Baghdad Burning

バグダードバーニング by リバーベンド

... I'll meet you 'round the bend my friend, where hearts can heal and souls can mend...

友よ、私の心が失われあなたさえ見分けることができなくなったら、どうか私を偉大な文明をはぐくんだ、チグリス・ユーフラテスの胸元に連れて行って欲しい。そこで私は心を癒し、魂を再生させるでしょう。

2003年10月31日 (金)


リンク
「マルコム ラゴーシュMalcom Lagauche」を憶えている...?あまりにも多くのアクセスのためサイトをシャット・ダウンせざる得なくなってしまった作者のことを。今はここで彼のサイトにアクセスすることができる:Lagauche is Right  http://www.malcomlagauche.com/

Ramadhan ラマダン
Ramadhanはイスラム年(それは西暦と同様に12か月だが、約358日しかない。)の9番目の月。Ramadhanはイスラム年の神聖な月のうちの1つで、私は、最も興味深い月だと思う。Ramadhanのひと月、私たちは夜明けから日没の間、毎日絶食をする。食を断ち、飲み物を断ち、煙草を断ち、ガムを噛むことさえ断つ。つまり断食明けの夕刻まで一切を断つ。

Ramadhanは、イスラム教のメッセージおよびQuran(コーラン)とともに、天使ガブリエルが最初に私たちの予言者(マホメット)を訪れた月だ。そのため、イスラム教徒によって世界中で祝われる。記念すべきその日は正確には分かっていない。しかし、Laylet il Qadir(ガブリエルが最初にマホメットを訪れた夜)は、Ramadhanの終わりごろであろうと言われている。 (多くの人が、27日の夜と信じている。)

 Ramadhanはあらゆる意味で祝祭の月。まるで12月の最後の2週間のようにあわただしく、そして重要。この月、自分の知らなかった親類すべてに会うことになる。耐え難いいとこ、好きなおば、祖父母、姪、甥、おじ、てっきり昨年死んだと思っていた大おじなどなど。いってみればこの月は「家族の月」。

絶食は以下のように行われる。:夜明けとともに、私たちは食べること飲むことをやめる。これはal maghrib(日没)まで一日を通じて続く。絶食はイスラム教のarkan(すべてのイスラム教徒に求められている戒律)のうちの1つと考えられる。いくつかの例外として、病気の人、旅行中の人、絶食がその人の健康に悪影響する場合、たとえば糖尿病や妊娠しているときなど絶食しないことが許される。

もちろん精神的絶食が物質的絶食とともに行われるつまり、食物によることなく絶食は破られる。うわさ話、けんか、うそ、欺き、怒りの言葉などRamadhan中は避けなければならない。さもないと、絶食siyamは無意味な物になってしまう。Ramadhanは神に祝福された月と考えられているので、祈りとコーランの読書も一層熱心に行われる。

でも、なぜ絶食するの?とお尋ねかもしれませんね。半日以上もの間、食物と飲料を摂らないというポイントは何ですか、と。絶食は、寛容、忍耐そして飢えを教えてくれる。そう、飢え。普通、人は飢えとはどんなものだったかを忘れている。ちょっと、小腹が空いたからハンバーガーとフライドポテトが食べたいな、というような空腹とは違う。この場合の飢えとは、12時間以上飲まず食わずで過ごしたあなたの胃はぺったんこになり、頭は食べ物のことで爆発しそう、そのような渇望を意味する。だって、カフェインでどうにか体を機能させるなんてこともできないのですからね。

絶食のポイントは食物の大切さを再確認すること。神聖な月であろうとなかろうと飢餓に苦しんでいる人がいるからこそ特に、食物や水があることを当然のことと思うべきではないからだ。また多くの医者は、血圧をしばしば低下させ、喫煙や飲酒を人々に慎ませるので、絶食が健康であると信じている。確かに、私のおじは、今回のRamadhanで禁煙を成功させると誓っている。(彼は前回も前々回も禁煙を誓っていましたけどね。)

一時間以上も前に、私たちはfuttoor、絶食を終わらせる食事、の準備をし始める。伝統的に、ほとんどの人は毎日いったん絶食を終わらせ、その日のメニューにあるものを食す。多くの場合、長い絶食の後、胃をびっくりさせないために、スープで食事を始める。最もポピュラーなRamadhanのスープはaddessというヒラマメのスープ。軽くて風味の豊かな、淡い黄色のスープだ。作り方は様々だが、私はkhubzとライムを絞ったものが好み。

スープの後は、たいてい伝統的な食べものが次々と続く。レシピを今度、掲載したほうが良いですね。これほど多くの食物が並ぶのはfuttoorが、通常の食事であるというより日々の祝賀も意味するから。去年まで、私たちはほぼ毎日様々な家族や友達とこの時をともに過ごした。今年は違う。バグダッドや地方をぶらつくことはあまりにも危険だから。それに、futtoorの集いは通常、夜遅くまで続き、深夜を過ぎることもある。その後みんな家路につくのだから、現在の状況では許されない。

隣人はRamadhan月の重要な存在。彼らがfuttoorを味見しに来ない日は、おすそ分けを持ってきてくれる。さらに、モスクの守衛やイマーム(聖職者?)に誰が食事をとどけるか、また、近隣のより貧しい家族に誰が何を届けるかなどを相談するために集まる。Ramadhanは日頃の近隣とのいざこざ(誰それさんの犬は、通りを歩く誰彼見境なく吠えるなど)をとりあえず脇に置き、料理の技術を結集し、他人への共感を取り戻す時だ。

人々が最も活発になるのは、絶食を終える15分前。家族の全員があたふたと動き回り、一人はテーブルをセットし、別の者は食事を運び、どこになにを置くべきかにの命令を与える者がいて、そして皆一様に飢えでいらいらしている。とくに絶食終了を指示する祈願の声の5分前は、最も耐え難い一刻と言える。

1時間にも感じられる最後の5分が過ぎる一秒一秒を、バグダッドの通りを反響する絶食終了の祈願を今か今かと皆が聞き耳を立てている姿を、文字通り目にすることができる。そして、やっとfuttoorの時間がきて、私たちは味わいながら食べ始める。15分前にはばかばかしいほどちっぽけに見えたごはんの大皿は、食べ始めた今では十分すぎるくらい。また、あれもこれも食べるぞと勢い込んだほど食べきれる人はいない。みんな、あれにしようかこれもおいしそうだと吟味することで疲れ切り満腹する。

futtoorの後、喫煙者は、喫煙者だけが理解を示すある熱意をもって、煙草に陶酔する。子供の叫び声や大きなテレビの音をものともせずに、満足げにぷっかぷっかしている姿を私たちは感慨深く見つめる。

そして、baqlawa(シロップ漬け)や暖かいkunaffa(チーズでできた甘いもの)などのスナックやデザートを食べるのにその後の時間は費やされ、夜は更けていく。みんな充足し陽気に満ちゆったりと動く。(誰だって、沢山食べた後に腹を立てるようなエネルギーなんてありませんよね。).. futtoorを徹底的にだいなしにすることができるのは空爆(1998年のような)や送電停止だけだ。

明日私たちはこのfuttoorを、おじの家族と隣人(彼らはキリスト教徒。) とともに過ごす予定。キリスト教徒はRamadhanに絶食はしないが、しばしばfuttoorに加わり、多くの人が、結束と尊敬の意味から大学や学校(食べることが許可されている。) のような場所で飲食を慎んだりしている。

今日はここで失礼。シロップ漬けのkunaffaをちょうど暖めたところのようだから。急がないと、Riverbendには何も残っていないということになりか
ねないから・・・

riverbendによって掲示 0時20分

(翻訳 山口陽子)

2003年10月29日 (水)


赤十字およびテロリズム
赤十字が人員を撤退させ始めた。赤新月で働いている友人によると、彼らが行っていることつまり、人道的な援助、を継続はするが、ほとんどの人員を撤退させるつもりのようだと言う。ICRC(イラク赤十字国際委員会)の責任者であるナダ ドマーニNada Domaniから火曜日には人員を撤退させ始めると聞いたとき、「ナダ、私たちを捨てないで!」と叫ぶことができたらと思った。でも私には、彼らの最優先課題がスタッフの安全確保だと分かっているのでそれはできなかった。

赤十字は今特に重要だ。それは、拘留者の家族と軍を結ぶ「リンク」だから。誰かが急に姿を消した場合、人々は赤十字に行く。そしてつらい何日かの後に、行方不明者は、しばしば捕虜収容所か刑務所での所在が突きとめられる。

現在の状況を、原理主義者/過激主義者exremmists/テロリスト/忠誠な支持者(loyalist) (注:このばあいフセインに忠誠な者のことか?)/バース党員/外国人などなどの責任にすることは安易で愚かなこと。どうやら多くの人がこれらは同じか似たようなものだと考えているようだ。西側のメディアにおけるもう一つの傾向はこれら一切を「スンニ派の三角地帯」や「近隣の諸国」の責任にしてしまうことだ。

実際はいくつかのグループが、様々な標的にあらゆる攻撃方法を組み合わせて行っている。どのグループの犯行であるかの目安で最も明らかなのは攻撃の方法。次に何を攻撃の標的にしたかだ。

攻撃で使用される技術は、原始的なものから専門的なものまで幅広く及び、使用された爆発装置のうちいくつかは明らかにアマチュアによって作られた、手製で簡単な作りのものであったと聞く。連合軍本部に対する攻撃、例えば軍司令官が駐留する宮殿やバグダッド国際空港などの場所では先端技術が用いられた。つまり、ミサイルが使用されたような場所は高度に訓練されたグループによって行われたことを証明している。

私のおじの一人は、バグダッドの郊外にある空港に近いエリアに住んでいる。6月に、私たちは彼の家で2、3週間をともに過ごした。ほとんど毎晩、私たちは、空港の方角での巨大な爆発で起こされ、そして1分もたたないうちに頭上をヘリコプターが旋回を耳にした。先端技術による攻撃の別の例は数日前にラシード・ホテルに対するもの。そこで、Wolfowitzはあまりもの衝撃と恐れで会合から逃げ出した。(攻撃が彼の存在と全く関係がなかったかのように、CPAが必死に振る舞うのが私には理解できない。)

そのような抵抗活動の大多数は、高度な軍備にアクセスでき知識を持った人々-恐らくイラクの護衛隊員かイラク軍の元兵士-によって実行されていると信じられている。確かにBa'athistsバース党員や忠誠な支持者が実行者として類推できるが、彼らは原理主義者ではない。ここには、退職金、年金あるいは補償のないまま家で座っていることを強いられた、何十万もの不満をくすぶらせている元軍人や兵士がいる。「月払いの退職賃金」を約束された少数も、なにももらってないと苦情を言っている。(私は、軍隊を解体した誤りをどんなに強調してもしきれない。いったい誰が、そんな決定にたどりついたんだろう?!)

