最終更新日 2014.06.29

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ザ・ホワイト・キックス

ザ・ホワイト・キックスは、1968年4月にピアニストの三保敬太郎が結成したバンド。ザ・サベージを脱退した寺尾聰と林廉吉も参加した。
それは東京12チャンネル土曜日放送の深夜番組(11:30 pm)「ピット・イン・パンチ」の為に作られたバンドだった。
同年5月10日「アリゲーター・ブーガルー」でレコード・デビュー。この曲はすでにデビューしていたGSバンド「ハプニングス・フォー」との競作であり、発売前の4月に新宿・ジャズ喫茶で「ブーガルー合同発表会」を催していた。レコード・リリース後の結果は、ハプニングス・フォーに僅かに軍配が上がった。(ホワイト・キックスの曲も、さすがピアニストの三保敬太郎が率いるだけの事はあり、曲としの演奏はプロ好みな仕上がりで良好だった。更に森野多恵子のヴォーカルには魅せられるものがあり魅力的ではあったのだが。)そして世界的にブームとなったブーガルー熱も冷めた為なのか、或はTV出演用の俄結成なのか、理由は定かではないが、僅かこの一曲だけですぐに解散してしまった。ザ・ホワイト・キックスは、GSとして結成から解散までの期間が一番早いグループであろう。

__成 : 1968年4月0.結成時グループ名 : 同じ)
デビュー : 1968年5月0.(デビュー曲 : アリゲーター・ブーガルー)
__散 : 1968年夏頃0(最終公演 : 不明

ザ・ホワイト・キックス : メンバー

三保敬太郎: ピアノ
森野多恵子: ヴォーカル
林 廉吉 : ギター
寺 尾聰 : ベース
河出政次 : ドラムス
志村康夫 : フルート

シングル・リリース

アリゲーター・ブーガルー/愛の言葉('68年5月)

※アルバム・リリース無し

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ザ・ホワイト・キックス

プロフィール・そしてその後は?

三保敬太郎 (本名 : 同じ) 1934年10月17日/東京生まれ リーダー)
GS_notimage01.jpg1950年、慶應義塾大学在学中にジャズ・ピアニストとしてプロデビュー。大学卒業後「トミー・パーマー・オーケストラ」でピアニストとして活躍していた。また俳優としても日本TVドラマ「ザ・レーサー」に出演。また作曲家としても活動し、日本TV「11PM」のテーマ曲は彼の作品である。1978年には松竹封切「マッハ'78」の映画監督として彼の才能を発揮した。
1986年5月16日、永眠(享年51)

森野多恵子 (本名 : 谷口妙子)
森野多恵子ホワイトキックス解散後、1972年に " TAN TAN " 名義にてコロンビアから「愛は面影の中に」でソロ・デビューを果たす。実力が有りながらもヒット曲には恵まれず、1982年 " 大空はるみ " と改名し加藤和彦のプロデュース「はるみのムーナイトセレナーデ」で再デビュー。この曲でも実力に見合った評価はされずヒットするまでには至らなかった。その後、1990年代に入り音楽専門学校の講師を勤め後輩の指導にあたっていたが、悲しい事にすでに他界されたようです。
お亡くなりになられた日時は不明ですが、1998年頃との事です。

寺尾  (本名 : 同じ) 1947年5月18日/神奈川県横浜市保土ケ谷区生まれ
寺尾 聰俳優・宇野重吉の長男。サベージを1967年1月脱退。翌年の1968年4月、林廉吉と共に ”ザ・ホワイト・キックス" に参加。、すでに同年の2月には、映画『黒部の太陽』で俳優デビュー。”石原プロ”に所属し俳優兼ソロ歌手として活動。1981年2月にリリースした「ルビーの指輪」が大ヒットし”第23回日本レコード大賞”を受賞。現在も俳優・歌手として活躍中。

林 廉吉 (本名 : 同じ) 1946年/東京生まれ
林 廉吉1967年3月サベージ脱退。翌年、寺尾聰と共に "ザ・ホワイト・キックス" に参加した。ホワイトキックス解散後は不明。

河出政次 (本名 : 同じ)
GS_notimage01.jpgホワイトキックス解散後の1968年10月に"ザ・ランチャーズ" ドラマーとして参加。その後は不明。

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