Ritsumeikan Criticism Society for Japanimation
立命館ジャパニメーション批評協会
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懐かしきカウンターカルチャー

血小雨生介
 カウンターカルチャーという言葉がある。直訳すると「対抗文化」となり何に対抗するのかというと”メインカルチャー”に対してである(ハイカルチャーということも)メインカルチャーというものは支配階層や体制側、いわゆる良識ある人々が推奨するよういな文化である。ようするに社会的倫理観を養うのに適切であり教養を必要とするものである。カウンターカルチャーはこういった支配階層への対抗としての文化であり1960年代における、ヒッピー、パンク、ヒップホップ、ドラッグ、セックスといったまぁ所謂「低俗」な文化で良識ある人々が「有害」だと言うようなものである。昔はコンピューターもこれに含まれていたのでサイバーパンクという言葉にはそういった意味合いもある。
 ちなみにハイカルチャーは芸術や文学など受け手側に素養やら教養を必要とするものであり大学などで研究対象になるような「アカデミックな文化」である。それに対して受け手を選別しない「下位」の文化であるサブカルチャーが存在する。漫画、アニメ、ライトノベル、ポップミュージック、ロック、娯楽映画などの大量生産・大量消費されるべき商品は文化的に「劣る」のでサブなのである。
さて、現在では電車の中でサラリーマンが読みふける程度に社会に浸透したマンガであるが戦後間もない頃は手塚であろうが赤塚だろうが有害図書だったのである。「SFなんぞ読んでいたらバカになる」などとPTAのオヴァチャンが平気でのたまう時代があったのである。つまりマンガを読みアニメを見るといったことは大袈裟にいえば「反社会的」な行動であった。1970年のよど号ハイジャック事件における「我々はあしたのジョーである」といった今では冗談にしか見えないこのセリフだが、当時のマンガアニメといったものが赤軍運動と並ぶ程度に社会的に認知されないものであったというのが感じられるものである。
押井守なんかは学生運動直撃世代であるが、この頃のアニメクリエーターにはある意味支配階層である「メインカルチャーへの怨念」のようなものがあったのではないだろうか。
低俗であり大量消費される娯楽文化ではなくインテリジェンスな作品を作る事により主流文化への対抗を行うといった気質を秘めているというのは考えられるのではないだろうか。
ともあれ、1970年代後半にもなると学生運動も下火になり反社会的運動をしようなんていう気運も消えていったわけです。
といってもマンガ、アニメといった文化は依然として低俗な文化ではあり、大学生を越してもそういった低俗な文化にしがみつくオタク文化はマイノリティーとして社会的認知度の低いままでゲリラ的に同人誌を書き即売会を催し世間からはわけのわからない人々と白い目で見られ、やがて宮崎事件を機に「犯罪者予備軍」の烙印さえ押される。
この頃には既にオタク文化はカウンターカルチャーとは呼べなくなっている。というよりカウンターカルチャーといったものが消えていった。ロックやマンガといったものはサブカルチャーへと変貌しやがて文化の表層に現れることとなる。
何故そうなったかは完全に筆者の憶測になるのだが、まずロッキード事件などに代表される支配階層への批判などから支配階層が権威を失い始める。まぁ今テレビで国会議員を見て「偉い人だ」と思う人間が何人居るかってことを考えればわかりやすいだろう。
時代が進めばバブルという大量生産大量消費の時代となり文化もまた大量消費されるものとなる。つまりは本来「下位文化」であるサブカルチャーの特質である「受け手の非選択制」やら「大量生産、大量消費」といった点が時代と適応したのであろう。
これによりサブカルチャーが社会的認知を得、メインカルチャーの方がマイノリティーとなっていった。
岡田斗司夫が東大で「オタク学」を講演しサブカルチャーと呼ばれる本来大衆文化のアニメ、マンガといったものをアカデミックな地位まで押し上げようとした。筆者にとっては嘲笑のネタのような事だが、現在東京大学院において「コンテンツ創造科学産学連携教育プログラム」と称したものが存在し講師に角川歴彦、鈴木敏夫、大友克洋、押井守などを招いているのだから見事オタク文化はお上公認の文化庁が推奨するようなメディアとなったわけであった。(ちゃんちゃん)
さて、最近筆者は筒井康隆の「俗物図鑑」なる書籍を(今頃になって)読んだわけだが、そこに今は無きカウンターカルチャーの空気を感じられた。
