Baghdad Burning

バグダードバーニング by リバーベンド

... I'll meet you 'round the bend my friend, where hearts can heal and souls can mend...

友よ、私の心が失われあなたさえ見分けることができなくなったら、どうか私を偉大な文明をはぐくんだ、チグリス・ユーフラテスの胸元に連れて行って欲しい。そこで私は心を癒し、魂を再生させるでしょう。

2005年5月30日月曜日

うわっ・・・  
   なんてことだろう


 ムフスィン・アブドゥル・ハミードを覚えている? スンニ派では基本的に唯一、積極的にイラク移行政府に関与しているイラク・イスラム党の党首。忘れた人のために強調しておくと「アブドゥル・ハミードは2003年に輪番議長の一人に選ばれました」 http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/3107887.stm (訳注:リンク先は2003年7月29日のBBCニュース。米主導の暫定占領当局が設置したイラク統治評議会が議長を決めることができず、結局シーア派、スンニ派、クルド人から9人を選んで1カ月毎の輪番制をとることとなったという内容の記事)。ムフスィンってね、うーん、そうね、つまり「2004年2月氏」よ。

 この数日、あちこちで強制家宅捜索や拘束があったことを聞いている。ターゲットになっている地域のひとつがアミリヤだ。聞いたところによるとイラク軍が家々を襲っては、15歳から65歳までの男性なら誰でも「容疑者」として手当たり次第に拘束し、その上略奪もしているという。米軍が占領後すぐの何ヵ月か強制家宅捜索を繰り返していた頃のようだ。

 今朝起きるとすぐ、「ムフスィン・アブドゥル・ハミードも拘束された」という興味深いニュースが飛びこんできた。http://english.aljazeera.net/NR/exeres/6779B776-EA32-44AC-94AB-088258872169.htm (訳注:米軍が誤って拘束したが、解放する予定という内容のニュース) 前イラク統治評議会つまり9人の操り人形のひとりでもあって、「スンニ派」。協力を惜しまない見本としてすべてのスンニ派を代表してかつぎ出されている人物でもある。たしかに彼は宗派としてのスンニ派を代表できる。部族としてのスンニ派(おそらくアラブのスンニ派部族をなだめるために)もいれば(つまりガジ・アル・ヤワルのこと)、さらに宗派としてのスンニ派を代表するムフスィン・アブドゥル・ハミードがいるというわけ。

 米側はムフスィンは「拘束されて、インタビューを受けている」と言っているが、そう聞けばまるで、彼の車が穏やかに停止を求められ、幾つかの質問を受けただけのような印象を受ける。実際にあったことは、彼の家が早朝に襲撃を受け、ドアは打ち破られ、窓も壊されて、彼と3人の息子たちが頭に袋をかぶせられて引きずり出されたのだ。今日のアラビヤTVに彼の家と妻の写真が映し出されたが、家はめちゃめちゃだった。家具は壊れ、テーブルはひっくり返り、本や紙類が散乱している。さっき、数分前のことだが、ムフスィンがテレビに出て怒り猛って話していたところでは、軍の要員たちは彼を床に押し倒し、ひとりのアメリカ人はブーツで20分も彼の首を踏みつけていたという。

 タラバーニは腹を立てているようだった。ムフスィンを拘束するなら事前に自分に一言あってもよかったのではないかと思っているのだ、まるで襲撃や拘束があるたびに彼に個人的に相談があるべきだとでも言わんばかりに。この拘束事件は不安をかきたてている。言っておくと私個人としてはムフスィン・アブドゥル・ハミードは好きではない。なんだか乾ききったジャガイモみたいだし、とにかく操り人形なのだから。でもこの拘束は不安をかきたてる。だってもしこれが本当に間違いだったというなら、想像しただけでもいかに沢山の人たちが「間違い」のせいで不当に拘束されて、アブ・グレイブのような所で痛めつけられている可能性が多いかがわかる。アブドゥル・ハミードは彼らの側に立っている人間なのに安全ではなく、襲撃され、辱めを受け、拘束されたのだ。彼はその日のうちに解放されたけれども、ほかのイラク人たちはタラバーニに憤慨してもらえるわけでもなく、政党がいきり立ってくれるような贅沢は許されていない。

