静かの海

 

 毎年夏になると兄さんの表情が違う。寡黙で無口な兄さんの表情が明るくなる。
 どうしたの? と聞いても兄さんは笑顔を浮かべただけで教えてくれない。ただその顔は嬉しそうだった。
 兄さんは夏が好きなわけじゃない。私のなかの兄さんのイメージは、春夏秋冬が大嫌いというひねくれ者校の時だって誰もが喜ぶ夏休みを兄さんはつまらなそうに見ていた。そんな兄さんだから、当然人付き合いは悪い。友達といえる友達は数人しかいない。学校での評判もそんなに良いものじゃない。根暗と言われたり、ロボットと言われたり。妹の私とその度に人は比べる。兄さんの優しさを知らないくせに、と腹が煮えくり返る。そのことを兄さんに話すと、兄さんはクスクス笑う。
「お前まで友達なくすぞ、沙由里?」
 兄さんは楽しそうだった。
 多分、私たち兄妹は仲のいい部類に入る。登下校も一緒だし、休日の買い物も一緒にする。シスコンと誰かが兄さんに言っていてるらしいけど、一番気の合うのが兄さんなのだから、仕方無い。だからって兄妹愛のなんたらかんたら、というような一般大衆が想像しているものは一切無い。
「何でもかんでも性欲に結びつけるのは低知能な証拠のようだな?」
 と兄さんは冷笑して、私は大笑いした。
 だから--------兄さんの隠している秘密が気になる。 兄さんのことなら大抵は分かる。好きなモノ、嫌いなモノ、全部をあげることができる。ただ兄さんが夏にだけ隠している秘密だけは私は分からない。それが悔しいと言うよりも-------嫉妬していたのかもしれない。
 今年も夏がやってきた。
 兄さんは幸せそうに笑みを浮かべる。が、どこに行くわけでもない。私は少し苛々しながら、兄さんの行動を見ていた。兄さんはのんびりと、相変わらず計画的に夏休みの課題を片づけていく。対照的に私は、課題を夏の最後に大量処分する主義だ。最終的にはいつも、兄さんに手伝ってもらうのだが、それは可愛い妹の利点と断言している。兄さんは呆れた顔で、私に缶ビールを要求する。時々、兄さんは高校生とは思えないくらい、中年くさいと思える趣向を見せる。父も母も呆れているが、こよなくビールを愛する高校生も珍しい。
 兄さんはドコにも出かけていなかった---------というのは、私が知らないだけだった。
 兄さんは出かけていたのだ。夜に。みんなが眠ってから。
 偶然、私は目がさめた。足音。階段を降りていく。私は起きてすぐに着替える。兄さんを追いかけるのに余裕は充分だった。兄さんは私に気付かず、どんどんと歩いていく。
 誰もいない道路の真ん中を堂々と歩く。
 歩いて歩いて歩いて、山へと入っていく。小さな山で名前など無い。険しい道があるわけでもなく、サイクリングロードになっている。頂上には公園があり、子供たちの遊び場として昼は賑わう。兄はその先へと足を進めた。下り坂の先には入江となった海がある。魚釣りの名所として地元では有名な場所だが、岩場が多く、電灯もなく、夜にそこへ行く人はいない。私は兄さんを心配そうに見つめた。兄さんは私の存在にまるで気付かず、ずんずんと歩く。
 潮の香りが鼻につく。ちゃぷ、とかすかな波の音がする。兄さんは砂浜へと飛び降りる。月が銀色に海を照らしていた。電気の明かりは何もないが、月の光だけでこんなに明るいんだと感心する。それよりも、月明かりを染めた海の美しさに私は吸い込まれるように見とれていた。
 ちゃぷ。水の音。
 兄さんは足を止めた。
「待った?」
 と兄さんが聞いた。その声は嬉しそうだ。
「待った。遅いよ」
 声が聞こえた。目をこらす。誰か居る。兄の正面に--------胸まで水に沈ませ、ちょこんと顔を出していた女の子が愛しそうに兄さんを見ていた。兄さんは靴が濡れるのもかまわず、彼女の元へと近寄る。
 それだけで、私の胸がはじけそうだった。
 兄は優しく彼女の頬に手を当てる。彼女はクスクス笑う。ちゃぷ、水の音。ちゃぷ。戯れるように水の音。ちゃぷ、優しく彼女の手が水を弄んだ。
「 夏しか私たちは逢えないんだから」
 ぎゅっと、彼女は兄さんを抱きしめる。兄さんは困った顔で、彼女を優しく抱きしめる。
 その時間があまりにも、私は長く感じた。とても大切なモノを盗み出すような罪悪感を感じる。私は静かに、その場所を離れようとしたとき、また水をちゃぷちやぷと弄ぶ音が聞こえた。彼女の足------否、魚の尾が水を弄んでは、波紋を広げる。透明な海に朧げに映っていた月は、歪んで震える。
「人魚!?」
 無意識に声を出していた。兄さんと彼女が私に気付く。彼女は脅え、兄さんは驚き、私はどんな顔をしていいのか分からず、そのまま立ち尽くした。

 

 

 

 

 

