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2012.1.25 更新 ご挨拶116 西から東への旅人のへそまがり日誌
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The History of Freemasonry (フリーメイソンの歴史) |
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![]() 未来の若者に送るメッセージ ニューヨークを舞台にした短編三部作 |
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団塊世代の定年退職も間近です。
ちょっと早目のリタイアメント、セカンドライフの人生設計、豊かに暮らす海外生活は夢ではありません。
ちょっとの勇気だけで実現するのです。まずはロングスティから……。
海外生活の心構えや英語習得術、格安海外生活術を紹介する“ロビンソン・クルーソー的生活術”をはじめ、理想郷、終の棲家、理想的なリタイアメント・ビレッジを考えていく“ひとりぼっちのエルダーズ・ヴィレッジ”、南の島での田舎暮らしやスローライフの中で思い浮かんだことを気ままに書き綴った“Gのつぶやき”などを紹介しております。
団塊世代の定年退職後のライフスタイルを、ともに語り合いませんか?
ご挨拶116
一昨日は、旧暦の元旦でした。
遅ればせながら、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
年の瀬にピットイン。オロンガポからヴィクトリー・ライナーの高速バスでマニラのパサイまで、3時間半もあれば十分なところが、なぜか4時間半も掛かり、あげくにバス・ターミナルから空港までのタクシーを待つわずかな時間に、日本専用の携帯をすられてしまいました。
3年前、空港からバス・ターミナルへ向かうタクシーに、3ヶ月分の薬が入ったカートを持ち逃げされて以来の不快な出来事に、マニラを経由しないで成田へ行く方法がないことを恨めしく思ってしまいました。
フィリピンに移り住んで8年目。この間に、カメラが1回、携帯が2回にカートの盗難を経験したことになります。
命があっただけ儲けもんと、知人に慰められるたびに、フィリピンの治安の悪さに辟易してしまいます。
しかし、日本でイタリア旅行から帰った知人から、イタリアの治安の悪さもフィリピンと同じというの話を聞き、どこにいても被害にあえば、その国を罵りたくなるものなのかもしれないと思った次第です。
日本国内でも、老人対象の振り込め詐欺や、路上でのひったくり事件、若者によるオヤジ狩りなど、死者が出ないと新聞記事やテレビのニュースで取り上げられないだけで、事件は連日全国各地で多発しているとか。物騒な話です。
成田到着時の気温が2度。東京、横浜に滞在中は、連日最高気温が6〜8度。最低気温も1度〜4度と低く、南国暮らしの漂流者には耐えられない寒さに、通院以外の日は部屋に閉じこもり、テレビばかり見て過ごしていました。
十分な防寒具を持たず、所持金にも限りのある私には、冬場のピット・インは最低最悪です。
クリスマスや正月前の物価高騰も頭の痛い問題で、なんとも侘しい日本滞在でした。
連日見続けていたテレビは、どのチャンネルも吉本興業所属の若いお笑いタレントに席巻されており、彼や彼女たちの話す“芸人”という言葉に、一人テレビに向かって“芸人なら芸の一つでもしてみろ!”と悪態をついておりました。
その繰り返しに我ながらうんざりしていた時、あることが頭をよぎり、その後意識的に頻繁にチャンネルを切り替え、全テレビ局の番組を注意深く観察していました。
対象番組は、定時のニュースに朝と午後のワイドショー、そして夕方のニュ−ス・ショーに夜のゴールデン・タイムの番組。さらに深夜の時間帯の番組など、それらの構成内容や出演者、出演者たちの発言などを比較することを試みました。
結果は、各局の独自性などどこにも感じられないどころか、あまりの類似性に驚いてしまいました。
あたかも誰か限られた人たちの手で、メディアがコントロールされているかのような印象を強く感じたのです。
ビルマ生まれのイギリス人作家の小説“1984”に描かれている内容に、現在の日本の状況がオーバーラップしてしまいました。
年明け早々、オウム事件の特別手配犯が自首したというニュースが報じられましたが、私はその一連のニュースを見ながら、日本中の繁華街や駅、公共施設や各道路、街の商店街から公園に至るまで張り巡らされている監視カメラによる管理システムの完備状況に驚嘆してしまいました。
先のメディア・コントロールの危惧を更に印象深いものにしたのは、逮捕の臨時ニュースから24時間後には、その管理システムをもとに明らかになった手配犯の足取りが、警察から各報道機関に速やかに情報提供されたという事実。
1970年初期から、刑事警察から公安警察に様変わりしてきた警察機構が、40年以上も経つとここまで完璧な市民の監視・管理システムを構築出来るのだと感心してしまいました。
“1984”が映画化され上映されたのは1983年頃ではなかったと思うのですが、当時はあくまでもSFの話でしかなかった世界が、映画を観てから29年後には現実のものになってしまったのですから怖いものです。
芸のない芸人たちの馬鹿騒ぎに右往左往し、子供たちの多くが将来は芸人になりたいという時代に、お子様政治家たちも政府もメディアも、さらには世にいう賢人や識者までもが、大衆迎合民主主義を目指して一心不乱に邁進し続けている姿に、南の島の漂流者ロビンソン・クルーソーは失望し、携帯も盗難に遭い、それによって唯一の日本の知人たちとの連絡の術であった電話帳を失い、寒さだけが身にしみた日本滞在でした。(2012.1.25)ご挨拶115
南の島暮らしも、気付けばもう7年半ほどになります。
HPを開設した当時は、初めて遭遇する未知なる体験に日々わくわくしていたのですが、時間の経過は、目にするもの、耳にするもの、感じるものすべてを日常化し、非日常を求めていた好奇心もすっかり色あせてしまいました。
いや、私自身の感受性が鈍化してしまったという方が正確かもしれません。
自分自身では、十分に旺盛な好奇心をもって生活していたつもりですが、残念ながら徐々に怠惰になっていき、その日暮らしの生活に埋没してしまっていたようです。
“逆流経済難民”との自負も、南の島での難民暮らしの心地良さにどっぷりと頭の先まで浸かりきり、忘却の彼方という始末。
かといって反省している訳でもなく、難民生活を選択した自分自身を褒め称えているのが、現在の心境になります。
このような時間による変化にともない、私の感受性の指向性や興味関心の方向性は、南の島の社会環境やフィリピン人の生活環境や経済環境などから、自分自身の基本的な問題に移行してきました。
健康を維持し少しでも長生きしたいという願望が日々強くなり、現在の生活環境が確立された訳です。
ちなみにここ3年間の1日の生活スタイルを紹介してみます。
午前4時起床。血圧の計測、前夜の残りご飯でジャスミン茶粥を作り朝食。
午前5時半から1時間45分かけて10キロのウォーキング。土曜日はお休み。
午前8時から1時間かけて1キロのスイミング。土曜日はお休み。
9時半から30分間で当日炊飯する安米のゴミ除去と米虫退治。
午前10時から昼食の準備。メニューは、月水金がサンドイッチと野菜スープとグラスワイン1杯。(スイス人パン職人推奨のドイツ風ライ麦パンが入手出来るようになってからの習慣)
午前11時昼食。
午後12時から2時間のシェスタ。
午後3時半から午後6時まで、近所のアメリカ人退役軍人が経営するショット・バーで、知人たちとの歓談や数ゲームのビリヤードを楽しむ。火曜、金曜、日曜日は、平均午後9時頃まで、数軒のバーをホッピング。
午後6時半夕食。火曜、金曜、日曜は、午後9時過ぎの夕食。
午後8時就寝。火曜、金曜、日曜は、午後10時過ぎの就寝。
食料などの買出しは、毎週日曜日の早朝にウォーキングを兼ねて、徒歩でマーケットに行く習慣になっています。
この数年間、ピットインの時期を除き、ほぼこのようなスケジュールを繰り返し、シンプル・ライフそのものを楽しんでいます。
私の娯楽は、目下、各国から移り住んできた知人たちとの歓談です。私の住む町は、外国人の旅行者や生活者が多く、フィリピン人との関わりが必要最小限ですむ町になります。
言葉は悪いのですが、以前の外国人居留地区というか、租界(コンセッション)といった風合いが強い町でもあります。
このためか、私は7年半住んでいるにもかかわらずタガログ語が全く分かりませんし、話す必要もなく済んでいます。
英語が主要言語の国際村といったところです。旅行者、居住者、それぞれの経済状況にあわせたピンからキリまでの生活が可能な場所で、私の行きつけのバーは、いわば私を含めた各レベル、各国からの人たち共有の居間、リビングサロンとして機能しています。
ですから、日本やマニラなどのバーとは全く違う雰囲気、環境にあるのです。
若者や旅行者などで女性を求める人たちは、ゴーゴー・バーやクラブに行き、客層が混ざり合う事もありません。
経済状態、興味、趣味それぞれに合わせて、楽しめる場所が多く存在している不思議な町といえるかもしれません。
時間も、それぞれの客の持つ固有の時計が主体で、1970年代もあれば、朝鮮戦争、第二次世界大戦当時のままの時計を持つ人もいるといった具合です。
お陰で私はボーイ(少年)扱いされ、老人を気取るには10年早いと言われています。(2011.11.23)ご挨拶114
主な生活費の内約をご紹介します。
項目 金額(ペソ) 備考 家賃 9,000 2011年よりP500値上がり 電気 1,392 単価平均1Kw/P6.96 月200Kw計算 ガス 700 価格が頻繁に変動。12キロボンベで約2ヶ月間使用 電話 600 1ヶ月 ケーブルテレビ 682 1ヶ月 インターネットカード 100 1ヶ月 携帯電話カード 300 1ヶ月 交通費 100 1ヶ月 ビザ代 2,194 3ヶ月 P6,580÷3ヶ月 ACR−I カード代 223 1年有効 P2,674÷12ヶ月 食費 2,000 1ヶ月 娯楽費(飲み代) 5,000 1ヶ月 計 22,291 1ヶ月 ※ 米 1キロ 37ペソ
