Baghdad Burning

バグダードバーニング by リバーベンド

... I'll meet you 'round the bend my friend, where hearts can heal and souls can mend...

友よ、私の心が失われあなたさえ見分けることができなくなったら、どうか私を偉大な文明をはぐくんだ、チグリス・ユーフラテスの胸元に連れて行って欲しい。そこで私は心を癒し、魂を再生させるでしょう。

2004年4月30日 (金)

 写真...
 
それはおそろしいものだった。それらを見たとき、いろんな感情がよぎった。その最も突出したものはもちろん憤怒だった。何かものを破壊したいという抑えがたい欲求に衝き動かされた。事態を何とかマシにするため、あるいは怒りや屈辱を静めるために。これまでバグダッドのアブ・グレイブ刑務所についてはひどい話を聞いていたけれど、どの言葉も表すことができない様子をそれらの写真は呈していた。

裸にされ、無抵抗の、頭に袋を被せられた人々を見たとき、冷たい氷の手で顔をひっぱたかれたような気がした。見てはいけないものを私が見たというように...彼らを見たことが私を恥じ入らせた。そして脳裏に浮かんでくるのはただ「この顔の見えない人たちの誰かを知っているかもしれない...」ということだった。町で通りすがったり、一緒に働いていた人かもしれない。この人たちの一人から食料品を買ったかも、あるいは大学で座って講義を受けた...彼らの誰かは先生であったり、ガソリンスタンドのサービス員あるいは技術者...誰かはお父さんであったりお祖父さんであるかもしれず...彼らのひとりひとり、どの人もが誰かの息子やたぶん兄弟なのだ。そして、人々は数週間前にファルージャでおこった、あのアメリカ人たちが殺されて通りを引き回されたことがなぜ起こったのかを考えるのだ...

今日は誰も彼もそれらの写真のことしか話さない...恐ろしい写真。それほどの激怒とフラストレーションをみんなは感じている。これが「たまたまあった出来事」であり、また、「こんなことをした人たちを恥じています」といったことを主張する何十通もの電子メールが私のところに来ることはわかっている。でも、それが何だというの?アブ・グレイブのこの人たちはどうなるの?アブ・グレイブでの仕打ちで永久に傷つけられた生活や命や彼らの家族はどうなるの?何人かは次のようなメッセージを送ってくることもわかっている。「でも、これはサダム政権下でも起こっていたのでは...」だから今起こってもかまわないと...過去にも苦しみがあったのだから、大量虐殺や拘留や拷問も、単なる小さな不運で片付けてしまおうと。私はずっとMのことを考えていた。なるほど彼女は実に「幸運」だったといえる。そしてわかっているかしら?あなたがたは暴虐非道や何が起こったかの半分もしらないってことを。なぜなら、イラク人は誇り高く、気高いので、性的虐待については、誰でも進んで話題にするような主題ではないから。アブ・グレイブや他の場所での残虐行為は隠され、そして占領軍がもたらしている全ての他の恥ずべき事の下に埋もれてしまうだろう...

女性の囚人たちに起こっているにちがいないことを考えると私の血は逆流する。それは、憂鬱とか屈辱をはるかに超えたものだ。イラクの囚人たちのそばで笑っている兵士を見るとぞっとする。何とかして彼らが苦しめられることを私は望む。でもどういうわけか彼らは罰せられないということを知ってはいるけれど...彼らは、せいぜい軍隊から除隊されて家に帰り、家族や仲間たちと一緒にその写真に乾杯するのだろう。「アメリカの精鋭」が「ばかなイラクのテロリスト」をどうあしらっているのか...に。ジャニス・カーピンスキー(訳者注:1月まで同刑務所の責任者だった予備役准将)がするであろうおそまつな弁解、どんなに彼女が彼女の父に子供の時虐待され、彼女の母は酒に溺れて早死にしたかということ。それが彼女がアブ・グレイブでやったことの理由だったなどと、いずれ本を書いたりするのだろう。本当に胸が悪くなる。

統治評議会はどこにいるの?彼らはいったいどこに隠れているの?

私はこの件についてちゃんとおおやけに立件されることを要求する。このことに責任のある身の毛もよだつような兵士たちをおおやけに罰し、辱めることを要求する。彼らに有罪判決を下し、いかに恐ろしい人たちであるかを認定することを要求する。彼らがどんなことをしたかということを、彼らの子供たちやその子供たちにもずっと伝えつづけて欲しい。この囚人たちが受けた屈辱と痛みがイラク人のこころと魂に忌まわしい記憶として刻み付けられている限り...

(11:03 PM) リバーによって掲示
(翻訳 ヤスミン植月)

2004年4月26日 (月)

 チャラビ、旗、国歌...

 過労にはふたつある。ひとつは、肉体の過労。たとえばバケツに水を入れては階段を上ったり降りたりして屋上のタンクをいっぱいにする。これを40回繰り返す――4回めか5回めで、筋肉が皮膚の下でぶるぶる震えているのがわかる。バケツをおくと、腕は頼りなく重さがないみたい――なくなってしまったような感じだ。もうひとつは、こころの過労・・・それは、このバケツ運びを頭の中でやる、40杯分の水が、次々と空けられていく過程を思いえがくとき、また心配や怒りや恐怖がどっとあふれて叩きのめされそうなとき。

 まわりの人はみんな、このこころの過労状態だと思う。それは目の中に見てとれ、緊張した声に聞きわけることができる。激しい感情の重荷でいまにもぶっちぎれそうだ。みんな、まわりを用心深く見張りながら、なんとか平常半の生活を送ることに神経を集中しようとしている。つなわたり。南部の状況は悪化するばかりで、毎日何人もの新たな死者の報を聞く。ファルージャでは、再び戦闘が開始された。停戦はいったいどうなったんだろう。いま何が起こっているのかだってわからない。深い疲労感がわたしたちを被っている。

