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新房昭之と記号化

筆者:のらぬこ

1.はじめに

 昨今のアニメにおいて好きな監督と言えばと問えば、新房昭之と挙げる人が多いのではないだろうか(嫌っている人も多いらしいが追及はしないでおく)。素晴らしい仕事をする人気アニメ監督は他にも居る。例えばパトレイバーや攻殻の監督の押井守は盤石の評価を誇っている。しかし、押井監督が年1本以上のテレビアニメを作れるのかと言えばそれは無理であり、最近のオタクがテレビアニメを作れない(作らない)監督を知っているかと言えば、それはイエスと答えにくい。今これを書いている私やこの本を手に取っている人たちからすれば幾らでも出てきて当然だ。一方昨今のオタクに聞いて名前が出てくるかと言えば、おそらくノーだ。そこにきて新房なら誰でも知っている名前だろう。だが、彼の人気も終わろうとしている。

2.記号化について

 ここで補足しておきたいが筆者が上げる昨今のオタクとは90年代後半〜00年代以降に生まれたオタク達である。90年代後半、正確に言えば98年にデ・ジ・キャラットが生まれ、いわゆる「萌え要素のデータベース化」が始まった時代である。このあたりの話はポストモダンが〜とか少し複雑になるので避けておこう。興味のある人は東浩紀の「動物化するポストモダン」とかを読むのがいいかもしれない、比較的分かりやすい。要素のデータベース化とは分かりやすく言えば「何が萌えるのかを記号化し、それを組み合わせる事で新しい萌えを生み出すシステム」の事である。猫耳+幼女+貧乳=萌えみたいなものだ。こう言った一連の流れが90年くらいから始まり今に至っている。この変革以前はキャラクターや世界観からその作品の設定を求める(例えばガンダムの年表や設定、エヴァンゲリオンの世界観等が当たる)いわばアニメは材料でありそこからオタクは自分の理論を生み出すものであった。しかしこのシステムが構築されて以降、アニメはキャラクターや世界観と言った根底が全て記号化され消費されるものになってしまった。
 私は上述のような変革は当然の流れの様に思われる。記号化という流れ、「根底まで解析していく事」は私たち人間が過去から行ってきた行動だ。解析・分類化する行動は人間の営みである。よってアニメという「世界」が「記号化」され「データベース化」されるのは当然の事なのだ。したがって筆者はこの事を悪いとは考えていない。