新しい抵抗グループは毎日突然出現する。技術は、だんだん精巧になっていて、menshooratつまり非合法のビラが水面下では飛び交っているという。

一方、自爆攻撃は、原理主義グループに起因することが多い。これらのグループが前政権を取り戻すために戦っているという考えは馬鹿げている:大多数の原理主義者が前政権に完全に反対していたという事実を人々は無視することに決めた。それはアルカイダ、アンサー・アル・イスラム、Al Da'awaおよびその他の政治的原理主義グループのメンバーは、拘留、追放、時に処刑をおこなうことがあるからだ。

これらのグループはスンニ派とシーア派の原理主義グループだ。(南部地域での英国およびポーランド軍に対する攻撃が証明した。) アルカイダは2、3週間前のバグダッド・ホテルに対する攻撃について声明をだした。一方南では、アルハキムの護衛隊員の一人が彼の暗殺共謀に加担したと人々が断言している。 (これは、爆発物でいっぱいの車が彼の車が停めてある駐車場へ彼の護衛部隊をかいくぐってどのように運ばれたかを説明するだろう。)

皮肉なことに、CNNでは「テロリズムとの戦い」について報道され、次に暫定統治機構のチャンネルへ合わせるとAl-Da'awaの人々がスーツを着込みつやつやと磨かれて、アーサー王の円卓の操り人形騎士のように座しているのを見ることができる。アルジャファリの姿を見ると、彼らはここイラクで、数十年の間テロリズムで有名だったことをほとんど忘れそうになる。彼らは人々に彼らの政治的なメッセージを理解させるためにイラクで爆撃を使用する最初の政治/宗教グループのうちの1つだった。

彼らの最も有名な敗退は1980年に生じた。イラクで最も著名な大学の一つ(Mustansiriya大学)は、様々な国際青年組織による経済学の国際会議を主催していた。タリク・アジズ(この人はそのときイラクの外務大臣だった)は、開会式を訪れていた。突然、70以上もの海外およびイラクの青年組織からの何千人もの学生達のど真ん中で、2個の爆弾が炸裂し、2人の学生が死亡し、数十人を負傷させた。翌日、憤慨した学生のデモが地方の墓地への葬列に続いていた中に、もう2個の爆弾が投げ込まれ、2人の高校生を殺した。その後。Al-Da'awaはこの責任を認めた。

その同じ年、バグダッドで工科大学の学長を暗殺する試みでは、彼らの前に立ちはだかった大学の守衛のうちの1人を殺した。

'70年代、Al-Da'awaのメンバーは、バグダッドのある地域とイラクの南の一定の地域で、safirat、つまりヒジャブhijabを着用していない女性、の顔に「酸」を投げかけた。この猛烈なメッセージに賛成しなかったシーア派聖職者はしばしば暗殺または暴行された。

彼らが現在「再生イラク」の主要な政党のうちの1つであるという事実は、「テロリスト集団」に素晴らしいメッセージを送ります:爆撃とテロ。ここの人々は自分たちがアフガニスタンのようになるのではないかと恐れている。それは、現在CPAがいちゃついている原理主義グループはイラクのタリバンだからだ。

最後に、奇妙で誰も理解できず、社会の最も過激なメンバーでさえ許容し、正当化しない不可思議な攻撃がある。そのような攻撃の一つに、国連本部に対する攻撃が含まれる。誰も、その責任を宣言していない。またバグダッドのヨルダンの大使館、赤十字、警察署の爆撃もそうだ。多くの人々が、Al-Chalabiおよび彼の党の仕業と信じている。彼の護衛官のうちの何人かは訓練されたテロリストだ...

Al-Chalabiは、イラク解放戦線(Free Iraq Fighters)という民兵ともに4月にやってきた。彼らは、数週間の間、自動車のハイジャック、いくつかの誘拐、暗殺の関与も囁かれる、などを行った後、急に姿を消した。この600人余りのちんぴら達は通訳ということになっていた。非常に限られた情報しかないが、彼らがハンガリー?で訓練されたと言う人がいる。今日、人々は、彼らがバグダッドの至る所における暗殺や爆発の多くに関与している一種の秘密工作員であると考えている。

明日はRamadhanラマダンについてブロッグするわ。伝えたいことが沢山ある。

 
Riverbendと多重人格

(訳者注:ここで取り上げられている偽の「Baghdad Burning」サイトは閉鎖されたようで現在開けない)
いいえ、私は多重人格者ではないわ。皆さんのうちの多くが偽の「Baghdad Burning」サイトriverSbend.blogspot.com (「S」に注目)の存在を指摘してくれた。これは自分のサイトと平行して私によって作成されたものではない。私は、その存在を以前から知ってはいた。(友人が9月後半に指摘してくれた。) 明らかに、誰かが私のサイトに非常に腹を立てて、同名の「Baghdad burning」サイトをあたかも私が書いたようにしたようね。内容は、私が書くもののほとんど正反対。そして、ほとんどの掲示は異なる出所(ほとんどがアメリカの政府筋)からコピーされ貼り付けられている。

私が最初にそれに気づいた時、確か、一回目の掲示が9月11日だったと思う。それは、アメリカ軍の兵士とイラクの女性が恋に落ちるというものなどなど。確かに誰かが指摘したとおり、偽のBBサイトが9月に始まった一方私のサイトは8月に始まっている。だから――、そのペテン師は彼の掲示の日付をさかのぼらせているけど落ち度があったのよ。愚かな履歴が7月にさかのぼっているのを示しているわ。ブロッグを使っている誰でも、こんな簡単なこと知っているわ。

私はそのサイトのこと、そして、どのように私であるふりをしているかをブロッグの管理者に訴えた。それに対し、公式の申し立てをしたいならば、誰かが私のサイトの内容を盗んでいるという苦情の手紙を(郵便で)送らなければならないと言う。私のIDの他にそのペテン師が盗んだただ一つのものは私が本文の最初に掲示している一節だ。 そう、これは私の一節だ。それは私が友達のために書いた詩の一節。いつか、私は詩の全文を掲示しよう。

ブライアンというすばらしい人がこのペテン師を注意深く追跡してくれた。詳細はこのサイトをチェックして。http://suzerainty.blogspot.com 別のブロッガーも、この犯罪者について多くの情報を持っているわ。チェックしてみてね: http://www.gorenfeld.net/john/blog.htmlふたりに感謝してるわ。

私が間違っていることを証明するためにこんなに努力している人の存在を得意にさえ感じるわ。ただ、もう少しいい方法でやってくれればね。だって偽サイトの運営者は・・・なんとリタイアした人なんだから、世界中に私を酷く見せるのに有り余る時間があるんだから、もう少しの配慮を私が要求したって妥当よね。それに、多くの単語をミススペルし、あたかもイラク人が書いたかのように文法をめちゃくちゃにするそのやり口が好きになれないな。あるいは、これが本当にこの人の語学力なのかもね。

私のお気に入りは、おそらく7月6日に書かれた最初のやつ:

ブロッグのお時間よ!

とうとう私のバグダッドへ戻ったわ。川沿いの夜の散歩行はほんとにリフレッシュする。私たちは、5か月のよりよい部分のErbulの近くの親類と一緒に住んでいたの。アルジャジーラは戦争に関して情報させ続けたの。私は息を飲み、燃えているバグダッドを信じない思いで固唾を飲んだわ。」

本物のリバーベンドのコメント:へえー?Erbul?それはどこ? キルクークとErbilの間のどこか?!ふざけないで。この他に気に入っているのはこのいとしい「少女」がバグダッド空港 (誰もそれに近づくことは許されていない。) へ行った、というやつ。:見逃さないようにね。彼が書き替えるかもしれないから。政府のサイトから直接コピーしただけの無味乾燥なやつとトロイが感傷的になって書く「川沿いの散歩がいかにリフレッシュであるか。」ってやつとどちらがより醜悪か私には決められないわ。

偽のriverSbendサイトの作家はリタイアした退役軍人でトロイという名、そしてGOPのチーム・リーダー(?):

El Solerito Troy
芸術家、HAM、朝鮮戦争従軍、米国空軍退役、MOPH L38342 Unit 1849、ファイ・シータ・カッパ会員、RNC 146441197-D186GOPのチーム・リーダー、NRA 040959746

私たちの友達トロイがブロッグを書く際、考慮に入れなかったことは次のこと:たとえ記入履歴をさかのぼらせても、開始した月のアーカイブには偽造された記入履歴を含められないということ。偽のriverSbend blogの 9月のアーカイブ をクリックしてみて。左側のアーカイブ欄は9月までしかさかのぼれてない―そう、それがもともとこのブロッグが始められた月!!

