Baghdad Burning

バグダードバーニング by リバーベンド

... I'll meet you 'round the bend my friend, where hearts can heal and souls can mend...

友よ、私の心が失われあなたさえ見分けることができなくなったら、どうか私を偉大な文明をはぐくんだ、チグリス・ユーフラテスの胸元に連れて行って欲しい。そこで私は心を癒し、魂を再生させるでしょう。

2003年8月31日 日曜日

笑える・・・

 このブログのある読者(あなたよ)が、このページを教えてくれた、わたしは、5分間ずーっと笑いがとまらなかった。ありがとう!! このページにアクセスするには、グーグルで”Weapons of mass destruction”(注:大量破壊兵器)と検索バーに打ち込んで、”I'm Feeling Lucky”バーをクリックすればいい。そうすると、一見通常のエラーページ(このページは表示できませんっていう、あれ)が出てくる。よーく読んでみて!

2003年8月30日 土曜日

ドライブ

 弟のEは、今朝8時に、車のガソリンを手に入れに行った。12時に帰ってきたときは、ものすごく険悪だった。3時間、頭にきているイラク人の列に並んだのだ。給油のための行列は、人を怒り狂わせる。戦争前、イラクのガソリン価格はものすごく安かったからだ。無鉛ガソリン1リットルが約20イラクディナール。1ドル2000イラクディナールだったから、ガソリン1リットルがたった1セントだ。ボトルの水1リットルのほうが高い。いまは、それが高くなっただけでなく、手に入れるのがたいへんなのだ。ガソリンは、いまやサウジアラビアとトルコからの輸入だと思う。

 わたしたち(いとこ、その妻、母、わたし)は、いやがるEを家から引きずり出して、12時半、市の反対側にある叔母の家へ向けて出発した。出かけるまえ、おきまりの注意事項を聞いていた___チェックポイントでは止まること、暗くなる前に帰ること、もし車をとられそうになったら、キーを差し出すこと、争ってはいけない。

 ドアから一歩外へ出た瞬間、猛烈な暑さのアタックで、もう少しで家の中に押し戻されるところだった。正午の、イラクの太陽は、天体のひとつではない___物理的な暴力だ。正午の、イラクの、太陽は、その栄光を世界の他の部分には注がず、ひたすら全エネルギーをイラクにのみ集中投下しているのだと断言していい。すべてのものが、熱波を浴びての長旅に耐えているようにみえる__デート椰子さえかつがつ生き延びているふぜいだ。

 私たちは、1984年製の白いおんぼろフォルクスヴァーゲンに乗り込んだ___みんな”良い”車には乗ろうとしない、ハイジャックに遭うかもしれないからだ(”良い”って言っても1990年以降の製品だけれど)。わたしは心の中でサングラスをすべきかどうか検討してみたが、しないことにした___よけいな注意を引かないに越したことはない。バッグの中をかきまわして、”武器”のあることを確かめながら、無事を祈ってお祈りを唱えた。ピストルを持ち歩くのはいやなので、大型の赤い飛び出しナイフを携帯している___リバーベンドにちょっかい出さないほうがいいわよ。

 町へでかけるのは、竜巻に巻き込まれるのに似ている。一瞬も気を抜かず、構えていなくてはならない。私は後ろの席にすわって、太陽の光に目をしかめながら、見る顔が、盗賊か、人さらいか、ただの怒った農民か、見定めようとしていた。首を伸ばして、背後の青い4輪駆動車が、この1キロ、いやもっと長い間、あとをつけてきているのではないか、思いだそうとした。いとこが速度を落とすたび、不安で息をとめた。詰まってきたので、前の車との間をあけようとしただけだのに。

 男が二人争っているのを見た。人が集まり始めていて、何人か中に入って、二人を引き分けようとしていた。いとこは腹立たしそうに舌うちして、無知な民衆と占領のさなかにあって敵意だけがよすがという状況について、ぶつぶつ言い始めた。Eは、じっと見つめないようにと言い、不安げに座席の下のピストルをさぐった。

 戦争前20分かかっていたところが、いまは45分かかる。幹線道路は、戦車でずたずたにされていた。軍が、にらみをきかせて宮殿周辺道路への進入を阻んでいた(かつてのサダム宮殿がいまはアメリカ宮殿だ)。いとことEは、検問所や通行止めに行き当たるたびに、どこを通るか議論した。わたしは黙っていた。わたしには、この町はもはやさっぱりわからなくなっていたから。いまは、ある地域を言うのに、”ミサイルが落ちてクレーターができているところ”とか、”破壊された家々の通り”とか、”家族が皆殺しにされた家の隣の小さな家”とか言うのだ。

 現在の略奪と殺人は、4月のものとは変質してしまった。4月には、まったく偶発的なものだった。犯人たちは単独で行動していた。それが今は、組織されて動いている(CPA統治評議会と軍を合わせたよりもうまく!)。一人で行動するものはもういない___ギャングと武装民兵ができたのだ。かれらは、マシンガンで(しばしば手りゅう弾で)武装しミニバンや4輪駆動車で家々に乗り付ける。そして、家に乱入し、金目のものを要求する。思ったほどのものがないと、こどもや女性を誘拐し身代金を要求する。一家全員が殺されることもある__男性だけが殺されるということもある。

 しばらくの間、地区によっては、男たちが”見張り番”を設け始めた。彼らは、カラシニコフ銃で武装し6ー7人ずつ集まって、地区全体を見張るのだった。不審な車を止め、どこの家族を訪ねるのか聞く。このようなやり方で、何百人もの盗賊が捕まった___束の間であったが、守られていると感じることができた。ところが次に、アメリカ軍の武装した車が、もともと安全な地区をパトロールしはじめた。男たちには、街路へ出るなと命令した____武器を携帯しているのを見つけたら、犯罪人とみなしてそれなりに扱うと言って。

 ギャングの大半は(少なくともバグダードのギャングは)、もともと郊外のスラムにいた。サドルシティ(旧サダムシティ)は、人口150万の有名な巨大スラムである。一帯はどこをとっても恐ろしいところだ。もし、車や人が行方不明になったら、ほとんどの場合、ここで見つかる。路地ごとに支配するギャングがきまっていて、道ばたで武器が売られている____金さえ払えば、あなたが欲しいと思っているマシンガンの試し撃ちさえする。アメリカ人たちは、こんな地区の家々を襲撃するなんてことはしない。襲撃は、撃ち返したり攻撃したりできない、まともな人々だけに向けて行われる。襲撃は、ラマディ、バクーバ、モスルの貧しい人々に対するものだ。

 叔母の家に着いたとき、からだ中の筋肉が痛くなっていた。目は暑さと緊張で充血していた。Eのひたいは、途中で目にしてきた数々の光景のため、しわが刻まれ、いとこの両手は、気付かれないほどであったが、ふるえていた___緊張で固く握られていたため、指関節の血の気は失せたままだった。母は、無事着いたことを感謝してお祈りを唱え、いとこの妻Tは、「ぜったい3日間叔母の家に滞在する、もし今日帰るつもりなら、彼女抜きで帰るといい、神さまはきょうは、わたしたちでなくて、ほかの人を守らなければならないのだから」と言い張った。

空職

 みんなまだ、アル・ハキム(Al-hakim)の死についてあれこれ言っている。アル・ハキムは、穏健なシーア派に特に人気があったわけではない。いとこの一人とその妻はシーア派だが、ニュースを聞いたとき、肩をすくめこう言っただけだった。「どっちみち彼のことあんまり好きじゃないし」。どんな宗教でもだが、権力志向の強い聖職者というものは、人を怖がらせると、私は思う。私が身近で知っている人は誰も彼の死ですごいショックを受けたようには見えない。それより、みながショックを受けたのは、犠牲者の数だ。死亡126人、負傷300人___このうちには死につつある人も含まれている。

 ニュースでは、爆弾を仕掛けた暗殺者を捕らえたと言っている__目下イラクを拠点に活動しているアル・カイーダ(Al-Qaeda)のある支部(彼らも”解放”されたのだ)と考えられると。

 イラクのある政治評論家は、アル・ハキムの信奉者の中に爆破に関わったものがいり可能性があると言っている。これで、700キロもの爆薬が、どのようにして彼の事実上の軍―バドル旅団(Badir's Brigade)の中へ、彼の黒い4輪駆動車の隣に入り込んだか、説明がつく。この政治評論家が言うには、アル・ハキムがイランから帰国して以来、彼に敵対するようになった地位の高いSCIRI(イスラム革命最高評議会)メンバーがおおぜいいる。彼は、”帰国”早々、戦略を変更し、信奉者の中には、新たな取り決めを好まぬ者もいた___ということらしい。すなわち、評議会メンバーの彼の兄(弟)のことだ。しかし、イスラム教団体が、イラクの指折りの神聖な場所___に対し、このような悪辣な攻撃を仕組むなんて信じがたい。

 大揺れかいらい評議会の興味深い展開___バール・アル・ウルーム(Bahar Ul Iloom)が、評議会での議席を保留にした。あるインタビューで、この老聖職者は、アメリカはイラク国民の安全確保に失敗している、もうこれ以上評議会に参加していたくないと訴えていた。彼はロンドンに帰るのではないかしら。これで、評議会メンバーはわずか8人になる___誰か新しく任命されなければならない、でないとあと4カ月リーダーシップなしに過ごすことになる。もしブッシュが再選されなかったとしたら、ブレマーはその役をブッシュにふるだろう。バグダードにブッシュを迎える、すてきなこと___。

2003年8月29日 金曜日

大混乱

 ”(イラク)は混乱状態にある国ではないし、バグダードは混乱状態にある都市ではない”__ポール・ブレマー

 こいつはどこに住んでるんだ? 少なくとも同じタイム・ゾーンの人間か???

