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 Kuroda Kouta(黒田康太) 

■朗読(読み上げ) 

■音楽(BGM用)  


○おいたち

 かつてあった満州国で生まれた。
 その元号が「康徳」であったので「康太」という名前になった。「太」のほうは「康徳元年」であったとも、「久太」という父の名前に由来したともいうが、もはや確かめるすべがない。
 父も母も、かなり以前に死んでいるからです。

(注) 後で、当時の満州国の公報を調べたら、「康徳3年」が「昭和11年」であることがわかりました。
 そうすると、「康徳元年」=「昭和8年」、そしてまた「康徳6年」=「昭和14年」ということになります。

 満州国で生まれたと言っても、物心がつかないうちに台湾、鎌倉と次々に引っ越したらしい。だから、引き揚げにはならなくて、とても幸福だった。
 新京の特別市(今の長春(ちゃんちゅん))にいたそうであるが、まったく覚えはない。しかし、子どもの品評会(?)で「健康優良児」になったらしい。生後1年2ヶ月になっていたときであるが、表彰状には満州国となっていないので、本国の主催だったのかもしれない。あるいは、もしかしたらすでに台湾に行っていたのかもしれません。
 とにかく、父母や回りの皆さまのお陰で、幼時のころは「健康優良児」であったらしい。
 しかし、その後の成長にともなって学生時代から社会人まで、次第に不摂生があって、40歳のときには医者から「寿命が残り1年もないでしょう」と言われるほどになってしまった。幼児のころのことを考えると、何と愚かな間違った生活を続けていたのであろうかと反省をする。
 仕事に追われて、生活が不規則になったころのことである。

(注) 仕事の忙しかったころ、1年に1回、人間ドックに入った。以前から肥満気味で糖尿病であったからだ。
 そんなあるとき、医師は結果のデータを見て「このままで行くと、寿命が残り1年もないでしょう。そして、その前に目が見えなくなっているでしょう」と診断結果を私に告げた。
 つまり、重度の糖尿病のために失明をして、そして間もなく死亡するというものであった。
 これは、私にとって大ショックであった。その後の私の人生を変えてしまった事件でもある。

■にぎにぎしく「身体の発育最優良ノ旨」を表彰していただいた

 私は、必ずしも『孝経』を信奉するものではありません。とくに「孝の最後が大臣や大将になること」などとは、夢にも思っていないからです。しかし、その冒頭
 <身体髪膚これを父母に受く。敢(あえ)て毀傷(きしょう)せざるは考の始めなり。>
については、まったくもっともなことだと思います。
 「孝の始め」ではなく「自分自身の一生のため」にも当然なことだからです。
 そして、『論語』の「泰伯篇」にある曾子(そうし)が臨終のときに言った
 <死んだら私の足と手を開いてみろ。傷などは何もないはずだ!>
という記述も、何となくわかるような気がします。

(注) 『孝経』の「孝の終り」は「孝の始め」のすぐ後に記述されていて、実際には<身を立て道を行ひ、名を後世に揚げて以て父母に顕はすは、孝の終りなり>とあります。これを戦前の教育では、立身出世を「大臣」とか「大将」というように具体化して教えたようです。
 曾子は曾参(そうしん)の敬称で、孔子の弟子。弟子の中で、孝行で有名であった。<死んだら……>とは、自分の身体を一生の間、大事にしたので怪我などはしていないという意味。
 朝になっても眠くて、なかなか起きにくいときには、よく『孝経』の調子で「寝台白布(しんだいはっぷ)これを父母に受く、敢えて起床せざるは孝の始めなり」などと、ふざけて言ったものです。

 私は、なぜか「孝行」というと、次の3人の名前とその母親のことを思い出します。
 王祥(おうしょう)……母親が寒中に「鯉が食べたい」と言う。そこで、池に行って裸になり、氷の上に横になった。氷を溶かすためである。やがて、氷が溶けて一匹の鯉が氷上に躍り出てきた。
 孟宗(もうそう)……やはり、母親が寒中に筍(たけのこ)が食べたいと言う。そこで、竹藪に行って掘ってみたら、たまたま一本があった。
 呉孟(ごもう)……超貧乏なので夏に蚊帳(かや)もなく、母親が蚊に刺されてしまう。そこで、自分の身体に酒を吹きかけて母の横に寝ていた。つまり、蚊はすべて酒を吹きかけた自分の身体から血を吸ったのである。
 何とも非現実な話ではあるが、すべてが母親であり、父親ではないところが面白い。女の愚かさは、中国でも同じなのでしょう。
 もっとすごいのがあるが、誰が書いた何という古典かを忘れてしまった。
 それは、「自分の腿(もも)の肉を切り取って母に食べさせた」というのである。

 それはともかく、台湾では総督府の官舎にいたということだが、その建物などに覚えはない。それでも池があって、その中に入り、裸で大きな魚をつかまえたのを覚えている。胸に抱き込んだときに、背丈くらいあって恐ろしかった。
 回りで、大人が見守っていたんでしょう。何でも食用の鯉が放してあったらしい。4歳くらいのことであろうか。
 始め、鯉が暴れたので、誰かが助太刀をしてくれたようだ。

 鎌倉の思い出は、小学生になるちょっと前だからたくさんある。
 佐助の化粧坂(けわいざか)に大きな毛蟹がいて、とても恐(こわ)かった。今思えば、せいぜい10センチくらいなのだか、切り通しの水が、しみ出た崖にはい出ていて不気味だったのを覚えている。
 そういえばその当時、題名は忘れたが「海の彼方に薄霞む、……帰ってみればこは如何に」という歌があった。私は「臼が住んでいる国」が実際にあって、そこから帰ると「恐い蟹」がいるものとばかり思っていた。
 その後、兵庫県の龍野というところに「疎開」をして、敗戦後に父の仕事の関係で三鷹の上連雀に上京をした。

(注) 化粧坂というのは、女性が鎌倉に入るときにお化粧をしたともいうが、一説では討ち取った敵の首を将軍が確認するときのために死化粧を施すのだとも言われた。いずれにしても、何となく不気味な感じのする坂で、私はいつも扇ガ谷(おうぎがやつ)のほうから源氏山に登った。当時は、その山を葛原岡とも言ったようだ。
 化粧坂(けわいざか)は仮粧坂とも書くようで、往事は鎌倉七口の一つだった。現在の鎌倉市街の北西部にある急坂で、扇ガ谷から藤沢方面へ出るときに通った。おそらく、右大将 源実朝もその当たりを徘徊したのかもしれない。『金槐和歌集』に、そのような感じの和歌が残っているからだ。