最後に、ありがとう、いとしのトロイ−偽のriverSbend−Baghdad Burningを模倣しようとしてくれて―うぬぼれてしまいそう。しかし1. あなたは「Erbul」出身の24歳のどうしょうもない女性を作りあげた。2. サイトから記事を引用したりコピーしたりする場合、元の記事の日付より「あなた」の掲示の日付が前にならないように気をつけてね。3. 趣味を持ちなさい−猫を飼ったり、庭いじりやあるいはチェス、ゴルフはどう?とにかく自分の人生を生きるのね。

トロイになにか書いて送ってあげて。返事を書く時間がたっぷりあることは確かだから。いくつかの電子メールアドレスがあるようだけど、これはそのうちの1つ:buleria@enesaca.net
ブライアンのサイト suzerainty.blogspot.com にはその他のアドレスも掲示してある。

(翻訳 山口陽子)

2003年10月27日 (月) 


赤十字爆撃
酷いニュース。今朝、赤十字の前で爆発があった…ほんとうに恐ろしい。爆発したのは救急車だったと言う人がいる一方、現場を目撃した人は故障のために急に止まった車の後に救急車が停車した瞬間爆発したと言う。ナダ・ドマーニ(イラクの赤十字の長官)は、この時点でスタッフをさらに縮小しなければならないかもしれないと言った…その他にも昨夜から今朝にかけてバグダッドの至る所で一連の爆発が続いている…攻撃のすべてはまだ確認されていない。わかり次第記入する…

(翻訳 山口陽子)

2003年10月25日 (土) 


マドリッド会議

マドリッド会議が終わった。とはいえ、どれくらいの人が開かれていたこと自体を知っていただろう。そんなことより、私たちには直面する多くの問題があってそれどころではない。私自身、ラマダンRamadhanに備えて食品貯蔵庫の掃除にこの4日をあてていた。その合間を縫って、会議で起こっていることを一瞥するために居間との間を何度も往復した。

大きな歯のAznarと大げさな髪形のPalacio が常に映っていた(この二人の特徴か?)。特に際だっていたのは、会議の豪華さだ。いったい、いくらかかったのか・・・それだけあれば、どれだけの学校を再建し、どれだけの病院に薬品を供給することができたか・・・いやいやそんなものは復興ではない。病院と学校はぜいたくだ。暫定統治機構CPAやGoverning Council  や大臣にとって何が重要かって、彼らが家と呼ぶ宮殿およびホテルに快適に落ち着くことに決まってるじゃない。

会議で最も恥ずかしかったことといったらMuwafaq Al-Ruba’iが国際復興資金のためにたいへん卑屈な態度をとっている姿だ。彼は鞭を打ちならしたり、猫なで声をだしたり、スピーチの中に「イラクの人々」というフレーズを何度も引きずりだし―あたかもイラクの人々が現実に何十億という資金を手にし、復興のために使えるかのように言っている。

330億ドルもの資金を拠出してもらうにも係わらず、恩知らずに聞こえるかもしれないが、アメリカ、IMFおよび世界銀行に対し財政的に負債を負うということは、悪魔に魂を売るような思いがする。これはまるで負債に負債を重ねるようなもの。すべての資金がイラクへ無償供与されるべきだといっているわけではなく、石油収入がイラクの復興の本質的な部分をカバーするべきであると思っている。さらに、拠出した国々が返済を将来のある時点で求める権利があると思う。私は、あの50億ドルにはもっとよい使い道が日本国内にあるだろうと確信している。唯一の希望は、資金が国連の監督下に置かれるということ。

クリスチャン・エイド(http://www.christianaid.org.uk/indepth/310iraqoil/iraqoil.pdf)は何十億ドルの行方について興味深い報告を行っている。明らかに、40億ドルが煙となり、Bremer社はほんの10億ドルだけしか会計報告することができなという。その報告書は、CPAがどのようにお金を使ったか、また、委員会がどのように対処したか説明している。この報告書によるとCPAに対し何十億もがどのように支出されたかについての会計報告を求めている。でも、誰が一体、途方もない、つまり40億ドルもの行方を追うことができるだろう。きっとAhmad Al-Chalabi はそんなに多くのゼロは、管理しきれないと弁明するにきまってる。

とにかく40億ドルに一体どれほどの価値があるのか。まず、私たちの政府委員によって着用されているかっこいいスーツ―私は、まだAl-Chalabitが、同じスーツを2度着ているところを見たことがない。それにロレックスの時計に革靴。(カナリア色のネクタイが、いま大臣や会議メンバーの間ではちょっとした流行のようよ。)

大臣が新しく就任するごとに月給40, 000ドルが支払われるという噂がある。40,000ドルあれば、バグダッドの一等地に大きな家を建てることができる。40,000ドルで、設備も揃った学校を建設することができ、病院の収納室を一杯にすることもできる。また40 Kドルで、ひと月まるまる80組のイラク人の家族を「豪華に」養うことができる。(あるいは、400台のソニー・プレーステを買うことだってできると、私の幼いいとこが計算した。)

つぎに、Governing Councilの特別経費に充てられる。もちろん食事および住居を含めて。ほとんどの委員の家と家族は外国なので、バグダッド・ホテルやアッラシードおよびパレスチナ・ホテルのようなホテルに住んでいる。数名は宮殿に滞在し、ある大臣は省に出向くことさえ拒絶し、自分のホテルにスタッフを呼びつけると言う。その省のスタッフはその大臣のことをil shabah つまり、幽霊だと思っている。だって、副大臣以外誰も実際に彼に会っていないんですもの。

さらに暫定政府が世界中を飛び回るため、ほんのささいな費用が嵩む。傀儡政権の首が入れ替わるごとに行われる最初の仕事は国を去ること。ほとんどの主だった決定(国を売り払うことのような)は外国のマスメディアを通って、しかもアラビア語に同時通訳されたナレーターの声を通じて知らされるってことは、イラクの人々にとって皮肉なこと。彼らが握手し、足にキスするのを見るたびに、私たちの直面する問題は国外での外交であって、国内の混乱の解決ではないと気づかされる。

そして、暫定政府を生かしておくために必要な食品および飲料費がかかる。以前はランチに5,000ドルがかかった。(インターナショナル・ヘラルド・トリビューンによると削減されたという。) 今、25人で5, 000ドルのランチはニューヨークやパリでは珍しいものではないでしょう。しかし、一人、200ドルの食事はバグダッドでは信じがたい金額だ。戦争前、イラクで最良の食事は、1人当たり30ドル以上を要しなかった。(また、そのような食事ができる余裕のある人はわずかに1握りだった。) 今でさえ、少し危険は伴うとはいえ、レストランでの食事はきわめて安い。

おじの友人(この人は、CPAおよびGoverning Councilが行う購入の内密を知っている)は、水に何百万もが毎月費やされていると言う。イラク会議および暫定政府は私たちが飲む水が、彼らののどを潤すにはふさわしくないと思っていることは明らか。私は、水の質に関する心配を理解することができるが、軍隊さえ通りにいる売り子から飲み食いしている。

こんな状態なので、イラクにいる人々がマドリッド会議に関して耳にしても「あっそう、私たちの暮らしには何の関係もないわ。」となるのも当然。人々は、「石油で食物」計画が来月終了するということの方を非常に心配している。平均的なイラク人の台所を支える備蓄「husseh」が1月までしかもたないと言う人もいる。備蓄なしでは人々は、文字通り飢える。既に、定量は減り始め、その質もひどい。

私は「身代金基金」についての論文を書き、マドリッドへ送りたいと思った。それは誘拐された家族を支援する基金の提案。誘拐は増加し25万ドルもの身代金を要求される場合もある。一般的には25,000ドルですが、裕福なキリスト教徒の家族は、特に狙われやすく、25万ドルは珍しくない。ある人は、彼の資産がすべて様々なプロジェクトに投資されていたので、息子の身代金を払うために家や自動車を売らなければならなかった。

これらの誘拐の黒幕は誰なのか・・・いわゆる犯罪者?とういうこともある…、でも多くがAl-Sadrのならず者かSCIRIの暴力団の仕業。SCIRIは、これらの誘拐によって「Badrの旅団」と呼ばれるSCIRI民兵の資金を得ていると言われている。最近、CPAは民兵について文句を言っている。しかし、彼らは何を期待していただろう。そもそも民兵に権限を与えたことが間違いだ!いくら彼らが約束したとしても、武装した極端論者(extremist)に、不満がくすぶっている地域の「安全」を任せたとき問題が起こらないわけがなく、混乱を招くだけじゃない!