信じられない___彼はどこか違う宇宙から来たのかも。銃撃、略奪、戦車、レイプ、誘拐、暗殺といったことが、混乱とはみなされないどこかから。だが、”わたし”の世界では、それを混乱というのだ。

 占領開始以来、バグダードだけで40人の女性が誘拐された。そして、この数字は報告されたものだけだ。大部分の家族は誘拐をアメリカ軍に届けない。そうしたって無駄だということを知っているからだ。家族の男性たちは、誘拐された女性の捜索を自らの使命と引き受け、犯人を見つけだしたなら、報復する。ほかにどうすることができる? わたしだって、もし誘拐されたとしたら、CPAに届けないで、家族の力で”わたしを”探してほしい。

 BBCの計算では、バグダードだけで毎日70台の車が乗っ取られているという。

 そしてさらに、たった今、すごくショックなニュースを聞いた___ムハマド・バーキル・ハキム(Mohammed Baqir Al-hakim)が聖都ナジャフで暗殺された! ムハマド・バーキル・ハキムは、SCIRI(イラクイスラム革命最高評議会)の議長である。誰のしわざかわからないが、他のシーア派の一つがやったと考えている人は多い。サドル派とハキム派の間には、かなりの緊張関係があった。もう一人の聖職者、アル・シスターニもハキムに対しなかなかな批判を持っていた。

 ほとんどの人が忘れてすましているのは、南部のシーア派は、イラン戦争で何万という犠牲者を出したという事実だ。現在のSCIRIを指示しているまさにその体制__テヘランのイスラム革命と戦って。ハキムは、たしかにイランに同調する多くのシーア派原理主義者から強力な支持を得ている。まったくそのとおり。だが、彼には、強烈に彼を(Badir's Brigade)を憎む敵がいる。

 私は、傀儡、イスラム原理主義政府の支持者であるこいつが大嫌いだ。しかし、このようなやり方が、解決ではない。さらなる流血、戦闘があとの続く。彼は、二人目のナジャフで暗殺されたシーア派聖職者だ__ひとり目はAl-Kho(4月のことだった)。彼もやはりテヘラン出身だった。

2003年8月28日 木曜日

約束と脅し

 うそ:占領前、イラク人は、バグダード中の狭い未舗装の道の際に茶色の小さなテントを立てて住んでいた。男と少年は、ラクダ、ロバ、ヤギなどに乗って学校へ行くのだった。学校は、テントの家の大きい版といった感じで、生徒百人につきターバンを巻いた教師一人が算術(羊の群れを数えられるように)と読み方を教える。女性と少女は、家にいて、黒いブルカを被り、パンを焼いて1ダース近いこどもの世話をする。

 ほんとう:イラク人は、水道も電気もある家に住んでいる。コンピュータを持っている人もたくさんいるし、何百万人もの人がビデオカセットレコーダーやビデオCDをもつ。イラクには立派な橋、リクレーション・センター、クラブ、レストラン、店、大学、学校などがある。イラク人は、性能のいい車(とくにドイツ製)が大好きだし、ティグリス川にはモーターボートがいっぱいで、人々は魚釣りから水上スキーまで楽しんでいる。

 なにを言いたいかというと、人々は、”rebuild”、”reconsruct”(再建、復興)という言葉の小さな接頭語”re”を見ないことにしてるってこと。念のために言っておくと、”re”は、ラテン後起源で、多くの場合”再”とか”新たに”を意味する。

 つまり___もともとそこには何かがあったのだ。何百もの橋がある。アラブ地域で最高の高速道路網がある。南部のバスラから北部のモスルまで、一回もフォックス・ニュースに写っているような狭いほこりっぽい舗装していない道を一回も通らないで、行けるのだ。ひじょうに高度な通信網だって、あった。Coalition of the Willingは、3回の集中爆撃と3夜を要して、Ma'moun通信塔を破壊し電話を不通にした。

 きのう、900億ドルもイラク復興にどのように使うのかについて読んだ。ブレマーは、建物と橋と電気などを元に戻すのにどれだけかかるか、数字を吐き出している。

 この話を聞いて。いとこの一人は、バグダードのある有名土木会社で働いている。会社の名前をHとしよう。この会社は、イラク中の橋を設計・建設していてよく知られている。いとこは、構造技術者だが、橋オタクである。聞いてくれる人がありさえすれば、橋梁やトラスや鉄骨構造について何時間でもしゃべっている。

 5月が終わろうとする頃、彼は上司から、CPAの誰かがバグダード東南端の新ディアール橋の再建費用の見積もりを要求してきたと、聞いた。いとこは、部下を集め、その橋の破壊状況を調査し、被害はそれほど大規模ではないものの費用がかかると結論を出した。いとこたちは、必要なテストと分析を行い(土壌構造と水深、伸縮継ぎ目と桁といったことがら)、金額を算出して、概算見積として提出した___30万ドルだった。これには、企画設計費用、原材料(イラクでは実に安い)、人件費、下請け費用、旅費などが含まれていた。

 こんなふうに仮に考えてみて___いとこは無能。17年以上も橋建設に関わってはこなかった。第一次湾岸戦争で破壊された133の橋のうち20の再建なんてしなかった。彼の概算はまちがっていて、橋再建費用は、その4倍だった。ほんとは、120万ドルかかるのだ。ちょっと想像力を働かせてみて!

 1週間後、新ディアール橋の契約は、あるアメリカの会社にいった。よく聞いて!この当の会社は、橋再建費用を約5千万ドル(!!)と見積もったのである。

 イラクについて知ってほしいこと。イラクには、13万人の土木技術者がいる。半数以上は、構造工学技術者と建築家である。多くは、イラク以外の国々、ドイツ、日本、アメリカ、イギリスなどで教育を受けた。そうでない者も、イラクにさまざまな橋、ビル、高速道路を作った外国企業で働いた。大多数はひじょうに熟練しており、ひじょうに優秀なものもいる。

 イラクの土木技術者たちは、1991年の第一次湾岸戦争___このとき'Coalition of the Willing'は30カ国以上、これらの国々が原形をとどめぬほどバグダードを爆撃しつくした___後、イラクを復興しなければならなかった。彼らは、もとは外国企業が作った橋やビルの再建に取り組まねばならなかった。もとは輸入していた原材料の不足をなんとかしなければならなかった。戦争後に残ったインフラは何であれ破壊する目的で設置された悪意の封鎖区域を避けて働かなければならなかった____彼らは、根底からイラクを復興しなければならなかったのである。さらに、すべて頑丈に作られねばならなかった。なぜなら、そう、常に攻撃の脅威にさらされていたからである。

 133の橋のうち100以上が再建された。多くのビルと工場が復旧した。通信塔が再建され、新しい橋もできた。電線も復旧した___日常が回りはじめた。

すべて完全というわけではなかったが___私たちは、努力していた。

 でもイラク人を満足させるのは簡単じゃない。ビルはただビルであればいいのではない。芸術的に仕上げられなければならないのだ___彫刻された柱、込み入ったデザインのドーム、なにかユニークなもの、高尚だったり先端的でなくてもいいが、月並みでないもの。バグダード中で見ることができる___上質の板ガラス窓の瀟洒な住宅、ほとんど歴史的建造物たる”バグダード人”のビル、洒落たカフェのとなりの絢爛たるレストラン___ファベルジュのイースターの卵細工とみまがう色彩豊かで凝ったつくりのドームのモスクの数々___すべてイラク人の手になる。

 わたしの好きな再建プロジェクトは、チグリス川にかかるMu'alaq橋だった。これは、イギリスの会社が設計・建築した吊り橋である。1991年に、爆撃され、誰もが再び渡ることはできまいとほとんどあきらめていた。1994年、橋は、再びかつてそのままの姿を現した。イギリスの会社の手によらず、イラクの技術だけで。ある美術大学は、世界でもっとも洗練された橋とはいわないまでも、華やかな橋となるだろうと評価を下した。落成の日、橋も橋の台脚も橋の上の歩道もすべて、派手々々しい色で描かれた花々で埋めつくされていた。人々は、バグダード中からやってきて、ただ橋の上にたたずみ、チグリス川を見おろしたのだった。

 だから、何十億ドルをも要求する外国企業を導入せずに、イラクの土木技術者、電気技師、労働者を利用してもいいではないか。仕事がない多くの人々は、イラク復興にたずさわれることを喜ぶだろう。だが、誰にもドアは開かれていない。

 イラク復興は、わたしたちの頭の上に吊るされた”約束と脅し”のようである。イラクの人々は、不信と不審の目で”復興”を見ている。なぜなら、老獪なイラク人は、このようなうさんくさい復興プロジェクトは、国を、唯一アメリカの国債に比肩するような国家債務の罠に陥れることを知っているからだ。少数のすでに巨大な建設業者がますます肥え太る。イラク人労働者は、おこぼれを与えられ、イラクの失業大衆は、控えの位置に待機させられ、外国企業によって華やかなビルが建設されるのをただ見つめるのみである。

 この戦争が、石油をめぐるものであると、わたしはしょっちゅう言ってきた。そのとおりだ。しかしまた、この戦争は、戦争が破壊したものを再建することで巨万の金を儲けようとしている巨大企業の話でもある。ハリバートンって知ってる? (ところで、このハリバートンは、破壊された石油産業の基幹施設再建の契約をいの一番に手に入れ、とっくの4月に’石油熱’を消した)。

 そう、イラク復興には巨額の金がかかる。そのとおりよ、ミスタ・ブレマー。契約がぜんぶ外国企業に与えられるならば。アフマド・アル・チャラビ(Ahmad Al-Chalabi)が帳簿担当だから、こんなすごい数字が出たのかもね__なんといったって彼は数学者なんだから。

反対方向
場面:リビングルーム
雰囲気:陰欝

 私たち、ふた家族__私たちと叔父一家は、所在なく集まっていた。大人たちは、ソファにきちんと座って、私たち”子ども”は床の冷たい”kashi”(タイル)の上で思い々々の格好で、テレビを見ていた。みんな落ち込んでいた。たったいま、ナダ・ドマーニ(イラク赤十字会長)が、攻撃が予測されるので、職員の一部を引き上げヨルダンへ送ると決定したと発表するのを見たからだ。

 私は、誰にしろ赤十字に警告した者はひどい見当違いをした(まともに考えた結果のことではなかった)ということでありますようにと祈っている。誰が赤十字を攻撃するというの? 誰もが赤十字を必要としているのに___赤十字は、単に医薬品や食料などの援助を行っているのではない。捕虜、抑留者とCPAの仲立ちとしての役割を果たしている。赤十字が関わる前は、抑留者の家族たちは何ひとつ情報を得られなかった。襲撃やチェックポイントで、人(主として男と少年)が抑留され、消えてしまうということがよく起こった。抑留者の親族は、何か情報を、何らかの手がかりをと、アメリカの治安当局のあるホテルの前に何時間も立ちつくしていたのだった___父は、叔父は、息子は、どこにいるのか。

 赤十字がなかったら、どうすればいいのか。

 それで、わたしたちは拠り所なく座っていたのだ。なにが起こっているのか、いったいどうなっているのだろう、と考えあぐねて。Eの名を外から呼ぶ声を聞いて、私はすぐにテレビの音を小さくした。Eは、ただちに体を起こし、充填された銃を取り上げると、ジーンズの後ろに差し込んだ。私たちは、台所へ行き、誰だろうかあるいは何だろうかと確かめようとした。Eは、網戸を開け外に出た。私は、ガラスに顔を押しつけて、何が起こるか見届けようと闇をのぞき込んだ。

 近所のRだった。庭をしきる塀ごしにこちらを見ている頭だけが見えた。「アル・ジャジーラを見てる? 見て!」と言って、頭は壁の向こうに消えた。何? それだけ? 戦争後のイラクで、人の名前を呼ばわる、なんてことしないで、それもアル・ジャジーラを見ろっていうために___塀を高くしたほがいい。