 「題名は忘れたが」と書いてしまったが、実際には『鉄道唱歌』の三番である。そこには、「窓より近く品川の 台場も見えて波白く 海のあなたにうすがすむ 山は上総か房州か」となっていた。
 いっぽう「恐い蟹」のほうは、『浦島太郎』の四番。「帰ってみればこはいかに 元(もと)いた家も村もなく 路(みち)に行きあう人々は 顔も知らない者ばかり」
 しかし、このような聞き違いは私だけでなく、内田百間のような大文学者でもあったようで、そのことを何かに書いていた。

 また、「こは如何に」のような聞き違いの思い出は、「紙芝居」にもある。なぜか私は幼いころ、「かみしばい」ではなく「かにしばい」だとばかり思っていたのでした。さらに、聞き違いのような勘違いは、「勘違い」自身にもあった。学校を卒業して社会に出てしばらくは、「感違い」と書いていたんです。何とも、お恥ずかしい次第。

 さらに、もう三つ告白をついでにしておこう。
 それは、『赤とんぼ』の「おわれてみたのは、いつの日か」というくだりである。つい最近まで、「赤とんぼが追われていた」のだとばかり思っていた。しかし、そうではなくて「自分がねえやの背中に負われて、つまりおんぶされて、そこから赤とんぼを見た」というのであることがわかった。兵庫県龍野市に本籍があって、何回も三木露風の記念碑を見ているのに、久しく勘違いをしていたことは、これもお恥ずかしい次第。
 「かきに赤い花咲く」という歌詞も、「柿に赤い花咲く」だとばかり思っていて、「垣に赤い花咲く」とは気づかなかった。柿の花が実際に赤いかどうかも、私は知らなかったからです。

 俗に、「モーツアルトの子守歌」と呼ばれているベンハルト=フリースが作曲をした曲のことです。その有名な歌詞「ねむれよいこよ」を、私は「眠れよ、いこよ」だとばかり思っていました。そして、「いこ」とは何かといつも考えたものです。おそらく「○子」というような意味だとばかり、勘違いをしていました。後に、楽譜の歌詞を見て、単に「眠れ、良い子よ」とわかったのです。
 つまり、日本語に訳したときに曲自体の音符の切れ目に歌詞が合わなかったので、わかりにくかったのではないでしょうか。

 疎開というのは「空襲」を避けるために、地方に行くことである。空襲とは、アメリカのB29という飛行機が「焼夷弾」を落とすことだ。その焼夷弾とはメラメラと地上のものを焼き尽くす、いわば原爆の幼い孫のような爆弾。
 当時、「疎開の歌」というのがあって「太郎は父の古里へ、花子は母の古里へ」などと歌った。太郎であり、一太郎ではない。また、戦後は「リンゴの歌」や、かなり後に「岸壁の母」などが流行(はや)った。その岸壁では「一太郎や〜い」と、母が行方不明の子を呼ぶのがあったと思う。
 三鷹の上連雀の六軒長屋(曙住宅)から牟礼(今の井の頭4丁目)に移り、そこから通学をして何とか卒業をした。そして、その後は仕事の都合で転々とした。

(注)  敗戦のときに、母の言った言葉を思い出す。当時、私はまだ小学生に上がる前であったが、なぜか今でもそのことをよく記憶している。母の口調がただならなかったことも覚えている。
 「康太もしっかりと勉強をして、大きくなったらアメリカを技術で見返してやりなさい」
 母は、考えたのであろう。注意深く、そのときには復讐という言葉は用いなかった。

 「岸壁の母」は菊池章子が歌った流行歌で「母はきました。今日もきた。この岸壁に、今日もきた。とどかぬ願いと知りながら、…… もしやもしやに、もしやもしやにひかされて、……」と言った感じであった。戦後の10年間、ソ連に抑留された息子の帰国を、引き揚げ船の着く舞鶴港で、ずっと待ちわびた母をモデルにしたものだろう。何とも哀れな響きと、やりきれない憤りを小学生の幼心にも感じたものだ。 

 六軒長屋とは軍隊の厩舎を住宅用に改良したものだと言われた。まったく粗末な木造の長屋であった。後に棲んでいる人たちに払い下げたのであるが、驚くことに1軒ごとに独立した家屋が建ってしまった。軍部が使っていた馬小屋は、かなりの広さがあったようだ。

 学生時代の思い出は、数え切れないほどいろいろとある。しかし、ここには同級生のことを少しだけ記しておこう。
 実は、高校1年のとき寺本正毅さん、そして3年のとき末次信次さんと同級生だった。寺本さんの父は寺本陸軍元帥、末次さんの父は末次信正海軍大将だった。しかし、彼らは決してそのことを言わなかった。よほど回りから注意をされていたらしい。寺本さんの家は、大森の高台にある高級住宅街にあった。何回か遊びに行ったことがある。末次さんの家は、荻窪の閑静な住宅街であった。
 ある日そこの廊下で話をしていたら、巡査が調査にやってきた。そのときに、末次さんが答えていた内容から、彼の父が最後の海軍大将だったということを初めて知った。その巡査は、あわてて敬礼をしていた。戦後であっても、そんな時代だったのである。そう言えば、荻窪の大きな家の洋間のあるほうの半分をアメリカ人に貸していたようだ。おそらく、米軍かGHQが接収をして高級将校が寄宿をしていたのだろう。
 また、高校のときには津川雅彦さんもいたが途中で退学をしてしまったようだ。


○コンピュータとの出会い 

 学生時代に実習で体験をした電子計算機 LGP-30で、すっかりコンピュータのとりこになった。
 米軍のお古が教材として大学に寄贈されたものであったが、それでも素晴らしい経験ができたのである。
 それは今から考えると、かなりの代物で、メインメモリに磁気ドラム(4000バイト)、加算機などのフリップフロップに双三極管(12AX7)を使ったものであった。しかし、それが動いているときは、何とも感動をしたものだった。
 その感動が、今でも鮮やかに甦ってくるようだ。

(注) 双三極管型の真空管、12AX7や12AT7 などは、ふつうオーディオの初段増幅に用いる。ステレオ用に作られたために、左右に用いられる三極管が一本に封じ込められている。したがって、その場合の動作はフィラメントがほんのりと灯る程度である。
 それが、フリップ・フロップの素子として用いられたために、電球のように明るく点滅をした。だから、最初は非常に驚いた。

 そんなわけで、卒論には「三値素子」というのをやった。
 それは「YES」と「NO」のほかに、「曖昧性」をも、記録としてもたせたものである。しかし当時、すでに三値素子としてはサイラトロンという陰極線管があった。そのサイラトロンは、その後「シリコン制御整流素子」、そして「SCR」へと発展をした。しかし、私が考えたような三値の記憶素子には、なることはなかったようだ。
 卒論研究では、故 野本尚志教授にいろいろと暖かい指導を受けた。私一人のグループだったからだ。今思えば、そのことは私の一生の宝でもあった。

