3.本当の裏切り者とは?

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アナと雪の女王
1.裏切り者と呼ばれて
2.私は裏切ってはいない
3.本当の裏切り者とは?

 天正十年(1582)五月、私は徳川家康とともに近江安土(あづち。滋賀県近江八幡市)城へ出向き、織田信長に会いました。
 その後、家康とともに和泉
(さかい。大阪府堺市)見物をしましたが、帰りがけに京の豪商・茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう。清延)がとんでもない知らせをもたらしました。
信長様が明智光秀
(「泥沼味」など参照)の謀反によって本能寺(ほんのうじ)にてお討ち死に!」
「何だって……」
 私は信じられませんでした。
 光秀といえば、つい先日、安土城で私や家康の接待にあたっていた人です。
「まさか、あの光秀殿が……」
 しかし情報源は確かです。
 家康は仰天し、身を震わしました。
「うわあ!あの信長公が死ぬ!そ、そんな常人のようなことがありえるのか!?」
 信長がつけてくれた案内役・長谷川秀一
(はせがわひでかず)が警戒しました。
「まだ信じられませんが、信じたくはありませんが、もしこれが事実であれば、光秀は我々の命も!?」
 家康は激しく同意しました。
光秀は知恵者だ。これほどの大事を起こすからには、綿密な計画があってのことだ。彼は我々が少数だということも知っている。行く先々に刺客を潜ませているに違いない!ああっ、とても三河までなど逃げられない!終わりだ!わしは京へ行き、知恩院
(ちおんいん。京都市東山区)で自害する!」
 この時、家康に同行していた配下は酒井忠次
(さかいただつぐ)・石川数正(いしかわかずまさ)・本多忠勝(ほんだただかつ)・榊原康政(さかきばらやすまさ)・井伊直政(いいなおまさ)らわずか三十数名でした。私の配下はもっと少なく、馬場忠次(ばばただつぐ)・帯金信房(おびかねのぶふさ)ら十数名です。双方合わせても本能寺にいた信長勢よりも少ないのです。家康が悲観的になるのも無理もありませんでした。
 しかし、忠勝らが思いとどまらせました。
「あきらめるのは早すぎます!問題なのは伊勢へ出るまでです!伊勢へ出て白子浜
(しろこはま。三重県鈴鹿市)で船に乗ってしまえばもうすぐ三河です!それまでは危険な街道を避け、山中を行きましょう!そうです!伊賀の山中を潜行すれば逃げ切れます!」
 服部正成
(はっとりまさなり。半蔵)伊賀越えを勧めた。
伊賀は拙者の地盤、伊賀者や甲賀者に声をかけて護衛を頼み、刺客どもの襲撃を防いでみせましょう」
 四郎次郎も勧めた。
「私はあちこちに金をばらまいて護衛を募りましょう」
 家康は少し元気が出た。
「よし、くずくずしてはいられない。穴山殿も御異論はございませんな?」
 私は答えました。
伊賀越えに異論はございませぬ。ただ、山中ならなおさら大人数で移動しては怪しまれましょう。徳川勢と穴山勢、二手に分かれて行ってはどうでしょう?で、白子浜で合流するというのは?」
 家康もうなずきました。
「穴山殿のおっしゃることはもっともだ。確かに少数の方が怪しまれまい」
「では、お先にどうぞ。私たちは離れて後から参ります」
「ああ。では、白子浜でまた会おう」
「お気をつけて」

 こうして家康ら三十数名は先に出発しました。
 私たち十数名は彼らが見えなくなってから旅立ちます。
 待機している間、馬場忠次が不思議がって聞きました。
「物は考えようですが、大人数の方が襲われた場合には安心なのではありませんか?」
「分かってないな」
 私は笑い、逆に忠次に聞きました。
光秀が殺したいのは、私と家康殿とどっちだと思う?」
「もちろん家康殿でしょう。家康殿は信長公の長年の同盟者ですが、殿はまだつい最近投降したばかりですからね」
「その通りだ。そのため、徳川勢と穴山勢が二手に分かれていた場合、光秀の刺客どもは徳川勢を襲うであろう」
「なるほど。家康殿から離れていた方が襲われにくいということですな」
「もう一つ理由がある。我々が後を歩く理由だ。後を歩いていれば、徳川勢が刺客どもに襲われた場合、臨機応変に道を替えて危険を回避することができる」
「なるほど!」
 これには帯金信房も目を輝かせました。
「さすが我が殿、あったまい〜い!」
「まだあるぞ」
 私は続けました。
「もし、家康殿が討ち取られた場合、三河遠江が空白地帯になる。すでに信長公は亡いため尾張美濃近江も空白地帯になっている。つまり、我が領土駿河から京まで、我が軍勢は無風の荒野を進撃して上洛できるようになる。信玄公の御遺言『明日は瀬田
(せた。滋賀県大津市)に旗を立てよ』を実現することができる」
「うほほっ!」
 ほかの部下たちも喜びました。
「天下ですか……」
「殿が光秀を討って天下人に……」
「ウソみたいだ!」
「わっ、我々の禄も上がるので!?」
「そうだ。べらぼうにな」
「ひゃー!すげえや!早く家康殿、討たれないかなー」
「こらっ、不謹慎なことを申すな!まずは我々が無事に帰国することだ」