 チャラビが(うまくいけば)ほされかかっているという、記事を読んでいた。チャラビが役立たずだという結論に達するのに、ワシントンはこんな長い時間が必要だったとは、信じられない話だ。チャラビが新時代のリーダーとして歓迎されるだろうって思ってた人、いる? みんな、この1、2週間、ファルージャ攻撃の間、チャラビが何をするか何を言うかと注意深く見ていた。重大局面だった・・・みんな、操り人形評議会のなんらかの動きを期待していた――ともかくなんらかの動きを。非難の言葉・・・殺されていっているまたホームレスに捨ておかれているイラクの人々との連帯の表明を。だが、あるのは奇妙な沈黙だった。評議会のメンバーひとりが、辞任を振りかざして脅した。しかしそれも憤激したイラクの人々が、この事態をなんとかしないと評議会メンバーを叩きのめしてやるという姿勢を見せてのちのことだった・・

 チャラビはごく最近になって自分の安全な場所からあえて出てきて(いつものけばいネクタイで)、選挙の可能性を探るためにコフィ(国連事務総長)から送り込まれた国連特使ブラヒミは、全面的に反シーア派で偏向していると叫んでいる。それで、チャラビはいまや自分がイラク中のシーア派の擁護者であると思っているらしい。この構図の愉快な点は、誰もチャラビに、シーア派の間ではおまえはジョークになってるよと教えてやってないらしいことだ。イラク人(スンニ派とシーア派)はこんなふうにからかいあっている。「じゃ、‘シーア派、時の人’、チャラビってわけだ、なるほど」。すると、言われたほうは憤然として、そんなんじゃない、チャラビはたとえばイラクの・・・ブリットニー・スピアーズだ。

 テレビで演説しているチャラビをじっと見る。そして、彼がイラク社会のなんらかの党派を代表していると考える人がどこかにいるなんてことがあるんだと思ってつくづくいやになる。チャラビがイラクの知識人と非宗教主義者の旗手だと思われているなんて信じられない。彼はブッシュ株式会社が、民主主義推進のためといって、兵士や戦車と一緒にイラクに送り込んだおもしろくもないジョークだ――17、8の男の子が卒業記念ダンスパーティのためにダンスを練習するときの、プラスチック人形のお相手みたい。

 今日はまたこんなニュースもある。操り人形たちが国旗を変えるんだって。前のとはちっとも似ていなくて、初めはすごく不愉快だった。しかし、関係ないんだと気がついた。操り人形評議会には法的根拠はなく、よってそこで制定した憲法は無効で、そこで決定した旗はそこだけのものだ。その旗は、評議会がイラクを代表している程度に、イラクを代表している、その程度のものだ――内側の縫い目にそって“メイド・イン・アメリカ”と縫いとりがしてあるんだろう。あれは操り人形評議会の旗で、見るたび、その青白い地色にチャラビたちの顔を見るわけだ。

 アメリカにいるメール友だちで同業イラク人のシステム・アナリストは、こんなことを言ってきた。彼女のメール中の傑作。「イラク人のみんなさんは、まったく法的根拠のないイラク操り人形評議会の手によって、輝かしい色合いの国家的布きれが制定されたことの著しい重要性にきっとひじょうに興奮していることと思います。もちろん新国旗のデザインは、いつも趣味のよい着こなしの自称対テロ専門家イラク総督、ポール・ブレマーが承認したもので、彼は、手縫いの戦闘用ブーツ、何千ドルの特注スーツ、シルクのデザイナー・タイを着用していることで有名です。次回の大ニュースは、国旗と国旗が代表する帝国に対して斉唱される’忠誠の誓い’となります。忠誠の誓いのアメリカ人作者の名前はまだ発表されていません。」

 近々制定される国歌の歌い手として、イラク版“レディ・ママレード”の豪華メンバー、チャラビ、アラウィ、ハキム、タラバニを提案させてください。

リバーによって掲示 午後11時37分
(翻訳 池田真里)

2004年4月23日 (金)


説明などできない...
  この一週間くらい書き込みをしなかった。そんな気になれなかったからだ。時に宿題のように重荷に感じたり、書かなかったことに後ろめたさを覚えたりしたことさえある。なぜブロッグしないのか、少なくとも電子メールをチェックしないのか非難するように見返すので、私はコンピューターを見ないようにする。実をいうと、私たちのまわりであまりにも多くのことが起こっているので、ささやかなブロッグに要約し始めることができない。南部の状況とファルージャにおける停戦まがいに、私は苦しみつつ腹を立てていた。現在私の廻りに漂っている感情を的確に表現できるものは何もない...それはモリッシーの歌に似ている:

今、私の心はいっぱいで
今、私の心はいっぱいで
説明などできない
だから、説明しようとさえしない

  ファルージャは一種の停戦状態だが、都市部ではまだ爆撃が続き、どちらの陣営からも死者が出ているという。難民はいぜんバグダッドおよび近隣の都市にいる。この2、3日、軍隊が1日当たり約80組の家族の流入を認めていると聞いたが、今では1日当たり15組の家族に減少したそうだ。難民は家に戻ることに不安で、家族を都市部に残す人も多い。

 さらに、南部の状況、特にカルバラは気がかりだ。連合軍とアル・サドルの民兵との衝突の話が流れてくる。さらにバスラとバグダッドで爆発があったという。しかし、そんなこともうニュースにもならなくなった。イラク人は、砂塵嵐、停電および蚊と共にそれらをうまく切り抜ける。それは生活の一部になり、ちょうどアメリカ軍による道路封鎖をくぐり抜け、ますます高くなるコンクリート壁の迂回方法を見つけるように、生きるための抜け道を見つけなければならない。

 このところ、一種の蒸し暑い、激しい暑さが続く。私たちが慣れている通常の乾燥したイラクの暑さではない。ほとんど固体として感じられるほど、湿気を多く含んでじとじとした暑さだ。電気の状況は、多くの地域で相変わらず大変悪い。3時間の電気供給の後、3時間の暗闇というスケジュールだ。それが涼しい冬の数か月なら耐えられるが、地獄のような夏の数か月は拷問の日々が約束されている。