※ 飲料水 6リットル 15ペソ
※ フレツシュ・ミルク 1リツター 80ペソ
※ 季節によりアボカド 1キロ 25〜70ペソ
※ 果物は多種あり、一年を通してバナナやパイナップルがある。バナナで1キロ25〜50ペソ、パイナップルは皮を剥いた物で30〜80ペソ
(2011.11.23)ご挨拶113
14ヶ月ぶりの更新になります。
大変長い間ご無沙汰をいたしておりました。お許し下さい。
更新を休みがちになり、気が付けば数年間もHPを放置してしまいました。
先日ぼんさんという方からゲストブックに初めてコメントを頂き、6年前からたまに当HPを覗いて下さっていたとの話に、大変感謝する以上に、ただひたすら恐縮してしまいました。
お休みしていた(怠けていた)間は、毎朝4時に起床して5時から2時間、約10キロのウォーキングをし、8時から約1キロのスイミングといった生活を、雨天の日を除き毎日続けておりました。
運動の効果なのか、私の体は小康状態を維持しており、相変わらずの貧乏生活を謳歌しています。
ぼんさんからご質問があった、世情、治安状況、物価、余暇、暮らし振りなどについて、私の知るオロンガポ市バリオ・バレット地区近辺の状況についてお知らせいたします。
前アロヨ政権時代には、この近辺でもフィリピン新共産勢力の襲撃などの話もよく耳にしましたが、アキノ政権に移行した現在では、ほとんど耳にしなくなりました。
もちろんミンダナオでは、アブサヤフやモロ解放戦線などのイスラム・ゲリラ活動が今もなお活発で、政府軍や国家警察軍(PNP)との戦闘が報じられています。
現在は、アメリカ軍も参加したゲリラ掃討作戦が進行中という話も聞きます。
しかしこの辺りでは、私が住み始めた8年前に比べ、大幅に治安が良くなってきたように感じます。
完全武装のPNPによる道路封鎖や検問は、今では交通違反の取締りと変化し、戦闘服を着た警官を見る機会も少なくなりました。
旧米海軍スービック基地があった土地柄か、治安はマニラや他の地方都市よりも安定しているのでしょう。
そのせいか私の周辺は、外国人旅行者の出入りが頻繁で、米退役軍人をはじめ世界各国からの移住者も多数住んでいます。
物価については、年々インフレが加速し、高騰してきていることを否めません。
特筆すべきは、フィリピンの電気事情です。
借家や購入した住宅、私のようなアパート暮らしなど、それぞれの状況によって電気料金が違うという、日本では考えられないような事も当たり前になっています。
借家に住む外国人が、電気料金のあまりの高さに驚いて調べてみたところ、大家さんの策略で隣近所数十軒分の電気料金を払わされていたというような、信じられない話も聞いたことがあります。
またフィリピンでは、電力会社と契約している家が、契約していない家に独自の価格で電気を売る“売電”も行われています。
私の暮らすアパートでも、直接の契約者はアパートの持ち主で、各部屋についた電気メーターをチェックし、その使用量に独自の単価を掛けた料金が請求されます。
このように、自ら電力会社と直接契約した場合を除き、電気料金の請求書の詳細は不明な点が多いと言えそうです。
まあ、日本と比較するとまだましかもしれませんが、この国の物価からすると電気料金が法外に高いことは間違いありません。
その他諸々、思いついたものの値段を以下に書いておきます。
交通費については、ジプニー代が8年前に比べ2倍以上になり、マニラとオロンガポを結ぶ高速バス料金も1.4倍ほど値上がりしています。
米は、現在安いもので1キロ30ペソ程度。8年前は20ペソ以下でしたが、その後一時的に1キロ40ペソを越えるほど高騰したこともあります。
ちなみに私が購入しているロング・グレインは、現在1キロ37ペソです。
野菜や魚などは、天候次第で価格が突然2倍ほど跳ね上がったり、考えられないほど安くなったりと、ジェットコースター並みの変動が日常的に起こります。
マグロ1キロが150ペソで買える時もあれば、300ペソの時もあるといった具合です。
このように価格は不安定ですが、日本での食費と比較すると、10分の1から5分の1程度で済むのではないでしょうか。(どんな食生活を送るかによって異なります)
私の1ヶ月の家賃は、8年前に入居した当時は8千ペソでしたが、現在は9千ペソで、電気、電話、ケーブルTV 代などは別払いになり、水道代のみが家賃込みです。
古い長期滞在者用アパートで、私の近所の住人は、アメリカの退役軍人が多数を占めています。
オロンガポ市に住む外国人のうち、最大の人口を占めているのは韓国人で、5千人以上とか。
ハンジンという韓国の造船所があるほか、語学留学している韓国の若者も多いと聞きます。
SBMA (旧海軍基地)の特別区の中には、韓国のレストランや食料品店、飲み屋さんなどが多数あります。
以前は、見知らぬフィリピン人から、“オハヨ〜!コンニチワ!”と声をかけられたものですが、いつの間にか“アニオハセヨ!”と挨拶される方が多くなったような気がします。
東南アジア各地での韓国の影響力は、凄まじいものですね。
ではこの辺で、続きは次回ということにさせて頂きます。(2011.10.22)ご挨拶112
今から7ヶ月前になります。
寒波に見舞われた東京で、午前4時に起床。その時の気温は1度でした。
5時11分始発の電車で成田に向かい、9時半のフライトでマニラ着は現地時間の午後1時。
それからバスに乗り換え、我が家に辿り着いたのは午後7時過ぎ。
東京での滞在先を出て14時間が経過していました。優にニューヨークに行けるほどの長旅。
ほとほと疲れ、午後9時過ぎにはテレビを消すのも忘れて寝込んでしまいました。
目覚めたのは翌朝の午前9時。ノックする音に寝ぼけ眼でドアを開けると、人影は見当たらず、外のテーブルの上に新聞の山があるではありませんか。
昨夜は全く気が付かなかったのですが、私のピットイン中にオランダ人のゲイリーが毎日届けてくれていたのです。
慌てて外に出て彼の姿を探したところ、すでに彼は階下の通路を歩いていましたが、私がその姿を見出した時、偶然にも彼はふと立ち止まって私の部屋を見上げたのでした。
二人の目があった瞬間、彼は大きく両手を振り挙げ、私を指差しながら“そこに行く”というゼスチュアーをし、階段を駆け登って来ました。
そして開口一番、“お前がまだ戻ってなかったら、今日PNPに捜索依頼をするつもりだった!”とジョークを飛ばし、“welcome back”とハグしてくれました。
“次は、11月12日に戻って来るから”と、彼がバンコク経由で帰国したのが4月の末。
あれから私も、すでに2回のピットインをしたことになります。
一週間前、灼熱の日本から戻って来たのですが、マニラ空港到着時の気温が28度。
過去6年間フィリピンでも体験したことの無い異常な暑さを日本滞在中に連日体験してきた身には、何と快適で爽やかに感じたことか。
例年なら激しい雨が連日降り続け、台風と合いまって極めて不快な雨期のはずですが、世界的異常気象は、ここフィリピンでも起きているようです。
今回私を出迎えてくれたのは、ゲーリーならぬ生まれたばかりの赤ちゃん雀を連れた雀の親子でした。
“あんたが留守の間、子供の餌を探すのが大変だったんだから、早く美味しいお米を下さいな!”とでも言いたそうな素振りで羽をばたつかせている雀たち。
いつも通りの風景に改めてささやかな幸せを感じ、約8ヶ月間も更新していなかった“ご挨拶”を書いてしまいました。
この間、幾度となく更新を試みた書きかけの原稿も残っていたので、愉快な彷徨えるオランダ人ゲイリーの話と合わせて、今年の旧正月に思い出した学生時代の論文の話を、何の脈絡も無いままに紹介する事にします。
“まだくたばっていなかった”という生存証明を兼ねた近況報告です。
(以下より、2月中旬に書いたものです)
先月中旬に中国の旧正月も終わってしまい、今年もまた、元旦の朝に食べる湯円(胡麻の黒餡を白玉粉で包んだ団子を白湯に浮かべたもの。明朝の頃から北京の都で元旦の朝に食べる日本のお雑煮のような伝統的正月料理)を食べる機会もないままに、新年を南の島で迎えてしまいました。
神戸や横浜の中華街で育った無国籍的人間ともいえる私は、日本のお節料理に対する懐かしさよりも、大晦日の竈祭りや元旦に飲む白鶏湯、そして一日中鳴り止まない爆竹の音に郷愁を覚えてしまいます。
最近、何故かことある度に、学士論文のテーマだった中国の辛亥革命前の廃満復明運動について思い起こしています。
論文の表題は“辛亥革命と報館活動”というものでした。
今から思えば稚拙な内容で、身が縮み上がるほどにお粗末なものでした。
世界各地の清国留学生たちが、革命思想を中国内に伝播することを目的に、世界各地で華僑組織の支援を受けて、活発に言論出版活動を行ったという事実に強い興味を抱き、研究の対象にしました。
私の学生生活は全共闘真っ盛りの時代で、各大学の門前や学部の前にはアジ看板が立ち並び、各セクトごとに大量のアジビラが撒かれていたものです。
そのアジビラと、清国留学生たちが世界各地で出版し中国国内に非合法に持ち込んでいた新聞報を比較し、革命運動と新聞報館活動の関わりについて評価分析を試みるというものでした。
更にその上で、当時東大法学部の新聞研究所の所長だった千葉教授の、“フランス革命時のジャーナリズム活動が世界最初の思想宣伝のための新聞報道活動だった”という説に疑問を呈し、反論を試みるというとんでもない目論見を抱いていたのです。
何故ならば、辛亥革命前の報館活動には、源流とも言える“南都掲覧報事件”があったからです。
それは、明朝中期に南都(南京)の市民が壁新聞を非合法に市中に貼り巡らし、官吏の不正を糾弾した事件で、明朝末の歴史書にその記録が存在しています。
