Baghdad Burning

バグダードバーニング by リバーベンド

... I'll meet you 'round the bend my friend, where hearts can heal and souls can mend...

友よ、私の心が失われあなたさえ見分けることができなくなったら、どうか私を偉大な文明をはぐくんだ、チグリス・ユーフラテスの胸元に連れて行って欲しい。そこで私は心を癒し、魂を再生させるでしょう。

2004年3月29日月曜日

アブ・グライブからの話・・・

 昨日の夕方、かっきり5時、母が突然、先日ちょっとした手術を受けた母の友だちをお見舞いに行くと宣言した。友だちは、2街区離れたところに住んでいて、イラクでは病床の、あるいは療養中の友人や親戚を見舞うのは義務である。おつきあいの訪問から逃れようとして、さまざま口実を言ってみたけれど、だめだった。母は、頑としてきかなかった。

 チョコレートの箱を持った私も入れて、みんなで出かけたのは、5時40分頃。5分もかからないで、母の友人だちのうちへ着いた。あいさつやら同情や慰めの言葉やらのあと、私たちはぞろぞろ居間に入っていった。居間はもううす暗くなっていたが、停電のため夕明かりを入れようとカーテンは開けてあった。「電気は6時には通じるはずなの・・・だから、灯油ランプをつけてないのよ」と、母の友だちは申しわけなさそうに言った。

 私たちが居間に落ちつこうとしたちょうどその時、向こうのすみに座っていた人が急いで立ち上がった。「どこへ行くの?」と、母の友だち、ウム・ハセンが叫び、次に私たちの方を向いて、あわてて紹介した。「うちの友だち、Mよ。アブ・ハセンに会いにきてるの」。私は、暗さを増していく部屋の向こうのはかなく見える姿に目を凝らしたが、どんな人かはっきり見えなかった。わずかにこう言う声が聞こえた。「もう帰らなきゃいけないわ・・・どんどん暗くなってる・・・」。 ウム・ハセンは、頭(かぶり)を振って、断固として言った。「いいえ、ここにいなさい。アブ・ハセンが後で車で送っていくから」。

 その人は腰を下ろした。ウム・ハセンがお茶の用意に居間を出ると、ぎこちない沈黙が広がった。母が沈黙を破った。「お近くにお住まい?」。「いえ、それほど・・・バグダード郊外です・・・南の端の方。でも今は数ブロック向こうの親戚のうちにいます」。 私は、注意深く声を聞いて、「若い女性、まだ20才から25才くらい、それより若いかもしれない」ということを知った。

 ウム・ハセンがお盆にお茶を載せて、部屋に入ってきた。ちょうどその時、家中の電灯がまたたいて、明るくなった。みんな口の中で感謝のお祈りを唱えた。目がぎらつく電灯の光に慣れると、私は、ウム・ハセンのお客さまを見ようと振り返った。思ったとおりだった__彼女は若かった。20才にもなっていなかったかもしれない。黒いショールをスカーフからはみだした濃い茶色の髪の上に無造作にはおり、黒いハンドバッグをしっかり持って、電灯がともったとき、部屋のむこうのすみに身を縮めていた。

 「どうしてそんな遠くに座っているの? こっちへいらっしゃい」とウム・ハセンは優しく叱って、私たちが座っているソファの隣の大きな肘かけ椅子の方をうなずいて示した。少女は立ち上がったが、私はその時初めて少女がひどく痩せていることに気がついた。長スカートもシャツもぶかぶかで、借り物みたいだった。大きな椅子にしゃちこばって座り、それがますます小柄に若く見せていた。

 「おいくつ?」と、母がやさしく聞いた。「19才」と答が返ってきた。「学生さん? どちらの大学?」。 少女は、ひどく真っ赤になって言った。アラビア文学を専攻していたのだけれど、1年遅らせました、どうしてかというと・・・「どうしてかっていうと、アメリカ軍に捕まっていたからよ」ウム・ハセンが怒りもあらわに頭をふりながら締めくくった。「アブ・ハセンに会いにきたのは、お母さんと3人の兄弟がまだ刑務所にいるからなの」。

 

 アブ・ハセンは弁護士で、戦争が終わってからほとんど仕事を引き受けていなかった。彼は以前、現在のイラクの法制度を評して、「まるでジャングルだ、ライオンとハイエナだらけだ」と言ったことがある。どの法が適用可能で、どの法がそうでないか、誰もはっきりとは知らない。悪徳判事と警官は野放しで、刑事事件を引き受けてもやり甲斐がないのだ。もし裁判に勝ったとしても、殺人者あるいは泥棒の家族が原告を墓にほおり込むのは確実だし・・・犯人が数週間後に釈放されて出てきたら、犯人自ら原告を殺してしまうことだってありだ。

 けれど、この事件については違った。Mは、アブ・ハセンの死んだ友人の娘で、Mがアブ・ハセンのところに相談にきたのは、ほかに誰ひとり関わりあいになってくれる人を知らなかったからだった。

