Baghdad Burning

バグダードバーニング by リバーベンド

... I'll meet you 'round the bend my friend, where hearts can heal and souls can mend...

友よ、私の心が失われあなたさえ見分けることができなくなったら、どうか私を偉大な文明をはぐくんだ、チグリス・ユーフラテスの胸元に連れて行って欲しい。そこで私は心を癒し、魂を再生させるでしょう。

2003年11月30日 (日)

  
イラクの核の蜃気楼
信じられない。今日ちょうど、Imad Khadduriの本「イラクの核の蜃気楼」、をブロッグしようとしていた時にこの記事を見つけた: イラクの科学者:核兵器に関して嘘をつく。

Imad Khadduri
はイラクの主導的な原子物理学者のうちの一人だ。彼は子供の教育に熱心なカトリックの家族に生まれ、教養があり、非常に賢い人だ。彼の父親はバグダッドで開業する哀れみ深く献身的で腕のいい医者として有名だった。

Imad Khadduri
はミシガン大学で物理学を専攻し、ついでバーミンガム大学で原子炉技術の研究を続けた。その後イラクへ戻り、イラクの核計画を遂行する重要な科学者のうちの一人となった。

彼の本はすばらしい。この本は、5060年代のバグダッドでの少年期、それに続く外国での留学経験と外国の文化に自分を順応させていく課程、そしてこの国での科学兵器技術の第一人者となる80年代へと読者をいざなう。

1968年の爽快な秋の夜、隣にはBasil-al-Qaisi(高校からの親友)が座り、チグリス川ほとりのオープンエアカフェで私はバックギャモンをしていました。彼は、1961年以来物理学を研究していた米国からヨルダンでの滞在を経由して、私が帰っていると聞きつけてきたのです。お茶を飲みながら、私の人生の針路を変更する提案を彼はふと口にしました。温和な、はにかみつつも挑発的な態度で、「私たちの核研究センターで一緒にどうだ。俺達の友達は既にそこで働いている。Jafar Dhia JafarNazar Al-Quraishiや他の奴もいるぞ。」と言いました。

本当に不意をくらいました。私は、1年前の196711月に批判になったバグダッドから20キロ東方のTuwaithaにある2メガワットの研究炉をロシア人が築いたとは知りませんでした。』


本は、査察の対象となっている様々な核や「秘密」の場所について、あるいは計画が1991年の戦争の後にどのように瓦解したか、また10年以上の間科学者によって集められたドキュメントや情報に何が起こったかの詳細を示す。さらに、ChalabiKhidhir Hamzaのように、偽物(fake)で変人(flake)な「爆弾メーカー」がどのようにChalabiや非常に鮮明な想像力の助けをもってイラクの大量破壊兵器WMD疑惑を作り上げたかを著している。

Imad Khadduri
Khidhir Hamzaに関して以下のように書いている。:

90年代中頃に、イラクの物理学者Khidir Hamzaは、どうにかイラクから逃げ、CIAの保護を求めました。1999年末に、彼は、「サダムの爆弾メーカー」というタイトルの本を出版しました。これははっきりしておく必要があるでしょう。KhidirHamzaが核爆弾や放射能事故の影響に関する研究に従事していた頃、私たちはそのような研究にやっと道楽半分に手をつけたばかりでした。」

Imad Khadduri
が「現実」の人であるのでこの本を特に魅惑的に感じたのだと思う。彼は何十年もイラクの国外にいる亡命者のうちの一人ではない(彼は1998年後半に出国)。また、彼が書いていること、特に経済制裁下のイラクでの家族の連帯や生活について語られているところなどは痛いほど親身に迫る。彼はとてもリアルで、イラクで非常によく知られ、尊敬されている。さらに1991年の戦争の後にイラクの再建に重要な役割を果たした。彼は電力の復旧に貢献した人の一人でもある。

「発電所の送電線は、豆粒状の黒鉛が埋め込まれた空気が漏れる特別なネットで覆われていました。これにより広範囲にショートが起き、イラク全土への送電が停止し、国全体を暗闇に引き吊りこみました・・・・【湾岸戦争中】」

この本は無味乾燥な科学雑誌なんかではない・・・それは核兵器、原子炉およびイラクの文化をまとめて学べる書だ。

あなたがイラクの核計画のすべてと1991年のその突然の停止を知りたい場合、この本を読むことを薦める。また、ただ魅惑的で真実の物語を読みたい場合もこの本を読んで欲しい。

Imad Khadduri
によるいくつかの記事:

イラクの大量破壊兵器の蜃気楼
流動的なうそ

私は、明日、イラク人がどのようにWMDに関して感じているか書こうレシピのページも更新するつもり。

物語の二面性
前のブロッグで言及した薪を集めている間に撃たれた12歳と15歳の少女に関しての出来事には2つの異なる側面があることが私の関心を引いている。CPAは、少女達が実際に平原で「死体」で発見されイラクの警察に渡された、と発表した。しかしながら、彼女たちの弟は、米軍が射殺したと主張している。このニュースは、まずAFP(フランスの通信社)とアル=ジャジーラ、ついでいくつかのその他の報道機関が取り上げた。

これはアル=ジャジーラによる修正版。
これはニュース・インタラクティブによる確定版。

ともかく、この事件の犯行をした人が誰であろうとも厳しく罰せられることを望む。

(翻訳 山口陽子)

2003年11月29日 (土)