 明日またブロッグするだろう...私を心配するすべての人々に大丈夫だと知らせるために―私は生きていると。それに、もっと言わなければならないことがある。
(翻訳 山口陽子)


2004年4月14日 (水)


メディアとファルージャ

 先週来のファルージャと南部での暴動と戦闘を報道するアル・アラビアとアル・ジャジーラの姿勢について、批判の声があがっている。ある米軍スポークスマンは、こういう放送局のせいで“反米感情が蔓延”するのだとがなりたてた。

 そのとおり、両放送局の、ファルージャ・南部諸州攻撃に関する報道は驚くべきものである。アルジャジーラは、記者を混乱のただ中にぶち込んで文字どおり戦場配備つまり従軍させている――従軍といっても戦争の初めの頃派遣されていた欧米のへっぽこ従軍記者みたいなのではない(ほら、グリーンゾーンに従軍、クウェートに従軍というような)。アハマド・マンスール(たしかこういう名だ)は、ほんとにその場に、爆撃のまっただ中に立ち、F―16戦闘機やヘリコプターが家々やビルを爆破攻撃する音に負けまいと大声で状況を伝えていた。‘衝撃と畏怖’の日々がよみがえる。

 CPAは、テレビが死んだイラク人の亡骸を映し出すのを見たくもないのだ。アル・ジャジーラとアル・アラビアが、アル・フーラをお手本にして、海外に住む占領支持派のイラク人のぎこちないアラビア語インタビュー番組を延々放送したら、連中は大喜びするだろう。もちろん、こういったインタビューの合間には、アラビア語吹替えのドキュメンタリーが散りばめられる。何の? 驚嘆すべき映像――うーん――ハリウッドの。個人的にはわたし、最新型アウディの特注皮張りインテリアに興味がないわけじゃないけど、700人以上のイラク人がいま殺されているときに、アル・ジャジーラとアル・アラビアからチャンネルを替えるなんてことできそうもない。(訳注:アル・フーラは、ボイス・オブ・アメリカだったラジオ局サワのテレビ版。政府が1億ドル支出、政府ガイドラインに従って番組を作る。フーラは自由という意味)

 反米感情を和らげるために、提案させていただけるかしら。集団懲罰をやめること。マーク・キメット(米陸軍准将)が記者会見で”精密誘導兵器”や”軍事目標”についてくどくどまどろこしい話をしていた。冗談じゃない。ファルージャはつましい家々と小商店、モスクのある小さな町だ。爆撃されて死んだ600人の市民や何千人もの負傷し手足を失った人々のことを“暴徒”だとでも? 家や商店やモスクがいまや軍事目標なのか?

 言いたいのは、イラク人を怒らせいらいらさせる放送局なんていらないということ。とぼとぼとバグダードへ向かうファルージャ避難民の一人にでも話しかけてみたらどう? 涙で汚れた顔、ショックで放心状態の目をみて。うちの近所だけで、ファルージャから4家族が来て親戚や友人のうちに泊まっている。かれらの語る話はほんとうに恐ろしくすさまじい。かれらがあの中を生き延びてきたことがとても信じられない。

 欧米の報道機関はすっかり飼い慣らされてしまっている。かれらの放送は、ハリウッド版戦争――無敵の兵士たちの軍服姿、捕らえられ“正義”を突きつけられる敵のイラク人たち、感謝祭の七面鳥とポーズをとるホワイト・ハウスの腰抜け・・・たいへんけっこうよ。しかし、戦争と占領が引き起こした破壊はどうなったの? 殺りくはどうしたの? なにも一面散らばるイラク人の死体だけを映せと言っているんじゃない。アメリカ人の死体も、よ。破壊と殺りくの映像を見る“べき”なのだ。どうして、イラク人やアメリカ兵の死体を見せるのはいけなくて、9月11日の惨事を繰り返し見せるのはかまわないのか? わたしにメールしてくる人たち、コンピュータの前にぬくぬくと座って偏見と謬見にこり固まっている人たちこそ、イラクへ来てほんものの戦争を体験してみるといい。きょうただいまイラクへ来て、たった24時間でいいから過ごしてみればいい。その上で、マーク・キメットが、アメリカ人にとって輝かしい日とでもいうかのように、”暴徒”の死者数700人と語るのを聞いたなら・・・。

 それでもなお”反米感情”についてのおしゃべりを聞くとしたら、怒りを抑えられない。どうしてアメリカというと、アメリカの軍隊や国家のことなの? どうして、反ブッシュや反占領だったら、反米ということになるのか? わたしたちは、アメリカ映画も見ているし、ブリットニー・スピアからニルバーナまで何でも聞いているし、茶色の炭酸飲料は”ペプシ”だ。

 わたしが大嫌いなのはアメリカの外交政策と中東での絶え間ない干渉・・・バグダードでアメリカ軍の戦車を見るのはたえがたい。イラクの町に、ときには家の中にもアメリカの兵士がいる。たまらなくいやだ・・・これがどうして、わたしがアメリカとアメリカ人を憎んでるってことになるの? 戦車や軍隊や暴力が、アメリカの全部? ペンタゴと国防省とコンドリーザ・ライスが“アメリカ”なら、そう、イエス、わたしはアメリカを憎んでいる。

リバーによって掲示 午後8時10分 
(翻訳 池田真里) 

2004年4月11日 (日)


それらの国の一国で...