(注) 卒論を指導してくださった野本尚志教授のことについては、『RIKOホームページ』 の 『日々の格言 座右銘』 に記述があります。
 「■人生とは、重い荷物をもって……(徳川家康)」 の 「先生の思い出」 というところです。 

■入学時の記念写真(最前列左から2人目が野本尚志教授、第2列目の左から3人目のただ一人の坊主頭が私)

 その後、学校推薦で三菱系の製紙会社に入り、「装置の制御」や「事務の計算」などを担当した。専門技術係という立派な職名であったが、実のところはコンピュータの雑用係のような感じだった。そして、本社採用ではあったものの、工場のある兵庫県の高砂市に転勤を命じられたのである。
 工場での仕事は、すべて初めての体験であったので、日々が充実してとても面白かった。
 また、その土地も穏やかな気候で、なかなか住みやすかった。海岸には、まだ一面に塩田があったころだ。

(注) 学校推薦であったお陰で、何枚か書類は書かされたものの筆記試験はなく、面接だけであった。そして、その面接の最後に、社長であられた岩崎家の人(岩崎小弥太氏)に一言激励の言葉をいただいた。私は、そのスマートで学者タイプの社長に驚いてしまった。まったく経営者風ではなかったからだ。

 塩田は、その頃までは自然塩で海水から作っていた。海岸沿いに、大きな簾(すだれ)のようなものを設置して、そこに海水を流して凝縮をしていた。
 しかし、純度が「99.9999……パーセント」という化学塩の製法が確立してから、食塩のすべてが専売による化学塩になってしまった。
 そしてその頃から、日本人に奇病や難病が急速に増え始めたようである。
 どうやら、化学的に精度が高いということは、必ずしも健康によいわけではないようだ。なぜならば、従来の「にがり」の中には、微量だが健康に必要なミネラルの要素が入っていたのではないか。

■製紙会社に入社したときの本社における記念写真(前列左から3人目)

 やがて、東京の電子顕微鏡を作っている会社が、コンピュータの部門を始めるというので、転職を決心して参加をした。そこでは、従来からあるその会社の高い技術力を用いて、新たにコンピュータを設計・製作をするという。そんなわけで、仕事は日々忙しかったけれども、何とも楽しかった。
 今考えてみると、夢のようである。
 直属の上司に、故 高橋勘次郎氏(当時専務)がおられて、厳しくも暖かい指導を受けることができた。何とも、私は幸福であった。
 ここに、私が作成を担当したコンピュータシステムと、その発表当時の日本経済新聞(朝刊)の切り抜きを示しておきましょう。

■ソフトウエアの作成を担当させてもらったコンピューター

■当時の新聞切り抜き、ホンダなどと並んで、かなりの成長株の会社だったようだ

(注) それでも、日本電子という会社は当時「東証一部上場」の優良企業と言われていたようだ。そして、株価もかなり高かったと思う。
 ついでながら、私が初めて日本電子を訪問したときのことを記しておこう。
 立川で乗り換えて、「中神」という駅で降りた。そして、しばらく行くと前方に大きな工場が見えたのである。そして、そのときの印象が強烈なインパクトだった。なぜならば、その堂々とした建物が、何となく大型戦艦のシルエットみたいだったからである。
 後で聞いたところ、経営陣には海軍の元将校クラスが多かったということだ。

 しかし、その会社で、それなりに頑張ってみたが、世界の情勢には勝てなかったようだ。


○戦艦大和と零戦

 もしも昭和十年代の後半に、私が「戦艦大和や武蔵などのような大きなものを作らないで、小型の戦闘機をたくさん作ったほうが、近い将来のためによいのではないか?」と言ったとします。(もっとも、その頃の私は小学校に上がる前であったから、そんなことは言えないんですが、これは例えとして聞いてください)
 すると、どうなるでしょうか?

 おそらく、憲兵がやってきて連行をされてしまうでしょう。そして、再び日の目を見ることができなくなってしまったかもしれないのです。そんな体験が生涯に3回ありました。
 その最初の体験が、電子顕微鏡を作っている会社でした。私が発言をした意見は、おそらく正論なのでしょうが、従来の方針を貫く人たちには、わかってもらえなかったのです。
 さらに、もう一度そんなことがあって、最近は健康問題に関して同じような体験をしました。

(注) 最初に言った「戦艦大和」とは「大型コンピュータ」のことである。そして「小型の戦闘機」とは「マイクロコンピュータ」つまり今日で言う「パソコン」のことである。いずれにしても、小型のものを分散させて機能させるほうが、信頼性とコスト性において、有利だったからである。

 また、私は日本電子で「ソフトウエアの独立商品化」の提案を同時にした。
 今考えてみれば、当然のことであるがOS(オペレーティング・システム)の汎用化を考えて、それを標準OSとして発売しようという計画である。しかし、その計画も受け入れられることなく、無視されてしまった。
 まだ、小型機についてもCPMというOSが主流で、マイクロソフト社のMS-DOSはそのイミテーションで、全体でも1メガバイト以下の大きさであったころのこと。その後、しばらくしてからマイクロソフト社は、日電の下請けでN88BASICを製作したのである。しかし、そのBASICインタプリタは、ハドソンソフトがシャープの依頼で作成したものなどと比べると、非常にレベルの低いものであった。

 日本では、ソフトウエアについての考え方がアメリカと違うのかもしれない。また、ソフト自体の産業は発達しにくいのかもしれない。ハドソンソフトも基本OSを作るのをやめてしまったようだ。そういえば、「トロン」というOSがあったが、その後はどうなったんだろう。

 ついでに、ここにそのことも記しておきましょう。
 それは、人体に化学物質や環境ホルモンを摂取すると、やがてホメオスタシスが失調するので、注意をする必要があるということです。そのようなことを、かなり前から健康サークルで何回か言いました。しかし、誰も相手にしてはくれませんでした。
 また、市の関係職員にも話をしたのですけれど、何とも馬鹿にされたようで相手にはされません。
 ちょうど戦艦大和と同じように、それを現時点では言ってはいけないことなのでしょうか?

