信仰に対する私の考え方

私は現在、プロテスタントの信仰を持っています。これは子どもの頃からの信仰ではなく、統一協会を出て、しばらくして持ったものです。

ここではカルト後の信仰のあり方について、私の考えを述べることにしましょう。

カルトをぬけて

私が統一協会をぬけることができたのは、家族とキリスト教の牧師の協力のおかげでした。カルトのいいなりになるように仕込まれた私は、自力ではとてもその場を離れようとは思えませんでした。そこへ家族や牧師が手を差し伸べてくれたのです。最初は家族での話し合いが続きました。その後、統一協会が聖書を使った教理を用いていることから、キリスト教の牧師が統一協会との聖書解釈の違いを説明してくれました。

この牧師との関わりはそこまでです。統一協会を脱会した私は、毎日混沌の中で暮らしていました。そんな時、たまたま机の中から聖書通信講座の用紙を見つけ出します。これはカルトに入る前に、私が冷やかし半分で取っていた代物でした。本当に小馬鹿にしながら読んでいましたから、以前の私なら一度読んだら読み返す必要もありませんでした。しかし、カルトからぬけた私には、もう何も残されていませんでした。馬鹿にするものさえ何もなくなってしまった私は、そんなものでも読み返す価値があるだろうかと、ふと手にとって見たのです。その時、私は、自分にとって価値あるものを見出しました。そこから、私とキリスト教信仰との接点ができたのです。

カルトを扱う2つの立場

さて、宗教の立場からカルト宗教を問う時、大きく分けて2つの立場が挙げられます。それが経典を曲解する異端だからという場合と、自分たちが信じる経典を使うカルトが、信仰倫理上、許し難い行為を行っているという点で問題視する場合です。私が支持するのは後者です。それは以下の理由からです。

異端であるという理由は、宗教論争の場では意味があります。信仰の対象や自分たちのあり方をより精確に求めるために、宗教は歴史上様々な論争を繰り広げてきました。信仰を大切にすればするほど、それは自分たちの生き方や命と繋がってくるため、安易な妥協はできなかったのです。結果的に不毛な論争や醜い争いになってしまったものもあるようですが、それだけの理由で論争をくだらないものと決め付けたくはありません。何がどこからおかしくなっていったのかを追求、分析して、その中から学ぶことはできるはずです。このように全てにおいてよい評価をすることはできなくても、まじめに論争するだけの価値を見出して闘った真摯な姿勢には、敬意を表すべきだと思います。

しかし、現代社会が問題にするカルトにおいては、また別の角度から見る必要があると思います。近代以前の社会では、コミュニティや家族単位で宗教、信条、生き方、職業などは固定され、個人がそれらを選ぶ可能性は非常に低かったようです。それに対して、現代社会ではより民主的で自由になり、人生の選択の幅が広がりました。しかし、自由は諸刃の剣でもあります。選ぶ困難、不安が個人の前に立ちはだかるようになりました。その困難さ、不安をカルトは狙いました。自分たちについてこれば絶対に素晴らしい結果になる、自分たちについてこなければ大変悲劇的なことになる、と巧みに騙し込み、人々をカルトへと引き連れていくのです。

人間は有り余る自由と選択を目の前にすると、かえって不安になります。自分の選択の仕方によって、自分の責任で将来が決まる可能性があるためです。失敗した時に、何か他のものに責任転嫁できればよいのですが、自分で選んだとなるとすべて自分で精算しなくてはなりません。その重責から逃れるために、人間はいろんな工夫をします。ある時は人を頼って予め連帯責任者に仕立てますし、ある時は自分の記憶を操作して、自分だけの責任ではなかったように考えることにします。ですから、選択の不安を目の前にした時こそ、カルトはその人を狙うチャンスだったのです。なにしろその人は、自分の責任を少しでも軽くしてくれるものを、無意識のうちに求めていたのですから。