  
Eid
の総括
また今年も’Eid Al Fittur’が訪れ過ぎ去っていった。今年は、例年とはもちろん異なり、静かで厳粛だった。初日は家で「Eid Mubarek」と訪れてくる親類および隣人を迎え、お茶とkilaychaを伴にした。

2
日目、私たちは喪に服している23の家族の縁者と親類を訪れた。非常に多くの人が今年のEidに喪中のように思われる。祭日に悲嘆にくれている人を訪れる場合、彼らの困難な時に喜びを願うのは失礼にあたるので「Eid Mubarek」と言うことができない。代わりに、私たちは「Akhir il ahzan」と言う。「これがあなたにとって最後の悲しみであることを・・・」と言う意味で、多くの場合、相手の人はうなずき涙を堪えて平常を努める。私はひどく立ち入ったことのように感じるのでこのような訪問が嫌で堪りません。

Al-A'adhamiya
に住む母の親しい友人宅へのEidの訪問がそのような1軒だった。4月に、家から避難しようと車に乗り込んでいる際、戦車が発砲し、彼女は夫、息子および若い娘を失った。Eid2日目に彼女を訪れたが、私はこの訪問を恐れていた。この前会った時、彼女は抜け殻のようだったから。それはまるで彼女が家族の全員で構成されていて、残った彼女はその1/4だけのようだった。家族の死の最初のひと月、彼女は食べることも眠ることも話すこともできなかった。5月に会った時、彼女は私たちを認識できなかったか認識しようとしなかった。

私たちは同じ地域に住む姉妹の家に暮らす彼女に会いに行った。彼女は、昔の家では暮らしていないあまりにも急に、空っぽになってしまったから。今回彼女は話しもし、動き回ってもいた。しかし、彼女はもはや同じ人どころか似ても似つかない人になっていた。彼女は丁寧に話し会話についてこようとするが、心が他のどこかにあり、話に集中し内容を理解するのに大きな努力を払っていることが分かる。

ここにいて彼女とEidを共にすることが正しく礼儀にかなったことであると理解している。しかし一方、この女性の生活が4月の暗黒の日にめちゃくちゃになったというのに、天気や爆発について話している私たちはある種の恐ろしい罪を侵し、許されないことをしているようにも感じられた。記憶を呼び戻す瞬間に彼女が見せる苦悶の目か、あるいは時々彼女が彼女自身の内部に姿を消した時見せるぼんやりと空虚で無関心な目を見ること、どちらがより悲痛か私には決められない。

帰りがけに私はうつむき、「Akhir il ahzan」とささやいて、彼女を抱き締めた。私が離れる時、彼女は私をじっと見て、首を振りながら言った。「もちろん、これは私の悲しみの最後になるでしょう。悲嘆することなど他に何もありません。私の人生で重要な事などもう何もないのですから。」

そして、Eid最後の日・・・

・・・の27日ブッシュがイラクにいた。バグダッド国際空港に束の間の訪問をした。名称にだまされないで。バグダッド空港はバグダッドから約20分も離れている。誰も近づくことを認められていない何もない不毛の地。彼が去るまで誰もそのことを知らず、その後「へぇーそれ一体何のつもり?」とみんな言っていた。

ここの誰もが、彼をよく見せようとするおきまりの不完全な企て、と見ている。誰もがアジア歴訪中にイラクを満足げに眺めるため彼が訪れると見込んでいた。私は、全てがもう少し不透明に行われると思っていたが。(また、もっと選挙間近に行われると予想していた。)

テレビで彼を見ることは実におかしい。なぜ彼はそこまで内密にイラクにこそこそ出入りしなければならないのか。なぜ彼は、「解放」を支援した国の通りをどうどうと歩けないのか。少なくともなぜ彼は「解放」した国の上を「ヘリで視察」しないのか。状況は戦前よりはるかに良くなったと絶えず主張しているのだから、なぜ、私たちの優れた安全な状況を享受しないのか。私たちはテレビの前で、彼が例の調子で意味のない言葉を羅列するのを見ながら首を振った。彼はバグダッドでもワシントンにいるのと同じくらい間抜け野郎だ。

しかしながら、兵士達が彼の滞在をどのように感じたか私は知りたい・・・空港に集められたより抜きのグループは大得意だったと確信する。しかし、ティクリット、ナジャフ、Falloojehあるいはモスルに残された兵士について思いをめぐらしてしまう。私は、彼らがくつろいだ気分でいたであろうと想像する。

彼の訪問に関し最も滑稽だったのは、ChalabiTalabaniが空港をあっちだこっちだ飛び廻り、ブッシュの巡回に歓声をあげたり手を叩いたりしている姿だ。Muwafaq Al-Rubai'i(統治評議会のメンバー)は爪先立ちで、サーカスの道化師を見る5歳児のように手を叩いていて、実に恥ずかしいものだった。その後、彼はイラク人がどれくらい幸福でいかに国全体が歓喜に包まれたか喋り立てた。彼も分かっているとおりイラク人にとって彼自身そうであるのと同じくらいブッシュは近づき難い存在であるのに。

ブッシュは、さらに2人の「反政府運動家」がBa'aqubaで射殺されたことを、今日誇りに思っているに違いない:2人のテロリスト姉妹、1人は12歳、他方は15歳。彼らは平原で薪を集めている間に兵士によって撃たれた。しかし、どこも記事にしようとしない。彼女達は占有軍によって残酷に殺された、ただのイラクの十代の少女だ。だからどうだというのだ?ブッシュのバグダッド国際空港への隠密の2時間の訪問の方がはるかに重要だ。