(注) 次のような経験をして、「何とも馬鹿にされたようで相手にはされません」と考えるのは、おかしいでしょうか?
 市の健康福祉の担当者と私とのある日の会話。
 私 「こんにちは」
 担当者 「相変わらず元気ですね。そうそう、私、あなたに提案があるのですが、……」
 私 「えっ。それは何ですか。いつものセミナーのこと?」
 担当者 「そうじゃないの。あなたと奥さんを表彰するの」
 私 「何で? いつ」
 担当者 「いまじゃないんだ。あなたが100歳になって、奥様も100歳。合計200歳で二人とも元気だったら、ぜひ市で表彰をしようと考えているのです」
 私 「う〜ん」
 担当者 「でも、私はそのころ退職をしているので、はっきり約束はできませんが、……」
と、まぁ、こんな調子。なお、妻は私と同じ年に生まれているんです。つまり同(おな)い年。

 なお、後で調べたら海軍の大西中将が<戦艦(大和)はやめて、航空機を作るべきだ>というような意見をもっていたらしいと言うことです。しかし、それは公に論文として発表をしたり、国に意見具申をしたりしたということではないようです。やはり、誰でも考えることを実際にするかしないかの問題なのでしょう。
 話は変わりますが、阿部定(あべ さだ)という女性がいました。愛人を殺して、そのオチンチンを切り取って逃亡をしました。そして、逮捕をされて調書を取られたときに言った言葉です。
 <私のようなことは、女なら誰でも考えるでしょう。でも、誰もしないだけなのです。>

(注) 阿部定の話で、私はいつもドロシー・ネビル(Dorothy Nevill)の次の言葉を思い出す。
 <会話のコツは、言うべきことを言うべきところで言うことである。そして、さらに肝心なことは、言うべきでないことは言いたいときにも言わずにおくことなのだ>
 なぜだろうか?

 価値観は、時代の背景によって大きく変わるもののようです。
 必ずしも歴史的に見て、正しい判断とは思えないものが、その当時には正論かのように罷(まか)り通るものらしいのです。いつの時代にも、そのような傾向が多かれ少なかれあったようです。
 例えば、日清戦争について福沢諭吉は<文明と野蛮の戦い>と評しました。しかし、それは遣隋使や遣唐使のことを考えると、ちょっと極論のようです。また、漢字に引き続いて、紙や墨が高句麗の僧曇徴によって日本に伝わったのが610年(推古天皇の時代)ということを考えると、果たしてどうなのでしょうか?

(注) 歴史的に見た日清戦争についての評価は、「日本の侵略戦争」として位置づけられてしまったので残念である。
 また、それを支援した福沢諭吉自身についての評価は、今でこそ絶大なものであるが、当時はだいぶ異なっていたようだ。
 福沢諭吉は、生前に「法螺(ほら)を福沢、嘘(うそ)を諭吉」などと諷(ふう)せられたという。自由主義者、民主主義者、女性解放論者などの活動とその執筆で評価が高まり、慶應義塾の隆盛によって名声を上げた。しかし一方では、揶揄者、西洋崇拝、一般民衆への非情、権道主義者などとの批判も多かった。そして、常に暗殺の危険にさらされていたという。
 歴史の評価とは、そんなものだろう。
 大倉喜八郎や森有礼(もり ありのり)の場合も、似たようなところがある。森有礼は暗殺をされてしまったが、大倉喜八郎は孫にあたる人が、私たちの仲間でもある。いろいろ聞いてみると歴史には出ていない断面もあって、大いに勉強になった。当時の新聞社が作成した「いろはかるた」には、「母親が、赤ちゃんだったころの喜八郎を思い出して、どうしてこんな子になったのだろう」と嘆くのがあった。

 なお、福沢諭吉については『RIKOホームページ』の「健康のページへ」章にある「正しい食生活と生活習慣」節の
   ○福沢諭吉「食物の良なる故」=西洋説のたよりなさ
もご参照ください。

 このようなことは、何も日本国内だけではなく、西洋のインテリジェントにもよくあることらしい。つまり、自分自身が時代の中に入ってしまうと、良く見えないことがあるようだ。
 バーナード=ショウでさえ、ムッソリーニを支持していたという。そしてまた、愚かにもスターリンを讃えたのである。
 ついでながら、ヒトラー(ヒットラー)についても、こんな話がある。

 2007年に行われたG8サミットの開催地、ドイツのバルト海沿岸リゾート地ハイリゲンダム村のことである。村は、開催に先立って1932年にアドルフ=ヒトラーに与えた名誉市民権を正式に取り消した。つまり、かつてハイリゲンダムの夏の常客だったヒトラーの名前を名誉市民名簿から削除したのである。ヒトラーは、1932年8月15日に名誉市民権が与えられたと言う。現在のハイリゲンダムの人口は、350人である。
 ハイリゲンダムの他にも、たくさんのドイツの町や市が、第三帝国時代にヒトラーを名誉市民にした。そしてヒトラーが自殺して、政権が倒れた後に、密かに名誉市民権を取り消しているところが多い。


(注) 紙の伝来については、『RIKOホームページ』 の 「インターネットの入門」 にある 「まず、通信の歴史を見てみよう!」 を参考にしました。詳細については、そこをご覧ください。その「入門データー通信」の他に、参考にしたものには次のようなものがあります。なお、「Power COBL 85」は富士通殿からの依頼で、技術評論者から発行しました。最後の二冊は、その内容の一部分を私が担当したものです。














    


 また、内村鑑三は日清戦争を<義戦>と言って擁護したそうです。後で考えてみると、クリシチャンである彼の言動としては、やはり不可解で不思議です。なお、さらに彼がキリスト教会の内部における人間関係の醜さや矛盾を暴いていることなどを考えると、どうも本心でそのようなことを言っていないように私は思うのですが、……
 つまり、黙っているわけにはいかない立場の人たちが、それぞれ世論や国に阿(おもね)って、仕方なしに言ったことなのでしょう。
 さらに言えば、日清戦争の特派記者として従軍した国木田独歩や正岡子規の記事にも、その戦争に対する批判的な視点などは、今読んでみてもまったくありません。
 やはり、彼らはその立場上、ふつう考えてわかるようなことも、言えなかったのではないでしょうか。

(注) 福沢諭吉や内村鑑三の言葉はともかく、立場が違うものが争うと互いに一方的なことを言う。国と国でも、組織と組織でもそうである。
 例えば、「聖戦」などという言葉が当然のように用いられる。それでは、その聖戦と言われた十字軍の略奪と破壊は、いったい何であったのだろうか。
 そして、宗教上の戦いに「聖戦」という言葉を持ち出すと、相手側のほうも同じことをいう。それでは、いったいどちらが正しく、何が正しいのであろうか。

 イソップだったか、アンデルセンだったか、誰だったか忘れてしまったが、『裸の王様』という名作がある。そこに出てくる子どものように、はっきっりと思ったことを言わずに、側近たちはそれぞれに諂ったことを王様に言う。そこで、王様は裸でもへっちゃら。恥ずかしくもない。
 なぜならば、側近たちにとっては「王様は裸だ!」と言ってはいけなかったからだ。それを言うと、自分が無能者になってしまうからです。
 ここで、私はそんなことを思い出したりします。