 11月の寒い夜、Mと母親、4人の兄弟が寝ていると、明け方突然ドアが破られた。続いて起こったのは、大混乱としか表現しようのない事態であった・・・泣く声、悲鳴、罵る声、小競りあい。家族は全員、居間に集められ、4人の息子たち(うち一人はわずか15才だった)は、頭に袋をかぶせられて引ったてられて行った。母親と少女は尋問された。「壁にかかった写真の男は誰か?」  それは、6年前、卒中で死んだMの父親だった。「嘘をつけ__かれは、地下抵抗組織のメンバーじゃなかったのか?」 その頃には、Mの母親は極度に神経が高ぶっていた。「あれは、私の死んだ夫よ。どうして息子たちを連れていくの?」。通訳を通して答が返ってきた。「抵抗組織を支援していたからだ」。

 「いったい何をしたって言うの?」と、母親は聞いた。「テロリストに大金を貢いでいるだろう」と通訳が答えた。アメリカ軍は、Mの家族がアメリカ軍襲撃を支援するための資金を出しているという、匿名の情報を受けたのだった。

 ’資金’なんてものはまったく持ってないのだといくら説明してもだめだった。戦争が終わって工場が閉鎖されたため、働いていた二人の息子が失業してからずっと、細々とタバコや菓子を売る小さな店から上がるわずかな金でかつかつ暮らしてきたのだった。食料品を買うのもやっとだったのだ。何を言ってもむだだった。母親と少女も、頭に袋をかぶせられて連れ去られた。

 

 ウム・ハセンがここまで語り続ける間、Mは、誰かほかの人の身の上に起こったことであるかのように、ただうなずきながら聞き入っていた。が、ここからはMが引き取って、続きを語り始めた。Mと母親は、尋問のため空港に連れて行かれた。Mは、頭に袋をかぶせられ、頭上に明るい電灯のある部屋にいたことを憶えている。袋に開いた小さな穴から人の姿が見えたと言った。Mは尋問室でひざをついて座らされ、母親は蹴飛ばされ殴られて床にうち据えられた。

 ウム・ハセンがくれたお茶のカップをもつMの両手は震えていた。「母が、お願いだから、娘を解放して、痛めつけないでと懇願する声が聞こえていました・・・何でもします、何でも言いますってーー娘を解放してくれたら」というMの顔は真っ青だった。数時間暴言暴力を浴びせられたすえに、母親と娘は分けられ、別々に尋問のための部屋に投げ込まれた。Mが尋問されたのは、家族の生活に関するあらゆることだった__誰が訪ねてきたか、誰とつきあっているか、父親はいつ、どんなふうに死んだか。何時間かののち、母親と娘は、かの悪名高いアブ・グライブ刑務所に連れて行かれた。アブ・グライブ刑務所、何千人もの犯罪人と無実の人々の収容所。

 アブ・グライブで、母親と娘は分けられた。Mは、母親はバグダードの外の違う刑務所へ連れていかれたのではないかと思った。恐ろしい数カ月__数度の暴力と看守に男性受刑者がレイプされるのを見た__が過ぎて、1月半ば、Mは突然解放され、叔父を家へ連れて行かれた。そこには、一番年少の弟が待っていた。叔父が、弁護士とつてを利用して、別々の刑務所に入れられていたMと15才の弟をようやく引っ張り出したのだった。Mは、母親がまだアブ・グライブにいることを知ったが、ほかの3人の兄弟のことは誰も知らない。

 Mと叔父は、その後、近所のある人物がM一家にぬれぎぬを着せたことを知った。その家の20才の息子が数年前のMの兄弟とのいさかいを今だに深く根にもっていたのだ。彼は、誰でもいいから米軍に働く通訳にわたりをつけて、Mの名を告げさえすればよかったのだ。ことは、それほどいいかげんに行われたのだ。

 アブ・ハセンは、Mと叔父から連絡を受けた。M一家の昔からの友人で、喜んで無料で仕事をしてくれるからだった。彼らは、ずっと残る兄弟たちと母親を救いだそうと一生懸命やってきた。私はすごく腹がたった__どうして、新聞社に知らせなかったの? どうして赤十字に連絡しなかったのよ?! なんだってじっと待っているの?! Mは悲しそうに頭をふって、もちろん赤十字に連絡をとったと言った。でも、私たちの事件は、何千何万とある事件の一つにすぎないのよ。母親たちを取り返すのは、いつのことになるか。新聞社ですって? 頭がおかしいんじゃない? 母親と兄弟が捕まっているというのに、新聞に連絡して、アメリカ軍当局の怒りを買うようなことできるっていうの? ’連合軍の利益に反する行動をした’として15年もの刑を食らった人々もいるのだ。そんな危険を冒せない。できることは、ひたすら耐えて、祈り続けるだけだ。

 話し終わるころ、Mは静かに泣いていた。私の母とウム・ハセンは拭いてもふいても流れ落ちる涙をぬぐっていた。私はこう繰り返すばかりであった。「ごめんなさい・・・ほんとうにごめんなさい・・・」。口から出るのは、言ってもかいのない言葉ばかり。Mは頭をふって、私の同情の言葉を受けなかった。「いいの、大丈夫___私は運がよかったほうよ・・・ただ殴られただけだもの」