:私にEidの挨拶を送ってくれた方すべてにありがとう。電子メールの数は信じられないくらいだった。なるべく早く返事を出すわ、でも辛抱して、電力の供給が悪夢のようなの。

(翻訳 山口陽子)

2003年11月25日 (火)  


Eid Mubarek
この数日間私は、少々魅力に劣る物のためにキーボードとブロッグを諦めなければならなかった−それはバケツとモップ・・・

それは3日前に始まった。私は、庭用散水ホースと格闘しながら水の最大の効果を発揮させるため巧みにそれを操りながら自宅の私道にいた。母は通りの向こうに住む40代後半のずんぐりして健康的な女性Umm Mahaと談笑しながら戸口に立っていた。

Umm MahaEidの特別なお菓子「kilaycha(これは、レシピを掲示するには少し複雑すぎる。) のおすそ分けを持ってきてくれた。 Kilaychaは、正確にはクッキーではないがそのような乾燥した甘いパイ菓子のようなもの。基本的に、ナッツ、ゴマや砂糖、なつめなどを詰めた一種の焼いた生地またはただ平らでプレーンなほとんどクリスマス・クッキーのようなものだしかしそれほど脆くも甘くもない。すべての家でEidのために作るか買うかする。それらはヒラマメのスープと同じくらい欠かせない。

聞くとはなしに会話が耳に入ってきた。停電やある地域(私たちの地域も)の水不足の影響について話をしていた。私の母は、断続的な停電がすべてをどろどろにしてしまうので冷凍庫の解凍にいかに苦労しているか話していた。Umm Mahaは急に驚いたように「でも、お宅の冷凍庫は清潔かしら。Eidの掃除をまだ始めていないの?!」この言葉に私は凍りつき、そっと母の様子を伺った。彼女は居心地が悪そうだったええ、私たちは「Eidの掃除」をまだ始めてはいなかった。しかし、バグダッドのマーサ・スチュアートにそれをどのように伝えればいいのだろう。

ええ、Umm Mahaはバグダッドのマーサ・スチュアート。彼女のところほど清潔な私道の持ち主の隣人がいたら見せてもらいたい。彼女の家は雨、日射あるいはクラスター爆弾のしみ一つない・・・彼女の子供は常に手入れが行き届き、アイロンがパリッとかけられている。自動車は古くへこんではいるが磨き込まれている。彼女は常にEid kilaychaを作る最初の人。彼女は悪名高きイラクの砂塵嵐の後に、家、自動車、私道および木々を真っ先に外に出て洗っている人。彼女は最新の掃除道具(油汚れを取るためにはタルカムパウダーを使うのがいいなど)を知る隣人。そしてゴミ集積所からほうきで(他になにがある?) 野良猫を追い払う人だ。

私の母は弱々しく微笑んだ。みんなEidが始まることを知ってはいるが、誰も家をEidの前にしみ一つなく磨き上げる大仕事を始めるエネルギーや率先力がない。Eid Il Futtirは、ラマダン明けの3日間の休日だ。イラクでは親戚と友達を訪ね、そしてたいてい食べることにより、それを祝う。つまり断食終了の祝賀だ。(一月まるまる断食することができた場合は特に。)


Eid
の準備はたいてい1週間前に始まる。子供には新しい服、パジャマを用意し散髪をする。親類、友達および隣人を迎えるため台所をおいしい物で満たす。家族はEid3日間いつお客様が来ても良いように準備し、家は磨き上げられ清潔でなければならない。

ラマダン終了前の数日一家をあげて「tandheef il eid」を始めることは伝統的だ。アラファトまたはEidの前夜は多くの人々が整理整頓のために家にいる。家が不潔か散らかっている場合、Eidは不完全なものになり祝祭の「精霊」は家に入ってこないと信じられている。


マーサ・スチュアートまたの名をUmm Maha が数日前にこの習慣を母に思い出させた瞬間、一連の掃除への関与が広範囲に亘ることが予測できたので、私はホースを静かに置き茂みの後に身を隠した。しかしそれは何の助けにもならなかった。Umm Mahaが非難を態度に表しながら家を去ると、母は直ちに「掃除モード」に入り、「ぴかぴかEid作戦」を開始した。

Riverbendの母」少将は、即座に彼女の清掃部隊を招集し、命令を与え始めた。Riverbendは、クローゼットに取りかかること。父は、私道に山積みになっている「価値ある」がらくたに突撃すること。そしてEは重い家具を移動させながら下を拭いほこりの塊を抹殺し、汚れを壊滅させること。

これがここ数日私の行っていたことごしごしこすり、たたんで、磨いて、洗い流す。こんなことも絶え間ない停電のために困難だった。掃除機をかけることはその次に不可能。屋根の上の水タンクが一杯になることがないので、ほとんどの衣服を手で洗われなければならなかった。

スンニ派の一部の人にはEidが昨日始まった。(ヨルダンやエジプトがそうだ。)。その他は、Eidが明日始まる。私の家族のように、スンニ派とシーア派の混合の場合、サウジアラビアに倣う。つまり、Eid1125日の今日始まったのだ。今年Eidを皆一斉に始めなかったことが私をいらだたせる。Eidとは実際は連帯を意味するものなのだから。

モスクは注意深く見守られている。また、ほとんどの人が午後8時までには安全のため家の中にいる。私たちの親族はどのように会うかまた誰がどこにいくか決めかねている。誰もが電話にアクセスできるわけではないし、一定の地域の多くの人は、「テロリスト集団」と誤解されないように大きなグループで集まるのをためらう。今年は実に奇妙なEidだ。ヘリコプターと戦車・・・そして恐らく不意の占領軍による手入れ。

昨日Eidが始まった人、今日始まった人にハッピーEidEid Mubarek・・・


(翻訳 山口陽子)

2003年11月22日 (土)

    
ロバとゲリラ
Ok
、今日のブロッグはまるでThe Onion(訳者注:リバーベンドがリンクを貼っているあたかも本当のように掲載しているパロディ・ニュース・サイト)から引用したように見えるでしょう。

ロバはミッシングリンクだった?