 アル・ジャジーラは、"Al-tijah Al-Mu3akis"(「反対方向」)をやっていた。アラブ人でない人のためにいうと、中東の重要な政治問題、社会問題を取り上げ、二人のゲストが対立する立場でやり合う番組だ。視聴者は、電話やeメールでコメントし、どちらのゲストが優勢か、投票もある。

 驚いたのは、テーマではない。いつものようにイラク人、イラクに関するものだ。驚いたのは、ゲストの一人___カンバール(Intifadh Qambar)はアフマド・アル・チャラビに次ぐナンバー2で、INCのスポークスマンだ! カンバールの冷酷でこうかつな顔が画面に出たとたん、陰うつだったリビングルームは、ブーイング、笑い、拍手、口笛で生き返った。彼を見ると、イラク人は浮かれ出す。

 カンバールの”真価”がわかるのは、アラブ人だけだ。わたしが思うに、彼はスポークスマンだから、INCの”外交官”だということになっている。番組で、彼は、輪番制大統領を代理し統治評議会を代表している。彼は、統治評議会の失敗の原因だ___アル・チャラビは彼を殺すべきだ。

 彼は、ドライマスタードの塊みたいな茶色っぽいスーツを着てしゃちこばっていた。白いシャツに、黒と黄の縞のネクタイ、すてきな黒い水玉の黄色いチーフ。髪は油かなにかで後ろになでつけられていて、小さな冷酷な目としわが刻まれた広い額がむき出しにみえた。政治問題のトークショーに出ているようには見えなかった___吊るしあげられているようだった。

 彼は、1時間以上もそこで、電話してきたほとんどすべての人から(イラク人もいた)ののしられていた。盗っ人、裏切り者、アメリカかぶれ、人殺しなどなど、彼のネクタイほどもカラフルな呼び名をもらって。彼の評議会’擁護’の弁は、彼に投げつけられた具体的な非難よりも、まずかった。彼が言ったのは、およそこんなことだ___この戦争はすべて正しかった、アメリカは正しかった、経済制裁の間に何人死のうと問題じゃない、今何人死のうとそれがどうした、サダムはいない、そして評議会がある、重要なのはその点だ。これらのことが、かん高い汚い声で発せられた。自分では気がきいたことを言ったつもりでも、彼はけっきょくは、偉ぶった気取り屋にしか見えないのだ。

 いっぽうのゲストは、Al-Quds Al-Arabi紙の編集者で驚いて、ほとんど口がきけなかった。こんなやつが新政府を代表する者としてやってきたことが信じられないといった面もちで、カンバールを見つめていた。これが、評議会の例の”口先おとこ”なら、イラク人はたいへんな事態の渦中にある。

 カンバールには、政治的、文化的歯止めというものがない。論理的に言い返せないときは、野卑に徹する。アブダビテレビでの討論番組で、やはり政治家のWamidh Nadhmiと論じあったことがある。 Wamidh Nadhmiは、立派な老人で、バース党員でもロイヤリストでもなかった。戦争のずっと以前からサダムと政府総体に対する批判の発言をしていたことからわかる。彼は、政権転覆の手段としての戦争に反対し、占領に反対していた___これが論点のすべてだ。そして、1時間もアメリカは正しくて、みんなが間違っているとばかなことを言いたてたあげく、Qambarは侮辱しにかかった。Wamidhは冷静を保っていたが、カンバールに対しアル・チャラビはいかさまで、こんな悪党に率いられるグループはなんであれ失敗するに決まってると言った。そこへ突如カンバールが立ち上がり、Wamidhに殴りかかったのである。テレビで! うそじゃない___ほんとに殴りかかった。気の毒にも司会者、Jassim Al-Azzawiは、とっ組み合いに巻き込まれ、彼の頭上でもみ合いが行われるという次第となった。両者を引き離そうとしながら、「一体どうしたんですか、貴方がた___一体どうしたんですか」と叫んでいた。これで、私たちがカンバールに喝采してるか(アル・チャラビに対してと同じくらい)、わかったでしょう?

 では、ほかに誰を選ぶのか。こんな輩にかわり得るのは、イラク国内で国民とともに暮らしてきたイラク人だ。サダムと手を結ば”なかった”、またCIAとも手を結ばなかったイラク人。ブッシュは、「あなたがたは、我々と共に進むか、あるいは反対するか、どちらかだ」と言ったが、これは誤りである。世界は、黒と白だけではない___この戦争には反対でなおかつサダムにも反対という、おおぜいの人々がいる。この人々は、うち捨てられている。その声は取り上げられない、ワシントンやロンドンやテヘランにいるわけではないからだ。

 イラクには、知性と教養のある人々(大学教授、歴史学者、言語学者、法律家、医師、技術者など)がいて、十分国を運営していくことができる。この人々は、10年の経済制裁と3つの戦争を越えてきたイラクの人々の心理がわかる。人々がどんなことを聞きたがっているか、何がなされるべきか、知っている。この人々こそふさわしい。が、CPAのおめがねにはかなわない。CPAは、この人々がアメリカに”忠実”であると思えないからである。傀儡政権は完ぺきだ。彼らはアメリカの戦車に乗ってやってきたのだし、アメリカの軍事力で据えられた__必要なときには(そのときがくれば)、すげ替えればいいのだ___。

 アラブで有名なことわざがある。「Al ba3*lu bayn al 7ameer rake9*」 意味は「ラクダもロバに混じれば速い」。’ろくでもない連中の中のましな部分’とみられている人が、こう言われる。カンバールとチャラビがINC(おそらく評議会全体)の中のラクダであるなら、いったいロバって何よ? と言いたい。

2003年8月26日 火曜日

ナショナル・デー

 私にとって、4月9日は、不安と恐怖と涙でゆがんだたくさんの顔からなる汚点だ。バグダード中で、砲撃音、爆発、衝突、戦闘機、アパッチ(戦闘用米軍ヘリ)、街路や高速道路を移動するまがまがしい戦車などの音が聞こえた。サダムが好きであろうと嫌いであろうと、バグダードは人をずたずたにしてしまった。バグダードは燃えていた。バグダードは爆発していた___バグダードは陥落しつつあった。4月9日は、アメリカ占領記念日だ。ブッシュが祝うのはわかる___が、独立を尊ぶ人が祝うというのは、わからない。

 4月9日、朝6時頃、大きな爆発音で目がさめた。うつらうつらと眠って2時間しかたっていなかった。目が開くから、からだはもう緊張してベッドの上に起き上がっていた。部屋は暑かった。が、私はベッドの上にいた。前の晩にはいていたジーンズのままで。歯はがちがち鳴り、掛け布団を握りしめ、なんとか正気を保とうとした。

 私たちは、ここ数晩、ポケットには証明書類とお金を詰め込んで、服を来たまま寝ていた。家が崩壊すると予測していたからだ___ことが起きたら、ただちに家を出なければならない。

 夏のコオロギのようにありふれたものになったその騒音(ヘリコプター、戦闘機のたえまないうなり音___爆発と砲撃)に耳をすませた。

 その朝、わたしたちは黙って重苦しい思いの中でお互いを見つめ合って過ごした___聞こえてくる唯一の人間の声は、ラジオだった。雑音が入ったり消え入りそうになったりしながらも。ラジオは、今のわたしたちは知っていること___永遠とも感じられるほど長い間、恐れ続けてきたこと___アメリカ軍の戦車がバグダードにいると伝えてきた。抵抗はあった、が戦車はバグダードを制圧した。

 そして、それが’ナショナル・デー’の始まりだった___。

 4月9日は、せっぱつまった隣人の日。おもがわりするほど不安に顔をゆがませて、ドアを叩き、「逃げる? 避難する? すぐ近くまで来てる___」。

 4月9日は、ショックを受け恐怖にかられた親類たちの日。瞳を大きく開き唇を震わせて、ダッフルバッグと連れ合いと恐がる子どもたちとを引きずり、安全な場所を探して。私たちはみんな慰めが必要だったが、与えることのできる者は一人もいなかった。

 4月9日は、荷物を作りきちんと着込んで、じっと家にいた日。戦車の音かミサイルの音が聞こえないかと耳をすませ、聞こえると家を飛び出して街路に出ようと。私たちは、バグダードを横断して移動することとここに留まることの危険性をあれこれ量りながら、運命を待ち続けていた。

 4月9日は、母と’そのこと’を話し合わなければならなかった日。その日、母はわたしを前に座らせると、’指示’を与えはじめた__万一のときのために。

「万一って?」

「もしも私たちに何かあったとき___」

「どんな? たとえば離ればなれになるとか?」

「そう。そのとおりよ。離ればなれになったとき、ほら__お金はどこにあるか、書類はどこにあるかとか、知っておかなきゃ__」

もちろん、そんなこと知ってるわ。だけど、それは母や父やEに何か起こったとしても、問題にならないことなのだ。

 4月9日は、町で迷い犬が怖れて吠え、空には鳥の群れがやたら舞っていた日___恐ろしい音と煙を逃れようとして。

 4月9日は、焼かれた車に黒こげの死体の日。

 4月9日は、うす黄色の日。わたしの記憶の中では赤く燃えている___これまでですごく恐ろしかった日々のことを考えると、すぐ浮かび上がってくる日。 これが、わたしにとっての、”ナショナル・デー”だった。人の話しから推測すると、何百万人にとっても同じ体験だった。

 あるいはこんどの2004年の4月9日は、ブレマーと統治評議会は、ホワイトハウスでブッシュと一緒に、バグダード陥落を祝うといい___なぜなら、そのときここバグダードでは、絶対に祝ってはいないから。

椅子とりゲームをしましょう・・・

 9人のメンバーによる輪番大統領制は、一目見て失敗とわかる。二目見ても失敗である。三目見ても、四目見ても___九目見ても失敗である。輪番大統領制のメンバー(シーア派ムスリム4人、スンニ派ムスリム2人、クルド人2人)は、民族と宗教をもとに選出された。

 これは、イラク国民をさらに分断するやり方である。混乱と無秩序にさらに混迷を加える。民族と宗教によって選出された議会が国を運営するという考えだけでも、胸に反感がわきおこる。わたしたちは、自分の民族や宗教によって組みするのだと思われているのだろうか。どうやって、9カ月先、彼らは一人の大統領を選出するつもりなのか。イラク国民の各派がそれぞれ代表を必要としているとでも? もしそうなら、どうしてクリスチャンは選ばれなかったのか? 9人にあと二人加わったとして、すごい違いがあっただろうか?