 これはスンニ派へのなんらかのメッセージだったのだろうか? そうだと言っている人たちもいる。多くの人たちが思っているのは、これはスンニ派に「お前たちの誰も安全などではないのだ、我々と共に行動しているからといって」と知らしめるためだったということ。あれが大変な誤解だったとか間違いだったとか言われてもそれはとても信じられない。

 でも一方では、ある状況が明らかになっていくのを眺めるのは、たとえばだれかを農場から連れ出してニューヨークの真ん中に立たせ、どう対処するかを眺めるといった、人を難題に直面させるよくあるテレビ番組を見ているようなものだ。ああいう番組をなんと呼ぶのだったかしら。「だまし打ち?」 ムフスィンは彼らの敵の立場に置かれてみて、今は襲撃や拘束についてどう感じているのかな。

午後11時37分 リバー

(翻訳 高橋茅香子)
2005年5月29日日曜日

シーア派の指導者たち・・・

 今バグダードの話題は、目下の「稲妻作戦」。(訳注:バグダードで29日から、イラク治安部隊4万人以上を投入して開始された過激派掃討を名目とする作戦。米軍も1万人態勢で支援しているという)。この地区ではまだ始まっていないが、どんなものかは聞こえてくる。今のところ目に見える変化は、検問所が数カ所増えて携帯が通じなくなったことだけ。今バグダードは大きく二分されている。カルク(西バグダード)とラサファ(東バグダード)で間をチグリス河が流れる。この作戦では、カルクはさらに15地区に、ラサファは7地区に分断される。検問所は総数675カ所に増え、バグダードへの進入路はすべて監視下におかれる。

 カルクが15地区に分断されるのに、どうしてラサファはたった7地区なのかよくわからない。ラサファよりカルクの方が狭いし、人口も少ないのだ。だが、カルクにはグリーンゾーンがある。理由はこれかもしれない(訳注:グリーンゾーンはバグダード中心部の米軍管理区域。旧フセイン宮殿、政府庁舎、ホテルなどがある広大な区域で高さ3メートル、厚さ30センチ余のコンクリート壁や鉄条網で囲まれている)。675カ所の検問所のことも気がかりだ。今でさえバグダードを出歩くのはたいへんなのに、これ以上検問所ができたらますますたいへんになる。作戦には4万人のイラク治安部隊が動員されている。これもみんなの不安の種だ。イラク国家警備隊は人好きのする連中でもないし、まともな同胞でもない。そんな連中が何千とバグダード中に散らばって車を止め、あるいは一般市民を脅す――なんて、とても不安になる。強制家宅捜索もあるのではと、さらに不安になる。

 トーマス・L・フリードマンがコーランの冒涜について書いた、10日前のニューヨークタイムズの論説をメールしてくれた人がいる(あなたよ、N.C. ありがとう)。タイトルは、「憤激と沈黙」。

 フリードマンは、イスラム世界がことさらにコーラン冒涜に抗議のデモを行い、一方で自爆攻撃によってここ数週間の内に犠牲となった何百人ものイラク人については沈黙しているさまを語っている。

 以下、引用する。

 「しかしこれら大量殺人、イスラム教徒による生身のイスラム教徒に対する冒涜であり絶縁であるこの行為は、イスラム世界にただ一つの抗議デモも引き起こさなかった。さらにイラクのシーア派とクルド人に対して、自爆攻撃の聖戦戦士たちが行っているこれら無差別大量殺人を、イラク外のイスラム法学者が有罪宣告するファトゥワ(訳注:イスラム法に基づく決定)もまったく目にしていない。ワシントン・ポスト紙によれば、自爆攻撃者の多くはサウジ・アラビア出身だというが」。