日本でも江戸末期の黒船来航時に、“上き撰、たった四杯で夜も眠れず”と、黒船への対応に苦慮する江戸幕府の重臣たちをあざ笑った詠み人知らずの狂歌が江戸市中に貼られたという事がありましたが、これもまた言論統制の社会での市民たちの言論活動ではなかったのではないでしょうか。
日本の学生たちのビラも紅衛兵の壁新聞も、公的機関ではない活動家たちの歴史的に検証された言論活動の一環だったのではないのかという素朴な思いから、東大新聞研の千葉所長の世界的に注目されていた新説に対しオブジェクションを持つに至り、彼の説に反論を試みてしまったのです。
しかし当時は、中国について物申せば“危険分子、赤”のレッテルを貼られ、就職活動に差し障りが生ずるという社会でした。
身の程も考えず軽はずみに、中国の紅衛兵の壁新聞や日本の全共闘のプロパガンダ戦術をテーマに、学界の大御所の論文に楯突くなど暴挙そのもの。
膨大な資料収集の努力賞という評価でかろうじて卒業させてもらったものの、論文としては不十分との一言が付されて一件落着。
なぜ今頃になって、このような出来事を思い起こしてしまったのか定かではありません。
明治維新以来、現在もなお続いている日本の戦争との関わりを考えた時、過去の賢者や言論人たちが座右の銘とし、自らの戒めにしたという“ペンは剣よりも強し”の言葉があります。
しかし残念なことに、いつの時代にも社会の動向は、賢者の声を上回る世論の声という実態のない幻影に怯え、振り回されているように思います。
実態のない虚像を現出させ続ける元凶のジャーナリストたちは、自分たちの行動の帰結だという意識も危惧もないままに、安易に大衆に迎合し、事実の報道という美名に酔いしれて、イリュージョンを生み続けているのではないのでしょうか。
マスメディアは虚像を真実と錯誤し、妄信し、無責任な烏合の衆を糾合し、これこそが国民の声だと嘯きつつ無意識に大衆を操作し、世論を形成し、次なる大事件や大騒動を起こすことを目的に、日々凌ぎを削っているのかもしれません。
今、日本国内は、民主党の代表選のニュース一辺倒。
この状況に麻痺し、無関心になってしまっている恐ろしさを、私自身、熱帯夜の夢の中で再確認する必要がありそうです。
日常化した耳鳴りの奥底では、聞こえるはずもない“さよなら5分前の靴音”が、もうすでに、何年、いや何十年も前から響き渡っているのかも……。(2010.8.27)ご挨拶111
やっとPCが目覚めたばかりだというのに、今年一回目のピットインの時期が迫り、寒い日本への旅に少々腰が引けています。
かといってピットインを辞退するほどの勇気もなく、防寒対策を充分にしなければと考えている今日この頃です。
先日、街の公設市場近くの古着屋で、暖かそうなトレーナーを見つけ、10ペソ(約20円)で購入しました。
汚れや破損箇所もなく、とても良い状態の買い物に満足しております。
この買い物のお陰か、日本への一時帰国の重苦しさも随分と軽くなり、安上がりな自分自身に呆れてしまいました。
買い物といえば、確か昨年の5月頃、大雨の日に本皮のベトコンサンダルを700ペソで購入したのですが、その時以来のいい買い物だといえるかもしれません。
サンダルはしっくりと足に馴染み、今では本皮の風合いも光沢も増し、言い知れぬほど愛着を感じています。
今回のトレーナーも、その行く末を考えると、これまた、私の数少ない財産目録に入るかもしれません。
南の島暮らしを始めた直後の6年前、自分自身の命のコストを考えたことがありました。
現在の生活に入る前の57年間は、今から思い返すのも恐ろしいほどの浪費三昧の生活でした。
季節が変わるたびに衣類を買い替え、必要性や使用頻度など考えもせずに、いわば衝動買いを繰り返していました。
一度として、生命を維持管理する上での絶対的な必要額は? などということを考えたこともありませんでした。
それこそ、雨にも負けず、風にも負けず、どこそこに評判の店があると聞けば出向いて散財し、どこのブランドが流行していると聞けば、足を運んで買い揃えるといったことの繰り返し。
身だしなみを整えるのは、良い子マークを背負う社会のマナーだと信じ込んでいた日々でした。
社会常識などに踊らされて、不必要な消費を無言の重圧で迫られる恐怖に襲われ、社会的現役を装い続けていたあの頃。
社会の眼を過度に意識せずにはいられなかったのかもしれません。
個人的嗜好で浪費するのは社会道徳的に戒められる反面、マスコミが作り出す消費促進の幻影への妄信は社会的に容認されるという不可思議な世界での生活は、今から振り返ると悪夢のようなものでした。
浪費が社会貢献でもあるかのような社会常識が大手を振って歩き回る世界は、まさに資本主義を礼賛する錯誤した民主主義の社会かもしれません。
国家が生み出す幻影を妄信しなければ、安心して生きていけないのですから。
理想の社会像として、“強いものは下に、弱いものは上に、そして子供は天辺に”という考えがあります。
しかし現実には、“弱いものは下に、強いものは上に、そして資力や権力を持つものだけが天辺に”という強固な社会構造がウルやシュメールの文明以来続いており、これが未来永劫まで変わることのない必然なのかもしれません。
人は、この不自然な社会構造の体制を維持するための労働力、働き蟻でしかなく、体を摩滅するまで酷使していかなければならないという宿命を背負って生まれて来る、そんな錯覚に襲われてしまいました。
私は、死ぬまで生き延びるために必要な生理的、物理的絶対支出を算出して以来、これといった定期的収入もないままに、不便を感じることもなく、能天気に南の島暮らしを続けています。
短パンとTシャツ数枚、ゴムサンダルとベトコンサンダル、それにスニーカーがあれば、一年中用が足りてしまう暮らし向き。
目が覚めたらひたすら歩き、ひたすら泳ぎ、ひたすら食い、寝るというだけの生活ですが、充実した日々です。
先日、2歳年上のオランダ人から、“お前は今、お前の人生において、精神的にも肉体的にも最良の状態にあるだろう”と言われ、4時間もかかる遠泳の誘いを受けてしまいました。
以来、彼からハンディキャップを克服する泳ぎ方の指導を受け、夢だけは大きくと思って私も努力しております。
ピットインでこの練習を中断させるのが、現在最大の悩みかもしれません。
老人の冷や水かもしれませんが、彼の誘いのお陰か、清々しい日々を過ごしています。
ピットイン前の近況報告でした。(2010.1.30)ご挨拶110
昨年の9月20日以来、長い間休眠しておりましたが、目覚めてみるともうすでに2010年。
改めて、時の経つのは早いものだと驚いてしまいました。
さて、年末に鳩山内閣成立後100日を越えましたが、皆様は、“100間の紳士協定”という言葉をお耳になさったことがありますか?
この言葉は、英国議会の中で、不文律として守り継がれている一種の伝統だそうです。
総選挙で新任された新政権に対し、野党議員及び社会的オピニオン・リーダー、利害を対立させる人たちなどが、新内閣組閣後100日の間は、新内閣に対して反論や誹謗中傷を控え、モラトリアム期間として新政権を温かく見守っていこうという英国議会の古くからの慣習だと、1977年当時に聞いたことがあります。
民主党が大勝し、戦後初めて政権が交代したという歴史的な出来事が起こった日本国内では、選挙に破れた旧政権与党だった人々が、不慣れな野党議員として、新しいステージでの身の振り方を模索し悪戦苦闘した100日間だったようです。
私たちの国には、新政権がどんな政治を行おうとしているのか、どう国を運営していくのかを国民が見定める100日の間、世論にノイズを発して判断を誤らせないように配慮する英国のような“紳士協定”は、一切存在していないようです。
私には野党が、何が何でも与党の一挙手一投足の揚げ足取りに専念しているかのようにしか思えませんでした。
世論に応えることこそが国民の意を受けた野党議員の責務だと言わんばかりの言動には、品性や品格など微塵も感じられず、誹謗中傷とも思える内容の発言をメディアに向かって流し続けている野党の姿にいささか失望してしまいました。
鳩山新首相の就任演説に対して、“ビジョン不在の少女マンガ的情調に流された、全く論ずるに値しない内容だった”とか、“甘い言葉だけで実体がない”といった評価しか下せなかった野党議員たち。
議場で喝采を送り、スタンディング・オベーションする与党の若手議員たちの姿に、“ヒットラーの演説に狂喜したヒットラー・ユーゲントと瓜二つだ”と語った谷垣自民党総裁。
先日の藤井財務大臣の健康上の辞任に対しても、“予算案作成の中心的存在だったのだから、新国会でその責任を厳しく追及していかなければならない”と語った大島幹事長の態度にも、大きな違和感がありました。
大統領の演説に与野党議員がスタンディング・オベーションしているシーンは、アメリカ議会においてもよく見られることですが、同じようなことが日本の国会で起こると、どういう訳かヒットラー・ユーゲントに喩えられてしまう異様さ。
また、健康上の辞任という事態には、野党議員でさえ早い回復を祈る旨の発言をするのが極めて自然な欧米各国の議員たちの姿に対し、対立する立場の人物には、死人こそ責めないものの、生きている間は決して許さないというような日本の野党政治家の姿。
このような日本独特の政治風土は、政権交代が実現して初めて見えてきたことであり、これぞ正に日本型民主主義の姿なのかもしれません。
私の寝ぼけ眼は、今や驚きのびっくり眼になってしまっています。(2010.1.8)ご挨拶109
もうすぐ10月1日、中国の国慶節です。
来年で辛亥革命から100年になりますが、その間の中国では、孫文、袁世凱、軍閥時代を経て、国民党と共産党の国共内戦、日中戦争、国共合作、第二次世界大戦、共産党と国民党の戦いによって蒋介石が大陸から台湾へ逃れるなど、様々な争いがありました。
そして世界はデタントの暗雲に覆われ、米ソの軍拡競争の時代が始まり、ソ連は鉄のカーテン、中国は竹のカーテンで門戸を閉ざしてしまいました。
ヴェトナムでは、フランスがホーチミン率いるベトミンに破れ、長いフランスのアジア植民地支配が終わり、新たにアメリカがヴェトナムの共産化を恐れて介入。
ケネディ大統領による軍事顧問団派遣に始まり、やがてヴェトナム戦争へとエスカレートしていきました。
