信じるということ

カルトを経験した人にとって、もう一度何かを信じるということは、他の人からは考えられないほどエネルギーを必要とします。カルトに入る前なら、なんということなく決断していたであろうことも、カルト経験を経ると、決断するのが恐いと思うことがしばしばあります。ものごとを決める時に拠り所にしていたはずの、自分の内面への信頼が揺らいでしまうからです。

「信じる」ことにはいつくかの次元があります。

例えば、1.『Aさんは、昨日映画を見た』、2.『Aさんは、その映画がとてもいいと思った』、3.『Aさんは、映画が他に比べて優れた芸術だと思っている』という3つの言葉はそれぞれ、1.事実、2.Aさんのその映画に対する評価、3.Aさんの映画全般に対する価値観、を表しています。
2と3は「信じる」に属する事柄です。誰の目にも同じように見える出来事は、事実だけだからです。あとは人間がどう考えるか、どう感じるかを映し出す事柄なので、その人が「そう信じる(考える、感じる)」ところにのみ根拠があるのです。

上の言葉に対して自分がどう感じたり、考えたりするかも、別の側面での「信じる」ことです。Aさんの行動、言動が嘘ではなく事実や本音であると受け止めることから、Aさんの評価や価値観を自分がどう思うかを考えるに至るまで、やはり「信じる」ことに属します。

こうして考えてみると、私たちは日常生活のほとんどを「信じる」ことに費やしています。そして、カルトに入る前までは、深く考えもせず「信じ」ていたのです。

ところが、カルトを経験し、カルトの中で自分の信じていたものが崩れてしまうと、日常生活のほとんどを占める「信じる」ことが、雪崩を起こして原型をとどめなくなってしまうのです。だから、カルト経験者は日常の何気ない生活すら、過ごすことが苦しくなってしまうのです。カルトを経験したあなたは、このような状態をどう感じるでしょうか?

「もう2度と、他人なんか信じるものか」
「これが現実なんだ。以前のように、簡単に人を信じる自分の方こそ間違っていたんだ」
「もう一度人を信じたいのに、恐くて信じられない」
「信じることが何なのかすら、わからなくなってきた」・・・

しかし、こんなふうに感じたあなたには、まだ信じる余地が残されています。「人を信じるなんて馬鹿だ」と思うことすら、やはりあなた自身が感じて、決めた価値観なのですから。ただ、余裕がないのです。他の多くの人たちが普通にやっていることよりも、幾分不自然で力んでいたり、自分で望んだり積極的に「信じ」られていないので、苦痛に感じたりします。

私の友人の中には、カルトをぬけた後しばらく、イヌやネコしか信じられず過ごした人が複数います。当然でしょう。カルトは私たちの「信じる」力を破壊したのですから。「信じた」あなたに問題があるのではありません。人が信じたいと思う気持を利用し、「信じる」力を壊したカルトに問題があるのです。

しかし、人間は「信じる」ことなしに生きられません。どんなに現実的な人でも、一瞬にして出会うかもしれない突発事故を常に予測しながら過ごすことはできないでしょう。むしろ、それほどまで心配することの方が病的です。超越者、絶対的存在を信じたり、将来の夢を信じたりする大きな次元から、この次の瞬間、突然の苦痛や迫害が降りかからないと信じる日常や一瞬のことに至るまで、「信じる」ことだけで絶望せずに過ごしているのが人間です。人間の一生は「信じる」ことの連続とも言えるのではないでしょうか。

だからこそ、カルトの行った「信じる」力の破壊への問題性が問われるべきでしょう。それは、一つ間違えば「生きる意欲を奪う」ことにもなるからです。間接的な殺人とさえ言えます。

カルトと出会ってしまった私たちは、「信じられないこと」に絶望するよりも、破壊された「信じる」力を修復することに目をむけていきたいのです。