『マインド・コントロール』を取り巻く2つの誤解

マインド・コントロールという言葉が日本に流布したのは、1992年頃からのことでしょうか?有名元体操選手がカルト団体に入ったものの、周囲に諭された結果、脱会を決意し、「自分はマインド・コントロールされていた」とマスメディアに語ったことから、センセーショナルにこの言葉が広まりました。もちろん、日本に入る以前からこの言葉や概念はあり、同年、日本で翻訳出版された日本初のマインド・コントロール解説書である「マインド・コントロールの恐怖」(スティーブン・ハッサン著)は、アメリカでは1988年に出版されています。

マインド・コントロール理論は、社会心理学という学問から生み出された理論です。社会心理学というのは、一言で言って、人間がどれくらい周囲の影響を受けているかを研究している学問で、心理学の中でも新しい分野に位置します。そこでは、人間の判断はその人が思っているよりもずっと、周囲の影響を強く受けて下されていることが実験によって明らかにされています。人間は、自分自身のことは自分が一番知っていて、基本的に自分の力で操作できると考えています。しかし、この学問は、自分の気付かないところであなたも影響を受けているんだよ、と説くのです。身近な例では、テレビ・コマーシャルなどがあるでしょう。その商品を買う予定はなかったのに、コマーシャルで見てなんだか欲しくなってしまった、ということは、誰にでも身に覚えがあるでしょう。でも、その時、"あぁ、私はコマーシャルを見たから、この商品が欲しくなったのだな"と考えるよりは、即座に、"私はこの商品が欲しかったのだ"と思い込むことの方が多いでしょう。この自覚のなさの部分を研究しているのが、まさに社会心理学なのです。ですから、"自分は意志が強くて、大抵のことは自分でやれる"と思っている人は、なかなかこのような影響を認めたがらないかもしれません。だって、それはプライドを傷付けられることかもしれませんからね。

「私がマインド・コントロールなんかされるわけがない」

マインド・コントロール理論の内容については他のページに譲りますが、マインド・コントロールを取り巻く誤解の1つに挙げられるのが、上記のような言い分でしょう。"自分はコントロールされるわけがない。カルトのマインド・コントロールを受けるような人はほんの一握りのお人好しか、ちょっと自分の頭で考える力のない人たちだったのだ"と。また、"カルトの勧誘を受けた全ての人たちがカルトに入るわけではない。だから、入ってしまうような人には隙があったのだ"、という考え方もあります。もちろん、カルトの勧誘に出会っても、全ての人がカルト信者に仕立て上げられるところまで行くわけではないでしょう。けれども、そもそもカルトの勧誘に会うか会わないかは運・不運の問題でしかありません。なぜなら、先進国でのカルトの勧誘は、あらゆるところに網が張られているのが現実だからです。街角、学校、会社、近所付き合い、家族、旅行先、インターネット等、カルト勧誘者のいない場所などないというほど、彼らは周到に用意しています。そこに出くわすか否かは、運1つにかかってくるとしか言えないでしょう。また、そういう勧誘があることを予め知っていれば警戒することもできますが、その情報自体を手に入れるか否かについても、ほとんどの場合、偶然に頼るしかないでしょう。私は今まで多くのカルト脱会者に出会っていますが、そのカルトがそれ以前にテレビで騒がれていても、気付かず入ってしまった人などいくらでもいるのです。そんなのは本人が愚かだからだと思う人は、自分が自覚してその情報を求めたからひっかからずに済んだと言えるかどうか、自問してみてください。間違いなく、たまたま見ていたテレビや新聞から入ったものでしかないことを認めざるを得ないでしょう。それは、自分自身の力で防いだとは言わないのです。

また、仮にマスメディアで見聞きしていても、目の前で起こっていることがよもや、その噂になっているカルトだと気付かないという場合もたくさんあります。私たちは普通、マスメディアを通した情報のかなりの部分を「他人事」と考えているからです。例えば、今朝、交通事故で若者が1人死んでしまったというニュースを聞いたとします。しかし、そのニュースに対して私たちはどんな感想を抱くでしょう。おそらく、何も感じないことの方がはるかに多いのです。事故現場が近所や通勤、通学途中にあったら、多少記憶に残るでしょうか。被害者の年齢が自分と近かったら、多少記憶に残るでしょうか。しかし、被害者が自分の親友、あるいは家族だったら…。その時あなたは初めて、奈落の底に突き落とされ、そのニュースが現実だと身を持って知るでしょう。そして、ニュースを他人事として眺めている人に対して、その感受性の鈍さに憤りすら覚えるかもしれません。それくらい、マスメディアを通して「知っている」ことと、身を持って「知る」ことの落差は大きいのです。

