Baghdad Burning

バグダードバーニング by リバーベンド

... I'll meet you 'round the bend my friend, where hearts can heal and souls can mend...

友よ、私の心が失われあなたさえ見分けることができなくなったら、どうか私を偉大な文明をはぐくんだ、チグリス・ユーフラテスの胸元に連れて行って欲しい。そこで私は心を癒し、魂を再生させるでしょう。

2004年1月31日 (土)


リンクのあれこれ
紹介したい多くのリンクがある。

新しいイラクのブロッグを紹介する。まずイラクのアゴラ イラク内外のイラク人グループによって運営されている。これは基本的に自分のblogを始めるのに怠惰すぎるイラク人のためのブロッグ本当のところ主要なブロッガーはサラムリミナルそして私で、各自分のブロッグを持っている。自身を「リミナル(発端)」と呼ぶ彼は、米国に住む20代のイラク人で、 彼に関してもっと知りたい人は彼個人のblogを参照のこと。ハリアは外国で長い間暮らしており、すべてに関してすばらしい見識を持つイラク人の女性。トーシェはもう一人の外国に暮らすイラク人でブロッグは不慣れだが、彼の更新を待ち望まない人はいない。まだ、準備の途についたばかりなので(ほとんどの仕事をリミナルが行っている)、グループブロッグに対して皆さんは辛抱強くなければならない。他にもう二人イラク国内から寄稿に関心を寄せている人がいる。

別のブロッグは、 イラクの精神。彼は30代のイラク人でネットワーク・エンジニア。彼のブロッグの内容が政治上に正しいことであるというつもりはないと彼自身が警告している。

イラク音楽に関心がある方は、このサイトでそれをチェックして: www.iraqimusic.com.いくつかの現代的な曲からすばらしい古典的な曲までMP3ファイルにダウンロード可能。

このリンクは北アイルランドのBから、絶対チェックする価値ありとのお薦めもの。 人権のための医師団.イラクを専門としたページがあり、広範囲な調査を行っている。 クラスター爆弾について彼らが言わなければならないとしていることをチェックしてみて。
 

 
Big Eid
私たちはこの数日をまた掃除に費やしていた。「Big Eid」あるいは「Eid Al Kabeer」または、「Al Eid Al Adh'ha」は日曜日で、みな熱狂的にカーテンを降ろして洗浄し、家具を磨き、ソックス用引き出しを再整理した。


別のEidの「Eid Al Futtur。」より一日長いので、「Big Eid」と呼ばれる。この期間に、世界中のイスラム教徒は、サウジアラビアのメッカへ行き、予言者アブラハムによって築かれた「Baytアラー」あるいは「神の家」を訪れる。メッカを訪れることはイスラム教の5つの柱だ。それは絶食、「shahada」あるいは神とマホメットによる目撃に耐えること、祈ること、メッカを訪れること(少なくとも一生に一度)、「Zekat」またはチャリティーを行うこと。

メッカを訪れてあるイスラム教の儀式に参加した後、人はメッカ巡礼を行った「ハジ」、女性は「ハジヤ」になる。そのため、年上の人を「ハジ」あるいは「ハジヤ」と呼ぶイスラム教徒に会うことはごく一般的だ。ある年齢に達する時までに、メッカを訪れ信望と尊敬の称号であるハジまたはハジヤを獲得していると仮定されている。

イスラム世界全体がこの行事を祝う。イラクでは、この祭典が家族と友達を訪れること、沢山のおいしい食べ物、家族の子供たちには歯や血色を悪くさせるキャンディーなどに費やされるお金が渡される。

「Eid Al Fittur」のように、家はとても、とても清潔でなければならない。彼女のことは数か月前にバグダッドのマーサ・スチュアートとして書いたけど、彼女は、庭や家の前に毎日姿を見せ、窓を洗い、服を絞り、すべての隣人の正面玄関を鷹のように見張っているので、ここ数日の間情緒的に一帯の脅威となっていた。

日頃はサッカーで遊ぶ子供の叫び声が鳴り響く路上が昨日は不気味に静かだった。私は半ダースの乱暴な少年の突然の消失の理由を考えながら門の前で立っていた。通りを横切って彼の家から向かいにひらりと身をかわす9歳の隣人の息子の一人の姿を捕らえた。彼は、人目をはばかるようにあわてて逃げていった・・・まるで灼熱の太陽を回避するトカゲのように見えた。

「Haydar!」彼が後ろ手で門を閉じるその瞬間に、私は大声で呼んだ。彼は逃げ足の途中で停止し振り向いた。呼んだのが私だったと知るとすぐに、彼は小さな肩をほっと弛ませた。手招きすると彼は肩越しに振り返りながら、おびえた表現で私の方へ急いできた。

「何から隠れているの。」私は厳格に尋ねた。それは私の心の中で実際に閃いた「何をしたのか。」という言い方より外交質問のようだった。

彼は大きな眼鏡を押し上げ、向かいの恐れられている家を指さした。「Umm Mahaから隠れているの!」あーそうか、私は頭を思慮深げにうつむけた。彼は早口で続けた。「彼女は昨日、マフムトに通りの端から端までのごみを拾わせたんだ。今日は僕にすべての家の歩道を掃かせようとしている・・・・」

「だったら、嫌だって言えばいいじゃない。」私は、信じられないかもしれないけど実際のところ無秩序を助長しようとしていたのだ。彼は、鼻梁をこすらせながら眼鏡をずり落とし、首を激しく振り、「そんなこと出来ないよ・・・僕にはできない。怖いんだ・・・」彼はささやき声で口を滑らせた、「羊のように臭いと言って、昨日、彼女は風呂に入るようにマフムトに命じたんだよ・・・恐ろしいんだ。」私も彼女を少し恐れているので、密かに彼と意見が一致した。