 まず、言いたいこと。自動車爆弾で死んでいっているのはクルド人とシーア派だけではない。市場の真ん中やモスクの近くで車が爆発するとき、群衆の中からシーア派とクルド人を選び出しはしない。爆弾は若かろうが年寄りだろうが男だろうが女だろうが、民族の違いも宗派の別も容赦はしない。すごく高性能なんだって政府が言おうともね。それに所かまわず爆発している。シーア派とクルド人が住んでいる州だけではない。この頃ではそこら中にあるように思える。

 フリードマンの説でとくに面白い――だけじゃなくて、とんでもないと思ったのは以下のくだり。

 「スンニ派が多数を占めるアラブ世界が、史上で初めてシーア派がイラクの指導者に選ばれたことをどう見ているか、その宗教的意味合いは、たとえば1920年代のアラバマで黒人知事が就任したら白人たちはどう感じただろうかと考えてみればわかる。スンニ派の中にはシーア派は正統なイスラム教徒ではないと考える者もいて、残忍な行為をしても平気なのだ」。

 ほらね、ユダヤ系アメリカ人のジャーナリストがスンニ派アラブ人に成り代わって発言するのを見るのは、ぜったい面白い。現在のようにスンニ派アラブ人が他のスンニ派アラブ人を代弁するような形でものを言うのを躊躇しているときに、トーマス・L・フリードマンが自信をもって「スンニ派アラブ世界」の意識をこんなに明確に要領よく説明してるって知ってうれしいわ。何という傲慢。

 フリードマンの言ってるのはとんでもないことだ。多くの人々にとって問題はスンニ派とシーア派のことでもアラブ人とクルド人のことでもないからだ。考えるべきは占領と、自分たちを真に代表するものがいないと思っている人々のことだ。何重にも張りめぐらした有刺鉄線と分厚いコンクリートの奥に隠れていなければならないような政府。隠れなければならないのは、シーア派だからでもクルド人だからでもスンニ派アラブ人だからでもない。死と破局をもたらした占領を恥知らずにも支持し、なお支持し続けているからなのだ。

 上記引用文は嘘っぱちのくずだ。「シーア派指導者」という発想は、フリードマンがどんなに新奇なものと印象づけようとしても、イラク人や他のアラブ人にとってまるきりの理解の外ではないからだ。それを何とまあ、1920年代のアラバマで黒人知事が選ばれることに例えるなんて! 1958年、独裁制に終わりを告げた7月14日革命後の独立評議会の長(大統領にあたる)はムハンマド・ナジブ・アル・ルバイエ、南部のクート出身のシーア派だった。1958年から63年まで、同じくクート出身のシーア派、アブドゥル・カリム・カースィムがイラク首相だった(つまり現在のジャファリと同じ)。1963年、アブドゥル・カリム・カースィムの後を襲って首相の地位についたのは、またもやシーア派のナジ・タリブだった。先のサッダーム体制下でさえ、二人のシーア派、サドゥーン・フマディとムハンマド・アル・ズバイディが数年間首相を務めた。

 つまりスンニ派アラブ人はシーア派指導者をいただくことを恐れてはいないのだ(目下の操り人形たちの親イラン傾向はひじょうに気になるが)。フリードマンは、一夫多妻のスンニ派アラブ人、ガジ・アル・ヤワルが大統領職にあった間(訳注:2004年6月の主権移譲後の政権で大統領となった)、襲撃は同じくらい激しかったことを都合よく忘れているらしい。もし単純にスンニ派対シーア派あるいはアラブ人対クルド人の問題であるなら、スンニ派アラブ人は大挙して「笑い牛」(イラクの言葉で「Al Baqara al dhahika」。イラクでヤワルはこう呼ばれている)に投票しに出かけただろう。(訳注:イラクの人々は、笑う牛をデザインしたフランス、フロマジェリ・ベル社のチーズの商標ラ・ヴァッシュ・キリを思い浮かべるのだろう)。