1960年代後半には、ドミノ理論なる摩訶不思議な論理を展開して、カンボジアやラオスへと触手を延ばし、1975年春まで意味の無い戦争が続いてしまいました。
1980年代前半のソビエトのアフガン軍事侵攻に対し、アメリカはアルカイダやビンラディンを擁して、ソビエトの横暴を許さないとゲリラ戦で対抗。
しかし21世紀になるやいなや、今度は超大国の独善に怒りを覚えた彼らが、突然アメリカの中枢で遊撃線を展開したことに端を発して、アメリカは“テロとの戦いは、人類にとっての聖戦、世界の自由と民主主義を守る現代の十字軍”という鉄の鎧で身を固め、地下に眠る資源の争奪戦を始めてしまいました。
中国は宝庫西域支配を試み、チベットを国土に併合してしまい、アメリカやNATO諸国は、国連軍の平和維持活動を大義名分にして、アフガン、イラク、ソマリアと、懲りもせずに次から次へと手を代え品を代え、軍産学共同で介入支配の正統性の論理を展開し、資源強奪を画策し続けています。
弱小国の持つ富(現在では地下資源)をめぐる争いは、ウル、シュメールの時代から現在に至るまで、全く同じ構造と言えるでしょう。
政府の宣撫工作機関である世界のマスメディアは諸手を挙げて、報道という名で、無批判の翼賛活動を展開しているのですからたまりません。
情報過多の環境に身を曝し続けた結果、情報欠乏症に陥ってしまい、いつの間にか完璧に洗脳されていることすらも信じようとしない偏狭な善き民の証である花丸を求めて、私たちは日夜頑張っているのかもしれません。
それは、支那事変、満州国建設、日中戦争、太平洋戦争へと暴走した時代と何ら変わらないのではないでしょうか。
いや、現代のマスメディア社会で生きる私たちの方が、以前以上に完璧なモペット状態となってしまっているのかもしれません。
思考し個人の意見を持つことが極めて危険な現代、絶えず現代用語辞典や年々意味が微妙に変化する国語辞典、四字熟語を意識し、メディアに登場する政府・社会の公認マークを付けた人々の言動に注意を払い、オウム返しに持論として話すことが、現代社会を生きる市民にとっての安全保障になるのかもしれません。
これらのことから見えて来るのは、いつの時代でも、戦争の惨禍の被害者は、一般市民と兵士だけという単純明快な事実です。
市民の幸福のためという迂遠な詭弁で正当化されて来た強者の論理に、諸手を挙げて賛意を示し続けて来たのもまた市民だったのですから、ここらで市民の存在を強者に、為政者に知らしめることが大切なのではないでしょうか。
現代に神通力を発揮し続ける“自由”や“民主主義”という言葉は、中江兆民がルソーの民約論を邦訳する際これらの言葉に対応した言葉も、概念さえも存在していなかったため、思案にくれた末に創作した言葉だそうです。
それが中国へと伝えられ、毛沢東は新民主主義論として人民軍の思想教育に用いました。
ちなみにこの論文の中で、毛沢東は遊撃戦(ゲリラ戦)の展開こそが、人民解放軍の戦略と戦術の根幹だと語っています。
力なく巨人に抵抗する唯一有効な手段になるという彼の考えも、時代の変化の中で、ならず者の戯言になってしまったようです。
日常的に言葉や文字を使っている私たちは、いつの間にか、これらの便利なものにあまりに慣れ過ぎてしまい、空気や水と同じようにあって当たり前という気になってしまっているようです。
言葉や文字は、送り手の都合や意図でどうにでもなるものです。
しかし受け手である私たちは、送り手の意図を探ることもせず、単にその言葉を知覚しただけで、理解した、分かったと容易に錯誤してしまっているのかもしれません。
国際関係、戦争、安全保障、福祉社会、民主主義などなど、職業政治家の話す膨大な言葉がメディアによって一方的に流され、私たちはそれを無条件にオウム返ししているだけなのに、それをすっかり自分の意見や考え、果ては思想とまで思い込んでしまっているのかもしれません。
私は、言葉や文字をコンビニ的利便記号と簡単に理解・認識して何一つ不都合が無いという、考えれば恐ろしい環境にどっぷりと浸っているような妄想に襲われてしまいます。
2009年に至って、ビルマ生まれのイギリス人作家の“1984”という小説の世界に生きているような気がしてしまいました。
HPという極めてプライベートなメディアだからこそ出来る、南の島のロビンソン・クルーソーの独り言でした。(2009.9.20)ご挨拶108
今日は、歳若い友の文章に触発されて、誰とはなしに手紙を書くことにしました。
“未知なる友”へ
衆議院選挙が終わり、日本国内ではマスメディアが送り出す多くの情報によって、期待と不安が入り混じり、上を下への大騒ぎになっているとか。
期待が裏切られるのではないかといった極度な猜疑心が生まれた有権者もいれば、日本は友愛政治で経済が破綻し、友愛外交で日本は破滅するなどという意見もあるようです。
また、若干28歳の女性候補に敗れた老齢の古典的職業政治家が、“何が出来るもんか、やらしてみりゃすぐに馬脚を露すよ”と、捨て台詞を吐いてみたり、街頭インタビューで外務大臣や防衛大臣の答弁さながらの発言をするビジネスマンがいたり。
明治以来続けられてきた官僚主導の政治に国民(市民)自らが終止符を打ち、憲法の言葉通り主権を国民(市民)の手に取り戻した革命的な選挙と語った民主党代表の鳩山氏。
開票作業終盤に勝利を確信した鳩山氏は、
“国民(市民)が主権者となる社会実現の第一歩を踏み出すことが出来るチャンスを頂いた”
と語っていました。
そのインタビューについてNHKの解説者が、今まで民放、公共放送のいずれでも耳にしたことがなかった、歯に衣を着せぬ直球のコメントと賛辞を述べていたのも印象的でした。
“麻生首相率いる前政権を国民(市民)が自ら否定し、国民(市民)を守る政治によってだれもが安心して暮らせる日本社会となることを願い、自らの手で政権交代を実現させた過去に例の無い画期的な選挙だった”
と述べたNHKの解説者。
“この選挙で国民(市民)が真の勝利者となるべく、政治家は国民(市民)の負託に応える大きな義務と責任を果たしていかなければならない”
という今までにない表現を用い、前政権の数の論理で推し進める議会運営を反面教師とし、少数政党の意見も尊重し野党と十分議論を重ねることで、より良い判断を求めていくという議会制民主主義の根本精神を貫く覚悟を熱く語った鳩山氏。
こういった彼らの言葉を聞き、私は初期微動(何かの始まり?)を感じてしまいました。
政府が国民(市民)を指導していくという明治以来の体質で幾度となく過ちを犯した末、第二次大戦が終わった直後に慌てて子供たちの教科書を黒く塗り潰し、意味も分からずデモクラシー(民主主義)やフリーダム(自由)の素晴らしさを指導したところで、戦前の狂信的な国家主権の翼賛教育と何ら変わりません。
民主主義や自由などの新たな価値観を盲目的に唱え続けてきた結果、この国は多くの矛盾を含んだまま発展し続けてしまったのかもしれません。
民主主義や民主政治、戦争のない平和な世界などの言葉も、文字以上の意味を持つことなく、単なるお題目としてしか理解出来なくなってしまったようです。
それどころか、物事の善悪や是非についてまで、経済的あるいは物質的な価値観である“富”を基準値にすることでしか理解出来なくなってしまったように感じられます。
“自由”という言葉を口にすると、すかさず“自由には義務が伴うものであり、身勝手とは違うんだ!”と教育的指導を受けてしまうのですから、戦前の官憲の厳しい監視下での“恐怖”と同じような感覚に陥ってしまっても分かるような気がします。
漠然とした恐怖感が偏狭な“良き民”を増殖し続け、私たちは社会的評価と国家の経済的な反映を得るためだけに社会を生き抜き、妥協するための功利的手段のみを学習し続けてきたのかもしれません。
社会的に評価され賞賛されなければ、無意味な人生と誤解してしまったのです。
今回の選挙結果が、私のような迷える子羊たちを言い知れぬ恐怖の呪縛から解放してくれる契機となるかもしれません。
他の人たちと違った印象や感想を抱いたとしても、誰もがごく自然に胸を張って自分を主張出来るような開かれた社会が、夢ではなく現実となるかもしれないのです。
本来、市民が持っているべき“自由”を取り戻すためにも、子供のような純粋な目で物事を見て、おかしいものはおかしいと言える勇気を持つことが、革命的選挙を実現させた市民の義務であり責任なのではないでしょうか。
烏合の衆に安易に迎合したり、妥協したりして手にした物質・経済的な安寧は、日本固有の考えである“国家的”幻影だったのかもしれません。
ごく小数の富を独占し続ける人たちを満足させるため、あるいは強いものをより強固にするために、私たち市民が存在している訳ではないのです。
市民各人が、国家的指導に無抵抗に従うのではなく、少しずつでも自己の価値観による判断の割合を増やし、自己の可能性に大いなる期待を抱いて市民生活を謳歌出来る社会を実現させたいものです。
強いものは下に、弱いものは上に、そして子供たちが天辺に立てるような社会も夢ではありません。
富を貪る巨人たちは、果てることのない欲望を肥大化させ続けています。
こうした人間のエンドレスな欲望肥大化ゲームは、国民の負託という言葉を隠れ蓑にしていた世の職業政治家や経済人たちに、私たち市民が自らの権利を無条件に付託したために起こった当然の結果なのかもしれません。
彼らの肥大化は、市民が自己の権利を正しく理解しさえすれば、簡単に食い止めることが出来るのではないでしょうか。
彼らがいくら世界的知識人や著名人を総動員して自己の正当化を図ったところで、所詮は“自由”“正義”“平和”“民主主義”などという文字を弄んでいるだけのこと。
複雑奇異に変貌し続ける膨大な漢字の幻影が派生させる虚構に、惑わされてはいけません。
国民のため、国益のためという詭弁を弄して砂上の楼閣建設に邁進している人たちの野望に終止符を打つことが出来るのは、私たち名も無き無告の民だけなのです。
旧来の職業政治家たちを含む虚像の巨人たちの甘言に惑わされることなく、
“そんなの要らなーい!もっといいこと沢山あるもーん!”