Al-Sadrは南部およびバグダッドを震撼させている。彼は恐ろしく、彼の影響力を過小評価してはならない。彼にはゆうに100万人以上の追随者がいて(400万であると言う人もいる)、非常に彼を崇敬している。それは、彼自身の人気ではなく、彼が1999年に暗殺された有名なShi'aシーア派の聖職者の息子だから。大多数の中流以上のイラク人が非宗教的な政府を望んでいる一方、Al-Sadrは、南部の貧困な現在失業中の人やバグダッドのスラム街の人々に共感されているよう思える。

現在、CPAは、Al-Sadrが4月にあったAl-Kho'i暗殺の首謀者であると信じていて、2ヶ月前のAl-Hakimの死も彼が拘わっているのではないかと疑っている人もいる。彼を拘留すれば、彼の信者が暴動を起こし、ただではすまない。過去数か月から判断すると、CPAは、彼と密約を結ぶだろう。

riverbendによって掲示 21時45分

(翻訳 山口陽子)

2003年10月21日 (火)

 

バグダッドでのデモ
何千人もが石油省の近くで今日デモを行った。(他の場所だったという噂もあるが。)女性さえもデモに参加したという。それは、ある女性が自分のバッグを連合軍がチェックするのを拒んだことにより拘留されたから。兵は威嚇射撃を行い、兵と群衆の間で衝突が突如として始まった。これからどうなっていくのかまだ、分からない。

文明

デモのニュースが入ってきた。すべての出来事は非道で人々は興奮がさめない。占領後、石油省のスタッフ達は身辺チェックをされ、最近では犬も使われる。スタッフはもう、うんざり。省の建物自体は、コンクリートと有刺鉄線と兵に固められ、仮想の要塞のようだ。スタッフは入館までに何時間も待たされる。イラク人はすっかりセキュリティ・チェックに慣れっこになったが、女性にはとても苦痛だ。それは、バッグの中を兵士に引っかき回され、時には人々が見ている前で私物を引っ張り出されたりするから。

今日、省で働くAmalという女性が、兵士の犬がバッグのにおいをかぐことに対して抗議した。彼女はコーランを入れていたからだ。コーランを扱うときイスラム教徒は身を清める。このWidhuという行為は、祈りやコーランを読む前に、きれいな水で顔から首、腕や脚を清め、お祈りの言葉を口にすることだ。イスラム教徒は神の加護のため、小さなコーランを持ち歩くことがある。戦争が始まってから安心感を得るために、益々そうすることが増えた。コーランを持ち歩いているからといって、その人が原理主義者やExtremistであることなんて意味しない。

アマルが抗議すると、兵士はコーランをつかみバッグから投げ出し、バッグをチェックし始めた。彼女はぞっとし、また、チェックされるのを待っていた十数人のスタッフはコーランが地面に投げ出されたことに対する怒りでにじり寄った。アマルは手錠をかけられ連れ去られ、また、激怒した群衆は、ライフル銃の台座に迎えられた。

介在するために到着したイラク警察は、セキュリティ・チェックからデモンストレーションへ変わったので群衆が増加したことを知った。ある番組は、警官達が「こんな、バッチなどいらない!私たちのコーランが地に投げ出されるのを見るためではなく人々を助けるために署名したのだ!」と彼らの「IP」バッジ(イラクの警察であること示す黒い腕章)を破り捨て、叫ぶ姿を放映した。

何人かのジャーナリストは、彼らのカメラが連合軍によって没収されたと言った。

なんてひどい。聞いただけではらわたが煮えくりかえったのに、それを目撃した人々がどう感じたかは想像を絶する。コーランに触れるな!他の人が神聖だと思っている事を理解することがそんなに難しい?! 

どのように兵士は感じるだろう、もしイラク人が聖書またはTorahs(ユダヤ教の教書)を振り回したり十字架を燃やしたりしたら。人の信仰を汚すことに対し、きっとぞっとし腹を立てるだろう。

この違いは:大多数のイラク人は、他の文化および宗教に対する深い尊敬を持っている。これが文明だ。携帯電話、コンピューター、超高層建築やマクドナルドなんかではない;文明とは人々に尊厳を与える信仰の自由と文化を許容することだ。 

riverbendによって掲示 15時05分

(翻訳 山口陽子)

2003年10月18日 (土)


新しいリンク
右側のリンクを更新し、ダニー・シェクターがサイトの編集責任者をしているMediaChannel.orgを追加した。このサイトは特に、戦争および占領に関するすばらしいメディア問題に取り組んでいる。

別のサイトはフアン・コールの「事情通のコメント」。作家でもあり翻訳者でもあるフアン・コールはミシガン大学の歴史の教授。イラクに関するいくつかのすばらしいコメントをしている。彼は、スタイルと客観性を備え、地域の政治的、社会および宗教問題を取り上げている。彼の最新の書き込みは、連合軍と、南のシーア派の信者の間の戦いについて。事態は、カルバラとナジャフで深刻で―あらゆる人々が心配している。

夕刻のお茶とトルコ軍

ほとんどのイラクの家族は、「夕刻のお茶」に集まる。それは呼び名どおりのフォーマルなものではない…その日がどんなに忙しくても、みんなお茶を待って、居間に集う。

イラクのお茶はティーカップとティーバッグの単純なものではない。イラク人に「ティーバッグ茶」を出せば、軽蔑と物笑いの種になる危険がある。ティーバッグはお茶の玄人に対する侮辱だ。そして価値ある飲料への感謝の念が完全に欠けていることを意味する。

お茶を入れる正確な過程は、家庭により異なるが、一般に、3段階プロセスがある。最初に、水をいれたやかんを、コンロの上に置き沸騰させる。次に、熱湯と一定の量の茶葉をティーポットの中に入れ、ちょうど茶葉が上昇し沸騰して吹きこぼれる直前まで、弱火にかける。最後に、ティーポットは弱火にかけた茶やかんの上に置かれ、yihderつまり茶葉を沈殿させる。

市場には何百もの異なる種類のお茶が売られていて、最良はセイロン製だ。茶はイラクにおいて非常に重要なので、経済制裁が課されて以来、備蓄食糧の多くを占めている。朝食にお茶を飲み、正午にお茶を飲み、夕刻のお茶を飲み、そしてしばしば夕食とともにお茶を飲む。

イラクのお茶は特別で、カルダモンで風味をつけて、「istikans」に供される。Istikansとは、上が開き、底が平らにっなった数字の「8」のような形の小さなグラスだ。薄いガラスで作られていて、小さなガラスの受け皿か複雑な模様の描かれた磁器の受け皿に置く。お茶の色はちょうど良くなければならない。澄んでいて、でも濃く、できれば深い赤茶色。

夕方、小さなコーヒーテーブルのまわりに集い、経済封鎖、戦争戦略、爆撃や政治の話をしながら、私たちはお茶のトレーと簡単なお茶請け-ビスケットやパンとチーズと共に座る。私たちのうちの一人が茶を注ぎ― 父と私にはスプーン2杯、Eには3杯、母のためには1杯の砂糖を加える。

会話が公式に始まる前、ガラスのティーカップのistikanとスチールのスプーンが奏でる穏やかでかすかな音楽を聞くことができる。世界中の典型的な家族の会話「あなたの一日はどうだった?」は、イラクでは典型的な答えを得ない。誰が尋ねられているかによって答えは、空のガス・ボンベや焼き切れた送水ポンプから誘拐とハイジャックやデモまで、返事は様々だ。

昨今の話題は「トルコの軍隊」だ。朝食でトルコ軍について話し、昼食の準備をしながら話し、家々を隔てる垣根越しに隣人と話す。Eによると、ガソリン・スタンドや店先、街角でも同じだと言う。

この話題は、トルコの軍隊そのものではない。どちらかというと操り人形の能力あるいは無能力、イラクへトルコの軍隊を導入することは悪い考えだということをCPAに確信させるにはどうすべきか、などなどと循環する。最近、異なる民族のイラク人はすべて異なる意見を持っている。しかし、このことはすべての人が同意するだろうことの1つだ。つまり、トルコ軍は状況を単に悪化させるだけだろう。

トルコ軍がここにいることについて反対する理由は様々だ。まず、クルド人とトルコ人の間の遺恨;トルコの領域にいる間、何千ものクルド人が絶え間ない迫害に直面した。それらのうちの多数はイラクに追い返された。戦争の始めからずっと、イラク北部ではクルド人の民兵とトルコ軍の間に衝突が続いている。

次に、誰でもトルコがある地域に興味を持っていることを知っている。すなわちキルクークとモスルだ。トルコは、4月の戦争の「終了」以来、軍隊を送ることを過度に熱望した。

3に、トルコ人が主にスンニ派で、攻撃的なスンニ派の軍隊の存在は大多数のシーア派にとって目障りで、シーア派は、トルコ軍駐留を許可しないことに関して強固だ。

イラクにおけるキリスト教社会の1つの党派である、アルメニア系イラク人はイラクにトルコ軍が存在していることに対して断固として反対している。彼らは、トルコによる占領、流血、処刑およびイラクに難民として追われた話をしている。アルメニア系イラク人には、イラク国内にトルコ軍がいると考えただけで恐怖だ。

そして、歴史的さまざまな理由がある。およそ400年の間、イラクはオスマン朝によって治められていた…イラクのトルコ帝国による支配は1918年、英国の占領開始により終わりを遂げる。第一次世界大戦中に、何十万ものイラク人がオスマン朝のために戦い死ぬことを強いられたことを忘れていない。

また、イラクとトルコの間にまつわるささいだが多くの問題がある。イラク人は、まだFurat(ユーフラテス川)の悪名高きアタテュルク・ダムを忘れていない。(世界で4番目に大きなダム)私たちは、ユーフラテス川が年々自分たちの目の前で消滅し、多くの場所で小川のようになるっていく様をだまって見ていなければならなかった。大部分が砂漠で構成される国で、多くの人が生を依存している川の流れが衰退していくことは残虐行為だ。

そもそもここの人々は、なぜトルコ軍が来ることに対しこれほど多くの反論があるか理解していません。むしろ、何か良いことでもあるというのかしら。アメリカは、この地域に「イスラム教徒の軍隊」を導入することがどれくらい重要か強調する。しかし、一体どんな違いがあるというのか。もしトルコ軍が占領軍の監督下で活動する場合、それらは占有軍だ。宗教は事態を一向に改善などしない。

例えばアメリカが、そうね北朝鮮、に侵略され占領されたと想像して。(注: 私は、米国および北朝鮮の間の文化的差および敵対心から単に「北朝鮮」を例にあげただけ… 私はChalabiと異なり、WMDなどについての情報に特別なニュースソースを持たないわ。) 想像してみて、朝鮮軍が家屋に侵入して人々を拘留し、戦車と銃で通りを満たしていることを。その後、北朝鮮が「支援」を必要としそれを受けいれたとする。例えば、メキシコ。でも、なぜメキシコ?との答えは「大多数のアメリカ人がキリスト教徒だろ、そしてメキシコ人の大多数がキリスト教だ。君たちはとてもうまくいくはずだ」ってね。

