Baghdad Burning

バグダードバーニング by リバーベンド

... I'll meet you 'round the bend my friend, where hearts can heal and souls can mend...

友よ、私の心が失われあなたさえ見分けることができなくなったら、どうか私を偉大な文明をはぐくんだ、チグリス・ユーフラテスの胸元に連れて行って欲しい。そこで私は心を癒し、魂を再生させるでしょう。

2005年11月25日 金曜日 

暗殺・・・

 
きのうの朝は、このニュースで目が覚めた。「スンニ派部族指導者と息子たち、射殺される」
 

 「親族の語ったところによると、水曜、イラク軍制服姿の複数の狙撃者が、就寝中のスンニ派部族長老と息子3人を射殺した。」

[イラク国防省の当局者はイラク軍によるものではなく、軍兵士に変装したテロリストの犯行であると述べた。押し入った狙撃者は40名、テレビはベッドに横たわる遺体、床に散乱する薬莢を映し出していた]

 ネット上で読むのでなければ、テレビで現場の映像を見るのが一番だ。遺体と家族――中に年配の婦人がいて嘆き悲しんで髪や顔をかきむしり、内務省の兵士が息子たちを殺したと叫んでいた。母親、妻と子どもたちの目の前で撃ち殺したのだ・・・羊を屠(ほふ)るときでさえ、囲いの外に連れていき、ほかの羊たちが見て脅えないようにするのに。

 戦争のさ中、人はとんでもないことを考えつく。あり得ないことを思い描く。夜眠れないとき、心はあれこれと起こるかもしれないことを数え上げていく。戦火に荒れた国の未来をしかと思い描こうとしてもかいなく、心は目に見え手の触れることのできる対象――友人たち・・・濃淡さまざまなつながりへと向かう。この2年半、イラク国内のイラク人で、家族の誰かれを失う可能性を考えなかった人は一人もいないと思う。この世で何よりも大切に思う人々を失う、と想像してみる。瓦礫の下に埋もれてしまう? 過激派に虐殺される? 車両爆弾で吹き飛ばされる? 誘拐されて身代金を要求される? それとも検問所で無惨に銃殺される? 気になる可能性をすべて考えてみる。
 そして、もし万一私が愛する人々を失ったとしたら、私に何が起こるだろうかと考えてみる。どのくらいで、報復したいという欲求が起こるのだろうか? どのくらいで、失うべきものを何も持たない人々―― 一撃ですべてを失った人々を狙う何者かにリクルートされることになるのか? 世界中の人々はわかっていないと思う。人は、天国で70人、いや何人であれ大勢の処女を手に入れられるから(世に言われているように)自爆者になるのではない。なぜ自爆者になるか。それは、もはや生きるに値しない人生に対し――国内の、あるいは外国のテロリストによって、暴力的に人間的なものを奪われてしまった人生に対し、復讐して結末をつけているのだ。

 自爆攻撃者は身震いするほど嫌だ。疑わしい車のそばを通るたび(おまけに今日この頃ではどの車も疑わしく見える)、めちゃめちゃ激しく動悸がするのが嫌だ。スンニ派のモスクとシーア派のモスクがいたるところで攻撃されているのが嫌だ。病院に積み上げられた遺体を、苦痛に食いしばられた歯を、嘆き悲しむ男たち女たちを、見るのが嫌だ。

ある犠牲者は娘を抱きしめていた。親族の一人は、「狙撃者たちはその子にどくように言って、父親を射殺したのです」

この話の少女が、激しい憎悪と報復の欲求をもって成長し、彼女がそれを糧に生きることとなったとして、誰が驚くだろうか。

また3日前の話。米軍とイラク軍が町から町へ移動中の家族を銃撃し、5人を殺した。

「全員子どもです。テロリストじゃない」と親族の一人は叫んだ。「ほら、子どもたちでしょう」その時、死体保管所の職員が冷蔵室に小さな子どもの遺体を運び込んでいた。

 ダーワ党があり、イラク・イスラム革命評議会(SCIRI)があり、アメリカに占領されているときに、「テロリスト」をリクルートするために誰がアルカーイダを必要とするだろう?