 9人の踊る操り人形(かいらい)たち__失礼、輪番大統領___はもっぱら”統治評議会”から選出されたのだ。そして、統治評議会とは、CPAによって選ばれた暫定議会だ。統治評議会の25人がしたことで国民の気持ちが離れたのは、まず、4月9日を新しいイラクのナショナルデー(国民の祝日)とした致命的決定だ。バール・アル・ウルームBahr Ul Iloom(9人の操り人形の一人)がその発表をしたとき、誰もがうそだろうという顔をした。

 2003年4月9日は、どんな才能をもってしても表現できないくらいの悪夢であった。その日バグダードは、煙の中に立ち往生していた__いたるところで爆発があった。町中がアメリカ兵だらけ、火事、略奪、戦闘、殺人。市民は地区から地区へと避難させられ、家々は戦車で銃撃され、車はアパッチ(米軍ヘリコプター)で焼かれていた___4月9日、バグダードには死と破壊があふれていた。どんな状況下でも、自分の住む町で戦車を見れば、不安になる。自分の国の首都で、外国の戦車を見るのは、強烈なショックである。

 が、輪番大統領制に戻ろう___漏れ聞くところでは、評議会の9人は全員お互いに憎み合っているという。会議は、怒号、罵倒、侮辱で終わることもある。彼らが唯一合意しているのは、ブレマーは神だということ。彼の言葉は、聖句なのだ。

 彼らのうちから一人が、ひと月間、彼らを熱愛するイラク国民を統治する機会を与えられると決められた。私が思うに、論争、脅し、最後通告、かんしゃくなどのあげく、各メンバーは、アルファベット順(アラビア語のアルファベットだが)に任に当たることと決められたのだ。

 さあ、以下がイラク史上最高の操り人形劇の配役である。(登場順)



操り人形:イブラヒム・アル・ジャファリ(Ibraheim Al-Jaffari)

56才のイスラムDaawa党党首。イランとロンドンに暮らした。Al-Daawa イスラム党は、もっとも突出したシーア派政治運動として、1958年に初おめみえ。Al-Daawaの’活動家’は、イランの過激派’Fida'yeen El-Islam’から戦術を学んだ。政治的意志表示を爆弾を利用して行うのが特徴である。大学、学校、リクレーション・センターが多くターゲットとなった。

 イブラヒム・アル・ジャファリを見ると、不快になる。彼は、あまり率直でも明晰でもない。低い声で疑わしげなようすでしゃべり、カメラをまっすぐ見ることがない落ちつかない目付きをしている。


操り人形:アフマド・アル・チャラビ(Ahmad Al-Chalabi)

こいつはほんとにステキなやつだ。イラク国民会議の議長で、ペンタゴンの多大な支持を得ている。彼は、銀行家で、ヨルダンのPetra銀行から何百万ドルも横領した。彼の一代記でわたしの好きな部分は、車のトランクに入ってヨルダンから逃げるくだりだ___現代のクレオパトラ、もしそう言いたければ。イラク戦争は、大量破壊兵器が見つからないのに正当化できると思うかと聞かれて、彼は即座に(また少しいらいらして)答えた。「もちろん__もし、戦争がなかったなら、”わたし”はこうしてイラクにはいなかっただろう__」 まるで、彼は人類にもたらされた神さまの贈り物であるかのごとき口ぶり。イラク国民へのアメリカからのプレゼント___戦争、混乱、占領を無上の栄光として頭上に戴く者:盗人のなかの盗人。盗人の王。


操り人形:イアド・アラビ(Iyad Allawi)

もとイラク情報局部員で、もとバース党員。もとバース党政府の奨学金でロンドンへ行った。こんなうわさがある。奨学金が終わると、彼はバース党員をやめ、Iraqi National Accordを結成した。1971年からずーっとロンドンに住んでいる。


操り人形:ジャラール・タラバニ(Jalal Talabani)

クルド愛国同盟(PUK)のトップ。PUKは、北部のクルド自治区の東南部を支配している。町のおもしろいうわさ:彼は、’リーダー’になるまえ、トルコでナイトクラブを経営し、そこで何やら法にふれることをしていたそうな__’コンパニオン派遣業’とかいう。実は彼は、クルド自治区のもう一方の雄マスード・バラザニ(Massoud Berazani)と勢力を張り合っており、両派の抗争は、多くの場合、流血事件となる。彼の有名な言葉:”政治は娼婦だ”


操り人形:アブドル・アジズ・ハーキム(Abdul Aziz Al-Hakim)

SCIRI(イラクイスラム革命最高評議会)の副議長。彼は、何十年もイランにいた。バドル旅団’Badir's Army’(またの名をBadir Brigade)の最高司令官である___戦争後の多大の混乱に責任がある。怖ろしいことに、SCIRIとCPAの間で、いくつかの地域の’治安’をBrigadeに委ねるという、取引があるという噂がある。


操り人形:アドナン・アル・パチャチ(Adnan Al-Pachichi)

 スンニ派アラブ人で、(がんばって)81才である(84才という人もいる)。60年代に2年間、外務大臣だった。わたしの祖父は、彼をよく憶えていない。こんなこと言ってわるいけど、彼は、イラクを運営していくには、ちょっと体力的に無理だと思う。彼が選挙に出るなんてことあり? 60年代終わりからずーっと国外で暮らして、イラク人が彼のことを知らないように、イラクのことをちっとも知らない。


操り人形:アブドル・ハミッド(Mohsen Abdul Hamid)

 Islamic党(スンニ派原理主義イスラムグループ、Islamic Brotherhoodの支部)の事務局長。またまた原理主義グループ、しかし、このグループは、スンニ原理主義グループを抑えるために使われている。


操り人形:ムハマド・バール・アル・ウルーム(Mohammed Bahr Ul Iloom)

 ’Mohammed Bahr Ul-ふー???(誰?)’としても知られる。誰も彼のことを聞いたことがないようだ。彼は、シーア派ムスリム聖職者で、1991年イラクを逃げ出した。ロンドンに亡命した。彼も80代で、政治的キャリアは、国を逃げ出したこと、自分を亡命者と思っていること、だけだ。4月9日をイラク国民の祝日と宣言する役に選ばれたため、せっかく人気が出るかもしれなかったのに、チャンスをぺちゃんこにしてしまった。


操り人形:マスード・ベレザニ(Massoud Berezani)

 クルディスタン民主党の党首で、ジャラル・タラバニ(Jalal Talabani)の対抗者。北部イラクでアメリカの支援を受けた。タラバニとの抗争で、何千ものクルド人が死ぬ流血事件、暗殺、追放を生んだ。この二人が同一のテーブルについて、熱っぽく’父なるブレマー’を見つめているのを見ると、ずーっととても仲良しだったんだなと思えてくる__とてもすばらしい政治的教訓。自ずからわいてくる問い:北部のわずかな地区を治めきれないのに、この二人はイラク全土を統治できるなんて思っているのかしら。

 この二人のクルド人のリーダーはまた、’Bayshmarga’という武装民兵を率いている。Bayshmargaは、多面的に活躍している。あるときはボディガード、あるときは盗賊。車や現金、骨董品を盗んでいるところを見つかっている。ここ二日間、キルクークでBayshmargaとトルクメン人との争闘が続いた。

 一番腹が立つのは、ブレマーが、輪番大統領制がいかによくイラク国民を代表しえているかと語るのを聞くときだ。実態は、彼らは、CPAとブレマーを代表しているのだ。アメリカの操り人形(中にはイランの人形も)。どっちにしろ、彼らは、イラクもイラク人も統治していない__単なる超高給通訳だ。つまり、ブレマーが司令を出す、彼らが不信に固まった民衆にそれを通訳して聞かせる。人形たちの大半は、アメリカ国民の税金で教育と訓練を受けた。そしていま、イラクのオイル・マネーで、CPAに’飼われて’いる。

 民主主義にとっては、悪いスタートだ。占領され、占領権力に政府と将来のリーダーを選んでもらうなんて___でも、最高裁に’任命’された大統領の国からいったい何を期待するというの。

2003年8月24日 日曜日

食べるために働く・・・

 イラク国民の65%以上が失業している。どうしてこうなったか。ブレマーがひどい決定をしたからだ。最悪の決定は、イラク軍の解体だ。ワシントンでは、了解されることなのかもしれない。が、ここイラクでは、みな唖然とした。そしていまや40万人の能力ある武装した男たちが、家族をかかえ、養う手段がない。どこへ行けというのか。何をして生計をたてろというのか。わからない。彼らは先行き真っ暗である。

 彼らは、町を歩きまわる。仕事を求めて、答えを探して。その姿勢、歩み、体全体から困惑と怒りがみてとれる。視線は、わらにもすがるように、人から人へと移る。このどうしようもない事態に責任を負うべきは誰か。どう思う?

 ブレマーはさらに、情報省と国防省を解体した。どんな理由があったにせよ、これらの省庁にいたのは、普通の仕事をする普通の人々である。会計係、管理係、事務員、技術者、技師、文書係、オペレーターなど___こうした人々がみな職を失った。企業は’人減らし’を要求され続けている。これはもはや政治とは何の関係もない。叔父が技術者として働く会社は、CPAから、1500人少しの従業員のうち680人を削るように言われた。技術者、設計技師、請負人、整備士、技師、事務局部門などすべてから。

 この他にも企業、団体、事務所、商店は、戦争後の混乱の中、略奪と破壊によって、休業、閉店している。何千もの労働者が仕事を失った。どこへ行くべきか。何をすべきか。

 仕事のある人々にとっても、事態がいいわけではない___役所や病院から出ている平均50ドルでは、一人の人間が食べていくことさえできない。まして一家が__。が、なんであれ、それは”仕事”だ。なんであれ、この人々には、毎朝起きて、何かをするに足る”理由”がある。

 町を歩きまわっている何千ものイラクの男たちは、どうして積極的に仕事を探さないのだと、聞いた人がある。占領後、何週間も、男たちは毎日何千人もの長い列をなして’Alwiyahクラブ’の外に並んだ。が、仕事はなかった。男たちは、イラク警察に応募したくなかった。携帯すべき武器をもらえなかったからである!イラク警察は、恐ろしい都市を武器なしで、歩き警護するよう求められていたのである___盗賊、人さらい、殺人鬼を、職務専念の熱意をもって、彼らのゆがんだ道徳観念に訴え、思いとどまらせることを。

 私の失職の顛末も同じような話である。ほんとにいまではごくありきたりの話。聞くだに、気落ちするうっとうしくも耐えがたい話。それはこんなぐあい___。

 私は、大学でコンピュー・サイエンスを学んだ。戦争前、バグダードのイラク資本のデータベース・ソフトウェア会社で、プログラマー・ネットワーク管理者(ええ、ええ__オタクですとも)として働いていた。毎日、私は階段を3つ上り、女性1人、男性2人の同僚と一緒の狭い部屋に入り、パソコンを立ちあげ、画面をころがる小さな数字や文字を何時間も見つめて過ごした。単調で、労力がかかり、こだわり屋の___すてきな仕事だった。

