Baghdad Burning

バグダードバーニング by リバーベンド

... I'll meet you 'round the bend my friend, where hearts can heal and souls can mend...

友よ、私の心が失われあなたさえ見分けることができなくなったら、どうか私を偉大な文明をはぐくんだ、チグリス・ユーフラテスの胸元に連れて行って欲しい。そこで私は心を癒し、魂を再生させるでしょう。

2005年12月15日 木曜日 

選挙・・・

すくなくともこの10日間というもの、聞こえてくるのは選挙の話ばかり。

バグダードのいたるところにポスターが貼られている。選挙に候補者を擁立した党はごまんとあるが、その中で目につくのは4つか5つの「リスト」だ。

イラク国民リスト(731):アヤド・アラウィのリスト。その他にも有名な操り人形が名を連ねている。たとえばアドナン・パチャチ、ガジ・ヤワル、サフィア・スハイルなど。アヤド・アラウィは世俗的シーア派で、CIAと深い関りがあり、元バース党員だ。

統一イラク連合リスト(555):ハキム、ジャファリ、その他さまざまな親イラン原理主義者とサドル派たち

クルド同盟(730):バラザニ、タルバニ、その他いくつかの党

イラク国民対話評議会(667):おもに世俗的スンニ派のリスト―イラクキリスト教民主党も加わっている。サレフ・ムトラクが率いている。

イラク合意戦線(618):おもにスンニ派イスラム教の党から成る。

ここ一週間、選挙の宣伝が溢れんばかりに押し寄せてくる。イラクのテレビ局のどのチャンネルに合わせても、あっちでなければこっちというように候補者が出てくる。とはいっても、アラウィとハキム、あとはごく一握りの候補者たちでおしまいだ。それ以外の候補者のことはだれも気に止めていない。正直、その他の候補者のことなんてほとんど耳にすることすらないのだ。アラウィの顔とハキムのターバン頭をあらゆるところで目にする。一見なんでもない塀をよく見ると、ハキムの同じ顔がずらりと並んでにっとほほえみかけてくるのは、気持ち悪いものだ。

数日前、ハキムの最新の記者会見があった。ハキムは支持者たちに選挙違反しないよう警告していた。ここ一年、ハキム一派があらゆる種類の不正行為で非難されつづけていることを思うと、これはちょっとした皮肉だ。興味を引かれたのは聴衆のほうだった。女性たちは聴衆席の片側に座り、男性たちは別の側に座っていた。狭い通路を中心に男女が分かれていたのだ。女性たちは全員黒いアバヤを着てヘッドスカーフをかぶっていた。まるでテヘランからの中継を見ているかのようだった。

アラウィの選挙ポスターのなかにはサフィア・スハイルと一緒に写っているものもある。サフィアが選挙ポスターに使われたのは、イラク女性向けのジェスチャーとしか思えない。この一年、イラクの女性たちは今まで以上に抑圧されていると感じてきたからだ。けれども問題は、イラクの女性が共感できない女性が一人いるとしたら、それがサフィアだということだ。サフィアは、70年代か80年代に海外で殺害されたある部族長の娘らしい。彼女はレバノンで育った。テレビに出てくるサフィアはレバノン訛りの残るアクセントでしゃべり、尊大で高慢でぶかっこうだ。

これはポスター戦争だ。ある日、サフィア・スハイルを起用したアラウィのポスターを見たとしよう。翌日になると、アラウィの大きな顔がハキムとシスターニの写真で覆われてしまう。アラウィの支援者たちは、ハキムの支援者たちが選挙ポスターを毀損していると訴え続けている。.