もちろん、イラク内務省はあらゆることを否定している。ジャドリヤの拷問ハウスに関することすべて、暗殺の数々とやりたい放題やってきた殺人のすべてを否定し続けているように。内務省はついに、ジャドリヤの拷問ハウスについて米軍は嘘をついていると言うまでになった。

この3週間に、少なくとも6人の著名な医師、大学教授が暗殺された。シーア派の人もいればスンニ派の人もいる――元バース党員もいればそうでない人々もいる。共通点はひとつ、どの人も戦争前、イラクの大学で重要な役割を果たしていたということだ。殺されたのは、ハイカイ・アル・ムサウィ博士、生物学者のラアド・アル・マウィア博士、サアド・アル・アンサリ博士、小児科医のムスタファ・アル・ヘエティ博士、アミル・アル・ハズラジ博士、外科医のモハンムド・アル・ジャザエリ博士。

すべての殺人について詳しく知っているわけではない。ラアド・アル・マウィア博士は知っていた。彼は、バグダード大学理学部の教授で学部長だった。そしてシーア派。穏やかな人柄で、問題を抱えた人がいつでも近づいていけるような紳士だった。キャンパスの外の彼のオフィスで射殺された。たいへん惜しいことだ。

今月初め殺されたもう一人の教授は、薬学部長だった。今年の初めダーワ党の学生といざこざがあった。ジャファリとその一党が選挙で勝利した後、学部内のダーワ追従者たちが学内で祝典をしようとした。混乱を招くと考えて、彼は通常のバナー以外の祝賀行為を許さなかった。そして学生たちに、ここは学ぶための場であるから政治を除外するようにと言った。学生たちの何人かは彼を恫喝し学内では小競り合いがいくつかあった。彼は1週間ほど前に殺された。もう少し前だったかもしれない。

暗殺の背後にいるものが誰であれ、イラクは急速に教育界の人材を失いつつある。ますます多くの医師や教授がイラクを去って移住している。

この事態が問題なのは、大規模な頭脳流出だということだけではない。問題は、この失われつつある知識階層は、イラクの世俗階層でもあるというという点にある。[世俗主義とは、宗教と、政治・経済・社会の分離を認める考え方]

午前1時3分 リバー

(翻訳 池田真里)
 

2005年11月18日 金曜日 

恐怖の館(やかた)・・・

 いま町の話題は、ジャドリヤで見つかったという拷問ハウスのこと。 http://news.yahoo.com/s/nm/20051115/ts_nm/iraq_abuse_dc_1
[11月15日付けロイターの記事。13日日曜夜、米軍の強制家宅捜索により、バグダード市内の内務省の建物の地下に161名が拘束されているのが発見された。そのほとんどが栄養失調で虐待の跡があった。]

 世界中の人の前に、ジャドリヤのこの拷問ハウスのことが明らかになった。米軍が近頃捜索したのだ。かつてのジャドリヤはバグダードで最高の地区の一つ。川が流れていて、豊かな緑と清潔さでほかの地区とは一線を画していた。バグダード最大の大学、バグダード大学はジャドリヤにある(別の地区にキャンパスがもう一つ)。ジャドリヤにはすてきなお店やレストランがあって、もちろんバグダードで有数の優雅な邸宅の数々も・・・ところがいまや拷問ハウスがあるという。[ジャドリヤとバグダード大学については、2003年11月9日にも書かれている]

 このような拷問牢については、たえず噂があった。戦争直後からすでに、これこれの地区と名があがっていた。なぜ「拷問ハウス」かといえば、見ればわかる。以前はふつうの住宅だったのだ。それがいまは、容疑者と無実の人々に対する拷問施設になってしまった。イラク政府は都合よく「拘束施設」と呼んでいるけれど、イラク内務省が所管し経費も出している。
 戦争直後から拷問ハウスで名をはせたのは、バグダードのサドル・シティだ。当時は拷問ハウスとは呼ばれなかったけれど。そこを取り仕切っている連中は、「裁判所」だと言っていた。尋問のためといって容疑者(たいてい普通の市民)を連れ込んでは、罪状や容疑を自白させようと殴打し折檻するのだった。殴打が続くうち、「サイード」なる人物が入ってきて、罪人に刑を宣告する。刑は、時に手や足の切断もあり、死ということもありえた。私たちはこういうことを、おばの近所の人から聞いて知った。その人は誤って捕らえられ、前治安要員の容疑者とされて殴打された。たまたま家族が地区の有力なシーア派法学者とコネがあったから、生きてこの人を助け出すことができた――ぶちのめされ傷だらけになって、でもともかくも生きて。