 休みたいとき、よくインターネットのお気に入りのサイトを訪ねたり、同僚のじゃまをしたり、’こいつ本気か’とか’うそ!’とか上司や納期に悪態をついていた。

 私はこの仕事が好きだった___そして、’優秀’だった。一人で通勤していた。朝8時に、いつもCDやフロッピー、ノート、ちびた鉛筆、クリップ、ねじまわしを詰め込んだバックパックを背負って歩いて出かけた。ビル・ゲイツを喜ばせるために。私は、男の同僚二人と同じだけ稼いでいたし、上司からも同等の処遇を受けていた(ということはつまり、彼はプログラミングに関してはまったくの無知だったので、できるヤツはだれでもそれなりに扱っていたということ___女の子であっても。そういうこと)。

 私が言いたいことは、”どんな”話が流布していようとも、イラクの女性はアラブ世界の他の国々の女性よりも格段に恵まれていたということである(西欧世界のある国々よりも__男女同一賃金だったのだから)。

女性は、労働人口の50%を構成していた。女性は医師、弁護士、看護士、教師、大学教授、大学学部長、建築家、プログラマーなどさまざまな分野で働いていた。私たちは、好きなように出歩けたし、着たいものを着た(保守的な社会の社会的規範内ではあるが)。

 6月の第1週、私の会社が再開すると聞いた。何時間もの、何千回分にも感じられる家族会議の末、ついに私は、精神の平衡を保つためには、仕事に戻ることが必要なのだといって、全員を説得した。家族は、私が会社へ行き(うちの男性二人をボディガードにして)、「もし仕事があるなら、家へ持ち帰って、あとで提出することもできるし、インターネットでやることもできる」と頼むことに同意した。

 6月半ばのある晴れた日、大きなバッグに魔法の7つ道具を入れ、ロング・スカートとシャツで、髪を後ろで束ね、期待と不安半々で家を出た。

 会社から100メートルほど離れたところに車を止めなければならなかった。

会社の前の本通りは、アメリカ軍バグダード進入のときの戦車の重みでできた亀裂やくぼみで通れなかったからである。私は、半ば走り半ば自分を抑えながら会社のドアに近づいた。私の心臓は期待でどきどきしていた。仲間に、同僚に、事務員さんたちに会える___いま現在の見知らぬ生々しい悪夢のただ中にあって、かつて日常であったものに再び。

 ドアを入った瞬間に、わかった。なにもかもみすぼらしく、なんとなくみじめに見えることに。廊下の栗色のカーペットはうす汚れ、擦り切れ、多くの足が乱入して踏み荒らしたことを物語っていた。戦争に先立ち、私たちの手で念入りにテープを貼られた窓は、あちこち割られていた___そこら中汚れていた。電球はみじんに砕かれ、机はひっくり返され、ドアはうち破られ、時計は壁からひきちぎられていた。

 私は、気をくじかれて、入り口に立ちつくした。よそよそしい見知らぬ顔、顔__少数の見知った顔。誰もがつったって、お互いを見ていた。どの顔も悲しげに力なく疲れ果てていた。私は、双方に一人づつの女性のうちの一人だった。見覚えのない乱雑さの中を縫うように進んで、階段を上がった。管理職の部屋のある2階でしばしたたずんで、高まる男性たちの声を聞いていた。戦争の2週目に、経営トップは卒中で死んでいて、突然、私たちの間に’権力の空白地帯’が生じていたのだった。少なくとも20人の男性たちがそれぞれ自分こそボスになれると考えていた。経験があるから、地位があるから、政党(SCIRIだったり Al-Daawaだったり INCだったり)の後立てがあるから、とそれぞれの思惑で。

 私は階段を上り続けた。ビルの中は蒸し暑い(少なくとも2カ月電気がなかった)のに、骨までぞっとして。私の小さな部屋は、ビルの他の部分と同じだった。机はなく、書類がそこら中に散らばっていた___しかし、Aがいた!信じられなかった__なつかしい暖かい顔。一瞬の間、彼は見知らぬ者を見るように、私を見つめていた。次の瞬間、目を見開き、焦点の定まらなかった表情が驚きに変わった。彼は、生きていてよかったと喜び、私の家族はどうしてると聞き、自分は今日でやめるのだと言った。昔とは違うんだ。「あなたは家へ帰って、安全にしていたほうがいい」。彼は、やめて、外国で仕事を見つけるつもりだという。ここにはもう仕事はない。私は、彼に自宅で仕事をして提出するという計画のことを話した。彼は、悲しげに首を振った。

 私は、少しの間、わけのわからない事態をじっと考えて立っていた。混乱した私の頭を整理しようとして。心は張り裂けそうだった。いとことEは、階下で私を待っていた___もう何もすることはなかった。もしかしてお役にたてませんかと聞く以外。私は、2階で、以前の部長と話しに立ち寄り、いつ会社がもとの軌道に乗るのかと尋ねた。彼は私を見ようとしなかった。Aだけをじっと見つめて、Aにいまは女性はいらないんだと言った__とくに’護衛されていない’女性は。彼は、最後に私に向き直って、べらべらとしゃべりたてた。うちへ帰るように。何が起こっても’自分たち’は責任ももたないから。

 OK.けっこうよ。何を言ってるかわからないわ。私はきびすを返すと、階段を降り、Eといとこを見つけた。突然、そこにいた人々の顔からよそよそしさが消え__ほとんど以前と同じ面々だったが__かわりに敵意があった。信じられなかった。私がここで何をしたというの? Eといとこの顔はこわばっていた。私はうちひしがれて見えたにちがいない。Eといとこは、急いで、私のかつての最高の職場から私を連れだし、車へと連れて行ったから。帰りの道中、私はさんざん泣いた。私の仕事、私の将来、ずたずたにされた町、破壊されたビル、滅びゆく人々を思って。

 私は、運がいい連中の一人だ__有力者ではないし、重要人物でもない。1カ月ほど前、有名な電気工学者(イラクの最優秀な女性の一人)、ハンナ・アジズ(Henna Aziz)が家族(夫と二人の娘)の目の前で暗殺された。彼女は、バドル旅団(Badir's Army)の原理主義者から脅されていた。家から出るなと。女なんだから、でしゃばるなと。彼女は拒否した__イラクは国を軌道に乗せるために彼女の能力を必要としていた__彼女は優秀だった。彼女は家に留まろうとはしなかったし、留まることもできなかった。やつらはある夜、彼女の家に来た。マシンガンをもった男たち。乱入して銃撃した。彼女は死んだ___でも彼女が初の死者ではないし、これで終わりでもない。

Riverbendのこと

 おおぜいの人が、私のこれまでのこと、英語がじょうずな理由を聞いてくる。私はイラク人で__つまり、イラク人を両親として、イラクで生まれた。だけど、子どもの頃、数年を国外で過ごした。10代初めに帰国して、バグダードで英語の勉強を続けた。手に入る本はみんな読んだわ。友だちの多くは、さまざまな民族、宗教、国籍だ。私はバイリンガル。私みたいな人は、イラクには何千といる___外交官、学生、元愛国者などの子どもたち。

 欧米文化との関わりは___おおぜいのイラクの青年がアメリカ・イギリス・フランスのポップ・カルチャーをものすごくよく知ってるって言っても信じられないでしょ。アーノルド・シュワルツネガーのことも、ブラッド・ピットのことも、ホィットニー・ヒューストンのことも、マクドナルドのことも、M.I.B.sのことも、なんだって知ってるわ___イラクのテレビは、最新のハリウッド映画のコピーを流し続けていたのだから。(少しでも気休めになるとするなら、海兵隊がかれらに先行した”ランボー・ターミネーター”の評判を裏切らなかったということかしら)

 だけど、ともかく__わたしは匿名をとおすわ。そうでなければ、気楽にかけない。サラームとジーは、ものすごく勇敢だと思う__もしかして、わたしもいつかそうなるかも。わたしはRiverbend、そしてわたしの日常のほんの少しを知ってもらう、それでじゅうぶん。

2003年8月23日 日曜日

たったいま始めたところ・・・

 女性は、もうひとりで出かけることはできない。わたしが出かけるその都度、Eと、父か叔父かいとこに付き添ってもらわなければならない。

  占領開始このかた、まるで50年も昔にもどったようだ。ひとりで外にいる女性は、また少女も、侮辱から誘拐まであらゆる危険な目にあう。外出は、最低1時間前に段取りされなくてはならない。まず、何か買わなくてはならない、あるいは、誰かを訪ねなくてはならないと、わたしが申し立てる。つぎに、男性二人(大ぶりのものが望ましい)が調達されなければならない。そして、このまったく法の適用外の状況において、’安全協定’が取り決められなければならない。その上、必ずつぎの質問が出る。「だけど、それを買いにいかなきゃならないの? 代わりに行ってきてあげようか?」。だめよ、ナスを1キロ、どうしても自分の手で選ばなきゃ、っていうのは、ほんの口実で、本音は昼ひなか、町を歩いてみたい・・・というものだから。働いたり、大学に行っている女性にとって、この状態は、たまらないくらいいらいらさせる。

 戦争前は、大学生の約50%は、女性であった。さらに全労働者の50%以上は、女性であった。いまは違う。イラクでは公然と原理主義が台頭してきており、それはとても怖しい。

 たとえば、戦争前、わたしの把握では(ざっとだが)、バグダードの女性の約55%がヒジャーブ(ヘッドスカーフ)を被っていた。ヒジャーブイコール原理主義ではない。絶対に違う__私自身は、被らないけれど、被る人ー家族や友人を知っている。要は、以前、ヒジャーブを被る、被らないは、まったく問題ではなかったということだ。被ろうと被るまいと、それは”わたし”の勝手__巷の原理主義者の知ったことではなかったのだ。 

 知らない人のために言うと(最近わかったのだが、意外と知らない人が多いのだ)、ヒジャーブとは、髪と首だけを被うもののことだ。顔は全部出ているし、グレース・ケリーのように前から髪を少しのぞかしている人もいる。ブルカというのは、これとは違って、アフガニスタンで見られるように、頭部全体__髪、顔、全部を被うものである。

 わたしは、女性でイスラム教徒だ。戦争前、わたしは、ほぼわたしの好きな服装をしていた。ふだんは、ジーンズ、綿パン、気楽なシャツ。しかしいまは、パンツでは外へ出ない。長いスカートと、だぶだぶのシャツ(長い袖のあるものがよい)が必需品だ。ジーンズをはいていると、原理主義者に(解放された!)、攻撃、誘拐、侮辱される恐れがある。

 親たちは、娘たちを安全な家の中に隠している。町で(とくに午後4時以降)ほとんど女性を見かけないのはそのためだ。そうでなければ、娘や妻や姉妹たちにヒジャーブを被せている。娘や妻や姉妹を抑圧するためではなく、守るためだ。

 同じ理由で、わたしは仕事を失った。がっくりさせられたこの事件の一部始終のことは、また改めて書くつもり。少女たちは、大学や学校から追いだされていったいる。14才のいとこ(文字通りの優等生)は、この学年をやりなおすつもりだ。占領から先、両親がこの子を家におくことにしたから。なぜって? イラク・イスラム革命最高評議会が、いとこの学校の隣の事務所を乗っ取って、そこに何かを担当する’部局’を開設したから。

