Baghdad Burning

バグダードバーニング by リバーベンド

... I'll meet you 'round the bend my friend, where hearts can heal and souls can mend...

友よ、私の心が失われあなたさえ見分けることができなくなったら、どうか私を偉大な文明をはぐくんだ、チグリス・ユーフラテスの胸元に連れて行って欲しい。そこで私は心を癒し、魂を再生させるでしょう。

2004年2月29日 木曜日

アシューラー・・・

(訳注:イスラム教シーア派第3代イマーム・フセインの殉教日。ウマイヤ朝のカリフ、ヤズィードの命令で、クーファでウマイヤ軍によって殺害された。イスラム教徒にとって大きな悲しみの日。今年は3月2日。)

緊張で大気がびりびり、感電しそうだ。誰もが感じている。今は、イスラム暦(ヒジュラ暦)の1年の始まりの月、ムハッラムだ。ヒジュラ暦のこの時期は数百年前に歴史的な事件がおこっていて、重要である。イラク東南部のカルバラで預言者ムハンマドの子孫の一族が殺害され、一部は捕らえられた。それは、長く悲しく入り組んだ物語である。

預言者ムハンマドの曾孫、その子どもたちと妻たちは一族郎党を伴い、イラク(訳注:当時イラクはなかったので、いまのイラクあたりの意味)へやってきた。この地域の人々に、イスラム国家の統治者としての役割(カリフ、訳注:ムハンマドの代理人としての統治者)を担ってほしいと要請されたからである。カルバラにたどりつくまえに、クーファに近いところで、ヤズィードの軍に包囲された。ヤズィードは、ムハンマドの遠縁でイスラム世界の指導者(カリフ)になりたいと思っていた。ヤズィードは、カリフになる権利があると信じられてもいた。彼の父、ムアーウィヤが、イマーム・アリ(ムハンマドの従弟にして義理の息子)に対抗して、カリフとしての権利を主張したからである。

カリフは、世襲ではなかった。預言者ムハンマドは、死の床で、カリフは必ず、メッカの選り抜きの信心深く尊敬されていて影響力ある人々の集まりであるサハーバの総意に基づいて選ばれることを命じた。預言者ムハンマドの死後、3人のカリフが続き、3人目のオスマン・ビン・アファーンが殺害されたとき、問題が始まった。

ともかくムハンマドの一族がクーファで包囲された後、計画的に殺され、うち何人かはムハッラムの初めの10日の間に虜囚となった。ムハッラム10日に、ムハンマドの孫、イマーム・アル・フセインが、クーファの戦いでもっとも陰惨な方法で殺害された。首はうち落とされ、ヤジードのもとへもたらされた。

クーファとカルバラの人々は、アル・フセインと一族、付き従う人々を助けなかったことに、ずっと罪悪感をもってきた。使いを出して呼んでおきながら、ヤズィードの軍が襲ったとき見捨てたことを。

この罪は、毎年、あること―貧しい人々に熱々のお粥を大鍋いっぱいふるまうとか、近隣や家族のために特別の食事をつくるとか―をすることによって、’思い出される’。

 スンニ派もシーア派も同じように、この行事を行う。ふつうであれば。母は、毎年ハリス(お粥)を家族全員分炊く―ムハッラムのハイライト。

家で、キラヤ(qirraya)という集まりをすることもある。これは、多くの場合、女性の行事だ。近隣じゅうの女たちが、一軒の家に集まり、マクタル(アル・フセインと一族の殉教譚)を吟ずる女性たちの専門グループを呼びよせる。

私は、数年前、このようなキラヤに参加したことがある。キラヤは、たいてい涙で終わる。マクタルで語られる内容が、悲惨のきわみだからだ。これを聴いて、泣かないなんて、できない。

今年は、これに新しい儀式が加わった。’ラトミヤ’である。これを行うのは、シーア派だけ、である。が、シーア派全員が行うわけではない。多くのシーア派穏健派は、わが身をチェーンで打擲するというこの儀式に眉をひそめている。その光景がひじょうに・・・残酷そのものだからである。

2、3日前、 E(弟)とわたしは、屋上から50人ほどの黒衣の男たちの行進が本通りを行くのを見た。怖しかった。彼らは、髭をはやし、手首に巻いたグリーンのバンダナ以外は頭のてっぺんから足の先まで真っ黒だった。そして、黒とグリーンの旗とバナーとグリーンを背景に描かれたイマーム・アル・フセインの肖像を掲げていた。一定のリズムで胸を叩き、何か意味のわからないことを唱えていた。このような行進は、以前は禁止されていた。はっきり言って、彼らがどこかに監禁されたらいいのにと思う。このような暴力性に満ちた光景(暴力が本人に向けられるものであっても)は、ちょっと神経にこたえる。

 テレビで、南部のもっと盛大なラトミヤを見た。とくにイマーム・アル・フセインが埋葬されているカルバラのは大規模だ。男たちはチェーンを抱え、それで自分の背中を打つ。ときに衣服が破れ、体が血にまみれるまで。この儀式は好きでない。神聖でも宗教的でもない。多くのムスリムは、これは誤りだと考えている。肉体を傷つけることは、’ハラーム’つまり罪とみなされているからだ。