 このような拷問ハウスは、占領が始まってからずっとあった。イラク・イスラム革命評議会(SCIRI)が背後にいるということは広く知られていたけれど、ほかの宗派の政治団体だってきれいな身ではない。アメリカはその存在を知っていた――なのに、この突然のショックと怒りは何? グリーンゾーンのアメリカ人にとっては、ぜんぜん耳新しいことじゃない。このタイミングはたいへん興味深い。このたびの捜索が白燐弾攻撃の全貌が明るみに出た直後に行われたということが重要なのではない。ペンタゴンと米軍が、目くらまし戦術采配の頂点にいるということが明らかになったことが重要なのだ。

  つい昨年もガザリヤという地区で、こういうハウスが発見された。今度のより小規模なものだったけれども。いとこがガザリヤに住んでいて、彼の言うには米軍が中に入ったとき、遺体数体と天井から当座の縄でつるされた人を発見したという。近隣の人は何カ月も前から米軍に捜索させようとした。が、気にする者はなかった。米軍はようやく強制家宅捜索に入ったが、それは地区の誰かからその家が暴徒の隠れ家だという情報を得たからだった。昔こんな話を読んだことがある。ニューヨークでは、レイプされそうになったら、「レイプだ!」ではなくて「火事だ!」と叫ばなくてはいけない。「レイプだ!」と叫んでも、誰も助けに来てくれないからだ。イラクの拷問ハウスについても同じこと。捜索させるには、テロリストの巣だと言うしかない。

 さらに――ニュースで新生イラク治安部隊の凶行が語られるとき、「内務省の制服を着た男たち」とか「公用車に乗り内務省から来たと言う男たち」とか言うときがあるのに気がついている? それはこういうこと。男たちは「自称している」のでも仮装しているのでもない。「ほんとうに」内務省から来たのだ。イラク人や人道団体を怒らせないために、こういうことはこっそりやるだろうとふつう人は考えるものだ。だけど、SCIRIやダーワ党にとってそんなことは問題じゃない。彼らは民心を獲得しようなんて思っちゃいないからだ。[SCIRIとダーワ党は、1月30日の暫定国民議会選挙で過半数を占めた統一イラク同盟の中心的シーア派政治団体]彼らはアメリカのお気に入り。新生イラクでやっていくのにこれ以上のものがある?

 ここ1年以上もバグダードのいたるところで、遺体が思いがけなく見つかる日々が続いている。深夜家から連れ去られた人々の遺体が(最近ではもっと図々しく――連行だろうが何だろうが白昼はばかることなく行われる)、どこかで遺体となって現れる。そのこと自体はたいしたことじゃない。遺体について聞かされることに比べたら。どうしても頭から振り払うことができないのは、遺体の多くは、頭蓋骨に電気ドリルで開けられた穴があったというもの。

 アブグレイブ行きはまだラッキーな気がする。

 それに、姿を消すのは「暴徒容疑者」だけではないのだ。イラク治安部隊は、地区を襲って隈無く調べ上げ、スンニ派地区では特に12歳から60歳の男性であれば誰でも拘束することで知られている。こういう「テロリスト容疑者」が狩り立てられて連れ去られる。そして、今日にいたるまで行方知れずとなる。

 バヤン・ジャブル内務相(SCIRI殺人強盗集団政府のイタリア製スーツに身を固めた高官)は、これっぽっちの隠し球でイラク国民を懐柔しようとしている。
「・・・収容者にはスンニ派だけでなくシーア派もいます・・・」
[11月17日付けAPの記事。イラク内相は同日、収容者はスンニ派だけでなく、拷問と先に伝えられたニュースは誇張であり、傷を負ったものはわずかであったと述べた。]

