”反カルト”批判への随想
〜宗教をめぐって〜

統一協会やオウム真理教の起した一連の騒動や事件以来、日本では主にマスメディアを通して、「カルト」「マインド・コントロール」といった言葉が一般社会に流布するようになりました。それらの現象に対し、一部の方からは、『「カルト」という言葉を用いて宗教への偏見を植え付けている』、『"反カルト"は宗教叩きである』といった論調が聞かれるようになりました。「カルト」や「マインド・コントロール」という言葉の妥当性の問題はさて置いても、いずれにしろ、これらの言葉が意味する先の現象について、様々な立場の方が興味・関心を寄せていることには違いありません。ここでは、これらの問題について私の考えを述べることにします。

上記の意見は宗教学や宗教界など、宗教に親和性の高い立場の方からよく寄せられるものです。例えば、「カルト」という言葉1つ取っても、宗教学の立場からすれば、単に新しい、比較的小さな宗教の一派を指し示すのみで、価値中立であり、"反カルト"陣営が言うような悪いイメージなどなかった、なのに"反カルト"はこの言葉に価値付けを行い、レッテル張りに利用していると主張されます。

確かに、こと学術分野において「言葉」はとても重要な役割を果たします。詳細な概念の違いをどう表現し分けるかが、学問や研究者のアイデンティティに深く関わるからです。自分たちがそれまで正確を期して使ってきた言葉を、勝手に他の概念に流用するのは許せないという意見も、うなずけるところがあります。

一方、こんな見方もできます。外国の文化を受け入れ始めた当初の日本を思い出してください。それまで見たことも聞いたことも考えたこともなかった新しい「もの」や「概念」に対応する言葉を探すのに、彼らは試行錯誤を重ねました。最初は他の言葉を借りたり、奇妙な造語を用いたりしながら、次第に落ち着いていきました。新しい発想に適確な名称を生み出すのは、とても困難な作業だったのです。

私は、この問題においても同じような状態にあるのではないかと思えます。「カルト」を憂慮する立場にとって、「カルト」概念は新たなものと捉えられました。彼らはこれを、単に一部の宗教の一時的な逸脱とは捉え切れない、新たな社会現象と考えました。そして、それをなんと表現するかという問題に直面し、アメリカで使われていた表現を借りる形で「カルト」という言葉を用いたのです。私はこれらの概念と言葉において、今は適切な表現が見出される過渡期にあるのだろうと考えています。今後適切な表現が見つかれば、それを用いることにやぶさかではありません。少なくとも、「カルト」の実害を憂慮している側にとって、どうしても「カルト」という言葉を使わなくてはならないと拘る必然性はあまりないように思えます。この立場にとって重要なのは、言葉ではなく現象や実態そのものだからです。コンセンサスさえ得られれば、多くの方が他の表現を用いることに異論はないのではないでしょうか。実際、これらの議論はアメリカで既に同じような変遷を経て来ており、カルトという言葉に代わって「虐待的グループ」などの新しい表現が生み出されて来てもいます。これからも議論を重ねていくべき問題であろうと思います。

ところで、「"反カルト"は宗教叩きである」という論調における"反カルト"とは、一体誰を指すのでしょうか。恐らく、カルトやマインド・コントロールという言葉を口にしたり、概念として利用している、世間一般「すべて」の人を指すのではないかと思います。具体的には、「オウム信者はマインド・コントロールされて人殺しをしたんだって。宗教って恐いよね。」「オウムがうちの学区に引っ越してきたの。子どもに何かあったら大変よ。何としてでも追出さなくっちゃ。」という感覚を指し示しているのでしょう。このように、『「カルト」という言葉でネガティブなグループをカテゴライズし、詳細な検討もなくレッテル貼りをする人々』を表現するために、"反カルト"と呼んでいるものと思われます。