リバーによって掲示 午後11時35分

(訳注:アブ・グライブ刑務所は、バグダード南西に端にある巨大な刑務所。かつては最も恐れられたサダム・フセインの監獄であったが、アメリカ軍により、「バグダッド刑務所」と改名された。だが、状況は以前とまったく同じ。投獄されている人々の家族が刑務所の入り口で何時間も列をなして立っているという。情報を求めて国中の多くの刑務所を訪ね歩く家族も多い。囚人はしばしば移動され、名簿の名前も綴りが間違っていたりして見つけにくいという。バグダッド法律家協会会長によると、逮捕者2万人というが、5万人という数字もあり、誰も正確には知らない。) 


(翻訳 池田真里)


2004年3月27日土曜日

はざまのラエド・・・

 ”ラエドはどこに?”ブログの筆者の一人(訳者:もうひとりは、サラーム・パックス)、ラエドが自分ひとりのブログを始めた! ”はざまのラエド(Raed in the Middle)”で、ひとりになったラエドの意見が読める。

シスタニスタン・・・

 この数日、電話が通じなかった。ときどきうまくつながっては__消え入るように切れてしまう。受話器をとりあげる。すると、呼びだし音は聞こえなくて、かすかな雑音の交じった沈黙が応える。私は、もう少しで発狂しそうだった。インターネットに接続できなかったから。電話のまわりをもしやと思いながら行ったり来たりして、数分ごとに受話器を取り上げ、叫ぶ。「もしもし? もーしもし?」__そんなことばかりして過ごした。E(おとうと)が近所に聞いてまわって、この地区一帯、電話が通じないとわかった。

 昨日、カラダへ行った___カラダはバグダード中心部の繁華街。商業地区で、肉屋からアイスクリーム・ショップまで何でもある。お店はひと所にかたまっていて、どこで買えるかわからないようなものを探すには、ぴったりの場所。カラダだったら見つかる。金のブレスレットでもふかふかのスリッパでも最新アル・ハキム宗教講話大全集完全版のCDでも、何でも。

 叔父が、ヨルダンへ旅行しようとしていて、旅行用の品物を買わなくてはいけなかった。私は4日間もこの買い物ツアーを待ちこがれていた。きょうび、ごく日常的な家族の了解を取り付けるのに、このぐらい時間がかかるということ。まず、意志表示をしなければならない。つまり、外出して買い物をしたい旨、両親に告げなければならない。つぎの段階は、どこに買い物に行きたいかはっきりさせなければならない。そのつぎに、私の冒険につきあってもらうべく暇な近親男性を手配する。最終段階は、日時を決めて、家族の最終的な了解を得ること。

なんてまあ面倒なことって思うでしょ? そのとおりよ! この歳で、外出するのに親の許可がいるなんて、たまらない。こんなふうになったのは、戦争が終わってからのこと。そして、とてものことすぐに元に戻るとも思えない。うちだけではない、女だからじゃないって考えて、自分を納得させてはいるけれど・・・どこへ行くの? 何しに? 誰と行くの? 何時に帰る? どうしても行かなくちゃいけないの?__きょうびの親たちはみんなこう。

 もし、E(弟)と私が30分遅れて帰ったら、父か母かが外に__ガレージの前にいて、心配そうに行ったり来たりしながらしょっちゅう通りをうかがっているのを見ることになる。誘拐、爆発、拘留を考えると、親にとやかくいうことは、全然できない。それどころか、もし、父か母かが遅くなったら、こんどは、Eと私がガレージの前に立って、夜の闇をのぞきながら、「遅くなる」という電話ひとつしない人たちのことをくさすのだ。

 カラダは、人出で賑わっていた。当然だが、女性はとても少なかった。かつてのカラダは、女性であふれていた__母親たち、娘たち、妻たちが、一人で、あるいはうんざり顔の男を引き連れて。車を降りたとたん、私の度胸も興奮もしぼみ始めた。私はヒジャブをかぶっていない。通りには、ヒジャブで頭を被っていない女性はほんとに少なかった。ひとり、ふたり、三人と、ヒジャブで髪を被った女性が通りすぎた・・・四人目はもっと過激にアバヤで全身を被っていた__私は、ひじまでたくしあげていた袖を少しずつひっぱり下ろした。そでは手首まで下りてきて、そのとき初めて、デニムの長いスカートをはいて来ることにしてよかった、と思った。

 私たちは、数メートル歩いて、スーツケースの露店に行った。品物は、ほとんど新しかったが、中古品や角が少しいたんだものも混じっていた。外国から帰ってきた運の悪いイラク人から盗まれたものじゃないかしら。Eといとこは、スーツケース屋と辛抱強く交渉していた。売り手は、韓国製サムソナイトのコピー商品を見せて、ぜったい本物と保証した。イラクで買い物したことのない人に教えてあげる___言い値ほど高いものはない。もし、1万ディーナールと言われたら、即「7千なら買う」って言うといい。商人は、ぼやきながらも結局まけてくること、請け合いよ。