 わたしたちは、ふたたびリビングルームで寝るようになった。きのう、厚手のカーテンを吊り、E(弟)とわたしで、庭に面した窓にテープを貼った。去年のように。今回は、透明なテープを使った。そうすれば、茶色のテープの縞模様がじゃまになって外が見えないなんてことはないから。リビングルームで寝るのは、家中でここが一番安全で家族全員入れる広さがあるから。

 電気が通じている日は10時頃寝る支度を始める。停電の夜はもう少し早い。Eとわたしがマットや毛布、枕を延べる役。それも工夫がいる。全員が、できるだけ窓から遠くなるように、それでいて混み合わないように。

 バグダードは静かだ。ひっそりといっていいくらい。たびたびの爆音さえなければの話だけれど。ほんとのところ爆音が聞こえないと、少しばかり心配。この言い方はへんだと思うでしょう?  それはこういうこと__誰かが銃をかまえて、狙いをつけてたとする。いまにも発砲するばかり。”いま撃つか、いま撃つか”と待っているときの恐ろしさと緊張を想像してみて。爆音の聞こえない朝はちょうどこんなふう。ともかく、いずれ爆発があるということは、”わかっている”のだから・・・ただ時間の問題。爆音を聞くとほっとする。爆音の後では、気楽になって、これできょうの分はおしまいだと思うことだってできる。

 人質事件の数々はとてもひどい。テレビを見ていて、よその国の話を見ているような感じだ。「とうとう”ああいう国”の仲間になったのだ」という思いが頭を占領している。ほら、毎日のように人質が捕られていて、各国政府が国民に渡航しないように警告しているような国々のこと。これはとくにこたえる。だって、あの経済封鎖の長い年月の間でさえ、戦闘と爆撃の日々でさえ、外国人に向けた攻撃はまったく起こったことがなかったのだから。イラク人は、もてなし好きで暖かい国民、いつも外国からの客人を大切にしていた・・・いまやだれもが敵と怪しまれる。

 なかでも日本人人質の事件は悲しい__家族と友人たちをほんとうにお気の毒に思う。それに日本の人々のことも。人質のひとたちについて、あい反する話が流れてくる。けさ、誘拐犯たちは解放に同意したと聞いた。が、そんなのうわさだと言う人もいた・・・わからない。家族の人たちをテレビで見るのはほんとうにつらい。解決の糸口があればと願うが、ありそうもない。日本政府は軍隊を撤兵するか? まったくありえない・・・日本政府にとって、3人のひとたちは問題ではないのだから。3人が無事生きて解放されてほしい。そして、彼らがイラク人を恨みに思うようなことがありませんように。イラク人の間には日本に対する敵意がある。日本は兵隊を送りこんできたのだから・・・日本は、軍隊の派遣を決めたとき、’あの’国々のひとつになったのだ。その結果がこれだ。ほんとうにお気の毒・・・何十人ものイラク人が日々殺され拉致されているという事実は別の問題だ。わたしはほんとうにお気の毒だと思っている。

 ファルージャでは600人ものイラク人が殺されたという__そのうちこども120人、女性200人・・・おそろしい暴虐、胸がつぶれそうだ。アメリカ軍は1、2の輸送隊(食料、医薬品を運び込むための)はなかに入れたが、あとは引き返させた。この地域から避難してくる人がバグダードに流れ込んでいる。かれらの姿を見るのはとてもつらい。涙で汚れた顔の女性とこどもたち。ほとんど黒い服を着て衣類の包みと水のびんを抱えている。モスクは、かれらのために食料と衣類を集めている・・・アーダミヤの避難民のための物資の保管庫が、きょう、アメリカ軍の戦車に襲撃された。現場はいまも大混乱だ・・・食料、薬、包帯、毛布などがあたり一帯飛び散っている。

 南部はいまほんの少し平穏になっている。イマーム・フセインを記念する’アルバイーン’(フセインの殉教から40日目、今年は、4月10、11日)が2、3日続くからだ・・・このあと何が起こるか、まったくわからない。

リバーによって掲示 午後5時56分
(翻訳 池田真里)

2004年4月9日 (金)


一年後__2004年4月9日

 今日、イラク操り人形評議会が”建国記念日”といって祝うこの日は、”ファルージャ大虐殺”の日として記憶されるだろう・・・ブレマーは、ついさっき休戦を命じ、爆撃は停止されると宣言した。しかし、爆撃は、いまこれを書いているあいだも続いている。ファルージャでは3百人以上が死んだ。市のサッカー場で死者たちの埋葬が始まった。墓地の近辺への立ち入りを禁止されているからだ。死体は暑さで腐敗し始めていて、人々は到着するとすぐ、なんとか埋葬しようと必死だ。かつて若者の足が走り歓声に満たされたフィールドは、男たち、女たち、こどもたちの埋められた一大墓地と化した。

 ファルージャの人々は、これまでの48時間、女性と子どもを市から出そうと一生懸命だった。しかし、市外へ向かう道路はすべてアメリカ軍によって封鎖され、たえまなく銃撃され爆撃されている・・・私たちはテレビを見て泣き、叫んでいる。病院は犠牲者であふれている・・・腕や足を失った人たち・・・愛する人を失った人たち。薬も包帯も足りない・・・これはアメリカ軍のしたこと、何てひどいことするのか。これは、集団懲罰だ・・・これが、私たちのおかれた混乱状況への解決法なのか? これが、作戦の’核心’たる’心理戦’?

 食料や水、薬や血液や医者を積んだ輸送車隊が市内へ入って支援しようと、きのうファルージャへ向けて出発した。私のうちの近所でも、ファルージャへ送る小麦粉や米の袋を集めていた。E(弟)と私は、家中ひっかきまわして、小麦粉の大袋ひと袋、小さめの米の袋ふたつ、レンズ豆やヒヨコ豆などの混合数キロを見つけた。トラックが任務を果たし人々の助けになることを心から願っていた。それがなんということだ、あるイラク人の医者から、輸送車隊はすべて市内へ入ることを禁止されたと、たったいま聞いた・・・いまは女性とこども、重病の人や負傷者を市外へ出そうと一生懸命だという。

 南部も状況は同じだ・・・犠牲者の数は増え続け、加えて略奪と無秩序が広がっている。バグダードでは、怒りがはっきりと形をとって表れている。人々の顔はとつぜん悲しみに満ちてこわばり、ことばで言い表せない無力感が感じられる。水面下に捕らえられて、もがいてももがいても水面へ届かないのに似ている。これら破壊と荒廃のかぎりを見ることは。