SMSのメッセージですら最近はどれも選挙がらみのものばかり(リスト555についてのかなり下品なジョークとか。ブログに書くことはできないけれど、イラク人なら私が何のことをいってるかわかるわよね)。

〔2004年11月29日の訳注より:SMS(Short Message Service:ショートメッセージサービス)とは、携帯電話間で短いテキスト(通常100から200文字)をやり取りするサービスのことで、Eメールとは異なる。送られたメッセージは一度サービスセンターに保存され、相手の携帯電話が受信可能状態になると送られる〕

世俗的民族主義者はリスト667のサレフ・ムトラクに傾いている。ムトラクは他の候補者よりは操り人形っぽくないように見える。なんといっても、もっと人気のある選挙リスト、つまり、2003年にイラクが侵略されたときに米軍とブレマーから祝福されなかった人のリストに名を連ねているのはムトラクだけなのだ。彼は武力による抵抗を支持している(でもテロリズムには反対)。そして有名な反占領民族主義者グループの後ろ盾を得ている。ムトラクのリストは選挙後アラウィの支持にまわって世俗的な運動を強化するのではないかといわれている。

一昨日のできごとといえば、イランからの偽造投票用紙をいっぱい積みこんだタンクローリーだかトラックだかがワッシートで捕まったというニュース。スンニ派の県のなかには投票所が適正に整備されていないところがあるというニュースも。それからイラク国軍とサラディンの選挙を統括する選挙委員会との間に小競り合いがあった。

今回は前回よりたくさんの人が選挙に行こうとしている――アメリカに押し付けられた占領下民主主義をイラク人が突然信じるようになったからではない。この一年の状況が耐え難いものだったからだ。ハキムとジャファリとその手下たちはなにもかもめちゃくちゃにしてしまった。実際、多くの人の目には、アラウィがまあまあ容認できるものに映ってきている。私はいまだに彼にはがまんならないのだが。

アラウィは今でもアメリカの操り人形。彼の選挙ポスターもこの一年私たちが味わった恐怖もその事実を変えはしない。ファルージャ全市崩壊における彼の過失を人々は忘れていない。それでも、拘留、誘拐、暗殺、秘密拷問刑務所の一年を経験した後では、ハキムやジャファリよりはアラウィのほうがましと思うイラク人もいるのだ。

最近イラクでみんながしょっちゅう使うことわざがある。私も前にこのブログで使ったことがある。“Ili ishuf il mout, yirdha bil iskhuna.” 死を前にすれば、熱さえも好もしい。このごろでは、アラウィやその他もろもろの人が熱に思えてしまう…

午前4時41分 リバー
(翻訳 いとうみよし)

2005年12月5日 月曜日

究極の裁判・・・

 今日の裁判の始めのところは見られなかった。ネズミが出たというので、みんなで台所に集まり、ネズミの穴を探していたのだ。そこへ、リビングルームから吠え声が聞こえてきた。

  法廷の罵り怒鳴る声があふれる中で、いとこがテレビの前に立って音量を調節していた。まだ始まったところ――被告側弁護人が法廷から引き上げようとしていた。ラムゼー・クラークが英語で発言することを認められなかったためらしい。法廷の自主独立性と外国語で発言することの不適切さをめぐって何かしら問題となったのだ(この国全体が他国の占領下にあることを考えると、ちょっと皮肉な眺め)。弁護人たちは後で戻ってきた――そこも見ていないのだけれど。

[サッダーム・フセインの特別法廷は、10月19日から始まり、12月5日は3回目の審理。前回11月28日の審理は、その前に弁護士2人が殺され、1人が国外へ脱出するという事態になっていたため、新たな弁護士選任までの休廷を宣言して閉廷したため、実質的審理はこの日から。このたびの裁判では、バグダード北方60キロのドゥジャイルで1982年にサッダーム・フセイン暗殺未遂事件を口実に148人が殺され、拷問もあったとされる事件について、サッダーム・フセインほか7名が起訴されている。また、1991年のシーア派とクルド人の蜂起に対する弾圧、1988年のクルド人掃討を目的とするアンファル作戦、1980年から88年までのイラン・イラク戦争、1990年のクウェート侵攻についても今後罪を問われる可能性がある。]

ちゃんと見たのは、最初の証人が入廷したところから。この証人は最初の原告でもある。ドゥジャイルの事件を語る彼の証言は、詳細で感情に訴えるものだった。が、証人が、当時15歳だったことを考えると、この詳細はひじょうに興味深い。証言そのものの問題点は、その多くが伝聞であることだ。ある人にこれこれが起こったと誰それから聞いた――というふうに。そう、私は弁護士じゃないけれど、「プラクティス」のファンだし、ディラン・マクダーモットを観て何かを学んだとしたら、それは伝聞は証拠とは認められないってことね。