現在の草内の渡周辺(京都府京田辺市・城陽市)

 私たち一行は飯盛山(大阪府大東市)から津田(大阪府枚方市)、尊延寺(同市)、普賢寺(京都府京田辺市)、興戸(同市)を経て、草内の渡(くさじのわたし。同市)に至りました。
 草内の渡は木津川にある渡しです。
 所々に家康が雇った護衛がいましたが、ここの担当は山城山口
(やまぐち。京都府宇治田原町)城主・山口秀康(ひでやす)でした。
「御苦労様です」
 この人は甲賀
(こうが・こうか。滋賀県甲賀市)の有力者・多羅尾光俊(たらおみつとし)の息子です。
「川を越すと我が城のある宇治田原に入ります。そのあとは甲賀を経て伊賀です。さあさあ、二、三人ずつ渡し舟へ」
「はいよ」
 忠次が乗りました。
 私も続いて乗り込みました。
 信房も乗り込もうとしましたが、ためらいました。
 ドン!ぐりりん!
 忠次が刺されたからです。
「ううっ!何ゆえ〜?」
 忠次は血を噴いて倒れました。
「だまし討ちだー!」
 信房は逃亡しました。
「ギャー!」
「あひー!」
 他の部下も逃げたり殺されたりしました。
 私もバラバラと護衛たちに取り囲まれました。
 私は焦りました。
「なんだ、護衛じゃなくて刺客だったのか」
「そういうことです」
 護衛たち、もとい刺客たちは刀や弓や鉄砲をガチャガチャと振りかざしました。
 私は叫びました。
「明智殿に伝えよ!標的が違うであろう!私は武田信君、梅雪斎不白だ!」
 秀康が言いました。
「あってますよ。我々はあなたを殺すように命じられました」
「違う!貴殿らの標的は家康殿のはずだ!」
 秀康はきょとんとしました。部下たちと顔を見合わせてゲラゲラ笑いました。
「何がおかしい!?」
 私が叫び聞くと、秀康は言いました。
「あなたは勘違いしていますね。我々は明智の手の者ではありません。家康様からあなたを殺すように命じられたのです」
「何だって!?」
 私は信じられませんでした。
「い、家康殿が、私を……!? ウソだ!彼が私を殺そうとするはずがない!彼は命をねらわれているほうだ!ねらっているほうではない!」
「そのとおりです。家康様は命をねらわれているからこそ、あなたを殺そうと考えたのです」
「はあ?」
「あなたが家康様と間違えられて殺されてしまえば、家康様はもはや明智の刺客に襲われることなく、無事に三河へ帰ることができるようになります」
「!」
「そうです!あなたは家康様の身代わりとして殺されるのです!」
「そんなのイヤダー!」
 私は暴れました。ねじ伏せられました。それでももがきました。
「こんなところで死んでたまるか!私の人生はこれからなんだ!私は生きて天下人になるんだー!」
「ざ〜んねん」
 ばーん!
「ぐびぽ!」

 私は殺されました。
 享年四十二。
 墓は飯岡
(いのおか。京田辺市)にあります。
 秀康はデマを流しました。
徳川家康を討ち取ったぞー!」

*             *             *

 私の死後、家康は私の妻子の面倒を見てくれました。
 天正十五年(1587)、私の遺児・勝千代
(武田信治)が十六歳で夭折すると、家康の五男・信吉(のぶよし)が武田家を継ぎました。
 妻の見松院には江戸城北の丸に屋敷を与えられました。
 徳川秀忠の隠し子・幸松
(後の保科正之)を育て上げたのは彼女です。

[2014年5月末日執筆]
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