Baghdad Burning

バグダードバーニング by リバーベンド

... I'll meet you 'round the bend my friend, where hearts can heal and souls can mend...

友よ、私の心が失われあなたさえ見分けることができなくなったら、どうか私を偉大な文明をはぐくんだ、チグリス・ユーフラテスの胸元に連れて行って欲しい。そこで私は心を癒し、魂を再生させるでしょう。

                                 (9月翻訳 池田真理)   

2004年9月29日月曜日

シャイフ(族長)たちと部族

 何人かの人が、「イラクの家族の絆がアメリカの変革努力を阻害している」というタイトルのJohn Tierneyの記事について語っている。その記事を読むにはニューヨークタイムズに登録しなければならない。でもただだから、ちょっと面倒でもやってみる価値はある。この記事について何日でもしゃべれるほど言いたいことはあるけれど、できるだけ短くしてみる。そして、ふたつの部分に分けてコメントすることにする。今日は氏族のことを、明日は従兄弟(いとこ)たちとベールのことを書くことにする。

 イラクの家族の結びつきは、アメリカ人にはとてもやっかいである。これは本当。けれど、Tierneyが言っているような理由からではない。彼は、現実を信じられないくらい単純化している。たとえば、イラク人はいとこと結婚することが多いから、つまり身内主義が根強いから、アメリカ軍にお互いを密告したり売ったりすることが少ないというのだ。

 まず第一に言いたいのだが、バグダードでも、バスラでも、モスルでもキルクークでもこのほかイラクの大都市では、選べるなら、いとこ同士の結婚は古くさくってやりたくないと思われている。大学へ行くような人はたいてい、大学か職場で相手を見つけている。

 大都市以外で、いとこ同士が結婚するのは、多くの中小都市や郡では住民は4つか5つの大”部族”でほとんで占められているというただそれだけの理由だ。つまり、当然のことながら、親でなく、祖父母でなく、兄弟でなく、姉妹でなく、叔父叔母でない人は、すべて”いとこ”なのだ。こういった氏族は、一人ないし複数のシャイフに率いられている。

 人は”部族”とか”シャイフ”とか耳にすると、反射的に、らくだに乗ったベドウィンとアラビアのロレンスのシーンを思い浮かべる。近代社会のイラクのシャイフたちの多くは、大学卒である。海外に暮らした経験のあるシャイフも多く、ロンドンやベイルートなど海外のはなやかな首都に資産をもっている。そしてメルセデスを乗り回し、ビクトリア調の家具、ペルシャ絨毯、油絵で飾られたエアコン付きの大邸宅に住んでいる。イギリス人、アメリカ人、ドイツ人の妻をもつ者もいる。シャイフは自分の部族の人々からだけでなく、他の部族の人々からも尊敬されている。たいてい、部族のうちもっとも賢く影響力がある人物とされているだけでなく、もっとも裕福でもある。

 いっぽうシャイフは多くの義務を負っている。近代のシャイフは、大家族の争議のための一種の家付き判事のような役割を果たしている。土地争いから夫婦げんかまであらゆることに判決を下す。かれの言葉が必ずしも法であるのではない。が、誰であれそれに反対しようとする部族のメンバーは離れ部族とみなされる。すなわち、部族の支えもなければ威光も及ばないということだ。シャイフはまた、助けを求めてくる身内の貧しい人々の多くの生活安定にも責任を負う。イラクはほかと比べて孤児院にいる孤児は少ない。部族が親のない子の面倒を見、多くの場合シャイフ自身の家族が世話をしているからである。シャイフの妻は、部族の”ファースト・レディー”ともいえる存在で、部族の人々に大きな影響力をもつ。

  占領開始後すぐに、ジェイ・ガーナーはイラク社会の有力者__実業家、宗教指導者、学者、シャイフなどと対話を開始した。シャイフは重要である。どのシャイフも、数千とはいわないまでも数百人の部族メンバーに影響力をもっているからである。有力なシャイフたちがイラク全土から呼び集められて大会議が開かれた。彼らは集められて座り、占領軍の代表であるイギリス人(たぶん)が座ってぎごちのないアラビア語をしゃべるのを見つめていた。代表は、シャイフたちに、ガーナーらは民主イラクの建設のために真実シャイフたちの助力が必要なのだと語った。シャイフたちは、力があって影響力がある、社会に大きな貢献をすることができると。

 シャイフのうちかなりの人々は、敵意をもっていた。最有力者の一人は、アメリカ軍がバグダード郊外の彼の家にぶちこんだクラスター爆弾で18人の家族を亡くした。恐怖で互いに身を寄せあっていた女性たち、子どもたち、孫たちが殺された。虐殺のたった一人の生き残りは、2才の男の子だったが、足を切断された。もう一人のシャイフは、バスラの部族の長で、皆が眠っている間に家に打ち込まれたミサイルで、8人を失っていた。その家のさまは、すさまじかった。壊れた家具、がれきとなった壁、そこに切断された腕や足が混じって散乱していた。

 どのシャイフにも、語るべきおそろしい物語があった。彼らは、怒りいら立っていた。しかし、これらの人々は、反フセインだったのだ。彼らの多くはかつての体制を憎んでいた。80年代、社会主義が激発した時代に、裕福な地主とシャイフから何千エーカーもの土地を没収し、貧しい農民に分け与えるという法が制定されたのである。シャイフたちは、何世代にもわたって自分たちのものであった土地が、よりにもよって喜んで耕す気もない農民たちに投げ与えられてしまったことに怒っていた。

 それでシャイフたちは会議にやってきた。懸念しつつも積極的に耳を傾けようと。彼らの多くは発言に立ち、ここぞと代表に語りかけた。アメリカ人とイギリス人は、占領者である。それはまぎれもない。しかし、自分たちは、イラクを前進させるためなら、積極的に協力したい、と。彼らが示した条件はただひとつ、占領軍が撤退する時期についておよそのタイムテーブルを示すこと。

 シャイフたちは代表に言った。部族の人々に対し、家族を殺し家を焼き息子たちを拘束したアメリカ軍に協力してほしいと頼むためには、なんらかの約束、つまり治安が回復したら、速やかに選挙が行われ占領軍が撤退するという約束を持たずには、帰れないと。

 シャイフたちの中には、政界で尽力したいと望むものもいた。彼らは、影響力、権力、コネクションをもっており、なんらかのかたちで役立ちたいと願っていた。代表は、いやな顔をして口ごもりやがて言った。占領軍の撤退を約束することはできないと。占領軍は必要とされる限りイラクに留まる。2年になるか、5年になるか、10年になるかもしれない。約束はできない。”タイムテーブル”はまったくない。シャイフたちは、現在進行している事態についてまったく発言権はない、ただ同意すればよい、と。

 全員、怒りと無力感にかられ席を立って去った。代表は、去っていく人々をにらみつけていたが、いらいらしまぬけてみえた。会合はどうだったかと聞かれて、代表は笑って手をふって答えた。”ノーコメント”。シャイフたちのうち有力な一人が、会合はどうだったか聞かれた。彼は怒って言った。あれは会議ではなかった、シャイフたちを集めて”命令する”ためのものだった、一方の側にあるものたちの話を聞こうともせず、歩み寄ろうという気もちもまったくなかった、と。代表は、自分の私兵に向かってしゃべってると思ってるんだ、イラクの部族社会の指導者たちにでなく。

 これらシャイフたちが、ブラックリストに載ったのは明らかである。後に、シャイフたちの家が狙われたから。真夜中に武装車両、兵士、ヘリコプターで襲われる。シャイフと直系家族たちは、軍靴で地面に押しふせられ、銃口を向けられる。家は捜索され、たいていの場合略奪され、シャイフと息子たちは、うでを後ろにまわされ手錠をはめられ頭に袋をかぶせられてひったてられていった。家族は、怒りと疑念にとらわれて後に残される。氏族のもっとも尊敬さるべきメンバーが、占領軍が聞きただしたいことがあるというただそれだけの理由で、投獄されてしまう。多くの場合、シャイフは数日たって”謝罪”して帰される。そして、またもや家宅捜査と拘束が繰り返される。

 私は、シャイフや宗教界のリーダーなど社会の尊敬されている人々をおおっぴらに辱め拘束することは、民主主義を締め殺すことになると思う。それは”いとこ同士の結婚”の比ではない。占領軍に対する攻撃の多くは、暴行を受けた家族、戦闘やデモや検問で殺された人々のための報復行為である。もちろん、John Tierneyは、そのことは言わないのだけれど。

 彼が言わないことをもうひとつ。地方の郡の多くは事実上大部族のシャイフたちによって統治されているから、バグダードや南部イラクよりずっと安全であるということ。バグダードは、国中からやってきたイラク人たちの折衷的混合体で、シャイフは、自分の部族メンバー以外の人々には影響力をもっていないのである。反対に小さな郡や町では、略奪や拉致はほとんどない。それは事情がわからないのではなく多くの場合仕事のいいかげんな占領軍と臆病なイラク警察の穴埋めとして、犯罪者たちが事実上の軍隊のようになっているからである。

 イラクは、無知な土地領主と原油成金の王子たちに支配される遅れた国ではない。知恵と”家系”に対して、深い敬意が払われている。家族の家系は何百年に遡ってたどることができ、ある特定の家族(部族)に”属して”いるからといって、また、シャイフをもっているからといって、教育、近代化、民主主義、文化は遅れてはいない。イラクのアラブ人もクルド人も、部族内のきずなは強く、家族の強い後ろ立てがあることは誇りと考えられている。たとえ、部族法にとらわれず、家族の影響から遠く離れてしまっている人でも。

 わたしは、近代イラク女性の典型だ。部族のメンバーだけれど、シャイフに会ったことはないし、会えといわれたこともない。大学を卒業し、仕事をもっていた。そしてわたしを守るためなら犠牲もいとわない家族に属している。だからといって、わたしが自分がしたいことや法秩序を尊重する意識を捨てるなんてことにはならない。私はまた、民主主義、安全、軍事独裁ではない健全な社会を望んでいる。そしてそれは、イラク人としての私の身になじんだ家族の強い結びつきと両立する。

 わたし、部族ブログっていうのを始めて、バーチャル・シャイフになってみるかもしれないわよ。

2003年9月27日 土曜日

 今日、南部の聖地ナジャフで、アキラ・アルハサミが葬られた。お葬式の行列は驚くほど長かった。彼女は、イラクの国連大使になるはずだったという噂だ。彼女を襲った者たちの正体に関して手がかりは今のところまったくない。人々はなんとなくアルチャラビとその一党がこの襲撃の背後にあると考えているようだ。ヨルダン大使館攻撃に関しても彼を怪しいと思っているように。

アルチャビラはサダムの仕業だと主張している。そして、勢力を張り合って争っているのは、ただチャラビに主導される統治評議会とサダムだとふれこんで、原理主義者たちと議会内部の敵対や勢力争い、憎悪などを無いことにするのはたやすいことだ。

 とりわけ気がかりなのは、国連が安全を理由に職員を引き上げたことだ。3分の1が引き上げ、残りもむこう数日のうちにいなくなる。状況はますます不穏になってきている。国連の人々が立ち去るたびに、私の心は沈む。なぜなら、いつも私たちは、こうやって情勢の先ゆきを読んできたからだ___国連が引き上げる、するとつぎに私たちが爆撃される。

 これを読むようにと送ってくれた人がいる。イラクで米軍との下請け契約をめぐる裏取引を取り仕切っている会社のいくつかについての興味深い記事だ。もともとはガーディアンに発表された。下請け契約とブッシュ政権、サリーム・アル・チャラビ(アハマド・アル・チャラビの甥)がそこに一枚かむようになった経過を論じている。タイトルは「一族の友人たち」。(http://www.guardian.co.uk/elsewhere/journalist/story/0,7792,1048204,00.html)(Guardian Limited中、World Dispatch, Brian Whitakerの2003年9月24日の記事)

 同じ内容で短くよくまとまったものがジョシュア・マーシャルのサイトにあって、おすすめ。

タイトルは「議論のためのメモ」

http://www.talkingpointsmemo.com/archives/week_2003_09_21.php)(Talking Points Memo、2003年9月26日午後5時29分の記述)。

リバーによって掲示 午前3時

 

言論の自由

 私たちの目下の指導者、アル・チャラビは、アラブの2大放送ネットワークに対して怒っている。けれどあまり彼を責められない。アルアラビアとアルジャジーラで流されたチャラビのインタビューは最悪だった。彼はいつもたった今何か悪いことをしてきたかのような、あるいは何か邪まな企みをもっているかのような陰険な印象を与える。いつになったら彼は、世界中探しても自分をよく見せる技術をもっている放送局はないのだということがわかるのだろうか。

 数日前テレビで、アハマド・アル・チャラビの相棒のインティファード・カンバル(訳注:イラク国民会議の広報担当)が、ずるがしこそうな目付きでどもりながら、2大アラブ放送ネットワーク、アルアラビアとアルジャジーラは、テロリズムを助長していると主張していた。カンバルのようなやつが、テロリズムについてしゃべっているのを聞くのは、本当にぞーっとする。彼は、マフィアのボス気取りで、ピンストライプのスーツを着て後ろに髪をなでつけ傲慢な笑いを浮かべて、マイクに向かっていた。彼は、数ヵ月前、イラク国民会議(INC)(アル・チャラビが率いる)が、銃で脅しては車を”没収”するかたわら、バグダード市街での恒常的なテロの元凶だったことをすっかり忘れているようだ。