文化人や婦人団体、政府というものを散々小馬鹿にし、盗聴、放火、吐瀉物、はては人の死というものについての興味を持つ者。そのマイノリティーの結束や生き様を肯定的に描く事により、漠然とした良識に対して疑問を投げかけている。(こういった思考停止的な良識への批判は小林よしのりなどにも見られるのでそっちを思い浮かべてもらえばがわかりやすいだろう。)
また、良識に乗っかった思考停止と主義主張を持った反社会的行為とどちらが正しいのかということを投げかけ、物語終盤ではそれを受け止める一部の大衆という希望と主義主張を持った行動がマスメディアによって単純な娯楽にされてしまうという絶望を描いている。
余談だが、こういった社会的良識への批判や対抗、例えば優れた10人の為に無能な1000人を殺す事を是ととるような思想は、その突飛さや過激さから大きな物語と捉えられ、成長と共にアイディンティティを失ってゆく若者にとってしばし魅力的に映る。この大きな物語の魅力というものがひいてはカルト宗教などの魅力と直結するものだと考える。大きな社会に出て行くにつれ大多数の一部となってゆく自分の「主人公性の欠如」を埋め合わせるのにカルト宗教の反社会的かつ超自然的な世界観がうまく適合するのだろう。
最近では2ちゃんねるがそういった機能をある程度持っていたのではと考える。多くの人が訪れる巨大掲示板での個人の書き込みにすぎないものでも新聞に社説を投稿した程度の気持ちを感じられ、小さい規模だが反社会運動も感じられる。もっとも現在ではそれさえも某メディア作品の影響でマイノリティー性や特質性を奪われつつあるが。
話が逸れたが上記の作品に触れ筆者が感じたのはサブカルチャーへの移り変わりによって失われたカウンターカルチャーの気運がある。それは社会に対しての主義主張やマイノリティー気質といったものである。
 例えば現在日本でロックと称されて聞かれているポピュラー音楽には人の情愛を歌ったものは多くとも社会批判を含んだものはなかなか聞こえない。ロックはスタイルのみが継承されその根底にあった社会への反発や批判は消え去り、ドラッグ漬けになりライヴで死者を出すような話も聞こえない。
 これは常識的には良い事だが反社会を歌わず、人の情愛といった個人的世界を歌い上げるということは根本的な社会への無関心、倫理観や体制を押しつけられている意識の欠如に繋がっていると邪推してしまう。
また、マイノリティーの人間同士であるという同族意識が強烈な個性を持った人間のネットワークを強固にし、狭く深い人間関係を生み出すことにもなる。
現在のオタクにはそういった「背徳観からくる仲間意識」が薄れているように思える。
ネットに繋げば何処かの誰かが自分と同じ趣味に傾倒しているのが見て取れ、また限定的な場所に行けばそういった人間が常に集まっている。
つまり皆が喜んで受け入れ消費しているものだから自分も無自覚にそれを楽しんでいけるのである。かつては「いい歳してわざわざアニメなんかに傾倒する自分」への理由付けとして作品解析を行い優れている要因を探し出し、同趣味の人間との論議によりそれを確かなものへとする必要があった。そういった無理矢理なアカデミック的アプローチのなれの果てが「オタク学」であり「サブカルチャー文化論」であるのではないか。
オタク文化は社会的認知を得、大衆にも(ある程度)受け入れられ、大量生産・大量消費されるというファミレスやマクドナルド、コンビニエンスストア的な消費文化となった。
確かにハンバーガーやコンビニおにぎりは安価であり勘弁に手に入りそれなりに美味である。適度に刺激的でありバリエーションも多く飽きにくく生産も容易である。しかしその一方で高価であり時間がかかり味もより深く、その料理人でしか出せない味を提供する店も無くてはならないということを忘れてはいけないし、たまにはちょっとした贅沢でそういった店に行き正しい料理の味を確認するという事も必要ではないか。
論理の飛躍と仮説を繰り返してさらに説教臭のする話になってしまいましたがいかがでしょうか。オタクはこういう痛々しい社会批判めいた事をするのが大好きなはずなので、皆さんもっとこういう考えに思いを馳せて、例会などで話題にあげてみましょう。

あとこの文章は内容の重複やら適切でない表現が多いのでいずれまともな形に修正したいです。あと誰かが編集とか買ってでてくれたら万々歳です。
注釈はどっから適応すべき範囲なのか判断できないので誰か教えて欲しいです。

ソース元:wikipedia、東京大学でコミケ準備会代表の米澤さんが講演していた内容

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