操り人形たちも、トルコ軍の存在には断固として反対だ。しかしアメリカはイスラム教の軍隊が一国でも参加することに固執している。私たちは隅の方から行方を伺っている。暫定統治機構CPAがどれだけこの操り人形達に本当に敬意はらっているのか見極めるには、ちょうど良い試金石だ。

(翻訳 山口陽子)

2003年10月14日 (火)


「影の政府」 'Shadow Government'

なぜ、このことをメディアは記事にしないのか。影の政府がサポートを得た?!私は、アルジャジーラとアラブのメディアでしか、このことを見聞きしない。これは、非常に重要なこと、だってMoqtada Al-Sadrがシーア派原理主義者から絶大な支持を得ているから。

Moqtada Al-Sadrは現在南部の最も強力なシーア派聖職者のうちの一人だ。彼には大きな後ろ盾があり、彼の信者は彼が権力の構図の中に組み込まれなかったことに非常に腹を立てている。過去数か月の間、彼は、「イマーム・マフディー軍隊」として知られる武装した民兵を組織していた。大多数のこの民兵は若く、非常に腹を立てている。私は、彼らが「Badrの旅団」つまりSCIRIの武装した民兵に対する一種の解毒剤であると思っている。ナジャフNajafで起きている奇妙な出来事を耳にするが、ある情報によると、Al-Sadrの信者が彼を支援していない有力なシーア派の首長を誘拐しているという。1つはっきりしていることがある―2、3日前に、ナジャフNajafのスペイン軍は、Al-Sadrを拘留し、かつ彼の民兵(多数が彼の家を警護していた)を武装解除しようとしたが、何百もの支持者達が集まり軍隊を押し返し、もしAl-Sadrをが拘留されれば、事態は非常に深刻なものになると脅した。そのため、スペイン軍はそのエリアから立ち去らなければならなかった。

最近、Al-Sadrは「hikoomet dhill」つまり、ブレマーによって選択されたバグダッドの政府と対立する「影の政府」を公表した。この影の政府は13の省で構成される(情報省も含む)…

Al-Sadrは次のように発表した:「…私は、司法、財政、情報、内務、外務、基金(endowments)、道徳(美徳促進・悪徳予防)を含む省で構成された政府を組織した。」

万が一この新しい「影の政府」がGoverning Council統治評議会と異なる命令あるいは法律を執行した場合どうなるのか。Al-Sadrの言葉が法律だとAl-Sadrの支持者の何十万もの人々が(何百万とも言われる)決めたら何が起こるだろうか。

(翻訳 山口陽子)


2003年10月13日 (月)


バグダッド・ホテル・・・

 きょう、バグダード・ホテルがAl-Sa'adun通りの側から爆撃された。ここは、バグダードの目抜き通りで、古い町並みのひとつだ。通りには、薬局、眼鏡屋、写真屋、格式あるホテル、医院、研究所、レストランなどが並んでいる。

 バグダード・ホテルは、CIAと統治評議会の有力メンバーの’ホーム’(宿泊所のことだが)として知られている。まだ誰もはっきりと犠牲者の数はつかんでいないが__死者15、負傷者40程度という人もあれば、死者8、負傷者40という報告もある。

 バグダードでは、ほかにも爆撃があった__Salhiyaで一カ所、Karrada(2階建ての橋の近くで)で一カ所。

riverによって掲示 午前1時47分

椰子と罰・・・

 みんな、Dhuluayaで伐採されようとしている椰子の木のことが気になっている。Dhuluayaは、イラク北部サマラの近く、デーツ椰子、柑橘類、ぶどうの産地で人気のエリアである。この辺りの住民の大半は、地主で、長年耕してきた果樹園で、生計をたててきた。

 イラクの多くの地域(とくに中部イラク)では、果樹園は文字通り砂漠のオアシスである。何キロもかなたから、熱気と砂ぼこりでゆらめく大気を通して、鮮やかなグリーンの見事なデーツ椰子が真っ青な空へと伸びているのが見える。果樹園を見るだけで、心がやすらぐ。

 イラクには、500種類以上もの椰子がある。適当に緑の葉の束をつけたような太くて短いものから、美しく対象形に葉を並べた細く高いものまでさまざまだ。椰子は、’nakhla’と呼ばれ、見る人はだれも、心を満たされ心を奪われる。椰子は、イラクの農民と地主の誇りであり喜びである。もし庭に椰子がなければ、まさに画竜点晴を欠く。その庭は完全ではない。わたしたちは、家を捜し当てるとき、地区、次に通りの名を確かめ、「えーと、左側の4番目のうちだっけ・・いや5番目だった? 右側だったかも。そうだ、通りで一番高い椰子の木のあるうちだ」というふうにやる。

 椰子は、美しいだけでなく、とても役にたつ。冬の間、イラクに渡ってくる外国の鳥たちにとっては、’避寒リゾート’である。さまざまな種類の鳥たちが葉かげで休んだり、甘いデーツの実をついばんだり、ここまでおいでと小さな男の子たちをからかったりしている。夏には、’雌椰子’がそのまま食べてよし、貯蔵によし、加工によしのおびただしい実をつけてくれる。

 イラクには、300種以上のデーツ椰子がある___それぞれ名があって、舌ざわりもかおりも違う。濃い茶色で柔らかいもの、明るい黄色で歯ごたえのあるものなど。そして、デーツ特有の’風味’がある。デーツ嫌いなんて人はありえない__ある種類が嫌いだとしても、ほかに好きなものがあるはずだから。また、デーツからは、’debiss’という黒っぽいとろりとしたデーツ・シロップが作られる。debissを米と一緒に食べる地方もあるし、バタ付きパンにシロップとして添えられる地方もある。一番多く使われるのは、イラクのお菓子の砂糖分としてである。

 イラクの’khal’つまり酢も、デーツからできる・・・黒っぽい色をしていて鼻につーんとくる。オリーブ油と混ぜて生のきゅうりととまとのサラダにかけると、最高だ。イラクの’areg’、アルコール度がひじょうに高い飲物もデーツで作られる。夏、家々は、デーツの入ったバケツやトレーをやりとりする__ご近所や友人たちに自分のうちのデーツを味見してもらうのだ。まるで、こども自慢の親のように鼻高々で。

 椰子はどこをとってもすべてお金を生み出す。葉は、乾燥させて、見事なベージュ色のバスケット、ほうき、マット、バッグ、帽子、壁掛け・・屋根にだって使われる。葉は、多くの場合、その根元にしっかりした木部があって、美しく繊細だけれど丈夫な家具を作るために使われる。ちょうど、極東の竹の椅子やテーブルのように。上質でないデーツとデーツの種は、牛、羊などの飼料にされる。種から、料理用の’デーツ・オイル’をとる種類もある。伐採されなければならなかった椰子の、木そのものは薪や建築用に使われる。

 わたしの好きなデーツの種の使い方は・・・ビーズ。種はひとつひとつ手で磨かれて、真ん中に穴をあけられ、ネックレス、ベルト、数珠になる。完成品は、繊細とはいえないけれど、優美で、ぜったいふたつと同じかたちはない。

 椰子は、多くの場合、柑橘類と並べて植えられる。これは、単に、見栄えとか土地の有効利用とかいった理由ではない。椰子はほかの木をはるかに越えてそびえたつ。だから、イラクの太陽の強さに耐えられない柑橘類の日よけとなるのだ。種類にもよるが、椰子の木の成長が止まるまでに、5ー10年かかる(いつまでも伸び続けるものもある)。実をつけるようになるまでには、5ー7年かかる。

 椰子の最期は、厳粛に遇される。農民にとっては、すごい痛手で、その喪失は心身にこたえる。どの木もかけがえがなく、家族の一員同然なのだ・・・爆撃開始後数日の戦争の光景を思い出す__そのひとつ、わたしの心に焼きついているのは、縦まっぷたつに引き裂かれた椰子の木。風格ある葉はしおれ、垂れ下がって泥にまみれている。わたしは、死体を見たときと同じ痛みに襲われた。

 歴史的に、椰子は、イラクとイラクの人々にとって、質実で禁欲的な精神の美しさの象徴であった。椰子は、どんなに困難な状況にあろうとも、生命と再生への希望を教えてくれている。果樹園の椰子は、かわることなくしっかりとそびえ立っている___暑さも政治抗争も戦争もしらぬげに__今日まで。

 バグダードで知られた通りのひとつに、’shari3 il matter’、’空港通り’がある。呼び名は一つだが、実際は2本の道からなる。1本は、バグダード空港へ通じ、もう1本は、空港からバグダードへの道である。この道は、平凡でとくに何もない。だが、とても荘厳な美しさがあって、それは道の両わきと2本の道を隔てる中間帯に植えられた椰子のゆえである。空港からバグダードに向かう道筋、両側から椰子の木に包み込まれると、ああ、椰子の木3千万本の国のやってきたと感じるのだ。

 占領後すぐに、街路の多くの椰子の木が、たたき切られた。占領軍が、’治安を理由として’やったのだ。わたしたちは見ていた。恐ろしさで身動きもせず。椰子の木は刻まれ、引きずられて、まとめて大きな穴に積まれた。墓穴のようなそこからは、茶色とあせた緑色がこぼれ出ていた。これらの椰子の木は美しかったけれども、誰かの生計手段だったわけではない。Patrick Cockburnが書いている、Dhuluayaの椰子の木は違う。