  その主張の根拠は、2大ネットワークが、反占領の抵抗者たちとして、’マスクをした黒衣の男たち’の映像を送り続けているということにあると彼は言う。これは、明らかにテロリズムを助長する、と。本当のところ、アルジャジーラとアルアラビアは、アメリカ軍に対するごく初期の攻撃が新聞に書き立てられ始めた5月以来、ブラックリストに載っている。2大ネットワークはまた、あんまり効果をあげているとはいえないアメリカ軍による強制家宅捜索も報道した。捜索されて怒った家族や逮捕された人々についても。

 けれど5月段階では、統治評議会はなく、暫定占領当局(CPA)は2大ネットワークの国外退去あるいは取材禁止は、外交上得策ではないと判断していたと思われる。それで2大ネットワークは、”警告”を受けた。その記者たちは、どなりつけられ、拘束され、記者会見から閉め出され、事件の現場から追い出され、時には殴られさえした。統治評議会は、見てくれをつくろうためなら、暫定占領当局(CPA)よりもっと平然とひどいことをする。

 イラクの報道戦は4月から始まった。占領が開始されたとたん、雨後のたけのこのごとく政党が出現した。ダーワ党、イラク・イスラム最高評議会、イラク国民会議、クルド愛国同盟などの誰もが知っているいわゆる政党がある。また突然、政治的空白に乗じて登場してきた聞きなれないものもある。突然バグダード中にそれらがあふれかえったのだ。彼らは、これはという地域に目をつけ、学校、店、モスク、リクレーションクラブ、住宅、事務所を乗っ取った。競争に一歩先んじている政党は、報道機関を買収し、中央本部を設置し、そのうち政党新聞らしきものを乱発し始めた。その新聞たるや”解放”からジェニファー・ロペスの婚約指輪までおよそなんでも載っけている。

 突然の新聞の氾濫に驚いて、一度に数紙買っていた。バカげているものも面白いものも真面目で建設的なものもあった。どれもが特定の政治的アジェンダを掲げている。初めのうちどの新聞が真面目で、どの新聞がイラク一番のスキャンダル新聞の名にふさわしいか、見分けるのは大変だった。でも結局最後はどれも、部数やクロスワードパズルや星占いに関係なく、床の上あるいはコーヒーテーブルの上の、ご飯やパンをのせた皿の下に落ちつくのだった。

 イラク以外のアラブ世界でもそうなのかどうか知らないのだが、イラク人はディナーテーブルのまわりに集いたくない気分のとき、リビングルームのコーヒーテーブルで簡単な食事をとるか、床の上で輪になって座る。テーブル(または床)には、汚れないように新聞が敷かれ、大盛りの大皿が並べられる。

 7月と8月のあいだ、特別暑い季節、私たちは床で食べる。イラクの家やアパートは、夏の間めったにカーペットを敷かない。その夏初めての暑さがくるとみるや、人々は、ペルシャ絨毯を巻き上げ、あと5ヵ月間は防虫剤とともにしまいこむのだ。それで、昼食や夕食の前、リビングルームのタイルの床を冷たいきれいな水でモップ拭きし、乾かして新聞紙を敷く。床は硬いけれど、冷たくて、なんだか食事もおいしく会話もはずむ。

 皿やフォークのかちゃかちゃいう音、皿をまわすとき触れあう腕、私は新聞に目を留めている。なにか面白いことはないかと皿の下の新聞紙の見出しにさっと目を通すのが、いつのまにか習慣になった。国連決議1483号について初めて詳しく読んだのは、宗教や民族に関係なくイラク人ならみんな好きなご飯とオクラの料理(バミア)をうわの空で取り分けているとき。いま情報のほとんどをインターネットやテレビやラジオから得ているというのに、私は、新聞紙のインクの匂いをかぐと___”ニュース”を連想する。おかしいけれど。ぜったいに、イラクの新聞からしか手に入らない情報だってあるんだから。(たとえば、SARSは、数年まえに地球にぶつかった彗星がもたらした、とか。誰も”こんなの”読んでやしないわね)。

 このメディア戦国時代は、およそ2ヵ月続いた。あげく数紙が政治的内容、とくに占領軍についてに記述が好ましくないと’警告’を受けた。1ー2紙は、休刊に追い込まれ、掲載記事を撤回させられた新聞もあった。電波媒体は、追従した。暫定占領当局(CPA)は、放送で取り上げるべきでないことがら(死者の数、連合軍への攻撃回数その他)のリストを発表した。それで、私たちはわけ知りの顔を交わし始めた。言っていいことだけの’言論の自由’にすぎないのだ。イラク人だったら”こんなの”よーく知っている。

 やがて統治評議会ができたが、その面々はメディアのやってることがまったく気にいらなかった。評議会は、専用放送局をもっていて、私たちは、彼らがして下さっている素晴らしいことどもの長々しいもってまわった説明を聞かされることとなった。私たちは感謝すべきなのだが、感謝が足りないようだ、とも。

 そしていま、アルジャジーラとアルアラビアは、この2週間、暫定占領当局(CPA)と操り人形評議会主催の公式記者会見から閉め出されている。でも、だからといってどうってことない。記者会見の内容なんてどんなものか予想できるのだ。ほんもののニュースは、わたしたちの身のまわりで起こっているのだから。

リバーによって掲示午前2時58分

 

2003年9月24日水曜日

売りもの:イラク

 人口2千5百万人、肥沃で豊かな国。おまけ__外国兵士約15万人と操り人形少し。販売条件:アメリカかイギリスの企業であること(あなたがフランス人だったら、わるいけどごめん)。できたらハリバートンの系列であることが望ましい。関心のある方は、イラク、バグダードの統治評議会のメンバーに連絡して下さい。

 新イラク財務大臣カミル・アル・ガイラニ(Kamil Al-Gaylani)が発表した第一次経済改革案を聞いた人は、「イラクはユートピアで経済状態は絶好調__足りないものは海外からの投資だけ」と、思うだろう。BBCがとてもうまくまとめている。こんなふうに。原油と原油以外の資源以外の国有企業すべて払い下げ。つまり、水、電気、通信、交通、保健医療などの私有化。BBCはこれを’予想外’と言っていたけれど、私たちは驚かなかった。なぜ驚かなくちゃいけないの?

 どっちみち操り人形どもは買いとられているのだ。人形劇の舞台も一緒にいかが? イラクは売りに出されている。少しずつ、切り売りされて。みんな怒っている。企業は、イラクのおいしい部分をがっぽり買おうと乗り出してきている。いやこう言ったほうがいい。企業は、統治評議会をそっくり買おうとしはじめている。暫定占領当局(CPA)は”自由の守護者”たちに何も支払ってくれていないから。

 事態はとっても皮肉。石油産業、売りに出され”ない”ほとんど唯一の産業こそが、結局は事実上外国人の経営になりつつある___。

 ちょうど2街区向こうに住んでいるSのことは、近所中が知っている。彼はいわゆる’商売人’(’tajir’)。彼自身は、自分のことを’ビジネスマン’って言いたいらしいけれど。この6年間、Sは石油省と取引していた。いわゆる”石油食料交換プログラム”の監視と指導のもとに原油タンカーの部品を輸入していたのだ。3月初め、開戦が予想される状況下で、すべての契約は’保留’となった。国際企業との何千件もの契約が、キャンセルまたは延期された。

 Sは頭にきた。ある国からエンジンが入荷することになっていたが、それは’国境止め’されてしまったのだ。彼が行くところ、ひっきりなしに吸うたばこの煙。煙の中で、’信用状’とか’商品番号’だとかかんしゃくもちのトラック運転手たちがいらつき始めているとか、言い散らすのであった。

 戦争が終わり、暫定占領当局(CPA)は、契約によっては認めようと決定した。何にもまして優先されるのは、原油採掘を再開するための契約であった。Sはラッキーだった。彼が待つエンジンは届くことになっていた___うまくいけば。

 ところが、彼がエンジン搬入のゴーサインをもらおうとするたび、人から人へとたらいまわしにされ、結局、暫定占領当局(CPA)、石油省、国連プロジェクトサービス機関(UNOPS)の官僚主義にからめとられて自分もエンジンも一歩も動けないことを知るのであった。状況がいくぶんわかってきて、石油省と直接交渉しようという段になって、彼は’知恵’をつけられた。KBRに知られていないのだったら、何もしなくていいと言われたのだ。KBRが彼を承認も推薦もしていないのなら、何も気にする必要はないと。

 その週の間、近所中はKBRの話題で持ちきりだった。KBRって何? 何する会社は? それぞれ憶測を述べた。E(弟)は、たぶん暫定占領当局(CPA)みたいな委員会みたいなものだと言った。ただ原油生産基盤の請負か再建をするための・・。わたしは、たぶん会社だと思った。だけどどこの? ロシア? フランス? ハリバートンやベクテルでなければ、どこでもいいけど。KBRって初耳だった。少なくとも、この組み合わせのイニシアルは初めて。そう、それは’かっこよかった’のだった、はじめの30分間は。ついに好奇心を押さえきれず、インターネットで調べ始めるまでは。

 KBRとは、ケロッグ・ブラウン・アンド・ルートのことだった。ある企業の子会社___あててみて?! ハリバートン。業務内容は、’エネルギー産業向け設計・建設業’、ほかにもあるけど。誰もが知っているが、KBRは、再建努力だけで有名なのではない(訳注:2003年、ハリバートンはアスベスト被害訴訟の標的となっているKBRを再編、日本の会社更正法に相当する措置の適用を申請した。つまり破産から再建努力をしていた)。1997年、KBRは、アメリカ軍への合板納入に際して6百万ドルを過剰請求したとして、告訴されている! このけちな事件の全貌を知りたい人はここ

http://www.southernstudies.org/reports/halliburton.pdf)を見て。

 KBRは、いま”会議宮殿”におさまっている。会議宮殿は、ラシード・ホテルの前にあって大きな会議室がいくつもある。かつては大きな国際会議のためのものだった。いまは、KBR本部だ___ということらしい。外国企業は100%石油会社を所有することはできないが、経営することはできる。ほら、イラクを所有することは絶対できないが、統治評議会を運営することはできる、これとまったく同じ。

 数週間前、ハリバートンとベクテルを持ち上げたメールを送ってくれた人がいる。こんな有力企業に石油産業を経営してもらって、復興の取り組み(英語では再建努力と同じ言葉)を先導してもらうなんて、イラク人は自分たちのことを’ラッキー’だと思うべきだというのだ。理由は__まず、(a)これら企業はとても有能で効率的だし、それに(b)’地元民’を雇ってくれるよって。

 OK.わかった。電気は戦前と同じ水準に復旧するのに最低2年はかかるって書かれていた記事は読まなかったふりをしよう。戦争が終わって5ヵ月もたったこと、かの有能な企業の数々が、治安がめちゃくちゃなため業務開始できないという事実もないことにしよう。

 地元民の雇用については___何が起こっているか、少しはっきりしてきた。何百万ドルという大規模復興事業の契約は、ベクテルとかハリバートン巨大企業にいく。次にこれら企業がイラク人を雇う段になるのだが、それはこんな具合だ。まず、個別の事業について競争入札を実施する。最低金額で入札したイラク企業が仕事を手に入れる。イラク企業は、巨大コングロマリットから、”きっかり”自分が入札した金額だけをもらう。それはベクテルやハリバートンの手に入る契約金額のごく一部である。こうして、百万ドルのはずのプロジェクトは、5千万ドルにはねあがる。

 さて、私のこと、バカとでもアホとでもお好きなように呼んで。けれど、これは、ぜったいに第一、経済的ではないし、第二、経験あるイラクの企業に直接仕事を発注するほうがイラク人の利益になる、といえるんじゃない? かつて’イラク軍会議’(Iraqi Military Council)のもとで仕事をして、ミサイルから電気製品までなんでも作っていた87の企業や工場の中から選んで直に契約すればいいじゃないの。以前の産業石油省(Ministry of Industry and Minerals)のもとで、キャンディから鉄鋼の桁までなんでも作っていた158の企業や工場の中から選んで直に契約したらどう? 1991年からずーっと住宅省のもとで復興事業に取り組んできた建築会社や土木会社と契約すればいいじゃないの。それをどうして?

 優れたエンジニアや研究者や建築家や技術者たちは目下失業中、だってかれらを雇っている会社には仕事がないし、経営を続けていく資金もない。会社員たちは、週に数日出てきて、なまぬるいお茶やトルコ・コーヒーを前にさえない時間を過ごしている。何十億ドルも多国籍企業にたれ流すのではなくて、ほんの数百万ドルで部品を輸入して、工場を修繕すればいいんじゃないの?