 フィルド広場(例のフセインの銅像が倒されたところ)は立ち入り禁止だ。アメリカ軍は怒った群衆とデモを恐れているから・・・だけど関係ない。みんな家にじっとしているのだから。もう数日間もこどもたちは学校に行っていないし、大学でさえ誰もいない。バグダードの状況は、ひじょうに不安定で、近所の男たちはまた巡回監視をしようと話している・・・占領の初めの頃とまったく同じだ。

 役たたずの統治評議会はどこ? どうして誰ひとり、南部とファルージャの殺りくを非難しないの? どうして彼らは、あの大馬鹿ブレマーに大反対して、こんなことは間違ってる、間違ってる、間違ってるってとことん言わないの? 彼らの一人でも、すこしでも男らしければ、いや人間らしければ、「直ちに停戦しなければ辞職する」と迫ることもできただろうに・・・人々は怒っている。現在のこの事態は、彼らがイラク人でないことの証明だ__イラク国民の生命と生活を守るためにイラクにいるのではないということの。

 アメリカやヨーロッパのテレビ局は、死んでいくイラク人を見せない・・・包帯に包まれあるいは血を流している女性や子どもたちを見せない__血の海と腕や足が散らばるただ中で息子の痕跡でもないかと探す母親。死人と死にかけた人々であふれた病院も見せない。アメリカの機嫌を損ねたくないからだ・・・しかし、見る”べき”だ。アメリカよ、見るべきだ。自分たちの起こした戦争と占領の代価を__アメリカ人が故国を何千キロも離れたところで戦争をしているのは、フェアでない。アメリカ人は死者たちをこぎれいな棺に入れ国旗でおおう。対して私たちは、死者たちの断片を床からかき集めなければならないのだ。そしてアメリカの銃弾が、誰だかわからないほど愛する人の遺体をめちゃめちゃにしていませんようにと願うのだ・・・

 一年たった。そして、ブッシュは望んだものを達成した__今日、この日のことを歴史は記憶し、イラク人は決して忘れないだろう。人類史上おびただしい量の血が流された日々のうちの一日として。

リバーによって掲示 午後4時32分


占領の日__2003年4月9日

 この数日、私は、心が記憶の小道へ迷いこんでいかないよう苦しい努力をしてきた。バグダードが炎に包まれる映像が映しだされるたび、チャンネルを変えた。ラジオが占領の初めの日々のことを言いはじめると、スィッチを切った。そして、家族の誰かが「おぼえてる? どんなに・・・」と話しはじめると、静かに部屋を出る。ええ、おぼえてるわ。でも、私は、思いだしたく”ない”のだ、人生でもっともひどかった日々を。コンピュータみたいに、記憶を選んで’デリート’できたらいいのに・・・出来るわけはないけど。

 今日は、去年の4月のことを思い出すままにたどってみた。とくに2003年4月9日のことを。この日を、わが操り人形評議会は’建国記念日’にと選んだのだ・・・占領が、ありうること、ではなくなってまぎれもない現実となったこの日を。

 この日は、激しい爆撃で始まった。朝5時、ものすごい爆音で目がさめたのを思い出す。髪の毛はほとんど逆立っていた。家族全員、リビングルームで寝ていた。カーテンが厚くて、その分ガラスが飛び散っても安全と思えたからだ。E(弟)は、即とび起きて、カラシニコフ銃がちゃんと充填されているか確かめに走った。私は、いとこの子どもたちを厚い毛布でしっかりくるもうとした。もう暑くなっていたけれど、毛布は子どもたちをガラスの破片から守ってくれる。一番年長の女の子は、幸いなことに、まだぐっすり眠っていた__夢の中、いや悪夢かしら。いちばん年下の子は、うす暗がりの中で大きく目を見開いていた。彼女が、”だいじょうぶ?” と私の表情を読みとろうとしているのに気づいた・・・私はしっかりと微笑んでみせた。「まだ寝てなさい」。

 ものすごい爆音がいくつか続いたあと、もう寝てはいられないことをさとった。朝ご飯には早すぎたし、それに誰もそんな気分ではなかった。母と私は、起きあがって、荷作りしてあったバッグを点検した。そして、ドアのそばに待機した。バッグは、戦争の初めの数日に備えて詰められていた___丈夫な衣類、水のびん、出生証明書と身分証明書など重要書類、予備のお金。天井が落ちてきたり、アメリカ軍の戦車が大きな車体で近くに押し入ってきたときを想定して、バッグはドア近くにおかれていた。天井、戦車どちらの場合も、ドアめがけて走り、バッグを持ち出すと各自に指示が与えられあった。“遅れている人を待ってはだめ。ひたすら走り、バッグを持ち出す”ということになっていた。

 わたしたちの住む地区は、危険地区のひとつだった。頭上を舞うヘリコプター、戦闘機、爆発。本通りを渡った、すぐ向こうの地区には、戦車が押し入り、一晩中、銃撃と戦車の音が聞こえていた。母は、不安げに窓のそばにたって、通りの様子を見ようとしていた。避難すべきだろうか。家にとどまって待機すべきだろうか。どうなるだろう何が起こるのだろう。Eといとこは、近所の人はどうするつもりか聞いてくると言った。

 Eたちは、5分後に戻ってきた。Eは青ざめ、いとこの表情は固かった。近所の誰もが同じだった。どうしていいかわからない。Eは、家のすぐ近くには通りに人影があるものの、バグダードはほとんど空っぽだと言った。私たちは、家を出て、バグダードのむこう側の端にある叔父の家へ行こうと話し合った。が、いとこは、それはできないと言った。道路はすべて封鎖され、橋はアメリカ軍の戦車に破壊され、運よく叔父の家近くにたどり着いたとしても、戦車かヘリコプターに銃撃される危険があるという。家で待とう。