 また、次のくだり。  「スンニ派の中にはシーア派は正統なイスラム教徒ではないと考える者もいて、残忍な行為をしても平気なのだ」。
 ばかげているの一言。フリードマンはそうとはっきり言わずにスンニ派過激主義者のことを言っている。しかし、シーア派過激主義者もスンニ派に対し同じように感じていることは言わない。「キリスト教世界」にだって、プロテスタントその他に対し同じように感じているカトリックがきっといると思う。何世紀もの間、スンニ派でありシーア派であるイラク人はお互いに結婚によって結ばれ混じりあってきた。イラクの大部族の多くはスンニ派とシーア派が複雑にからまりあってできている。私たちには、お互いのことをあれこれ言ったり、誰がイスラム教徒で誰がそうじゃないか、誰がやさしくされて誰が残忍に扱われるべきかなんて品定めしたりする習性はない。

 フリードマンの言葉。「もしアラブ世界、アラブのメディア、アラブの精神的指導者が思い切って、自爆攻撃を展開している者たちを強く何度も糾弾したなら、またもし信頼できるスンニ派がイラク政府においてしかるべき地位を与えられるなら、現在多発している自爆攻撃は止むであろうと確信している」。

 アラブ世界の精神的指導者とメディアのトップは、今、両手を縛られている。フリードマンは、イスラム教の精神的指導者が目下の混乱に関わることを期待しない方がいい。なぜなら指導者たちの第一の任務は、コーランにはイスラム世界は非イスラム教徒の保護や支配下にあってはならないと書かれていることを、イスラム世界に思い出させることだからである。そうなればアメリカの占領はよく見えはしないだろう。

 フリードマンには、なぜコーランの冒涜に対しては何千何万もの人々が抗議するのに、イラクでのテロ行為には抗議行動が起きないのかわからない。イラクにおける一般市民に対する爆弾攻撃は、過激主義者、狂信者、私兵といった者たちによって行われている。グアンタナモでのコーラン事件、アブグレイブなどの事件は、軍によって組織的に行われている。その軍は目下戦争に従事していて、その戦争はアメリカ国民の税金でまかなわれている。これこそイスラム世界が許せないと感じている理由だ。

 つまりイラクで起こっていることはテロ行為だ。これに対しアメリカやイギリスに勾留されているイラク人、アフガニスタン人、その他の国の人々に起きているのは、はっきりと「暴動対策」であり「上部の方針」なのだ。戦争の初めの頃、米軍捕虜がイラクのテレビに映し出されたとき、全世界が怒り狂ったことを思い出すと気分が悪い。清潔で安全で丁寧に待遇されていたのに。私たちだってその時は、どうしてこんなふうに世界にさらしものにされなくてはいけないのかと思い気持ちのやり場がなかった。気の毒に思うくらいの品性は持っていたのだ。

 フリードマンの論説は、スンニ派アラブ世界のことしか見ていない。最大のデモはアラブ世界であったのではなくて、パキスタンやアフガニスタンなどで起きたことを述べていない。さらにイラクで最大のコーラン冒涜事件抗議デモは、実はシーア派が組織し参加したのだということも述べていない。

 トーマス・フリードマンが何を言おうと、イラク人にとって幸せなことに、スンニ派もシーア派も大多数はイスラム教徒として仲良く暮らしていきたいと望んでいる。スンニ派としてあるいはシーア派として、ではない。

午後3時43分 リバー

(翻訳 池田真里)
2005年5月18日水曜日

死者と亡者・・・・・・

 「おおぜいの従者に取り巻かれて、その女性は混み合った室内に立っていた。押し合いへしあいして、女性の邪悪なオーラに近づこうとする人々。酷薄な唇が歪んで表情を作ると照明が歯にきらめいた。微笑のつもりだったのだろうが、冷たく生命を失った目は笑わなかった。いやらしい目つき――獲物に食いつく前の吸血鬼の目つきだった」。