 黒いターバンの男(M.I.B.T.s、M.I.B.sとは区別して)と頭からつま先まで黒い服を着た、うさんくさい怪しげな輩が部局の門のあたりにたむろして、となりの中学に入る少女や教師をじろじろみる。そのむっつりと恐ろしげな男どもは、ヒジャーブを被っていなかったり、スカートが少しばかり短かったりすり少女を、いやらしい目付きでながめたり、にらんだり、あざけったりするのである。服装が’適当’でないと、酸性の薬品を投げつけられる地域もある。

 イラク・イスラム革命最高評議会(略してSCIRIだけど____SCAREY(恐ろしい)といいたいわ)は、1982年テヘランで発足した。最大の目標は、”イスラム革命”思想をイランからイラクに持ち込むことだ。つまり、彼らは、イラクはシーア派ムッラーに率いられる神権政治であるべきだと考えているのである。SCIRIの副党首、Abdul Aziz Al-Hakimは、9人からなる輪番大統領制の一人で、もうじきイラク統治をやってみることになっている。

 SCIRIは、自分たちがイラクの全シーア派ムスリムから全面的な支持を受けていると思わせたい。しかし、ほんとうは、シーア派ムスリムの多くは、SCIRIそのももと、彼らが権力を握った暁に何か起こるかを恐れている。Al-Hakimは、イラン・イラク戦争の間じゅう、イランにおいてイラクの捕虜を拷問し処刑してきた張本人である。もしSCIRIがイラクを支配したら、わたしが思うに、彼らがいの一番にやることは、イランとの国境の開放と、イラクとイランの統合である。そしたら、ブッシュは、イラクとイランを、彼のいう、忌まわしい’悪の枢軸’の一部としていちいち名をあげなくてもすむようになり、ただ’悪の団塊と邪悪な北朝鮮’と呼べばよくなるのである(ブッシュの貧弱な言語能力には、こっちのほうが適当のようだ)。

 Al-Hakimは、イラク入国以来、彼の’シーア多数派信奉者’どもとバグダードのCPAを恐喝している。彼は、’Jaysh Badir’すなわち’Badir's Army’に守られてイラクに入国した。この’Army’なるものは、イランの過激派に指導され訓練された何千人ものイラク過激派からなる。戦争の間じゅう、彼らは国境に潜んで侵入するすきをうかがっていた。バグダードと南部で、彼らは、スンニ派、シーア派、クリスチャン、どの派にとっても、恐怖と不安のまとであった。彼らとその追随者の何人かは、略奪と焼き討ちの多くの首謀者あるいは主犯者である(復興事業の契約をとるつもりでやったって、思うわよね・・・)。彼らはさらに、多くの宗教的、政治的誘拐と暗殺を実行した。

 目下の事態の、この緊迫した空気は、言葉では表わせない。クリスチャンも過激派の標的なってきている。脅迫される人々、攻撃される人々・・・。数人のムッラー気取りの輩は、6月、「女性は全員ヒジャーブを被るべし、さもなくば’罰’を受ける」という’fatwa'、命令を発表した。’Hawza Al Ilmia’に属すると称する、あるグループは、「14才以上の少女は、一人たりとも未婚であってはならない」と命令を発した__たとえ、これが、Hawzaのメンバーのあるものどもは、2人ないし3人ないし4人の妻をもたざるをえないという意味だったにしても。この命令は、イスラム以外の宗教の女性にも及んでいた。南部では、国連と赤十字の女性職員は、ヒジャーブを被らないと殺すと脅された。これは、神の思し召しではなく、権力の仕業である。「見よーーこれほど力があるのだぞ、これほど勢力があるのだぞ」と、人々に、世界に、見せつけているのである。

 酒屋も襲撃され爆破されている。酒屋の主人はいつもfatwa、命令のかたちの’脅し’を受け取る。そこには、「永久に店を閉めないなら、当然の報いがくる」とある。報いは、多くの場合、放火か爆破である。同じように、バグダードでは、美容師が脅迫されている地区がある。ほんとうに怖しいことだが、事実である。

 これをイスラム教のせいにしないで。どんな宗教にも過激派がいる。混乱と無秩序の時代は、過激派の天下だ。イラクは、素朴に「人にはそれぞれの生き方がある」という言葉に信をおいている、穏健なイスラム教徒の国だ。わたしたちは、うまくやっている__スンニ派とシーア派、イスラム教徒とクリスチャンとユダヤ人とサービア教徒。お互いどうし結婚しているし、なじみ混りあっている。同じ地区に教会もモスクもあるし、こどもたちは同じ学校に行っている・・・なんにも問題ではなかった、かつては。

 わたしに、イラク国民は選挙でイスラム国家に賛成するかもしれないと思うかと聞いた。6カ月前のことだ。わたしは、確信をもって答えただろう。「ノー」しかしいまは、わからなくなった。原理主義になだれをうって回帰している。人々は宗教に救いを求めるようになってきている。それにはいくつか理由がある。

 最大の理由は、恐怖である。戦争に対する恐怖、死に対する恐怖、死より悪い運命がくるのではないかという恐怖(ほんとにそうなのだ、死ぬより悪い運命があるのだ)。この戦争の間、もしわたしが信ずるものを持っていなかったら、ほんとうに狂っていたと思う。祈るべき、誓いをたてるべき、契約をむすぶべき、感謝すべき神がなかったら___乗りこえられなかっただろう。

 欧米的な価値観や生活信条が入りこんできたことも、イラク人をイスラム文化へと向かわせるについて、大きな役割を果たしている。欧米にも無知な人々がいる(おおぜいーーーわたしが受け取るeメールをみればわかる・・・言われて恥ずかしいことはしないことね)のとまったく同じように、中東にも無知な人々はいる。ムスリムとアラブといえば、欧米人は、自爆攻撃、テロリスト、無知、ラクダを思い浮かべる。アメリカ、イギリスといえば、イラク人は堕落、売春、無知、支配、がらくた、非情を思い浮かべる。この思いこみの脅威から自分自身を守る、そして愛する者たちを守るいちばんの方法が、宗教なのだ。

 最後にもっと身もふたもない理由をあげよう。イラク国民の65%は、現在、なんらかの理由で失業している。食べさせなければならない家族をかかえた人々がいる。’家族’とは、妻一人、こども二人のことではない・・・16人から17人のことだ。Al-DaawaとSCIRIのようなイランに支援されているイスラム政党は、目下、’支持’と引き替えに’賃金’を失業男性(たとえば元職業軍人)に提供して、ひと集めをしている。この支持とは、あらゆることを意味する__選挙のときは投票を、ある店を爆破、’押収’、誘拐、車の乗っ取り(Al-Chalabiのために働く場合に限り・・・)。

 だから、テロと原理主義に対する不安に関しては__カーペンターズを引用したい__心配かって? 「わたしたちはたったいま始めたばかり・・・たったいま・・・」

(翻訳 池田真理)

2003年8月22日(金)

新しいメールアドレス

目下メールボックスに少々トラブル発生。追ってお知らせするまで、私宛のメールは riverbend@velocall.com へどうぞ。ご協力ありがとう。

明日からは「コメント」ボックス開始予定……なので、誰でも他の人のコメントが読めるようになる。

事実関係の整理

ここできっぱり事実関係を整理しようと思う。

 私は米国人が憎くはない。多くの人からそう見られているらしいがそれは違う。理由は私が米国人を愛しているからでなく、ただ米国人を憎んでいないから。フランス人やカナダ人、イギリス人、サウジアラビア人、ヨルダン人、ミクロネシア人その他が憎くないのと同じ。理由はこんなにシンプルだ。何百万人ものイラク人と同じく、私はイラク人であることやイラクの文化に誇りを持つよう育った。同時にまた、何百万人ものイラク人と同じく、異文化や外国、異なる宗教に敬意を抱くよう育った。イラク人は生来探求心が強い。それに異なる価値観を受け入れようとする。ただし、その価値観と信念を押しつけられない限りの話だが。

 イラクに今の形態で米軍が存在することは憎むが、米軍兵士すら憎いとは思わない。いや、待って。ときには憎い。

・爆撃の間中ずっと私は米軍が憎かった。毎日毎晩、私たちは次の爆弾、次の飛行機、次の爆発を恐れつつじっと座っているしかなかった。暗闇に座って、私たち自身や愛する人たちの命のために祈り、イラクの生き残りを願って祈る。そんなとき、家族や友人の顔が恐怖を物語り、恐怖を忘れていないことが見て取れると、私は米軍を憎んだ。

・4月11日、彼らを憎んだ。寒くどんよりした日だった。この日、私たちの家族の友人が夫と息子とよちよち歩きの娘を亡くした。激しい戦闘のあったアルアダミア地区の家から避難する途中、家族で乗り込んだ車に戦車が衝突したのだ。

・彼らを憎んだのは6月3日。この日、私たちの車がなにやら奇妙な理由のためにバグダッドの真ん中で停止させられ、私たち(女性3人、男性1人、子ども1人)は車から降ろされて、一列に並ばされた。その間、ハンドバッグが引っかき回され、男性は身体検査され、車は怒れる兵士たちにくまなくチェックされた。検査される屈辱はとうてい言葉に言い表せそうもない。

・7月13日の2時間、私は彼らが憎いと思った。バグダッドを出るとき、うだるような暑さ、目眩がするような猛暑の中、検問所で他の数十台の車とともに引き留められたときだった。

・私の従兄の家が強制的に家宅捜査された晩、私は彼らを憎んだ。従兄には妻と、幼い女の子を2人抱えた娘がいる。従兄は手を頭の後ろにして家の外に追い出され、妻と泣きわめく娘たちが台所で待たされている間、20人ほどの兵士が手分けして家捜しをしてタンスをからにし、下着の引き出しをかき回し、おもちゃ箱をひっくり返していった。

・ 4月28日、バグダッド西部のファルージャで米軍が子どもとティーンエージャーを十数人も撃ち殺した日、私は彼らを憎んだ。米軍が地元の(ただ1校しかない)学校を接収し、子どもと親たちは平和デモのため校舎の前に立った。一部の子どもが米軍に投石を始め、軍がデモ隊に向けて発砲した。これがファルージャの流血事件のきっかけだった。

一方で・・・

・こんなに容赦なく照りつける太陽の下、私たちの車のエアコンをうらやましそうに見ながら立っている重装備の米兵士たちを見ると、私はひどく気の毒になる。要するに結局ここはバグダッドだし、私たちはイラク人。この暑さは経験済みだ。

・米兵士たちはじっと立ったまま太陽に何時間もさらされた挙げ句、生ぬるい水を飲むしかない。そんな姿を見るとつらい思いがする。

・5人の子持ちでひどく腹を立てた失業中の男性などから、意味もまだわからない言葉で罵声を浴びたとき、困惑しておびえた兵士たちの表情を見ると、気の毒に思う。

・兵士たちが誰にでも銃口と戦車を向けるのを見ると絶望的になる。なぜなら、彼らの目には誰もがテロリストであり得るし、ほとんど誰でも怒りと不満を抱えたイラク人なのだから。