と言える自立した市民の自覚こそが、最も価値あることではないでしょうか。
人々の嘲りや嘲笑を恐れず、誇りを持ち、穏やかに暮らしていきたいというささやかな願いは、真に豊かな成熟した社会を実現させる鍵になるのかもしれません。
最後に悪い冗談を一つ。
貴方が真に争いのない平和な世界を、社会を、生活を、心から願い求めるならば、貴方の記憶の辞書から平和という文字を積極的に削除すればいいのです。
戦争の対語としての平和は、戦争を肯定し正当化するための詭弁でしかありません。
聖戦や平和のための戦争なんて有り得ないのですから、こうした平和という言葉に惑わされないためにも、さっさと忘れてしまいましょう。
“昔、昔、この地球上には、平和という言葉が独り歩きしていた時代が長く続いたものじゃった”
と、お伽話にしか存在しない言葉になった時には、人間も分を守って自然と共生し、友愛の世界で穏やかに暮らしていることでしょう。
南の島のロビンソンクルーソーの空瓶に託した長ーい長ーい恋文でした。
いつの日か誰かの下に漂着する事を願って ……。(2009.9.2)ご挨拶107
ご無沙汰しておりました。
体調が良くなると、突如として怠惰な生活に逆戻りしてしまうという悪癖は、幾つになってもなおりません。
コンディションが良い時だからこそ、多くのことに取り組まなければいけないのですが、何も意味あることはしていなくても、なぜか忙しく早足に一日が過ぎてしまうのです。
さて、南の島暮らしを始めて5年が過ぎましたが、その間文字に接するのはHPの更新をする時だけで、もはや私の日本語力は最低最悪の状況になってしまったようです。
漢字を使用する際には、図形認識で選ぶことは出来ても、自らの手で書くことは一切不可能。
何とか自分の名前と、横浜や東京などといった地名を記憶しているので精一杯です。
パソコンのワープロ機能がなければ、何一つ文字化し記録することが出来ません。
文字が書けず、選べるだけになってしまっても、これといった不都合もなく、不便にも感じないのですから、それはそれで少々問題かもしれません。
1980年頃に普及し始めたOA機器を前にして、“Canピューター”だの、“Don’tピューター”だの、“感ピューター”だのと冗談を言っていた当時、“そのうち日本人は、漢字が書けなくなるぞ”とか、“OAメーカーは、企業責任でOA時代の日本語教本を作るべきだ”と軽口を飛ばしていたのに、気が付けば自分自身が冗談通りになっていたのですから笑ってしまいます。
明治時代に電報を理解出来ない人たちが、葉書や封書を電線にぶら下げていたという笑い話がありますが、近未来には、歌を忘れたカナリヤならぬ漢字を忘れた日本人が増え、メール語が公用語になり、メール語辞典が出て来るのかもしれません。
あるいは、新日本語解読ソフトがなければ、何も分からないなんて事になってしまうのかも。
最近晴れる日が増え、ひもじくもなく、差し迫った健康上の不安もなく、財布の中身は限りなくゼロに近い状態となると、プールに浮かびながら青い空と白い雲を眺めて過ごすのも一興。
毎日、あっという間に一日が過ぎてしまいます。
怠惰な生活の言い訳を長雨のせいにしたり、快晴のせいにしたり、何にでもしてしまえる南の島暮らしは、なかなかのものです。(2009.8.24)ご挨拶106
今日が1年の半分になる日です。明日3日はアメリカの独立記念日の前日になり、私の還暦後3回目の誕生日になります。
気分は未だに学生当時のままなのですが、鏡に映る我が身に“年齢を自覚しなければ……”と反省する日々の繰り返し。
今月下旬に予定しているピットインに備え、飲酒を止めて規則正しい生活をしなければと考えていますが、どうなることやら。
学生当時から試験前の一夜漬けで何とかこの歳まで生き延びてきて、この期に及んでも、またもや付け焼き刃の病人生活です。
この自堕落な性格は、最後の最後まで治る事はないのかもしれません。
“喉もと過ぎれば……”の喩えの繰り返しに、私自身も呆れ果ててしまいます。
手術直後の6年前には、拾った命を大切にしなければと謙虚な気持ちでいたのですが、いつの間にかの体たらく。
ピットインの際に、“ワーファリンの効きが悪いから量を増やそう”とか、“血糖値が高い”とか、“悪玉コレステロールが増えている”などと指摘されないように、残された時間で何とかならないものかと、今頃になって焦っている始末です。
自慢出来ることは、一日3箱は吸っていたタバコを十年前に止めたことと、手術後退院当時の体重と体型をいまだに維持していることくらい。
しかしどうもがいても、還暦を当に過ぎての付け焼き刃人生の日々なのですから見苦しいものです。
最近何かにつけて反省の日々を送ってはいるのですが、ただそれだけのことでしかありません。
今後一体どうなることやら、心配になってしまうことしきりの今日この頃です。(2009.7.2)ご挨拶105
一昔前、小泉劇場として国民の一部から熱烈な支持を受けていた宰相が、改革を唱えて自民党をぶっ潰すと豪語したことがありました。
その際、人気の宰相は、変革には国民にも少しばかりの痛みに耐えることが必要と唱えました。
彼の支持層は、それを“当然のこと”と諸手を上げて容認し、自民党は衆議院選挙で空前の大勝利を収めました。
結果、郵政省は一挙に民営化され、経団連の意向で迎え入れられた派遣労働者は、今現在、突然の契約打ち切りという仕打ちに直面し、路頭に迷っているようです。
何かが狂い始めてしまったのか、あるいは社会的弱者の当てが外れてしまったのか、弱者切り捨てという経営の鉄則の厳しい現実を思い知らされることになりました。
民営化された郵政会社の“かんぽの宿”を巡る一連の話も、社長の継続をめぐる政界の暗闘の結果、鳩山総務大臣の更迭騒動をもって、すべてが一般市民の目の届かない永田町の暗部にシールされてしまったようです。
マスコミが派遣切り関連の報道から次第に遠退き、もはやそんな話は過去の話で、いずれすべてが弱者である市民の自己責任で済まされてしまうのかもしれません。
毎度のことですが、日本独特の官民揃っての健忘症候群のせいか、政権交代や国益論、国際貢献、そして手前勝手にしか思われない民主主義論と、世の中はいつものように流されたまま。
世の中は、夏休みにお盆、秋の行楽シーズン、そして年の瀬、クリスマス、紅白と、政府の意を受けたマスコミの描くシナリオ通りに、忙しく踊りまわされていくのでしょう。
政治家もお金持ちも貧乏人も、大人も子供も、だれもがまた一つ歳を重ねることで、一般市民の多くの記憶がリセットされてしまうのかもしれません。
そして残るのは、毎年刷新され続ける国の記憶だけで、それが私たちの記憶として摩り替わってしまうのでしょう。
しかしそれを拒むわずかな人たちは、年々蓄積されていく国の記憶以外の膨大な記憶も共に背負い、歳を重ねるごとに命を削って生きているに違いありません。
テレビで提供される正しい笑いに学び、自ら思考するという危険思想を排除するため、市民相互の監視システムがより強固に整備されつつある現在、自らの記憶を維持している方々を探し出すのは至難の業なのかもしれませんね。(2009.6.20)ご挨拶104
私が南の島暮らしを始め、テレビと扇風機を購入した時以来の大散財となってしまったタイヤ底の皮製ヴェトコン・サンダル。
10日あまり降り続いた雨がようやく上がった先週の日曜日の午後、サンダルの履き初めをしました。
足にぴったりとフィットしたサンダルは軽快で、身も心も軽やかに、すっかり軽くなってしまった財布を持って、英国のビリヤード(?)ともいえるスヌーカー・ゲームを楽しんで来ました。
履きたての真新しいサンダルの効果か、観客の目を意識したためなのか、あるいは白豪主義時代の化石的なオーストラリア南部出身者とおぼしき老人たちから発せられる、背中に突き刺さるような敵意(?)を察したせいか、自分でも何が起こったの?と自問してしまうほどの好プレイに驚いてしまいました。
対戦相手のスクラッチやスヌーカー・ミスもあったのですが、次々と入る高得点のカラーボールで何と私のスコアーが過去最高の102点。驚き顔の対戦者に茫然自失の私。ふと我に返り周囲を見渡すと、例の白豪主義者の残骸たちの姿はどこにも見当たりませんでした。
最高の日曜日となった私でしたが、彼らには気分の悪い日曜日となってしまったかもしれません。
若かりし頃、一時期メルボルンで生活していた時、戦争花嫁の日本人の方たちを除くと、ビクトリア州にいる日本人は家族を含めて全部で100人程度。
その大半が領事館関係者や商社の駐在員たちで、一般人はほんの僅かでしたから、現在とは比較出来ないほど大昔になります。
どうもあの老人たちの眼差しに、当時の忌まわしい記憶が呼び覚まされてしまったようでした。
今ではアジア一帯でOZと親しまれているオーストラリアの人たちも知らない出来事が沢山あったのです。
私を含めアジアで生活する多くの日本人も、かつて日本が引き起こしたアジア各地での忌まわしい出来事を、“そんな昔のことなんか知らなーい”で、片付けてはいけないのではないでしょうか。
ふとした無意識な仕草や視線でも、私が被害妄想に駆られてしまったようなことが、親しき隣人たちとの間でも容易に引き起こされてしまうかもしれません。
多くのことを考えさせられてしまった日曜日でした。
これもまたヴェトコン・サンダルのもたらしてくれた“一般市民の歴史からの教訓”だったのかもしれません。
さて、私のゲストブックへの訪問者である年若いネット上の隣人、NZのなおこさんへの極めて私的なご報告になりますが、最近私の住むフラットに、なんとマオリの叔父さんが住み始めました。
まだ挨拶を交わした程度でお話をしたことはありませんが、なおこさんとマオリママの話の影響か、勝手に好感を抱いています。
近い将来、厳めしい表情の彼と談笑出来る日が来るのかも?(2009.6.10)ご挨拶103
昨日は終日雨。今朝になっても小雨が降り続き、もうすっかり雨期入りした模様です。
金曜日の午前中には晴れていたので、街の市場へ1週間分の食料買出しに出かけたのですが、いざ帰ろうと市場を出たところで激しく雨が降り出してしまいました。
この5年間に街の商店は、その大部分が改装したり代変わりしたり、ある店などは何回となく職種を変えています。
それに、歩くのも大変だった凸凹な歩道が綺麗に整備され、大通り沿いにあった古めかしい商店もすっかり様変わりし、今や立派な商店街になってしまいました。
そんな真新しい店舗が立ち並ぶ中に、唯一軒、私がこの街に住み始めた当初から、何一つ変化することがない靴屋さんがあります。
埃まみれの数足の革靴が置かれたショーケースと、洞窟を思わせるような薄暗い店内、昔通りの佇まいに何かしら懐かしさを覚え、雨宿りのついでに洞窟探検でもしてみようと店内に足を踏み入れました。
店内に灯りは一切なく、ショーケースだけがかすかに差し込む外光を受け、7から8足の皮製の靴やサンダルの存在を浮かび上がらせていました。
外は雨で尚更暗い店内で、不思議なことに私の目に1足の皮製サンダル・シューズが飛び込んで来たのです。
店員というよりも店番という方が相応しい娘さんに、引き戸のショーケースからそのサンダルを取り出して貰いました。
ここフィリピンで一度も目にしたことのないデザインと、車のタイヤ底の皮サンダルに懐かしさを覚えてしまったのです。
それは、昔の南ヴェトナムの首都サイゴンで愛用していた、外国人用に改造された高級ベトコンサンダルと瓜二つ。
サイズと値段を即座に聞いてみると、サイズ7で800ペソとのこと。
よくサイズが分からないまま早速履いてみようとしたのですが、すんなりとは踵が入りません。
踵の皮を引っ張って延ばし、幾度となく履き直してみました。
何とか履いてしまえば窮屈な事はないのですが、いかんせん履く時に手間取ってしまうのです。
他のサイズを頼んでも、これしかないとのこと。
他のデザインのサンダル・シューズを試してみたのですが、どれも今時のスポーツ・サンダルで、いまひとつしっくりきません。
未練がましく惚れ込んでしまった例のサンダルを手に、
“履き込めば皮が伸び、馴染んで来るだろうから”
と、自分にそして店員に対して言い、
“ちょっと危険な買い物だから、少し値引きしてくれませんか?”