イラクのバグダッド今朝715分頃、バグダッド市内の居住者は爆発の音で目を覚ました。多くの住民が、反政府勢力へのメッセージを目的とした最新の軍事戦略「鉄のハンマー作戦」の音であろうと推定した。

テレビをつけて始めてバグダッド市民は、2軒の有名なホテルと石油省が攻撃されたことを知った。ミサイルで攻撃された2軒のホテルは両方ともイラクの首都の商用地に位置していたシェラトンとパレスチナ・ホテルだった。ホテルは外国人及びCNNを含む多くの主なニュース・ネットワークのリポーターやジャーナリストの本拠地だ。ホテルと石油省のいずれも死者はない模様。一方、目撃者によると負傷者がいるとのことだ。

攻撃者はロバ。はい、ロバは干し草で覆い隠されたミサイル発射筒およびミサイルを積載した鮮やかな荷車を牽いてバグダッドの様々な場所で発見された。身に覚えがあり不機嫌そうなロバは、尋問のためにただちに身柄を拘束され、声明を得ることはかなわなかった。

「まるで、くまのぷーさんに出てくる紫のロバのよう!」テロリストの一味をリポーターの関係者である若いバグダッド居住者は、息をのんでそう言及した。。

初めての本当のリンク

これはアルカイダに結びつく初の正真のつながりだろうか。テロ活動とイラクを結びつけようとしてきたここ数か月間で初めて、今回の攻撃がペンタゴンの「ミッシングリンク」であると証明されるかもしれない。いずれにせよ、岩がちな山岳地帯を通って移動するためにロバとラバは、アフガニスタンで非常に広く使用されている。バグダッドにおけるそれらの存在は非常に疑わしい。ロバが近隣の国々からイラクへ潜入したゲリラであるか、本当に地元のアルカイダの一派によるものかまだ不明確だ。

バグダッド居住者は考え込んでいる:これらの罪人はグアンタナモへ送られる最初のロバとなるのか。

Baghdad Burning
のリバーベンドがお送りしました。


これは真実だこれは私たちが一日中話していたすべてだ。
 
ありがとう
3
人の人に特別の感謝を送りたい。まず フランク トービンのおかげで Bloggerから広告がなくなり、これまでできなかった多くの事ができるようになった。次にジェフ・リード。 riverbendblog.com私のサイトは今やドット・コム! 最後にゴサムからの手紙のダイアナ。その理由は彼女が知ってる!

ところで私はレシピを更新した。 Is something Burning・・・

(翻訳 山口陽子)

2003年11月13日(火

 

イラク統治評議会…

これを早くアップしなければいけない。今日は電気の状態が最低だ。この地域では予定も何もなく、2時間の間に30分しか電気が使えない。皆は、これは今朝ナシリアであったことと、先週のバグダッドでの爆発に対する一種の罰だと言っている。今日も大きい爆発があった。軍隊がたぶん迫撃砲にやられ、爆弾か何かで報復された。

 

また、ムハマド・バール・アル・ウルームが今日撃たれた。バール・ウル・ルームはシーア派聖職者で(「輪番大統領」)石油大臣の父だ。無事だったみたいだけれど、運転手が怪我をした。バール・アル・ウルームはバース党員やアルカイダのような政府支持者のせいにしたがるだろうけれど、実際撃ったのはアメリカ軍だ。「誤射」だった。おっと!

 

ブレマーは今ワシントンにいて、統治評議会がどうして全く役にたっていないか説明している。ワシントンポストが統治評議会に対する支持が落ちているという記事を載せているが、当然のことだ。

「アメリカは、選りすぐりの評議会メンバーに本当にいらだっている。イラクの政治の未来を計画すること、特に、新しい憲法を書く委員会を選ぶことよりも、自分たちの政治的・経済的な利益に関することに時間を割いているからだ、と関係者は付け加えた」

 

権力に飢えた人たちの集団を一つの議会にまとめたら(中にはお互い戦争をしてきた人もいる)間違いなく自分の利益を大きくしようとするだろう。自分の党のメンバーや民兵軍や身内を推してイラクの将来に自分たちの根を張ろうとする。

 

「ブレマーは、いつでも少なくとも評議会の半数は国外におり、4人か5人しか出席しない会議もあると述べた。」

 

もちろん彼らは国外にいる。ほとんどの人は議会につながりがないのだ。家族に会うためや、ビジネスのためにヨーロッパや北アメリカにいかなければいけないし。あるメンバーにとっては、ときどき、「統治評議会」は面白い趣味の一つにすぎないのではないかと思うこともある。月1回決まって行われる、ちょっとした気晴らしの仕事だ。土曜日はゴルフ、金曜日はロンドンの家族と映画、火曜日は温泉でマッサージ、そしてそうだ、毎月X日は国家建設のためブレマーと5分会う。