・戦車のてっぺんや車の中で、退屈してやる気なさそうに座る姿を見ると、私は兵士たちに同情してしまう。彼らはどこか他のところにいられたらいいなあと願っているのだ。

 これであなたもわかる。混乱の世では心境も複雑だ。

 私は「米軍」について話をするが、それは私が接触するのが米軍しかないからだ。イギリス軍、イタリア軍、スペイン軍は接点がないし、わからない。おそらく南部に行けば、イギリス軍に同じように感じるだろうと思う。

 私が経験不足で、たぶん甘やかされているのだろう、云々と書いてきた人がいた。それに、私のために死ぬに値する米兵士は1人もいない、と。全く同感だ。誰も私のため、または他の誰かのために死ぬ価値はない。

 今回の戦争は大量破壊兵器(WMD)をめぐる闘いとして始まった。WMDが発見できず、証拠も根拠薄弱としか言いようがなくなると、突然「テロとの戦い」に方向を変えた。アルカイダやオサマ・ビン・ラディンとのつながりが立証できなくなると(フォックスとブッシュの頭の中は別だが)、今度は「解放」に転じた。好きなように呼んでいただいてかまわないが、私にとっては「占領」だ。

 私の意見は何かって? 国連平和維持軍を導入して米軍を撤退させてほしい。誰に代表になってほしいか、イラク国民に決めさせること。政権協議のメンバーは、経済封鎖とイラク国内の戦争に苦しんだイラク人とすること。人々は怒りと不満を抱いている。米軍はそうした怒りの矢面に立つべき責任の一翼を担っている。なぜなら、主導権を握ると同時に、誤りを冒しているのもまた米国政府だからである。

 兵士の大半があまりに年若いので、見るといつも悲しくなる。私が24歳の年をこうした状況で苦しんで過ごすのがフェアでないのと全く同じく、彼らも19歳、20歳などの年を苦しみつつ過ごさなければならないのはフェアでないように思える。結局私たちには共通点があるではないか。どちらもブッシュ政権の決断の犠牲者なのだ。  とは言うものの、あと1カ月か2カ月、または3カ月か半年すれば、彼らは帰国するだろう。私たちの方はこの地に残り、直面している祖国の混乱に取り組んでいくのだ。

2003年8月21日(木)

アル・チャラビ・・・付帯条件なし!

 というわけで、アル・チャラビをテレビで見た。「アル・アラビア」[訳注:ドバイの衛星テレビ]の著名リポーターからインタビューを受けるシーンだ。昨夜も今朝も見損ねたが、発電機を持つ従姉が、親切に私のために録画してくれた(彼女は、チャラビが笑える数少ない政治家なのを知っている)。 

 見物だった。インタビューは出色のできばえだ。ほとんどブッシュに引けを取らない。なぜペンタゴンがチャラビを選んだのかわかる。訓練したらきっとおもしろいだろう。サルをペットにするようなものだから。

 いずれにせよ、インタビューの滑り出しは多かれ少なかれ妥当な線だった。チャラビは満面光り輝いていた(リップグロスを塗っていたに違いない)。彼はまったくものの言いようを心得ていない。ブレマーは選挙までチャラビへのインタビューを禁止すべきだと思う。もし米国がチャラビを大統領にすえようと決めるなら、誰かにスピーチの原稿を代筆させることだ。だが今のところ、チャラビはCIAの面汚しだ。

 このインタビューで一番の傑作だったのは、番組が前ボディガードの1人を紹介した場面だ(オスカー賞ものの激しさで、チャラビはその人物を知らない、と断言した)。前ボディーガードは、INC[イラク国民会議]がバグダッド入りした当初、人員募集を開始した頃は、INCが十分理をわきまえているように見えた、と訴えた。それが突然、(前フセイン政権専用ではなかった)サイード・クラブを乗っ取って、INCを民兵組織に転換してしまったのだ。

 4月、5月、6月と、彼らはバグダッドの真ん中で車をハイジャックし、自分たちが銃を突きつけて「押収」している車は略奪品である(したがって、チャラビの財産である?)と主張した。奪った車は司令部に保管し、イラクからクルド地域へと密輸した。比較的いい車はINCの「メンバー」が山分けした。分け前がもらえず暫定占領当局(CPA)やアル・チャラビ株式会社に訴えでたものは、集団で叱責を受け、二度と繰り返すことがないようにと申し渡された。

 以上の経緯が指摘されたアル・チャラビは、実に魅力的だった。即座に一笑に付すと、すべて嘘っぱちの大嘘だ!この証人を連れてくるのにいくら払ったのか?とレポーターに尋ねたのだ。続いてレポーターを侮辱し、あんたたちもさもしいこと(チャラビの得意技)をするほど落ちぶれたものだ、とコメントした。レポーターの質問はヨルダンの法に触れるヨルダンゲート疑惑に及び、ヨルダン国会がチャラビを法の裁きに付そうとしていることに触れた。……ここでもチャラビの返答は、すべて大嘘だ!とばっさり。

 さらに、ヨルダン国会はヨルダン国民の面汚しだ、などなど。チャラビは詐欺師ではないし、泥棒でもない。まして傀儡でもなかった。イラク人もヨルダン人も一緒に気が変になってお話しにならない。私の見るところ、レポーターは聞くべき質問を間違えていた。チャラビがCIAからもらったINC資金をどう使ったかを尋ねるべきだった(衣装代にしていないことは確かだ)。 

 このインタビュー全体から思い出したのは(マーク・フリッツ記者による)8月11日のAP通信レポートだ。

「イラクは石油の中を泳いでいる。しかし、石油という自然の恵みから豊かで幸せな中産階級が生まれると考えるなら、過酷な現実に気づかざるをえない」

 ……さてと、私たちはまずアル・チャラビの債権者に支払いを済ますべきだ。とすれば当然、私たち国民の手元に残りがくると望むのは無理があるはず、よね?

私の新たな才能

  昨夜は不眠症に悩まされ、テレビの前に陣取ってチャンネルをパチパチ切り替えていた。探していた番組はいつもので、統治評議会の1人のインタビュー番組や新しいニュースや奇跡の出来事だ。午前2時きっかりに停電になり、真っ暗闇に投げ出された。お馴染み、「8月のイラク、停電の夜」だ。私はそこで暗闇に座ったまま、ロウソクとマッチの置き場所を思い出そうとした。5分後、いまいましくも思い出せぬまま、今度は手探りで階段を上って屋根に出ようと決心した。ためらいながら一足ずつ歩を進め、つまずきつつ廊下に出て、階段を上り、(あるはずがないと思っていた)最後のふみ段につま先をぶつけた。

 (事情を知らない人のために説明しよう。比較的安全な地域では屋根の上で寝る。停電の晩は家があまりに暑くなり、オーブンでじわじわ焼かれているような気がするからだ。屋根がとりわけ具合いいわけではないが、少なくとも風があるような気がする。) 屋根の上は、あらゆるところから次々に熱波が押し寄せていた。奇妙なことだが、もしあなたが真ん中に立てば、壁から地面から全方向から熱気を発しているのがわかると思う。私はそこに立って、熱気が私たちの地域からだけ来るのか、暗闇に沈み込んだ市内全土から来るのか、判断しようと試みた。

 まもなく弟(「E」と呼ぶことにしよう)がやってきた。髪はぼさぼさ、むっつり不機嫌で、半分眠ったままだ。屋根を囲む低い壁にもたれて、私たちは二人で下の通りを眺めていた。すると隣家の庭で、アブ・マーンのタバコの先が赤く燃えるのが見えた。「アブ・マーンも眠れないのね」。指さしながら言うと、Eは喉の奥で答えた。「たぶんマーンだよ」。半ば気が触れたのではないかと、私は弟を凝視した。それとも眠ったまましゃべっているかのだろうか。マーンはわずか13歳だ。……タバコなんか吸うわけないじゃないの。ありえないでしょう?

 「たった13歳よ」と言うと、

 「たった13歳と言える人、まだいるかい?」と弟は尋ねる。

 弟の言葉の現実を私はかみしめた。確かにいない。誰ももはや13歳ではない。もはや24歳でもない。誰も彼も85歳。私は105歳かもしれない。疲れ切って話もできない。Eも、目は開いているけれど、眠っているのではないかと思う。この沈黙はまもなく、遠く響く銃声で破られた。気になるくらい大きな音だが、遠すぎて本気で心配するほどではない。銃声がどの方角から響いてくるのか、私は判断を試みる。

E「どのくらい遠いと思う?」

私「わからないけど……1キロぐらい?」

E「うん、そのくらいだよ」

私「米軍の銃声じゃないわね」

E「うん、この音はたぶんえーと……」

私「カラシニコフよ」

E(感心して)「どんどんわかるようになるんだね」

 いや、確かに私はよくわかるようになった。「敵」か「味方」か聞き分けられる。どのくらいの距離かもわかる。ピストルと機関銃の違いもわかるし、戦車と装甲車の違い、アパッチだかチヌックだかも違いがわかる。距離だけでなしに、標的さえも判断できる。これが私の新たな才能。あまりに上達したものだから、自分で自分が恐ろしくなる。なお悪いことに、誰もがたいがいこの新しい才能を身につけたように見える。若くても年老いても変わりない。しかもこれは誰も政権には感謝していないものだ。 私はまだ考えている。飛行機はもう一度同じ音を響かせることがあるのだろうかと。

電子メール

 すごい! サラームのブログにアップしたおかげで、何十通も電子メールを受け取った。こんなに大勢の人がブログを読んでくれるなんて夢にも思わなかった。感謝の念と緊張感を同時に感じる。

 メールの大半には感謝の気持ちを抱かずにいられない。理解してくださってありがとう。いや、理解「しようと」してくださってありがとう。一方で他のメールは、批判と皮肉と怒りに満ちていた。読みたくなければ私のブログを読まなくて結構だし、どんなに嫌いかをわざわざメールで伝える必要はない。疑問を持ったり意見が違ったりするのはすばらしい。だが、そのときはどうか理性を持ってほしい。とりわけ、創造性は欠かさないでほしい。もしフォックスニュースの報道を聞きたい気持ちになったら、見てみようと思う。最後に一つ、覚えていてほしい。戦車や銃は私の骨を砕くことができるが、電子メールならデリートで対抗できると。

2003年8月20日(水)

放心状態

 セルジオ・デメロの死は破滅的だ。みんな少し放心状態だ。デメロは、ここ数カ月イラクに起きたと思われる出来事でもっとも傑出していた。事実上、国連は戦争阻止に無力だったものの、デメロのような人を見ていると、人はかすかな希望の兆しを感じさせられた。そこには、国際社会が注意深く見守っていなければ米国はバグダッドで立ちゆかなくなるだろう、と思わせるものがあった。

 ブレマーは爆破事件を「抵抗勢力」やアルカイダに結びつけようとしている。これは新手の攻撃だ、と。ブッシュ大統領、*これ*はテロですよ……占領軍に対する攻撃ではない、つまり抵抗勢力の犯行ですよ、と。守れなかった、あるいは守ろうとしなかった人道援助機関の攻撃。こんなことは、イラク占領前には経験したことのないテロリズムだ。どれほど困難な事態に直面しても、以前の私たちはこのイラクで国連や大使館の爆破を許したことはない。UNSCOM(訳注:国連大量破壊兵器廃棄特別委員会)はけっして好意を持たれていなかったけれど、保護はされていた。米国は、占領軍として、この国に残されたものの安全を保証する責任がある。米国は、このイラクの地で人を助けるあらゆる国際的人道援助機関の安全を保証する責任がある。米国は責任をとことん回避し続けてきた。けれども、セルジオ・デメロのような人なら事態はもっと好転していたかもしれない、とあなたも考えるだろうと思う。

 なんだかこわい。セルジオ・デメロのような人が守れなかったら、あるいはただ守られなかったら、イラクで保護を必要とする無数の国民は一体どうなるのだろうか。一体なぜこんなことが起こりえたのだろうか?