と切り出したのですが、あっさり“ノー!”と言われてしまいました。
では、何か不都合があったら直してしてもらえるのか尋ねたところ、
“店主は今刑務所にいて6月末まで帰らないから、私は何も分からない”
の一言。
なす術もなく、日頃の私からは想像も出来ない事なのですが、つい先ほど両替したばかりのお金の中から、大枚800ペソを支払ったのです。
店を出る頃には雨も上がり、“高い雨宿りだった”と呟きながらも、早く帰ってサンダルを履いてみたくて頭の中は一杯。
いんちきサンダルで騙されたとしても、満足して買ったのだから少しも惜しくはない!などと慰めながら、帰路を急いだのでした。
帰るなり買い物袋を放置したままサンダルを取り出し、皮用の保護クリームを塗ってしっかりとすり込み、布で拭き上げました。
そして、本皮特有のしっとり感を手の平で感じながら、ワインの空瓶だのラムの小瓶などをサンダルに入れ、せっせと皮延ばし。
この甲斐あって、サンダルはすんなりと履けるようになりました。
以来、暇さえあればサンダルを履いて室内を歩き回っています。
晴れの日を待ちわびながら……。
私の母方の祖父は上海出身の華僑で、
“福建の華僑の間では、鋏と料理包丁と髭剃り剃刀の3つの刃を身につけていれば、世界中どこに行っても生活出来るという言い伝えがある”
と良く話していました。
その話をする時には決まって、
“将来お金が出来たら、まず一番目に英国の高級な革靴と、英国紳士がたしなみとする高級こうもり傘を一本買いなさい。そして、将来もし外国で経済的困難に遭遇するようなことがあったら、嘆くよりもその靴を履き、その傘を手に、街で一番高級な人たちの集うホテルなどに毎日出掛けて行き、終日平然としてそこに座り続けていれば道が開ける”
と、話していました。
何でも上海人華僑の祖父の家訓だったのだとか。
以前、世界の海運王と呼ばれたオナシスが無一文で南米からアメリカに渡った時、ニューヨークの高級ホテルのラウンジで、当時一杯1ドルもするカクテルを一杯だけ頼んで、それを手に終日そこで過ごし、ついには世界の海運王になる足がかりを手にすることが出来たという彼の自伝を読んだことがあります。
その時、祖父の家訓を思い出したものです。
私には1足の革靴も傘もなく、あるものはといえばゴムサンダルにスニーカー1足のみ。
その上、着るものといえばTシャツとジーンズの裾を切った短パン、そして帰国時に羽織る古びたコンバット・ジャケットのみ。
若い時にいい靴と傘を手に入れておけばよかったのですが、もはや遅すぎたようです。
そんな私がやっと手にした皮製サンダル・シューズがよほどうれしかったのか、イタリアの有名な皮職人に認められたという女性アルチザンの個展に出かけた夢を昨晩見ました。
そこで素敵なデザインの北部イタリアの狩猟バックを見つけ、“素晴らしい歴史に裏付けられた伝統の技術と、それを受け継ぐアルチザンの存在無くして、こんなにも素晴らしいバックを作り出すことは出来ない。しかしそれだけでは駄目で、それを所有する上質な使い手が存在して初めて、その作品は皮の持つ寿命をはるかに超えるまでその美しさを成長させ続けることが出来るのだ”と考えました。
私はそのバックがとても欲しくなりましたが、夢の中ですらそれを所有するためのお金がありません。
バックの前で立ち尽くし、穴の空くほど作品を見ている私の行動に懸念を抱いたのか、個展の作家が話しかけてきました。
“いかがですか?何かお気に入りのものでもありましたでしょうか?”
丁寧ではあったものの、言葉の端に誰何するような威圧感がありました。
私は慌てて口ごもりながら、作品の素晴らしさと自らの考えを語り、お金は持っていなくともそのバックを所有するに相応しい上質な使い手は私しかいないと答えていました。
夢の素晴らしいところは、素敵な魔法が働いて思いもよらない幸運を手にするのも可能なこと。
私のポケットの中にあった僅か300ペソほどのお金で、彼女はバックを私に手渡してくれたのです。その上、
“今夜のベルニサージュに、是非おいで下さい”
と誘いまで受けてしまったのです。
今までこんなに幸せな気分になれた夢はなかったと、上機嫌で目覚めました。
こんな夢を見たのも、皮製サンダル・シューズを購入したからなのでしょう。
これを手に入れたことがよっぽど嬉しかったんだなぁと、改めて雨宿りの出来事を噛み締めてしまいました。(2009.5.31)ご挨拶102
ちょっと転寝しただけのつもりだったのですが、気がつけばこんなにも長い間HPをお休みし、熟睡を通り越して完熟しておりました。
夢の中にロシアの画家イリヤカバコフが表れ、彼が手がけた絵本や、ローゼン・スタインという彼の創作した架空の画家の作品展を見ていたのですが、何の脈絡も無く突然、阿部展也(あべ のぶや)というイタリアで客死した画家の話に内容が変わっていました。
夢はさらに続き、以前東京でお会いした美術研究者の島田氏と、小舞台のセットのような酒場で阿部展也についての話題で盛り上がりました。
そして、“阿部展也が講和条約制定後直ちにイタリアに渡った経緯などについては分かるんだが、それ以前のフィリピンでの行動を知る手がかりが掴めずに困っているんだ”という島田氏から、阿部展也についてどんな些細な事でも分かったら知らせてくれるよう頼まれてしまったのです。
なぜこんな夢を見てしまったのかは分かりませんが、目覚めてからずっと気になって仕方がありません。
変てこなお願いなのですが、1941年から戦後の1946年まで日本軍の報道写真班員として従軍し、フィリピンにいた当初の阿部展也について何か存知の方がいらっしゃいましたら、是非お知らせ頂けないでしょうか? よろしくお願い致し上げます。(2009.5.20)ご挨拶101
体調が良いのをいい事に、少々飲み過ぎてしまったようです。
最初のうちは、久々の酩酊にうっとり夢心地だったのですが、ふとした弾みに、その心地良さは最悪なものになってしまいました。
体内に堆積したヘドロが、メタンガスを発生させてしまったようです。
穏やかな貧乏生活に満足していたはずなのに、気が付けば元の木阿弥。痩せ犬の遠吠えが口をついて出てきてしまいました。
見苦しい酔っ払いの繰言……これほどの醜態は病気を患ってこの方ついぞ無かったのですが、まさに“小人閑居して不善をなす”の理通りの体たらく。
久々のご挨拶が、南の島での酔っ払いの愚痴になってしまいますことをどうかお許しください。
ノーベル平和賞に輝いた日本の宰相が、琉球の返還交渉の際に、“わが国と中国との間で戦争が起きた場合、アメリカが核兵器を使用して守ってくれることを切望している”と言って、核兵器の国内への持込みを容認していたとか。
テレビのニュースで大きく報じられ、政府が“非核三原則は厳守されている”と苦しい言い訳に終始していたのは昨年のことでした。
沖縄の基地負担軽減のための方策として、キャンプハンセンを日本に返還し、米国海兵隊第3機動師団3,000人をグアムに移動させるに当たり、移転費用及び、グアムにおける住宅や基地機能整備のための費用一切を日本政府が負担するのだとか。
この方策については、日本政府特有の二枚舌政策だという厳しい批判もあるようです。
海兵隊3,000人が減っても、沖縄の基地や住宅はそのまま残され、いつでも新たな部隊が駐屯出来てしまうのだとか。
いつの時代も、どの国でも、政治家が大きく唱える“正義や真実”は、眉唾ものなのかもしれません。
国益の前では個人の持つ尊厳や権利も無意味となってしまう不思議な日本の社会通念は、いつの時代にも変わることの無い普遍的な規定事実となってしまうのでしょうか。
小泉劇場として国民の一部から熱烈な支持を受けていた宰相が、改革を唱えて“自民党をぶっ潰す”と豪語したのは、まだ記憶に新しいことです。
人気の宰相は、変革には国民も少しばかりの痛みに耐えることが必要だと唱えていました。
彼を支持する人たちは、“当然のこと”と諸手を上げてそれに理解を示し、自民党は衆議院選挙で空前の大勝利を収めました。
結果、郵政省は一挙に民営化され、経団連の一方的な意向が喝采で迎え入れられた労働者派遣法が制定されました。
しかし昨年末、経団連会長の関連企業で派遣社員の大量解雇という号砲一発を合図に、国内の大手製造企業が相次いで派遣切りを発表。
“素敵な宰相”の言葉通り、それらの影響は“痛み”となって押し寄せ、狙い定めたように容赦なく社会的弱者に襲いかかっています。
こうした現実をどのように理解すればいいのでしょう。
21世紀の今、血に飢えた怪物たちの求める繁栄の犠牲者たちは、世界中どこででも見出すことが出来ます。
貧しい人たちが時に見せる弱者への優しさや、弱者が生存のために見せる相互扶助の精神は、日本にだって存在していたはずなのに、一体どこへ行ってしまったのでしょう?