「それであなたたちみんながいなくなっちゃったの?」私は、私たちの通りを走り回っていた小さな暴徒について言及した。よい日は、小さな少年がいかにも好みそうな方法で穏やかに遊ぶ−押し合い圧し合い、膝や肘をすりむき、つま先を躓かせる。悪い日は、壊れたレンガや砂の入ったブリキ缶(ゴールポストの代わり)で道の両端を閉鎖し、誰がロナウドまたはベッカムになるか甲高い声で争う。

私は彼に同情しある種の解決法を与えた。「今度、彼女があなたを捕らえたら、私のための用事の最中だと言えばいいわ。」彼は疑い深げだったが暗黙に受け入れた。私は、彼が通りを横切って逃げ去ることを認めた。

今朝、私は洗った衣服を干すために屋根に出た。私は、通り向かいの、同じく自分の屋根の上のUmm Mahaが目に入った。彼女は衣服を干していなかった。その朝洗った−もちろん手によって、何枚かの比較的大きな敷物を掛けていた。私は固まってしまった。誰も、夏まであるいは晩春にそれらを片づける直前まで敷物を洗ったりしない。ただそれをまったくしないのだ。まず、雨が降る可能性があり、そしてなによりも、片付ける前に再び洗わなければならないからだ。

ちょうど彼女が顔を上げた瞬間、私はUmm Mahaに手を振り、彼女は微笑み手を振り返した。「雨が降るように」私は、手に持っていたシャツを振りながらつぶやいた。降らないだろうことを予想していた。Umm Mahaの敷物上に降るなんて雨だって試みない。

掃除以外に、何も祝祭らしさはない。それはあたりまえだ−停電、爆発そしてヘリコプター。学生は今、年中間の休暇中で、時々通りで見かけるが、みんな夜7時か8時までに家に帰る。かつて楽しみは7時か8時まで始まらなかったのに。可能な人は誰でもシリアかヨルダンで休日を過ごす。これらの2国がイラク人の避難所になったと信じることは困難だ。かつてバグダッドは常に誰もが居たがる地であった。

 (翻訳 山口陽子) 

2004年1月26日 (月)

不眠症患者・・・

 いま、午前4時。これを書いて、掲示すると、たぶん午前5時。Salamは、いつかわたしのブログする時間がヘンだと書いていた(そのときは、午前5時30分くらいだった)。わたしは、戦争が始まる前から、ずっと不眠症だ。睡眠時間はへんてこで切れ切れだ。ねこみたいに。戦争の間は、ほとんど眠ることは不可能だった。夜じゅう、爆撃が続いた。わたしたちは起きていて、軍用機の飛び交う音と爆発音を聞きながら部屋で身を寄せあっていた。時々、勇気をふるって外をのぞき、火の手があがっていないか地平線に目をこらした。

 戦争後は、略奪につぐ略奪で、誰も寝てはいられなかった。交代で起きていて、盗賊が侵入してこないか、耳をすませていた。わたしは、いつもお茶の係りだった。銃はわたしをおびえさせ、立ってお茶を入れながら、食器棚の向こうの銃をこわごわ見つめていた。わたしたちは、座ってラジオを聞いていた。ラジオだけでなく、宙に耳をこらしていた___門がきしむ音が聞こえたら、一同ただちに行動に移ろうと。銃をひっつかみ、家族を集めるのだ。

 いま、眠りはなかなかやってこない。さまざまな思いが押し寄せ引いていくままに、ベッドでてんてんと寝返りをうっている。思いは、にわとりに似ている。一羽が鳴き始めたら、群れ全体の合唱となるのだ。いいと言われることはみんな試してみた。羊を数える、周期表をそらんじる、100から逆に数えるなど。どれもだめだった。ますます目がさえてしまうのだ。

 人が起きているのは、多くの場合、不安からである。不安の中で生きるすべはすでに学んだとはいえ。なにか集中を要することで忙しくしていて、過去も将来も忘れ、現在ただいまに集中できているらしいときもある。テレビで、映画や歌を見ていて、われを忘れているということも、あるだろう。しかし、コマーシャルが始まったとたん、しつこい不安が再びとりつく。いっときののち、刺すような不安は、心の底に淀む澱となる。出かけてから、オーブンやアイロンを消したかどうか心配になったことはない? そんな感じ。ただ、一日中・・・夜も・・・1週間・・・ひと月・・・くる月もくる月もずーっと続く。気がついたら夜にしか感じられなくなっていたというまで。

 ときどき、眠りは、時間と電気のむだだと思える。たとえばおととい、この辺はほとんど終日停電していた。金曜日は、うちの’洗濯日’。だからよけいいらいらだった。わたしたちは、洗濯を待つ衣類の山をとりまいてながめていた。母は、手で洗おうと考えたけれど、わたしはやめたほうがいいと説得した。水は冷たいし、天気は最悪だし、洗ったってきれいになったような気もしないわよ。電気がつくかと一日中待った。1、2回、20分ほどもついた。とうとう、12時になって、母は言った。「あした、もし停電してたら、手で洗うのよ。そういうこと」。

 午前1時、わたしはベッドにもぐり込んだ。待ちくたびれ、これなら眠れるかもしれないと期待して・・・そして、儀式の始まり__まず、羊の行列、次は象・・・そして、わたしのまぶたが重くなったまさにそのとき___電気がついた。遠くで電流に同調しようとしている冷蔵庫のうなりが聞こえた。わたしは、ベッド脇のテーブルをさぐって、時計を見つけ、顔に近づけてちょうど真ん中をのぞき込むと___午前2時だった。