 父の友人に、妻と3人の子持ちでイタリア系のインターネット会社で働いている人がいる。その人は、のうのうと何千キロも彼方のローマにいるボスとメールで連絡をとって、バグダードには家族を養わなければならない人々が働いていることをしっかりと思い出してもらう。その人と男性技術者のチームは、一日10時間、週6日働いている。バグダード中を移動して電線を張る。彼らが乗っているのは、おんぼろSUVで、電線や針金やペンチやネットワーク・カードやインストール用CDを積み込んでいる。それと、カラシニコフ銃も。何に使うものかって___うーん___緊急事態用。

 この会社で働いている20人は、どの人も月100ドルもらっている。月260時間に対し100ドルということは___1時間当たり0.38ドル。私の16才のベビーシッターだって、もっと稼いでいた。ほかの外国企業もだが、このイタリア企業は、目下の状況では100ドルが妥当と考えているようだ。イタリア企業のもともとの請負金額はいくらか考えてみる___何百万ドルものお金が支払われているっていうのに、この20人が電線工事でもらうのは月100ドルってわけ?

 米国財務長官、ジョン・スノーは、改革は、”統治評議会の提案、理念、構想”によるものであって、米当局はなんの圧力も加えていないと主張している。もしそれが本当なら、ブッシュは自分が好きなときに米軍を引き上げることができる。だって、あとに残るのは、ブッシュやチェイニーもびっくりなくらい、ハリバートンに取り入ろうという魂胆がみえみえな、統治評議会だもの。

リバーによって掲示 午前3時41分

 

2003年9月21日

アキラ・・・

 昨日、アキラ・アル・ハシミの生命を狙った襲撃未遂があった。私たちが聞いたのは昨日の朝、それからずっとどうなったか気になってラジオのニュースに注意している。アキラはジハード・クォーター(Jihad Quarter)に住んでいて、昨日仕事に出かけようとしていたちょうどその時、武装した男たちを乗せたピックアップトラックが2台、車の前に割り込んで、アキラと’ボディガード’(彼女の兄弟)に発砲した。騒ぎを聞きつけた近所の人は武器を取り、何が起こったかと外へ飛び出してきた。近所の人たちとギャングは銃撃戦となった。

 アキラは、アル・ヤムク(Al-Yarmuk)病院に運び込まれて腹部を手術され、その後アメリカ軍の救急車に乗せられてどこへともなく連れさられた。どこか、誰も知らない。噂では、たぶん米軍がバグダード空港に作った病院だろうという。また、アキラは足と肩と腹部をやられて、重傷だけれど小康状態とも。

 まったく気が滅入る話だ。彼女は評議会のわりとまともなメンバーの一人だったから。アキラはイラクにずっと暮らして、かつて外交分野で精力的に働いた。さらに気が滅入るのは、このことが意味することのゆえだ。つまり、女性はひとりとして安全ではない、どんなにステータスが高くとも__。

 誰のしわざか、誰もが推理している。もちろん、アハマド・アル・チャラビは、事件直後まだ捜査も始まっていないうちから、「サダムとその一党だ!」と言った__チャラビは壊れたレコードみたいにこればかり__それはともかく誰も彼の言うことなんか聞かない。イラクのFBIは、現場を調べて言った。まだ誰だか何もつかんでいないと。アキラ自身かつてバース党員だったのに、そして占領前の外務省で国際機関との関係調整にあたっていたのに、バース党員がやったなんてありうる? 彼女の選任は、暫定占領当局(CPA)が乗り込んできてからやった、一番かしこい政策だった。アル・チャラビとアル・パチーニ(Al-Pachini)が国連の場でイラク国民の’代表’とみなしてもらえたのは、ひとえに彼女のつてと現在のイラクの外交問題に関する広範な識見があったからこそだった。アキラは、最近、統治評議会と新閣僚との間の政治的調停者としてアル・パチーニ(Al-pachini)ともに働くべく統治評議会から選ばれた3人のうちの一人だった。

 しかし、彼女は、統治評議会のより過激なメンバーから敵意を向けられていた。__女性で、ヒジャーブをかぶらず、初めての実質的な新政府の’対外代表’というのはもちろんだが、旧政府の高官でもあったという理由で。暗殺未遂に使われた手口は、殺された校長たちに使われたもの、暗殺された優秀な女性電気技術者に使われたものと同じように思える。アキラは’警告状’を受け取っていたのではないかと思う。もっと警備を万全にすべきだったのに。統治評議会のわずか3人の女性メンバーの一人を守る気がないなら、いったい誰を守ろうっていうの? 守るに値する人がほかにいる?

 ええ、バグダードは誰にとっても安全ですとも。武装した男たちが手りゅう弾を投げながらSUVやピックアップトラックを乗りまわし、統治評議会に対して戦いをしかけてているんだから。

 犯人が見つかりますように。重罰が与えられますようにと心から祈っている。

リバーによって掲示 午後2時7分

 

2003年9月19日金曜日

テロリスト___

 この数日というもの天気は’めげて’きた。まだ暑さは耐えがたいが、風がある。それは、砂嵐というべき暴風で、そよ風というよりドライヤーからのどっと吹き出す空気を思わせる。けれど、ともかくも風だ。それなりにありがたい。

 電気については、不可解。6時間ついたら3時間停電。夜中は電気をつけて昼間は停電ということにすればいいのに。昼間は夜より暑いけれど、少なくとも家事をするとか本を読むとかなにかしてまぎらわすことができる。夜、闇は恐ろしいものすべて、恐怖、不安を運んでくる・・・それに蚊も。あらゆる音は増幅される。ものが見えるときは、こんなに多くのもの音は聞こえないのに。不思議だ。それか、たぶん耳をふさいでいるだけなのかも。

 誰もが、最近の強制家宅捜索を気にしている。友人たちや親戚からも話を聞いた。テレビでも見る。憤激し、そして次はどこだろうかと考える。

 何でもあり、だ。家宅捜索には、一見、通常の武器捜索としか見えないものもある。3、4人の兵士がドアをノックし、踏み込んでくる。一人が’家族’を監視している間に、残りが家中を捜索する。寝室、台所、トイレ、庭。ベッドの下、カーテンの後、クロゼットや食器だなの中も。占領軍の外国兵士たちに家を捜索させていることに対する屈辱の念と怒りを抑えつけていさえすればいいのだ。

 中には、まったく襲撃そのもの、という家宅捜索もある。真夜中、ドアが蹴破られ、何十人もの兵士が乱入してくる。家族は、腕を背後に組まされ袋を頭にかぶせられて、一列に並んで外に出される。父親と息子は、地面に伏せさせられ軍靴で頭と背中を押さえつけられる。

 このほか勘違いで恐ろしいことになる家宅捜索もある。しょっちゅう聞く話だ。早朝、といっても2時とか3時、父親か息子が、強盗が入ったと思って、銃をとる。そのあとは、地獄沙汰だ。家族は撃ち殺され拘束され、ほとんどの場合泣き叫ぶ女性と子どもだけが残される。

 私が初めて家宅捜索を目撃したのは、5月のことだ。ちょうど暑さが耐えがたくなりはじめた頃だったが、ひと晩中停電していた。私はベッドでうとうとしていた。私たちはまだ、屋上で寝ていなかった。あんまり遠くないところで、銃撃の音が一晩中していたから。強盗はまだそのころは、ギャングやマフィアになってはいなかったけれど。

 3時すぎ、この地区からそう遠くないあたりの上空を旋回するヘリコプターの音をはっきりと聞いた。私は、部屋から走り出て台所にかけ込んだ。E(弟)が台所の窓に顔を押しつけていた。真っ暗な空に何かを見つけようとして。

 「何が起こったの?」 彼のそばにかけよりながら聞いた。「わからない、家宅捜索かもしれない。だけどいつものじゃない。ヘリコプターに車だ、たぶん__」

 私は、ヘリコプターに注意を集中するのをやめて、車の音を聞こうとした。いや、車ではなかった、大きな重たい車両、金属的なうなり音をたてながら。Eと私は顔を黙って見合わせた。戦車? Eは向きを変えると、2段とばしで階上に駆け上がった。私はなんとか彼についていった。手探りで手すりを探しながら。頭は、さまざまな考えと憶測で混乱していた。

 屋上に出ると、真っ暗な空に光が走っていた。ヘリコプターが一帯を旋回していた。Eは、屋上の柵によりかかって、眼下の街路を見つめていた。おそるおそる近づくと、Eは振り返って、「家宅捜索だ、アブ Aのうちだ!」と言って、道路沿いの3軒先の家を指した。

 アブ Aは80年代半ばに引退した、立派な老将軍である。私たちのうちと同じ並びの2階建てのうちで、静かに暮らしている。私が知っていることといえば、子どもが4人__娘2人と息子2人があるということだけ。娘たちはふたりとも結婚している。一人は夫とともにロンドンに住み、もう一人はバグダードのどこかに住む。バグダードにいる娘には3才の息子があって、私たちはLと呼んでいる。どうして知っているかというと、Lが6ヵ月になってからずーっと、アブ Aは、きまっていつもLを白とブルーの縞もようの乳母車に乗せて、通りを誇らしげに行ったり来たりしていたからだ。

 いつもきまって金曜日の夕方だった。背の高いくたびれた感じの老人が、太った血色のいいよだれだらけのLを乗せた青縞の乳母車を押して歩くのを見るのは。

 去年はじめてアブ Aと話をした。そのとき私は、家の庭のぐるりの壁際の草に水をやっていたが、よちよち歩きの子どもを連れて歩いている背の高い老人のほうは見ないようにしていた。じろじろ見るのはとても失礼なことという母の訓えが頭の中を駆けめぐっていた。私は、通りをやってくるその二人連れに背を向け、草むらのはしっこに生えた花がおぼれるほど水をかけ続けていた。

 とつぜん、声がした。「水を貸してくださらんかな」。びっくりして振り返ると、洗剤のコマーシャルにうってつけ、という格好でチョコレートだらけの LとアブAが立っていた。私はホースを渡したが、その途中で彼らをびしょぬれにしてしまった。そして、老人が、「お母さんが見たら怒るからな」と言いながら、Lのべたべたの小さな指を洗い、すぼめた口をきれいにぬぐうのを見ていた。

 ホースを返してくれたあとで、再び散歩にかかった。私は、彼らがアブAの家までの道を帰っていくのを見ていた。Lの気をそらした虫かなにかを見られるように、数歩ごとに立ち止まりながら。

 それは、去年のことだった。たぶん9ヵ月前。いや100年くらいも前だったかしら。今夜、武装した車がアブ Aの家に横付けして、ヘリコプターは上空を旋回し、一帯は突然の騒音とライトで混乱している。

 Eと私は、階下に戻った。母が、開いた台所のドアのそばに心配そうに立って、門のそばに立つ父を見つめていた。Eと私は、走り出て、父の傍らに立ち、わずか3軒向こうで展開されるシーンを見守った。どなり声や悲鳴が聞こえた。兵士のどなり声に家族や近所の人の金切り声が混じっていた。惨禍と恐怖を知らせる完ぺきなシンフォニー。

 「あの人たちは何をしているの? 誰を連れていこうとしているの?」 暖まった鉄の門を掴み、通りに手がかりを探しながら、私は誰にともなく聞いていた。一帯は、ぎらぎらしたヘッドライトとスポットライトで照らしだされ、家の前には緊張して銃をかまえた数十の兵士が立っていた。家族の人々はまもなく出てきはじめた。初めは、息子、20才の通訳見習い。腕は背後にまわされ、両側から兵士に締め付けられていた。家から出ながら、彼は心配そうに首をめぐらして家のほうを見ていた、裸足で。次は、ウムA, アブAの妻で、すすり泣きながら、誰も傷付けないでと懇願しながら、約束してと訴えながら、連れていかれた。何と言っているのか聞こえなかったのだけれど、彼女が混乱してあちこちに目をやるのを見ていて、代わりに言った。「何が起こったの? どうしてこんなことをするの? 誰からいわれてきたの?」

 続いてアブ Aが出てきた。背筋をのばしてまっすぐ立ち、怒りの目でまわりを見回していた。彼の声は、他の騒音を圧して通りに響いた。彼は大声で兵士と見物人たちに問い、答を要求した。彼の長男Aが、いままでより多くの兵士に囲まれて、アブAのあとから出てきた。最後に家から出てきたアブ Aの家族は、リーム(Reem)だった。まだ結婚して4ヵ月のAの妻。兵士二人にしっかりと引率されて出てきた。それぞれ彼女の細い両腕を掴んでいた。

 私はけっしてこの光景を忘れない。彼女は、22才、ふるえながら暖かい真っ暗な夜のただ中に立っていた。ひざのちょっと下までの袖無しのナイトガウンからふるえる脚が見えていた。兵士たちが彼女の腕をつかんでいたのは、ちょっとでも離すと彼女が気を失って地面にくずおれてしまうからと思えた。うなだれて髪が垂れかかっていたため、顔は見えなかった。彼女の髪を初めて見た___ふだんは(ノーマルな状況では)彼女は、ヒジャブを被っていたから。

 その瞬間叫び出したかった、悲鳴をあげて、混乱した通りに向かって何かを投げつけたかった。リーム(Reem)が恥ずかしさにうなだれてそこに立っていたとき、私は彼女の受けた恥辱を感じとった。世間にさらされて、夜のただ中に立つことの恥辱を。