 

一般人が評議会のメンバーに会うことは絶対ない。ほとんどのメンバーは警備された敷地に住んでいるし、今どこの国にいるかも知らないのだ。例えば、チャラビは行方がわからない。どのくらい長くかはわからないが、ニュースでも見かけていない。もし誰か見かけたら、Eメールを送ってほしい。彼が何をしようとしているのか本当に知りたい。

 

ブレマーがイラクの民主主義のパイオニアや自由をもたらす中心人物との会議をしようとしていることは想像できる。イラク傀儡政権だ。ブレマーはシックなスーツを着て髪をたなびかせピカピカの靴で(黄色の国家建設ブーツは記者会見とイラクの地方での写真撮影用だけにはいた)闊歩する。期待とやる気に満ち溢れている。今日こそが運命の日だ。この会議はニュースのトップ記事になる建設的な会議だぞ。

 

ブレマーはイタリア製の靴のかかとを大理石の床にひびかせながら、贅沢なつくりの部屋に入ってくる。今日は25人が出席の予定だ。部屋の中は25人の尊敬のまなざしが彼を追う。ブレマーの知的な言葉をもらすまいと25人が熱心に耳を傾ける。25人の顔は輝いて・・・だけど、25人はどこにいるのだ?彼は部屋の途中で立ち止まる。心は沈み、怒りが一気にこみ上げてくる。どうして自信なさげなこの5人しかいないのだ?日をまちがえたのか?それとも会議室を間違えた?!

そしてブレマーは大声で怒る。指人形はどこだ?操り人形は?一体どうしてまた会議をサボれるのだ?しかし休んだ人間はそれぞれ理由がある。ブレマーさん、夕べの晩御飯が多すぎてタルバニが消化不良を起こしました;午後にスイスでイアド・アラビがペディキュアの予約をいれております;アル・ハキムが湾岸諸国を飛び回って密かに脅迫をしています、そしてチャラビはもう会議に出ないと言っています、彼は国を離れて、選挙の時に帰ってくるそうです…。

 

人々は今やこんな状態を期待している。評議会メンバーと民衆の間には意思の疎通が全くない。メンバーはブレマーやブッシュと同じくらい遠い存在だ。発言はよく英語でなされるし、イラク国民に向けたものでは全くない。新しい決定や政治・経済的政策は通訳の吹き替えを通じて聞く。議会メンバーは何千キロも離れたところの会議でニヤニヤ笑っている。

 

私たちには「本物の」イラク人が必要だ。議会メンバーは実際に本物のイラク人だと言う人は多いけれど、古き良き格言を覚えておくことは重要だと思う:馬屋で産まれるものが全て馬であるとは限らない。私たちには、いい加減な政治的な野心だけでイラクにつながっているのではない人たちが必要だ。民衆が共感を持てるイラクの過去を経験している人が。セメントのバリアや鉄条網や軍隊の後ろに隠れていない人たちが必要だ。

 

評議会の失敗は軍隊に対する攻撃やテロとは関係がない。失敗は、メンバーの多くが困難な状況から逃げて腹心に豹変するのが明らかにうまい、という理由で推薦されたのが原因だ。もう一つの問題は、政治的野心のある、きちんとした知的な人たちは皆、この統治評議会は単独で何もできないということを感じ取って、この出来損ないに加わることを拒んだことだ。ブレマーは代表者だが氷山の一角に過ぎない。彼はワシントンを代表している。

 

国民会議はいい案だと思うが、これも予定表がなければ傀儡議会と同じようにひどい失敗になるだろう。占領軍は「『今』月、来年、退去を始める。それまでに組織しよう」と明確な日付を定めることが必要だ。どんな進展もしようと思うなら予定表は非常に重要だ。それで初めて物事が前に進み始める。

 

著名な人気のある政治家や公人はアメリカのエプロンの紐につながっていることは望まない。これには弁護士、政治科学者、作家や有名人が含まれる。彼ら自身がアメリカのエプロンの紐でないからではなく、これが占領だからである(アメリカの承認に基づくものにほかならない)。CNNやその他がこれを自由化にみせかけようとどんなに努力しようと、戦車、軍隊、襲撃、攻撃(偶然またはそうでなくても)、そして傀儡議会はみな占領だと叫んでいる。これがフランス人なら、同じ抵抗を受けただろう・・・まるでサウジやエジプトやイランの占領であるかように。

 

利害関係があるすべての政党が国内会議に参加を許されることも非常に重要だ。過去にあった政治会議は皆アメリカに承認された政党や宗教グループに限られていたので、中に入れない政党がたくさんあった―もっと民衆に支持されている党が入れなかった。さらに、会議は占領軍(軍と連合軍暫定当局)が運営したり組織したりしてはいけない。イラクに1つ上手なことがあるとすれば、それは会議を組織することだ。イラクの独立に非常に重要な政治的決定がなぜアメリカの大尉や将軍の監視下で行われなければいけないのか?皆が民主的なイラクを望んでいるが、それは民衆が占領された政府と常に提携しているのでは実現できない。

 

なぜどんなイラク政府も、クリスチャンであって、しかもブレマーに祝福されなければいけないのか?ブレマーはイラク人ではない、最後に私が確認した時には・・・

 

Juan Cole とJoshua Marshallはこの問題について面白い意見を持っている(二人ともいいリンクも張っている)。

riverによって掲示 2時35分

(翻訳 石塚直子)