 心の中で、ふたつの声がしゃべり始めた。ひとつの声は、羊を数えていた声で、ぼんやりして眠そうだった。「寝なさい、寝きゃ、電気がなによ」。もうひとつの声は、はきはき前向きだった。「まじ?! 考えてもごらん__コンピュータ、テレビに洗濯機・・・!!」 ベッドからからだを引きずりだして、廊下へ出、電灯のスィッチを手探りしている間、眠そうな方の声は、ぐつぐつ文句を言っていた。数時間ぶりで明かりがつき、まぶしくて目がくらんだ。

 数分間、わたしは目をしかめてあたりを見回し、耳をすませた・・・いまや空間は音で満ちていた。E(弟)は、わたしを出し抜いてテレビの前で、何かおもしろいものはないかとチャンネルをカチャカチャやっていた。母はとっくに階下へ降りて、洗濯機に洗濯物をつめ込んでいた。家中に生気が満ちた。

 Eは、レバノンの’リアリティ・テレビ’を見ていた。20人ばかりの若者が、歌手やダンサーになるための訓練に集められていた。かれらの毎日・・・歌と踊りが映し出されていた。Eはつっこみを入れた。「これがリアリティ・・・おんなじ宇宙の話?」 そう、これはリアリティ__現実じゃない。リアリティとは、これを逃すといつ電気が通じるかわからないからと午前2時半にごとごと動いている洗濯機・・・そして、くる夜もくる夜も暗闇の中涼しい顔で進むまぶたの裏の羊の行列。

riverによって掲示 午前4時59分

(翻訳 池田真理)

2004年1月20日 (火)

まだ温めている・・・

家族法からシャリーアに変更することになった173番決議についてここ数日私の頭を巡っていた。私は、無限の可能性について暗く考えこんでいた。私だけではない−私が話しかける誰でも皆首を当惑して揺さぶる。どうしてこんなことになっているだろう。どのように原理主義に屈服しているのか。

Talabaniは、GCによる十分な得票を得ていないので決議は無効で可決されなかったと言っている。しかしすべての兆候が決定は下され、あとはBremerの署名が得られ次第、施行されるかもしれないことを物語っている。Nisreen Barwari(内閣唯一の女性大臣)は、数日前、決定に反対のいくつかの女性の権利党とデモをしていた。「バックトゥーイラク3.0」のクリストファーアルブリトンはこの話題を書いており、ワシントンポストも掲載した。

問題は、個人の身分法が今−直ちに−変わらなかったとしても、将来はどうなのか? Bremerの署名が必要でなくなる今から約6か月後にどうなるか。

2日前に、主な女性の権利グループの主導によってバグダッドの上品なNadi Al Sayd(狩猟クラブ)で女性の権利に関する会議があり、173番決議はイラクの女性の権利を吹き飛ばしてしまうと非難していた。恐ろしいことには、GCの非宗教的なメンバーのうちの一人が決定を擁護しており、イラクの女性の権利にとって「大きな進歩」になるだろうと主張していたことだ。彼はどのように、あるいはなぜなのか説明せず、ただ親切ごかした面もちで腹を立てた女性暴徒の前に座り、それが安心を与えているとでも思っているのか不可解なモナリザの微笑をたたえていた。

最近GCのメンバー数人が記者会見を開くのを見ることは、いとこの娘が幼稚園を「卒業する」のを見に行った時ことを思い出させる。小さなステージの上には20人ほどの子供たちが並び、その中央には先生であるBasmaさんが慈悲深げに立っている。先生が壇上にいる限り、子供たちはみんなきちんと立っていて、この晴れの舞台のために学習した詩を揃って暗唱した。Basmaさんが降壇すると直ちに、衝動的行動が始まった。20人の子供たちは、壇上ただ一つのマイクに一斉に殺到し、誰が最初にたどり着けるか取っ組み合いをし、自分の声で人の声をかき消した。

今、私たちは同様の状況に直面している。Basmaさん、おっとBremerさんだったわ、は降壇して(ワシントンやニューヨークに)、そこには、比喩としてのマイクをつかもうとする殺到だけが残る。例えば、家族法に関する決定はほとんど確定的に見える一方、Talabaniは断固として否定している…他のメンバーは単に不承不承議論している。

2、3週間前、連邦主義がGCに激怒していた時、Talabaniは決定がどのように最終段階にあるかについて述べた:民族帰属に基づいた連邦主義は、転換点にさしかかった。同じ週、Ja'affariAl Da'awa Al Islamiya党の党首Ibraheim Alは、LBCあるいはアル=アラビアのいずれかに姿を見せ、イラクが分離するという可能性はなくなったと主張した。その後Adnan Al Pachichiは、連邦主義が選択肢だが、直ぐではないし「解放」されないだろうと記者会見で述べた。

今では一種のトレードオフか妥協について話されている−クルド人のための連邦主義、シーア派イスラム教徒のためのシャリーア…それは結局のところ重要ではない−イラク人が敗者であるということだ。

この間、選挙を要求してここ数日南部とバグダッドでは大きなデモがあった。バグダッドではデモの周辺の道路は閉鎖され、上空をヘリ一日中飛んでいた。ほとんどの抗議者はこの混乱の中で彼自身を国家的要人とした、Sistaniの支持者だった。彼は、当初占有について不気味なほど語らなかった、しかし今、彼は恐らくGCの最も有力な挑戦者だ。彼の意見は変動する。−ある日彼は、選挙が行われない場合市民的不服従を命じると主張し、またある日には、選挙を行う決定がコフィ・アナンによって下されるべきであると主張する。彼がこれまで行った最も重要な発言は、選挙が行われたとしても、外国からの人は(つまりGCの95%)政権を担ってはならないというものだ。