 SCIRIとダーワ党の拷問実行者たちが宗派によって差別しないと知ってぐっすり眠れるようになるわ――新憲法とアメリカ軍のお導きとペンタゴンのお恵みの下で――すべてのイラク人は平等に拷問されるのですものね。

午前0時02分 リバー

(翻訳 池田真里)


2005年11月17日 木曜日

通常の恐怖…


 これがコンピュータのデスクトップに5日間居座っていた。 http://www.rainews24.rai.it/ran24/inchiesta/video/fallujah_ING.wmv
[2005年11月9日にイタリアニューステレビ局Rainews24で放送されたドキュメンタリー番組の映像。2004年11月の米軍によるファルージャ攻撃で化学兵器(白燐弾)が使用されたこと、また攻撃対象には一般市民も含まれていたことを元米兵の証言などから立証]

 この映像のことをインターネット上のあるサイトで初めて読んだ日、心が重く沈んだ。ファルージャで白燐弾。もちろん白燐弾についてはなにも知らなかったけれど、詳しいことは知りたくないという思いが私の内にあった。映像を4回もダウンロードしようとしたのに4回とも接続に失敗して、少しほっとした。

 E.もこの映像のことを聞いていたのだが、とうとう友達のS.が映像をCDに入れて持ってきた。 S.とE.は部屋に閉じこもって、コンピュータでこの短いドキュメンタリーを観ていた。30分後、E.は部屋の外に出てきた。顔は青ざめ、唇を真一文字に結んでいた。物思いに沈んでいるときの表情だ。できれば話題にしたくないことについて考えるときの。

「ねえ、私もそれ観たいな…」S.と戸口に向かうE.に、私はおずおずと声をかけた。

 E.は言った。「デスクトップにあるよーでもほんとは観たくないんでしょ」

 それから5日間、私はコンピュータを避けていた。だって、電源をいれるたびに、そのファイルが私の目を捉え、呼びかけるのだから…あるときは悲しげに観てくださいと懇願し、あるときは怒りをこめて私の無関心を非難する。

 無関心どころじゃなかった…私の胃に深く腰を下ろしていたのは、一種の怯えだった。小さい石ころを一ダースも飲み込んだような気がした。私はそのフィルムを観たくなかった。頭の中にしみついている殺された市民たちの映像が中に含まれていることを知っていたから。

 米軍がファルージャで化学兵器を使用したことについて疑いを持つイラク人はほとんどいない。かれこれ1年以上も前から、にんげんが骨になるまで燃えてしまったというおぞましい話を聞いてきた。だけど私はそのことを確認したくなかったのだ。

 私はそのことを確認したくなかった。ファルージャで起こった残虐行為を確認するのは、アメリカ占領下で私たちがイラク人としてどれほどのものを失ったかを証明することを意味するから。そして、全世界が信じられないほど役立たずだと証明することを意味するからー国連、コフィ・アナン、人道支援機関、聖職者たち、法王、ジャーナリストたち…なんでもいいから挙げてみて。私たちはもうなにも信頼することができなくなってしまった。

 私はついに勇気を振り絞って映像を観た。そこにはもっとも恐れていたものがあった。この映像を観ていると、内側に侵入されたような気がした。だれかが私の心の中にしのび込んで、私自身の悪夢をこの世に持ち込んだのじゃないかと感じた。男の、女の、子どもの死体の映像が次から次へと続く。あまりにもひどく焼かれ、傷つけられているので、男性か女性か、子どもか大人か、見分けるには、身に着けた衣服で判断するしかない。衣服だけは不気味なほど無傷なのだーまるで、どの死体も骨になるまで焼いてしまった後に、日常の衣装でやさしく着飾らせたかのようだーレース襟がついた水玉模様のネグリジェ…木綿のパジャマを着た女の赤ちゃんー小さな耳には小さなイヤリングが揺れて。