2003年11月9日(日)

 

食べ物・・・

Is Something Burning?を更新して、サイドバーに加えた。

riverによって掲示5時27分

 

Galub Memdeshen

ここ数日はちょっと疲れた。お客さん(親戚)と、7月から会っていない友達が来た。同じ町に住んでいるのに別世界に住んでいるように感じるなんておかしい。皆それぞれの試練と困難を経験している。失業した息子に、夫をなくした娘・・・問題はきりがないように見え、皆自分のストーリーがある。私の母はいつも「(あなたが話を聞く)誰もが、新しい心を求めている」と言っている。これは普通悲しい、いらいらするような話を予期している時に言う言葉だ。どんな話も深いため息で始まり、「Allah kareem」で終わる。

 

最近来た客のせいで不安などと言えるものではなくなった。Eの友人でバグダッド大学電気工学部の3年生が立ち寄った。彼は1時間座りこんで、先週大学で起きた事件について話してくれた。聞いたことはあったが詳細は知らなかったのだ。バグダッド大学では一番の問題になっている。

 

バグダッド大学に関する簡単な情報:この大学は30年代に設立されたと思う。イラクでは最古の近代的な大学で、一番有名だ。小規模で始めたがだんだん拡張して、地域で最大の大学のひとつになった。バグダッド中に全部で6つのキャンパスが広がっているが、正確なカレッジの数はわからない。メインキャンパスは、バグダッドの中心部にある緑の多い優雅なジャドリヤ地域にある。工学、科学、政治学、体育、女性教育、学長室はすべてこのキャンパスにある。

 

このジャドリヤキャンパスは1961年、ドイツ人でアメリカに1937年に移住したWalter Adolf Gropiusが設計した。広くて美しいキャンパスだ。建物は不規則にならんでいて、椰子などの木や植物のある庭がところどころ間に入っている。町の外から通う学生用の寮も何個かあり、体育カレッジにはサッカー場やバスケットボール用のコート、プールもある。

 

キャンパスで私のお気に入りの場所は入り口の門だ。門は薄い色の細長い虹のような形をしていて、キャンパスの中とは合わないけれど、アラブ建築の象徴だ。門の真中が開いているのは知識を受け入れる開いた心のシンボルだ。あるいは、そうであると言われている。キャンパス全体が緑の木とベージュの建物のコントラストをなし、忙しい学生であふれている。困難な時期でも、ここはオアシスだった。

 

1990年代初頭まで教員の大部分は海外で大学院の学位をとった人だった。医学部は、ほとんどの医者が英国のメディカルスクールをでているので英国のカリキュラムに傾いていったし、工学部はやはりほとんどの教授や教員がアメリカのカレッジを卒業しているのでアメリカのカリキュラムになっていった。科学部はアメリカと英国で教育を受けた教員と教授が混じっていて、シラバスはほとんど英語だった。

1991年以降、他の大学と同じように、大学は低下していった。化学の実験に使う化学薬品は、実験用の基本的な道具の大部分は制裁決議によって「禁止」されたという理由で買えなくなった。物理の実験も同じだった。工学部は器具と教科書が足りないとこぼした。カリキュラムがアメリカまたは英国のものだったから、教科書もこの国のものだった。しかし主要な出版社は、政府が違法とみなしたため、イラクの大学に本を売ることを拒否した(明らかに、微積の本を使って大量破壊兵器が作れる・・・)。私たちは偶然誰かが必要な本を一冊買ってきて、山ほどコピーを作ってバグダッド中の小さなmakatib、つまり本屋で売るのを待つしかなかった。

 

1991年以降、あまりにも経済状況が悪いので多くの教授が外国に移住を始めた。家族はおろか、自分ひとりも食べていけないような状況だったからだ。大学や研究所でいい仕事につけるようにヨルダン、イエメン、リビア、シリア、アラブ首長国連邦などに出て行った。残った人は非常に感謝された。今でもMITの数学者やバークレーのプログラマーは語り草になっている。

 

こんな状況にもかかわらず、バグダッド大学は地域で最高の大学だった。アラブ世界中で有名だったし、卒業生はほとんどどこでも歓迎された。評判は事実上変わらなかった。90%の大学入学希望者はバグダッド大学を第一希望にする。毎年イラク全土で75000人が高校を卒業するが、バグダッド大学は全体で1万人しかとらないから、最高の成績の学生を入れる。よって、イラク中で最高の教員に加え、最高の学生がいるのだ。

 

バグダッド大学は4月9日の直後から大規模な略奪にあった。程度はキャンパスによって差があった。ジャドリヤキャンパスも最初の数日間略奪にあったがアメリカ軍が近くに駐在していたので他の場所に比べてましなほうだった。占領後多くの教授が仕事をやめ、くびになった人もいた。大学に残った人は結束して「民主的」投票を行ない、学部やカレッジを率いる特定のスタッフ、また学長までを選んだ。

 

問題は、その教授の大半が元バース党員だったことだ。最高の教員の中にもバース党員(600万人以上いた)はいた。学長に選ばれたSami Mudhafarは尊敬され、有能だった。そして、反バース党だった。占領が始まって数週間後、チャラビは彼の「非バース党化」計画を実行しようとうったえ始めた。まず手始めにおこなった場所が大学だった。管理職でバース党の者は辞職し権限を移譲するようにいわれた。次に連合軍暫定当局が求めたことは、バース党の教授を辞めさせることだった。これはやりすぎだ。Sami Mudhafarは全ての元バース党の教員や従業員を辞めさせたら教員が大幅に足りなくなって授業を続けられなくなることに気付いた。戦争前からすでにいろいろ厳しい状態だったが、これを実行すればいよいよ大学は立ち行かなくなる。だから彼は拒んだ。高等教育省の代表者に、これは間違っている、こんな政策の結果の責任はとれないと説明した。