 Dhuluayaのいくつかの果樹園は伐採されようとしている・・・ただし、Dhuluayaだけのことではない・・・バグダード郊外のバクバも、ほかの地域でも。椰子の木は、ブルドーザで押し倒され、踏みにじられる。わたしたちは見ていた。住民たちや果樹園の持ち主たちが、この木たちを見のがしてやってくれ、助けてくれと兵士たちに懇願している。地面には、砕けた枝、葉、まだ青い実が散乱し、木々の虐殺を物語る。人々は、枝や葉や青い実を拾い上げ懇願する。農民たちの顔は、目の前の惨事に呆然とうちのめされている。わたしは、しわ深い農民の顔を思い出す。彼は、オレンジ4つを地面から拾い上げ、まだ青いその実をもって(柑橘は冬熟す)、カメラに向かって叫んだ__「自由ってこれか? 民主主義だって?!」 彼の10才くらいの息子は、怒りで目を涙でいっぱいにして、そばに立っていた。涙がほおを伝わるままに、静かに言った。「やつらが伐った木一本ごとに、5人ずつ死んでもらおうじゃないか」。”テロリスト”っていうの? 民主主義と自由の名において、家族の将来をめちゃくちゃにされるのを目のあたりにさせられた、おびえきったこどもを。

 Patrick Cockburnは、Dhuluayaはスンニ派地域だという__それは事実。スンニ派がDhuluayaでは多い。じゃ、Khazraji一族はどうなの? この一族の果樹園も襲撃された。そして、Patrickは言わないけど、Khazrajiは、イラクで有数のシーア派の一族よ。

 Patrickの記事をわざわざ読まない人々のために、第一行目を以下に書く。よくわかると思う。

「米軍兵士は、スピーカーでジャズをガンガンやりながら、ブルドーザを転がして、中央イラクの年代もののデーツ椰子、オレンジやレモンも根こそぎにした。米軍を攻撃するゲリラの情報を提供しない農民たちに対する集団的懲罰という新政策の一環である。」

・・・きのう読んだとき、注意を引いたこんな文も思い出す。

「サダム・フセインが、政敵シーア派の隠れ拠点を消滅させるため、イラク東南部の広大な沼地を干拓し、牧歌的湿地を何ひとつない荒地に変えて以来十数年・・・」

 以前に見たことがあるような? あの果樹園は、この沼地とは違うわ、たぶん・・・サダムは、沼地を干すとき、ジャズを鳴らしてなかったから・・・

(翻訳 池田真理)

2003年10月9日 (木)

宝石と強制家宅捜査・・・

 きのうの昼、最近ロンドンから帰ってきた親戚を訪ねた。彼は、政治亡命者ではなかったし、二重スパイでもなかった・・・波乱万丈とはほど遠い・・・イギリスで暮らそうと決めた、ただの男。彼は、毎年、12月に帰ってくる。いつもは12月なのだが。彼は・・・目にはいってくるものすべてから、衝撃を受け、ショック状態にあった。数分ごとに、話の途中で言いよどむと、信じられないというように立ち上がって、窓のそばへ行く。そして、庭の壁を通してバグダードの街路が見えるかもしれないというように、庭を見るのだった。

 「あっちでテレビで見てるよ・・・でも、”こんな”じゃなかった・・・」 で、わたしには、彼の言いたいことがわかった。さまざまなテレビ局の戦争番組として見るのと、そのただ中に暮らすのは、まったく違うことなのだ。7時のニュースを見て、バグダードの車による爆撃事件を知るのと、通りに立って、走っている車に用心しながら、このうちの1台が突然爆発して、炎の塊と破片となって宙を飛ぶのではなかろうかと思っているのは、まったく違う。検問所をアルジャジーラ、CNN,BBCなどで見るのと、おもむろに検問所に近づき、スピードを落として車を止め、向こう側にいる兵士に目をつけられませんようにと・・・あるいは、彼の銃がたまたま暴発するなんてことがありませんようにと、祈るのとは、まったく違う。

 その親戚の男は、イラクの新’エリート’の何人かの面白いゴシップを知っていた。「あ、”彼”ね、ロンドンのクラブを共同経営してたよ・・・政治やってるなんて知らなかったなあ」。 さらに「ああ、あいつ!! 彼のうちは、クラブ”だった”んだ__連日すごいパーティだったよ」。 いったいどうして10月に繰り上げて来たんだ、もう1、2カ月待ったほうが治安もよかっただろうにと言ったら、手をふって否定した。「9人の大統領がいる評議会のことを聞いたから・・・ぼくが大統領に立候補するかもしれないよ」

 わたしたちは、短い団らんののち、叔母とその娘を家に連れてきた。Eは、暗くならないうちに、家にたどりつこうと、猛スピードだった。さいわい、親戚のうちはそんなに遠くなく、遠くの椰子の木立ちに日が落ちかけたときには、近所まで来ていた。だから、うちの通りへ続く本通りに入ったとき、短い旅の緊張はいくぶん緩んだのだった。つぎの瞬間、わたしたちは、全員、また緊張し身構えた。  通りの片側に、前後に装甲車を従えて巨大なカーキ色の戦車が止まっていた。叔母は、うめいてハンドバッグをしっかり掴んだ。「検問? 何調べてるのかしら? やられるかしら?」。叔母は、金の宝石類をすべて黒皮のバッグに入れて持ち歩いている。中をかき回して何やら探しているのを見るといつも、わたしは底しれぬそのバッグに叔母がいまにも呑み込まれてしまうという気がするのだった。

 イラク人は、ものすごく裕福だから、あるいは最近略奪騒ぎをやったおかげで、金(ゴールド)を持っているのではない・・・金は、わたしたちの文化に埋め込まれていて、’家族の蓄え’としてのその役割は1990年イラク・ディーナールがむちゃくちゃに不安定になりはじめて以来、重みを増しつづけている。人々は、通貨を金に換え始めた__イヤリング、ブレスレット、ネックレス__金の価値は変わらないからだ。戦争前に、銀行から金(カネ)を引き出し、それで金(ゴールド)を買った。イラクの女性は、金を”zeeneh ou 7*azeeneh(khazeeneh)”つまり”飾りと蓄え”と呼んでいる。金はみせびらかしたり、身につけたりできるし、経済的に困ったときには、数個売れば、一家が苦境を乗り切ることができる。

 多くの兵士は、”あの程度”の人々が金をもってるなんて信じられなかったから(たぶんどっかからどうにかしてきたものだろうと)、家々から金を失敬してきたんだと、公言している・・・彼らに教えてやりたい。イラク人が結婚するとき__宗教にかかわらず__多くの場合、男性は女性に’mahar’つまり金の宝石類から成る結納を与えるということだ。こどもが生まれたら、贈り物は、たいてい金の小さな装身具だ。親はそれを売ってもいいし、大事にもっていてもいい・・・経済封鎖までは、さかんに行われていた習慣だ。

 「家を捜索されてるかもしれない・・・」Eが言った。家までの残された距離を、わたしたちはおし黙って乗っていった。それぞれ自分のきがかりにとらわれて。わたしは、パソコンが心配だった。やつらが’情報’があったといって捜索した地域では、たいていパソコンが押収され、2度と返ってこなかった。わたしは、いろいろな文句を頭の中で練習してみた。「お金も金も銃もあげるわ、パソコンはおいてって・・・」。

 家では、母が不安げに台所を片づけていた。本通りに’駐車’していた戦車のことを言うと、「知ってるわ」と、カウンターのしつこいシミをこすり落としながら言った。「1時間くらい前からいるの・・・今晩この辺がやられるかもしれない」。叔母は、家宅捜査、軍、略奪を弾劾してとうとうとまくしたてた後、

急に静かになり、今夜は金を隠さないことにした、叔母の娘とわたしは金を身につけているように と言った。わたしはぽかんと口を開けて立っていた__身につけてたって、盗れるものは盗ってくわ、どうかしたんじゃないの? いえ、叔母は本気だった。ネックレスをして、アンダーシャツの下にたくしこむの、ほかのものはポケットにいれるのよ。それに、’abaya’があるわ__捜索が始まったら、’abaya’をかぶって、そっと家を出て、終わるのを待つのよ。

 母は、すでに、さほど高価と見えない貴金属を、いくつかのちょっとわからない場所に隠していた。5月のあいだ中、つまり家宅捜査が始まり、捜査で金やドルなど貴重品が’押収’されるという話が流れ始めてから、その”ゲーム”も始まったのだった。

 みんなお金や宝石類を隠すための、誰も思いつかないような隠し場所を考え始めた。近所や親戚の間では、これぞという隠し場所やすぐ見つかってしまった場所について、情報が交換された・・・銃については、すこしばかりむつかしかった。ギャングや武装民兵から身を守るには、なくては困る。ピストル、銃各一丁の携帯は許されていた。フルに武装した兵士たちが踏み込んできて、銃を突きつけ全員恐怖に凍りついた中で、決められた以上のライフルや銃が見つかったとする。すると、それは、’テロ行為’とみなされ、一家はその夜、ニュースで、わが家がテロリストの巣であったことを知るのである(!)。

 わたしたちは、いつもの夜の雑事を続けた__そう、おおむねは。叔母は入浴したかったが、風呂場にいるとき、突然捜索が始まるかもしれないと心配だった。結局入浴することにしたのだが、Eが、屋根に立ってぬかりなく見張り、この通りに戦車か装甲車が入ってきたらすぐ知らせ、その間に叔母が服を着るということになった。いとことわたしは、Eについて屋上に立った。”来た! 来た!”と叫んで駆けおりて、浴室のドアをドンドン叩いたら、おもしろいだろうねと言い合いながら。数分後、そんなことできるほど若くはないってことに落ちついた。