また、現代社会では様々な価値観の存在が明らかになりました。宗教、文化、ものの考え方のバリエーションがいくつもあることが、交通手段やメディアの発達によって伝わるようになったのです。小さなコミュニティでみんなが同じ宗教を信じ、同じ人生を送る生活パターンは、現代社会ではほとんど皆無になりつつあります。そんな社会で生きるためには、物事を相対的に把握する能力が求められます。一人孤島で暮らすのなら、自分の考え方、生き方以外を認めず、他者の立場に立ってものを考えられなくても生きてはいけるでしょう。しかし、現実的には多くの人が、様々な価値観の中で暮らし、それと共存することが求められています。

このような状況で宗教カルトを見る時、私は「異端」の切り口から一般の人へ語るつもりにはなれません。同じ系統の宗教を信じるもの同士であれば話しは通じますし、異端論議も可能でしょう。でも実際は、宗教に関係のなかった人が宗教とは知らずにカルトに巻き込まれるケースがほとんどです。そこで問題になるのは、経典が捻じ曲げられていること自体ではなく、その人がいつのまにか心理操作をされ、それ以前のその人であれば望まなかっただろうことをするように仕立て上げられたという人間性への暴力です。その問題性は価値観の多様性を越えて、普遍性を持つものと私は考えています。だからこそ、多様性を越えて問われるべきものだと思うのです。

本人にとって何よりも問題なのは、カルト信仰への傾倒がほとんどの場合、本人の同意を経て得られたものではないという点です。宗教であることを明らかにしない宗教カルトがほとんどですし、宗教であることを明らかにする場合でも、恐怖を煽り立てるなどの心理操作を用いているため、いずれにしろ本人がまっとうに選択したものではありません。そのようにして得た"信仰"というのが、どれくらい本人の実存にとって価値があるのかは、非常に怪しげなものだと思うのです。ですから、それをもとに「これが本当の信仰であって、カルトから植え付けられた信仰は偽物だ」といったところで、どれほどの説得力と妥当性があるのか、私には疑問です。それよりも宗教がするべきことは、同じ経典を用いているのに、考え方、立場によってどれくらい解釈が異なるかを提示し、宗教や経典の捉え方自体を本人に見直させる点にあると思います。

現代社会と信仰

現代社会での宗教の役割は、人々がどう宗教を選ぶべきかを教える点からすでに始まるように思います。ことに日本のように、人々が明確に信仰を自覚することが少ない社会では、宗教はなおさらガイダンスの責任を負う必要があると思うのです。近代以前であれば、宗教は地域の同質な宗教コミュニティの中で、生き方を示していればよかったのでしょう。けれど様々な価値観のあふれる現代社会では、その中で自分が何を選び、何を指針としていくべきかを選ぶ方法論そのものが、提示される必要を帯びてきたのではないでしょうか?多様な価値観を相対化する能力の必要性と共に、自分は何を選ぶのかという選択能力も問われるようになったのです。

相対化するということは、どんな立場にも属しないということではなく、それとはおよそ反対に、自分の位置を決めなければ、比較検討もできないということを意味します。基準値がなければ、他のものがどこに位置するのかなど決められないからです。また、基準値を相手に示して、自分がどの立場から物を見ているのかを知らせることも、自分を知ってもらう点で、あるいは、相手にとっても物事を相対化して考えてもらうためには必要です。その意味で、私は現代社会における「信仰」の存在意義を感じるのです。