しかし、ここには重大な視点の欠落があります。それは、「カルト」「マインド・コントロール」の類の言葉、概念の専門的解釈と、それが一般に流布され、素人的解釈を経て変容したものとが区別されていないということです。"反カルト"批判において、これらは渾然一体として用いられることがほとんどです。しかし、両者にはかなりの隔たりが生じており、それについて、私もページを割いて一部言及しています。確かにこれらの言葉や概念は、オウム事件のインパクトの強さと相俟って衝撃的に報じられる向きがあったようで、そのためか、専門的解釈の時点ではなかったはずの極端な印象を植え付けられるようになりました。例えば、「マインド・コントロール」は催眠術や魔法のようなものに捉えられ、オウム信者は一生頭の中を変えることのない狂信者として捉えられました。元の「マインド・コントロール理論」では、誰もが意図せず、他者の意向に誘導される可能性があると説いたはずなのに、世間は、オウム信者は自分とはまったく別の、奇妙な人種であるかのように捉えました。そのために極端な排斥運動が起こり、現代の差別問題に新たな1ページを加えることにさえなってしまいました。果たしてこれらの動きは、少なくとも「カルト」問題、「マインド・コントロール」問題を扱う専門的立場からして望ましいもの、当然の帰結とされるものでしょうか。答は否です。むしろ、専門家たちはこれを大変憂慮し、警鐘を鳴らしています。にも関わらず、この相反する2者は、他の立場からは"反カルト"という言葉で一括りにされてしまっています。しかし、世間に誤まった解釈をされたから、その概念自体が誤まっているという論理は明らかに飛躍しています。2者は区別して考えられなければならないものなのです。

さて、それでは、「カルト」や「マインド・コントロール」の指摘は宗教への偏見を促すという見方は妥当なのでしょうか。そもそも、「カルト」の実害を憂慮する陣営は、これを宗教問題とは捉えていません。「カルト」の分類は宗教以外にも自己啓発セミナー、政治結社、商業等と多岐に渡っているからです。彼らはこの現象に対し、集団の運営や勧誘方法を問題視しており、それが超越的存在を扱う宗教であれ、より現世的なものであれ、集団を演出する枠組みはあくまでも背景に位置づけています。ここでは、集団や信念の力を悪用した虐待的な人間関係が問題とされるのです。

おそらく、もっとも混乱のもとになっているのは、この「集団や信念の力を悪用した虐待的な人間関係」が理解されにくいものであるという点でしょう。つまりは「マインド・コントロール」概念は妥当か否かという点です。それについては、私も他のページに言及していますのでここでは重複を避けますが、私はこの概念が妥当であると判断しています。私は、この概念が理解されにくいのは、単純に言ってこれが、「催眠術や魔法のようなもの」ではないところに端を発していると思います。これらのように、目に見えて人間が操られるのであればわかりやすいのですが、「マインド・コントロール」概念が指し示しているのはそのようなものではありません。それにおいては、普通の行動や判断を行っていると認識した上で操られてしまう可能性を指摘しているのです。人間は、自分の意思で自分の考えや行動を決めていると思いたいように出来ています。自律性が他者に脅かされることは、個人のアイデンティティの根幹を揺るがすものであり、自分をコントロールできるという安心感や満足感を崩壊させかねません。しかし実際は、自分の周りの多くの影響に晒されて、その上で「自分」を構築し、認識しているのが私たちの姿です。「マインド・コントロール」概念を生み出した社会心理学は、長年それらの事象を明らかにしてきました。そして「マインド・コントロール」概念は、社会心理学が指摘する様々な影響力の中でも、とりわけ度を越してそれを悪用する行為に警鐘を鳴らしてきました。例えば、CMが他者の消費行動に一時的に影響を与えるようなケースにおいて、著しく誤まった情報でも流さない限りは、影響力を与えた会社や店側が非難されることはまずありません。その程度の行為は、現代の社会生活において問題がないというコンセンサスが出来ているからです。しかし、「マインド・コントロール」の及ぼす影響力は、過度に逸脱しています。それは、自分の意思で行為でき、非道徳的な行為など行わないと思っているあなたが、いつか正義のために人殺しを出来るようにさせるほどの力を持っています。しかし、それらの影響力は比較的長期的に構成力を持って、非自覚的に行われるがために、目に見える形で認知される機会はなかなかありません。ですから、多くの人はこれらが魔法や催眠術のようにわかりやすいものでなければ、一体どういう事象なのかと戸惑ってしまうのです。