 夕ご飯の間に、停電した。あんまり甘くないスイカ、塩からいチーズ、khubz、きゅうりとヨーグルトのサラダ、とまとなど食べている間に。ろうそくがつくまでの間、真っ暗な中で、わたしは、うっかりきゅうりとヨーグルトのサラダの中に指を突っ込んでしまった(うーん、ほんというと、指を何本か)。明かりがついたら、ティッシュをさがそうと思って、手を宙にもたげていた。Eが灯油ランプを持ってきた。目が明かりになれると、いとこの隣にティッシュの箱があった。わたしがそれを指さし、彼女が数枚とって差しだしたとき、わたしたち二人のこのシーン・・・ふいに、笑いと泣きたい気持ちが同時にこみ上げてきた。

 夜10時、わたしたち、こんなふう___停電で、きちんと服を着て。誰もパジャマで捕まりたくはないでしょ。わたしがパジャマを着なくなってから・・・そう、6カ月になる。けれど今夜は、いとことわたしはとっても奇妙。いとこがティッシュをわたそうと伸ばした手、その指がピカっと光った・・・親指の金の指輪が、灯油ランプの光を受けて光っていた。あたまのてっぺんにまとめられた髪は、いまにもほどけそうで、からだを動かすたび色あせたTシャツの上でネックレスが光っていた。Tシャツには、紫の字で”こっち向いて、笑って”。

 わたしだって、どうこう言えるかっこうじゃない__カーゴ・パンツに古びたシャツ、タイルの床にすあしで、ネックレス3つ、指輪2つ、ブレスレットがシャツの上でからまりあったり、髪にからみついたりしている。「わたしたちって、奥様の宝石でおめかしごっこしてる女中みたい」とわたしが言うと、Eは、「どっちかっていうと奥様の宝石を持ち逃げしようとしている浮浪者みたいだ」と言った。当の’奥様’は、「笑いたければ笑うといいわ」とぴしゃりと言った。「だけど1965年からこっち、蓄えは、この宝石だけよ、まじめにやらなきゃ泣きをみるわよ」。

 わたしたちは早々と寝に行った・・・誰も眠れなかったけれど。Eは、車や戦車の監視を続けていた。わたしは、じっと闇に耳をすませ、宝石を巻き付けたまま眠ろうとした。エリザベス・テーラーやマリリン・モンローがダイヤやエメラルドをつけたまま眠っている写真が次々頭の中を駆けめぐった。午前3時、わたしはエリザベス・テーラーじゃないわと思って、指輪とブレスレットをはずして枕カバーに押し込んだ。

 やっと朝がきた。戦車はこなかった__遠くに銃撃の音がし、爆発らしい音がぼんやり聞こえただけだった。Eは、やつらはもう本通りにいないと言った・・・夜の間に立ち去ったのだ。ほっとして、わたしは宝石を返した。しかし、いとこは、つけたままだった。鏡で’金持ちみたいな自分’に出くわしても、びっくりしなくなったわと言って。

riverによって掲示 午後9時7分

 バグダードのジャスティン・アレクザンダー(Justin Alexander)のブログをチェックしてみて。ジャスティンは、ジュービリー・イラク(Jubilee Iraq)というNPOで働いている。この団体は、イラクの対外債務帳消を目的としている。わたしの好きな掲示は、”きみは計画省大臣を見たか?”(10月6日月曜日)。

riverによって掲示 午後0時4分  

(翻訳 池田真理)

2003年10月5日(土)

 

新学期最初の日

今日は新学期最初の日だった。実際には10月1日がそうだったのだが、水曜日に学校に行こうなどいう学生はほとんどいなかった。大学の学生たちは来週まで授業を始めないことに決めたのだ。

 

昨日、私は従兄の二人の娘たち(かわいらしい10歳と、うるさい7歳)の学用品を買うために、従兄とその妻、弟のEとともに店に行った。例年、従兄の妻のSは娘たちを連れて鉛筆やノートやバックパックを買いに行く。しかし、戦争が始まって以来、彼女は親戚を訪れるとき以外には娘たちが家の外に出ることを許していない。

 

私たちは車に乗り込んでバグダッド中心にある商店街に向かった。イラクにはショッピングモールも巨大なショッピングセンターもない。商店街のあちこちや住宅地の町角に大小の店があるだけだ。学用品は、「マカティブ」や、おもちゃから学習机までなんでも売っている文房具屋で買える。

 

私たちは小さな文房具屋の前で車を止め、みな車から降りた。大の大人が4人揃ってバービーのノートや苺の香りの消しゴムを買いに来るなんて、ちょっと滑稽な気がした・・・でも、私にはこれは必要なことだとわかっていた。 私とSは買物をするために店に入ったが、Eと従兄は店の外でぶらぶらしていた。

 

私は文房具屋を懐かしく思っていた・・・新学期の最良の部分は、何段にも並べられたいろいろな色の練習帳や、たくさんの缶に分類された鉛筆やペンやマーカーだ。私はいつも新学期が始まるよりずいぶん前に学用品を買いにいっていたものだ。噛み跡のついていない、まだ削っていない長い鉛筆や色とりどりのペンやきれいな消しゴムは、なにかしら将来の成功を約束しているようだった・・・

 

Sは急いでいた。彼女は娘たちを私の家に置いてきたのだ。私の両親がついていたが、彼らが死にそうになるほど下の娘がしゃべりまくるだろうとSは確信していた。Sは鉛筆とクレヨンを選びに行った。私は練習帳を選ぶことにした。上の娘にはスマーフの練習帳とバービーのノートに決めたが、下の娘にはクマのプーさんにするかライオンキングにするか、迷いに迷い、さいごにクマのプーさんを選んだ。

 

消しゴムはみな、大きくて透明な鉢に入っていた。Sはありふれたピンクの消しゴムを選ぼうとした。それは見たところゴムの切れ端のようでタイヤの臭いがした。私は、学用品が不細工だったら子どもたちは学用品を大切にしないと主張し、私に選ばせてほしいといったどっちにしろみな値段は同じなのだ。私は鉢のなかをひっかきまわし、色のついた消しゴムを次から次へと引き出し、私が選んだ練習帳にいちばん合う消しゴムを選ぼうとした。

 

私が消しゴムの匂いを嗅ぎ始めると、店員はいらいらしたそぶりを見せ、Sは、「みんな同じ匂いよ」と言った。いや、みんな同じ匂いがするんじゃないみんな同じがするのだ(こう書いたからといって、頭を振らないでほしい私たちはだれでも一度は消しゴムを味見したことがあるのだ)。最後に私たちは苺の形の消しゴムに決めた。奇妙なことに、それは桃のような香りがした。Sは、私が子どもを混乱させると言ったが、私は彼らが苺を食べたことがないことをSに思い出させた(彼らはイラク北部で育ち、最近バクダードに来たばかりだ)・・・彼女の娘たちは苺と桃の違いを知らないだろう。

 

家では、少女たちがうずうずして待っていた。複雑な思いが交差する今年の夏休みは7月末に始まった。しかし、この夏いっぱい家に閉じ込められていたので、彼女たちにとってこの2ヶ月は「夏休み」とはいえないものだった。一方で、ふたりはもうすぐ家の制約を離れて友達に日常的に会うことになる・・・私だったら喜んで場所を取り替えるだろう。

 

娘たちは私たちを玄関に出迎え、母親が持っている袋に手をのばした。上の娘は、私が選んだものすべてを適切に喜んだ・・・下の娘はそうはいかなかった。彼女はあきらかに「ウィニー ダブドゥーブ」(「クマのプーさん」のアラブ語)を卒業していて、かわりにバービーの練習帳を欲しがった・・・私は「おさげのしっぽにリボンがついた、かわいいお馬さん」に気を向けさせようとした。けれども彼女は、それは7mar benefseji(紫のロバ=イーヨー)だと大声で言い張り、そんなにロバが好きならあなたがこの練習帳をもらえばいいじゃないと言った・・・そういうわけで、これからは、私はブログのためにメモするときに紫のロバとクマが表紙を飾る小さなノートを使うことになるだろう。

 

従兄とSは、子どもたちの登下校をどのようにするか、方策を立てていた。従兄が徒歩で彼女たちを家から2ブロック離れた学校に連れて行き、ぶらぶらと待ちつつ学校が終わる時間や当局がどんな安全対策をとっているか確かめるというものだ。

 

彼らは今朝は8時30分に学校へ向かった。少女たちは、準備万端整った新しい鉛筆とあのまぎらわしい消しゴムを持ち、制服を着ていた・・・従兄は腰にピストルを下げ、娘たちの手をしっかり握りしめて学校に着いた。ちょうど他の親子も学校に着いたところだったふだん学校は8時前に始まるのだが、今日は例外だ。

 

学校には人がいっぱいいた・・・しかし多くの教室はからっぽ同然だった机はなくなっていた・・・いすもなくなっていた・・・しかし、黒板はまだあった。【and they would have to do.】よかったのは、学校の裏の敷地が爆撃された時に粉々になった窓ガラスが交換されていたことだ。教育省と学校がこの状況を解決するまでの間、チョークを持ってくることができる子は週に2本チョークを持ってくることにしようと親たちは決めた。この学校に3人の子どもが通っている建築家が、壁を塗るための白いペンキを安く提供すると申し出た。

 

バグダッドにはUNICEFやUNESCOが修復した学校もあるそうだが、修復には時間がかかるし、被害は広範囲にわたる。爆撃を受けた学校もあれば、略奪を受けた学校もある。また、かなり多くの学校は「政党」から被害を受けている。「政党」がバグダッド中のさまざまな学校に陣営を設営したのだ。カリキュラムが抜本的に変わるということはなく、生徒たちは同じ教科書を使うことになるが、教師たちは歴史や地理でいくつか特定の題材を教えないことを求められている。