例えば、これを異文化関係に移し替えて考えてみましょう。
世界中には様々な国があり、それぞれの文化があります。もっと細かく言えば、一国の中にも様々な価値観があり、一括りに考えることができないほど多様性に満ちています。私たちはそのいずれかの価値観を自分の中に取り込んで、自分を形作っています。日本で育った人は、その人が望むと望まざるとに関わらず、何らかの形で日本独特の価値観に影響を受けています。それは日本社会の中では当たり前すぎて、改めて認識されることのないものかもしれません。しかし、異文化に身を投じた時初めて、それが日本的であることに気付きます。他の社会で育った人も状況は同じです。つまり、私たちは自分を形作る上でなんらかの価値観、考え方をすでに取り込んでしまっているのです。ですから完璧に客観的であったり、完璧にコスモポリタンであったりする人間など存在しないのです。むしろ、自分がどんな価値観を持ち、何の影響を受けているかを冷静に把握していることの方が、よほど広く世界を捉えていることになるでしょう。その意味で、自分の位置を確かめる作業である信仰の認識は、私は大切なことだと考えています。

選択の重要性

今の日本社会にとって、宗教はどんな位置にあるのでしょう。少なくとも1968年生まれの私にとって、同世代以降の多くは、何か決まった宗教に"縛られる"のは嫌だが、反面、限りなく宗教的なものに無自覚に依存しているように見えます。まじめに宗教を求めるのはカッコ悪いけれど、何かにつけ占いなどで答えを仰ぎたがるように見えるのです。宗教も占いも、見えないものを自分なりの根拠を見出して信じるという点で同質なのですが、多くの人は、占いには信憑性があるが、宗教は特別な理由でもない限り、信じる必要性も信憑性も感じないと考えているように見えます。でも、カルト宗教はこれを狙って、占いで人々をおびき寄せることがあります。占いは、自分の将来を示してくれるという点で、前半に書いた「選択の困難さ、不安さ」を軽くしてくれるからです。その意味でカルトと占いには似たところがあります。しかし、まともな宗教なら、その人に選択する能力があることを尊重して、その方法論や指針を与えてくれるでしょう。選ぶなら、どちらがいいと思いますか?

あなたがもし、宗教カルトを出たばかりの人なら、今すぐむやみに宗教を追いかけたり、逆に極端に宗教について考えるのを避けたりしない方がいいでしょう。今の自分にとって、宗教とどれくらいの位置を置いて接したらいいかを、まず考えてください 。あなたがカルトから出たばかりであることを利用して、むやみに改宗を勧める既成宗教があったら、そこからは一旦は離れた方が無難です。あなたはカルトに信じる力を破壊されて、何をどの程度信じたらいいのかを調節する基準を、しばらくの間失っています。カルトへの信仰を失ったあなたは操作しやすく、騙されやすい状態にあります。あなたがそこから回復するのを見守ってくれる宗教であれば、信頼に値するでしょう。

私にとっての信仰

私にとって、現在持っている信仰はとても大切なものです。私個人の意見としては、信仰こそ、カルト経験を癒す最高のものだと断言できます。自分に与えられた信仰に、全人的な癒しがあると私には思えるからです。自分の人生−生まれてからカルト経験を経て今に至るまで−を総合的に解釈しなおし、辛い経験をも絶対者の守りの中にあったと捉え直すことができます。マイナスの事柄がプラスに変えられていく経験を、ただ思考の上だけでなく、絶対者との"私とあなた"の深い関係性の中で味わうことができます。

でも、それは異端から本物の信仰へ、という勧めとはまったく違うものです。もしあなたが関心や興味を示せば、私は喜んで自分の信仰について語るでしょう。しかし、それを自分の手で納得して掴み取るか、あるいはカルトからの癒しのプロセスの1つとして心の中にひっそりと仕舞い込むかは、すべてあなたが決めることです。

カルトに傷ついたあなたがすべきなのは、あなた自身にとって納得できる人生の再構築の方法を探ることです。ある人にとっては、それが信仰を持つという表現になるかもしれません。けれどもそれは、異端から本物へ、という方法論とは全く次元の異なるものです。相手のニーズを無視した改宗の勧めに、私は愛を感じることができません。その人がどう傷ついてきたか、これからどう生きていきたいかをいっしょに考え、寄り添って歩くことのできる立場を求めていきたいと思っています。

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