今年、カルバラは例年になく人で込み合うだろう。イラク人のほかに、なんとかしてイラクに入った、おびただしい数のイラン人たちが加わるからである。

アシューラー、ムハッラムの10日目(訳注:今年は3月2日)は、もうすぐ。みんな心底、何が起こるか心配している。バグダードじゅうの何十というビルは、黒布で覆われた。まったく気の滅入る光景だ。 E(弟)は数日前、バグダード大学に行ったが、建物という建物、学部のバルコニーまでも黒布をはりめぐらされていたという。’ラトミヤ’体験を授けるという掲示もあって、熱心なシーア派の何人かは、学部のカフェテリアに対し、音楽はまかりならん、’キラヤ’だけという命令を出したという。

   電気事情は、いまのところ日に10時間電気が通じているという状態に、ほとんど安定してきている。目下のところ、すべてが少しばかり怖しい。だから、昼間は電気なしでいいから、暗くなったらすぐに電気が通じますようにと祈らずにはいられない。この2、3週間の間に、暗殺が多発し、医師、教師、大学教授、宗教界の重鎮がやられた。何件かはまったく理由がわからない。

 バグダードは、とことん落ち込んでいる。これらすべての黒布が、事態をいっそう悪くするばかりである。

 リバーによって掲示午前2時19分

(参考:カルバラの悲劇といわれるこの事件は、 AD680年に起こった。悲壮な最期をとげたイマーム・アル・フセインの乗っていた白馬が、女子供が待つテントにたどりつき、皆がその馬にとりついて泣くうちに、ウマイヤ軍が容赦なく全員を殺害した・・・等々悲惨な逸話に満ちている。バハレーンなどでは、アシューラーで、シーア派の男たちが裸の体に鉄のチェーンを打ち付け、頭を刀で割り、血を流しながら行進するそうである。現在、アメリカ国務省のサイトでは、今年のアシューラーは、シーア派祭儀を弾圧したフセイン政権崩壊後、初のアシューラーだとして、反フセイン派の学者の見解を引きながら、フセインの苛酷な弾圧と現在シーア派の人々の感じている自由について述べた記事を掲載している。)

(翻訳 池田真里)


2004年2月25日 水曜日

怒れるアラブ人とアメリカのメディア・・・

 みんなで、アルジャジーラの「対論」を見た。今日のはかなりいけてた。夕飯のテーブルを片づけ終わり、なにか見ようと腰を落ちつけたら、ちょうどニュースを見たい (弟)が、アルジャジーラにチャンネルを合わせたときだった。長めのカールした髪を後ろになでつけてポニーテールに結び、黄色いシャツを着た男が誰だか、すぐにわかった。アサード・アブ・ハリールだ。戦争後すぐの時期に、アル・アラビヤかアル・ジャジーラのどちらかのインタビューに出て、ラジオ・サワ(アメリカの宣伝放送)を罵倒していたのを見て以来、記憶にある。

 今夜、「対論」に出ていたのは、本名より怒れるアラブ人という名で知られるアサード・アブ・ハリールと、アル・ハヤット紙記者のイブラヒーム・アル アリスである。アル・ハヤットは、レバノンの新聞で、ある金持ちサウジアラビア人が資金を出している。(訳者注:他の資料では、アル・ハヤットは、ロンドンで発行されているというが・・・)

 テーマは、アラブ・メディアにおけるアメリカのプロパガンダであった。アサード・アブ・ハリールは、最高だった。彼は、現在のアラブ・メディアに対するアメリカのプロパガンダの影響を論じ、現アメリカ政権が、アラブの新聞や放送局に対して親米の立場をとるよう圧力をかけているやり口について語った。

 あいにく、ハリールの論じるところは、アル・アリスの理解を超えていたが。アル・アリスは、親米プロパガンダとは、第一面トップに「ウイ・ラブ・アメリカ!!!」と見出しが出る程度のものと考えているらしい。

 アサード・アブ・ハリールは、新聞紙上で気づかないうちに進んでいる変化を取り上げていた。用語の変化や、新聞によってはニュース報道をやめて、ニューヨークタイムズなどアメリカの通信社の記事の翻訳に依拠するようになったことなど。アブ・ハリールは、赤ら顔で太ったイブラヒーム・アル・アリスを卒中の発作寸前というところまで追い込んだ。劣勢のイブラヒームは、もう少しでこぶしでテーブルを叩き丸めた紙をアブ・ハリールに投げつけるところだった。

 いっぽうのアブ・ハリールはあっぱれ、ずっと冷静だった。イラクの言い方では、Asa'ad Abu Khali ibarid il gallubとなる。(イラク語法について注:ibarid il gallub は、’気持ちを落ちつかせる’という意味で、ふつうは、安心させるようなことを言ったりしたりして気持ちを和らげるものや人について、使われる)。

 アルジャジーラやアルアラビヤのニュースがアラブ側に偏向しているとばかにして言うメールには、ほんとにもううんざり。 が完全にアメリカ寄りで、BBC もイギリスに偏向していてオーケーなのに、アルジャジーラとアルアラビヤは客観的で偏見なしでなければならない、というよりアメリカ世論に迎合しなくてはならないというのは、わからない。アルジャジーラもアルアラビヤも、アラブの放送局。アラブ側に偏向していて当然だ。アラブ・メディアの中には、反米プロパガンダが少しばかりあるのは認めるけれど、それはお互いさま。それほど説得力があるわけじゃないにしても、アメリカ・メディアにも同じだけの反アラブ、反ムスリムプロパガンダがある。アラブ人は、アメリカの文化や歴史について、ふつうのアメリカ人がアラブ人やイスラムについて知ってるよりも、ずーっとよく知ってる。いらだたしいのは、それをアメリカ人たちが知らないことよ。  