[「プラクティス」は、アメリカ、ボストンの弁護士事務所が舞台のテレビドラマ。ディラン・マクダーモットはその主演男優。]

 2番目の証人は、それよりは要領を得ていたけれど、事件当時10歳で、このことは彼の証言に有利には働かなかった。最後に、判事が誰を告訴するのかと聞くと、彼は誰も告訴してはいないと答えた。と思ったら気が変わって、今度は被告の一人を告訴しているという・・・続けて、自分は誰であれ有罪とされた者を告訴していると言った・・・そして、結局「当時のバース党員全員」に対する告訴であるということになった。

 もっと信頼性の高い証人はいなかったのかしらね。 当時15歳と10歳だったなんて、滅茶苦茶だ。

 途中で、弁護人たちが、向こうにいる警備要員(警察官だが)が明らかに自分たちを脅した、つまり威嚇のポーズをして見せるなどしたと言って、またもや退席しようとしたので、判事は退廷するよう求めた(警備要員に対して、よ)。そのとたん法廷は上へ下への大騒ぎとなった。サッダームは何事か叫び始め、弁護人たちは糾弾しており、バラザン[サッダームの異母弟]は立ち上がって、画面では姿が見えない誰かに向けて怒鳴り始めた。

 法廷は大混乱だった。わめき叫ぶ声、くどくど言い募る声、がなり声の演説、責め立てる声・・・判事が気の毒だった。判事は、ほんとうに懸命に事態を収拾しようとしているように見えた。しかし、誰もが彼にそうさせまいとし、逆にあれこれ命令していた。判事は丁重で辛抱強い人で、家庭裁判所の離婚担当だったらうまく務まっただろう。だが、サダムの公判を何とかできるほど断固たる人ではないと思う。ただこの法廷をしかるべき状態に保つ能力を持っていないというだけなのだ。

 まったく裁判とは思えなかった。見ていて「ファシル」を思い出した。ファシルは、部族同士がもめたとき、部族のシャイフ(長老)たちが設定する場のこと。双方の部族長ともめ事に関係する家族の中心メンバーが呼び集められる。そして叫び声、非難の応酬、罵倒のあげくに、問題を解決しようとし始めるのだ。今日の裁判はまさにこれ。お互い相手をつぶし合い、唾を吐きかけ合うことさえあった。なんてことだとあきれてしまう――それに、一人前の大人とはいえないわね。

 証言を聞いていて衝撃を受けたことがある。ドゥジャイルでの暗殺未遂の後、次々と起こったことのほとんどは、まさにいまイラクのさまざまな所で起こっていることなのだ。果樹園が隈なく根こそぎにされたと、そのときの様子が証言された。ムハバラート(秘密警察)が、サダム銃殺未遂犯はここの出身で果樹園が隠れ家になっていると考えたのだ。これは、米軍が暴徒が隠れていると考えて、去年ディヤラの果樹園をなぎ倒したのと同じだ。また、男も女も子どもも拉致し去る大量拘束についての証言もあった。これはまるで、現在ただ今のラマディやファルージャのことが語られているかのようだった。狭い所にぎちぎちに詰め込まれ、拷問されるさまは、アブグレイブで捕らわれていた人々の証言とそっくりだ。

 ということは――ブッシュ、ラムズフェルド、チェイニーやその他の面々が法廷にお目見えする日があるってことかしら。あ、被告人として、よ。

午後8時25分 リバー

[椰子園を米軍がブルドーザーで踏みにじった話は、2003年10月13日に出てくる。]

(翻訳 池田真里)

2005年12月1日 木曜日

バグダッド・バーニングのリンクたち・・・
  今年のはじめ、ブログ、バグダッド・バーニングが、『バグダッド・バーニング』という本になりました。フェミニスト・プレスがブログの最初の1年分を本にまとめてくれました。たいへん光栄に思っています。本は、アマゾンバーンズ・アンド・ノーブルで買うことができます。イギリスでもマリオン・ボイアズ社から出版されました。

 本にして世に出してもらったのに、それではまだ足りないとでもいうように、この本は、10月にルポルタージュ文学に贈られるユリシーズ賞の3位を受賞したのです・・・なんと晴れがましいことでしょう。

 それに、バグダッド・バーニングの日本語サイトがあり、スペイン語のサイトもあります。私のブログを翻訳して下さっているみなさま、本当に本当にありがとう!