 人魚。
 単なるお伽話の存在ではないと判明したのはつい最近のことだ。彼女達は少数で群れを作り、人間以上の知能を持ちながら争いを好まず、野蛮な一部の人間に捕獲され、虐殺され、剥製にされ、玩具にされ、虐げられていった。が、直接、人魚の存在を目にした人は数少ない。資料や大学の研究室で標本にされた醜い人魚をテレビで見たことはある。が、現実に本物の人魚と対峙するのは初めてだ。
「俺の妹だ」
 兄さんは照れたような口調で、紹介した。暗闇で兄さんの素顔は見れないが、赤面しているのは想像できる。
「ショウヤの妹・・・?」
 反芻するように呟く。ゆっくりと警戒心が消え、優しく透き通る青い双眸が、私を見つめた。彼女は綺麗な金髪を腰のあたりまで下ろしていた。小さな顔に小さな口。触れば壊れてしまいそうなほどに華奢だ。握れば砕けそうな手。その手が離れまいと、兄さんの手をしっかりと握っている。
 上半身は裸体だが、嫌らしさも卑猥さも恥ずかしさも無い。海面からのぞかせた尾の鱗は虹色に輝いていた。私は余計な感情を挟む余裕もなく彼女に見とれていた。
「ショウヤにそっくり」
「はじめまして」
 と言うことしか私にはできなかった。
「はじめまして」
 にっこりと彼女は笑った。その笑顔に吸い込まれそうだ。
 ちゃぷ。彼女がまた水を無造作に弄ぶ。水は流れ、波紋を作り、すくい上げ、また流れる。彼女はクスクス笑った。
「そろそろ時間みたいね」
「静かの海は終わったか?」
「ええ。次は危難の海になるわ」
「またしばらく逢えなくなるな」
「そうね」
 本当に悲しそうに彼女は俯く。
「しばらくの辛抱だ。高校を卒業したら、海で生活するって決めてるから」
「私と旅をするつもり?」
「当然」
「本気で?」
「本気。生まれた土台なんかどうでもいい。俺はお前と会えた。それだけを感謝してるから」
 彼女はくるりと背をむける。
「有り難う。また逢えるから」
 ちゃぷ。海の中へ、そう言い残して彼女は消えていった。

 

 

 

 

 

 

 私と兄さんは黙々と帰路を歩いた。兄さんは満足そうに時々、後ろを振り返る。
「ねぇ、兄さん」
「ん?」
「あの人のこと好きなの?」
 兄さんは沈黙して、それから多分、私が知っている兄さんの顔の中で一番の笑顔でうなずいた。
「人魚でしょ?」
 あえて冷たく言った。人間と人魚が恋に落ちる? そんなの童話の世界の中の話しだ。事実は種族の差を越えれるはずがない。多くの人間は人魚のことを家畜程度にしか見ていない。
 兄さんは少し悲しそうな目で私を見た。
「生まれた器はそんなに重要なのかな?」
 兄さんに言われてズキンとする。反論できなかった。多分、自分でも本心でそんな事を言ったのではないのは分かっている。ただ兄さんを取られそうで怖くなっただけ。でも、そんな事を想っている時点で、あの人魚に叶わない。それほど透明な気持ちで、兄さんの事を彼女は見つめていた。
「ごめんなさい」
「いい。ま、身内に恋人を知られるのは悪くない」
 と照れたように笑う。寡黙ないつもの兄さんとはまるで違う表情に、私は思わず笑みをこぼす。
「海に出るの? 卒業したら」
「そのつもり。人魚の法では、人間は月の静かの海が面した時じゃないと会うことは許されない。契りを結ばないと」
「契り?」
「俺の口から言わせるなよっ!」
 となぜか真っ赤になっている。なるほど、そういうことか。と思わず私はニヤニヤした。そんな私を見て兄さんはますます赤くくなる。変な所で男のくせにシャイなところがある。
「でも、静かの海って何?」
「月の海だよ。こうやって見ると、月が黒い所があるだろ?」
「う、うん・・・あるけど、月に海はないでしょ?」
「だから海に例えているんだよ。他にも豊の海や蒸気の海、晴れの海や雨の海、霧の浅瀬とあるんだ。人魚達にとって静かの海は、幸運の象徴。危難の海は災厄の象徴なんだ」
「どうして夏だけしか会えないの?」
「人魚は旅をしているんだ。人に狩られないように」
 私は黙るしかなかった。
 多分、兄さんは彼女と逢うために海に出る。それを止めることは私にできない。
 でも、兄さんも彼女もとても幸せそうだった。
 それがとても、羨ましい。
 きっと兄さんと彼女は幸せを手にする。そうであって欲しい。兄さんと彼女が何にも囚われることなく、自由に海で泳ぐ姿を私は見たいと思った。
 兄さんの夏は終わる。
 そしてすぐ、兄さんの次の夏が始まる。
 私の夏が終わる。
 私の幼すぎる気持ちは、ゆっくりと静かの海の底へと溶けていった。 

 


書き込み寺第三回共同企画「海」に投稿。
月の海とは昔、溶岩によって形成されたものです。
ちなみに僕の大好きなミュージシャン石田小吉(SCUDELIA ELECTORO)
の『静かな海』インストverからインスパイアされました。