 アル・フラを見てくれたら!と思う。新しくペンタゴンが始めた’偏向していない’放送局。現在全アラブ諸国で放送されている。前身がボイス・オブ・アメリカだったアメリカのラジオ局サワのテレビ版である。 
 ここのニュース報道は、完全に偏向していて、ジョージ・ ・ブッシュとコンドリーザ・ライスがアンカーをしたらはまり!と思うくらい。わたしたちは、アル・フラのニュースを見て、笑ってしまう・・・’気づかない’どころか。面白いことに、サワとアル・フラは、米国国内では禁止されていると、アサード・アブ・ハリールが言っていた。露骨な政治的プロパガンダやそれを目的とするような放送は禁じられているのだそうだ。それについて知っていることがあれば、教えて!

 アル・フラのようなチャンネルは、イラクではすべてうまくいっていると、エジプト人を納得させることはできるかもしれない。だけど、イラク人にそんなこと納得させられると思う? 絶え間なく放送し続けてるからって、言ってることがほんとうになるわけないでしょ。ときどき、たとえばもし、サウジ政府が、突如アメリカ人向けイスラム・プロパガンダの英語放送を始めたら、アメリカ人はどう思うかしらって考える。

 私にメールしようとしてる人たちに、重要注意:この数日で少なくとも3通、次のようなメールを受け取った。「あなたのブログを読んで、言ってることに同意できない。しかし、アメリカには有名な言葉がある。あなたの意見に同意しないが、あなたが意見を言う権利のために死ぬ意志がある。」 だけど、これは有名なアメリカの言葉ではなくて、フランスの、ボルテールの有名な言葉。「あなたの言葉に同意しない。が、あなたがそれを言う権利のために死を賭して闘う意志がある。」 念のため。

リバーによって掲示 午前1時23分

(翻訳 池田真里)

2004年2月20日 金曜日

愚劣な記事と輪をかけて愚劣な人々・・・

さて、ちょうど、ニューヨークタイムズのこの記事を読み終わったところ。

これについて話さなくては。というのも、これを送ってくれた人がいて、この記事にしごく満足しているようすなの。

 記事は、「アメリカのアラブ人がブッシュ支援の募金」というタイトルで、地理音痴丸だしのレスリー・ウェインって人が書いてる。こういう記事がニューヨークタイムズにまぎれ込んでたら、楽しむことにしている。

記事の大筋は、ブッシュの大統領選支援資金のかなりの額が、対イラク戦争を支持する裕福なアラブ系アメリカ人から出ているということ。

 面白いのは、”アラブ”系アメリカ人について―イスラム教徒のアメリカ人やアジア系アメリカ人についてではなくて―これでもかっていうくらい語り、この記事は、イラク、サウジ・アラビア、シリア、エジプト、リビア、イエメン、アラブ首長国連邦バーレーン、オマーン、カタール、チュニジア、モロッコ、パレスチナ、レバノンなどの出身の人々のことだと思わせながら、アラブ系アメリカ人という言葉を使っている。

いい? アラブ国家っていうのは、公用語がアラビア語で、国民が一般的にアラブ人とみなされている国のこと。 記事は愚劣だ。が、筆者は、読者はもっと愚鈍だと思っているらしい。記事中で5人の有力”アラブ人”(ブッシュ支持者)として上げられた人のうち、なんと二人はイラン人で3人目はパキスタン人。アラブ人から見ると傑作だ。パキスタン人はアラブ人ではないし、イランは隣国だけれど、イラン人は、一般的にいうと、アラブ人ではない。イランのブロッガーたちにそのこと確かめるといい。

イラン人寄付者の一人は、モリ・ホセイニとかいう人で、イランに生まれ、アメリカに移住するまで(といってもまだこどもの13才までだ)住んでいたから、この地域のことはよく知っていると主張している。イランのチャラビに決まってる。彼が何をするか見てて。イラクの住宅建設の仕事をもらうか、突然イランの大量破壊兵器の重要情報(13才のときから今まで隠してたってわけ)の持ち主になる・・・わたしの予言。

これら有力アラブ人たちというのは、ワシントンやロンドンに住んで、ホワイトハウスの公式晩餐会に出席し、片手にカクテル、もう一方の手に絹のハンカチをもって’祖国’のために涙を流して拭いてみせているような人たち。この人たちが、ルイビトンのバッグに荷造りして、ホワイトハウスの低能の戦争狂どもに寄付しようとしているお金を全額、イラクかイラン、どこでもいいから民主主義を広め祖国の’復興’と’開発’を支援したいと思うところに持ってきてくれたらいいのにね。

たとえばあの20万ドルがあれば、ホセイニさんは、イランのバムに家を何戸建てることができたかしら・・・だけど、アメリカがイランを爆撃して工業化以前の状態に戻さなくては、ホセイニさんがこんな巨額の請負契約をもらえるわけはないわね。

リバーによって掲示 午前1時8分 

(翻訳 池田真里)