 現場の近いところにいた近所の人の一人が、びくびくしながら前へ出て、兵士の一人に話しかけようとした。兵士は直ちに銃で狙いをつけ、下がれと叫んだ。男は、’アバヤ(abaya)’、女性が着る黒いマントのような上着を掲げてみせ、ふるえている若い女性を指さした。兵士はそっけなくうなづき、「下がれ」と言った。「お願いです」男はおずおずと言った。「彼女を被ってあげて」。そしてアバヤ(abaya)をそっと地面におき、戻って自分のうちの門のそばに立った。兵士は不審な様子で歩みより、アバヤ(abaya)を拾い上げ、ぎこちなく少女の肩にかけた。

 私は門を握りしめた。ひざが頼りなく立っていられなかった。泣いていた。この混乱の意味を理解しよう、しようとしながら。多くの近所の人々が、うちひしがれてただ立って見ていた。アブ A の近所のアブ・アリは、兵士の一人と話をしようとしていた。彼は、ウム A とリーム(Reem)のほうに腕をふって、自分の家を指し示していた。女性たちを彼の家に入れさせようとしているのが見て取れた。兵士はほかの兵士(見たところ通訳だった)を招きよせた。家宅捜索の間、通訳は目だたないように裏庭をうろついていた。襲撃者たちは、恐がっている人々と意志疎通するために通訳をすぐには表には出さないのだ。なぜなら、誰かがうっかり重要なことを、アラビア語で(兵士たちがわからないと思って)言うかもしれないと思っているからである。たとえば「ねえ、言ったとおりに原爆を庭に埋めといた?」とか。

 ついに、ウム A とリーム(Reem)は、アブ・アリのうちへ行ってよいと言われた。兵士に付き添われて。リーム(Reem)は呆然としてロボットのように歩いていた。ウム Aは興奮していた。彼女は、自分のいる場を動かず、何が起こっているのか、夫や息子たちをどこに連れて行こうとしているのか、教えてくれと懇願していた。アブ・アリがやっと家の中に入れた。

 家はめちゃくちゃにかきまわされていた。なんのためかわからないものまで、徹底的に捜索された__花瓶は割られ、テーブルはひっくり返され、衣類はクロゼットから投げ出されていた。

 6時に最後の車が引き上げた。一帯はまた静かになった。その夜それから、夜があけてからも、次の夜も、私は眠れなかった。目を閉じると、アブ Aと孫の L、リーム(Reem)が目に浮かぶ、恐怖で叫び、説明を求めていたウム Aの姿が目に浮かぶ____。

 アブ Aは、まだ帰ってこない。赤十字が、彼と家族の連絡がとれるようにしている。Lはもう金曜日にチョコレートまみれになって散歩することはない。私は、祖父に会えるときには、Lはいくつになっているだろうかと考える。

リバーによって掲示 午前2時9分

 

2003年9月18日 木曜日

ブッシュメール

今日はだいぶ気分がいい__といっても、元気づけてくれている最大のものは、ジョージ・W、’ご当人’からの’ファンメール’だ。そこで、みなさんにもそれをお伝えしよう。(ありがとう ボブ・フレドリック、あなたのおかげで笑ったわ)(訳者:以下、原文では話ことばの発音を再現した表記やこっけいな言い回しがみられ、ブッシュの口調をまねしたと思われるが、そのニュアンスはさておき、意味だけ訳す)。

 

イラクの人へ

 お互いに殺しあうのをやめてくださいませんか。こちらの人々は、パドルなしにカヌーに乗る輩以上に頭がおかしくなり始めている。さらに悪いことには、ほれあのコンピュータのなんとかで、あなたが人々にいまそこで起こっていることを話せば話すほど、フォックステレビのわたしの記者たちに、みんな注目しなくなる。知るべきことを言ってやってるのに! 気がついてみると、わたしは次の選挙で忙しくなる。パパがわたしにもうひとつ石油会社をやらせる。そうすれば、わたしは、じつにかしこい重要人物にみえることだろう。

 パパとお友だちとこの前会ったとき、ミスタ・アッシュクロフトは、われわれがしなければならないことは、イラクに”愛国者法”みたいな自由を与えることだ、そのためにさらに人々を監獄にほおりこむことだと言った、しかし、ミスタ・パウエルは、アッシュクロフトに、”ズボンにしまっておけ(ちょっかい出すな)。(訳者:Dick、つまりペニスを、の意味)”と言った、どっちでもいいけど。パパとチェイニーは笑って、楽しい大人の時間を過ごしていた。ちょうどチェイニーの会社の利益報告書を読んだところだったから。かれはもう、えー、ハリバートンやなんかには、勤めてないはずだけど___。それから、彼らの話は、われわれがイラクでしようしていることに入っていこうとしていた。だけど、チェイニーがパパに、わたしが寝る時間だってことを思い出させたんだ。だから、わたしは寝にいかなくてはならなかった。

 だから、お願いですから、どうぞ殺し合いをやめて、そして、写真家やテレビの人間や記者を見たら、にっこりして、アメリカ人が来てあなたがたみんなを解放してから、暮らしがいかによくなったか、話してやってください。どんどんやってください、パパは、わたしが再選されたら、次はイランとシリアを解放するといいよって言ってる。すごいじゃないか!

あなたのよき友

ジョージ・W・ブッシュ

テキサスとアメリカの大統領

(注:スペリングのまちがいはすべて、これを書いた、もうすぐお払い箱になるばかものの責任である)

リバーによって掲示 午前12時10分

 

2003年9月16日木曜日

ガール・パワーとイラクの戦後

 この数日、少し体調が悪かった。ちょっとインフルエンザみたいなものらしくて、目が充血し鼻水がたれ熱っぽい。一昨日停電してはじめて、体の具合が悪いことに気がついた。(クーラーが切れて)毛布のように熱気が私たちにかぶさってくると、どっとうめき声が起こった。私はやっと”暑い!?”と声を出すのがせいいっぱいだった。

 家族は私を気でも違ったの? それとも熱でもあるの?という顔をして見た。そのうち、どうして数分ごとに私の目の前で部屋がぐるぐるのか、どうして太陽の光がむちで打たれるように身にこたえまぶしいのか、わかった。

 それで、私は昨日一日リビングルームのソファで過ごした。ティッシュとフルアウト(よく売れているイラク風邪薬)に囲まれて。テレビが見られるときは(つまり停電でなければ)いつもテレビを見、2ー3回はコンピュータまでからだをひきずって行くことさえなんとかやった。私のかすんだ目にはコンピュータのスクリーンは波をうって見えたので、数分格闘はしたものの踊っている文字を判読するのはあきらめた。

 夜には、アルジャジーラの毎週の番組”女性専科”を集中して見ることができた。そして、すっかり腹をたて落ち込んだ。テーマは、あいも変わらず、イラクだった。番組には、3人のイラク女性が出ていた。シャーサ・ジャファール(Shatha Jaffar)博士とヤナル・モハンマド(Yanar Mohammed)とイマーン・アブダル・ジャバール(Iman Abdul Jabar)だ。

 ヤナル・モハンマドは、私の知っているところでは、1993年からカナダに住んでいる建築家である。彼女は、”イラク女性の自由協会、 Organization of Women's Freedom in Iraq”の創立者で、これは数カ月前までカナダに本拠があった。シャーサ・ジャファール博士のことは聞いたことがない。私が思うに、彼女は15才のときにイラクを離れ(いま40代である)、イラク女性運動とかを率いているらしい。彼女の名の下に出たキャプションには、”女性の権利活動家”とあったけど。イマーン・アブダル・ジャバールはイスラム女性運動とかの代表で、わたしの知る限りでは、イラクにずーっと住んでいた。

 イマーンとヤナルはふたりともシャーサよりはるかに優位にたっていた。ふたりともともかくもイラクにずーっと住んでいるのだから。テレビでの話題は、占領後イラクの女性たちの権利がいかに侵害されたか、というものだった。女性たちがいかに拉致され、レイプされ、決まった服装や行動を強制されたか。

 ヤナルは、女性の平等は、宗教と分離した政府によってしか達成されないと主張した。なぜならイスラム教政府は、必ずや女性の権利を侵害しようとするからである。私は、必ずしもこれに同意しない。もし、純粋にイスラムの教えに基づいたイスラム政府というものがあるなら、女性は譲渡することのできない生まれながらの権利___教育を受ける権利、働いて稼ぐ権利、自分の意志に基づいて結婚する権利、離婚する権利などを当然保障されるからである。もちろん女性の服装その他の制限はあるだろうけれど。

 イスラム政府がうまくいかないのは、采配をふるう人々がつねに、イスラムの名のもとにイスラムとはまったく無関係で、排外主義とこそ関係の深い法や規則を実施するからである。イランやサウジアラビアを見よ。

 イマーン・アブダル・ジャバールは、ラムズフェルドの姿勢を、”みざる、きかざる、いわざる”に例えた。彼女は、アル・サドル派やアル・ハキム派などの過激派が、試験中の学校に侵入して、’safirat’(ヒジャブを被っていない少女のこと)をテスト会場からつまみ出し、ヒジャブを被らないならもう学校にくることはならんと脅しているなどということは、まったく知らないと主張した。また、バグダードの大学という大学に、イスラムの伝統的服装とされている服装をしない女性を弾劾するバナーがひるがえっているということも聞いたことがないと言った。私は’されている’といったけど、それは、イスラム的服装とは何か、はっきりこれといえるものはまったくないからだ。ヒジャブで十分という人々もいるし、ブルカかプシは絶対という人々もいる___というふうに。

 シャーサのおしゃべりは、徹頭徹尾独善的だった。議論に勝ちたいと思って、この30年間の(サダム独裁の)結果、イラクの少女たちはおよそ無知で教育がないと主張したのに、逆にそうしたことでたちまちのうちに負けてしまった。彼女は、非バース党員は教育を受けることを許されていなかったから、イラク人は娘を学校に行かせなくなってきていたと言った。

 変だわ。私はバース党員ではなかったけれど、この国で最高の学校の一つに入ることができた。それも高校最終学年の成績だけに基づいて、である。私の友人たちも誰もバース党員ではなかったけれど、薬剤師や医者や歯医者、通訳、弁護士になっている___私が住んでいるのは、イラクではないどこかほかの国かも。

 シャーサが画面にでるたび、私は鼻をかんだティッシュを彼女に向けて投げつけた。彼女は、バース党員にあらずば、学ぶべからずという、戦争前/占領後のありふれたプロパガンダに利しているだけだ。35年もそれが続いたら、イラクで、教育があって知識があるのはバース党員だけだってことになってるはず。

 イラクについてたぶん知らないだろうこと、教えてあげる。イラクには、18の公立大学と10以上の私立大学がある。それに工科大学や実業学校も。私立と公立の違いは、公立大学(バグダード大学など)はただ(無料)、授業料はいらないってこと。私立大学は年間授業料がいるけど、海外の大学に比べたら微々たるもの。公立大学のほうが人気があるけれど、それは教育程度が高いと思われているから。

 アラブの学生は、アラブ中からイラクの大学にやってくる。なぜなら、アラブで一番の水準だから。ヨーロッパ人でイスラム文化や宗教に関心のある人々は、イスラムの大学にやってくる。イラクの医学生は、すばらしい医者になるし、エンジニアたちはものすごくクリエイティブだ___。

 イラクの学生は、中学校6年生(12年生)で、バカロレア(Bakaloriah)という共通テストを受けさせられる。学生には9桁の数字で番号が付けられ、テストを監督する任意に選ばれた監督者と一緒にそれぞれの学校へ連れて行かれる。理科系学生に必須とされる学科は、数学、物理、英語、アラビア語、化学、イスラム教(イスラム教徒の学生だけ)、フランス語(フランス語を選択した学生だけ)、生物学である。理科系以外の学生は、アラビア語、英語、歴史、地理、イスラム教(イスラム教徒だけ)、数学、経済学___だったと思う。

 得点評価が出るとすぐ、高等教育省へ書類を提出に行く。書類には、もっとも行きたい大学名を筆頭に、最終的に行きたい大学名を全部あげる。思い出してみても、書類のどこにもバース党員かどうか(あるいは政府支持かどうか)書く欄はなかった。だけど、私が書いた書類が違ってたのかも____。

 ともかく、その学生の得点と他の大学の応募者の平均得点を勘案して、(入学の)’順位が決められる’。授業が始まるまで、学長にも学部長にも会うことさえない。皮肉なことに、シャーサ言うところの字の読めないはずの女性のほうが、男性より平均点が高い。工科大学に入学する男子の得点率は92%であるのに対し、女性は約96%。女性間の競争が激しいからである。

 シャーサがことさら言わないことは、工学、理学、医学部では、多くの学科で、学生の半数以上は女性__字の読める女性だということである。イラクの大学卒業生は男性も女性も、アラブ地域で最優秀の部類に属し、多くの公立大学はヨーロッパ、アメリカで学べる奨学金を用意している。しかし、シャーサは、そのことを知ろうとしない___そうでないとすると、私の方がまちがっているということになる。どちらにしろ、すみません、私って、字が読めなくて無教育なものですから。