 これは「バッフィ――ザ・バンパイア・キラー」(訳注:バンパイアをやっつける女子高校生バッフィを描く映画)のシーンではない。コンディ・ライスが一昨日イラクに来たときのこと。うちでは愛をこめてコンディをバンパイアって呼んでいる。ブッシュとは大違い。ブッシュはただの阿呆面。ところが、コンディはどこから見ても邪悪そのものだ。

 荒れた2週間だった。爆発はバグダードだけでもすごい数だ。暗殺も数件あった。あちこちで死体が見つかっている。とんでもない場所で死体が見つかったと知るのはあまり気持ちのいいものではない。川魚は食べない方がいいよ、川に捨てられた遺体を食べて大きくなったんだから――何人もの人からこう聞くはめになる。こんなことを考えるだけで、幾晩も眠れない。バグダードが巨大な墓場になったように感じられる。

 新しく見つかった遺体は、スンニ派とシーア派の法学者のものだった。うち何人かはよく知られている人物だ。みんな辛抱強く耐えている。誰もが、これらの殺戮が内戦を引き起こそうと繰り返されていると知っているのだ。さらに気がかりなことがある。人々がイラク治安部隊に一斉検挙されては、何日かして死体として発見されるという噂だ。イラク新政府が先頃死刑の復活を決めたとき、念頭にあった死刑とはどうやら別のことだったらしい。

 だが、爆発に戻ろう。大きな爆発のうちの一つは、中流階層の住むバグダード西部地区マムンで起きた。日用品などを売る店がある比較的静かな住宅地だ。爆発は朝、ちょうど店が開くころ起きた。肉屋のまん前だった。すぐ後で爆破現場に面した家に住んでいた男性が米軍に連行されたと聞いた。爆発が起こった後、イラク国家警備隊員を狙撃したからだという。

 あまり深くは考えなかった。注目すべきことは何もなかったから。爆発と狙撃者――どこといって変わった話ではない。だが、数日後、興味深い話が聞こえ始めた。地区の人々が、その人は誰かを撃ったからでなく、爆発について知りすぎたために連行されたと言っているというのだ。噂はこういうものだ。その人は、爆発の数分前に米軍パトロール隊が地区を通り現場で少々足を止めるのを見た。パトロール隊が去ると時をおかず爆発が起こり、大混乱となった。その人は家から走り出て、近所の人や近くにいた人々に、米軍が爆弾を仕掛けたか爆弾を見つけたのに放っておいたかどっちかだと叫んだ。そして速やかに連行された。

 爆弾は不気味だ。国家警備隊の真ん中や米軍やイラク警察の近くで爆発するものもあり、モスクや教会、商店の近く、市場の真ん中で爆発するものもある。爆弾についてのニュースでいつもあきれるのは、必ず自爆者と結びつけられていること。現実をちゃんと見るなら、全部が全部自爆爆弾でないことは明らかだ。自動車爆弾というのもあって、遠隔操作で爆破されるか時限爆弾という場合もある。使われる仕掛けも違うし、もちろん目的も違うことは周知の事実。抵抗の手段だという人々もいるし、チャラビとその一党が大部分やったという人々もいる。イランとイラク・イスラム革命最高評議会(SCIRI)の私兵集団バドル旅団のせいにする人々もいる。

 いずれにせよ爆弾は恐ろしい。すぐ傍にいたとしたら、最初耳が張り裂けそうな轟音がして、次にガラス、爆弾の破片、そのほかさまざまな鋭利な破片が降り注ぐ音が聞こえる。続いてかん高い音がいくつも響き渡る。救急車の鋭い金属的なサイレンと近隣の車の警報装置の音。そして最後は、瓦礫の中から死者や瀕死者を探し出そうとする人々の泣き叫ぶ声。