2004年2月13日 金曜日

アミリヤ避難壕大虐殺の記憶のために・・・

そうだった、バレンタイン・デー、おめでとう・・15日だけれど。でも眠ってないから、まだ14日みたいな気がしている・・・昨日が続いている。

  昨日は、何の日だったか知ってる? アミリヤAmiriyah)避難壕大虐殺の第13回記念日―1991年2月13日のこと。’記念日’って言っていいのかしら? 記念日って良いことを思い出す日のこと。でもほかの呼び名はある? 知っていたら教えて。

 1991年2月13日は、小祭、イード・アルフィトル(断食明けの祭)の一日だった。そして、いうまでもなく、湾岸戦争で猛烈に激しい爆撃のあった日々のうちの一日でもあった。誰一人、お祝い気分の人はいなかった。となりの地区まで行くためのガソリンさえなかったから、たいていの家庭では家にとどまっていた。恵まれた地区には避難壕があって、爆撃の間、一帯の人々が集まって一緒に入った。その年、人々は、避難壕にもぐって、隣人たち友人たちとイード・アルフィトルを祝ったのだった。

 イラク人は、安全のためというより、社交のために避難壕へ入る。爆撃の間、そこにいるのは、すてきだ。水も電気もあって、堅固な造りとにこにこした友人や家族に囲まれて平穏で安心できる空気がある。大勢の集団の中にいると、戦争中のさまざまなことが耐えやすくなる―勇気と元気が人から人へと伝わっていって、集まった人の数だけ累乗されてふくらんでいくみたいだ。

 だから、アミリア地区の家庭はイードのご馳走を一緒に食べてすてきなひとときを過ごし、その後で、女性と子どもたちに気楽なときを過ごさせるため、男性と15才以上の男の子は席をたつことにして、避難壕に入ったのだ。女性と子どもを残して席を立ったとき、妻、娘、息子、婚約者、姉妹、赤ん坊たちの見納めになろうとは、夢にも思わなかっただろう。

 真夜中近く男たちがいなくなったあとの様子は想像できる―女たちはぐるりと座って湯気のたつお茶をつぎ、イード・キレーチャ( kilaycha)とチョコレートをまわす。子どもたちは、地下の大運動場を独占したつもりで、避難壕中をきゃあきゃあ走り回っていただろう。少女たちは座り込んで、男の子や服や音楽や、サラやリナやファチマの最新の噂に興じていただろう。お茶と焼き菓子とご飯の匂いが混じって・・・心地よい匂いに、一瞬、家にいるような気持ちになったことだろう。

 サイレンが鋭く鳴り始めた―食べたり叱ったりの騒ぎの中で、突然静まり、心の中で短くお祈りを唱えて、地上にいる愛する人々のことを心配する。妻や子どもたちをゆっくりさせようと避難壕を明け渡してくれた男たちのことを。

朝4時、爆弾は、容赦なく落ちてきた。最初のスマート爆弾は換気口を貫通し、避難壕の上階部分を貫通し―大きな穴をあけて―避難壕の最下部、’地階’まで達した。そこには水タンクと給湯用プロパンタンクと食料があった。すぐ続いて2番目のミサイルが打ち込まれ、最初のミサイルが破壊できなかったものを破壊しつくした。最新設備の避難壕のドアはただちに自動的に閉まり―中に女性と子どもたち4百人以上が閉じ込められたのだった。  

 避難壕は、地獄と化した。爆発と火災が地階から女性たちと子どもたちのいる階まで及んできて、熱湯と蒸気も一緒に吹き上がってきた。焼かれて即死あるいは爆発の衝撃で死んだ。残りは華氏9百度以上でゆで殺されるか蒸し殺された。

 朝起きてニュースで惨事を知った。私たちは、イラク人の救助隊員が避難壕の中に入り、とうてい人間とはみえない黒焦げの死体を引きずり、泣き叫びながら出てくるのを見守った。辺りの人々―男、女、子ども―が、避難壕を囲む塀にとりついて、恐しさに悲鳴をあげるのを見た。次から次へと名を呼びながら・・・惨事のただ中に見知った顔を探しているのを。

 死体は、並べて横たえられた―どれも同じ大きさだった―熱で縮んで、黒焦げで身もとが分かるどころではなかった。胎児のようにからだを丸めたものもあった。まるで、自分のからだの中に逃げ込もうとしているように見える。ほかの死体は、手をさし出した姿勢で硬直していた。この犠牲者たちは、愛する誰かを助けようと手をさし伸べているか、なんとか安全を得ようとしているかのようだ。ほとんどの死体は、家族に確認されないままだった―わずかにからだの大きさと衣服や宝石の破片から男女の別やおよその年齢が分かるだけだったから。  

アミリヤというところは、教師、大学教授、医師、会社員の多いところだ。低層住宅が並び、住民は親切で、商店も繁栄してきている堅実な住宅地である。スンニ派とシーア派とキリスト教徒が入り混じって平和に幸せに暮らしていた。2月13日以後、誰もが行きたがらないところになった。何週間もの間、一帯は肉の焦げた臭いがした。大気は立ちこめる灰で曇り見通しがきかなかった。うす茶色のしっくいの家々は、突然、死んだ愛する人々の名を記した黒い布で覆われた。「妻と娘、二人の息子の死を悼んで、アリ ジャバー」「母、姉妹たち、弟たち、息子の死を悼んで、ムナ ラヒム」――。

 何日もたたないうちに、街路は黒い布のテントで埋め尽くされた。悲しみにうちのめされた家族が、ショックと恐怖を幾分なりとも哀悼の涙で和らげるようとイラク中から訪れた弔問客を迎えるために立てたのだ。それは本当に恐ろしいことだった。誰もが誰かを失っており―誰もが何人をも亡くした人を知るのだった。