酔いに任せて自問自答してしまいました。(2009.2.28)
追記
今から一年前(2008.2.18)に書きました“2008年のGのつぶやき「貧困の功罪」”を読み返しての繰言でした。ご挨拶100
新年のご挨拶もしないまま旧正月を迎え、すでに5日が過ぎてしまいました。
しかし、2月9日まではお正月ですし、3日は節分。
古来より節分を境に暦が新たになる習慣もあることですから、そういったことを言い訳に、遅ればせながら新年のご挨拶を申し上げます。
心臓手術から5年半が過ぎ、昨年末より少々長めのピットインをしておりました。
今回の最大の目的は、術後4度目となる心臓カテーテル検査。
右手首と首からのカテーテル検査に少々緊張しましたが、1月23日にすべての検査を終え、31日にはフィリピンに帰って来ました。
今回の検査入院の結果、これまでは1日に17錠も服用していた薬が、なんと7錠にまで減少!
“薬は、今後増えることはあっても減ることはない”と医師に断言されていたのですが、このように喜ばしい結果となり、本人以上に医師が目を白黒させていました。
医者によると、食習慣や生活習慣の改善は多くの患者にとって大変難しいことのようで、過度と思われるくらいの警告をしても、なかなか守ってもらえないのが現状なのだとか。
“こういったこともあるのですね”と医者に言われ、ちょっぴり誇らしく思ってしまったのは言うまでもありません。
冠状動脈に大きな変化はなく、3本のバイパスも開存しており、拡張していた心臓が若干縮小し、不整脈もほとんど出なくなり、血液も良い状態が保たれていることから、薬が大幅に減ったようです。
これはすべて、私の貧困生活からくる粗食と、雨の日を除いて毎日欠かしたことのないプールでの有酸素運動、そして海岸の散歩の賜物かもしれません。
体重も手術後退院した時とほとんど変わらず、なんとかここまで命を繋ぐことが出来たのですから、乏しくても楽しい南の島でのロビンソン・クルーソー的生活は、健康維持には大変効果的だったようです。
生活習慣病の改善には、根本的な生活環境からがらっと大きく変えてしまうのも良い方法なのかもしれませんね。(2009.2.3)ご挨拶99
明日は、クリスマス・イブです。
スービック湾に面したこの町に住み始めた当時は、11月頃から華やかなクリスマス・イルミネーションが家々に飾られ、あちこちからうるさいほどのクリスマス・ソングが聞こえて来ました。
それに加えて、どこかで銃撃戦が始まったのかと勘違いしてしまうほど強烈な花火や爆竹が鳴り響き、その凄さに驚いてしまったものです。
それが今年は、クリスマス直前になってもイルミネーションの数が少なく、町全体が暗くなってしまったようです。
爆竹や花火の音も、たまに聞こえて来る程度。
私が慣れてしまったせいなのか、例年の華やかさは全くといえるほど感じられません。
隣家のアメリカ人宅のイルミネーションもなくなり、子供たちの奏でるクリスマス・ソングを聞くこともなくなってしまいました。
アメリカ大統領が代わる直前に、大きく綻んでしまった金融政策。
ウォール街を襲った株価や為替相場の暴落が、あっという間に世界を駆け巡り、世界全体が100年に1度の恐慌と言われるほどの大変事に見舞われてしまった影響なのか、小さい田舎町のクリスマスも、暗く静かなものになってしまいました。
なぜか意味も無く、前々世紀のディケンズのクリスマス・キャロルを思い起こしてしまいます。
その日の糧にも困る人々が、虚栄心から有り金をはたいて競ってクリスマスの飾り付けに血道を上げていた昨年までのクリスマス風景も、今年は分相応な身の丈に合ったお祝いに変わり、なぜかほっとしている私です。
やれテロとの戦いは正義だとか、世界の秩序を維持し平和と民主主義を守ることが、アメリカとその同盟国の使命だなどと唱え続けたブッシュ政権の劇的な終焉に、私の隣人たちもまた、悪夢から否応無く目覚めさせられてしまったのかもしれません。
世界を代表する経済人や政治家たち、さらには社会の底辺までをも巻き込み、見境無く作られていった砂上の楼閣は、一瞬にして消え失せてしまったようです。
お正月を前に職も住まいも失ってしまった多くの人々が救済を求め、政府もこれに応えようと必死に努力しているようですが、高度成長期の社会発展を支えた土木建築業に携わった人たちもいる事を、社会は忘れ去ってしまったのでしょうか?
山谷や西成や寿町で延々と路頭に迷っている、派遣労働者の元祖とも言える人たちは、昔も今も救済されることなく、日雇い労働者だからといって打ち捨てられているのです。
今回の不況によって派遣切りに遭遇した人たちもまた、社会の関心が移れば、日雇いの工員だからといって忘れ去られてしまうのかもしれません。
弱者はどこまで行っても、弱者から抜け出せないのが現実。
次の世で、強者の師弟として生まれて来るしか方法はないのでしょうか。
弱者の努力や苦しみなどノイズに過ぎないという強者の論理に対し、今こそ深い眠りから覚醒して、弱者の論理を打ち立てることが必要なのではないでしょうか。
経済的足枷に怯え、無条件に強者に従う以外に生きる道はないなどという呪縛から、自らを解放する時に至ったのかもしれません。
強者の側に列せられる皆様には、笑止千万、弱者の戯言とお笑い頂ければ幸いです。
強者ばかりではなく、弱者も分け隔てなく、慎ましくとも穏やかで楽しいChristmasが迎えられますように。
Merry Christmas!(2008.12.23)ご挨拶98
ariyah- retsoretsuf eridar (アリヤアー レッオレッフ イリダー)
下がるは上がるため 上がるは下がるため
イスラエルのラビ・バァルシェム・トブの言葉とか。
“人生を恐れるな”という意味にもとれる言葉なのだそうですが、私のようにどこまでも下がりっぱなしで、いつになったら底に足が着くのかも分からない者には、無縁の言葉かもしれません。
いや、何とかまだ生命を持続していられるのですから、考え方によっては落ちているとか下がり続けているというよりは、人生という空間を漂っているといった方が適している!?
物質的な欲望は多分に制限されますが、それを除けばなかなか居心地のいいものです。
アメリカのサブ・クライム・ローン問題に端を発した世界的な金融危機も、私のように失うものは命だけという身軽な者にとっては無縁の出来事になってしまいます。
経営不振を理由にした派遣労働者の突然の雇用打ち切り騒動を見ていると、企業が好景気の時に蓄積した利益は、一体どこにいってしまったんだろうと首を捻ってしまいます。
蓄積された過去の利益は、本来こんな時にこそ労働者に還元しなければならないのでは?
世界全体が怪獣ゼニゴン化してしまったような社会では、企業が儲けるために形振り構わず弱者の屍の上に君臨し続けることこそが美徳ということになってしまうのでしょうか。
やはりどこか間違っているように思えてなりません。
1960年代に大宅壮一氏が、テレビの急激な普及に、
“このままでは一億総白痴化してしまう”
と警鐘を鳴らしたそうですが、現代は氏の言葉通りになってしまったのではと考えてしまいます。
今こそ働くものは、企業に、雇用主に向かって指差し、
“おかしな裸の王様だ!”
と言うだけの子供のような素直さが必要なのではないでしょうか。
おかしなものはおかしいのですから、勇気を持って間違いを指摘しなければいけないのかも……。
怖いことですが、背に腹は変えられない今こそ、立ち上がらなければいけないようです。(2008.12.11)ご挨拶97
1969年の今頃、連日嘉手納基地のメインゲート前に、反ベトナム戦争、基地返還を叫ぶデモ隊が押しかけていました。
機動隊と基地警護の完全武装の米軍兵士たちがデモ隊と睨み合い、極度の緊張感が漂っていた異常な時でした。
そんなある日の夕暮れ時、一人の老女がデモ隊と警備陣との中間に立ち、抵抗の踊りを始めたそうです。
老女の凄まじい迫力に、辺り一体が凍りついてしまったようだったという話を聞いたことがあります。
また、日系三世のある米軍法務官は、米海兵隊の兵士が犯した犯罪についての審問後、沖縄の法廷の廊下で出会った老婆に会釈したところ、突然その老婆に手を捉まれ、
“ウチナーが、心までアメリカに売ってしまって!”
