私のひとり言

(*本文は社会人当時の記述です)

私は現在、NGO(非政府組織)、あるいはNPO(非営利組織)と呼ばれる職場で働いています。青少年活動を中心とし、社会正義や社会貢献を目指す組織で、今は主に国際協力・教育に関わるプログラムを担当しています。

このような職場で働いていると、なにかボランティアしてみたい、誰かの役に立ちたい、自分探しをしたい、といった若者と日常的に出会います。考えれば、このような人たちは私が思うほどどこにでもいるわけではなく、私がたまたま、そういった志向を持つ人たちの集まる場所にいるため、特別な存在に感じないだけなのかもしれないと思ったりもします。マスメディアで報じられるように、やはり何かを真剣に求めるのはなんだかカッコ悪いと思っている若者も相変わらず多いのかもしれないなと、ふと真顔になって考えたりするのです。

それでも、どんな時代であっても多かれ少なかれ、そういう気持ちを持ち、かつ表現することのできる人がいるのだと私自身は思います。それは、炭坑の中でいち早く酸欠の警告を告げるカナリヤのような存在として、機能し続けるのだと思うのです。

今やそんな状況に慣れてしまった私ですが、時に、私がカルトに入る前に、まっとうなボランティアや社会活動や、あるいは、嘲笑されることなく安心して人生を語れる仲間と出会うことができていたならと思うことがあります。私は18歳の時、大学進学のために上京して間もなく、キリスト教系のカルトに巻き込まれました。その時の感覚を一言で表せば、それは「飢え」だったのです。私なりに問題意識があり、それを誰かと語り合い、夢を実現させる場を求めていました。今から思えば世界が狭かったり、柔軟な思考力に欠けるところはありましたが、それでも、自分の職場に何かを求めてやってくる若者たちを見るにつけ、私も彼らと変わらない一人だったのだと思うのです。しかし、私にはカルトの選択肢が差し出され、彼らにはボランティアなどの社会活動の選択肢が差し出されました。

当時の私には、ボランティアや社会活動にアクセスする手段がありませんでした。もちろん、それらを手にするのも実力のうちなのですから、それは私の反省点として覚えておかなくてはなりません。しかし彼らとて、たまたまカルトと接触する機会が私より少なく、運良くそれを交わしただけだったのかもしれません。総じて言えば、私と彼らの差はそれほどなかったと思うのです。

しかし、その選択の不条理さがクローズアップされる時があります。カルトからぬけた人が"あんなに頑張ったのに""社会や自分をよくしていこうと思ったのに"という挫折感を抱くのを見る時です。カルトはそのような上昇志向を持つ人だからこそ、その人に利用価値を感じたのでしょう。上手く丸め込めば、その志向を自分の組織にすべて振り向けてくれるのですから。しかし、無残にカルトに巻き込まれ、挫折した人たちは、まるで自分たちの志向そのものが間違っていたかのように感じさせられることになります。もっと上手く世の中を渡っていくことを考えていれば、もっと割り切って生きていれば…、と。そして、やがて無力感、脱力感がやってきます。

もちろん、カルトを経験しても、金輪際立ち直れないようなダメージを受ける人がそれほど多いわけではありません。しかし、やはり多くの人がどこかで冷めたようなものを感じているように、私には見受けられるのです。きっと、うちの職場に来る若者たちのような、楽観的なまでに素直な率直さを彼らが手にすることは、もうないのかもしれません。

それとも、これは私の買い被りすぎなのでしょうか?そうかもしれません。カルトに入る人は、総じて意欲が高いと思いたがっているだけなのかもしれません。実際は、カルトの操作の方が優れていて、もともとそれほど向上に興味を持たない人も、それを志向しているかのように仕立て上げたのかもしれない。だから、脱会後それが元に戻っただけだったのかもしれません。

それでも、これは私のエゴだけれど、カルトの中で偽物の正義感を煽られただけだとしても、それがすべて間違いで、捨て去るべきものだったとは感じて欲しくないのです。たとえ自分から志向した正義感ではなく、カルトに捏造されたただけのものであったとしても、私は強引にも、そこから何かを学び取ってほしいと思うのです。社会や自分をよりよいものにしたいという素朴な思いまで、忌々しいカルトの思い出といっしょに闇に葬って欲しくないのです。

カルト経験者はもう、手放しで未来を期待できるほどの、楽観的な希望や理想は抱かないかもしれません。でも反面、そういうものの持つ壊れやすさ、危うさを自覚し、ゆっくりでも、間違いながらでも、一歩一歩歩むことができるでしょう。それを自分の宝物にしてほしいと思います。経験者本人が経験から多くを学び取る時、本当の意味でカルトを克服することになるのですから。