○コンピュータとの離別と再会

 かつて、ソフトやアプリケーションの利用許諾契約書などが煩わしくなって、パソコンの利用をやめてしまいました。あまりにも一方的な内容であり、しかもそれに同意をしないと利用ができないからです。そんなために、そのソフトやアプリの利用自体、さらにはパソコンの所有までを諦めてしまったのです。
 また、一方では掲示板の対応なども何となく面倒で億劫でした。当時はインターネットではなく、パソコン通信という方式で互いにメッセージを交換しましたが、テンポがやや遅いだけで内容は現在と似たようなものでした。

(注) ソフトウエアやアプリケーションの利用許諾契約書には、かなり一方的にメーカー側の立場が有利に記されているようです。よく読んでみると、何だかユーザーがガンジガラメに拘束されていたり、さらにはユーザーの魂までをメーカーに売り渡したような感じのものもあります。

 お互いに顔の見えない付き合いというのは、コミュニケーションがうまくいかない欠点があるようです。また、ハンドルネームや匿名の通信が、ともすると無責任な発言になることも経験をしたのです。
 とくに、相手が自分と違う立場のときには、つい勝手なことを言ってしまいます。
 私は、伝言板の文面から知識のあまりない人と考えて、大失敗をしたことがあります。後になって、その人は自分よりも数倍も偉大な人とわかったからです。世の中には、ちょっと馬鹿のように見えても奥が深くて、すごい人がいるようです。

 そもそも無記名や自分の名を明かさないで、意見を言うこと自体、私は好きではありません。なぜならば、責任の所在がないからです。そして、そのような意見は互いに役に立たないことが多いからです。
 さらに、ちょっと気に入らないからと言って、掲示板に堂々と身勝手な意見をインプットする人がいました。おそらく、その人は自分が誰だかわからないといった安心があったのかもしれません。現在のようなウイルスを送りつけるというような陰湿な行動は、まだ当時にはなかったのですが、それでも電話の発信者がわからなかった時期ですので、今のワンギリなどのようなものや電話を鳴らし続ける嫌がらせが、ときどきあったものです。

 当時は、今のようにブロードバンドの常時接続がなく、電話回線だけが唯一の通信の手段だったので、回線をふさがれると、とても困ります。したがって、そんなことを知って相手を妨害するという陰湿な人も、わずかですがいたようです。
 おかしな人は、どこの分野にもいます。そして、そのおかしな人にとっては、こちらのほうを「おかしな人」と考えているところに問題があります。したがって、互いに言い合ってもキリがありません。そこで、そのような場がいやであれば、自分がその場から去ればよいのです。
 そんなことも当時のBBSから、大いに学んだものでした。

 パソコンを辞めてからは、実にのどかで健康的な生活が10年以上も続いたのです。そして、逆に「もっと早くやめればよかった」とさえ考えたほどです。
 そんなわけで、あまり多くの人と付き合うこともなくなってしまいました。
 精力的に日々、散歩に行ったり、博物館や美術館などの見学に行ったものです。
 しかし、そんな日が十数年経ったころ、再びパソコンを始めなければならない羽目になってしまったのです。
 それは、今から1年2ヶ月前のことです。(2004年6月現在)

 ■計画をしたのが、パソコンを始める前であったので、パソコンの合間を見て計画を完遂した多摩の博物館巡り

  

  

  

(注) 多摩の博物館めぐりという一人でもできるスタンプラリーを延べ1ヶ月をかけてしました。そのほとんどが最寄り駅より徒歩で行きましたので、とても大変だったことを覚えています。多い日は、1日に3カ所も強行軍したことがありました。
 今となっては、なつかしい思い出です。そして、もう一度やってみたいとも思っています。

 参加をしている市の健康サークルで、地味なボランティア活動をしていたのですが、打ち合わせのときに「広報にホームページを作ったら、いいじゃないか」という発言を私はうっかりしてしまいました。そして、「それはいいことだ」という賛成の意見がありました。しかし、それを誰も引き受けないままに、私に「お鉢が回ってきて」実際にしなくてはいけないことになったのです。
 ちょっと「隗より始めよ」で、言い出しっぺとして私が責任を取らされた感じで、何となくパソコン再開となったのです。

 それでも、新しいパソコンとスキャナー、プリンタ、デジカメなどを買ったときは、とにかくうれしかったのです。何だか、なつかしい人たちに会ったときのような気がしたことも事実です。
 ハードウエアが一式揃うと、生まれて初めてのWindowsをひもときました。とても斬新で面白かったです。前に仕事でやっていた時代は、まだMS-DOSの時代だったからです。
 そんなわけで、「健康」と「老化予防」と「安心立命」に関するホームページを作成することになったんです。

 しかし、パソコンを始めるとなぜか体重が増えてしまったり、目が悪くなっていくようです。
 「健康」には注意をしているので、内科の医者には十数年間かかっていません。しかし、正直言って目と歯はダメなんです。学生時代の不摂生が、現在でも影響をしているからです。いっぽう体重の増加は、パソコンにへばり付いているために、運動不足気味になるからでしょう。
 そしてまた、このまま進むと以前に感じたような煩わしい問題から、どうしても避けられないのではないでしょうか?
 そんな心配も、ぼつぼつ出てきたところなのです。

 つまり、そのような問題を含めて
(1) 何がなんだかわからないままに頻繁に行うアップデート
(2) 細かい文字でぎっしりの一方的な使用許諾契約書
(3) すぐにハングアップする Word や Windows 本体
(4) 不安定なタスクバー回りの表示と勝手に変わってしまう常駐プログラム
(5) 頻繁に来るウイルスメールやCATV常時接続に来るトロイの木馬
(6) デフラグをしても、次第に動作速度が遅くなってくるシステム
などに、うんざりし始めたところなんです。
 まぁ、グチっても仕方ありませんので、当分は前向きに行きましょう。


○『荘子』の自動給水ポンプの話など

 『荘子』(天地篇第十二)に、こんな話があります。
 子貢が、漢水のほとりを歩いているときです。老人が、井戸から水を甕(かめ)に入れて運び出して畑にかけている。何回も何回も繰り返しているが、さっぱり効果が上がらない。そこで、子貢は見るにみかねて老人に、「ポンプを作ったら、いいぢゃないか?」と言った。
 すると、老人はむっとして顔色を変え、「わしは、ポンプの作り方を知っている。しかし、ポンプは人を堕落させるので使わないのぢゃ」と言い返した。
 子貢は、目がくらむほど恥ずかしくなって黙っていた。……