 待っている間、町とまわりの店の様子を見ていた。通りは車で混んでいた__ほとんど旧式のものだったけれど。かっこいい車を乗り回そうなんて人はいない。車の流れは数分ごとに止まって、そのたび警笛と罵り声が沸き起こった。車の窓々から頭が突き出て、車の行列の先頭で何事が起こったか見ようとするのだ。

 通りには、奇妙なかっこうの人々がいた。黒白のターバンで頭を被っている。女たちは頭の先からつま先まで黒い布で被い、男たちは長い髭をはやしてアバヤを着ている。私は、非難する視線をどっと浴びていた。この小娘はなんでヒジャブを被ってないんだ?  私の内なる理性は、同じことを聞いてきた。「どうしてヒジャブを被ってないの? 家を出るとき、あなたに頭になにか乗せてと頼むのは無理な注文かしら? みんなそうしているっていうのに・・・あなたの知ってる女たちはほとんど、非難の視線や言葉の暴力をかわすために、頭にぽいと頭布をのっけてるじゃないの。戦争が始まってからというもの、クリスチャンの女性でさえ、とくに南部では、髪を隠すように圧力を加えられているというときに」。理性の声は、続く・・・もうひとつの声は頑固に(このブログを書いている声だけど)「だって・・そんな・・ぶつぶつ・・強制されたくない・・」と、良識を消し去ろうと挑んでみる。

 まわりの店々に注意を集中した。ウインドウのディスプレーを熱心に見た。ウインドウの多くには、イマム・フセイン、アル・サドル、ハキーム家のだれかれのポスターが飾られていた。が、シスタニの肖像はほんとに多かった。店の外にも中にもあふれていて、カラダはシスタニスタンと名前を変えるべきだと思ったくらい。

(訳注:イマム・フセイン等については、3月19日、6日、2月29日を見て)

 10分くらい選んだり交渉したりしてから、Eといとこは、大きな黒いスーツケースとそれより小さいものに決めた。売り手がこんな安値で売ったんじゃボラレタも同然と毒づくかたわらで、Eはめげずに札を数えた。いとこは、車のトランクを開け、私は、売り手が品物を大きなビニールで包むのを手伝った。

 車に乗り込んで家に帰るまえ、Eは私に、「何か欲しいものはないの? 店をのぞきたくない?」と聞いてきた。私の分身は、ほんと、もっと見て歩きたいと思い、もうひとつの分身は、めったにない外出に心身ともに疲れ果てていた。とにかく、わが家という安全な囲いの中に、社会のはみ出しものと感じなくてすむ場所へと、帰りたかった。

 一年のこの時期は、春真っ盛りだ。4月になれば、暑くて蒸し蒸しする。4月には、私はいつもとても外に出たかった。屋上や庭だけでなく、通りや歩道を人々と一緒に行ったり来たり・・・。近ごろでは、その欲求もどんどん減ってきている。

リバーによって掲示 午後2時54分

翻訳 池田真里)

2004年3月20日土曜日

 対テロ戦争・・・

 今日の私は、いらいらとして怒っている。イラクに対する戦争が始まって、今日でちょうど一年。そして、誰にとっても、戦争の重圧は日に日に増しているように思われる。

 

 去年、ちょうどこの日、明け方、戦争が始まった。私は、眠っていなかった・・・2、3日前のブッシュの最後通告から、ずっと眠っていなかった。おびえていたのではなくて、爆弾落下開始というときに、眠っていたくなかったからだ。開始、そして数回の爆音が続くと、涙が流れ落ちた。私は、涙もろいほうではない。が、この瞬間、一年前の今日、爆音を聞いてたまらなく悲しかったのだ。この気持ちには、慣れっこだった。だって、アメリカが私たちを爆撃するのは、これが初めてではなかったから。

 バグダードが、壊滅してがれきと化しつつあると思って恐ろしかった。爆音のたび、その一つひとつがバグダードの重要な場所を炎上させるとわかっていた。恐ろしかった。私だったら、最大の敵にだって、こんなこと、起こりませんようにと願う。これが、”解放”の始まりだった・・・主権からの”解放”、平和といっていい状態からの”解放”、尊厳を保つすべからの”解放”。それ以来、職場から”解放”され、自分たちの町から”解放”され、侵すべからざる家庭からも”解放”された・・・家族や友人たちからも”解放”されて戻って来ていない人もいるのだ(訳注:ここでの”解放された”は、”奪われた”と同義)。

 一年たって、ときどき(精一杯よく言って、ときどき)停電し、燃料は慢性的に不足しているようで、町の治安はよくない。ごくたまに町を歩くと、人々の顔は、心配と不安でやつれ疲れきっている・・・拘留されている家族はどうしているか、いつ帰ってくるのか、アメリカ軍に強制家宅捜索された家々のその後は、家族を食べさせていけるだろうか、家族を誘拐やレイプや殺害から守っていけるだろうか。

 戦争から一年たって、いま私たちは? そう、衛星放送用アンテナを持ってるし、もっとお金のある人は携帯電話も持っている・・・だけど、私たち”ほんとう”はどうなってるの? いま大多数の人々はどうしている?