 眠っているうちに穏やかに亡くなったかのようにみえる人たちもいる…ひどく苦しんだようにみえる人たちもいるー皮膚が完全に黒く焼けて、焼け焦げた骨から滑り落ちている。

 この人たちにどんなことが起きたのだろうと想像してみる。たぶん、自分たちの家で身を寄せ合っていたのだろう。ある人たちはー何十、何千人もの人たちは、町を離れることができなかった。輸送の手段を持たなかったか、あるいはたんに行き場がなかったか。自分たちの家に留まり、アメリカ人について言われていることがほんとうであるようにと望んでいたー巨大な乗り物や無尽蔵な兵器を持ってはいるけれど、彼らも人間なのだと。

 そこに爆弾の雨が降り注ぎはじめた…ミサイルがヒュ〜〜ンと落ちてくる。目標に当たって爆発する音…爆発に対してどんなに覚悟を決めたつもりでも、いざ爆発音がするといつもたじろいでしまう。想像してみる。子どもたちは耳を覆っただろう。なかには泣き出す子もいただろう。戦争の機械音を人間らしい泣き声で消してしまおうとして。戦車が近づくにつれ、戦闘機が低く飛ぶにつれ、恐怖は増してくるー親たちは顔を見合わせ、互いの表情を探りあい、恐怖から抜け出す方法を考える。我が家で待つと決めた人たちもいただろうし、いちかばちかで外に出た人たちもいただろうー次の瞬間には自分たちの墓に変わってしまうかもしれない家の中に閉じこもっているより、降り注ぐコンクリートと鋼鉄を恐れながらも外に出たほうが生き延びるチャンスがあると考えて。

 それは、アメリカ人たちがやって来るより前に私たちが聞いていたことだったー空襲のときは屋内にいるより外に出たほうが安全だよと。屋内にいると、近くを飛ぶミサイルが窓ガラスを砕いて無数の短剣に変えてしまうし、壁は崩れ落ちるだろう。庭か、それとも路上ならば、よほど近くで爆発が起きたときに爆弾の破片が飛んでくることさえ心配すればすむーそんなことが起こる可能性はいったいどのくらいある?って。

 それは2003年よりも前の話…そう、確かにファルージャよりは前のこと。

 それは、家から逃れ出た男たち、女たち、子どもたちが、結局爆弾の雨に飲み込まれてしまうより前の話。

 去年私はファルージャについてブログし、こんなことを書いた。

 「クラスター爆弾はじめ禁止兵器が使われているという噂だ。」 [2004年11月10日付のブログより 同年11月29日のブログでリバーはファルージャ攻撃での化学兵器使用について詳しく書いた。しかし、現在、原サイトでは11月29日の記述は削除されている]

 そうしたら即座にアメリカ人たちからメールの集中砲火を受けた。いわく、私は嘘つきだ、どこにも証拠がないじゃないか、アメリカ人がそんな恐ろしいことをするわけがない!今、あの人たちがどうやってこのことを正当化するのか知りたいものだ。ショックを受けてる?イラク人は人間ではないと自らに言い聞かせている?それともただ否定するの?

 最近、国防総省の広報担当官はこう述べている。 「これはわれわれの通常兵器のリストにあるものだ。われわれは他の通常兵器と同様にこれを使用する」
http://news.yahoo.com/s/nm/20051116/pl_nm/iraq_usa_phosphorus_dc_2;_ylt=AgdFF_4lSCBbdFP64V7ORgZsb
EwB;_ylu=X3oDMTBiMW04NW9mBHNlYwMlJVRPUCUl

[ 2005年11月16日付ロイターの記事。同日、米国防総省が昨年11月のファルージャ攻撃において白燐弾を使用したことを認めたが、白燐弾は化学兵器ではないと主張し、また、市民に対して使用したことを否定した、とある]

 この戦争は「通常の」と言う言葉を定義しなおした。残虐行為が新しい段階に入った。今まで私たちが知っていたことはもう時代遅れになってしまった。「通常の」が恐ろしいことと同義語になったのだ。通常兵器とは、白い炎で皮膚を焼き尽くすもの。通常の尋問方法とは、アブ・グレイブやその他の捕虜収容所で行われたようなもの…