 イマーム・アブダル・ジャバールは、いいことを指摘した。6月と7月の試験期間中、モスクで働く人々が、地元バグダードのたくさんある学校を守ってくれたと言ったのだ。それは事実だ。ところが、彼女は、このような人々はイラクの大統領職にも大臣の地位にも興味がなく、今日、宗教と政治を混同している人々は、少女を威嚇しているアル・ハキムとイラク・イスラム最高評議会(SCIRI)と、最近パウエルに会って輝かしい政治ポジションを約束されたアル・サドルとその殺し屋グループだということをあえて言わない。

 ヤナルは、鼎談の間じゅう、怒っていた。彼女はいまバグダードにいるが、彼女の命を狙う未遂事件が何件かあったといわれている。彼女は私の心を読んだかのようだった。こう言った。「バグダードの警察の現状は、お笑いだ__警察はとてもじゃないが足りないし、アメリカ人たちは、国民の安全のことなんかかまっちゃいない」。ヤナルは、女性が戦後イラク復興に政治的にも社会的にも貢献しているという意見は、ジョークだと言った。昨日までと一変して女性が最大の攻撃目標となったかのような今日、女性が、出ていって社会建設に加わり、それなりの貢献することができるなんて考えるほうがおかしい。彼女は、暫定占領当局(CPA)が段取りした”女性会議”のことも言った。彼女は会場から閉め出されたのである。’イラク女性の女性代表’は全員フェミニスト過激派L.ポール・ブレマーが選任したのだった。

 ますます多くの女性が、追い込まれて職場、学校、大学をやめていっている。私は、先月1ヵ月を費やして、娘に有名薬科大学の再テストを受けさせるよう近所の母親を説得しようとした。その母親は頑固に、娘に何かあったら娘の学位なんて何になるのか教えてくれと迫った。「私の娘は薬学学位のために死にましたと墓碑を書いて、学位を娘の墓に飾れっていうの? あの子は今年は見送ったほうがいい」。

 この番組で最悪だったのは、バグダードの葬儀屋がレイプ被害者はまったく見たことがないと述べたてている場面だ。いま現在こんな状況で、告訴するような被害者がどこにいる? どこに訴え出ればいい? それだけではない、女性たちは恥ずべきことだと思っていてレイプを知られたくない。犯人が絶対捕らないということだけは”確か”というときに、なんでわざわざそんなことをする?___ 誰も犯人を捕まえようという気はないのに。

 番組には、15才くらいの少女が出て誘拐されたときのことを話した。ある朝、5ー6才くらいの弟と野菜を買いに出た。突然赤いフォルクスヴァーゲンが少女の前でキーッと止まった。そして、車の中にひっぱり込まれ、頭にかけていたスカーフで口を塞がれた。少女と弟は、アーダミヤ(彼女たちが住んでいた地域)から遠く離れた土作りの小屋に連れ込まれた。4日間そこに閉じ込められ、誘拐グループから殴られ問いつめられた__両親はいくら稼いでいるか? 家に何か金目なものはあるか? 眠ることも許されなかった。小さな弟だけが彼女の腕に抱かれている間に眠ることができた。4日間、食料はまったく与えられなかった。

 とうとう一味の一人が、少女をかわいそうに思い、入墨をした仲間のギャングたちがもうすぐどこかへ出かけたら、自分がドアを開けておくからと言った。そして、道を行ったところの藁でできた作業場('kushuk')の裏で落ち会うことになった。連中がいなくなると、少女は弟とともに小屋を後にした。ドアは鍵をかけなかった。なぜかというと、その小屋には、ザヨナ(バグダードの高級住宅地、クリスチャンが多く住む)の中学校から誘拐されてきた少女たちが15人いたからである。その男は、少女と弟を家から遠く離れた病院近くで降ろした。

 少女とのインタビューは、記者の「まだ恐いですか」という質問で終わった。少女はその質問が信じられないようすで、こう言った。「もちろん、いまでも恐いわ」。記者はつぎに、学校に戻るかどうか聞いた。少女は目を涙でいっぱいにして”ノー”と頭を振り、スクリーンは暗転してショーに戻った。

 私は昨夜、展転として眠れず、一晩じゅう、ザヨナの15人の少女たちは見つかったかしら、彼女たちの家族が気をしっかりもっていますようにと祈っていた。

リバーによって掲示 午後6時25分

 

2003年9月12日金曜日

現代のおとぎ話

 なぜ昨日9月11日のことを書かなかったか、聞いてきた人がいる。正直に言うと___忘れていたのだ。午後2時になってはじめて気がついた。私は、停電のさ中に起きだし、シャワーを浴び、台所にかけ込んで朝食を手伝おうとした。

 母は、料理用レンジの前の床の上にいて、ガスをつけようとして、ガス・シリンダーに手こずっていた。シリンダーはほとんど空で、青い炎の先は黄色になっていた。消えるのは時間の問題だった。私は台所の入り口に心配して立っていた__ガス・シリンダーは私を不安にするのだ。戦争後、調理用のガスが十分出回っていなかった頃、ガス商人は調理用ガスを灯油を混ぜて売り始めた。その結果、おそろしい爆発が起こった。シリンダーを交換するたび、私は恐くなって台所を飛び出し、爆発するのではと見守るのであった。

 炎が消えかけると、母は私を助けてというように見つめた。「E(弟)に、給油所に行って調理用ガスを売ってるかどうか見てきてほしいわ」「だけどEは昨日は朝の4時まで起きてたのよ」と私は文句を言った。「OK。あなたたち、お茶もコーヒーもいらないのね」

 これがごたごたの始まりだった。ほとんど水がない、昼食を食べにくる親戚のために料理は出来ないし、庭にはスズメバチの巣があって、庭に入ってくるものは誰かれかまわず襲おうとしている。

 2時に電気が復旧したので、私は、テレビの前に座ってアラブ放送のひとつを見ていた。突然、9・11の追悼式典におごそかに参列しているアメリカ兵たちが写った。場所は・・・ティクリート(サダムの生誕地)!!

 私は、見続けた。すっかり混乱して。わざわざこの地を選んで行われたのは、5年先、どこかの忘れっぽい人物が世界に、この戦争が初めから終わりまで本当にテロとオサマ・ビン・ラディンと9・11と大量破壊兵器に関わるものであったという証拠として世界に示すことが出来るようにということなのだ。この特別の場所で行われたのは、1週間後に、誰かに私のところへこういうメールを寄こさせるためなのだ。「もちろん、オサマとサダムの間に関係があったから、イラクを攻撃したのだ。その証拠は、9月11日追悼式典がティクリートで行われたこと」。

 イラクと対テロ戦争をめぐるこの誰もが知る’失われた環’は、妖精みたいだと私は考えている__小さく、気まぐれで、透明に近く・・・そして、存在しない。9月11日直後から、この妖精はペンタゴンに捕らえられ、かごにいれて世界中の閲覧に供された。

 新しい服を着た王様そっくり、誰にも見えないこの不思議な生き物は、自由の敵(訳者:原文は大文字)、サダム・シンパ、最大の恐怖、__非愛国的と非難された。

 それで、たいていの人々は、妖精が見えるということにした。それどころか、それが”見える”と本当に思い込んだ人々もいる。誰もが、実際に見ようとした。不運なことに、その妖精は、しばらくすると縮んで色あせてきはじめた。何百万という注視にさらされて。

 そこで、やつらはどうすることにしたか? ブッシュ、ラムズフェルドら面々は、重大な決定をした。妖精は、大きな壁で守らねばならない。設計図が描かれた。これ以上なく頑丈な煉瓦が選ばれ、フォックス・ニュース、CNNなどが建設業者として選定された。そして、新しいニュース報道のたびに、煉瓦が積まれた。壁が高く強力になるまで。要塞のようになった。そして、誰もが、その壁の背後に何があったか忘れてしまった。それは妖精だといわれたもので・・・存在したかもしれないし存在しなかったかもしれないもの。そして、妖精もことの次第ももはやまったく問題でなくなった。とにかく壁はそこにあるのだ。

 で、妖精は? 妖精は、トンネルを掘って、イラン__シリアかも__いや北朝鮮__へ逃げた。時がたてばわかることだ。妖精は再び捕えられるだろう。

リバーによって掲示 午後6時22分

 

最近・・・

 ここ何日か書いていなかった。ただ書きたい気持ちにならなかったから。イラク全体ではとてもたくさんの出来事があり、個人的にはほとんどなにもなかった。テレビに映し出される私たちの暮らしとされているものは、実際それを生きることとはものすごく違う。なにか恐ろしいことがどこかで起こっていると聞くと、なんとか理解しようとし、つぎにそれについて’洗いざらい’よーく考えて、そこに知り合いはいないか、どうやって連絡をとるか、答を見つけようとする。

 3日前、アルビル(イラク北部のクルド人自治地域)で大爆発があった。アメリカ諜報機関本部の前で車での自爆攻撃だったということだ。犠牲者の数は、放送局によってみな違っている。しかし、これだけは確かだ__本部と道を隔てた家の子どもが殺された。なんということ!

 また、アメリカ軍が駐屯しているモスル中心部のモスルホテルに対し攻撃があった。これは昨日のことで、誰も犠牲者の数について言わない。

 昨日は、ラマディとファルージャでも占領軍に対する攻撃があった。それだけでなく、ハルディア(ラマディとファルージャにはさまれた地域)では、戦闘と銃撃が1時間半以上も続いたということである。

 ファルージャでは、今朝警察官がアメリカ兵に撃たれた。何人が亡くなったかはわからないが、’事故’の全体像は残虐きわまりないものだった。アメリカ兵による’過誤’で7人ものイラクの警察官が殺されたという。これはファルージャにとって大変なことだ___4月と5月に起こった銃撃事件のため、すでにアメリカ人に対しものすごい敵意があるのだ。

 キルクーク(トルクメン人が優勢な地域)でもまだ戦闘が行われている。その理由は、バイシマーガ(Bayshmarga)(クルド人の民兵)が、この地域に配属されたためだ。トルクメン人とクルド人の間には、敵意のようなものがずーっとあった。だから、バイシマーガ(Bayshmarga)をこれみよがしに登場させることは、事態を悪くするばかりだ。トルコはキルクークの治安維持のためとして’平和維持’部隊を送り込みたい。しかし、クルド人は頑強に拒んでいる。

 さらにバグダードだ。バグダードはどう? バグダードはめちゃくちゃだ。ザユナ(東バグダードのすてきな地域)では、昨日ギャング同士の戦闘があった。人々は、巻き込まれて路上で撃たれた。その情景はものすごく恐ろしかった。

 イラク警察はたまには見かける。だけど、この状況を考えると、その人数は冗談じゃないといいたいほど少ない。警察官は、ブルーのシャツ、紺色のズボン、国旗とIPと記された黒い警察バッジを付け、手に握ると小さくみえる7ミリベレッタ銃を携帯している。おまけに、この銃は、しょっちゅう抜かれるのだ。彼らは、交通規制をするのに銃を振り回し、車を止めようと銃を振り回し、ケンカをとめようと銃を振り回す___きょうびコミュニケーショにはこれが一番。戦車だったらもっとうまくいく(もっとも振り回せないけれど)。

 ほかの地区で、12才の少年が庭で遊んでいて撃たれた。当のアメリカ兵たちは、少年は巻き添えをくったのだと言っている。少年の母親は髪を振り乱して泣き叫び、父親は地面を叩いてうめいた。彼がだれかを殺してもおかしくなかった。

 人々は将来について語る。今から5年後、今から10年後、今から50年後には、もっとよくなっているだろう。だけど、中にはもう’将来’なんてない人々もいる。あの少年の両親にとって、イラクの将来もアメリカの将来も何の将来も、もうどうでもいいだろう。昨夜、自分たちの’将来’を葬むったのだ。イラクで毎日のように死んでいく兵士たちの両親にとっての’将来’と、この少年の両親にとっての’将来’はまったくかわりはないと思う。

 ブッシュが’テロリストに戦争を挑んだ’とき、戦争は隔絶した山地や何もない砂漠で戦われるのではないと言うべきだった。つまり、前線とは私たちの家・・・そして’付帯的損害’とは、私たちの友人や家族のことであると。

リバーによって掲示 午後6時16分

 

ターニング・テーブルズ・・・

 2週間前にある人からターニング・テーブルズ(http://www.turningtables.blogspot.com/)のことを教えてもらってからずっと、追いかけている。’Moja’はイラクの占領軍にいくぶん人間の顔を与えている。私は、彼のブログを読み、アメリカ兵たちを見、考える。もしかしたら彼かも? ’向こう側’からの言い分を読むのは奇妙な感じだ・・・。

 彼が無事に帰国できますように。

リバーによって掲示 午後6時5分

 