 いとこの妻は、そのときにはすっかり目がさめていた。ふたりの子どもを両わきに座らせて、しっかり抱きしめていた。彼女は、自分の親と1週間も話していなかった・・・電話は通じなかったし、親たちが住む地区へ行くすべもなかった。この大変な事態に、おびえきっていて・・・親たちはみんな死んでしまったか死にかけていると思いこんでいた。なんとか正気を保っているのは、娘たちがいたからだった。

 このとき、私の心は麻痺していて、ただ爆発だけに反応していた。特別すごい爆発のときは、縮みあがり、遠くに聞こえたときは条件反射で感謝の祈りを唱えた。ときどき、頭を使わないでできる家事__水差しに水を入れたり、毛布をたたんだり__ができる程度には、正常になった。が、そうでないときは、麻痺していた。

 いくぶん爆発がおさまったのは、昼近かった。私は、思いきって少しの間外へ出てみた。戦闘機がほしいままに行き来し、遠くに銃撃の音が聞こえていた。それ以外は、不気味な静けさだった。少しして、母も出てきて、小さなオリーブの木の下の私に寄り添って立った。

「うちを出なければならなくなったときのために、知っておいてほしいことがあるの・・・」と母は言い、私は、蚊のような音で飛ぶ’ムシ’というあだ名の、中でも憎たらしい飛行機が飛んでるわと思いながら、ぼんやりうなずいた。あとで、これは、抵抗勢力つまりイラク軍を捜索している’偵察’機だと知った。

 「バッグの中の書類は、家の登記関係と車の・・・」。私は気がついた。母のほうに向き直り聞いた。「どうしていまそれを言うの。私が知っているってこと、わかっているでしょ。一緒に荷作りしたんだから・・・とにかく“お母さん”は全部知っていることよ・・・」。 母はうなずいて認めたが、「ええ、ちょっと確認したかっただけ・・・もしなにか起こったら・・もし私たちが・・」。

 「つまりなにかで離ればなれになったらってこと?」私は急いで引き取って言った。「そう、もし離ればなれになったら・・・その通りよ。どこに何があって、どういうものか知ってなくちゃいけないでしょ・・・」。その頃には、涙をこらえるのに必死だった。やっとのことで涙をのみ込んで、いっそう飛行機に注目した。どれほど多くの親やこどもたちが、きょう、これと同じ会話を交わしているだろうか。母はもう少し話を続けた。恐くて考えたこともなかった、これまで話されたことのない恐ろしい可能性についての話らしい__死後の人生について。死後の永遠の生命のことではない。そんなの聞きあきている。そうではなくて、親の死の後の、私たち(私と弟E)の人生、という可能性。

 戦争のあいだ、つねに死の可能性があった。きわどいところで、家族全員死んでいたと思う瞬間が何回かあった。とくにあの恐ろしい’衝撃と畏怖’のあいだ。しかし、私はみんないっしょに死ぬと当たり前のようにずーと思っていた__家族みんな。私たちはみんな一緒に生き延びるか、みんな一緒に死ぬか・・・これまで話は簡単だった。新たに突きつけられた可能性については、まったく考えたくもなかった。

 二人でそこに座って、母は語り、私はといえば悪夢のような言葉に深く迷い込んでいくいっぽうだった。そのとき、ものすごい爆音がして、窓ががたがたと鳴り、小さな庭のしっかり根をはった木さえ揺さぶられたようにみえた。私は飛び上がり、ほんとに生まれて初めて爆音を聞いてほっとした・・・これで陰気な会話は終わり。私の思いはただ、”なんていいタイミング”ということだけだった。爆音が試合終了のゴングのように聞こえたのだ。

 そのあとは、電池ラジオを聞いて、まわりで何が起こっているのかなんとか知ろうとすることだけで過ぎていった。近所の人から、アーダミヤの大虐殺のことを聞いた。南部でアメリカ軍は無差別に銃撃していること、多くの死者、略奪・・・通りは危険で、危険をおかして出ている人は、ほかの地区に避難しようとしている人か、盗人だ。盗人たちは、死んだばかりのライオンに群がるハゲタカのように、家々や学校、大学、美術館、政府の役所などを襲い始めていた。

 いつしか夜になった・・・私の人生でもっとも長い一日。その日、バグダードでの戦いが終わったことを知った。そして、戦争の恐怖は、新たに直面することになる恐怖に比べればなにほどのものでもなかった。その日、アメリカ軍の戦車を初めて見た。戦車がバグダードの通りに異様な姿を現し進んできた__住宅地区を通り抜けて。

 これが、私の4月9日。何百万人のイラク人にとっての4月9日。私たちほど運がよくなかった人はおおぜいいる__4月9日に愛する人を亡くした人々。銃や戦車やアパッチ(米軍攻撃用ヘリコプター)によって。それを、統治評議会は4月9日をうれしい日として思いだし、”建国記念日”として祝えと言っている。勝利の日として・・・だけど、だれの勝利? それに、だれの国?

リバーによって掲示 午後4時28分


(翻訳 池田真里)

2004年4月7日 (水)


ティーポットとやかん... 