  懸命に闘っている。黒い大波のように私たちに襲ってくる過激主義者たちと。

 一時間ごとに考えている。暮らしがどこか元に戻ったなという気配が感じられるようになるまで、あとどのくらいかかるのか。

 願い、祈っている。内戦が起きませんように・・・と。

 不信の目で見つめている。私たちの町を歩きまわり、突然私たちの家に押し入ってくるアメリカ軍の兵士たちを。

 怒りの目で見つめている。役立たずの上に、おいしい契約を外国人に分配し日毎に財布を太らせている操り人形評議会の議員たちを。自分の国のことなんかこれっぽっちも気にかけなかったこの面々こそが、ブッシュとお取り巻きに戦争をするよう懇願したのだ。おびただしい生命を犠牲にし、さらに多くの犠牲を生むことが確実なこの戦争を。

 この国の南部にいるイラン人の聖職者を冷ややかに見つめている。彼が、かつて非宗教的であった国をアメリカの最大の悪夢に__イランそっくりの国に__変えようとしているのを。

 見つめている。世界の目の前で、うそがばれるのを。大量破壊兵器という作り話とアルカイダという猿芝居。

 それで、私たちは今どうなのか? 

 そう、イラクの行政機能は、’解放者たち’と’自由イラク戦士’の手で灰塵に帰してしまった。

 労働人口の50%は、失業し飢えている。

 夏はすぐそこというのに、電気事情といえばお笑いだ。

 街路は汚れて、下水があふれている。

 刑務所は、かつてなかったほど満員だ。それも無実の人々で。

 イランの仕掛けた10年にわたる戦争でも体験しなかったほどの爆発、戦車、戦闘機、兵士をこの一年で見た。

 家々の強制家宅捜索は続き、車は行く先々で検問のため止められる。

 ジャーナリストは、’誤って’次々と殺され、内戦の火種は、それで得をする輩の手で次から次へ蒔かれている。

 病院は患者であふれているというのに、患者のほかに病院にあるべきもの、なにもかもが無い__医療用品、医薬品、医師。

 そして、その間じゅう、原油が流れ出しているのだ。

 けれど、たくさんのことを学んだ。テロとは、恐怖をもたらす行為ではまったくないということも。テロは、ただ罪なき人々を殺害したり、自分たちとは違う人々を脅す行為ではない。断じて。そう、こういう行為を’解放’というのだ。何を爆破しようが、誰を殺そうが、かまわない。軍服を着て、戦車か攻撃ヘリか戦闘機に乗って、ミサイルや爆弾を打ち込むならば、それはテロリストではなく、解放者なのだ。

 対テロ戦争なんて、ジョークだ・・・先週、マドリードはこれを証明した・・・イラクは毎日、これを証明している。

 誰か安全になったと感じているかしら。だって、私たちは、ちっとも安全を感じとれない。

リバーによって掲示 午後11時2分

(翻訳 池田真里)



2004年3月19日金曜日

爆発・・・

 2日前の爆発は、すさまじいものだった。私たちが住んでいるところは、爆破された地区にそれほど近くはないが、大きな爆発音がはっきりと聞こえた。今週、爆発は数回あった・・・そのうち今回のが最大だ。爆発だと知った瞬間から、E(弟)と私は、どこで起こったか当てっこを開始した。これはもう一種病的なゲームになってしまっている。

 アルジャジーラが、ただちに爆発について特別番組を放送し始めたので、Eの推理が当たったことがわかった。カラダだった(私はこのところ90%ははずれ。Eの性差別的妄言によれば、女はだいたい方向音痴だということだ)。住宅地のど真ん中のホテルが爆破されたのだが、奇妙にも話はさまざまにくい違っている。住人は、ロケット弾のヒューッという音がして、続いて爆発があったと言っている。爆発だけだったという人もいる。ある放送局は、がれきの中から32体の遺体が運び出されたと言い、他の放送局は、17体と言い、イラク警察によると、わずか6体だ。死亡した人々の国籍についても、情報はさまざまだ。イラク警察はホテル滞在者は全員イラク人だといい、アメリカは死亡者の中にはアメリカ人とイギリス人がいると言っている。誰を信じるべきか?