私は今日何人かのGCメンバーとコフィ・アナン、ブレマー間での会合をCNNで観ました。イラクの状況を評価するためにたぶんアナン事務総長が代表団を送るだろうという以外は、なんらの結論にも至らなかったようだ。その間に、10万人のシーア派とスンニ派が(今回の場合、シーア派はスンニ派に数の上で圧倒していた)シスタニやアルサダ、その他の者の写真を掲げて今日バグダッドでデモを行った。それは暴力的なものではなかったが立腹していて力強く、そして恐ろしかった。これは戦争以来最大のデモンストレーションだった。

私選挙に対する考えは二つに引き裂かれている。選挙は「民主主義の」の基本なので選挙を望んでいる一方、その結果を恐れている。すべての兆候が、選挙が神権政治(私が恐れていること)に帰結することを著している。現在のGCはイラクの人々の代表ではない―スンニ派もシーア派も彼らを承認していない・・・しかし、選挙が彼らより代表的なリーダーを選び出すだろうか。更に、万が一イラクの「大多数」がイランのような神権政治を望む場合どうするか。選択がアメリカのような民主主義国家か、あるいはイランのような神権政治かに煮詰まった場合、イスラム教の国がどのように選ぶのだろう。

アル・シスターニについて詳しいことは、彼のサイトをチェックして。アラビア語、イラン語(Farsi)、英語、フランス語およびウルドゥ語がある…実に感動的。彼の伝記はここ:Sistani’s Biography、そして一時的結婚にとっても興味があるかたもここをチェックして。

 (翻訳 山口陽子) 

2004年1月15日 (木)


シャリーア:イスラム法と家族法・・・

 水曜日、われらが操り人形評議会は、これまで世俗法(非宗教法)であったイラク家族法は、今後世俗法(非宗教法)でなくなると決定した。つまり、イスラム教のシャリーアに従ったものとされるというのである。シャリーアとは、イスラム法のことで、コーラン、ムハマンドの言葉、聖職者やイスラム教典学僧の近代イスラム法解釈に根拠をもつ。

 このニュースについては、西側メディアはもちろん、アラブメディアでさえほとんどふれていない。イラクのメディアは、もちろん取り上げていない。アル・イラキヤにこのような問題を取り上げよ、論じよと求めるのは酷というものだ。エジプト製メロドラマや歌から完全に浮いてしまうことだろう。この決定は、女性にとって致命的大打撃である___イラクの歴史は逆行している。

 誤解しないでほしい。コーランとムハマンドによる原姿イスラム法は、女性に永久かつ固有の確たる権利を認めている。一部の聖職者たちが、イスラム法を独自に(勝手に)解釈しようと決めるときに、問題が起こるのだ(そして、きょうび、ほとんど”誰でも”聖職者を名乗れる)。さらに大きな問題は、聖職者の数ほどシャリーアがあるといえるくらい、解釈はさまざまであることだ。事実、イスラム教各宗派間のシャリーアには、原則に関わるような大きな違いがある。同一宗派の内部でも、互いに対立する意見をもつ聖職者はあまたいる。つまり、日々苦闘させられている目下の混乱をさらに上回る混乱が起きるということだ。いま人々は、町は混乱していて当たり前と思うまでになった・・・しかし、法廷や司法制度にまでも混乱をみることになる?!

 これは、女性にねらいを定めた完全な不平等政策である。イラク憲法のもとで、男性と女性は平等である。世俗法であるこれまでの家族法(50年代からこのかた法として機能してきた)のもとでは、女性は、何人も変更を加えることのできない権利として、離婚権、結婚権、相続権、親権、離婚扶養料取得権をもっていた。

 例をあげて説明すると___イランの聖職者が持ち込んだ忌まわしい慣行に’zawaj muta'a’というものがある。聖職者たちの言葉では、’一時的結婚’となるが、字義通りに訳せば、’快楽結婚’___こう言えばそのものずばりである。ことはこう進む。合意した男女が聖職者のところへ行って一時的結婚の承認をもらい、婚姻の継続期間について取り決める。男性は女性に、’mahar’つまり結納金を支払い、婚姻期間中(1時間から1週間、1カ月その他何でもあり)、夫としての権利を行使する。要するに、買売春の一形態で、多くの場合、婚外子と性行為感染症の蔓延に帰結する。

 スンニ派聖職者は、これを罪とみなしており、シーア派聖職者の多くも認めがたいとまゆをひそめている・・・しかし、’halal’とシャリーアである云々と告げる聖職者たちがいるのである。もちろん、承認を与える者も実践する者も、自分の娘や姉妹がこれを行うのを許すくらいなら、死んでもらいたいと思っているだろう。が、これはよけいな話。

 ともかく、世俗法のイラク家族法によれば、’快楽結婚’は買売春の一形態であり、法律上の結婚とはみなされない。したがって、もし妊娠しても、その子には法的には父親がいないことになる。

 既婚の男性が、結婚しながら快楽結婚もやろうとしたら、どうなるか? これまでは、法律上の妻が夫を法廷に突き出し、イラク家族法の規定する姦通を行おうとしたとして、離婚を請求できた。いまではそうはいかない。聖職者によっては、快楽結婚は合法とみなされ、女性は離婚を申し立てることはできない。いっぽう、夫の姦通行為であると認める聖職者もいる。では、裁くのは誰か。女性の側の聖職者か、男性の側の聖職者か?