 おとといムスタンシリア大学が爆弾でやられた。ハリドのサイト、「バグダードの秘密」 http://secretsinbaghdad.blogspot.com/ にこの事件の記事がある。(訳注:2005年4月18日の項にあるファルージャ緊急支援募金を集めたラエド一家の弟ハリドのサイト。爆破の記事は5月16日付け。小型ミサイルだったらしいこと、当時少なくとも死者4人、負傷者多数。その後ハリドの顔見知りの、よい父親であった警備員も死亡と記録されている)。

 目下、ニューズウィークの記事に対する抗議行動に注目している。http://news.yahoo.com/s/ap/20050517/ap_on_go_ca_st_pe/newsweek_quran&printer=1 (訳注:ニューズウィークの記事は、テロリストとされてキューバ、グアンタナモ・ベイ刑務所に収容されているイスラム教徒の目前で尋問官がコーランを冒涜したというもの。この記事に怒ったイスラム教徒の抗議行動の高まりに対し、米政府がそれを裏付ける事実はなかったとしてニューズウィークを追求、同誌は謝罪、続いて記事を全面撤回した。リンク先は米政府のニューズウィーク誌責任追及の記事)。抗議行動の参加者の多さ、何千何万ものイスラム教徒がコーランの冒涜に激怒していることに驚いているのではない。そのニュースが正面きっての侮辱としてイスラム世界を震撼させ、集団ショック状態が人々を襲ったことに驚いているのだ。
 どうしてショックなのだろう? ものすごくひどい話ではある。だが、どうしてショック?アブ・グレイブやそのほかイラクの刑務所であんなことがあった後で、どうしてこの事件からショックを受ける?アフガニスタンやイラクのアメリカ人看守は人間の命や尊厳にこれっぽっちの敬意も払ったことなんてない。それなのにどうして聖なる書物を敬うだろうなんて思える?

 ホワン・コールがこの件についていいサイトをいくつか紹介している。
http://www.juancole.com/2005/05/guantanamo-controversies-bible-and.html (訳注:ミシガン大学歴史学教授、ホワン・コールのサイト。コーランをトイレに捨てるなど冒涜の事実があったことを述べたサイトを紹介している)。

 結局ニューズウィークは記事を撤回した。ホワイトハウスの圧力があったことは見え見えだ。記事はほんとう? おそらく、ね。この2年間、イラクで人々の信仰、イスラームがいやというほど辱められ蔑まれるのを見てきた。だからこの記事は大いにありうることと思える。毎日のようにモスクが強制家宅捜索され、法学者たちが頭に紙袋をかぶせられて引ったてられていく。数カ月前、世界中の人々は武装していない捕らわれのイラク人がモスクの中で処刑されるのを見たではないか。それなのにこの最新ニュースがそんなに意外?

 何週間も何ヵ月も刑務所に拘束されて帰ってきた人々は、豚肉をむりやり食べさせられ、祈祷を許されず、犬をけしかけられ、信仰を侮辱され、ひと言でいうなら檻(おり)に捕らわれた動物の扱いを受けたと語っている。しかし事の本質は、言葉や聖なる書物や豚肉や犬やそういった次元のことではない。個々の人の奥深いところでこれらが何を意味しているかということなのだ。私たちが神聖と考えているものが、何千キロもの遠路をわざわざやって来た外国人によって辱められるのを見ると、血が逆流する。兵士全員がイスラームを蔑んでいると言っているのではない。中には誠実に私たちの信仰を理解したいと思っている人もいるようだ。指揮に当たる人間が辱めを方針とすると決めたとしか思えない。

 このような行為を繰り返すことによって、この戦争は新たな次元へ進んだ。この戦争はもはや対テロ戦争でも対テロリスト戦争でもない。言ってしまえばイスラームに対する戦争だ。そして宗教と政治は別と考えるイスラム教徒さえ戦いを受けて立たざるをえなくなりつつある。

午前12時5分 リバー

(翻訳:池田真里)