また、カルトの勧誘の方法はとても巧みです。ダミー団体を使うのは常套手段で、占い、結婚相談、ヨガ教室、カルチャー・スクール、サークル等、あらゆる手段を使ってあなたに近づいてきます。しかも、少し洗練されたカルトになれば、あからさまに怪しげなアプローチなどしてはきません。ちょっと声を掛けられて、趣味が合いそうなので打ち解けて話しているうちに友達になったつもりが、カルトへの入り口だったということはざらにあります。もちろん、元々の友達が勧誘してくることもあります。最近では、インターネットの掲示板をカルトが誘い水にしている例が発覚しました。その掲示板には、どちらかというとそのカルトを嘲って書き込んでいる人が多かったのですが、カルトを嘲るどころかカルトに嘲られたのはその人たちだったのです。

ここまで来ても、カルトに勧誘された人たち全てがカルト信者になるわけではないという反論は確かに有効です。仮に入り口に足を踏み入れてしまったとしても、すぐに様子が変だとか、おかしいな、と気付くはずだ、と考える人は多いからです。そして、そういう人も確かにいるのです。けれど、そうでない人がなぜ残ってしまうのか−。それは、カルトが用意している切り札と、本人のニーズとが合ってしまうことがあるからです。言わば確率の問題です。カルトは人を勧誘することを至上命題としていますから、それは巧みにニーズを嗅ぎ分けて近づいてきます。例えば、新しい環境にいる新社会人や新入生などは格好のターゲットです。なぜなら、その人たちはそれまでの判断基準がそのまま摘要できない状況にいるからです。人は新しい環境に入ると、どういう状況でどんな振舞いや考え方をするべきかという指針を、かなりの部分、新たに学習しなおさなければなりません。その時、人は周囲の言動をかなり参考にしているのです。その周囲の景色にカルトが紛れ込んでしまえば、その人は見分けがつかずにとりあえずそれを参考にし始めるかもしれません。あるいは、現状に行き詰まって新しい人生の展開を望んでいる人には、カルトは魅惑的な人生を提供する振りをして近寄ってきます。

それだけではなく、もっと積極的に、カルトはなかったはずの悩みや問題と、それに呼応する願望や期待を作り上げたりもします。それは、テレビ・コマーシャルが、必要とは思っていなかった製品をあたかもその人の生活に欠かせないものであるかのように思わせ、買いたいという願望を作り上げるのと同じようなものです。"言われてみれば、自分はもっと才能豊かに活躍できるはずなのに、今までそういう環境が整っていなかった。この人たちの言うようにやってみたら、今までとは違う自分になれるかも…"、そんなふうに新たな動機を作り上げるのも、カルトのお得意なのです。

つまり、まとめて言うならば、カルトに引っ掛かるか否かは、"基本的に"確率の問題でしかないということです。カルトに入らなかった人は、結果的に一定の確率から逃れていたというわけなのです。

「世の中なんて、みんなマインド・コントロールじゃないか」

マインド・コントロールを取り巻く誤解の2つ目は、「世の中なんて、どこでもマインド・コントロールが行われているんだ」という考えです。受験社会も消費社会も政治もみんなマインド・コントロールだ、取りたててカルトだけが悪いわけではない。だから、カルトのマインド・コントロールに引っ掛かる人間は、所詮この社会を上手く渡っていけない輩なのだと、この考えは結論します。

日本では、マインド・コントロールという言葉が、学術的に定義される前にマスメディアから広がってしまったため、かなり曖昧に、広義に解釈されることになってしまいました。基本的なところを押さえておくと、「洗脳」と「マインド・コントロール」には線引きがあります。「洗脳」は物理的な強制を伴った思想改造です。暴力を使って思想を植え付けるので、恐怖心が続く限りにおいて影響力を及ぼします。「マインド・コントロール」はそれよりももっと洗練されており、本人が気付かないうちに他の誰かが選択の自由を奪い、最終的には自分で望んで選んだという意識しか残さないように操作してしまうものです。

例えば、人間には、他人に恩義を感じるとお返しをしなくては、と感じる傾向が備わっています。これは人間が共同生活を営む上で、個々人が一方的に損をしないように編み出されてきた知恵であり、代々世界中の人が共有し、反射的に出てくるようになった反応です。これはとても有益な反射であると同時に、悪用できる代物でもあります。例えば、カルトがあなたに近づいて親切にしてくれると、あなたはなんとなくお礼をしなければ居心地が悪いような気になります。そこであなたは何らかのお礼を施すのですが、よく考えてみると、あなたからカルトに対して、親切にして欲しいなどと頼んだ覚えはないのです。けれどもあなたはお礼をしなくてはと思い、次の行動に出てしまう。つまり、自分で選んだ覚えのないはずの行為を、なぜか自ら行ってしまっていることになります。カルトの勧誘はこんな風に始まることが多いのです。