 もうひとつ例をあげよう。結婚自体の問題である。部族法とシャリーアでは、女性は、成人していようといまいと、家族の同意がなければ結婚できない。イラクの法律では、18才以上であれば、家族の同意はいらない。両親抜きで、合法的に法廷で結婚できるのである。イラクではめったのないことであったとはいえ、やろうと思えば”できた”のである。

 イラクの世俗法では、女性は、夫の暴力を理由として離婚することができた。シャリーアのもとでは、虐待を証明するのは、ひじょうに困難になるだろう。

 ほかにも問題がある。シャリーアは、未成年者の結婚を禁じていない(思春期に入っていれば認めるのだ)。イラク世俗法では、女性は少なくとも16才(と思う)、男性は18才未満の未成年者の結婚を認めていない。

 イラク民法によれば、親は、こどもを少なくとも小学校にやり卒業させなくてはならない。シャリーアでは、父親は、息子や娘に学校をやめさせ、働かせるなり家に置くなりできる。ということは、父親が学校をやめさせると決めたなら、どうなる? シャリーアが適用されるのか、民法が適用されるのか?

 思いつく例はいくらでもある。そしてそのひとつ、ひとつに強い憤りを感じる。わたしは、イスラム教を信仰している。だからといって、イスラム教政府を望んでいるか? ノー。なぜそう考えるか。イラクには、さまざまな宗派と宗教があり、いかなる宗教政府も社会のある部分を抑圧するに決まっているからだ。すでに起こっていることだ。南部では、シーア派原理主義者たちが、キリスト教の家庭や店を襲撃している。

 Juan Coleはこの問題について、フィナンシャル・タイムズの記事に言及しつつ意見を述べている。記事には、”イラク、イスラム法を認める予定、’聖職者たちのご機嫌とり’と女性たち”と、適切な見出しがついているが、悲しいかな、記事の筆者たちは、明らかに、統治評議会のメンバーから取材したこと以上のイラク世俗法についての知識がない。原理主義者たる統治評議会のメンバーたちは、イラク民法に従えば、人々はいやおうなくイスラム教理に反することになると主張している。が、これは真実ではない。民法の大部分は、シャリーアというかシャリーアのうち、さまざまなイスラム宗派の合意をみ、イラクのさまざまな宗教グループを考慮にいれた部分(離婚権など)に基づいている。

 女性たちは憤激している・・・これは、アラブで女性の権利がもっとも確立している国において、新たな抑圧へのドアを開くものであると。男性たちもまた反対している(ほんとうは有利な立場にあるのだが)。いたるところでさらに混乱と対立をみることになるからである。

 聖職者全員が、ヒジャーブは’望ましい’のではなく必須であると合意したら、どうなるか? ’ahwal shakhsiya’法すなわち’私的暮らしに関わる’法がこのよう改変されれば、女性は全員頭を被わなければならなくなる。シャリーアによれば、夫が、妻は今後学校へ行ったり働いたりしてはならないと決めたなら、妻は主婦とならなければならない。

 くれぐれも誤解しないでほしい___女性に対するどんな抑圧もイスラム教に帰せられるいわれはない。女性に対する抑圧は、狭量さ、無知、宗教の政治化に帰せられる。イスラム教は、先進的宗教で、ほかのどんな宗教より女性の権利を明確に認めている__女性がまったく無権利だった時代に、世に現れたのだ。

 経済制裁下でなにもかもが不安定だった時代、わたしたちは、サウジアラビア、クェート、オマーン、カタールなどのアラブの国々についてのすてきな話を聞いていた。豪勢な生活について___月々支給される高賃金、おしゃれな車、大邸宅、ショッピング・センター・・・わたしはずっと行ってみたいとは思っていたけれど、けっして、ただの一度も、そこに住みたいとも、うらやましいと思ったことさえないことを思い出す。なぜかと考えると、イラクのイスラム教信者の女性として、わたしが持っている権利を大切にしているという事実に行きつくのだった。何度考えても、いつもそうだった。車が運転できて、学校へ行けて、男女同一賃金で働けて、好きなように装えて、盲信か不信心かなど気にすることなく自分の価値観と信条に基づいてイスラム教を信仰することができるのは、たいへんな時代にあって変わらぬ慰めだった。

 わたしは、いままで知らなかった自由を’ありがたく思え’、イラクの全女性の環境は以前に比べ’著しく向上しつつある’ことを喜べと告げるeメールをいつも無視してきた。メールには、ブッシュの言葉が引かれ(これでわかるわ)、イラクの女性がいかに抑圧されていたか、いまはいかに自由に生きることができるか、あれやこれや述べてある。

 これらのメールの書き手は、多くの場合、イラクをサウジアラビアやイランやアフガニスタンといっしょくたにしている。かれらの無知にはあきれがっかりするが、内心こう思っている。「この人たちは、ほんとに自分たちの国の善き意図を信じたい理由があるのだわ」 が、アメリカのおかげでイラクの女性が”いま”どれだけ自由で解放されているかといったメールをこれ以上くれるなら、強烈な一撃を覚悟してほしい。こんどは返事を書くから。

riverによって掲示 7時55分

暗闇と砂塵・・・

 ここ数日、わたしたちの生活は、電気の時間割にのっかってるようなものだ。4時間停電しては2時間電気がつくことの繰り返し。十分ではないけれど、14時間の暗闇のあと1ー2時間電気がつくのを繰り返すよりは、進歩だ。

 停電の前の数分間、家中をかけまわって、電灯や電気器具のスィッチを消す。なんにも壊れることがないように。電気がすぐには切れないことがある。弱まって、またついて、ついによたよたと消えていくというぐあい。発電機に頼れる時間は、どんどん減っている。あいかわらずガソリンがないからだ。そして、みんな、今自分がどんな種類の燃料を使っているのか、とても神経質になっている。闇市で売られているガソリンは、灯油を混ぜてあることがあるからだ。