 私が初めて避難壕へ行ったのは、爆撃の数年後だった。私たちは、母の友人を訪ねてその近くに行ったのだ。母の友人は、アミリヤ爆撃の後、退職した教師である。退職なんて思ってもいなかったのだが、1991年4月、学校が再開して、担任の2年生に会いに初めて登校した日のこと。教室へ入ってみると、23人の生徒のうち11人しかいなかった。「学校をやめてしまったのかと思った・・・でも出席をとっていると、子どもたちは、来てない子たちは避難壕で死んだって教えてくれたの」 抑えた口調で母に話す彼女の声を、いまも私は憶えている。彼女はその日のあとしばらくして学校をやめた。心は打ち砕かれ、子どもたちを見れば惨事を思いださずにはいられなくなったからだった。

 私は、避難壕と犠牲者に弔意を表そうと思った。ちょうど10月で、退職した教師に、避難壕は開いているかどうか聞いてみた(心の底では、開いていないと言ってくれますようにと思いながら)。彼女はうなづいて、だいじょうぶ、開いてるわと言った―いつでも開いているのだった。避難壕まで2街区歩くと、家々のただ中にそれはあった―唯一の境界は広い道だった。道で子どもたちが遊んでいた。私たちは、その中のボールを蹴りまわしていた子どもをつかまえて聞いた。避難壕に誰かいる? 彼は重々しくうなづいて言った―うん、避難壕は’マスクーン(maskoon )’されてるんだ。

 さて、アラビア語の’マスクーン(maskoon)はふたつの意味がある。’住まわれている’という意味と’取り憑かれている’という意味と。思いはすぐに飛躍して__この子、幽霊が出るって言ったのかしら? 私は幽霊とか妖怪とかを信じるような人間じゃない___最悪の妖怪は人間だし、まして戦争や爆撃を生き延びてきたなら、幽霊なんて甘っちょろい・・・しかし、それでも私の中に、こんなにも無惨に(それもほとんど一時に)、4百人もの人々が命を落とした場所は、その霊がなんらかのかたちで’取り憑いて’当然とする声がある。

歩み入ると、中は暗く寒かった。暖かい10月の日だのに。唯一の明かりは、避難壕の屋根の割れ目から入っていた。ここからアメリカのミサイルが落ちてきたのだ。私は、息を止めたいと思った―なにかいやな臭いを嗅ぐような気がして―だけど、そんなこと長く続けられない。空気には、いやな臭いはまったくなかった。ただ悲しみがにおった―ここを吹き抜ける風が悲しみの風であるように。避難壕のむこうの端はとても暗く、生きた人間がそこにうずくまっているともう少しで思うところだった。

 壁は、写真でうめつくされていた。笑顔の女性と子どもの何百枚という写真。白い歯をみせた笑顔、羊のように優しい大きな目、歯のない口で笑っている赤ん坊。顔、顔、顔が濁った灰色の壁から、私たちを見返している。終わりのない絶望。大惨事のあと、この人々の家族はどうなったのかしら(いや正確にいうと、この人々の残された家族は)と思った。妻と子どもを避難壕で亡くして、気が狂った人を知っている。何人の人が同じ目にあったことかしら・・・一番大切な人を亡くしてしまったら、人生は生きる価値があるかしら。

 避難壕のはるかむこうの端で、声がした。私は耳をそばだて、声の主たちを突き止めた―4、5人の日本人の旅行者とやせて小柄な女性だった。女性は、つっかえつっかえ英語で説明しようと努力していた。どんなふうに爆弾が落ちてきたか、どんなふうに人々が死んだか。ジェスチャーたっぷりに説明し、日本人旅行者たちはさかんにうなづき、あちこちカメラを向けてシャッターを押し、同情の音声を発していた。

  「あれは誰?」 母の友人に聞くと、「この場所の管理をしているの・・・」と、低い声で答えた。「もっとうまくしゃべれる人を使えばいいのに―見ていていらいらするわ・・・」と、私は、日本人旅行者がその女性と握手をして出ていくのを見ながら、ささやき返した。

  母の友人は、悲しそうに頭をふった。「そうしようとしたのよ、でも彼女はやめないの。彼女は、救助隊が仕事を全部終えてからずっと、ここを取り仕切っているの・・・ここで子どもを8人亡くしたのよ」 これを聞いて衝撃を受けていると、その女性が近づいてきた。表情は厳しかったが、優しくもあった―学校の校長先生のような・・・いかにも8人のこどもの母親らしい表情。私たちと握手して、避難壕を案内してくれた。ここが、みんながいたところ。ここがミサイルが撃ち込まれたところ・・・ここから水が吹き上がってきて・・・この壁にみんな叩きつけられた。

 彼女は力強いしっかりしたアラビア語で話した。私たちは、なんと答えていいかわからなかった。彼女は、自分の9人の子どものうち8人と避難壕で過ごしたようす、食料と小さい子の着替えを取りに、ミサイルが撃ち込まれる数分前に避難壕を出たときのことを、語り続けた。ミサイルが落ちたとき、彼女は家にいて、一番に思ったことは、「ありがたいこと! 子どもたちは避難壕にいる・・・」だった。道をへだてた家から避難壕にかけ戻り、避難壕がやられたことを知った。そして、恐ろしい体験が始まったのだった。彼女は、くる日もくる日もひきずり出された死体を見守った。何カ月たってもみんな死んでしまったということを受け入れなかった。それからずっと避難壕にいる―ここが家になったのだ。