2005年5月2日月曜日

ニンジンに救われた・・・

 ここ数日、爆発しやすい日々が続いている―文字通りの意味で。こんな状況は4日前からのことだが、いまもって続いている。バグダードだけでも車の爆発が14件ほど起きていると、2、3日前に聞いた―といっても、うちの近所で起こったのは6件だ。最近、車を見るとびくびくしてしまう。どの車も怪しく見える―小さいのも大きいのも、古い車も新車も、運転手が乗っている車もレストランや店の前に停車している車も。ちかごろは、どれもこれも不吉に見える。

 一昨日は私たちにとって最悪の日だった。叔母と16歳になる叔母の息子がきた。この家は「いまだに」じゅうたんを敷いたままじゃないの、と叔母ががみがみ叱るのを私たちは辛抱強く聞いた。イラクではじゅうたんは一年中敷きっぱなしにするものではない。私たちは4月ごろじゅうたんを取り払い、10月あたりに敷きなおす。それに、外国のように壁と壁の間にじゅうたんを敷き詰めたりしない。そのかわり、きれいなじゅうたんを部屋の真中に敷く。いちばん上等なのはイラン製、なかでもタブリーズやカシャンで織られたものだ。大きくて重く、デザインが入り組んでいる。タブリーズやカシャン製のじゅうたんはとても高価なので、今や持っている家族はとても少ない。バグダードでタブリーズ製のじゅうたんを持っている人がいるとしたら、たいてい遺産で相続したものだ。

 うちにはごくふつうのペルシャじゅうたんがある(じつはペルシャ産じゃないかもしれないと思っているのだが)。高価ではないし、取り立てて見栄えがいいわけでもないけれど、居間にいかにもイラクの家らしい東洋的な雰囲気をもたらしている。家具がどんなに西洋的でもかかわりなくね。

 じゅうたんいっぱいにシンメトリーに繰り返されるパターンと色。でも、注意深く観察すれば、花や幾何学模様や、ときには鳥や蝶が紡ぎだす物語が読みとれる。E. と私は、幼いころ、じゅうたんの上に座って目を凝らし、色とりどりの色や模様を「読もう」とした―床にじゅうたんを敷いているって、床にウールのブログを広げてるみたいなものね。

 叔母は座ったまま、小言を続けた。じゅうたんはとうの昔に、そう、4月の初めには洗って片付けておくべきだったと。その通りよ。じゅうたんはきれいに洗い、きっちりと巻いて、ほぼ7ヶ月間、2階の歩哨でもあるかのように2階の廊下のすみに高くしっかりと立たせて保管すべきなのだ。私たちが今までそうできなかった理由は、ごく単純だ―うちの地域では水の出が悪くて4月にじゅうたんを洗えなかったので、じゅうたんを洗うのを1週間延期したら2週間となり、あっという間にずるずる3週間・・・そして、とうとう5月1日になってしまい、じゅうたんが床の上で私たちをとがめるかのように見ていることになったというわけだ。

 叔母は、20分も経たないうちに、今晩うちに泊まって翌日私たちが問題のじゅうたんを片付ける手助けをしようと決断した。私たちは屋根を完璧にきれいにすることになった。翌日、じゅうたんを次々に屋根まで引き上げ、徹底的にたたいてほこりを払い、大きいじゅうたんは叔母秘伝のじゅうたんクリーニングミックスで隅々まで拭き、小さいものは洗い、熱い屋根に広げて乾かすのだ。

 息子のほうは泊まるわけにいかなかったので、その日のうちに2キロの道を歩いて家に帰ることにした。彼がうちを出たのはたしか午後1時ごろだった。叔母が次々に繰り出す指示に、彼は耳を傾けた。お父さんの昼食を温めてね、勉強しなさいよ、果物は洗ってから食べるのよ、帰り道でニンジンを買っていってね、怪しい車や人に気をつけてね、家についたらすぐに電話してね、そうしたら安心だから。

 彼はうなずき、手を振って別れをつげ、門を出て大通りの方へ歩いていった。

 3分後、爆発で家が揺れた。窓がガタガタ鳴り、階上のどこかでドアがバタンと閉まった。私は居間のじゅうたんの端をつかんだ。じゅうたんの下に虫がいないのを叔母に見せるためにめくった箇所だ。