3.新房と記号化

 これを読んでいる読者は新房昭之を当然知っている事だろう。経歴が知りたければWikipediaでも見れば分かりやすい。新房監督はうる星やつらの原画から出てきてからくり剣豪伝ムサシロードで初演出を担当。その後94年のメタルファイターMIKUで監督デビュー。さて、新房監督と言えばその独特の演出が挙げられる。極彩色のコントラストや静止画を多用したカット割り、『ぱにぽにだっしゅ!』や『さよなら絶望先生』等で目立つ黒板ネタ等の小ネタを交える等がそれにあたる。92年〜の『幽☆遊☆白書』で1度演出しているが、当時からこの極彩色のコントラストと言った独特な演出が使用されている。
 近年の新房監督の作風は、上述のような演出を過剰なまでに使い静止画のカットが非常に多い。静止画でなくても例えば記号(矢印やマーク)が回転したりするだけ等のシンプルな表現が目立っている。特に目立ってきたのは『月詠-MOON PHASE-』辺りからで、『ef - a tale of memories-』のOP等は誰が見ても新房監督の作品と言わざるを得ない。
 さて、ここで注目したいのはこの演出の変化だ。スクリーンショット等を張れば分かりやすいのだが、新房監督が使用する演出は通常「記号」であり何らかの意味を持っている。例えば『ひだまりスケッチ』は非常に分かりやすく、ヒロイン「ゆの」の髪留めが本来×印なのに気分がいい時は○になったり、混乱している時は回転したり、気分に合わせて色が変わったりする表現があった。『ぱにぽにだっしゅ!』や『ネギま!?』の黒板ネタと呼ばれる演出(小ネタ)の様に、文字を多用する表現があった。『さよなら絶望先生』にはOPで顔に右目左目と書いているシーン等もあった。そして、これは監督ではなく監修だが『ef』の7話には延々文字を流し続けるシーンがあった。つまり、初期はコントラストや静止画による演出、次はそれらを踏まえた上で記号による演出、そして現在は文字による演出が行われていた。
 これは、前章で私が述べた「データベース化」の究極形態と言えないだろうか。新房により世界は解析され様々な演出により新房色に染められる。しかし、そこにあるのは「文字」及び「記号」の山だ。確かにキャラクターは描かれているしセリフもある、しかし挿入される記号の量を見れば、キャラクターを半分近くは何らかの記号が形作っている。オタクはその記号や文字に萌え始めては居ないだろうか。
 データベース化についてよく考えてほしい。今萌えは完全に記号化された。それはあくまで妹だとか猫耳だとか、そういう設定やオブジェクトで止まっている。だが、人によっては既に「妹」である、その概念だけで萌えてしまう人がいる。「あなたは何属性が好きですか?」「妹属性です」みたいなものですよ。概念で萌えられるのに、文字や記号に萌えないわけがない。そう考えれば、新房監督は現代アニメ、正確にいえばアニメや漫画と言った現代オタク文化特徴であるデータベース化の究極形態を体現していると言える。

4.記号化の良し悪し

 記号化は最新鋭だった。だったであり、つまり過去形だ。記号化のスタートは90年代後半、既に10年の時が過ぎた。もはや記号化は進み過ぎ、あらゆるところ組み合わせの飽和、つまり「キャラ被り」が出てくるようになった。キャラクター(デザイン)だけなら七尾奈留やべっかんこうと言えば分かりやすい、まさに記号化の象徴であるハンコ絵、紙の色や目の色くらいにしか差が無い。今はまだそれに萌えると言って消費するオタクが多いからいい。記号化する事でユーザーの期待する絵は楽に用意できるし、組み合わせを変えるだけで直ぐに新しいキャラクターが作れる。しかしそれがいつまでも続くとは思えない。述べた様にキャラ被りが出始めている上に、記号化された萌えは消費されて終わる。次々に生み出されるそれは次々に廃れていくのだ。近いうちにこの消費行動は終わる事が十分に考えられる。

5.展望

 今テレビアニメ監督の中でもトップクラスの超人気を誇る新房であるが、上述の事を踏まえると彼の作風は実に未来が危うい。記号化の究極形であるのならば、記号化が廃れると作風も廃れると言う事だ。私は『さよなら絶望先生』でほぼ完成したと言ってもいいそのスタイルから一転し、『ef』で次のスタイルを実験するものと思っていたのだが、結局従来とスタイルは大して変わっていない。少し空気が違うのは監督ではなく監修であるからだろう。ともすれば『ef』の監督である大沼心は新房の正統後継者であり、後継の為の作品だったのかもしれない。だが、それはともかく47歳にもなって今更スタイルを変えられないのかもしれないが、新房の作風を引き継いでも終わりが見えてしまっている。

6.まとめ

 新房監督は現在のテレビアニメ業界ではトップと言っていい程の人気監督だ。更に昨今まれに見る「見返す作品」を作ってくれる。昨今の作品は2度3度と見て作品の中のキーワードを解くという「見返す作品」が非常に無く、頭を使わずぼーっと見てられるものばかりだ。その中で記号化を突き詰め、1度見ただけですべてを把握できない彼の作品は素晴らしい。しかし、彼の作風である記号の乱用は刻一刻と終わりに近づいてきている。新房のこれからの動向には期待してはいるが、このまま作風が変わらなければ「大幅改編する監督」程度にしか見られなくなってしまうだろう。

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