 (漁夫篇第三十一)子貢が帰って孔子に報告をした。
 孔子は、それを聞くと急に身支度をして、老人に会いに行った。そして、二度の礼拝をしてから言った。
 「わたくし、幼いころから学問をして今日まで69年も経っていますが、最高の教えを聞く機会がありませんでした。どうか、心を開いてご教示をいただけないでしょうか。」
 すると、老人は答えた。
 「ああ、大したものだな。あなたの学問好きは。」

 (養生主篇第三)の冒頭に、
 「われわれの生命は有限だが、心の働きは無限なのだ。だから、その有限の身で無限のことを追い求めるのは、まったく危ういことだ。」
とあります。
 また、先の(天地篇第十二)には、堯(ぎょう)が祝福を辞退するくだりで、
 「子どもがたくさんいると心配が多く、金持ちになると面倒な出来事が多く、長生きをすると恥ずかしいことが多い。だから、子どもも金も長寿も、いらないんです。」
とあり、この「命長ければ恥多し」が『徒然草』にも引用されています。

(注) 『徒然草』の作者卜部兼行は、嫌いなものとして「女」と「子ども」と「財宝」と「野心」とをあげています。やはり、堯とは何となく共通するところがあったようですね。しかし、後醍醐天皇はそれらが大好きであったといいます。


○『徒然草』の放下の話など

 『徒然草』(第七段)に、こんなくだりがあります。
 「飽かず、惜しと思はば、千年を過すとも、一夜の夢の心ちこそせめ。住み果てぬ世に、みにくき姿を待ちえて何かはせん。命長ければ辱(はじ)多し。長くとも、四十(よそぢ)にたらぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。」
 また、(第百十二段)には、もっと強烈な
 「日暮れ、塗(みち)遠し。吾が生既に蹉蛇(さだ。時期を失うこと。「だ」は足偏)たり。諸縁を放下(ほうげ)すべき時なり。」
とあります。ここで、いつも私はがっくりとくるんです。

(注) 『徒然草』については、いろいろな評価があるようです。
 例えば、芥川龍之介は『侏儒の言葉』に次のように書いている。誤解があっては困るので、その「つれづれ草」の段をすべて引用しておこう。
  <わたしは、度たびかう言はれてゐる。−−「つれづれ草などは、定めしお好きでせう?」 しかし、不幸にも「つれづれ草」などは、未嘗(いまだかつて)愛読したことはない。正直な所を白状すれば、「つれづれ草」の名高いのもわたしには殆ど不可解である。中学程度の教科書に、便利であることは認めるにもしろ。>
 ただし、読点「、」とかっこの中の「ふりがな」は、私(黒田康太)が付けました。
 私は、この文を読むと「自分自身が、中学生(旧制の)くらいのレベルでしかないのではないか?」といつも心配します。しかし、それでも自分にとって必要な段だけは、熟読玩味をするのです。したがって、最終段(第二百四十三段)のように、後から誰かが付け加えたと考えられる蛇足のような部分には、あまり目を通さないのです。いずれにしても、古典は自分自身が納得した読み方をすればよいと考えるからです。

 「日暮れ、途(みち)遠し。……」は、唐の白居易(白楽天)が72歳のとき詠んだ詩といいます。しかし、それは『白氏文集(はくしもんじゅう)』にも載っていないそうです。最晩年の作品だからでしょう。したがって、兼好が何を読んでそれを知ったのかは不明です。おそらく、私(黒田康太)は「そのくだりが何かに引用された記述」を見たのではないかと思います。
 だいぶ以前のことですが、「NHK古典講読」で安良岡氏も、<その出展がよくわからない>と言っていました。


○進化についていけないのか?

 私は、すでに老人のせいか最新の技術には、何となく馴染みにくいというのが現実です。グチめいた言い方で恐縮ですが、やはりそれは致し方のないことでしょうか? 技術屋でありながら、急速に進歩する技術について行けないという現実は、なかなか厳しいものです。
 上の『荘子』のポンプの話や、このホームページにある『インターネットの入門』の「まず、通信の歴史を見てみよう!」などを読みますと、何だか自信がなくなってしまうのです。そして、アモン派(アーミッシュ)の人々のことなどに思いが馳せていきます。

 さらに、中近東の一時は文明の流れに逆行をした国のことなども、何となく必然的に考えてしまうのです。そのやり方は、極端であったり一方的であったりして、とても賛同ができる内容ではありません。それでも各個人としては、ある程度セーブをしたらどうかとも考えます。
 とくに、最近になってからは、そう考えるようになりました。
 あまりにも早い技術について行こうとすると、ともすると自分自身を見失ってしまうからです。そして、いつしか何のために何をしているかが、わからなくなってしまうのです。

 そうかと言って、兼好(けんこう、『徒然草』)のように隠遁生活に入ったり、長明(ながあきら、『方丈記』)のように世を拗(す)ねたりもできません。現代の快適で便利な生活に、どっぷりと浸かっているからです。
 むろん、私生活においては具体的な行動こそ起こしませんが、ある程度の反省と改善をするように努力をしているのです。それは何となく付け焼き刃で、その場限りのご都合主義と言われても、言い開きができないような粗末な内容でしかありませんが、……
 そこで、思い切ったことができずに、仕方がないので甘んじながら、だらだらと生活を継続している次第なんです。


○生活の信条と態度

 六無斉を指向して、生活を改善する。
 「健康」「老化予防」「安心立命」などの問題を確立する。
 『ダンマパダ』、『サンユッタニカーヤ』などの仏典を信奉する。
 『クー』(Q資料)などのキリスト教原典を信奉する。
 『荘子』『徒然草』などの一部を生活信条とする。

 ここのところ、十数年、私は自分自身の体内に化学薬品環境ホルモン界面活性剤などが入らないような努力を続けてきました。なぜならば、そのような物質は身体にとって毒物異物ですから、決してよい結果をもたらさないはずです。
 近年になって、食べ物に多くの食品添加物が用いられるようになりました。また、野菜や果物などには多量の農薬を用います。なぜならば、収穫量を増やしたいからです。育成のために用いたり、害虫から保護するために用いたりします。

(注) 化学薬品などが体内に入らない努力とは、まずそれらを食べてしまうことをできるだけ避けます。つまり、食事の素材を安全なものにするための努力が必要になるのです。むろん、飲み水に関する注意も非常に大切でしょう。
 さらに、自分自身の身体を洗うときの注意や食器を洗うときの注意も必要です。そして、肌に接する衣服を洗う洗濯などに関する注意も必要になってきます。
 その他、日常生活におけるすべてに、細心の注意が必要になってくるでしょう。