 

Sami Mudhafarはすぐに更迭になった。彼はポストを降りるよう言われ、統治評議会が選んだ高等教育大臣は他の者をそのポストにあてた。ジャドリヤキャンパスは抗議でうずまいた。学生と教員が「高等教育大臣は指名されたがSamiは選ばれた」といった言葉を掲げて抗議した。これはいいところをついている。民主主義の最初のつぼみが連合軍暫定当局と傀儡議会に指名された大臣によって即効つぶされてしまったのだから。

 

問題はその後に始まった。毎日のようにスタッフや学生や新しい管理局の間で、些細な異議や大きな意見の相違が出ていた。時には大学内のアメリカ軍が巻き込まれることもあった。

 

アメリカ軍はジャドリヤキャンパスから撤退する前、「キャンパス警備隊」を任命した。これは兵士が訓練したと言う人もいるが、20歳から40歳(大半は20代だという)の男性の一団だ。しかし学生は、この警備隊は治安を守るというよりむしろ学生を監視するのが目的のようだといって嫌がっている。ほとんど毎日のように警備隊とは小競り合いが起きていて、もし誰かが問題を上の機関に持っていって公的に不満を言おうとするなら、さらに警備隊とやりあわなければいけない。

 

数日前、一人の学生が駐車場のことで警備隊と口論になった。学生は明らかに「指定」スペースに駐車し、授業に遅れまいと走っていくところを、警備隊員に車をどけるよう呼び止められた。コンピューター技術科の学生が反論すると警備隊員は大声を出し、口論が始まったところに別の隊員が加わって三人の乱闘になってしまった。学生の友達が乱闘に参加し、今度は警備隊員が突然ナイフを持ち出し・・・学生の数はもっと増えて全員になってしまった。警備隊員も応援を頼むと、2台の軽トラックで何人かが応援に来た。警備隊はコンピューター科と電気工学科に続く道に停車しクラシニコフ銃を引き抜くと、校舎に発砲した!

 

学生は地面に伏せた。窓が割れ、ベランダからベージュのしっくいの大きい塊が落ちてきた。教員は授業をやめ学生を廊下に導く(窓ガラスを避けるため)。一人の学生が車に乗って学部長とイラク警察を呼びに行った。数分後、警察が到着し警備隊員に発砲をやめるよう繰り返し叫ぶ。警備隊員は今度は向きを変えて警察に向けて発砲を始めた。警察も銃を取り出し、警備隊に発砲をやめるよう威嚇射撃を始める。学部長が現れた。小柄で、懸命な表情だが顔は青白く、一体何が起きたのかうろたえている。おびえた学生と怒り狂った警備隊とイラク警察が即座に目に入る。

 

結局その日、学生は怒りに満ち混乱して授業が続けられなくなったので下校した。幸いにも、怪我人は少なかった。ナイフによる切り傷が少しと、打ち身、そしておそらく精神的な傷、それ以外には何もない。その日以降ストライキが続いている。警備隊に公的な謝罪を求め、権限を制限すること、例えば駐車場のことで学生に発砲してはいけない等・・・。

 

今日(実際には昨日だ、もうほとんど夜明けだから)市の中心部でまた爆発が何回かあった。誰がやったのか定かでないが、またグリーン・ゾーンの近くらしい。インターネットには何も載っていない。

 

けれど、激昂した警備隊のほかにも、市の中心部での爆発、チクリットの爆発、治安状態をめぐってのナシリアでのストライキ、暗殺事件、誘拐、自動車爆弾テロ、恐怖を感じている人道支援団体に疲れきった人々・・・すべてがまさにバラ色だ・・・「ため息」・・・Allah Kareem.

riverによって掲示 5時06分


(翻訳 石塚直子)

2003年11月5日(水)

Is Something Burning?

私にイラクのラマダンレシピを載せてほしいというリクエストの数がすごかったので、このページにレシピを載せることにする。Is Something Burning? まだ建設中だけれど、これからリンクコーナーを変えてレシピのページにもリンクを張る(とくに中東料理)。どんな感じになるか見てみよう。レシピを試した人がいたら是非感想を聞かせてほしい。

 

ハンマーと鉄床の間・・・

この数日間書かなかったのにはいろんな理由がある。まずインターネットにほとんどつながらなくて、つながったとしても回線がすごく遅かった。昨日はもうあきらめた。また、ラマダンで疲れていたせいもある。断食で疲れるのではなくて夜に断食明けの食事の準備をするので疲れてしまう。やることがいっぱいあるのだ。食べた後は疲れてしまい、家族と一緒に座ってお茶を飲み、喫煙者をいじめて、最近家族でよく話題になること、つまり占領と政治について話をすることしかできない。

 

子供までがこんなニュースと目下の状況に巻き込まれているが、そんなに大きく影響は受けていない。いとこの下の娘はアル・アラビアのニュースキャスターに夢中になっている。彼がテレビに出ている時は、いつもはうるさい7歳児がテレビの前に立ち上がって、うっとりと、彼のドライで冷静な発言に聞きいっている。その子の母は見て見ぬふりをしながら、娘をいい子にさせようと、可哀そうにだましてこんなことを言う;「だけどアル・アラビアのかっこいい人はもしあなたがジャガイモを食べなかったことを知ったらなんて言うかしら?!」