 彼女は、ぼんやり浮いてみえる、コンクリートの壁や床に貼り付いた死体の残影を差し示した。もっとも見るにつらいものは、守ろう、助けようとするかのように赤ん坊を胸に抱いた母親の残像だった。「私だったかもしれない・・・」 子どもを亡くした女性は言った。私たちは言うべきことばを持たなかった。 そのとき、私は、そこが本当に’マスクーン’つまり取り憑かれているということを悟ったのだった・・・1991年2月13日以来、自分だけが生き延びたことで苦しんでいる生者たちが憑依している場所。

 傍注(重要):”アメリカ当局は、この避難壕は軍事目的であるとみなしていた”から、この避難壕は合法的目標物であったと主張して、私にメールを送ってくる、蛮勇の持ち主たちへ。1977年ジュネーブ条約追加第一議定書、第4編、第1部、第3章、第52条の3 礼拝の場、住宅あるいは他の居住用の建物または学校などの文民の使用に通常充てられる事物が、軍事行動に有効に貢献するために使用されているかどうか、疑義がある場合は、そのように使用されていないとみなされるべきである。(とにかくここのところがあなたにとって重要なようね)

リバーによって掲示 午前4時15分

訳者注:避難壕が合法的目標物であった主張している帳本人は、もちろんアメリカ政府である。その出先機関、在日米大使館のサイトでは、アミリヤ避難壕爆撃について「欺まんの構造」として、次のように書かれている。

(翻訳 池田真里)


2004年2月13日 金曜日

家族の緊急事態・・・

いくつかの理由で、ブロッグできなかった。最大の理由は、イード(イスラムの大祭、犠牲祭の4日目からこのかた、家族に起こった緊急事態に取り組んでいたからだ。

 イードはまずまず平常どおりに始まった・・・この状況下にしては、ということだけれど。第一日目には、何回か爆発があり、家族と隣人たちが集まって、電気が通じたり停電したりしていた。私たちは、第二日目まで家で過ごした。イードの準備で疲れ果てていたので、イードそのものは楽しくもなかった。

 イードの第四日目、叔父の一人が、自分の家で一族の親睦会をすると言い出してきかなかった。叔父の妻は、一日中、調理台にかがみこんで料理に励んだのだ。行けない者は、それなりの理由がなければまずい。

 それで、私たちは出かけた。午後4時、バグダードのむこうの端の叔父の家に向けて出発した。叔父は、ディナーは7時きっかりにすると請け合っていた(これは、イラク人にとってディナーをとるには罪深い時間であったが、誰もが早く家に帰りたかったのだ)。家は、叔父たち、叔母たち、祖父母たち、姪たち、甥たち、はしゃぎちらす子どもたち(そのうち二人は誰だかわからなかった)でいっぱいだった。

 ディナーは、7時に始まった。メニューは、’timen ala quzi'という、スルタナ(干しぶどう)、アーモンド、さまざまなスパイスを添えた飯と羊肉、レバノン風サラダ、チキン・スープ、パン2種だった。30分ほど、私たちは、政治も占領も忘れ、目の前に湯気をたてて並んだ、皿からあふれんばかりの料理に集中した。子どもたちさえ静かにしていて、ご馳走を楽しむことができた。地域の発電機の運転音がブーンと遠く聞こえていた。おかげで、私たちは、食べ物も明かりも堪能し、これでこそイードだと感じていた。

 けっきょく、私たちは一族、集いきて・・・これ以上イードらしいものがあるだろうか? 甘いお茶と果物のあと、一族は三々五々帰り始めた。9時に、私たちは、叔父夫婦、いとこ夫婦、いとこの夫の両親と座っていた。子どもたちは、テレビの前で、半ば眠ったようにぼんやりしていた。画面では、アラビア語の歌に合わせて、うさぎたちがにぎやかに跳ねまわっていた。

  大人たちは、いつもの議論を始めたーーー政治だ。イラクの政治論議は、世界のどことも違っている。イラク人は、葉巻やお茶のカップを手にこの政治家がどう、あの政治家はこうと品定めするんじゃないってこと、想像がつくでしょう? そんなのすごく退屈! 木の羽目板の書斎で皮背の本に囲まれたイギリス人じゃあるまいし。そう、イラク流ーーー劇的に変化する表情、おもしろい手の表現、ここぞというところでばーんとテーブルが叩かれる。

 (弟)、いとこ夫婦、私の若者たちは、たちまち議論の外にはじき出された。突然、新旧の名が、議論の場にひっぱり出されていて、私は、イラク独裁制あたりで、なんだかわからなくなった。私は、50年代にとり残され、議論は先に進んだ。私は、立ってカップを下げるのを手伝った。会話が熱をおびるにしたがって、カップが危ない音をたて始めたからだ。 叔父とその娘の義理の父は、独裁制に関連した陰謀についての議論にはまりこんでしまった。義理の父がタバコの反対側に火をつけようするに及んで、いとこの口元には微笑が浮かんだ。いとこは夫にそっとウィンクすると、夫はおとなしやかにこう言って立ち上がった。「ねえ、お父さん、お母さんとふたり、お送りしましょう、遅くなったし、ひとりで運転して帰りたくないので・・・ L (いとこ)と子どもたちと私は、今日はここに泊まります」