 2ー3日前、すごい砂塵。いらくの砂嵐は有名だ。何時間ものの間、地平線は黄色くなり、すべてのものが少しかすんで見えた。しっくい塗りの家々は、うすいピンク色になり、人々さえも少しばかり元気なくみえる。息をするのもたいへんになって、アレルギーの人々にとっては、ほとんど致命的だ。

 いままで24時間、ずっと砂塵を払っていた。なにもかも砂ぼこりのうすい膜に被われてしまったからだ。こどもたちは、一日、家具の上に積もった砂ぼこりに線で絵を描いていた。母は頭にきて、ぼろきれをふりまわして、傷つきやすい表面の家具すべてに襲いかかっていた。

 だれもが、このところ気分が落ち込んでいると感じている。天気はぱっとしないし、空気は、失望と焦燥に満ちている。

 人は、前米財務長官のブッシュが9月11日以前にサダム体制変革を計画していたと主張していることに対して、どう思う?と聞いてくる。なんでそれがアメリカ人にとって、そんなにショックなの? イラクが9月11日の事件に関係があったと思っているイラク人に、ただの一人もあったことがない。イラクが関係してるなんてばかばかしく、あんまりばればれな言いぐさなので、人々がまともにそれを信じているのを見ると当惑してしまう。

 ときどきわたしは考える。アメリカ人はどう考えているのかしらって。アフガニスタンとイラクとの、この最近のふたつの戦争の後、アメリカ人は安全だと思えるようになったの? テレビの’テロ警報’発表を見る。深刻な表情と芝居がかっていい淀んでみせる政治家が、国民にいまにも爆発か攻撃があるかもしれないと警告している。おもしろおかしい。だって、イラクは9カ月間ずっと警報赤レベルだから。どうして、アメリカ共同体が、祝日の休暇の1ー2週間に緊張を経験するのが劇的事件で、イラク人がその5倍もの緊張と今後5年間も不安を経験するのはオーケーなの? どうやらわたしたちは、アメリカ人より辛抱強いらしい。そう、わたしたちの血圧は上がるなんてことはないし、動悸がするなんてこともないし、イラクのこどもたちは傷つくはずがない・・・。

 世界中でアメリカ大使館が門を閉ざし警備を厳重にしていると聞いている・・・外交官の撤退を進めている、あるいは鍵をかけた屋内にとどまるように言われているとも。これも’対テロ戦争’の一環? 世界中にいるアメリカ人は以前より安全になった? もともとありもしない大量破壊兵器の危険性がいまこそまったく無くなったと知って、よく眠れるようになったかしら? わたしたちは、何の不安もない100%の安全って、どんな感じだったか忘れてしまったわ。

riverによって掲示 午前5時45分

(翻訳 池田真理)

2004年1月8日 (木)


分断されるイラク・・・

 Salamは、ここ数日、イラクの誰にとっても切実な問題について書いている。イラクにおける連邦制という問題と、キルクークとモスールの一部を北部自治区に包含しようというクルド人の計画について。

 この2案は2字で要約できる。バツ。まず第一に、クルド人は、キルクークの人口の大半を占めてはいない。タラバニは、口を開けばそう言っているが。キルクークでは、アラブ人とトルクメン人を合わせて、人口の過半数である。戦争と占領開始後、クルド民主党(KDP)(バルザーニ議長)とクルド愛国同盟(PUK)(タラバニ議長)は、党員に金を払って、キルクークと周辺に仮小屋を立てさせている。この無尽蔵の油田地帯における多数派はクルド人であるという印象を与えようとして。昨年5月いっぱい、クルドのBayshmarga(武装民兵)とトルクメン市民の間で戦闘が行われた。原因は、一定の地域がねらいうちにされて、トルクメン人が襲撃され家や農地を強制的に放棄させられたためである。

 イラクでは、クルド人とトルクメン人はおおむねうまくやってきたが、両者の間には敵意もある。キルクークを’クルディスタン’(クルドではなくこの呼び方を選んでいる人もいる)に統合しようとする動きは、つねに流血の暴動をもたらしてきた。統合に対し、キルクークのアラブ人は、断固拒否したし、トルクメン人は受け入れなかった。トルクメン人とクルド人の間の敵意を一端を理解するためには、1959年、イラク北部で起こった事件にまでさかのぼってみるとよい。その頃、イラク共産党が支配しており、共産党は当時首相であったカーセム(Abdul Kareem Qassim)を支持していた。

 ゴリゴリ共産主義者たちの多くは、この地域に共産主義を浸透させるには、宗教界の大物、ナショナリスト、社会主義者を攻撃するのが一番の道だと考えた。特に保守的でスンニ派アラブ人が多数を占めるモスールと、キルクークにおいては。1959年、数週間にわたって、この2つの地域で大虐殺が行われた。このとき、この御しにくい地域を制圧するよう命令を受けたのは、SuleimaniyahとArbil出身のクルド人共産主義者たちであった。何日も、罪のない人々の暗殺が行われた・・・銃撃され、町を引き回され、手足を切断され、電柱に吊るされた。共産主義革命を支持しようとしない人々に対するみせしめとして。当然だが、モスールとキルクークの人々は決して忘れることはなかった。その地域出身の50才以上の人はすべて少なくとも6つは語るに足る恐ろしい体験をしていると思う。

 また、モスールの約90%はスンニ派アラブ人、約5%がキリスト教徒アラブ人で残りがクルド人とヤジーディーとキリスト教諸宗派だ。(注:ヤジーディーは、キリスト教、イスラム教、ゾロアスター教などの混合した宗教を信じる人たち)。Masslawi(モスール出身の人々)は、”絶対に”クルド人の支配に慣れようとはしなかった。

