格言集
 
岡本太郎

 

 

芸術は爆発だ!

 

 

爆発というと、みんなドカーンと音がして、物が飛び散ったり、壊れたり、また血が流れたりする、暴力的なテロを考える。僕の爆発はそういうんじゃないんだ。音もなく、宇宙に向かって精神が、いのちがぱあっとひらく。無条件に、それが爆発だ。

 

 

人生は積み重ねだと誰でも思っているようだ。ぼくは逆に、積みへらすべきだと思う。財産も知識も。蓄えれば蓄えるほど、かえって人間は自在さを失ってしまう。過去の蓄積にこだわると、いつの間にか堆積物に埋もれて身動きができなくなる。人生に挑み、本当に生きるには、瞬間瞬間に新しく生まれかわって運命をひらくのだ。それには心身とも無一文、無条件でなければならない。捨てれば捨てるほど、いのちは分厚く、純粋にふくらんでくる。今までの自分なんか、蹴トバシてやる。そのつもりで、ちょうどいい。 

 

 

現実は残酷です。今日の若い世代に、古典芸術についてたずねてごらんなさい。コーリンとかタンニュー、トーハク、なんて言ったら、新薬の名前かなんかと勘違いすること、うけあい。そうしてダヴィンチやミケランジェロならご存じだということになると、どっちがこれからの世代に受けつがれる伝統だか分からなくなってきます。

 

 

「法隆寺は焼けてけっこう」―――嘆いたって、はじまらないのです。今さら焼けてしまったことを嘆いたり、それをみんなが嘆かないってことをまた嘆いたりするよりも、もっと緊急で、本質的な問題があるはずです。自分が法隆寺になればよいのです。

 

 

僕は、僕の指や、爪を、ほんとうに僕のものなのか、たしかめてみたい。

 

 

 

いつでも計算を超えた無目的な闘い、いわばあらゆる対象への無条件な営みをつづけることが人間であり生きがいであると信じている。そこに「芸術」があるのである。

 

 

 

今日の芸術は、うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。

 

 

 

顔は宇宙だ。顔は眼であり、他であり、全体なのだ。そのど真ん中に眼がある。それは宇宙と一体の交流の穴だ。

 

 

 

眼は存在が宇宙と合体する穴だ。その穴から宇宙を存在の中にとけ込ます。

 

 

 

日本文化の不思議な特性の一つとして、一般の人がほとんど実際の作品にふれもしないし、ふれることも出来ないようなものほど、神秘的な権威として尊敬されるという傾きがある。

 

 

 

時代も境遇もすべての条件をこえて、それを見るあらゆる人間に対し深い自由感を与える。それを見ていると、まるで未来永ごう自分と共にあり、あたかも自分が作ったんじゃないか、とイリュージョンを起こさせるほどの、絶対的な共感にひき込んでしまうのが芸術なのだ。

 

 

 

実際悪口のいいようがない、百点満点の答案みたいな絵ぐらいがっかりするものはない。

 

 

オレは進歩と調和なんて大嫌いだ。人類が進歩なんかしているか。原始のもののほうがずっといい。縄文時代やラスコーの壁画を見ろ。あんなの現代の人間につくれるか。ことに近代以降はどんどん落ちているだけだ。

 

 

つきあいにくい母親だったが、しかしあのくらい女性として、生まれてから死ぬまで、豊に女くさい――悪い言葉でいえば臭気ふんぷんとするほど、濃い女性をつらぬいて生きた女性はなかったのではないかと思う。ともかく、岡本かの子ほどなまなましく女であり、しかも神秘的な女性を私は知らない。

 

 

子供というのは、一人一人、みんなその子独自の顔を持っていなければならない。それぞれ、その姿のまま、誇らしくなければならない。
教育と一口に言うが、教えることと育てることはまったく別なんだ。教えることは教えていい。だが育つものの伸びる意志、誇りを潰してしまっては何にもならない。植物だって、動物だって、自分で育つんだ。だからこそ誇らかに、逞(たくま)しい。
生命の尊厳なんて、いかめしいことを言わなくても、草ッ原のなかにヒョロッと生えている弱々しい一本の雑草だって、天地の精気を集めたように、小さい、だが美しい花をつける。どんな大宮殿に負けないほど、誇らしい。
それが、いのち。自分で育ち、自分でひらくんだ。
教育がそれを潰してはいけない。『お前はなぜ青いんだ』とか、『お前の花びらのつき方は間違っている』とか。
とんでもないことだ。とかく教育者はそういう干渉をしたり、矯正することが教育者の使命のように思いあがって、精一杯伸びようとする生命力、その尊厳を押さえつけようとする。それは絶対に良くないね。

 

 

ぼくは、プライドというのは絶対必要だと思う。
自分がバカであろうと、非力であろうと、それがオレだ、そういう自分全体に責任をもって、堂々と押し出す。それがプライドだ。ところが自尊心だとか、プライドだとかいいながら、まるで反対のことを考えている人間が多い。
他人に対して自分がどうであるか、つまり、他人は自分のことをどう見ているかなんてことを気にしていたら、絶対的な自分というものはなくなってしまう。

 

 

芸術家であるのになぜ民俗学をやったか。私は現代社会の職能分化に反対だからだ。人間が絵描きであったり、小説家であったり、あるいは靴職人である、それだけであるなんて卑しい。人間はもっと全人間的に生きるべきだ。

 

 