「マインド・コントロール」への非難によく見られるのは、実験によって再現できないから非科学的である、というものです。しかし、研究者が最初から言及しているように、このような非人道的な行為を再現する実験は、たとえ学問の大義名分を持ち出しても倫理的に許されるものではありません。例えば、精神的に虐待を受けた人がPTSD(心的外傷ストレス後障害)になるか否か、実験を用いて再現されればそれは証明され、そうでない限りは当事者の偽証であると見なすのでしょうか。密室で行われた虐待行為が事実であるか否か証明されない場合、実験を用いなければ客観的証明とは言えない、従って当事者の精神的後遺症は虐待行為に原因を求めることはできないと見なすのでしょうか。果たしてそのような方法論が、社会に、あるいは多少なりともまもとな感性を持ちあわせた研究者に認められるものなのでしょうか。

このように、限定された状況の中でしか研究が行えないのであれば、ケースの積み重ねから傾向を把握し、同時にそれまで証明されてきた学問的成果と照らし合わせて検討することにより、最も高いと思われる可能性を探るのが、現時点で行える最大限の方法ではないでしょうか。それらの現実から目を背け、再現できないことが非科学性の証明であるかのように言うことに、何か意味が見出されるものなのでしょうか。

「マインド・コントロール」が宗教側から認められにくい事象に対し、私はある意味で、これはよくある「科学と宗教の問題」という言い方もできなくはないように思っています。かつて、地動説を唱えた科学者は聖職者らから迫害されました。そのような考えはそれまでなかったもので、信仰に反するものと捉えられましたし、第一、地球が動いている姿を彼らが確認する術はありませんでした。誰もが納得する方法で実証できないから「嘘」だったのです。しかし、結果は皆さんご存知の通りです。今日、地動説を唱えることは信仰に反すると主張する聖職者にお目にかかることは、まずありません。それでも宗教は健在です。科学的発見が宗教の存在自体を脅かすことはなかったのです。科学的発見を経て、宗教側も考えを修正したり、新たに捉え直したりして今日に至っています。その幅は教派によって異なるでしょうが、まったく科学の影響を受けていないと断言できる宗教などないはずです。

同じように、「マインド・コントロール」を実際、目の前で証明することは倫理的に不可能ですが、目に見えないから「嘘」だとは言えないのです。そして、この概念が宗教の存在と衝突することもありません。なぜなら、この概念を扱う科学、具体的には心理学や精神医学の範囲になりますが、これらは現象を追う形而下の学問であり、宗教が扱う形而上の部分とは接触できないからです。すなわち、科学は、人間はどのようにして信念を構築するかは説明できても、その信念が観念の世界でどの程度妥当性を持つかを判断する術は持たないのです。そして、少なくとも「マインド・コントロール」概念が持ち出された背景には、実際にそれらの被害で苦しむ人間の存在があり、概念は被害に端を発する非倫理性に限定して言及をすることを目的としています。敢えて宗教との接点を言うならば、これは宗教のあり方、枠組みを問う概念であると言えるでしょう。すなわち、宗教という人間の営みにも、他の集団と同じように虐待的関係が起こり得る可能性を指摘するものと言えます。それは教理など、形而上の問題に対してではなく、あくまでも人間集団としての側面に限って言及され得るものなのです。