 さらに、ポストハーベイといって保存のために用いる収穫後の薬品もあります。ジャガイモやタマネギ、ニンジンなどが芽を出さないようにする発芽防止剤放射線照射などは、人体には好ましくないのではないでしょうか。
 有吉佐和子さんの著書に『複合汚染』というのがありますが、もはやそのような状態が私たちの人体の中で起こりつつあるようです。したがって、最近になって救急車の出動回数が増えたり、原因不明の病気が頻繁に起こるようになったのではないでしょうか。

 おそらく、体内に蓄積をした化学薬品、環境ホルモン、界面活性剤などは、なかなか体外に排出されずに複雑な働きをして、アトピー、アレルゲン、内臓の障害、おできや腫れ物などの皮膚の障害などを引き起こしているのではないでしょうか。そして、その原因が特定しにくいために、医者にかかっても対処しにくく、ステロイド剤などの投薬によって、いっそう悪化をするような心配があります。

(注) ある統計によりますと、国民一人当たり年間4キログラムの化学薬品などを食べているということです。(食べさせられていると言ったほうが、妥当でしょうか) その研究所では、消費された食品添加物などの化学薬品などを単純に国民数で割ったと言っていました。
 また、別な調査によりますと日本には3万人以上の病人がいると言います。人数が国民総数よりも多いのは、一人で数口をやっている病人がいるからでしょう。
 細かい数字には自信がありませんが、私もそのような統計がほぼ事実ではないかと思います。
 身の回りでダウンした人のことを考えたり、救急車の出動回数などを見ていると、さもありなんと思うからです。

 つまり、人体に入った毒物や異物は排出されないままに体内のホメオスタシスのバランスを崩しているのです。その結果、いきおい体調が悪くなるのは当然のことではないでしょうか。体内の複雑な化学変化や口腔内の異常、そして皮膚のグルミュー機能の消失などは、いずれも健康な日々の生活を阻害してしまいます。
 そんなわけで、私は十年くらい前から自分自身の体内に、化学薬品、環境ホルモン、界面活性剤などの物質を取り込まない努力をしてみました。
 そして、お陰様で何とか健康で楽しい日々を過ごさせていただいています。


○このホームページのデザインについて

 あまり技巧に凝らず、簡単な方法で作りました。したがって、デザインなどは素人の域を出ない感じです。また、画面のコピーなども縮小をしないで、そのままの大きさで用いました。なぜならば、小さくすると文字が読みにくくなって、理解しにくい部分が生じてしまうからです。
 文字を最初から大きくして、行間を空けたのも、読みやすくするための工夫です。画面全体のデザインを決めてから文字だけを大きくすると、何となく読みにくくなって、目に負担をかけるからです。

 しかし一方では、細かいデザインを施さなかったり、小細工をしていないので、だんだんとホームページが大きくなってしまい、その動きが、かなり重くなってきたのも事実です。
 さらに、Javaアプレットのプラグインなどがあって、ますますその傾向が大きくなってしまいました。
 やはり、ぼつぼつ何とかしないといけないのでしょうか?


○このホームページの計画と挫折

 健康サークルの広報として始めたホームページですが、なかなか計画通りにはいきません。
 最初は、業者に依頼をして作成をする計画でしたが、実際に打ち合わせをしてみると、相手方に主旨がなかなか理解してもらえません。そして、むしろ自分で作ってしまったほうが、費用の問題はともかく、半分以下の時間でできることがわかったのです。
 そんなわけで、業者と最初に打ち合わせをした私が、ホームページの作成担当になったのです。
 そして、それ以来ずっと私は、このホームページの作成にあたっています。

(注) 上のような理由で、業者の方にお願いすることは、初期の段階で取りやめになってしまいました。
 そのときに、打ち合わせをした業者の人はかなり経験の豊かな人で、いちおう私がプロトタイプとして作成したテスト用ホームページに関して、今後のアドバイスのための文書を作ってくださいました。
 しかし、残念なことにその直後にハードディスクが故障をしてしまって、修理に出したために、他のデジカメ画像などとともに、内容がすべて失われてしまいました。そんなために、せっかくの経験豊かなプロが作ってくれた提案書を一行も読むことができませんでした。
 今から考えると、せっかくのご厚意を無為にしてしまって、非常に残念なことと思っています。
 そして、そのときから「唯我独尊(?)の我流製作」が始まったのです。

 最初は、三橋さん(元経団連の事務局長)がこのサークルの会長でした。
 とても、健康にご関心があって、お元気な方でした。しかし、成城のご自宅を処分されて千葉の高齢者ホームに入り、一年も満たないうちに、あっけなく亡くなってしまったのです。風邪をこじらせて肺炎を併発し、それが原因で亡くなられたということです。
 考えてみれば、傘寿を過ぎておられましたから、すでに90歳前後であられたと思います。
 生前に「インドに120歳の人がいるというニュースがあった。だから、それに挑戦するのだ」とおっしゃっていたことが、とても印象的です。

■三橋さんからいただいた資料

   

(注) このような「健康に関する資料」を100枚くらい、亡くなられるまで三橋さんからいただいた。そのすべてが、上記のようにご自分で書かれたものであった。
 なお、三橋さんは「傘寿」と言っておられたが、実際には「米寿」である。ご本人が錯覚をなされたらしい。
 なぜならば、傘寿は80歳、米寿は88歳であるからです。

 そこで次に、私と同じ建物に住んでいて、親しくしていたタカクさん(元宮さま?)にお願いすることにしました。
 いろいろと今後のお話をしたのですが、「すでに肝炎に冒されているために自覚症状があって、どうも健康には自信がない」と言うのです。そこで、私は「そのような状態でしたら、なおさらのこと会長になって広報をなさられては?」と言ったものです。
 しかし、残念ながら1年後には、あっけなく亡くなってしまったのです。
 やはり、タカクさんは私よりも少しばかり歳をとった人生の先輩で、来年は古希を迎えるのだと言っておられたのですが、……

(注) タカクさんの名字は、「高久」です。初対面のときに、何となく尊い名前だと思ったことを覚えています。

 自分よりも高齢の人の場合には、どうしても先行の心配があるということは現実のようです。
 そこで、近くの健康食品販売をやっているお店の若主人にお願いをしてみました。とても、性格のよい明るい人で、まだ30歳代でした。もっとも、健康に関する知識などはまだまだ浅く、今後の成長が大いに期待できそうと考えたからです。
 なによりも大きなメリット(?)は、実はその人の名前が「健二」だったからなのです。
 なぜならば、私の名前が「康太」ですから、その人に会長になってもらうと、会長の横に事務局長として私の名前を並べると、横書きのときは縦に、縦書きのときは横に、続けて読むと『健康』の文字が並ぶという、そんなことを期待したのです。
 しかし、健二さんのご両親が現れて、何となく健康自体とは見当違いの商売の話が主になってきたのです。そして、父親と母親が単に健二さんを配達員としての労働力のような感じでしか考えていないように思われたので、その計画は取りやめました。