2003年9月9日 火曜日

友人たち、アメリカ人、同胞・・・

 昨日、ブッシュの演説を聞いた。読みもした。私は、彼を1分と続けて見ていられなかった__それほど憎んでいる。彼を見ていると気分が悪くなる。彼は目をぱちぱちさせ口をすぼめ立っている。これでもかこれでもかとばればれの嘘を吐きながら。まったくとことんバカに見える。私は、彼のうつけた姿とざらざら声に耐えられる限り聞いていた。ついに消した。またつけた。そしてまた消した。最後にはスクリーンにクッションを投げつけようとした。が、考えなおした。彼は、そんな値打ちはない。あんなやつが本当に世界を支配しているの? 彼が2期目もやるなんてあり? とんでもない___

 彼の演説は全編これ、アフガニスタン以来彼が言い続けてきたことのばかげた繰り返しにすぎなかった。「もっと金をくれ、もっと権力をくれ__おまえたちのためにやってるんだ、ベクテルとハリバートンはまったく関係ない」。同じことばかり言って、飽きないんだろうか。聞く人も飽きないんだろうか。

 唯一私が同意したことはこれだけ。イラクにはテロリストがいる。本当だ。占領以来ずーっと、テロリストは何千、何万もここにいる。彼らは、近隣諸国から国境を越え浸透してきていて、’有志連合’も防衛できないし、イラク軍に防衛させようともしない。テロリストのうち何人かは、現在統治評議会のメンバーだ。ダーワ党は、イラクと近隣諸国のひじょうに残虐な爆破事件のいくつかの犯人である。

 イエス。これらすべて、アメリカの責任だ。イラクにはアルカイダはいままでいなかったし、関係さえもなかった。アンサール・アル・イスラムは、アルカイダとの関係を疑われているが、このグループは、2人のクルドの指導者たちのおぼえめでたく、北方地域で活躍している。

 そこで以下を読んで。

「この数週間、あなたがたが聞いたり読んだりした攻撃は、主にイラク中央部、バグダードとティクリートの間で起こりました__サダム・フセインのかつての本拠地です。イラク北部は概して安定しており、再建と自治への道を歩んでいます。南部においても同じ方向に進んでいることは明らかです。最近のテロリスト・グループの攻撃は別ですが。」

 本気で? たった昨日のこと、アメリカ軍の武装車両が北部のモスル大学の門前で燃やされたというのに。南部では、英国軍に対する攻撃が日増しに増加してきているというのに___攻撃のことを聞かない日はない。バグダードでは___ごくありふれた出来事になった。バグダード空港は、たえまなくミサイルに攻撃され、バグダード中で同じような攻撃が起こっているという・・・ブッシュに何が起こっているかほんとうのことをまるで教えていないのは、どこで大量破壊兵器が見つかるか教えてやったのと同一人物だろう・・・。

 「大規模な戦闘行為の終了以来、われわれは、敵の武器と大量の弾薬の貯蔵庫を押さえるために家宅捜索を行ってきました。また、数多くのサダム・ロイヤリストとテロリストを捕らえ殺しました」

 そのとおり。私たちは、’家宅捜索’のことならよーく知っている。家宅捜索統計をとっといたらよかったと思うくらいだ。’ロイヤリストとテロリスト’には、バグダード、ジハード・クォーター地区のモハンマド・アル・クベイシの名があるにちがいない。彼は11才だった。家の2階のバルコニーに出て、庭で起こった騒動の一部始終を見ようとしていた。騒動とは、アメリカ軍による家宅捜索だ。モハンマドはその場で撃ち殺された。私は、もう一人の小さなテロリストを思い出す。彼は、4日前、バグダード東北の郡、バクーバで殺された。このテロリストは10才・・・どうして、どうやって、軍の一員に撃ち殺されたか、誰も知らない。彼の家が家宅捜索されている最中のことだった。何ひとつ武器は発見されなかった。バース党員はひとりも発見されなかった。大量破壊兵器もまったく発見されなかった。アメリカは、さぞ安心したことだろう。

 おまけに、イラクとイランの国境は、バディル(Badir)旅団に警備が任されている。バディル(Badir)旅団だって! 信じられない。私は、国境はバディル(Badir)旅団のような武装民兵が侵入してこないよう守る必要があると思っていたのに。アラブには次のような諺がある。「Emin Il bezooneh lahmeh」。意味は、「猫に肉の番をさせる」。わかったわ。イランとの国境線をバディル(Badir)旅団に投げ与えるがいい、いますぐに。

 たった2日ほど前、バグダードのアル・ベリディヤート(Al-Belidiyat)地区でバディル(Badir)旅団によって、女性の校長が二人、’処刑’された。彼女たちは、退職するよう警告された。彼らは後がまに’シンパ’の校長を据えるつもりだったのだ。彼女たちは警告を無視した。そして、撃たれた。こんなことは、きょうび簡単だ。もちろん、これはテロでない。テロとは有志連合(Coalition of the Willing)が狙われることをいうのだから。

 誰もが答を求めている。「何をすべきか?」。アメリカ軍を撤退させよ。家に帰れ。安全保障委員会のもと、国連の平和維持部隊を導入せよ__ただし、アメリカの主導によらず。

 正真証明のイラク人をイラク統治に関わらせよ。実際に”家族”がイラクに住んでいるイラク人に国の統治を任せよ。失うべきなにものかをもつイラク人に国を統治させよ。彼らにはまったくチャンスが与えられていない。統治評議会にイラク人が一人もいない党派があるかぎり、だれも耳を傾けはしない。

 イラクには、自ら進んでイラクのために働きたいと望むおおぜいの有能で知的で革新的な人々がいる。しかし、このような状況ではなにも出来ない。安全はなく、仕事もなく、奨励するものもない。そして何よりも、この人々の声を聞こうとするものは一人もいないのだ(訳者:この文は大文字)。暫定占領当局(CPA)の一員か、アハマド・アル・チャラビの取り巻きかでないと、’ごみ’なのだ。信用されないのだ。

 ブッシュの演説を読んだ・・・この数ヵ月の間に読んだおびただしい数の演説の同じようなものを聞き、読んだなという感じ。空疎な言葉、無意味なフレーズ。

この演説の要約版・・・

「友よ、アメリカ人よ、同胞よ、ちょっと耳を貸していただきたい・・・あなたがたの息子たちと娘たちを、あなたがたの税金を、貸していただきたい・・・そうすれば、国家安全保障の名において戦争を遂行することができます(世界の人々は喜んでアメリカの安全保障のために死ぬでしょう)・・・そうすれば、国民を守ることに失敗したという、わたしの無能さかげんを隠すことができます・・・そうすれば、あなたがたとイラクの人々の犠牲によって、ブッシュ・ファミリーとチェイニー・ファミリーの金庫の中味を増やすことができます。わたしは自分が何をやっているかわからない。しかし、あなたがたが十分金を出せば、わたしがしていることを信じる気になることでしょう」。

リバーによって掲示 午後10時43分

 

2003年9月8日月曜日

 やしの葉かげで・・・

 今日は水道が止まったり出たり。家中ありったっけの瓶や容器をいっぱいにした。水圧はほんとに低い。超低い位置にあるうちの庭の水道の蛇口は、この一帯でときどき水を滴らせるわずかな蛇口のひとつ。近所の人々はみんなバケツ、ポットを寄こしてくる。愛と感謝のメッセージも___私、新しい仕事を見つけたのかも。

 太陽は沈み始めたところ。空は青、オレンジ、グレーのコンビネーション。私は、暖かい乾いた草の上に立って、ポットが水で満たされるのを待っていた。

ちょうどそのときだ、誰かが庭の門をたたく音がした。イフサーンだった。道を隔てた向かいの家の10才の少年。できたてのフブズ(’khubz’)(全粒粉のピタパンに似てる)を抱えて、自分のうちの隣の家を横目で見ていた。

イフサン:アブ・ラードが見つかった。

わたし:ほんとう? 見つかったの? アブ・ラードは・・・?

イフサン:死んだ。ラードと妹たち(アブ・ラードのこどもたち)は僕のうちにいる。

 私は、道の向こう側の家を見つめた。家の前に3台の車が並んでいた。まるでお葬式の行列みたいに。イフサンは私の視線を追って、真剣な態度で頭を振った。「ラードは家に戻されていない___明日の夜明けに葬られることになってるんだ」。イフサンは、パンを私に渡して走って家に帰っていった。彼が家にむかって道を横切って飛んでいくとき、ゴムゾウリが片方脱げた。熱くなったアスファルトを踏んで、彼は悲鳴をあげ、へんてこなコウノトリみたいに片足でぴょんぴょん飛び回った。

 私は、ベージュ色の漆喰でできた、アブ・ラードの末期の家を見つめ続けた。悲しみでいっぱいになって。かつて緑だった壁を這うつたが、黄色く枯れかけていた。ほこりっぽい窓にはカーテンがひかれ、家は廃屋のようだった。誰か住んでいる唯一のしるしは、ドライブウェーの輝くタイルだけだった。善意の隣人たちが毎日洗っているのだ。

 とうとうアブ・ラードが見つかった。

 アブ・ラード(ラードの父という意味)は、自営の弁護士だった・・・もしそういってよければ。バグダードの繁華街に机3つほどの事務所があって、事務員と共同経営者がいた。

 4月10日、混乱の真っ最中、アブ・ラードは、妻と3人の子どもを残して、1週間前から連絡の途絶えている両親のようすを見に出かけた。午前10時、彼はトヨタに乗り込み、お祈りを唱え、家族を探しに出かけた。彼は帰ってこなかった。

 3日間、ウム・ラード(ラードの母)は、夫が両親の家になんらかの理由で留まっていると思っていた。行ってみたら家族の誰かが怪我をしていたのかもしれない。母親か父親かが亡くなっていたのかもしれない___彼の父親は重病で年とっていたのだから、やはり・・・もしかして、戦闘が激しく、その一帯から出られないのかもしれない。考えることはきりがなかった。とうとう、近所のある人がウム・ラードの兄に、アブ・ラードの親のうちへ行って、アブ・ラードの無事を確かめてくれと依頼する手紙を届けた。長い一日が過ぎ、こわばった表情でウム・ラードの兄が家に来た___アブ・ラードは、親の家にいなかったというのだ。そもそも訪ねて来ていないし、誰もどこにいるか知らないと。

 7日間、誰もが、彼はアメリカ人に拘束されていると思っていた。何百人もの市民が不適切な時間に不適切な場所にいたというだけの理由で刑務所に入れられたと聞いていたから。アブ・ラードの弟と義理の兄は当局を毎日訪ねた。さまざまなホテル、2ー3のまだ診療している病院にも行ってみた。アブ・ラードを探して拘留者と捕虜の気が遠くなるほど長いリストにもあたってみた。

 4月の終わり頃、家族はアブ・ラードは死んだとあきらめた。35才の妻は頭からつま先まで黒い服を着て、遅かれ早かれもたらされるはずの知らせを待っていた。

 私は、5月の初め、初めて彼女を訪ねたときのことを思い出す。それはとても気のすすまない訪問だった。希望をもちたいと思っていたけれど、希望の種子になるようなことは何もなかったから。彼女はリビングルームのソファに座っていた。とても小さく沈んでみえた。うわのそらでティッシュをちぎっていて、ぼんやりと追悼と同情の言葉を聞いていた。言葉は明らかになんの慰めにもなっていなかった。3人の子どもたち、1才、4才、10才はそばに座ってとても静かにしていた。彼らはじっと座って、母親の表情から状況を推しはかっていた。妻は、夫がが死んだとわかっていたけれど、泣く気にはなれなかったのだ。

 それでもなお一家は捜索をあきらめなかった。アブ・ラードの足どりを家から両親の住むアル・ジャミア・クォーターまでたどった。途中、焼かれた車を見ると立ち止まって調べ、その辺たりに住む人々に、40才くらいの男が運転する1985年製のトヨタを見なかったか聞いた。戦車に銃撃されたか? 米軍ヘリコプターに撃たれたか? 人々は同情してくれたが、有力な情報はなかった__白いトヨタは見なかった。6人乗った青のキア、両親とこども二人乗った赤いフォルクスヴァーゲンなら・・・が、白いトヨタは見なかった___。どのときも、主要道路沿いの臨時墓地を調べるように言われた。数週間前から、バグダードの主要道路沿いに臨時の墓が並んでいた。

 米軍の戦車と戦闘ヘリコプターがバグダードに侵攻してきたとき、かれらは進入路にいる車に向けて相手かまわず撃った。一番やられた地域は、アル・ダウラ(Al-Dawra)とアル・アーダミアであった。住宅地の住民は、よそから来た、焼かれた車の死体をどうしていいかわからなかった。それらは、激しい戦闘地域を逃れようとしてきた人や家族(そのうちには当局に強制立ち退きさせられた人々もいる)の死体だった。

 死体は、熱で焼かれたまま車内にあって、身元がわかるどころではなかった。米軍に死体をどうにかするのを手伝ってくれと頼んだ人もいたが、「われわれの仕事じゃない」という言葉が返ってくるだけだった。そう、もちろん、「仕事じゃない」。なんてばかな・・・あなたがた、米軍の仕事は車を焼くこと、で、わたしたちの仕事は死体を埋めること・・・。