 いまわたしたちは、占領が始まってからの日々を最初からもう一度やり直している。ほんとうだ・・・昨夜は爆発と砲撃の音で目がさめた。何度も恐ろしさにふるえて、ある瞬間、時間をワープしてちょうど1年前に送り返されてしまったのかと思った。さあこれからあの去年1年間を生き直さなければならないのだ、何度も何度も。

 

 こどもたちは、3日間学校へ行ってない。空気は張りつめている。おととい、バグダードは静まりかえって人けもなかった・・・嵐の前の静けさだったのだ。いまバグダードのアーダミヤ地区は、市街戦だ。抵抗勢力とアメリカ軍は市中で戦っており、アル・サドル・シティはアメリカ軍に爆撃された。何十人もの人が殺され、負傷者もおおぜい出たという。市中心部にある病院には負傷者が次々と運び込まれている。


 ファルージャは、この3日というもの孤立させられている。他の地域との出入りも連絡も断たれている。なんということだ。アメリカ軍は絶え間なく爆撃し、何十人も死んだ。きのう、市内で唯一機能していた病院がアメリカ軍に爆撃され、もはや一度に10人しか診ることができない小さな医院しか負傷者を運び込むところがないという。100人を越える人が負傷し、いまも次々死んでいっている。しかし死者を葬むる場所もない。アメリカ軍が、ファルージャにひとつしかない墓地の周辺地域を制圧しているからだ。死体は、4月の暑さで腐敗しはじめている。アメリカ軍はファルージャから誰ひとり出さず、誰ひとり入れない。数日中に人々は飢えはじめるだろう。ファルージャでは、生鮮食品はほとんど市外から入ってくるからだ。この3日間、ファルージャに住む友人に電話をかけ続けているが、連絡がとれない。


 これは、先週、アメリカの請負業者(ほんとにそうだったとして)がやられたことへの’報復’とされている。誰であろうと、あんな恐ろしいことはまちがっている。かれらの家族を気の毒に思う。驚いたかって? ぜんぜん。これは占領なのだ。チャラビやブッシュ政権が占領軍は’花やキャンディで歓迎’されるだろうって言ったとき真に受けた人がいたとしたら、どうしようもないばかだ。神様は脳みそをくれなかったのね。


 ほんとになんということだろう。これは暴行に対する処罰だと言われている。しかし、これでは、どちらの側にもいっそうの流血をもたらすだけだ・・・みんな怒り狂っている__スンニ派もシーア派も。いま続けられている爆撃は誰にとっても事態を悪くするだけだ。アメリカ人は、バグダードや南部や北部に住む人々がファルージャやラマディやナーシリヤやナジャフで起こっていることを関係ないと思うなんてほんとに考えているのか? ニューヨークのアメリカ人は、カリフォルニアで爆撃や殺りくがあってもわれ関せずなのね?


 で、いまやムクタダ・アル・サドルの支持者たちは、バグダードと南部で徹底的に戦おうとしている。状況がこれほど恐ろしいものでなかったら、アル・ハキムとバール・ウル・イルームがアル・サドルのことを’過激派’だの’危険人物’だの言っているのを笑えただろうに。ムクタダ・アル・サドルは、統治評議会におさまっている過激派連中とまったくかわるところはない。サドルは、アル・ハキムやバール・ウル・イルームと同じようにブレマーに気に入られたかっただけなのだ。ただ、かれはチャンスをもらえなかった。それで革命的になったというわけだ。どうやら誰もブレマーに、ひとりの過激派を可愛がってやるなら、全員可愛がってやらなくてはいけないと、教えてやらなかったらしい。アブドル・アジズ・アル・ハキムとバール・ウル・イルームが、アル・サドルは治安と安定の脅威だと言い張るのを聞くと、ティーポットとやかんの図を思い浮かべてしまう・・・。


 そこで、ブレマー、テレビに登場、民兵は新生イラクから追放すると、語る。バディル旅団(注:アル・ハキムに率いられるイラク・イスラム革命最高評議会の民兵組織)が国中を荒し回っていた12カ月間、この宣言はどこにしまってあったの? バイシマーガやバディル旅団みたいに、アル・サドルの武装民兵を警察や軍隊に雇ってやって、問題を解決すればいいじゃないの。アル・サドルの民兵組織はいまできたわけじゃないのだから。この民兵たちが、南部で市民を痛めつけていたとき、誰も彼らを止めようとしなかった。バッジをつけてクラシニコフ銃をかついでほしいままに町なかを徘徊していたというのに・・・’連合軍’の脅威となったものだから、突然、’テロリスト’、’扇動グループ’となったのだ。


 そしていま、サドルに対して逮捕状が出ている。法務省長官は、テレビで逮捕状については何も知らない云々と言っていたけれど。彼が言いたかったのは、ムクタダ・アル・サドルに対するどんな動きからも手を引くということだ。誤解しないでほしい__ムクタダが捕らえられたらどんなにうれしいだろう。しかし、そんなことをしてもただ混乱と憤激をあおるだけだ。それにもう手遅れだ。かれには、支持者を増やす時間がたっぷりあった。まるで、高名なシーア派聖職者たちの競演だ。人々は不満をもっている__とくに南部において。統治評議会で当然の敬意もポストももらえなかった聖職者たちは、大衆を動員して影響力と支持を得ようとし始めている。いいこの聖職者になって、ブレマーとうまくやる(不満をもつ大衆は支持“してくれない”けれど)か、アジテーターの聖職者となって、大衆を動員するか・・・。


 まるで占領の初めのころの日々と同じ・・・悪夢のようだ。だれもが緊張している。いとこの家族が、ここ何日かうちへ泊まりにきている。いとこの妻がこどもとだけで家にいるのをいやがったからだ。わたしたちもいとこ一家がきてくれてほっとしている。みんなテレビの前を動かない。アルジャジーラ、アルアラビア、CNNBBCLBCとチャンネルをカチャカチャやって、なにがどうなっているのか知ろうとしている。海外の放送局はほとんど何も言っていない。サッカーの試合やペットの話のにぎにぎしい番組の合間に、爆発と銃撃戦の混乱の中を逃げ回る人々とアジテーター、アル・サドルについてのおしゃべりの同じフィルムを繰り返し1、2分はさむだけだ。ラマディ、ファルージャ、ナーシリヤ、バグダード、クーファなどでの占領軍による攻撃のことは、なにも言わない。


 この3日間で、全土で150人を超えるイラク人が、占領軍に殺された。まったくたまらない。ときどき自分が檻の中の動物のような気がする__いらいらと怒りでいっぱいの。まだ’解放’についておめでたいおしゃべりをしているのは“統治評議会と操り人形たち”一派のイラク人たちだけだ。そんな彼らだって、この混乱には耐えられなくなりつつある。

 われらがホシヤール・ジバーリ外相は、きのう、あるイギリスのジャーナリストにインタビューされて、トニー・ブレアと彼を戦争に引き入れたことについてわびを言っていた。途中で、だれかがイラクの目下の状況について聞いた。外相は、ぶつぶつとなにやら答えた__なるほど’問題’はあるが、たいしたことじゃない、なぜならイラクは’安定’しているから・・・。いったいどこのイラクに住んでるの?