 土曜日と日曜日は、バグダードでデモがあった。学生たちは、バグダード大学に立ち入れなかった。大学の警備隊(皮肉なことにアメリカに任命された)が誰も中に入れようとしなかったからだ。警備隊は、シスタニ一派の一部で、シスタニの追随者たちは、操り人形評議会が調印した暫定基本法にしつこく反対していて、それで2、3日大学を閉鎖すると決めたのだ。学生たちは、工学部の学部長が入れてくれと懇願したあげく拒絶されるのを見るはめになった。

 デモのことを知ったのは、土曜日に就職の面接に行くことになっていたからだった。私の雇い主となるかもしれない人物が電話をしてきて、連絡があるまで延期と言った。会社の守衛たち(熱心なシスタニ崇拝者たち)が暫定基本法反対デモに参加するため、その日休暇をとることにしたからだった。シスタニの追随者たちは、シスタニから明確に指示されなかったら、暫定基本法反対のデモに行きはしなかったろう。

 ムスタンシリア大学(バグダード大学と並ぶ有名大学、(注1))は抗議する学生たちでいっぱいだった。理学部の学部長がアルバイーン(イマム・アル・フセインの死から40日目、(注2))が終わったら、黒い旗とアル・サドル(注3)とシスタニの写真を降ろすように求めたからだ。保守的なシーア派学生は、即刻怒りで応え、学部長が解雇されるまで、ストライキを行うと決めた。仕返しに、スンニ派学生は、シーア派学生のストに対する”抗議”のストを行うことを決めた。

 (注1:世界最古の大学といわれている)

 (注2:今年は、4月10日。2月29日の「アシュラ祭」参照)

  (注3:大きな影響力をもつシーア派聖職者)

 また、バグダード大学工学部の副学長の一人が、最近暗殺されたと聞いた。怖しいニュースで、このところずっと私の心に重くのしかかっている。どうして誰もこのニュースに注目しないのかわからない。イラクの学術・研究界は大崩落をきたしつつある。大学教授や研究者__イラクの将来に必要なすぐれた知的階層__があちこちで暗殺されていっている。アメリカに拘留されて、アルカイダについて(なんと!)尋問され続けている人々もいる。

 釈放されてのちに、彼らが語る話は、驚くべきものだ。研究者の大部分は大学教授で、人生を教育と研究に捧げてきた。多くのひとは、ある分野__たとえば遺伝_の専門家というだけで、拘留される。最近釈放されたある人は、3日にわたって続いたCIAと憲兵が関わった尋問のばかさ加減について語っている。取調官たちは、家宅捜索の間に没収した家族の写真を次々見せ、二人の10代の息子とその友人たちを指して、「アルカイダの一味じゃないのか」と尋問し続けたという。

 研究者たちだけではない。正体不明のグループによる医師の暗殺も続いている。去年の夏頃から始まって、ずーっと続いている。イラクには、アラブ諸国のうちでも優秀な医師がいる。昨年6月以降、少なくとも15人が冷酷な意図のもとに殺された。どれも同じパターンだ。診療所に車が乗り付け、黒服の男たちが降り立ち、医師が射殺される。患者の目の前で、ということもあるし、まったく一人にされて何時間も後に殺されることもある。家族の目の前で、容赦なく撃ち殺された医師もいる。バディル・ブリゲイド(アル・ハキムに率いられるイラク・イスラム革命最高評議会の民兵組織)が、何か理屈をつけて殺すべきと考える医師72名のリストを作ったと、噂されている。リストにはスンニ派の医師もシーア派の医師もクリスチャンの医師の名もあるという。

 拘留も暗殺もされていない研究者、大学教授、医師たちは誰も、国外脱出の道を探しているようだ。話しかけたひと誰もが、心ここにあらずで、仕事はないかと目を国の外に向けてるという感じ。とても気が滅入る。誰かがドゥバイなりレバノンなりロンドンなりに出ていくつもりでその方法を話すのを聞いたなら、私は、とどまってくれと懇願する・・・心は叫び出しそう、「私たち、あなたが必要なのよ! ここにいて!」。理性では、彼らの中にはそうするほか道はない人もいると、わかっているのだ。多くの人々が仕事を失い、家族を養う方法がない。子どもや夫や妻のことを始終心配し続けているのにもう耐えられないという人たちもいる。女性の医師や研究者の多くは、国を出たいと思っている。以前と違い、この国で女性が働くのは、もはや安全ではないからだ。そのうちのある人々にとって、選択肢は、主婦になるか、安全な働き口を求めて海外へ脱出するか、しかない。

 理由はなんであれ、研究者など知的労働をする人々は少しずつ少しずつイラクから流出していっている。イラクはもはや学び、研究し、働く場ではないのだ・・・イラクは、欲深な金満業者と過激派と盗賊(ありとあらゆる種類の)と軍隊の国・・・

リバーによって掲示 午前10時掲示

(翻訳 池田真里)

2004年3月12日金曜日

春・・・

 このところ、夕食のテーブルの話題は、暫定基本法(憲法)のことばかり。友だちに全文をプリントアウトしてもらって手に入れた。昨日、今日とかけて目を通した。調印式はほんの一部しか見ていない。途中で停電したからだ。それにあとでわざわざ見る気はしなかったので。

 書かれた言葉として見ると、まあまあだ。言葉ってそんなものだ。ところどころ前の憲法が見え隠れしている。暫定基本法をめぐる議論の中心は、その正当性如何にある。あらすじは、占領権力が、一群の亡命者を呼び込み、イラクは”解放された”と宣言し、国民が独裁体制以来使っていた憲法を無効だと宣告し、統治評議会という名の操り人形団をでっちあげた、ということ。こういう法が、正当と考えられるだろうか。

 さらに、操り人形たちは、いったいどの程度、この暫定基本法をまじめにやろうと思っているだろうか。たとえば、”何びとも、法によらず逮捕あるいは拘留されてはならない。また、何びとも政治的あるいは宗教的信条を理由として拘留されてはならない”。アメリカ軍は、強制家宅捜索と法に基づかない不当な拘留を、6月30日がきたらやめるのだろうか(家宅捜索と拘留はまだ頻繁に行われている)。それとも、暫定基本法は、イラク国民だけに適用される?