私は、宗教は今、宗教倫理の1コマにこの問題を加えるべき時期に来ていると考えています。宗教倫理は今日、生命科学やジェンダーなど、様々な社会事象に焦点を当てるようになってきました。しかし反面、戦争責任を告白するにも、時代の当事者との確執等、困難な場面に遭遇し、一般社会が当然と思っていることにさえ遅れを取る側面も持ちあわせています。宗教が真実や正義を追うものであるからこそ、他の分野に比べて、1つの新たな決断を行うのにより多くのエネルギーを要するのは確かです。しかし、真実や正義を追うものだからこそ、社会を先取りして警鐘を鳴らす責任を問われるべき立場でもあるのです。宗教に名を借りた虐待が行われることに、宗教者が目を逸らしていてよいのでしょうか。また、その危険性が自分たちの足元にもあることに、気づかずにいてよいのでしょうか。信仰という、人間の実存や生命に直結する側面を預かるということは、悪用すればとてつもない実害をもたらす危険性をも孕んでいるのです。その現実に目を逸らしていて良いのでしょうか。

戦後の日本社会は宗教を否定し、軽んじてきたといいます。宗教界は宗教の復活を望み、宗教への誤解を生む「カルト」概念など疎ましいものと感じています。しかし、現実にオウム真理教の悲劇は起きました。現実に虐待的関係は宗教の枠組みの中にも作られています。それらに真摯に目をむけるのであれば、宗教はいかにしてそのような事象を防ぐことができるかに心を砕くべきです。それを成してこそ、宗教への信頼を社会から勝ち取ることができるのではないでしょうか。宗教は自律性を持ち、社会の常識を超越したものであるという独善は、今日の社会状況に通用するものではありません。歴史上、どんなに宗教が社会に先取りして、当時逸脱と思われていたことを後に正統と確信させた事実があっても、その先取りが真である確証が現時点で保障されるものでない限り、常に疑いを並行させるのが信仰者の謙虚さではないでしょうか。信仰は常に疑いを道連れにするものです。そうでなければ、それは自己絶対化に過ぎません。疑いという言葉がふさわしくないのであれば、検討と表現してもよいでしょう。私たちは限界ある一塊の存在です。いかに超越的存在を仰ごうとも、それを捉える頭や心は限定されたものに過ぎません。超越的存在への疑いはともかくも、それを捉える自身への検討は、信仰において一瞬とも怠ることがあってはならないと思います。そしてその検討の中は、現実社会と隣人とが必ずや反映されるべきです。なぜなら、私たちは誰一人として社会から切り離されることのない存在であり、影響を逃れることなど不可能だからです。その側面をさて置いて、自己を自転的存在と捉えるのはまったくの見当違いです。多くの「カルト」集団は、グループ・リーダーの言い分のみを基準として自己への検討を怠り、社会や隣人への謙虚さを失いました。しかし、真に人を活かす信仰ならば、これらの問題に対し、怠慢であってはならないはずです。

今や社会は情報化され、多くの価値観が行き交うようになりました。影響のあり方はこれまでにないほど多チャンネル化しています。小さなコミュニティや一国家が、限定された情報の中で宗教を機能させていた時代とは違うのです。従来の宗教モデルがそのまま通用する時代ではなくなったのです。人権意識1つを考えても、一国の概念でそれを自由に扱える状況ではなくなりました。内政干渉だと撥ね付けても、グローバル・スタンダードは迫ってきます。概念の枠組みが、国から世界へと範囲を広げつつあるのです。宗教とて例外ではありません。他者や異質なものとの対話のない、現実社会と向き合わない独善性は、容赦なく非難されるか、相手にされなくなるかのどちらかの道を辿る他ありません。日本の宗教事情はその意味で、危機的状況に陥っているように見えます。「カルト」問題を自分の問題と捉えるのではなく、自分たちに不利を被らせる問題としてしか捉えられない現状は、皮肉な言い方をすれば、宗教が社会を先取りするどころではなく、宗教が社会に取り残されつつあるとさえ言えるのではないかと思います。

私は心理学的側面から「カルト」問題を研究する立場であり、一方、信仰を持って生きる、今日の日本社会においてはマイノリティに属する立場でもあります。つまりは、科学と宗教とのバイ・カルチャーに生み出された存在です。私は、宗教はこの問題に対して、もっと生産的な働きができるはずだと考えています。その意味において、"宗教の復興"を強く望んでいます。(2000.8.10執筆、8.11加筆修正)