 まさに…通常の恐怖。

午前1時32分 リバー

(翻訳 伊藤美好)

2005年11月6日 日曜日


映画と夢・・・・

  私の両親は、同世代で教育を受けた多くのイラク人と同じく、テレビを見すぎないように気配りした。E[弟]と私が小さかった頃は、どんなタイプの番組や映画を見てもいいか、親が目を光らせた。両親はアラブ・西欧のいずれのプロパガンダも私たちの目に触れさせたくないと思っていたし、行き過ぎた暴力・汚い言葉・性表現を含む番組はすべて禁止だった。その代わり、読書はどんな本でも歓迎された。ジェーン・オースティンからジョン・ルカレ、エミリー・ブロンテからマキシム・ゴーリキー、シモーヌ・ド・ボーボワールまで、私はさまざまな作家の本を読んで育った。禁じられた本は一つもなかった。

  映画とテレビについては、何かが両親の検閲をすり抜けてしまうこともあった。というより、私たちの方が親の目をかいくぐって友達や親戚の家で何かを見るときもあった。

  子供の頃に見て、その後長年忘れられないで深く記憶にとどまっている映画が、誰でも1本か2本はあると思う。私には2つあった。1本は映画。2本目は、記録なのかドキュメンタリーなのか定かでない。

  私の記憶には、2つともタイトルが欠落しているし、場所も抜け落ちている。どこで見たのかも覚えていない。けれどもその映像は、最高レベルの解像度で映し出されるオリジナルDVDの鮮明さをもって、幾度も私の脳裏でよみがえる。

  1本目はホロコーストの映画だった。フィクションだが、事実に基づいていることは明らかだった。私が見たのは80年代半ば。怖くてたまらないシーンがあった。わずか6、7歳の女の子が、走ってものすごく高い壁によじのぼれ、とナチスの看守にけしかけられている場面だった。もしあの壁に登れたら自由にしてやる、と少女は告げられる。壁に向かって走り出すとすぐ、自分を捕まえる手から自由へと急ぐほどに少女の小さな足がもつれる。と、看守たちが、獰猛な黒い大型犬3頭を少女に向かって放つ。次に何が起こったか正確には覚えていない。だが、恐怖のシンフォニー--悲鳴、犬のほえ声、看守たちの高笑いは、今も耳から離れない。

  2番目の映画/実写フィルムには俳優がいなかった。登場したのは、実際に残虐行為を行っている現場の人たちだった。私たちはイラクを訪れていた[訳注:リバーベンドは両親と海外で暮らしていた時期がある]。私は8歳ぐらいだった。画像の質から、はじめはニュースフィルムだと思った。そのフィルムを誰かがどこかで見ているところに、私がうっかり行き当たったのだ。映画の人がイランに収容されたイラク人POW(捕虜)だということは、その後知った。イラン人看守が無力な一人の男性の腕を片方ずつ別の車に縛りつける有様を、私は目の当たりにした。幼かったが、次の瞬間どうなるかは私にも分かった。走って逃げ出したかった。さもなければ目をつぶりたかった。それなのに、私は身動きできなかった。その場に根が生えたようで、まるで私まで鎖でつながれたような気がした。一瞬の後、2台の車は反対向きに走り出し、男性は片腕が肩口からひきちぎられ苦悶にのたうった。

  あのビデオを私は決して忘れない。何百万人というイラク人もいまだに覚えている。アラビア語で捕虜をいう「アシール」という言葉を聞くたび、独りでに私の脳裏でビデオが回り出す。夜眠りに落ちるとき、朝目覚めるとき、何週間も心のうちにあのビデオを見た。映像は私につきまとい、あんな暴虐を受けたあと人が死ぬまでどのくらいかかるのかと危ぶんだ。人間の腕があんな風に抜け落ちることすら、私は知らなかった。