 とうとう人々は、道路沿いに死体を埋葬しはじめた。焼かれた車のそばに。そうすれば、車を目当てに捜しに来た家族が、すぐそばに愛する人々を見つけることになろう。

 数週間のあいだ、バグダード中に小さな盛り土があった。市外へ続くハイウェー沿いに、れんが、石、サインなどでしるされて。どれも椰子の葉が飾られていた。椰子の葉はまっすぐ立つように根元を埋められ、乾いてしおれていきながらも墓の位置を教えていた。入念に積まれた石の下に小さな厚紙の標識をおいた墓もあった、さがしに来た家族の人たちに役立つように。’大人男性、女性、子ども2人、メルセデス黒’。’大人男性、少年、ピックアップトラック白’。

  犠牲者たちが乗っていた車のナンバープレートを標識にしたものも多かった。けれど、圧倒的に多いのは、椰子の葉の標識だった。

 何週間ものあいだ、墓の列をたどってかがみ込んで、死者たちを識別しようと捜す人々の姿があった。アブ・ラードの家族も同じようにしたのだった。5月、6月、7月、8月とずーっと。

 そしてやっと、3日前、アブ・ラードの両親の近所の老人の話から、当時数日間、その地区に入る道が閉鎖されていて、市の反対側から来る人々はまわり道しなければならなかったということがわかったのだ。郊外のその一帯、臨時墓地には焼かれた車が数台ある。彼らはそこを捜すように言われた。「息子さんが見つかるかもしれない」。

 そしてついに、アブ・ラードを見つけた。今朝のことだ。彼が通ったと思われていた道ではなかった。焼かれて砂ほこりの原っぱに引きずりこまれていた数台の車のうち1台が、1985年製の白いトヨタで、後ろに座席の焼け残りがあった。墓はそばにあった。彼らは’大人男性、トヨタ白’を見つけ、近所の親切な人々の助けを借りて、アブ・ラードを掘り出して確認した。

 わたしたちは、ウム・ラードにお悔やみを言いにいった。子どもたちは、イフサンのうちに行っていて、彼女は深い悲しみのうちに親戚や家族に囲まれていた。暗くなったリビングルームに石油ランプとろうそくがともされていた。悲しみにうちのめされた顔、顔に石油ランプとろうそくが光をなげていた。彼女は初めて泣いた。

 明日、明け方に、家族によって掘り起こされ、すでにいっぱいの家族の墓に正式に葬られる。彼の父のために用意された場所に、数十の椰子の木の一本の根元に。

リバーによって掲示 午前1時54分

 

2003年9月7日日曜日

ただいま入りましたニュースです・・・

 たったいま面白いニュースを聞いた! ラムズフェルドの飛行機がバグダード空港からクウェートへ向けて飛びたつや、飛行機めがけてミサイルが発射された。が、当たらなかった! もっとわかればと思うけれど___ちょっと言っておきたかった。

 かの人形使いはブレマーと操り人形たちに会った。だけど、役者はそろってはいなかった__ブッシュがいなかったから。

 ドナルド・ラムズフェルドのイラクについての最新のコメントは、すごい。・・・「シカゴのようだ」だって。オモロイヤツ。

 いい? 私は彼の言うことに同意する___ただ彼はそのステートメントを正しくむすんでいない。彼がほんとは言うべきだったことは、「シカゴのようだ___1920年代の、アルカポネが支配していた頃の。ギャング、民兵、乱闘、略奪、復讐、うさんくさい取引、暗い街角にたつ怪しい人影」。

 アルカポネの代わりに、ここにはアル・ジャファリ、アル・チャラビ、アル・ハキム、ポール・ブレマーがいる。

 今日、アメリカ軍に対する攻撃が数回あった。もっともすごかったのは、バクーバとモスルだ。2ー3時間前に、バグダードでも2回あった。バグダードの事件は、まだテレビでやっていないけれど、鈍い爆発音を聞いた。近所の人が、E(弟)に焼かれた装甲車を見たと言った。

 もうひとつコメント。私がもらった多くのメールは、ラムズフェルドに対する私の感じ方に共感していたが、たった”一つ”彼を擁護するものがあった。これはという表現もあったので、聞いて。

 基本的に、そのメールは、ラムズフェルドは英雄的で、とても同情心にあふれた人物と言っている。さらに、私たち恩知らずのイラク人は恥ずべきだとも。また、私はバース党員にちがいないって。もちろん、バース党員”以外”のいったい誰がこの聖なる戦争に反対するだろうか、って理由で。(くだらない、”聞き飽きた”主張)

 もうひとつ、面白いところ。「おまえらのばかな仲間が突っ込んだとき、ペンタゴンにいたのが、サダムでなく、ラムズフェルドだったことの好運を感謝すべきだ。そうでなかったら、おまえら一党は即放射能まみれになっていたんだ」

 ほんとに、わたしは、ダギーちゃん(メールの主、こう名前をつけた)がペンタゴンにいなかったことにも感謝すべきだ。なぜなら、彼は思いにあふれたメールをこう結んでいるから。

「わたしだったら、トレードセンターが攻撃された10分後におまえらをこの世から消しちまっただろうに」。

 これですっかり元気になった。だって、私のラムズフェルドとその一派に対する疑いをはっきり裏づけるものだったから。このメールは、もっと知的なものより、私にブログ読者の多様性を気づかせてくれた。ダギーちゃんみたいな人が、フォックス・ニュースを見る時間を割いて私のブログをチェックしてくれているなんて、光栄なこと。ありがとう、ダギーちゃん、おかげさまで、いい日になったわ!

 だけど、ラムズフェルド本人が私にメールしてくれたのならよかったのに___どっちにしろ、うれしいわ__ブログを読み続けて!

リバーによって掲示午前3時33分

 

2003年9月6日土曜日

悪いことが重なった日・・・

 悪いこと、その1:モスク襲撃

 悪いこと、その2:断水

 悪いこと、その3:ラムズフェルド

 今日、バグダードの人口彫密地域アル・シャーブで、武装した男たちが、朝の礼拝中のモスクに車でのりつけ、礼拝中の人々を銃撃した。恐ろしい出来事だった。死者は3人という人もいるし、もっと大勢という人もいる・・・誰も彼らがだれか、どこから来たのか知らない。が、セミオートマティックのマシンガン(わたしの知るかぎりでは、軍の兵器ではない)を使っていたといわれている。そこにいたのは、ほんとに普通の人々だ。信じられない、悪夢のようだ・・・神殿やモスクがもはや安全でないなら、いったい”どこが”安全なの?

 今日は一日中水道が止まっていた。なんてこと。ふだんは、少なくとも数時間は出ている。今日はゼロだった。E(弟)が出かけて、水道管の破裂でもあるのかと聞いてみた。近所の人は何も知らなかった。誰もがいわれなくいらだっている。

 忠告。水はあって当たり前と思わないこと。冷たくて清浄な澄んだ水で手を洗うときはいつもともかく神さまに感謝のお祈りをすること。臭いのない真水を飲むときはいつも、同じようにお祈りすること。コップに残ったきれいな水を、けっして流して捨ててはいけない___植木にやるとか、猫にやるとか、庭に流すとか__なんでもいいけど。けっして当たり前とおもってはいけない。

 さいわい、昨日、私はびんに水を汲んでおいた。家には、何十もびんがある。ガラスのやプラスティックのや。ちょっとでも水道が出ているときはいつも、貴重な一滴を逃さないために、蛇口の下に何かで受けておく。びん、ポット、魔法びん、バケツ___水を貯められるものならなんでも。ましな日もぜんぜんの日もある。

 問題はこうだ:停電しているとき、市の水道ポンプは動かない___水圧はとても低くて、水は蛇口までたどりつかない。電気が”ついて”いるとき、みんないっせいに自分のうちの水道ポンプを全開して、屋上のタンクをいっぱいにしようとする。そこで水圧はまた下がる。

 洗濯は、やっかいだ。自動洗濯機は時代遅れ___役たたずだ。一番いいのは、次に述べるような小さな”国産”洗濯機である。それは、小さなごみ容器のようなかっこうで、水と洗剤を満たし、衣類をほおりこむ。衣類はビューンと10分くらい回る(電気がなければだめだけど)。衣類を引っ張りだし、きれいな水でゆすいでしぼる。しぼった水は、洗濯機に返す。洗濯終了後、使い終わった汚れた石鹸水で、タイルのドライブウェーを洗いながす。

 食器洗いも問題だ。ほんとに必要なものだけしか使わないようにしている。バケツやおけにためている水の大部分は、人間を洗うために使う。昔風のやり方で洗っている___小さなおけに水を満たし、ひしゃく、へちま、石鹸、シャンプー。問題は、暑いため、誰も日に2回は洗いたいということだ。洗うのに一番いい時間は、寝るまえ、なぜなら、洗い終わったあとの気持ちのいい数分間は、涼しくて眠りにつきやすいからだ。シャワーの気持ちよさは忘れてしまった・・・。

 戦争前、多くの人が庭に井戸を掘った。その井戸は、よく知られているような形態のもの___丸くて石壁でとりまかれ、真ん中にバケツの吊り下がった__ではない。それは、地面にあいたほんの小さな目だたない穴で、機械ポンプが付いている。多かれ少なかれとにかく水は出る。その水は、飲むためには煮沸し塩素消毒しなければならない。

 さらに悪いことには、ラムズフェルドがイラクにいる。そこらをこれみよがしに歩きまわるのを見るなんて、ぞっとする。私は、彼の顔に貼りついた、冷酷で独善的な表情が大嫌いだ・・・本当に残酷な表情をしている人間っているものだ。彼をテレビで見たとき感じた気持ちは、ブレマーや操り人形の一人を見たときとは違っていた。後者に対しては、あざけりと軽蔑だった。ラムズフェルドのときは、もっと違う何か__怒りと嫌悪感があった。痛めつけるだけではなくさらに侮辱を加えるために彼はここに来たと感じられる___そう、われわれが被占領国民であること思い知らせるために。

 そしていま、ラムズフェルドは、アメリカに帰り、’混乱’についての話で、誰もが言うことがらについて、何にも知らないと演説する(ともかく”彼は”ボディガードに守られて安全だった)・・・電気も水道もうまく通じている(つまり彼のエアコンは”うまく”動いていたってこと)・・・国民はとても喜んでいて、交通はしょっちゅう停滞する、なぜならイラクの人々は、通りで踊っているからだ・・・’軍’は、この英雄的歴史的任務についていることをひじょうに”ありがたく”思っている・・・子どもたちは彼に手を振り、兵士は彼を歓呼で迎え、犬は歓迎してしっぽを振り、鳩は彼の頭上を旋回した・・・

 もううんざり!

 わたしは泣き言を言っているのでない__見えないだろうけど、怒鳴りまくっている。いま現在、私は____コンピュータのスクリーンにこぶしを振り上げテレビに向かってこぶしを振り上げラムズフェルドの頭に英語とアラビア語でありったけの雑言を浴びせている(鳩よ、彼の頭をくそまみれにしてしまえ)・・・私は怒っている。

リバーによって掲示 午前12時7分

 

2003年9月3日水曜日

新内閣

 2日前、統治評議会は、新イラク内閣が選ばれたと発表した。新内閣の構成は、統治評議会の構成とまったく同じ:シーア派ムスリム13人、スニ派ムスリム5人、クルド人5人、クリスチャン1人、トルクメン人1人。

 イブラーヒーム・アル・ジャファリの長い退屈な演説に続いて、閣僚が’宣誓就任’した。私が違っていたら言って。閣僚たちが遵守を誓うべき憲法がなければならないんじゃない? もちろん、ない。

 閣僚のうち今日宣誓就任したのは、16人だけ。なぜなら、9人は’物理的事情’(つまり、まだ国外にいるってこと)によりその場に来ることができなかったから。’閣僚’たちの大部分がこれまでの人生の大半を海外で過ごした人々だというのに、各省がうまく機能するのかどうかわからない。各省には、アメリカ人の’顧問’がついて、補佐することになっている。そのアメリカ人顧問たちがブッシュがホワイトハウスで飼っている連中よりましなものでありますように・・・。

 

注目点いくつか・・・

○ アハマド・アル・チャラビ、ジャラル・タラバニ、イブラーヒーム・アル・ジャファリが閣僚として宣誓就任した。

○ 女性閣僚が一人いる。ニスリーン・ムスタファ・バワリ(Nisreen Mustafa Bawari)である。宣誓就任のあと、彼女は、アル・チャラビ、タラバニ、アル・ジャファリと握手しはじめた、まるで彼女の男性版みたいな面々と。アル・ジャファリは握手を拒絶した、なぜならダーワ党は直接の縁者でない女性に触れるのは’罪’であると考えているからである。

○ モハンマド・ジャシム・ハンダール(Mohammd Jassim Khudhair)(国外移住移民省長官)は、ネクタイをしていなかった。原理主義イスラム教徒の多く(イラクの原理主義者のような)は、ネクタイをしない。なぜなら頭と腕を加えると、’十字架’の象徴になり、十字架はキリスト教の象徴で・・・ね、もうわかったでしょ。

○ 石油省長官は・・・イブラーヒーム・モハンマド・バール・ウル・イルーム(Ibraheim Mohammed Bahr Ul-lloom)、統治評議会のモハンマド・バール・ウル・イルーム(Mohammed Bahr Ul-lloom)(9人の輪番議長制の参加権を保留している人)の息子である。親族重用かしら? 優れた人物が輩出する家系にちがいない・・・。

リバーによって掲示 午後6時30分

 

忘れてしまったの?