 

先週は本当にたくさんのことがあった。国連のいろいろな機関がボランティアやスタッフを撤退させ始めた。赤十字も今同じことを始めた。誰かが私に、なぜイラクは国連機関をこんなに信頼しているのか聞いたことがあった。私たちが国連や人道支援団体の能力に非現実的な見解をもっているのではない。単に、このような団体が撤退を始めるときは状況が下り坂になるということがわかっているのだ。戦争に脅かされている間、私たちは国連の人たちをとても注意深く見ていて、彼らが荷作りをしてヘリコプターで去り始めたとき、これから難しい状況になることがわかったのだ。

今日は皆が仕事に戻った。土曜、日曜、月曜は基本的に誰もが家にいた。3日間の抵抗運動に関するチラシが回ってきたからだ。チラシにははっきりした拘束力はないという人もいる。占領に抗議するために3日間家にいて下さいというあいまいな命令だとも、また実はその言葉の裏に「警告」が潜んでいるのだとも言われている。

 

バグダッドはぞっとするほど静かだが、時々爆発が起きる(昨日は連合軍暫定当局の本部近くで、今夜は「グリーン・ゾーン」の近くであった。)何もかもが静かにみえた。道路の車の数は比較的少ないし、学校にはまず子どもはいないし、公務員ですら家でじっと安全にしていようと考えている。大学もほとんど空だったが、今日から学生が戻り始めた。軍がどこにでもいる。検問所や通行止めの場所では兵士が車に「別の道を通れ」とバックをするように手を振っている。

 

私のいとことその妻がこの2日間来ていた。安全のため娘たちを学校には行かせず、家にいさせていた。いとこの妻は年度が始まって以来、前に私が会った時よりもほっとしているようだった。彼女はこれで、娘たちを学校ではなくて自分の監視下におくことができる。これは彼女にとって完璧な言い訳になるのだ。別の日、彼女は娘たちを一年中家において勉強を教えることの健全性について話し合っていた。私たちは、今の教育制度では小学校でそんなことをすることは許されていないから、彼女の言っていることはおかしいと言った。重大な理由がない限り、子どもは実際に学校に行かなければいけない。私は、それでは娘たちが1年を無駄にすることになるし、上の娘が優秀な生徒であることを考えると恥ずかしいことだと諭した。彼女は気に留めていないようだった。とにかく子どもたちが安全であること、それだけが望みなのだ。このような議論をする親は今年多いだろうと思う。若い女の子は特に誘拐や拉致にあいやすいからだ。

 

わたしはこの危機の間、子どもを持つ親をうらやましいと思わない。

 

大学も独自の問題を抱えている。大学も市中とほとんど変わらない状況なので、学生がデモをしたと聞いた。学生は、大学に入る前に車も人間も長い検問の列に並ばなければならず、そのせいで授業に出られないと不満をこぼしている。また、学部長や学長が自分たちの身の安全を優先するあまり、学生に会って不満を聞いたり問題が起きていないか校舎内を見回ることをしない大学もあるという。大学の教員は学生に悪い点をあげたことで殺すという脅迫を受けただとか、安全上の問題から学生の出席率が悪いということまで、いろいろな不満を抱えている。

 

今日の最新のニュースはグリーン・ゾーンにミサイルが打ち込まれたことだ(マスコミによると迫撃砲らしい)。すごい爆発音が聞こえたけれど、大抵の人は慣れてしまったと思う。子供だってたじろがない。爆発音がすると皆すぐに屋根に登って煙が大体どのあたりから出ているか見定めようとする(大抵煙がのぼる)。次に、もし電気が通じていればこぞってニュースをチェックする。もし住宅街だったらそこに住んでいる親戚や知り合いの顔が即座に浮かび、皆が無事でいるか心配になる。あの家・人・店・学校にどのくらい近かっただろう、と。ほとんどの人がバグダッド中に親戚がいるから、常に誰かの心配をしている。爆発のあった場所に住んでいる人と連絡をとりたいが電話がないときは、誰か情報を多く持っていそうな人に連絡をとろうとする。こんな一連の過程ももう慣れっこになってしまった。

 

ここ数日は暗殺も多かった。大見出しになるのは裁判官のケースだ。昨日はナジャフで裁判官が誘拐され、殺された。今日はモスルで一人が家の外で殺され、キルクークではもう一人が車の中で頭を2回撃たれて殺された。最近は、あるアラブリポーターの言葉をかりれば、イラクの裁判官は'bayn il mattraqa wil sindan' つまり「ハンマーと鉄床の間」に挟まれているように見える。これはナジャフの裁判官は愛国者に殺され、キルクークのは「裁判官は十字砲火にあったのだ」というアメリカ軍に殺されたとみられるからだ。モスルの事件はまだ謎である。

 

この数日間は特に辛かった。誰もがピリピリしている。皆が緊張と心配でいっぱいだ。子どもが心配、仕事や職を失うことが心配、治安状況が心配、いらだつ軍隊が心配。攻撃がもっと精巧になり、軍がさらに残酷になってきた地域もある・・・一つの段階を卒業して次の段階に進んでいくようだ。皆疲れている。

 

riverによって掲示 2時15分

(翻訳 石塚直子)