 タラバニがクルド人自治区の拡大を提案して以来このかた、キルクークでは、暴動、デモ、暗殺が起こっていることを、すでにわたしたちは知っている。キルクークのトルクメン人とアラブ人は、クルド側の方針が認められれば、反乱と内戦へと持ち込むと予告している。

 わたしの立場はって? わたしは、イラクを分断して民族別、宗教別の地区に分けるのには、反対。うまくいかない。ほとんどのイラク人は、イラクが断片に引き裂かれること、クルド人地区拡大計画が、独立クルド州、もしくは__クルディスタン(彼らの呼び方では)への第一歩となることを怖れている。

 わたしは、クルド人が、アラブ人や他の民族の人々と平等に暮らす権利があると考えている__そのことに何の異論もない。私には、クルド人の友だちが大勢いるし、とても仲良くやっている。クルド人の親戚だっている(いとこの結婚を通じて)。さまざまな民族が一族にいるのはほんとにすてきだ。つまり、わたしは、クルド人の権利の擁護者だ。

 クルド人は独立クルド州をもつべきと考えているかって? ノー。もし、イラクにいる民族グループが、それぞれ独立州を要求したら、国を5つ以上に分割しなければならないだろう__クルド人自治区、スンニ派アラブ人地区(モスールを含む)、キルクーク独立州、バグダード共和国。南部は、3州に分割されなければならない。一州はアル・ハキムの支持者のもの、一州はAl-Sadrの支持者のもの、もう一州はAl-Sistaniの支持者のもの。

 クルド人が、民主的な統合されたイラクで手にできないもので、独立’クルディスタン’で手にできるものは、何? クルド人は権利を完全に保障されていると、戦争前でさえ言われていた。じっさい、占領前、バグダードのもっとも裕福な階層のうちには、クルド人の家族がいくつかいて、バグダードに壮大な邸宅をもち、SuleimaniyahやArbilにも邸宅をもっていた。皮肉なのは、これら裕福なクルド人には、イラン・イラク戦争のときに武器密輸で財をなしたものがいることだ(その一族でそれほど運のよくなかった者たちの蔑みのまとではあるが)。そして、戦争後のいま、かつての武器密輸業者たちは、大声で戦争の残虐行為を批判している(この占領下でいやというほど見た。超弩級の金持ちや権力者たちが、突如正義の味方としてつぎつぎ登場するのを。) かれらの息子たちは、超かっこいい車を乗り回し、ブランド大学へ行き(誰かが言うような、クルド人が学校や大学へ行くのを禁止する法律なんてなかった)、夏休みはスイスやドイツやイギリスで過ごしていた。

 クルド人は、バグダードに、Nadi SalahやAl-Dinのような高級会員制クラブを所有していて、そこで結婚式やパーティやさまざまな行事が催された。アラブ人は客としては歓迎されたが、会員になることはできなかった。そのいっぽうで、クルド人はイラクのどのクラブにも会員として受け入れられた__つまり、それは彼らの権利だから。マイノリティとしての。クルド人がアラブ人より決定的に有利だったこと、それは彼らは徴兵されなかったこと、だ。

 クルド人全員が、独立クルディスタンを望んでいると言えば、それはうそだ。多くのクルド人は、クルド人自治区の拡大を恐れている。だいへんな流血と抗争があとに続くことがわかっているからだ。ずっとバグダードに暮らしてきたクルド人は、北部に住む人々とは反対に、自治区拡大というクルド指導者の野望が、自治区外のクルドに対する’反動’を引き起こすのではないかと思っている。もうすでにそうなっている__多くの人がクルド人に敵意をもっている。クルド指導者の意のままにイラクが分断されると思っているからだ。

 最近、もうひとつ、クルド人が不安に思っていることは、言われているように、バルザーニとタラバニの間には’血をよぶ憎悪’があることである。いまのところ、連合軍暫定当局(CPA)とワシントンに対して、兄弟だってこんなにうまくはやれないというくらい仲のいいふりをして、共同戦線を張っている。しかし、事実は、違う。戦争前、北部の支配権をめぐって争い続けていた。つねにどちらかの支持者がどちらかの支持者を襲っていた。その間中、罪のない人々がまきこまれて犠牲となった・・・しかし、それも、原油がからんでいないときのこと。もし、キルクークが彼らの手に落ちたら、どうなるか・・・。

 わたしたちはみんな、ともに生きていた、かつては。___これからだってともに生きることはできる。イラク人は、民族の多様性を誇りにしている。そして、結局のところ、わたしたちはみんな、自分を”イラク人”であると考えているのだ。イラク人の誰もが、恐れおののいているのは、ある朝目がさめたら、イラクが、民族と宗教によって小片に分断されていることだ。Salamはこんなふうにうまく言っている。「境界はまったく存在しないし、また、あってはならない・・・」 (ところで、Salam、聞いた? Muwafaq Al-Rubai'iがイラクを3つに分割するのは納得できないと言ったとか。彼は、5つならいいというつもりなのよ・・・3ud dai ka7iheh,3maha__ごめんなさい、ただ英語でなんと表現するのか・・・)

riverによって掲示 午前4時38分

(翻訳 池田真理)

2004年1月5日 (月)


Happy New Year...
暦の上では・・・・私は一年間ブロッグしていなかったことになる。―2003年ぶり。私たちは過去数日電話なしの生活を送った。電話線は4日前突然死に絶え、今日の午後やっと回復した。

そのため、今は2004年。別に驚くことではないが、まるで2003年のように感じる。私たちは、おばの家で年越しをした。彼女は30日に我が家に立ち寄り、「今年は誰もどこにも行けないので、私の家で一緒に過ごしましょう。」と誘った。戦争にたった1つ利点を見いだすとしたら、家族が絆を再確認するということ。例年、私たちはそれぞれ異なる場所で過ごす:両親はどこかの集いに、私とEは友人達と・・・他の人々は、新年パーティーを催すレストランやクラブで。

今回の大晦日は事実上の家族会だった。私たちは、おばの家に集まったが、大きすぎる集りにならないようにした。「テロリストの一派」と間違えられないように。だって女性、子供、食物の皿やなんやかんやじゃ間違えられかねないでしょ!

