や調理用ガスなどの燃料からトマトまで、あらゆるものの値段がはねあがってしまったようだ。近所の青果商、アブ・アマルとの典型的な会話はこんなぐあいだ。

R:「あら、いいレモンね、アブ・アマル…1キロちょうだい」

アブ・A:「これはシリアのレモンだ。トマトを見てほしいね―これがいいって思うんなら、あっちを見なくちゃ」

R:「うーん…ほんとにいいトマトねえ。2キロちょうだい。いくらになる?」

アブ・A:「3600ディナール」

R(衝撃と畏怖を受けたふりをして):「3600ディナール!なんですって?1週間前の二倍近いじゃない…どうして?」

アブ・A(悲しみと悔恨を装って):「ああ、いや…仕入れ先がうちに野菜を持ってくるのがどんなに大変か、わかるでしょ?ガソリンの値段が上がっちゃってねえ!うちの母親の命にかけて、1キロ当たり50ディナールしか儲けてないんだ」

R:「おかあさんもう亡くなってるじゃない?」

アブ・A:「そりゃまあ―でも、私にとっていかに大切な女性だったか―母にアッラーのご慈悲あらんことを―私らみんなにね!政府の犬どもは物価高で私らを殺そうとしているんだ…」

R(深くため息をついて):「アブ・アマル、あなたは去年あの犬どもに投票したのよね…」

アブ・A:「シーッ…犬なんていっちゃいけない―おだやかじゃないよ。ともかく、これはあの人たちのせいじゃないんだ―アメリカ人たちがそうさせてるんだよ―わがアッラーよ、呪いたまえ。やつらとやつらの子どもたちを…」

R(目をぐるりとまわして)とアブ・A(声をそろえて):「そしてやつらの子どもたちの子どもたちを…」

数日前、いとことCD-Rを一パック買いに行ったら、まるまる1ドル値上がりしていた。ふつうのアメリカ人やヨーロッパ人にとってはわずかな額だろうが、多くのイラク人は一ヶ月に100ドルしか稼げないし、そのお金で家族全員が生活しているのだということを忘れないでほしい。

「ねえB、ちゃちなCDの値段がどうしてこんなに上がっちゃったのよ???」私は友人でもある店のオーナーを問い詰めた。「ガソリン不足のせいで仕入先が値段をつりあげさせたんだなんて、あなたはいわないわよね?」と皮肉たっぷりに。いや―彼にとっては仕入れ値は変わっていない―まだ仕入れをしなくてもいいのだから。けれども彼は次のように説明した。彼の車に60リットルのガソリンがいる。そして、車は2、3日ごとに給油しなくてはならない。以前はガソリンの公定価格は50ディナールだったので、満タンにするのに約3000ディナール、ほぼ2ドルかかった。今では、たとえ闇で売っているガソリンを買わずにガソリンスタンドで満タンにしたとしても9000ディナールかかる。闇ガソリンなら約15000ディナール―以前の価格の5倍だ。これが2、3日おきにかかる。それに、店の発電機のために余分にガソリンを買わなくてはならない。いまや一日に4時間しか電気がこないので、発電機はほとんど常時動かさないといけないのだ。「CDの値段を上げなかったら、どうやってこういうコスト増をカバーできる?」

みな闇ガソリンを買う。というのも、たいていの人は、5時間、6時間、7時間…10時間も並んで待つなんてことを選ぶわけにいかないからだ。私たちは、近所の4、5軒の家で一種の合意を取りつけた。スケジュールにしたがって(これにはナンバープレートの数字や、家族あたりの子どもの数などなど、いろいろな要素が含まれていて少々ややこしい)、だれか一人が一日つかって車を満タンにし、そのガソリンをメンバーの4、5軒に分配するのだ。

一年近く前までは、家に戻った車からガソリンを抜き出す作業は、胸のむかむかする、けっこう身体に悪いものだった。ガソリンのタンクにホースを突っ込み、隣人のうち運の悪い人がそのホースを口にくわえ、ガソリンを吸い上げて外に流れ出させた。今は、国産と中国製の優れものの仕掛けのおかげで、私たちは小さなガソリンポンプでガソリンを吸い上げている。ある時、私のいとこはポンプをトロフィーのように掲げ、感情をこめて宣言した。「これを発明した人物は、ノーベル…ええと、なんとか賞受賞に値する! 」

世界の大半の人にとって石油の高値が共通の関心事であることは知っている。しかし、イラク人にとって、これはいかに状況が悪化しているかを示すものだ。戦争前、ガソリンと灯油は文字通りボトル詰めの水より安かった。ガソリンの値段が高いというのに、世界有数の石油産出国が自国の需要を満たすに足るだけの生産すらできないというのは、途方もなくいらだたしいことだ。

石油省で重大な管理不行届と窃盗行為があったという噂がある。数日前、チャラビが管理を引き継いだが、石油省に勤める友人は管理引継ぎはジョークだという。「今まで私たちが庁舎に入るとき、ハンドバッグを検査されてたのを知ってるでしょ?」チャラビが石油相に就任した翌日、彼女はいった。「いまじゃ、私たち、庁舎を出てから、自分のハンドバッグの中身を確かめてるわ。チャラビに何か盗られてるかもしれないじゃないの。」

アメリカがイラクをもう一つのアメリカにしようとしていると考えていたイラク人たちはそう大きく的をはずしていなかったのだと思うーいまや私たちも中身のない指導者たち、いかがわしい選挙、不安定な経済、大量の失業者、急上昇するガソリン価格を享受しているのだから。

さようなら2005年―SCIRI[イラク・イスラム革命評議会]、いんちきな選挙、秘密の拷問部屋、自動車爆弾、白燐弾、暗殺、派閥抗争、原理主義の年…懐かしく思い返すことなんてないだろう。

さて、2006年はなにを準備してくれているのかしら。

午後11時32分 リバー
(翻訳 いとうみよし)