  イランに捕らわれた捕虜の受けた恐怖を、戦争終結後も私たちは抱き続けた。精神的・肉体的な拷問をされるといううわさが繰り返し流れ、あまりに確証が高いものだから、母たちは息子がイランの囚人になるより戦死するようにと祈った。とりわけ、1984年か1986年にこのビデオが明るみに出ると、その後は動きが加速した。この戦争で親戚が行方不明になったイラク人はみな、腕をもがれた捕虜の苦悶の形相に親戚の姿を見た。イラク・イスラム革命最高評議会(SCIRI)のトップ、アブドゥル・アジズ・ハキムと、その兄ですでに亡くなったムハンマド・バキル・アル・ハキムの二人は、イランのイラク人捕虜の取調官・拷問担当官として名を馳せていた。

  愛する家族をあの戦争で一人も--数人かもしれないが--失わなかったイラク人家庭はひとつもないと思う。帰還した捕虜から血の凍るような恐ろしい話を聞かなかった家庭はひとつもない。イランは2003年までわれわれの捕虜の返還を続けていた。我が家だけでも、この戦争で4人の男性を亡くした。3人--シーア派1人、スンニ派2人--は死亡を確認したが、4人目のSは1983年以来、行方が知れない。

  Sが戦地に向かったときは24歳。婚約していて、1年足らずで結婚するはずだった。家には家具までそろえ、結婚式の日取りも決まっていた。だが、二度と戻ることはなかった。Sの母は私の母のいとこだが、2003年にはついに息子が帰還する望みを捨てた。イランから新たに捕虜の一団が帰ってくるたび、彼女は電話をかけ、愛するSの消息を知らせてほしいと懇願した。誰かSを見かけませんでしたか? 誰か息子のうわさを聞きませんでしたか? 死んだのですか? その都度がっかりしながら、私たちはいつも彼女に言った。長い年月は流れたけれど、まだ生きている可能性はあるわ。帰還の希望はあるのよ。2002年、彼女は母に言った。誰かやって来て、そんな希望をそれっきり粉々にしてくれればいいのに--死んだとはっきり言ってくれればいいのに、と願っているの。心では、母の心には、息子がすでに死んだことが分かっていた。でも、確認が必要だった。確認もなしに生存の望みをまったく放棄すれば、一種の裏切りになるもの。

  イランとの長引く戦争の苦悩は、特に昨年来のイラクの現状を耐えがたいものにしている。占領側はアメリカ人であることを止めた。顔はアメリカ人。軍も同様。しかし、その根幹はイランのものへと、徐々に確実に変容を遂げている。

  言うまでもなくその変質は、2003年にアメリカ軍の戦車の後に従ったバドル旅団やイラン拠点の政治集団のいくつかとともに始まった。それは今日も続いている。ねじ曲げられた国民投票、それにイラン=イスラム共和国をモデルとする南部イラク国家を保障した憲法がその現れだ。

  国民投票の結果にはとても失望させられた。不正と闇取引(モスルは特に)のうわさが絶えなかった。すでに12月の選挙をボイコットしようといううわさが流れている。操り人形政権は占領下のイラク国民が享受している民主主義のなるもののはしくれくらいはアピールできる輝かしいチャンスだったのに。そんなチャンスはまるで台無しになった。

  12月の選挙については、シスターニは今日まで殊勝げに、特定の政治団体への表だった支持を慎んでいる。11月後半か12月初めまではそんな態度が続くが、その頃には信奉者が選挙に関するファトワを出してほしいとシスターニに執拗に迫るはずだ。やがて、彼は政党のどれか一つに支持を与え、その政党に投票するのは天来の義務であると宣言するだろう。賭けてもいい。シスターニは前回の選挙と同じく統一イラク同盟(UIA)を支持するにちがいない。

  おもしろいことに、今回の統一イラク同盟(UIA)の構成はイラク・イスラム革命最高評議会(SCIRI)とダーワ党にとどまらない。仲間入りすると予想されるのはムクタダ・アル・サドルの信奉者たち(マフディ軍)にほかならない! 昨年のイラク情勢を知る人は、多くがムクタダを「扇動家的聖職者」「過激派」「テロリスト」として認めるだろう。昨年は内務省からムクタダの逮捕令状まで出され、アメリカ側は「過激派聖職者」の拘留または殺害を行うと繰り返して、その方針を支持していたのだ。