午後6時頃到着。電気は一日中入ったり切れたりしていて、ジェネレーターには電力3時間分のガソリンしかなかった。私たちは、年越しの2時間のためにそれを節約することにした。後でこれが賢明な選択であったことが分かる。午後8時に停電し、翌日の正午まで回復しなかったから!しかも、早く出かけてきて正解だった。Eによると夜遅く何ヶ所かで道路封鎖が行われ、翌日まで帰れない人が出たという。

私たちがKおばさんの家に到着したほぼ1時間後に、爆風が辺り一帯を揺るがした。私はテーブルの真ん中の沢山のろうそくに火をつける準備をしていた。そこに突然、「ボン!」という大きな音が部屋や窓、家族全員を揺さぶった。Eと私が何事かと外に出ると、おばの隣人が門のところで、私たちと同じように困惑した様子で呆然と立っているのを見つけた。数キロ離れた小さなファーストフード店の近くで爆弾が爆発したことをその後知った。「ティータイム」は、フライドポテトとマヨネーズがいっぱいのハンバーガーとサンドイッチを売るHarthiyaにある2階建ての小さなレストランだ。

私たちは、8時から11時まで薄暗闇の中で、目の前のろうそくが祝祭のろうそくで必要からくるものでないことを装い、ポップコーンをむしゃむしゃ食べながら座り、最新の冗談(統治評議会に関してがほとんど)を思い出そうとしていた。


多くの人々が2003年を「一年」と考えているのに、私たちには10年のように感じる。戦争の準備をするために2003年は明け、世界中が新年の決意のリストを作っている時、私たちは来るべき戦争のために必要なアイテムのリストを作っていた。2003年の最初の2か月半、窓と家を補強し、食糧・水・医薬品を買い込み、井戸を掘り、戦々恐々とこの一年生き延びられるか案じながら過ごした。

3
月は戦争と恐怖をもたらした。私たちが日々目撃した場面は、一週間のように・・・そして幾日かは一年のようにも感じた。時間を見失い、時間や分ではなく爆発を数えた日々もあった。私たちは日付で表現することをやめて、「この前おじに会ったのは、えっと、アメリカ軍がAl-Shu'laにある市場を爆撃し十数人が殺された日だったな。」などと言うようになった。

彼らは、戦争が4月に終わったと言う。しかし、4月に終わってなどいない。4月は別の恐怖の始まりだった。バグダッドが炎に包まれ、犯罪者に略奪されるのを見ること・・・・焼けた自動車の残骸、路傍の焦げた人間の死体を見ること・・・・戦車やアパッチが右や左に撃ちまくるのを見ること・・・・そして戦争から完全な占有へ変わったことを悟ること。

私たちは2003年の最後の数時間、過去数か月について考え、将来について想いを馳せた。バックグランドミュージックは、爆発、砲撃、ヘリコプターや戦闘機。私は、恐ろしいことが起こり、私たちが新しい年を迎えられないのではと思い続けた。

10
時頃にジェネレーターをつけ、私たち以外の世界の人々が新年の幕開けを祝う様を見るために、テレビの前に集まった。時計が12時を打つ前に、子供たちは灯油ヒーターのついた居間の床で眠り始め、私たちのまわりのどたばたも激しくなり始めた。年が明けるとすぐに、軍用機と爆発の音があまりにも激しく、テレビの音がほとんど聞こえなくなった。そしていつものようにニュースには何も報道されない。外では地獄の魑魅魍魎が荒れ狂っているのに、Al-Iraqiyaは青い背景に社訓が不完全にフェードイン・アウトする画像を流し続けていた。私たちは、Karradaの富裕層の住むエリアであるA'arassatのレストランの前に爆発物が仕掛けられたことを翌日知った。

2004
年の最初の数日はどのように感じたか。それは2003年の最後の数か月と同じ。ここ数日は一連の爆撃と爆発が続いた。23日前に、米英軍はあるエリアを爆撃するためにクラスター爆弾を使用した。爆弾が落ちる前のあの恐ろしい鋭い音が聞こえたからだ。怒りで金切り声をあげる象の叫びのように聞こえるので、私たちはクラスター爆弾を「象」と呼ぶ。私はそれが何なのか、その目的は何なのか分からない。誰かがあの音は爆弾が当たる前に戦車の蓋をしろという地上にいる軍隊への警告信号であろう言う。通常この音に続いて恐ろしい爆発音が響き、そして地面が振動する。

聞くことや見ることに慣れていくことは奇妙だ。なんでも最初は最悪の事態だ:初めてクラスター爆弾を経験した時、爆発の衝撃で足下の地面が揺れるのを初めて体験した時、初めての近隣の家への戦車の発砲、初めてのチェックポイントの通過…初めての崩れた壁、こじ開けられたドア、割れた窓ガラス、爆撃された最初の大使館、最初のレストラン・・・・だからといって、もはや激怒や悲嘆を感じず、それがまるで生活の一部になり、梅雨時の雨や真夏の太陽を予期するほどに、それを予期するようになる。

2004
年が2003年よりましであるように。

 (翻訳 山口陽子)