 9月11日は、悲劇だった。3000人のアメリカ人が死んだからではない・・・3000人の人間が死んだからだ。私は、9月11日に犠牲者と家族の間に交わされた電話の録音に残された会話のことを読んでいたのだ。私は、これは・・・完ぺきに時機を考えた恐ろしいたくらみだと思った。人々が、9月11日がもたらした結果と目下の占領の背後の動機について疑問を持ち始めたまさにそのとき、9月11日を思い出させるもので直撃する。気にすることはない、イラクはなにも関係ない。

 わたしのところには、9月11日の悲劇を思い出させるメールが絶え間なく届いている。そして、”アラブ人”がどのようにしてこれらすべてを自ら招き寄せたかを教えてくれている。気にすることはない、もとはアフガニスタンのせいだってことだったんだから(アフガニスタン人はアラブ人じゃない、念のため)。

 たえず、その日死んだ3000人のアメリカ人のことを思い出さされる・・・そして、ミサイル、戦車、銃で殺された8000人の名もなきイラク人のことは忘れろと言われる。

 人はわたしたちが、町に出てカーキ色の巨大な戦車をバラやジャスミンで飾ってはいないといって驚く。私たちが、兵士たちの醜く硬いヘルメットを月桂冠で飾ってはいないといって不思議がる。私たちが、死者たちを民主主義と自由の神々に犠牲(いけにえ)として差し出したことを喜ばないで、嘆き悲しんでいるといって問いただす。なぜ私たちが敵意をもっているのかわからないのだ。

 しかし、私は、”忘れてはいない”・・・

 私は、1991年2月13日をおぼえている。バグダードの人口の多い住宅地、アル・アミリヤの避難壕の上に落とされたミサイルのことを。爆弾はひじょうに高性能で、第1発は、シェルターの中心部を射抜き、2発目は内部に入って爆発した。避難壕は、女性とこどもでいっぱいだった__15才を超える少年は入れなかった。私はおぼえている。避難壕をとりまくフェンスにしがみついた恐怖に満ちた人々、避難壕の壁のうちを逃げまどった娘は母は息子は家族はどうなったのか教えてくれと泣き叫び続ける人々の姿の映像を。

 私はおぼえている。黒こげになって人間とも思えなくなった死体がひきずり出されるのを見たことを。私はおぼえている。人々は気が狂ったように、遺体から遺体へ走り回り、愛する人を捜していたのを___私はおぼえている。イラク人の救援部隊が避難壕を片づけていて、内部のすさまじい光景に気を失ったことを。私はおぼえている。何週間も何週間も、人肉の焼ける臭いがあたり一帯たちこめていたことを。

 私はおぼえている。真夜中すぎに恐ろしい死に方をした400人余の人々を弔おうと何年かたって避難壕を訪れた日のことを。そして、壁に天井に貼りついた亡霊のような人間の輪郭を見たことを。 

 私はおぼえている。2月13日、妻と5才の娘と2才の息子をなくした家族の友人が、気が狂ってしまったことを。

 私はおぼえている、いろいろ言い訳をしたあげく、ペンタゴンがあれは”ミステイク”であったと主張した日のことを。

 私はおぼえている、誰も見つけていない大量破壊兵器の大義のもとに、米英によって堅持された13年の経済制裁を。制裁はひじょうにきびしく、私たちは薬のような必需品も何カ月も何カ月も待機リストに名を連ねて待たねばならなかった。私はおぼえている。水の消毒に使う塩素などの化学薬品が検査に手間どって遅れて届き、何百万人が死んだことを。

 私はおぼえている。救援活動をする人々や活動家を訪ねなければならなかった。「どうぞ本をもってきて」と頼みに、なぜなら、出版社は、科学関係書籍や雑誌をイラクで売ることを拒否したから。

私はおぼえている。大学で級友たちと本を’シェア’しなければならなかったことを。少ない資源の有効利用。

 私はおぼえている。大きな病院ベッドの小さなからだ___飢えと病気で死にかけている。’禁止’の薬品さえあれば簡単に治ったのに。私はおぼえている。うちひしがれた両親が医者の目を心配してのぞき込んでいる。奇跡が起こらないかと期待して。

 私はおぼえている。劣化ウランのこと。どれだけの人が劣化ウランのこと知ってる? イラクの人々にとっては、日常語。1991年に使われた劣化ウラン(そして、今回もおそらく)は、環境を破壊し、イラクのガン発症率は天文学的数字で増加した。私はおぼえている。片目の赤ん坊、3本足の赤ん坊、顔のない赤ん坊が生まれるのを見たことを___劣化ウラン汚染がもたらしたものだ。

 私はおぼえている。イラクの’南部と北部’を守るためという、米英の飛行機に爆撃されて、何十人もが’飛行禁止地域’で死んだことを。私はおぼえている。モスル郊外に住む母親が、夫と5人の子どもをなくしたことを、アメリカの飛行機が、おとなしく草をはむ羊たちの牧場の真ん中で父親と息子たちを爆撃したのだった。

 そして、これがすべてほかならぬイラク国民のために行われているというふうに信じなくてはならないのだ。

 ”忘れてしまったの、その日の気持ち

  戦火のなかのあなたの国を見たときの

  国人(くにびと)が吹き飛ばされるのを見たときの”

いいえ・・・私たちは忘れていない___まだ戦車はここにいて、いやおうなく思い出す。

 アミリヤに住むE(弟)の友人は、そこでアメリカ兵に話しかけたときのことを話してくれた。Eの友人は、避難壕を指し示し、1991年の暴虐について語った。その兵士はこう言って開きなおった。「ぼくに責任はない__たった9才だったんだから」。私はたった11才だった。

 アメリカ人の長く記憶しているのは、アメリカ人のトラウマだけだ。自分たち以外の人々に対しては、ただ’過去は忘れろ’、’前進’、’現実的に’、’克服しろ’というのだ。

 私にこう聞く人々がいる、ワールド・トレード・センターが倒れたとき、イラクの人々が往来で踊ったというのはほんとう?。もちろん、ほんとうではない。私は、テレビを信じられない思いで見ていた___恐怖にかられた人々の行動を見つめていた。ダンスをしてはいなかった。なぜなら、映し出された恐怖にとらえられた顔は、2月13日、アミリヤ避難壕の前にいた人々の顔であったかもしれないから___恐怖が民族の違いをいかに消し去るか、不思議だ___愛する人々の死を目撃するとき、顔はみんな同じに見える。

リバーによって掲示 午後6時8分

 

2003年9月1日月曜日

今月の操り人形 

 今日、9月1日は重要な日だ。アハマド・アル・チャラビがついにその政治的大望の大すじを達成したのだ。長年の横領、共謀、謀略はすべて帳消しとなった。彼は、現在の輪番制議長だ。こうして公式に’大統領の任期’を開始したわけだ。

 正直なところ、私はこれを待っていた。私は、彼のインタビューをすべて見、手にはいる限りの記事を読んだ。彼を将来の指導者としてこれほど熱心に後押しようとペンタゴンに決断させるについて、どんな隠された魔力、ずるがしこさが働いたのか、知ろうとして。私がいまほどよく知らなかったとしたら、まあ彼はワシントンのよくできた内輪のジョークのたぐいねなどと言っていただろう。つまり、「ブッシュにはがっかりさせられた___おまえもブッシュ以上の値打ちはない」。

 それで、アルジャジーラのインタビューを見ようと待っていた。バグダード時間で6時5分に始まることになっていた。私が見始めたのは、6時ちょうど。彼がでてくるまで、いらいらしながらたっぷり20分も待たなければならなかった。しかし、待った値打ちはあった。チャラビは、黒いスーツ、縞のシャツに黒いネクタイで座っていた。上品ぶって気取っていた。

 そのインタビューは、彼のインタビューの大多数と同様、滑り出しはよかった。アル・ハキムの暗殺について意見を聞かれたときは、場違いでない神妙さを見せた。気取った表情は、そのときは消えていた。記者が、暗殺の背後に誰がいると思うかと聞いたとき、彼は抜け目なく、過激派、サダム忠誠派、テロリスト、バース党員、近隣諸国からの流入者にしぼった。

 が、統治評議会は、微妙な問題であった。統治評議会は実際にどれほどの力をもっていますかと聞かれるとたちまち、彼は怒ってまくしたてはじめた。評議会は、イラクを統治する能力を完ぺきにもっていると主張して。そこで一枚上手の記者は、イラクにおけるアメリカの駐留についてについて聞いた。撤退までどのくらいかかるでしょうか? アル・チャラビは即座に、イラクにおけるアメリカの駐留については”完全に”(原文太字)にイラク人(彼のような)の手に握られていると述べた。また、ブレマーは評議会に対し、アメリカに出ていってほしければ、明日にでも出ていく(!)と言ったとも述べた。

 来る選挙で”大統領”に立候補するつもりかと聞かれて、彼は、政治的野心はまったくないと否定し、”イラク国民を支援するために”その地位にあるのだと主張した(ヨルダン国民を支援したように?)。

 彼は、近隣諸国がイラクにテロリストを送り込んでいるといって非難した。そして、近隣諸国は’すべての国境線を閉鎖’すべきだと主張した。目下のところ、イラク軍には自国の国境を守る力はないからという理由で(彼に軍が解体されたことについてメモを渡すのを忘れた者がいるらしい)。記者が次の質問をしてくれたらよかったのに。ミスタ・チャラビ、もし近隣諸国が国境を閉鎖したとして、いざということが起こって、車のトランクに隠れて大逃避行をしなければならなくなったらどうしますか。

 全体に少しばかりがっかりした。先週、私は、期待していたのだ、なんというか___工夫を凝らされた就任式を? いや、ちょっと違う、おそらくもっと、はれの、おごそかな場にふさわしいものを、彼の権力への上昇をはっきり示すものを。たとえば、サーカス調のお祭さわぎ。ブレマーが猛獣使いで、チャラビがこの歴史的な日を記念して、赤、青、白の輪をくぐり抜けてみせる___といったような。カンバル(Qambar がカクテルを出す役をやるといい。

リバーによって掲示 午後11時40分

 

ブログ上の闘い・・・

 がっかりさせてごめんなさい。だけど、Salamhttp://dear_raed.blogspot.com)、全部ではないけれど、あなたの言うことの大部分に同意しているから、あんまりブログ上の闘いということにはならない。

 アル・ハキムの暗殺は、ひじょうに重要というのは、そのとおり。ハキム暗殺は、シーアとシーア、スンニとシーアの間の、復讐、派閥抗争、暴力の拡大の口実として使われる。すでに、ハキムの信奉者たちは、師の死に対し復讐を誓っている。私は、次の犠牲者となるグループのことを考えるとぞーっとする。この結果何が起こるか、考えるだけでこわい。

 人々は、アメリカを非難している。理由1、アメリカはこの国の安全に対し責任がある。あなたがたが軍と警察を解体したとき、責任は”あなた”に移ったのだ。理由2、暫定占領当局(CPA)は、宗教、党派、民族の間の違いを煽り強調することによって、イラク国民の分断を助長しているという、共通の意識がある。私は、戦争が起こってから、以前よりさまざまな党派について、よく知るようになった。この’意識向上’は、人々に対するレッテル貼りの結果である。”アラブ・スンニ”か”シーア・トルクメン”か、はたまた、”アシリアン・クリスチャン”か___いまは、どこかに属していなくては”ならない”。ただの”クルド”、”クリスチャン”、”ムスリム”、ただの”イラク人”であってはならないのだ。

 人々は、昔の統治哲学、”分断して統治せよ”が採用されていると考えている。イラク人(シーアとスンニとクリスチャン)を占領に対する闘い(平和的なものれ何であれ)に団結させないで、イラク人どうしを闘わせるほうが、簡単だ。その結果、占領軍は、望ましいだけでなく、’平和を維持’するために不可欠であるという感情が生まれる。私は、アメリカ人をとりわけて非難しているのではない__誰もが知る昔からの常套手段だ。イギリス人はアメリカ人より前に試してみた(党派の違いの利用を)。オスマントルコ人は、何百年も実践した(民族の違いの利用を)。

 私に’アメリカ非難をやめろ’とか、どうして’おまえたちイスラム連中は団結して、殺し合いをやめないのか’なんてメールを出さないでほしい。どんな社会にも過激派はいるし、どんな国家にも内戦の可能性はある。法も秩序もなければ、人は理解を絶する恐ろしいことをするものだ。

 どんなに心を尽くして祈っていることか。私たち、ひとつの国民として、宗教の違いを超えられますようにと。アルカイダや外部の軍隊によってでも(彼らの主張通り)これが実現しますようにとさえまじめに願っている。なぜなら何百年もの間、宗教的違いを問題にせずやってきた後で、さまざまな殺し屋や狂信者のグループが混乱と殺りくから利益を得るのを見るのは立ち直れないまでの失望だから。