 今まで、会長が候補にあがっていたときは、一所懸命に作っていたホームページですが、責任者がなくなると面倒くさくなって、つい遅れがちになります。ようやくインターネットのしくみやホームページの作成方法がわかったところで、これから本論を進めることができる状態になったところなのですが。
 つまり、今まではホームページを作るための準備・学習期間だったのです。そんな次第ですから、本論のページ「健康」と「老化予防」そして「安心立命」に関しては、まだ3分の1くらいしか記述がないのです。むろん、原稿やメモはすべてもっているのですが、それをこのホームページにまだ反映していないのです。(2005.05.06現在)

 本来ならば、国や行政が行うレベルのことを個人サークルがしようとしているのですから、ちょっと気後れがしないでもありません。さらに、会長がいなくなって私が一人で預かっている状態のホームページですから、どうしても進捗がはかどらないのです。
 もっと悪いことがあります。それは、このホームページの内容が誰にも必要なことですから、100人に1人くらいは見ていただけると思ったことです。つまり、国民を1億人と少なく見積もって、100万人が1年間に1度くらい見てくださるともくろみました。しかし、実際には2年間でアクセスカウンタがわずか20000ちょっとです。
 したがって、1年で1万ヒットと考えても、計画の100分の1しか達成できなかったのです。そんな事実に、すっかりがっくりとしてしまったのです。
 何となく私が投げ出した言い訳のようなことになってしまい、すみませんでした。


○このホームページの公開と内容について

 このホームページのメインテーマは、「健康」と「老化予防」と「安心立命」です。
 そして、このホームページを作る過程で必要になった「インターネットの入門」や「ホームページの作り方入門」なども、覚えとしてまとめ、添付してあります。つまり、かなり内容が満艦飾なのです。
 しかし、メインテーマである「健康」「老化予防」「安心立命」は、ともに人生には非常に大切なことです。そこで、このホームページが未公開ではありますが、関係のある方々にみていただくことにしました。なぜならば、ホームページが完成をして、正式に公開をしてからにしようとすると、かなり先になってしまうからです。

(注) そのような次第で、未完成の部分や見苦しい箇所が含まれています。それらは、追々直していきますので、よろしく願います。

 このホームページの内容は、実際に私が体験をしたり、あるいは研究をしたことがらがほとんどです。
 しかし、もしかしたら私が未熟なために、思い違いや間違いがあるかもしれません。そんな心配があるのです。それでも、お役に立つことが多く含まれていると考えて、ご参考にしていただくことにしました。
 間違いや不都合な箇所については、どうぞ申し出てください。
 少しずつ修正をして、完全なホームページにしていきます。そして、人生の場面において大いに役に立つホームページにしたいと考えています。
 よろしくお願いいたします。

 そのような次第ですが、未完成のものを公表するのは、ちょっと厚かましいような気がしないでもありません。
 しかし、MB社の「自動車の危険性」やMS社の「OSの脆弱性」などを考えると、許されるのではないかと思ったのです。つまり、商品であっても、MB社やMS社のような、いわば未完成品を社会に大量に出しているのです。
 このホームページは、商品ではありません。また、この内容をそのまま利用していただきたいなどとも言っていません。私が経験をしたことや研究をしたことを、関係者にも分かちあって、ご参考にしていただきたかったのです。
 そんな意味で、どうぞこのホームページを利用頂き、健康でいつまでも若々しく、高齢になっても心が安らかであられるよう、心から祈っております。

(注) 「MB社」を朗読させると、何となく「えむいーしゃ」と聞こえます。「B29」や「BBS」は、ちゃんと読み上げているので、文字の組み合わせによる読み上げバグではないでしょうか。

■ここでの朗読(読み上げ)は、Windowsに付いていたサウンドレコーダーで作成をした「sakusya_koe.wav」というファイルを利用しています。その大きさは、約42メガバイトあり、実際には1960秒(32分40秒)ほどの長さです。
 おそらく、「Windows Media Player」や「Quick Time」などで音声を出すでしょう。ここにある本文を見ながら、朗読を聞くことができます。
 ただし、この朗読は「FUJITSU 音声合成」(2003年版)を用いています。実際に誰かが朗読をしたわけでなく、単に一文字ずつを音声化しただけのものですから、ちょっと発音や抑揚に不自然な箇所があります。それでも、実際に作成をした「文章を校正」するために、目のあまりよくない私がいつも利用している方法なのです。ここには、そのファイルをそのまま添付した次第です。
 そんなことを、どうぞご了承ください。

音楽(BGM用)は、『青空ライブラリ』にある「音楽(BGM)の作り方と扱い方」の「主旋律のない練習曲(ギター版)」を利用しました。
 その表紙には、次のように書いてありました。「

風(かぜ)  −− ギターのための主旋律のないエチュード イ短調 −−
風は南に吹き、また転じて北に向かい、めぐりめぐって再びもとのところに帰る。(旧約聖書から『伝道の書』 第1章6)

(1) 春のうららかな日の風
(2) 夏の執拗に吹く風
(3) 秋の木の葉を散らす風
(4) 小春日和(こはるびより)に暖かくそよぐ風
(5) 冬の粉雪(こゆき)を舞わす風
(6) 積もった雪に吹き当たる風」

 なお、この曲は私が作成をして、渡辺雅志さんがシンセサイザー採譜をしてくださったものです。渡辺さんには、大いに感謝をしています。

■このページの最初にある私の似顔絵は、臼井大一郎さんが作ってくださいました。どこに使ってもよいというご了承をいただき、感謝をしています。(2004年秋の65歳のときの絵姿です。)
 また、このページにある写真はすべて私に関するものですが、もしも一緒に写っている方でご都合の悪い場合は申し出てください。その時点で、削除をするなどをして映像権の問題を解決いたします。

■また、このページは「市の文化サークル」や全国の「高齢者特別養護ホーム」などで行う 『自分史の作成セミナー』で、テキストとして利用することを考慮して作成しました。そんなために、『プロフィール』としては、若干そぐわない箇所や表現もあることをここにお断りしておきます。また、くどくどと非常に長いのは、すべての「教材事項などを文例として具体的に含ませてある」からです。
 さらに、文体なども「です・ます調」や「である調」に敢えて統一することをしないで、「体言止め」なども含めたりして、自由な書き方にしてあります。誰もが気軽に、セミナー参加できるように考えたからです。

■最初にある「関連のあるページを参照」という資料は、私の信仰上の問題と健康に関するコメントを述べたものです。もしかしたら、ご参考になるかもしれません。

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