  さて今日、彼はぴんぴんしていて、アメリカの政治家と操り人形たちが熱烈に歓迎する「政治プロセス」に絡んでいる。サドルとその信奉者たちは、美容院の脅迫や酒屋の爆破、適切な服装をしていない女性の誘拐その他の活動を引き起こしている。理由はこれらがすべて反イスラム的だと見なされるためだ(ただし、イラン・スタイルのイスラム教に基づいてだが)。サドルの武装集団についてはここhttp://www.uruknet.info/?p=m17385&date=02-nov-2005_04:31_ECTを読んで。すべてがアメリカ人、イギリス人、操り人形たちの手のうちにあるわけではない、なんてこれでも言いたい人がいる?

  アメリカ人たちは絶えず私にこう言う。「イラクからわれわれが引き揚げたらどうなると思う? 君たちが恐れている過激派が取って代わるにちがいないよ」。実際はイラク人の大半は原理主義者を好まず、安定がほしいだけ。イランの影響下にあるイラクなど耐えがたいと思うイラク人が大部分だ。アメリカ軍の存在は、バドル旅団その他と持ちつ持たれつの関係にある。なぜなら、アメリカ軍はイランと手を携えて始めて、イラク全土で占領に反対するイラク人を鎮圧できるのだから。仮にアメリカ軍が引き上げれば、そのときにはその操り人形たちと武装軍団は荷物を取りまとめて、もと来たところに引き上げなければならない。アメリカの保護と手引きがなければ、彼らは手も足も出ないのだ。

  アメリカの政治家がイランに対して大いに控えめな脅威をちらつかせたとき、その言葉に私たちは文字通り腹を抱えた。アメリカはもはやイランを脅す余力がない。仮にサドルの信奉者やイラン人聖職者のシスターニ、バドル旅団がアメリカに反旗を翻せば、1カ月もしないうちに自分たちがイラクから出ていかなければならないことを、アメリカは承知している。イランはやりたいことが何でもできる。ウラン濃縮? もちろん、オーケー。たとえば明日、イラン政府が目下核取引をやっていると宣言したとしても、ブッシュにできるのは再びニセモノのパイロットスーツを身にまとい、「テロへの戦い」に熱弁をふるい、シリアを多少なりとさらに威嚇することぐらいだ。

  おめでとう、アメリカの皆さん! イラン強硬派のイスラム法学者はイランを仕切っているだけではなく、イラクでも主導権を握っている。この権力の移動は、昨年、"我が忠誠は一番高値を付けた者に"主義のチャラビがその忠誠をイランに売り払ったときに、疑う余地がなくなった。アメリカ人やイギリス人の息子・娘たち、夫や妻たちが命を投げだそうとしているのはほかでもない。来るべき12月に、イラク人が投票に出かけて、イランの色のついた法学者に票を投じ、私たちをたっぷり400年は後戻りさせるためなのだ。

 民主国家イラクの夢はいったいどうしたのか?

  イラクは、イラク人を除くあらゆる人々の夢の舞台となってきた。シーア派が支配するイラン型イスラム国家を創り、ナジャフの聖廟を含めるというペルシャ人の夢、イラクを東の防衛境界線とする統一アラブをつくるという汎アラブ民族主義者の夢、地域最大の富裕国の一つに恒久的軍事基地を設置し、傀儡政権を樹立することで、この領域の支配をはかりたいアメリカの夢、キルクークの豊富な石油資源を財源としてクルドの独立国家を目指すクルド人の夢・・・。

 アメリカが力を与えた操り人形政権は、イラク人の夢を除くあらゆる夢を支持している。イラク人のイスラム教徒、キリスト教徒、アラブ人、クルド人、トルクメン人の夢・・・。一つの国として安定した豊かなイラクを建設するという夢は、過去2年、車両爆弾、軍の襲撃、占領といった硝煙の日々のうちに、粉々に砕かれてしまった。

午前12時47分 リバー

(翻訳 岩崎久美子)