 先日聞いた、ティクリートで不当に逮捕、拘留された男性のことを話そう。アメリカ軍は、彼の家を襲い、彼(25才)、弟2人、年長の叔父を一ヵ所に集めた。ことは通常の手順で進められた。いつもみんながやられるように。頭に袋をかぶせられ、その上縛られて、ティクリート郊外のどこかに連れていかれ、納屋のような所にほおり込まれた。3日間、兵士たちに殴る蹴る罵るの暴行を受けた。暴行の合間に、巨漢の兵士が金切り声で尋問し、それを通訳が訳す。「おまえはアルカイーダの仲間か?! オサマ・ビン・ラディンを知ってるか?!」。3日目、拘留されていたうちの一人が、リーダーらしいと目星をつけた男(いつも命令を下していたから)と、話をつけた。兵士を一人見張りに付けて町に戻り、一人あたり300ドルを持ってくる、そうすれば、残りの3人は2、3日中に解放するという約束で。

 うまくいって、2日後、残りの3人は、道ばたで降ろされたところから歩いて帰ってきた。つまり、彼らは、身代金を払って自由になったというわけ。’新生イラク’のごくありふれた話のひとつ___チャラビが、暫定基本法に署名しながら歓喜に酔っていても無理はない。いまこの国は、無防備の銀行のようなものだから__とくに武器を携帯している者たちにとっては。

 この法に対する一般的なムードは、一種の倦怠だ。イラク人は、’暫定’や’移行段階’に飽き飽きしている。ほとんど1年に及ぶ不安定で敵意に満ちたな状態が続いて、いま私たちは、なにか確実で明確なものを渇望しているのだ。

 風には春が感じられる。イラク人にとっての春とは、砂嵐と豊かな日光である。私たちは、いまの気候を満喫している。4月の終わりには、夏まっさかりとなって、これでもかとばかりの熱波が押し寄せる。いま、朝はすこし寒くて、昼までは上着が必要。もう、灯油ストーブは必要なくて、これはE(弟)にとっては任務解除の喜び。ストーブの給油と庭のタンクをいつも満タンにしておくのは、Eの仕事だったから(灯油売りとは仲良くなった)。

 この数日、去年のこの頃のことを思い出している。去年の今日のことを。3月初め頃、していたこと・・・戦争の準備。井戸を掘り、窓をテープで貼り、ろうそくやマッチや灯油や米や小麦粉や包帯や薬やそのほかいろいろ買いため・・・そして、いま私たちのしていることは?―― それを使ってる。   

リバーによって掲示 午後11時2分
(翻訳 池田真里)


2004年3月6日土曜日

シスタニとグリーンゾーン・・・

 (訳注:グリーンゾーンとは、CPA(連合軍暫定当局)があるバグダード中心部の管理区域。本部になっている旧フセイン宮殿、政府庁舎、ホテルなどが点在する広大な区域で、高さ3メートル、厚さ30センチ余のコンクリート壁や鉄条網などで囲まれている) 

 

 今日は大混乱だった。バグダードの半分が立ち入り禁止になったように感じられる。私の家族は、親戚を訪ねて市を横断してもう一方の端へ行こうとしていたが、途中、いとこは、通常の道を通れず迂回路へ迂回路へと回り続けねばならなかった。

 ”グリーンゾーン”は、市の大きな部分を切りとっていて、なおも膨張しつづけている。「見ててごらん、いまに住民を追い出して、バグダードのまわりに巨大な壁を張り巡らすよ。そして”グリーンシティ”にするつもりだよ」と、ときどき冗談が出るくらい。自分たちの町の一部が、占領軍を住まわせるために立ち入り禁止だなんて、ものすごく不快だ。 

 保健省の中か周辺に何か危険が生じつつあるといって、市のほかの区域も立ち入り禁止だった。あとでわかったことだが、かつての職員たち(戦争前に解雇された人たちや占領中に解雇された人たち)が、保健省ビルに入り込み、省長官室を破壊しようとしていたのだ。 この人々は、仕事を要求していたが、人質が取られたとする放送局もあった。私たちが知りえたことは、省ビルの外に大勢の怒りに満ちた群衆がいて、戦車、車、猛々しい兵士たちがそれに対抗していたことだけだった。戦争後、およそ1300人の職員が解雇されたといわれている。医師、看護士、守衛などの人々である。