ただ、このような方法はカルトでなくても、消費社会では普通に使われています。試供品や試食品の提供といい、ブティックでの「お似合いですよ」の誉め言葉といい、私たちは恩義に絡め取られて社会生活を送っていると言ってもよい部分があります。その意味では、私たちは常に、見えないコントロールを受けているとも言えるかもしれません。しかし、社会心理学の上ではこれらを「社会的影響力」と呼び、「マインド・コントロール」とは線引きして考えています。「マインド・コントロール」は、この「社会的影響力」を確信犯的に悪用したものなのです。

カルトは一般社会で用いられる社会的影響力を巧みに組み合わせ、大量に利用します。それは、その組織の意図に個人を従わせ、一方的に組織に利益を落とすためだけに仕組まれるものです。また、通常の社会規範でなら反社会的と見なされる、恐怖心を与えて一方的に従わせる方法も多く用いられます。

コントロールの度合いについては、どこからどこまでがカルトという明確な線引きがあるというよりも、連続性を持った量的なものと考えられるべきです。例えば、SF商法というのがあります。道端で試供品のような商品を配っている。それを受け取ると、近くの会場でもっといいものを渡しているから行くようにと指示される。行くと、最初はタッパー・ウェアー(プラスチック製の食品容器)のようなちょっとした日用品を早いもの勝ちで、無料でばらまいており、集まった人は我先にと手を挙げてそれを貰っている。そのうちフライパンになり、高級包丁になり、物の値段は釣り上がっていくのに、相変わらず無料の早い者勝ち。みんなが手を挙げ慣れたその頃、店員は隠し玉の羽根布団を取り出し、「これは、本当は100万円するのだけれど、今日は特別に60万円で販売します!」と告げる。本当は10万円もしない商品であっても、手を挙げ慣れた人々は、40万円も値引きされるなら買ってもいいような気分になる。また、それまでたくさんの商品をただでもらっていた恩義もあるので、それくらいのお金は支払ってもよいと思い、真っ先に手を挙げてしまう−。これがSF商法の典型例です。これは一時的に熱狂的な雰囲気に引きずり込むことで、相手のペースを自分の思うままに操ってしまう方法ですが、おそらく布団を家に持ち帰り、他の家族にその顛末を話す頃には、少なくない人が「何か変だ」と気付くでしょう。このような方法は当然、反社会的、非人道的であり、社会的制裁を加えられるべきものですが、この程度の操作では普通、カルトとは呼びません。なぜなら、体系だった信念を植え付けられるわけではなく、比較的短時間で効果が薄れてしまうからです。

もう少し度合いが強まると、本格的に恐怖心を煽って操作するタイプのものが出てきます。手相や足の裏を見て、「ほおっておくとガンで死ぬ」とか、「先祖の霊が祟っている」と告げ、恐怖心を植え付けた後に解決方法を示し、その教義に従わせる宗教カルトはこのタイプです。そこを入り口にして深くまでのめり込ませることもありますが、そこまで丹念に操作しないカルトの場合、ちょっとしたきっかけで恐怖心のカラクリが見えたり、支払う金額が多額すぎて見合わないなど状況の異変に気付くこともあります。そうなると宗教詐欺と認識され、返金請求が起こることもしばしばです。

いよいよ強い度合いのカルトのマインド・コントロールになると、それは丹念にメンバー一人一人を教化します。前者が平面的な操作なら、こちらは立体的、建築物のような綿密な信念を組み立てさせようとするのです。新入りメンバーの面倒を見る先輩信者をあてがい、一挙手一頭足を監視させ、メンバーのニーズを読み取っては心地のよい返答を与え、合宿や共同生活で連帯感を作り、絆を深め、生活全般をカルトに巻き込むようにさせます。教義の実行のために何をし、何を考えるべきかを生活の隅々に渡って染み込ませ、反射的に教義に沿った思考ができるよう、何度も学習させるのです。飴も鞭も両方与え、緊張と依存とに充ちた関係を作り出していきます。その集団が社会に対して特別の使命を負うと考え、自分たちは希有な人間であり、他の人に教理を伝えたり、社会を変える特権があると思い、他者に対して常に、その集団の人間であるというアイデンティティを強く持つようになります。このようにして、その人は半永久的に、そのカルトと信念から離れられなくなるのです。

このように、非社会的、非人道的と見なされるコントロールのケースにも強度の差と連続性が存在します。一般的にカルトの範囲に含まれるのは、後者2つのケースでしょう。一般社会で繰り広げられる社会的影響力の範囲は、良心的であればSF商法のレベルまでも行かないはずです。何よりも、嫌だ、おかしいと自覚したら、その場から逃れる自由度はカルトとは比べ物にならないほど高いのです。ですから、カルトの行うマインド・コントロールは、社会一般で用いられている社会的影響力とは明らかに線引きして考えられるべきものなのです。(2000.1.1)

<参考文献>
「マインド・コントロールとは何か」(西田 公昭著/紀伊国屋書店/1995)
「影響力の武器」(ロバート・B・チャルディーニ著/誠信書房/1991)