[ユリシーズ賞は、ルポルタージュ文学に授与される世界で唯一の国際的な賞。10月15日、ベルリンにおいて、2005年度の受賞者が発表された。

2003年から始まり、今年は第3回。主催者は国際的学際文化雑誌の発行元、レター・インタナショナル、世界3大製薬メーカーの一つアヴェンティス の財団、アヴェンティス財団、ドイツ語とドイツ文化普及のためのドイツ政府が出資する団体、ゲーテ・インスティテュート。

助言グループの中には、ドイツのノーベル賞作家、ギュンター・グラス、ポーランドのジャーナリスト、リシャルト・カプシンスキー、インドの作家、ニルマル・ベルマ、オランダの戦争記者、ヤン・ステージ(2003年死去)がいる。審査員団も世界各国の作家、記者等によって構成され、2003年には日本の池澤夏樹が参加した。

1位(賞金5万ユーロ)

アレクサンドラ・フラー(英国)「猫を殺しながら――アフリカ

兵士との旅」(Alexandra Fuller, Scribbling The Cat: Travels With An African SoldierPenguin Press, NY, 2004.

 英国生まれアフリカ育ちの著者が、実家の隣人で元傭兵のKとともに戦場であったザンビア、シンバブエ、モザンビークを旅する。

2位(賞金3万ユーロ)

アブドラ・ハッモウディ(モロッコ)「メッカの日々――聖地巡礼の記」(Abdellah Hammoudi, Une Saison A’la Mecque: Re’cit De Pe’lerinage, Seuil. Paris, 2004

プリンストン大学の人類学者の著者が、人類学者としての関心とムスリムとしての精神世界への憧憬からメッカ巡礼を行う。

3位(賞金2万ユーロ)

リバーベンド(イラク)「バグダッド・バーニング」(Riverbend, Baghdad Burning: Girl Blog From Iraq, The Feminist Press at the City University of New York, NY, 2005 & Marion Boyars Publishers, London, 2005

イラクの若い女性、リバーベンドは、匿名でインターネット上の日記を書きついでいる。すばらしい観察力、知性、優れた英語力を駆使して、彼女の目と言葉でイラクの普通の家庭の暮らしを記述している。戦争と米軍占領で踏みにじられた国の日々の希有の記録。「バグダッド・バーニング」として刊行された。]

 日本語サイト:http://www.geocities.jp/riverbendblog/

 スペイン語サイト:http://bagdadenllamas.blogspot.com/

午前1時9分 リバー

声が無い・・・

 声を無くしてしまった。比喩なんかじゃないわ、念のため。なんとまあ文字通り声を無くしてしまったのだ。これは季節の変わり目に流行る病気。3日前のこと、声がガラガラになって、しょっちゅう咳払いしなくてはならなくなった。それが、翌日になってみると、声がまったく無くなっていたのだ! 階下へ降りて「おはよう」と言おうとしてみて、初めてわかったのだけれど。心理スリラーものの映画から聞こえてきた声みたいだった。

 イラクで病気になったときに知っておかなければならないこと、4カ条。イラク人に自分の病気の話をするなら、どんな時も心得ておいた方がいいことは――

 1.ガンや不治の病は別として、相手のイラク人は、その病気になったことがある。

 2.ガンやその他の深刻な病気の場合でさえ――そのイラク人の親しい“といっていい”「誰か」が、同じ病気になったことがある。

 (「誰か」って、近所の人のお姉さんのいとこの甥とか)