 

こうしてこのブログを書いている間にも、すべてのモスクが(スンニ派もシーア派も)、ジハード(聖戦)を呼びかけている・・・。

リバーによって掲示 午後3時44分


2004年4月4日 (日)


暴動、星空、こおろぎの合唱...

 バグダードとナジャフでは、アル・サドル支持者のデモが続いている。バグダードでは、グリーン・ゾーンとシェラトン・ホテルの近くに何千人も集まっている。怒りにみちた黒衣の大群衆。ナジャフでは、デモの群衆は、スペイン軍駐留地のすぐ外にいて、スペイン軍兵士は彼らに向けて発砲した。少なくとも14人が死亡、数十人が負傷と伝えられる・・・ディワニヤのイラク人の友人は、「いまや攻撃対象となっているのだから、暫定占領当局はナジャフのビルから撤退すべきだ」と、私に言っていた。彼によると、シーア派のあいだではジハードもささやかれているという。(注:ディワニヤは、イラク中部の都市、自衛隊派遣先サマワの北西80キロ)

 これだけははっきりさせておきたいのだけれど、私は、アル・サドルの支持者では”ない”。イラクを第2のイラン、サウジアラビア、クウェートにしようとしている聖職者たちは嫌いだ・・・だが、デモに対し、軍隊が銃弾と戦車で応じているのを見ると、心底激しい怒りがこみ上げてくる。集まった人々に向けて発砲するつもりで、デモを許可したってわけ? デモの人々は、武装していなかった、ただ怒っていただけ__最近ブレマーとその一派がアル・サドル派の新聞を発行禁止した。また、サドルの側近ナンバーツーが南部でスペイン軍に拘束されていると言われている(スペイン軍は否定しているが)。サドルの信奉者たちは憤激している。そして、(ちゃんと聞いてね)__その信奉者たるやほんとに半端な数じゃないのだ。サドルの父は、シーア派の一部からあつく崇拝されていた。サドルは、父に寄せられていた崇敬をそのまま受け継いでいると思える。(注:サドルの父、ムハンマド・サデーク・サドルはアヤトラ(高位聖職者)だったが、1999年暗殺された)

 今日、ブレマーは、「”国防省”が正式に発足した__今やイラクには国防省がある」と、公表した。この状況の皮肉さかげんは、イラク人にはこたえる__占領軍トップが ”国防省”設置を公表。何から国を守るの? 占領から? 笑える・・・あ、もしかして、戦車にのって銃をかついで国境を越えてくる困ったお客さんを閉め出すため? いやたぶん、国防省は、近隣から入りこんで乗っ取りを企んでいる過激派に集中するためのもの(操り人形評議会の面々とのブレマーの取引は不問にふしておいて)・・・国防省の仕事は多いわ。

 国防省だけでない。新しい”ムハバラト”つまりイラク情報機関(ともかくそういう働きをするもの)もできた。(注:ムハバラトは、フセイン政権下の情報機関)。皮肉なことに、名前こそ新しいが、トップは、アリ・アブド・ウル・アミール・アラウィ(操り人形評議会議長のアヤド・アラウィの親戚)で、新生ムハバラトの顔ぶれは、旧ムハバラトと同じようなものになりそうだ。当局は、ここのところずっと旧ムハバラトのメンバーと接触して、新しいイラク情報機関で働きたかったら好条件で迎えると話を持ちかけていた(有能なムハバラト・メンバーを迎えて、アメリカ情報機関より優秀なものになるといいのにね__うその口実で他国を侵略させられたらたまらないもの)

 この頃、いいお天気が続いている(ときどき砂嵐はあるけど)。小さな庭で、停電の夕べを過ごす。プラスティックの椅子とテーブルを出して、空を見上げる。夜空はこのところずっと晴れていて、星がきれいに見える。E(弟)は、”スター・カウント”プロジェクトを思いついた。家族それぞれに空を配分して、各自の区画の星の数を数えさせようというのだ。私はといえば、”こおろぎ合唱団”を始めることを考えている。枯れたバラの茂みに隠れている6本足の音楽家たちと・・・

 2、3日したら、屋上を洗い流さなくてはならない。去年、停電のとき、私たちは屋上で寝て暑い夜をやりすごしたものだ。薄いマットレスを下に敷いて、湿ったシーツにくるまって眠る。6時までは悪くない。だが、太陽が空高くのぼって、寝ている私たちにハエがとまり始めると・・・文字どおりうるさくって(五月蝿くて)寝ていられない。

 この2、3週間というものは、たいていの人にとって、気の滅入るものだった。去年を振り返って、思いだそうとすることってあるでしょう。「去年のきょう、何していただろう?」って。私たちは、この頃ずーっと、このゲームをやっている。去年のきょうの今この瞬間、何していたかしら? サイレンの音に聞き耳をたてていた。飛行機の音、爆弾の落ちる音は聞こえないかと。そしていま、爆発の音が聞こえないかとひたすら耳をすませている__それはまったく違うことだ。

 眠れないのはあいかわらず。このごろ、不安な夢をよくみる・・・がれきの下に閉じ込められる夢、窓がかたかた鳴って、からだの下で大地が揺れるのを感じている夢。日々繰り返し、戦争の断片を追体験しているからだと思う__テレビやラジオやインターネットで。まるっきり初めてみる映像もある。去年戦争の間ずっと停電していたから、見ていなかったのだ。見るのは、ほんとにつらい。私たちが生き延びてきたことが信じられない、これほどの・・・。

リバーによって掲示 午後9時35分 


(翻訳 池田真里)