『マリー・アントワネット』(2007)



オシャレとオカシが大好きで空っぽなアタシ




ソフィア・コッポラは中世フランスのヴァルサイユ宮殿をテーマパーク化する。歴史の再現にはさほど興味を示さず、お姫様を夢見る女の子の願望の反映として歴史的建造物をパステル・カラーで彩る。観客を歴史に立ち会わせるのではなく、お姫様の世界へ招待しているのである。もはやマリー・アントワネットは歴史的人物ではなく、現代っ子にしかみえない。それでいい。ソフィア・コッポラは云うだろう。なぜならこの映画はマリー・アントワネットという記号を使って現代っ子の内面を批評した作品なのだから。だからクラシックだけでなく、現代のインディ・ロックも鳴るのである。コスチューム・プレイは歴史の講義を受けているような堅苦しさを身にまといがちだが、マリー・アントワネットの現代っ子化計画によって堅苦しさを脱ぎ捨て、コスチューム・プレイに新鮮な切り口を提示することに成功している。

 オーストラリア女マリー・アントワネット(キルステン・ダンスト)はフランスの王室に嫁ぐ。しかし童貞臭くて意気地なしの王子はいっこうにヤッてくれない。「女性は生む機械」的な価値観に支配された社会で、子どもを生産できないコンプレックスをマリー・アントワネットは消費で解消する。オシャレを愉しみ、お菓子を食べ、インテリアを揃える。毎夜開く夜会は消費の祭典だ。どうにか子どもを生産できたあとも、非生産的な享楽は続く。とりたててやることがないマリー・アントワネットは消費することが生活のすべてなのだ。マリー・アントワネットの精神構造は大量消費社会に生産された現代人の映し鏡である。いいモノを着て、いいモノを食べて、いいモノに囲まれて生活したい。僕たちは人生を愉しむことと消費を等式で結んでしまっている。生きるために消費しているのではない。消費するために生きている。だからマリー・アントワネットは上っ面だけで、中身がない。漫画『ヴェルサイユのばら』でマリー・アントワネットを知った人にとっては、ソフィア・コッポラが提示したマリー・アントワネットの恐るべき内面の貧しさに驚くだろう。空っぽな内面を誤魔化すかのように上っ面を飾り立て、空っぽな内面に気づく余裕を打ち消すように毎日をイベントで埋め尽くす。

 お姫様世界の裏側には飢えに苦しんでいる民衆がいる。貧困に苦しむ民衆の実態は伝聞で知らされるだけで、画面には映らない。マリー・アントワネットがみようとしないからだ。民衆を苦しめる貧困はマリー・アントワネットにとって人生の唯一の意義である消費を否定する。だからみようとしない。

貧困に耐えかねた民衆が反旗をひるがしたとき、マリー・アントワネットは民衆を目にする。消費は否定される。消費の帝国は崩壊する。お姫様世界は終わる。ヴェルサイユ宮殿の追われたマリー・アントワネットははじめて自然な笑顔を浮かべる。僕にはそれが虚しい消費社会から脱却できた安堵の顔のようにみえた。



製作国:アメリカ/原題:MARIE ANTOINETTE/監督 ・製作・脚本ソフィア・コッポラ/撮影:ランス・アコード/プロダクションデザイン:K・K・バレット/衣装デザイン:ミレーナ・カノネロ/編集:サラ・フラック/音楽プロデューサー・音楽監修ブライアン・レイツェル/出演:キルステン・ダンスト、ジェイソン・シュワルツマン/上映時間:123分/日本公開日:2007.01.20






映画以下:市川春信

掲載:2007年3月


mail ≫ rbdps052@yahoo.co.jp