 3.どんな病気だったとしても、それを聞いたイラク人は全員、治療法を知っている。

 4.奨められた治療法を実行しないと、善意の治療者を侮辱したことになり、そもそもそんなに浅はかだから病気になったんだということになる。

 私の場合も例外ではなかった――誰もが、私が試みるべき治療法を知っていた。

 母は、スープをいろいろ作っては飲ませてくれた。父は、塩水のうがいを勧めた(やってみたら、ゲーとなった)。いとこは、先週やっぱり声が出なくなったけれど、毎日3回大さじ1杯のオリーブオイルで治したと証言し、私の場合はこのくらいの分量がいいと指導してくれた(塩水はすごくよかったって思えるほどのものだった)。3軒向こうのウム・アラアは、ウールのスカーフをしっかり巻いてあったかくしなくちゃ、いつまでたっても治らないわよと言った。最後に登場したのは、おばが調合したベイブンと粉末ミントとレモンの不可思議なミックス(ベイブンはカモミールのこと、イラク人は何かといえばこれ)。水を入れて煮て、漉(こ)した黄緑の汁から立ち上る湯気を「吸入」し、次にこの恐ろしい代物を飲むよう命じられた。

 私に治療法を示さなかった唯一の人間はE(弟)。「また声が出るようになってほしいなんて、なんで僕が思うわけ?」信じられないという顔で言った。

 そんなわけでこの2日間、うなずき、せっせと手まねをし、かすれ声――じゃなかったかすれ息でコミュニケーションしている。声が出ないと知って、友人や家族がどんなふうに反応するかは、面白い。自分まで囁(ささや)いているようにひそひそ話すか、耳も聞こえなくなったのかもしれないとばかり、へんに大声で話し始めるかのどちらか。

 そんなわけで、いまブログを書くのはとてもいい――一時的に声を奪われていたって、ブログが声になる。

 サダムの裁判は見ることができなかった。停電していたし、近隣で使っている発電機も故障していた。この2日間に観たものといえば、あちこちのチャンネルの断片的な報道だけ(それもサダムが判事を罵った場面を繰り返しやっていた)。

 バグダッドの大部分の地区での通電・停電時間割は、目下「5」時間の停電につき通電1時間。今はまだ、電気ストーブ使用で電力需要が超過になるほどは寒くないということを考えると、めげてしまう。これから先どうなるのか? 今から電力事情がこんなに悪ければ、みんながいっせいに電気を使い始めたらどうなるのか?

 これを書いてしまったら、ブッシュの対イラク「戦略」について読もうと思っている。まだ読んではいないけれど、2年半の間吐き散らしてきたたわごとを、今また繰り返しているのだろうと予測がつく。アメリカ人は同じ事を聞かされて嫌にならないのだろうか?

 ブッシュが撤退計画を立てるのを拒否したとは、信じられない(それとも彼って今また「かかってこい」モードなの?)。[反占領武装勢力の攻撃によって米軍死者が増加している状況を懸念する声が高まる中で、2003年7月1日、ブッシュはホワイト・ハウスにおける記者会見で、武装勢力に対する自分の答えは「かかってこい」だと述べた。]何だか金で雇われたブッシュが、世界中でアメリカの外交政策をめちゃめちゃに破壊しているように思えてくる。演説をするたびに、ブッシュ自身ますます泥沼に入り込んでいっているようだ。米軍完全撤退の期限を設定すれば、将来へ向けての前向きの一歩となる――ついに主権がイラクに返還されるのだという希望をイラク人に与えるだろうに。

 ところが今は、米軍はこの先20年もイラクに留まり続けるのではないかと思われている――爆弾や襲撃でイラクから追い出さないかぎりは。多くのイラク人は、頭では武装抵抗勢力を支持しているものの、私の見るところでは、ふつうのイラク人は、米軍兵士に無傷で帰国してほしいとただ願っている。時に米軍を気の毒に思うし、とくに家族には同情している。個人的屈辱――家宅捜索や検問や爆破の恐怖や拘束や――を忘れる瞬間がある。その間はずっと、武器と武装に隠された具体的な人間に向き合うことができる・・・その一方で、今は占領下で、占領というものは抵抗を受けるものだということを、決して忘れてはいない。

 ブッシュ、チェイニー、ラムズフェルド、ライスよ、どんなに数多くの犠牲者を出し続けても、イラクから撤退しないと断言するがいい。しかし、これまでの歴史は、そうはいかなかった・・・

午前0時30分 リバー

(翻訳 池田真里)