  今日、イラク操り人形評議会は、恒久憲法の前段のような役割をする基本法草案に署名しようとしたが、決裂した。私は、恒久憲法を読み、内容を知る日を望んでいる。 当局は、優雅な会議室にすべて万端___名札を付けた銀色に光る椅子、統治評議会議員のための高価なペン、演壇、演奏するばかりになっていた子供合唱隊とオーケストラ___整えていた。

 しかし、面々は、長く待望されていた文書に署名しなかった。シーア派議員の何名かが署名を拒否した。大統領職、女性の権利、連邦制、さらに新憲法(彼らが起草を決定するならば、だが)について、もともと意見の相違があったためだ(らしい)。

  アル・シスタニがブレマーと手を結んでシナリオを書いているらしい(訳注:シスタニは、シーア派の最高位聖職者、73才)。グリーンゾーンの中に、シスタニの事務所を設けてやればいいのに。そうすれば、統治評議会の面々は、もっとやりやすくなるだろうに。それに、シスタニの御意向を伺いに、カルバラに馳せ参じなくてもよくなるでしょうよ。ほんとに信じられないことだ。

 シスタニは立派な聖職者だ。イラク国内にも国外にも付き従う信徒は何百万もいる・・・でも実は、かれはイラン人なのだ。イラン人聖職者が、イラクの将来をつくるなんてこと、あり?  

 いろんな意味で、シスタニの意見は重要だ。それにしても、彼は、評議会内部にいわば目に見えない拒否権を行使しているように思われる。彼が、取りまきの一人の耳に「不同意」とささやきさえすれば、それは即彼の信奉者たちの不同意なのだ。すごく我慢ならないことだ。イラン出身の聖職者に法制度を整備してもらって、イラクが非宗教的(イスラム法による国家ではなく)に、そう、”イラク的に”なりうるだろうか。この憲法制定をめぐる混乱についてはJuan ColeとBack to Iraqのサイトが詳しい。

リバーによって掲示 午後11時53分

(翻訳 池田真里)

2004年3月3日水曜日

アシュラ祭の大惨事・・・

 
 カルバラとカディミヤの爆発は恐ろしかった。遠くカディミヤの爆発が聞こえた。体に響く鈍い衝撃音が数回聞こえたが、それが何かはわからなかった。あとで、ニュースで知った。知ってからは、誰もが、恐怖の底にいる。こんなことが起こるなんて、信じられない。アル・アラビアはじめテレビに映し出されるシーンは、恐ろしい・・・誰がこんなことをできるのか? 私たちは、ずーっとお互いに問い続けている・・・これで、何か得るものがあっただろうか、と。

  ありとあらゆる名が上げられ、犯人だと名指しされている。みんな、これがことわざにいう、ラクダの背骨を砕く藁(ワラ)となるのではと、恐れている__ただこれは藁ではない。とてもでないが重くて運べない鉄の重石と言ったほうがいい。(訳注:「最後の藁一本がらくだの背を折る」__ぎりぎりの重荷を負ったらくだは、たった一本の藁を積んだだけで倒れてしまうという意味のことわざ)

  幸い、人々の反応は、冷静で落ちついている。悲しみ嘆いてはいるが。スンニ派とシーア派は、くっつきあっている・・・かつてなく。なにかこの大惨事は、私たちを破滅させ、社会的不安(fitna) を起こそうとしている外部の勢力があることをはっきりと悟らせるために、起こされたようだ。これがイラク人の手によるものだとは、信じたくない。あり得ない。許しがたく、絶対に正当化できない。みんなそう思っている。

 私の家族は心配でいてもたってもいられない。毎年カルバラにお参りする親戚がいるからだ。親戚は、現在電話の通じない地域に住んでいるから、E(弟)といとこは、その家を行き、確かめてこなければならなかったのだが、行ってみて、その親戚が今年は行かなかったことを知った。あまりに不穏だったからだ。いまサラーム(バグダード・ブロッガーの一人)がどうしているか、心配__サラームがブログに、今年は家族でカルバラに行くと書いていたから。無事でありますように。 

 みんな、攻撃か反乱かなにかが起こると予感していたと思う・・・それでもこの大惨事は予想外だった。暴力という暴力は見尽くして、もう何が起きても驚かないと思っていて・・・なお、この事件は大衝撃で耐えがたい痛みであった。 
 今日は、カルバラとカディミヤでなくなった犠牲者の全国民追悼の日だった。終日、モスクでは犠牲者に祈りが捧げられ、モスクの長老たちは爆破を非難した。 
 
 アシュラ祭の前、内戦について盛んにうんぬんされていた。みんな、あたかもよその国のよその国民のことでもあるかのように語っていた。それは、私たちの誰ひとり、自分たちの知っている誰かが、見境のない暴力をふるえるなんて信じられなかったからだと、思う。
 この大虐殺が起こってから、そしてスンニ派とシーア派の反応を見てしまってから、私のイラク人の理性と強さに対する信頼は、再確認された。イラク人は、いってみれば大きな家族であったし、いまもそうだ__生半でない違いも多くあるものの。恐ろしい悲劇のあと、ふたたび結びあって、慰めあい支えあっている。

リバーによって掲示 午後10時10分


(翻訳 池田真里)