 一部のニュース専門局は、デメロの訃報に接したブレマーがその場で泣き崩れたとのみ報じた。だが、私にはわからない。デメロの死でブレマーが失ったものはないことは明らかだ。……デメロの死はイラクの喪失なのだ。

2003年8月19日(火)

信じられない・・・

 国連事務所ビルの爆発はおそろしく……すさまじく、悲しむよりほかない。あんなことが起きたなんて、誰にも信じられない。なぜ国連事務所ビルが標的になったのか、誰もわからない。国連が援助目的でここにいるのは明らかだ。

 怒りに燃える私に憤懣のやり場はない。事態は何一つ前進していないのだ。前進は「皆無」。この事件はその一例にすぎない。メディアはアルカイダの仕業だと主張している。とんでもない。占領前はこの地にアルカイダがいたことなど一度もない。 原理主義者らは目立たないように鳴りをひそめていた。ところが今、彼らは「至る所に」いる。ブレマーの傀儡政権に対しイラク国民を「代表」しているのだ。

 一方、石油省にはこうした事態は決して起こるわけがない。石油省は24時間ぶっとおしで1日の休みもなく戦車と軍が厳戒態勢を敷いている。警戒はバグダッド陥落を期に始まった。ブレマーの油断ない監視のもと、石油の最後の一滴が尽きるまで警戒が続くだろう。一体なぜ、国連事務所ビルの前に戦車を配備しておけなかったのだろうか。なぜ? なぜ? なぜ? 米国防総省の計画がこれまで苦闘を続けたことは知っている。けれども、今回の爆破は1マイル先から見通していたに違いないと思える。

疲れ

 疲れたまま目覚めるなんてどうしてありえるのだろう? 眠りながら格闘していたような気がする。悪夢の数々と格闘し、おそれと格闘し……銃声や戦車の音に聞き耳を立てることと格闘していたような……。今日はとにかく疲れた。これは眠りたいような「疲れ」の質とは違う。ただひたすら活動を停止したい……可能ならば予備に回してほしい、と思わされる疲れだ。最近は誰でもこんな風に感じていると思う。

 今日、バグダッド北西部の行政区域、アンバールで子どもが殺された。名前はオマル・ジャシム。わずか10歳か11歳の男の子だ。誰かこの出来事について耳にしただろうか? 今でも問題になっているのか? フォックスニュースやCNNが報道したのか? この男の子は米軍の家宅捜査のとき殺された。その理由は誰も知らない。家族は打ちひしがれている。家には何もなかったので、何も取られなかった。いつもの家宅捜査の一つに過ぎなかった。人はみな家宅捜査をおそれている。何が起きるか決して予測できないからだ。対応を誤れば撃たれるかもしれないし、対応を誤るというのも本当のところ何なのか。物も盗まれてしまう……金、時計、お金(ドル)……。兵士たちが「すべて」盗みを働くと言っているのではない。それでは公平を欠く。まるでイラク全土が略奪に遭っていると言うようなものだから。

 だが、略奪者や殺人者、ギャング、民兵の心配をしなければならないのは本当に厄介だ。誰かがこう言うのを知っている。「恩知らずのイラク人め! あの人たちは『おまえたち』のために仕事をしている……家宅捜査は『おまえたち』のためにしているんだ」。しかし本当は、度重なる家宅捜査の遂行目的はただ一つ。私たちが占領下にあること、独立国ではないこと、自由がないこと、解放されていないことを絶えず思い知らせることにある。私たちはもはや自分の家にいても安全ではない。あらゆるものが他の誰かのものになってしまった。

 今の時点では未来が見えない。でなければ、見るという選択肢がない。もしかすると、嫌な記憶や予感であるかのように未来をブロックしようとしているだけかもしれない。それでも、未来はじわじわと我が身に忍び寄る。この瞬間、私たちは生きている。半年前はこわくてじっくり考えられなかったこの瞬間を。まるで悪夢から抜け出す道を探すようなものだ。彼らが石油を手にして行ってしまえばいいと、……それだけを私は願う。

2003年8月18日(月)

アナザー・デイ・・・

 今日はふつうの日。朝早く起きて、いつもの「家の周りの仕事」をした。貯水タンクがいっぱいになっているかチェックし、いつ停電になるか予測を試み、料理用のガスが十分かどうかをチェックする。

 ところで、インターネットでチャットルームや掲示板に投稿したとき、私を本当に悩ますのは何か? 真っ先に来るのは「あなたは嘘をついている、あなたはイラク人ではない」という反応(通常は米国人)だ。なぜ私がイラク人でないかというと、理由は次の3点。(a)私がインターネットにアクセスできるから(イラク人にインターネットはない)、(b)私がインターネットの利用方法を知っているから(イラク人はコンピューターがなんなのか知らない)、(c)イラク人は英語が話せないから(私は自由主義者に違いない)。どれも私を悩ますべきではないのだが、実際には悩みの種だ。私は街にいる兵士たちを見て、思わずにいられない。「それでは、彼らが私たちを占領する前は、イラク人についてこんなふうに思っていたし……今も思っていることなのかもしれない」。私たちはなぜ第二のアフガニスタンと見なされているのだろうか?

 この二日間で一番の出来事は、きのうテレビを見たことだ。大統領が輪番制で交代する統治評議会発の最新ニュース。ヨルダンが米政府に対し、アフマド・アル・チャラビをアンマン当局に引き渡すよう働きかけている! これは見物だった。実は、チャラビはブレマーが選んだ暫定政権全体の中で私のごひいきだ。もしブレマーがここ数カ月統治しようとしてきたイラク国民について何かしら学ぶところがあれば、チャラビの首に(善意の贈り物の印として)赤いリボンを巻いて、ヨルダン当局に引き渡すだろう。こんな卑劣漢が好きな人など見たことがない(その仲間のカンバールはさらに悪人だ)。

 事情を知らない人のために説明しよう。イラク暫定政権はイラク国民の「代表」としてブレマーが選んだものだが、権力に飢えた権力フリークたちのいずれにイラクの統治をゆだねるべきか、決めかねた。そこでブレマーは、米国が選挙のお膳立てを整えるまでイラクを統治する3人を(暫定大統領として)選出した。ムハマド・ハキム(イラク・イスラム革命最高評議会代表)、バール・アル・ウルーム(同じくシーア派の聖職者)、アドナン・アル・パチャチの3人だ。当然ながら、統治評議会のメンバーがこぞって反対した。なぜイラクはたった3人しか大統領が認められないのか!? そこで、9人になった。9人(アドナン・パチャチ、アハメド・チャラビ、ムハマド・ハキムほか様々)の1人ひとりが、1カ月交代で統治に当たる。イラクは何といっても変わりやすさが必要であり、私たちに必要なのは月替わりの新大統領。ともあれ、「今月のおすすめ」はイブラヒム・アル・ジャファリ。悪名高きアッダワ党(フセイン時代以前からフセイン時代まで様々の爆破事件を起こした)の代表だ。ジャファリについては後でもっと話そう。

 笑わせるのは、この9人がアルファベット順(但し、アラビア語のアルファベット)に政権を担当することだ。ブレマーにとっては彼らがそろってしっぽを振り、いずれ劣らず不正直で無能なので、やむをえない決断を迫られたとしか思えない。首尾よくいくには、まず1人ずつイラクを治める機会を手にし、9カ月後にはこの地における米国の資産をもっともよく代表する1人を決定して、その人物が「選挙で選ばれた1人」になることだ。「選ばれた1人」は魔法のように褒美を??イラクを与えられる。私の願いは、パチャチが占領軍の王座につくまで現システムを長期にわたって維持してほしいということだが、彼はすでに今にも倒れそうな気配をみせている。

2003年8月17日(日)

目覚め

 近頃のイラクはどこで目を覚ますのも試練だ。目覚めには二通りある。徐々に忍び寄るか、急に襲いかかるかだ。徐々にくるときはこんな風。意識の縁のどこかにぶら下がって、心の中で消えゆく夢の断片をつかみとる……何かが自分の周りに這い上がってくる。霧のように。あったかで、ずしりと重い霧。正体は暑さだ……比較的涼しい夜でも120°(49℃近く)になる。見開いた目を瞬き、がっくりして暗闇を探る。停電だ。天井で回っていた扇風機の回転が遅くなり、そこですっかり目が覚める。息苦しい暑さの中で眠ろうとするのは、天井の扇風機を念力で動かそうとするようなもので無駄な努力だ。できるわけがない。

もう一つのパターンでは銃声や爆発音、怒号でいきなり現実に引き戻される。起きあがり、恐れおののき、うろたえ、夢も悪夢も忘却の淵に砕け散る。一体なんだろう。強盗? ギャング? 略奪者? 攻撃されたの? 爆撃? それとも、米軍が夜間にしかける家宅捜査かもしれない?

始まり

 これが私にとっての始まり、になるようだ。自分のブログを始めるなんて全く考えていなかったけれど……。以前は、ブログを書こうかと思うたび、「でも一体誰が読んでくれるの?」という疑問しか思い浮かばなかった。今は、やってみるしかないと思う。……でも、警告しておこう。不平と暴言をたっぷり覚悟してほしいと。何しろGoogleでrantlog(訳注:怒りのブログ)を検索してみたけれど、その結果一番すごいのはこのブログなのだから。 

少し自己紹介しよう。私は女性で、イラク人、24歳。戦争を生き延びた。あなたが知らなければならないのはこれで全部。いずれにせよ、近頃大切なのはこれだけしかない。

リバーベンド

(翻訳 岩崎久美子)