今までの自分なんか、蹴トバシてやる。
そのつもりで、ちょうどいい。
ふつう自分に忠実だなんていう人に限って、自分を大事にして、自分を破ろうとしない。社会的な状況や世間体などを考えて自分を守ろうとする。
それでは駄目だ。社会的状況や世間体とも闘う。アンチである、と同時に自分に対しても闘わなければならない。
自分に忠実に生きたいなんて考えるのは、むしろいけない。そんな生き方は安易で甘えがある。ほんとうに生きていくためには自分自身と闘わなくてはだめだ。
自分らしくある必要はない。むしろ“人間らしく”生きる道を考えてほしい。

 

 

負けると信じている戦争。全体の死を予感しながら、このような中で絶対にゆずらず、挑み、耐えた。

 

 

よく政治家や実業家が、年をとって、功成りをあげると、「今日があるのは女房のおかげだ。感謝しとるよ」なんてうそぶく。若い時代はさんざ好き勝手なことをやって女房を泣かせ、人間扱いしなかったくせに。今さら、いい子になって、しかもその上にまだ女房を栄光のダシにする。無神経なヤツラだ。女房を安息の地ぐらいに思っているのだ。ああいうところに日本の男性のいちばんキタナイ面があらわれる。だか女はそれをも許し。黙って支えている。

 

 

結婚するなと言わないけど、若い二人が、マイ・ホーム、マイ・ダーリンと狭い国境を作って、他人は削除するような気分はよくない。花嫁はこれから世界中の男の花嫁になったつもりになりなさい。

 

 

さまざまな条件のなかで、それぞれ彩りは違うけれど、人間はみんな孤独なんだ。そして、何かの折に、孤独だなあ、と言いようのない寂しさを噛みしめる。
なぜ寂しいんだろうか。
人間はみんな孤りで生まれてきたんだし、結局は孤りで死んでいくしかない。それが常態であるならば、寂しいはずなんかないのに。
ぼくは、それは人間はひとりだけでは全体になりえないからだと思う。
個体は完結しているように見える。だが実はそうではないんだ。

 

 

自分が何か充ち足りていない。欠陥した部分がある。それを求める渇望はうずいているんだけれど、それが何によって充たされるのか。ひたと向かい合って一体になる相手は誰なのか。
これが「愛」の根底だと思う。
だから人は自分にないもの、むしろ反対のものに惹かれるんだ。
永劫の昔に自分のなま身から切り放された半分を、ほとんど盲目的にもとめている。運命的な出会い・・・・・・それは相手を充たすことであると同時に。自分がほんとうの自分になることでもある。

 

 

私は男女が同じだとは思わない。女と男とは異なった二つのポイントから世界を眺めかえしているのだ。男の見る世界と女の見る世界とは彩りが違う。男だけ、女だけでは、世界観は成り立たない。存在であり得ない。双方の見方、感じ方、生命感をぶつけあい、挑みあい、渾然とからみあってはじめて本当の世界をつかむのだ。
だから私は男女同権ではなくて、男女一体だと言いたい。異質だからこそ、互いに惹きあい、また与えあうのである。矛盾をぶつけあいながら、一体なのである。

 

 

どんなに想い合って、うまくいっている熱々の二人でも、男と女がまったく同じ重さで、同じくらい愛し合うなんてことはあり得ない。
いつだって、どっちかが深く、切ないんだ。人間だからね。
いつでも、片っ方は満たされぬ恋だ。片思いなんだよ。

 

 

どんなことを言っても、それが自分の本当に感じているナマナマしいものとズレているように感じる。
言葉はすべて自分以前にすでに作られたものだし、純粋で、ほんとうの感情はなかなかそれにぴったりあうはずはない。

 

 

芸術というものは自分一人で方法を発見してゆく、それ以外にない。初めから弟子になりたいなどと考えるヤツは、それだけで芸術家失格だ。

 

 

孤独ということは、絶対に社会的だ。孤独者とは肉体的にも精神的にも、他からの制約を誰よりも鋭く感じ、それに傷つきながら、なお絶望的に挑む人間なのである。

 

 

「お互いに」とか、「みんなでやろう」とは、言わないことにしなければいけません。「誰かが」ではなく、「自分が」であり、また「いまは駄目だけれども、いつかきっとそうなる」「徐々に」という一見誠実そうなのも、ゴマカシです。この瞬間に徹底する。「自分が、現在、すでにそうである」と言わなければならないのです。
現在にないものは永久にないというのが私の哲学です。逆に言えば、将来あるものならば必ず現在にある。

 

 

何々に期待するとか、こうあってほしいと言っているんじゃあない。オレはこうだ、と言っているだけだ。

 

 

「なんだ、これは!」というようなもので、ぐーんと打ってくる。それこそ芸術だ。

 

 

字は絵だろ。字だって記号だ。どっちも呪術をはらんでいる。

 

 

鯉のぼり、いいねえ。あんな大きな魚が空を泳ぐんだよ。凄いイマジネーションじゃないか。それも、一人の芸術家の創作じゃない。普通の民衆がみんなで自然に持ってるイメージなんだ。世界中にひろめたいな。

 

 

憤り、己をつらぬき、表現することこそ、最も純粋な人間の証である。むしろ、憤りこそ人間行動の最初のモチーフだと思う。
言うべきことを言う。憤りを、生きがいとしてつき出してゆく。抵抗の火の粉を身にかぶる。楽しいではないか。

 

 

誤解される人の姿は美しい。
人は誤解を恐れる。だが本当に生きる者は当然誤解される。誤解される分量に応じて、その人は強く豊かなのだ。誤解の満鑑飾となって、誇らかに華やぐべきだ。

 

 

老いるとは、衰えることではない。年とともにますますひらき、ひらききったところでドウと倒れるのが死なんだ。

 

 

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