 彼らは、ものの数分で出かけた。議論はたちまち絶えて、大人たちは、コートにくるまり、タバコの火は正しく付けられた。いとこの夫、 は、両親をせきたてて外に出すと、ぽんこつブラジル製フォルクスバーゲンに押し込んだ。私たちは、残って、散らかった部屋を片づけにかかった。その散らかりようったら!そこら中にご飯がまき散らされ、壁、テーブル、テレビの画面などいたるところに小さな指のあと。灰皿をきれいにし、カップを洗い、子どもたちは服を脱がしてベッドへーーー。

  どうにか片づいたのは、およそ10時だった。あら、A(いとこの夫)は? もう1時間以上も前に出かけて、両親の家はほんの15分のところだのに。母は、たぶんお茶かなにか勧められてるのよと言った。けれど、L (いとこ)は、そんなことないと、強く首を振った。そんなことしないわ、私が心配すること知ってるもの。彼の両親のところの電話は通じないし、だから、どんな遅れも直に心配につながるのだった。いとこの眉は寄せられ、きゅうに不安がこみあげてきた。

 私たちは、可能性を検討した。両親の家への道がブロックされていて、回り道をしなければならなかったのかもしれない。途中で買い物があったのかも。まともできちんとした理由があったに”違いない”。 Aは、まともできちんとした人間―なによりも慎重な人間だ。私たちは、10時半には帰途についていなければならなかった。きょうびのイラクでは、これ以上長く外出してはならない。

 けれど、この混乱した状況で、叔父一家をこのまま残して発つことはできなかった。私たちは、出発を延ばした。 父と叔父は、もう我慢できなかった―うちの車に乗って、A の両親のうちへ行った。なにが起きたか見てくる―そして、もし必要なら耳をひっぱって連れて帰ってくると。 L(いとこ)は、そのときは、Aは無事で、ただ自分の母親のうちでぐずぐずしているだけだと思いこんで、怒っていた。私はなんとも言えなかったが、一応、 Lの考えを支持した。この考えがいちばん受け入れやすかったからだ。

 父と叔父がAをさがしに行った間、私たちは、30分間、じっと待った。 Lは、せっせとコーヒーテーブルを磨いており、私は、あれこれ考えないで気を紛らわせることのできるものはないかと、チャンネルをカチャカチャやっていた。

30分後、父たちは帰ってきた―心配で凍り付いているように見せまいと努めながら。 Aの両親は家で無事だった―しかも、1時間以上もまえに家に帰っていたのだ。 Aは、両親を門口で降ろし、家に入るのを見届けて、2回警笛を鳴らし、走り去った。 Lは青ざめて、ソファにへたりこんだ。Lは、急に夫が死んだのだという思いにとらわれた。なにが起きたのだろうか?  Aはどこへ行ってしまったのか? パンクの可能性もあがったが、Lの父親は、途中に Aの車はなかったと言った・・・

 そこで、また私たちは、可能性を検討してみた。アメリカ兵に拘束されている。車を乗っ取られた。誘拐された。殺された。交通事故にあって、あのぽんこつ車は溝に投げ出された・・・可能性はきりがなく、考えつくたびに、いっそう悪いことになっていった。 もう家に帰るどころではなかった。

 私たちは、叔父一家とリビング・ルームにすわって、時計が秒針を刻むのを見守り、 Aがドアから入ってくるのを待ち望んでいた。 E(弟)は、夜中、敷地内の車の進入路を行きつ戻りつして、暗く静まりかえった街路をうかがっていた。私も1、2回、 Eにつきあった。そのときEは、すごく心配なんだと本音を言った。夜こんな時間にいなくなるなんて、ろくなことじゃないよ。 私たちは、夜中、あて推量をし、Aがいなくなった、納得いく理由をみつけようとして過ごした。

 結局、朝10時になっても帰らなかったら、警察に行き、みんなで手分けしてさがそうということになった。 朝8時、朝のお茶をわかそうとやかんを火にかけた。家は静かだったが、誰一人眠っているわけではなかった。誰ひとり一睡もしていない。 Eはまだ、行ったり来たりしていた。父を叔父はリビングに閉じ込もって、どうするか決めようとしており、 L(いとこ)は泣くまいとこらえていた。突然、ちょうど私がストーブを点けようとしたとき、電話が鳴った。

 こんな鋭い音は初めて聞いた。走ってリビングにかけ込むと、叔父が電話に飛びついて、「もしもし」と吠えるように叫んでいるところだった。 Lも走ってきて、不安にさいなまれて手をもみしだいていた。

 電話は、Aの親友で仕事のパートナー、だった。彼のところにAから連絡があったのだ。ほんの数分前・・・ Aは誘拐され、身代金1万5千ドルを要求されてとらわれているという。 AとSは、バグダードの繁華街に小さな店を共同経営している。韓国製電気オーブンから蛍光灯までなんでも扱い、稼ぎは、それぞれの家族を養うのにかつかつである。3日の猶予があるという。そして、金を渡す場所が取り決められ、その後、 Aを解放するという。 私たちは、恐慌をきたした。家中がうちのめされた。Lは床にくずおれて、殺されると泣きわめいた。ほかに殺された人々がいるから殺されるだろうと思っているのだ。私たちは、 Lを鎮めようと努め、とうとうストレスを和らげるため、2錠ほどバリウムを飲ませることにした。そして、みんなで何をすべきか話し合った。警察へ行く? とんでもない。地域によっては、警察こそが、誘拐犯と共謀して、一定額を要求する。警察は、なんだってやるのだ。