 

従兄は教師たちや他の父親たちと話し合った。授業の間座れるように子どもたちに小さな椅子やスツールを持たせるのが最良の選択だという結論に全員が達した。父親たちは昼間学校を当番制で警護することに合意した・・・

 

従兄にとって幸運だったのは、学校が住宅地にあって、大多数の生徒の親が近くに住んでいることだった地域全体が子どもたちを見守っているのだ。今は歩いて学校に通おうとする子どもはほとんどいない。

 

私は思い出す。毎年子どもたちを見ていたことを私が大学や仕事に向かうころ、ちょうど子どもたちが登校し始める。ほとんどの子どもは制服を着て、早朝、徒歩で通っていた。女の子の制服は白いブラウスに紺色のスモック、男の子の制服は白いシャツに紺色か灰色のパンツが一般的だ。親たちの多くは、制服を好む。経済的だし、全員が紺と白を着ていれば、子どもたちの金銭事情が目だたなくなるからだ。

 

朝の子どもたちはいつもぱりっとして清潔だシャツはプレスされ、髪は整い、顔はきれいでバックパックはあるべきところー彼らの背中にある。午後2時までにほとんどの子は授業を終え、小さなグループにわかれてぞろぞろと帰宅する。バックパックは歩道の上をひきずられ、シャツはパンツから半分はみ出し、セーターは腰か頭に結ばれている。白い靴下は薄汚い灰色になり、小さなくるぶしのところにずりおちてたまっている。

 

今年はそうではないだろう・・・Sは、娘たちが「自分の目の前」にいない間、どうやって過ごしたらいいかわからないという・・・「あの子たちが私の肺を持っていってしまったようだった娘たちが家に帰るまで、私は息ができなかった・・」

 

リバーにより 1:09AMに掲示

 

暴動

今日、バグダッドで暴動がおきた・・・追放された兵士と失業者たちが結びつき、集団となった。群集は騒ぎながら前進を始め、給料を受け取る建物の前にいる軍隊に殺到したという。すると、アメリカ軍のうちの一人が空中に向けて発砲しはじめた・・・石を投げ始める人がいた・・・その場は修羅場と化した。2人のひとが殺されたというひとりは軍隊に頭を撃ち抜かれ、もうひとりは警棒で

頭を打たれて数時間意識不明になった後、死んだ。暴動はマンスールの近くにあるAl-Muthana空港周辺でおきたバグダッド中心の高級住宅地だ。

 

「前線基地」について。

そんなものは存在しないとクレームをつける人たちへGoogleで検索してみれば、情報はたくさんありますよ。

訂正してくれた人たちへありがとうどうやらこれは「イラクの家」を表したものではなくてたんに世界中どこにでもある戦争でひきさかれた家を表しているようだ。

 

リバーにより1:07AMに掲示


(翻訳 伊藤みよし)

2003年10月1日

 

ヴェールと従兄

これは、ニューヨークタイムズに掲載されたJohn Tierney氏による「変革をめざすアメリカの試みをイラクの家族の絆が困難にする」という記事に対するさらなる論評である。

 ("jd"さん、ニューヨークタイムズの講読登録をしたくない人が記事にアクセスするにはユーザー名とパスワードを mediajunkieにすればよいという情報をありがとう)

 

クルツ博士は言う。

「ヴェールの目的の鍵は、女性の許婚である従兄と他人が競うのを防ぐことである」

「ヴェールを攻撃せよ、そうすれば中東の社会制度の核心を攻撃することができる」

 

フーバー研究所の人類学者、スタンレー・クルツ氏よ、ありがとう。彼は、女性たちが何百年もの間宗教的な理由からヴェールを被ってきたことをとりあげて、すべてを女性が従兄から受ける抑圧のせいにしている。ワオー・・人間の本性ってそんなに単純なんだろうか。

 

彼がイメージするものが浮かんでくる 棍棒を手にした私の従兄たちが洞穴の入り口でうろうろし、一族の女性たちを油断なく見張っている・・そして、私たち、脅されておびえた女性たちはみな一団となって固まり、ヴェールの影でぶつぶつつぶやいている・・・

 

質問したい。なぜクルツ博士は、イラクに関して「ヴェール」という単語を使うのだろうか。占領の前は、ヴェールやブルカをかぶる女性はほとんどいなかった。私が「ヴェール」や「ブルカ」と書いたことに注意してほしい。もしクルツ博士が実際には「ヴェール」ではなく、「ヒジャブ」、つまり何百万ものムスリム女性たちがかぶっているヘッドスカーフのことを言いたいのだとしたら、彼はもっと限定的でなくてはならなかった。「ヴェール」は、サウジアラビアやアフガニスタンではごくありふれたものだが、イラクでは過激主義であることを示すものになる。穏健なムスリムの聖職者の大部分がヴェールを不要だと考えているので、イラクではまれにしかみられない。

 

「ヴェール」は頭と顔全体を覆い隠す布である。英語では「ヴェール」、イラクでは「ブルカ」「キマル」「プシ」などといわれる。キマルやブルカは顔全体を覆う場合と目を除く全体を覆う場合がある。

 

ふつうの「ヒジャブ」や「ラブタ」は髪の毛と首を覆うシンプルなヘッドスカーフで、さまざまな方法でかぶる。大多数のイラクの「覆われた」女性たちは、シンプルなヒジャブをかぶる。おしゃれな女性は、おなじ目的でターバンのようなヘッドカバーやあざやかな色をしたものをかぶる。白を好む人もいれば黒を好む人もいる。わたしの友人には、想像できるかぎりの色やデザインのものを持って

いる人がいる。あまりにすてきなので、宗教的な宣言というよりもむしろファッション上の宣言であるかのようにもみえる。

 

一方、「アバヤ」という、マントのような長い衣服は、宗教的というよりは、伝統的なものだ。アバヤのデザインはさまざまだが、長く、ゆったりと垂れさがる衣服であるという点は共通している。頭を覆うようにデザインされたアバヤもあれば、肩にまとうだけのものもある。女性だけでなく男性もアバヤをまとう。女性のアバヤは黒いものが多く、なんらかのデザインが施されていたりもする。男性のアバヤは縁にかんたんな刺繍のあるプレーンなもので、茶色、黒、グレー、ベージュ、カーキ色などがある。イラクではアバヤをまとうことが多いが、若い人たちはあまり好まない。私もまだアバヤをまとったことがない。

 

ヒジャブはスカートやシャツやパンツなどの普通の洋服を着て、かぶることができる。洋服が「適切」でさえあればよいのだ。スカートはあるていど長く、シャツはややゆったりとしていて袖はひじより長く、パンツをはく場合はやや長くなければならない。ヒジャブの目的は、女性をセクシャルハラスメントから守ることだ。色目を使われたりいらざる人目を引いてしまったりすることに対する一種のセーフガードとしての働きがある。

 

ムスリム女性がヒジャブやヴェールをまとうのは、男性の従兄が彼女たちにそうせよと押し付けるからではない。彼女たちは宗教的理由からヒジャブやヴェールをまとうのだ。私は個人的にはヒジャブやヘッドスカーフをかぶらないが、かぶっている女性をたくさん知っている。バグダッドで、モスルで、ケルベラで、ファルージャで、あるいはシリアのヨルダンで、サウジアラビアで・・・。ヘッドスカーフをかぶる女性たちの誰一人として従兄に強いられてかぶったという人はいない。彼女たちは、それが正しいことだと信じるから、また、身につけると安全でほっとするからヘッドスカーフをかぶるのだ。従兄はなんの関係もない。クルツ博士の極端に単純化した解説は侮辱である。

 

クルツ博士はこう言うべきだった。

「ヘッドスカーフ、あるいはヒジャブを攻撃せよ。そうすれば、中東の社会システムの核を攻撃することができる。なぜなら中東の大多数の人々はムスリムであり、多くのムスリムは、ヘッドスカーフはイスラム教が要請する要素だとみなしているからだ」

ヒジャブを攻撃することは、クリスチャンが十字架を身につける権利を攻撃すること、ユダヤ人がヤムルカを被る権利を攻撃することに等しい。

 

リバーにより11:04PMに掲示

 

 

今読んでいるもの

今私はダニーシェフターの「埋められて大量欺瞞兵器」を読んでいる。この本はMediaChannel.org.http://www.mediachannel.org/giving/ で紹介されている。すばらしい本だ・・・戦争前に行われ、現在もまだ進行中の、メディアによる欺瞞について述べている。「彼らは実際にこんなことをやっているのだろうか?!どうしてこんなことができるのか?!」と考えて怖くなる章もあれば、「世界は『あのこと』を知らなかったのか?!」と怒りを感じる章もある。・・この本全体が私をほっとさせる。世界はようやく目覚めつつあるのだ。

 

最近チェックしたサイトにはマルコム ラゴーシュによるものもある。他のさまざまなこととともに、イラクについても書いているジャーナリスト・作家だ。彼のサイトの名称は「Lagauche is Right」だ。

私は、アメリカで売られている「前線基地」という残虐なおもちゃに関する9月25日の記事にひきつけられた。壁がくずれ、血痕が飛び散り、家族が一人もいない(おそらく監禁されているのだろう)イラクの家と勝ち誇る米兵・・・

 

クリスマスや誕生日に大きな包みをもらって、大喜びで開けようとする子どもの姿が目に浮かぶ・・破壊と荒廃と混乱を目にして、その子はなにを感じるだろうか。プライド?勝利?大得意になる?それなのにアルカイダが暴力を助長すると彼らは言うのだ。きっと。

 

リバーにより 11:03 PMに掲示

(翻訳 伊藤みよし)