2.私は裏切ってはいない

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アナと雪の女王
1.裏切り者と呼ばれて
2.私は裏切ってはいない
3.本当の裏切り者とは?

 穴山氏は清和源氏甲斐守護・武田氏の分家です(「穴山武田氏系図」参照)
 南北朝時代の甲斐守護・武田信武
(のぶたけ)の五男義武(よしたけ)甲斐国巨摩郡穴山(山梨県韮崎市)に所領を与えられて姓にしたと伝えられています。
 穴山氏は南北朝合一とともに台頭します。
 南朝方の有力豪族だった南部氏
(なんぶし。「友愛味」「税金味」参照)陸奥へ逃亡したため、南部地域を支配下に治めたのです。
 戦国時代になると河内地方全域を制圧し、国中地方の武田氏、郡内地方の小山田氏とともに甲斐を三分する大勢力になりました。
 甲斐は武田信虎
(のぶとら)の代に統一されましたが、穴山氏は河内の自治権を奪われませんでした。
 信虎は自分の娘を私の父・信友
(のぶとも)に嫁がせることによって血の同盟を結んだのです。
 この娘というのが私の母・南松院
(なんしょういん)です。
 後に信虎の子・信玄
もこれに習い、娘を私に嫁がせることになります。
 これが私の妻・見松院
(けんしょういん。見性院)です。

 私が生まれたのは、天文十年(1541)です。
 幼名は勝千代
(かつちよ)
 知ってる人は知っている、信玄と同じ幼名です。
 長じて信君
(のぶきみ・のぶただ)と名乗り、受領名を左衛門大夫(さえもんのだいぶ)、後には玄蕃頭(げんばのかみ)陸奥と称しました。
 梅雪というのはさらに後の名前です。
 天正八年(1580)、私は頭を剃
(そ)って梅雪斎不白(ばいせつさいふはく)と号したのです。

 永禄三年(1560)に父・信友が死ぬと、私は下山館と河内領を継承しました。
 父と同様、私にも自治が認められていましたので、検地新田開発も金山経営なども独自に行っていました。
 永禄十一年(1568)、信玄による駿河併合の際には、今川氏の縁戚であることを利用して外交手腕を発揮しました。

 私は早くから鉄砲に注目していました。
 当時の鉄砲はべらぼうに高いものでしたが、金山も持っている金持ちな私は何丁か手に入れ、部下に持たせておりました。
 そのため、天正三年(1575)に、
織田信長が三千丁もの鉄砲を持って長篠
城の救援に来るそうな」
 と、聞いた時には震え上がりました。
「まずいですよ〜、鉄砲三千丁は〜」
 私は馬場信房
(ばばのぶふさ。信春)や山県昌景(やまがたまさかげ)らとともに勝頼に撤退を勧めましたが、結局、決戦を選んだ主君の命令に従うしかありませんでした。
 馬場や山県は主命に従って突撃し、華々しく討ち死にしましたが、私はすぐに逃げ帰ってきました
(「銃器味」参照)
「義は無力だ。私は義に殉じるより、義に背いてでも生きる方を選ぶ。これが私の生きる道、戦国の世を生き残る術なのだ」

 長篠の戦後、私は亡き昌景が城代を務めていた駿河江尻(えじり。静岡市清水区)城主となり、河内領とともに駿河庵原郡一帯を兼領しました。
 私としては出世でしたが、主君の勝頼は落ち目でした。
 頼みとする反信長連合が次々と倒されていったためです。
越後上杉謙信
(「政権味」ほか参照)が死んだそうな」
摂津の荒木村重
(あらきむらしげ)の有岡(ありおか。兵庫県伊丹市)城が落ちたそうな」
「顕如
(けんにょ。本願寺光佐。「大雪味」参照)が石山本願寺(いしゆまほんがんじ。大阪市中央区)を明け渡したそうな」
「百年続いた加賀の一向一揆
(「北陸味」参照)も降参したそうな」
伊賀の忍者たちの反乱も鎮圧されたそうな」
 私は歯ぎしりしました。
「形勢は逆転した!明らかに織田徳川に分がある」
 武田の凋落
(ちょうらく)は止まりません。
美濃の岩村
(いわむら。岐阜県恵那市)城が織田に落とされたそうな」
遠江の二俣
(ふたまた。浜松市天竜区。「惨敗味」参照)城が徳川に落とされたそうな」
「ついに遠江の高天神
(たかてんじん。静岡県掛川市)城も徳川に落とされたそうな」
相模の北条氏政
(ほうしじょううじまさ。「ニセ味」参照)が徳川と同盟を結んだそうな」
信濃の木曽義昌
(きそよしまさ)が織田に寝返ったそうな」
「近々甲斐は織田・徳川・北条連合軍に三方から攻め込まれるそうな」
 私は叫びました。
「終わりだー!このままでは武田は滅んでしまう!」
 そんな折、私は徳川家康(「籠城味」など参照)からお誘いを受けました。
「穴山殿。武田を見限られよ。織田徳川につけば貴殿の本領は安堵する。今まで通り、甲斐河内地方及び駿河庵原郡の自治を認める」
 渡りに船でした。
 が、裏切り者呼ばわりされるのは心外です。
 そこで妻の見松院に相談してみました。
 妻はきっぱりと言いました。
「裏切りは許しません」
 私は失望しましたが、続きがありました。
「あなたの母は武田本家の娘です。あなたの妻も武田本家の娘なのです。あなた自身も、諏訪勝頼よりよほど本家にふさわしい武田一族穴山家の出なのです。武田信君!あなたには武田の家名を残す使命があるのです!」
「武田信君……」
 そうでした。
 私は外交文書には自分の名をそう記しておりました。
 妻は鼓舞しました。
「あなたは裏切り者ではありません!武田を滅亡に追いやろうとしている諏訪勝頼こそ本当の裏切り者なのです!あなたは諏訪者の裏切りを許してはなりません!今こそ武田本家を継ぎ、織田徳川の力を借りて悪人を征伐すべきでしょう!」

 私は織田徳川に降参しました。
 天正十年三月(1582)、天目山の戦
(「ニセ味」参照)の直前のことです。
 一般的には、天目山の戦で滅んだのは武田氏といわれています。
 が、実際にほろんだのは諏訪氏だったのです。
 私と妻の変わり身によって、武田氏は生き残ったのです。

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