 E. は険しい顔で「自動車爆弾だ」と言い、爆発がどこで起きたのか見ようと外に駆け出していった。私はおそるおそる叔母を見た。叔母は真っ青な顔をしていた。外に出ようとスカーフをつけなおす手は震えていた。

 彼女はあえぎながら、「F. は、いま出たばかりなのよ…」と、息子のことに触れた。私は手の内のじゅうたんを取り落とし、E. を追って外に走り出た。爆発の方向を確かめようとしたとき、心臓がばくばくした。私は叔母が近くにいるのを感じた。

 叔母は弱々しく「あの子を見た?」と言った。そのとき私は道路の真中にいた。あたりには近所の人たちも何人か立っていた。

 私は道路の向こう側にいる近所の子どもに「爆発はどこだったの?」と聞いた。

 「大通り」。その子はいとこが向かった方向をさして答えた。

 「爆発は大通りだったの?」叔母は門のところで叫んでいた。

 「ちがうわ」。E.を探しながら、私は嘘をついた。「爆発は別のところだったのよ」。私は大通りまで走っていこうかどうしようかと考えていた。大通りには人が続々と集まってきていた。と、E. が角を曲がるのが見えた。いとこに軽く腕をかけていた。いとこは興奮してしゃべっているようだった。私は振り返り、叔母を励まそうとにっこりした。門のところにいた叔母はほっとして力が抜けたようになった。

 「あの子は無事だった」。叔母は言った。「あの子は無事だったのね」。

 「ぼく、爆発のすぐそばにいたんだよ!」F.は、家に近づくと、興奮して言った。叔母は彼の肩をわしづかみにして、彼の顔を、首を、腕を、調べはじめた。

 「お母さん、ぼく、だいじょうぶだよ…」。いとこは叔母の手をすり抜けた。叔母は、この子はもっと注意深くしなくてはならなかったのに、と理不尽な小言をちりばめながら、長い感謝の祈りを唱えはじめていた。

 私は、答えを恐れつつ「犠牲者は?」とE.に尋ねた。E.はうなずき、指を3本立てた。

 「3人殺されたと思う。病院へ連れて行ってくれる車を待っている人たちもいた」。

 家に着いてから、E.と私は、E.が現場に戻って、なにか手助けできないか見てくるべきだと思った。私たちは、ガーゼや包帯や消毒薬と、冷水が入ったビンを2、3本集めた。E. が出かけると、私はいとこのそばに戻った。彼は緊張し、興奮していた。信じられないという思いで目を大きく見開いていた。話をするとき、声はわずかに震え、下唇がわなないた。

 「道路を渡ろうとしたときに、ニンジンを買わなくちゃって思い出したんだ」。彼は早口でしゃべった。「それで、野菜売りのおじさんのところで立ち止まって、ニンジンを買おうとしたちょうどその時―ドカンって大きな音がして車が爆発して、その隣の車が燃え出したの…もしニンジンを買うために立ち止まっていなかったら…」。いとこが腕を振り回したので、私はその腕が顔に当たらないように身体をそらせた。

 居間にいた叔母ははっと息を呑み、立ち止まった。「ニンジンがおまえを救ったのね!」彼女は胸に手を押し当てて叫んだ。いとこはあっけにとられて母親を見た。いとこの顔にゆっくりと色が戻ってきた。「ニンジン」。彼はつぶやき、椅子にドシンと座り、クッションをひっつかんだ。「ニンジンがぼくを救った」。

 1時間後、E.が疲れきって帰ってきた。2人が亡くなった―3人目はおそらく助かるだろうが、少なくとも10人が負傷した。いとこを見るたびに、感謝しつつも不思議でならない。私たちはなんてラッキーだったのだろうと。


午後11時59分 リバー

(翻訳 いとう みよし)