 私たちは、この日それから、金(きん)を売り、金(かね)を集めに走った。叔父は、うちひしがれたL を連れて銀行へ行き、口座からあらいざらい引き出してきた。家を建てるか買うかするための蓄えだった。 Aの両親は叔父の家にかけつけてきて、私たちは、両親につらいニュースを伝えねばならなかった。 Aの母親は泣いて、早く金(きん)を取ってこなくてはと家に戻りたがった。父親は呆然と座って、つぎつぎタバコを点け、事態を理解しようとしていた。

 S(Aの友人)は、やつれきった顔で金(かね)をもってやってきた。 長いたいへんな過程をはしょると―翌日の半ばには、要求の額を調達した。 Lはほとんど正気を失っていた。以外の者がどうにか正気を保っていたのは、Aはもうすぐここに、私たちのところへ帰ってくるという希望だった。

 誘拐から3日後、身代金は渡された。が、Aは帰ってこなかった。やつらは、叔父と一緒に行った Sに、Aは2、3日中に解放されると言った。叔父とS は、泣かんばかりになって帰ってきた。任務を託されたのに、それを裏切ったとでもいうように。 それからの2日間を言い表すことはとてもできない。前だって、悪い状態だった。が、突然、もっと悪くなった。ずーっと誘拐について聞いてはいた・・・しかし、実際に体験するとなると、ぜんぜん別だ。からだの一部が引き裂かれるようだ。 Aが帰ってこないかもしれないと考えることは、これまで体験した何にもまして恐ろしいことだった。彼の両親が刻々弱り果てていくのを見、1時間過ぎるごとに彼の妻の精神が少しずつ機能を停止していくのを知るのは、神経にこたえた。それで、私は、1時間ごとに外へ走り出た。新鮮な空気を吸うために。家の中の空気は、絶望と挫折感と恐怖で淀み、息苦しかったのだ。

 Aの誘拐から5日目、私たちは全員、リビングに座っていた。停電していて、L(いとこ、A の妻)は、バリウムが効いているのか静かだった。突然、門でかすかな音がした―誰かノックしているような、でもあまり強くなく。 Eは跳びあがって、ドアに走りより叫んだ。「だれ?!」 すぐに走ってもどってきた― Aだった・・・帰ってきたのだ。 全員、泣き、叫び、大声をあげ、跳びはね、その間のぎこちない歩みAは片足をひいていた)・・・ Aが入ってきたとたんに起こった大騒ぎの全体を詳しく述べるのはやめよう。

 誘拐犯たちは、この1―2週間、この家を見張っていたらしい。 Aが両親を降ろすとすぐ、やつらは車2台であとをつけ、人通りのない街路の道端に追い込んだ。武装した4人の男たちに車から出され、こづきまわされたあと、頭に袋をかぶせられて、数人の男の乗るミニバンに放りこまれた。 何時間もいたぶられ、資産について尋問された(もっと持っていると思っていたらしい)のち、家族に電話させて見代金を要求しようと、仕事のパートナーに電話させた。

  Aがこれを話すのを見たら、イラク人の殺されても死なないユーモアのセンスが心からナットク!されると思う。 Aはこんなふうだったのだ。頭には深い傷、顔の片面には青あざ、背中は蹴られ殴られて打撲傷、1キロ以上裸足で歩いて足は血だらけ、その Aがジョークを連発。「やつらはほんとは5千ドルでよかったのさ、だけど、ぼくは頭にきて言ってやった、少なくとも2万ドルの価値はあるって。よくまあ、ぼくの値打ちを5だなんて・・・結局、1万5千ドルで手をうったんだ」) やつらは、Aをバグダード郊外のスラムに閉じ込めていた。そこは警察と軍が恐れて駐在所をおこうとしないところだ。 Aは、ぼろ家からぼろ家に移され、そのどれにも誘拐された人々がいたという。政治的誘拐もあり、宗教的なものもあったが、多くは金目的だった。 Aは、最悪だったのは、まわりが何にも見えなかったことではなく、誰かが打たれるのを聞くことだったと言った。つぎの蹴りや殴打が、とんでもない方向から飛んでくるのを身構えて待ちながら・・・。

 きのうAに会った。まだやつれ疲れきっていた。L( Aの妻)は、眠れないのだと言った。真夜中、悪夢や、まだ捕らわれているという幻覚のようなものが起こって、目がさめてしまうのだ。 以上が、この数日の私たちの消息。

 まだ悪夢は続いていて、私は多くのことを考えなおさずにはいられなかった。すべてがちっぽけでばかばかしく思われた・・・このブログ、電気事情、不眠症、’復興’、選挙、ありもしない大量破壊兵器・・・政治に政治家たち・・・私は身代金を払えない家族はみんなどうするのかしらと思いやった。また、息子や娘が、歩いてではなく、担架に乗せられて帰ってきた家族のことを、また実際に聞いたのだが、ごみ袋に入れられて帰された家族のことを・・・そして、いまこのような状況で、一日また一日と過ごせることだけでも、なんとありがたいことかということをはっきりと知ったのだった。

(翻訳 池田真里)