と、言われたことがあるそうです。
こういった話をふと思い出してしまったことが引き金となり、私は40年前の沖縄で自らが体験した出来事についても昨日のことのように思い出してしまいました。
私の中で沖縄が現実味をおびて来るに従い、甘い夢が膨らむのと同時に過去の苦い経験が思い出され、退役兵たちが話す当時の出来事が重く圧し掛かり、モラトリアム状態が続いている今日この頃です。
能天気を満喫していると装ってみても、よくこんなにも当時のことを記憶していたものだと驚きながら、何かしら心が乱れることが多くなって来てしまいました。
週末になると恩名村のビーチやホワイトビーチ近くで、ビールケースやバーボンを担げるだけ担いで、“BBQだー!”と大騒ぎし現実逃避していた日々は今もあまり変りの無いことなのですが、沖縄の友との再会は、私自身に自己と向かい合う時が近づいて来たことを予感させてくれたようです。
何はともあれ、すべては格安航空券を見つけて、一度かの地を訪れてからの話です。
ワインはもちろんですが、石豆腐にカラスグァーやミミガーを肴に、泡盛やオリオンビールのトマトジュース割で昔に乾杯するのもいいかもしれません。
那覇空港ロビーに25セント専用のスロットマシーンが並んでいた時代から、高架を電車が通る今の那覇市内。空港を一歩出たら固まってしまうことでしょう。
空港からタクシーに乗ると、“お帰りなさい”と迎えてくれた運転手さんたちの笑顔も、今や昔の思い出になってしまったようです。
このまま漂泊が続くのか、いつか錨を上げるのか……。
To be or not to be that is a Question. (2008.12.2)ご挨拶96
東京で暮らした4年間、ほぼ毎日飲んでいた店のマスターの消息を、一年前にピットインした病院の関係者から聞くことが出来ました。
いつものように彼の店を出た私でしたが、横浜の病院に緊急入院してしまい、そうこうしている内に彼は沖縄に移り住んで那覇市内で店を開き、私はフィリピンへ。
気が付けば8年の歳月が過ぎていました。
今年10月に彼の連絡先を知り、早速メールしてみたところ、何と東京に用事があって行くので会おうということに。
待ち合わせ場所は、新宿御苑前。
二廻りも若いロマンティストの彼は、沖縄の生活が体に合っていたのか、以前よりもふっくらしていました。
彼は夢の実現に向かって、新天地沖縄で着実に根を張っている様子でしたが、出会えた嬉しさに、私は彼の話を聞くよりも自分の経緯と貧乏生活の様子を語るのに夢中になってしまいました。
そして一通り話を聞き終えた彼に、“今と同じ生活費があれば何とか生きていけるから、沖縄に来れば?”と誘われたのです。
私が手術した病院で看護師をしていた人も那覇の病院で働いているとか、彼の店で働いていた若者たちも、もうすぐ沖縄に遊びに来るとか、大阪のブルースシンガーが沖縄に移り住み、嘉手納基地で歌っているなどという話も聞かされ、風が沖縄に向かって吹き出したことを実感しています。
“山羊や猫を家族に自給自足自しながら、バザーに参加して店をやれば十分暮らして行けるから”という彼の言葉が妙に心に響いてしまいました。
以来、“沖縄を終焉の地とするのも必然か!?”という思いに襲われています。
具体的な計画は何一つ無いのですが、沖縄という地名がリアリティーのあるものに感じられてしまったのは事実です。
沖縄が米国から日本に返還される前は、沖縄には日本政府の南方事務所という領事館的なものが存在していました。
沖縄の人が日本を訪れるには、琉球政府発行の旅券が必要であり、日本から沖縄に行くには、日本政府発行の身分証明書を所持しなければならなかったのです。
米国国旗とそれに合わせた少々細長い日本国旗を掲揚した琉球政庁があった時代の話です。
私が初めて琉球を訪れたのは、返還よりも8年も前のことでした。
その数年後の秋、嘉手納基地からサイゴンのタンソニュット空港に飛び立ったのが私の放浪の旅の始まりでしたが、終点に沖縄を選ぶというのも何かの因縁なのでしょうか。
彼の話に運命的な必然を感じてしまいました。
はてさて、この初期微動がどのような展開を見せるのか、興味深深といったところです。(2008.11.23)ご挨拶95
このところ、たて続けに怪物のような老人に出会いました。
1964年から佐世保と横須賀に9年間駐留し、83年に退役して以来、フィリピンの私の暮らす町に住んでいる、私の肩までしか背丈のない老人もその1人です。
足腰はしゃんとしていて姿勢正しく、片手にビール、もう片手にキューを持ち、ビリヤードテーブルの周りを忙しく動き回っているのですから驚くばかりです。
怖くて彼に年齢を聞くことも出来ませんでした。また、1969年にドイツからオーストラリアに移民し、船の電気技師として横須賀基地に3年間滞在したこともあるという経歴の人物にも出会い、私と同じぐらいの年齢だろうと思って話しかけてみたところ、なんと彼の年齢は72歳。
10歳も年上だとは考えられないほど若く見える彼に、私の年齢を告げたところ、
“まだ子供だね。私が20歳の時に10歳だったんだから”
とからかわれてしまいました。
また、私より2歳も年上のイギリス人に“私の娘だ”と紹介されたのが、なんとまだ1歳半の可愛らしい女の子だったもので、これまた驚き。
老人たちがよちよち歩きの女の子の手を取って踊っているバーなんて、ここ以外では見ることが出来ない風景かもしれません。
目が合うと日本語で“カンパーイ!”とビール瓶を持ち上げる世界各国出身の老人たちの姿は、若者の目には不思議に映るのでしょうが、当の本人たちは未だに青年のままなのです。
彼らの陽気な姿は、日本国内の老人クラブやゲートボール場で見かける人たちとは、大きな違いがあるようです。
日本には、“年齢にあった○○”といった表現がありますが、この町に住む人たちには、そのような社会通念は一切意味を持ちません。
本人の認識や自覚次第で、幾つになっても絶えず同じ若さでいられるのですから、自らの年齢はさておき、少しでも自分より年上だと“あの爺さん”とか、同年代には“あの親父”とか、少しでも年下だと“あの坊主”などとなってしまうのです。
文頭に“怪物のような老人”と書きましたが、訂正しておいた方がいいかもしれません。
この町の住人たちの多くは、自らを老人とは思ってもいなさそうですから。(2008.11.10)
ご挨拶94
ハロウィンも終わり、今年も感謝祭とクリスマスを残すだけになってしまいました。
私の住むアメリカの退役軍人村では、4日の大統領選挙と11日のヴェテランズ・デーという大イベントを控え、年末が近いことなど二の次のようです。
さらに先週、スービック港に7千人ほどの兵員を搭載した空母が入港したばかりか、海兵隊の輸送船や海軍の巡洋艦などが続々と寄航し、あっという間に1万人以上の軍人で町が賑やかになったため、“スービック米海軍基地が再び蘇るのでは?”という期待が、退役軍人たちの間で一気に高まっているようです。
世界の情勢も金融危機も何処吹く風。米貨の暴落も解消し、“この町の支配者として再び君臨出来るのでは?”という甘い夢に浸っているのかもしれません。
彼らの夢は夢として、8月以来、かつての極東最大のスービック海軍基地に原潜が頻繁に入港し、定期的に海軍の輸送船も寄航しているのですから、アキノ大統領時代に定めた“外国の軍事利用及び便宜供与を一切禁ずる”という憲法はどうなってしまったのでしょう。
アメリカのテロとの戦いという大義名分に巻き込まれてしまったためなのか、あるいは退役軍人以外にも“美味しい夢よ、もう一度”と願っている人がいるからなのか私には分かりませんが、何かしらのんびりとしていた町が急激なスピードで変化していることだけは確かなようです。
ヴェトナム戦争体験者の老人たちが眉をひそめ、ため息混じりに首を左右に振っているのに対し、壮年の退役者やイラク帰りの若い退役者たちは、職を見つけるチャンス到来と連日バーで盛り上がっていますが、彼らの笑顔には、他人の不幸は蜜の味という思いが含まれているようです。
一部の退役者の中には、“この不景気を一転させるためにも、一刻も早くシリヤやイランを空爆するべきだ”と考えている人もいるとのことですから、平和というぬるま湯に浸って生きてきた私には、この町の変化は刺激が強すぎるかもしれません。
何事もない平穏な年末を迎え、うたた寝をしながら紅白歌合戦をのんびりと見ていられるよう密かに願うばかりです。(2008.11.3)ご挨拶93
異常な円高に驚くとともに、ペソとの交換レートも何年かぶりに1万円が5千ペソを超えたことが嬉しくなって、つい小躍りしてしまいました。
世界的な金融危機に株価は暴落し、国際経済のファンダメンタル貨幣だった米ドルが1ドル90円台。
ユーロも120円台と、1ヶ月前には想像も出来なかった事態となっています。
根拠はありませんが、長い冬の到来を感じてなりません。
通貨を商品としたマネーゲームの時代は終焉し、未だ人類が遭遇したことのない未曽有な時代の到来を懸念させるという経済学者もいるのだとか。
“もうバンドエイジで用が足りる対処療法ではどうにもならないことを認識すべきだ”との警告も聞こえてきます。
不謹慎かもしれませんが、失うものが何もない私にとって、この事態は対岸の火事どころか、ペソ安大歓迎となってしまうのですから困ったものです。
出来ることといえば、毎日のテレビニュースを眺めては、“世の中は大変なんだ”と呟くことだけ。
世界の頭脳が結集して事態解決に対処するのですから、早晩に状況は好転することでしょう。
警告を発する人たちの心配が危惧に終わることを願うのみです。
私はこれまで、眠れぬ夜が続いたというような経験をしたことがないままに、この年を迎えてしまいました。
経験する以前に、いつも蚊帳の外といった人生も悲しいことかもしれません。
負け惜しみになりますが、幸か不幸かカエサルの恩恵に浴することなく人生の晩年を迎えてしまったようです。
1975年4月から始まったサイゴンの陥落、続いてプノンペンの崩壊、そして自分の身の丈よりも長い銃を持ったパテトラオの少年兵たちが、ヴィエンチャンに入城した7月までの数ヶ月間の理解を超えた体験以来、低空飛行をしながら世界各地で見続けることとなった歴史のターニングポイント。
そして今、カエサルのものはカエサルに返す時が来たのかと思いたくなりそうな世界的金融危機に、歴史の中で幾度となく繰り返されてきた人間の欲望と、驕りの末の結果を感じずにはいられません。
世の中がマネーゲームから生存のためのサバイバルゲームの時代へと変化しても、私の生活には何ら変化はなさそうです。
自然採取生活や物々交換の暮らしの中でこそ、自分自身の生存の意味を見い出すことが出来るのかもしれません。
なんら変わりないいつもの日曜日の午後、朝の晴天が嘘のように雨が降り出しました。
テレビニュースと窓の外を交互に見ながら、“今日の昼食のパスタもやっぱりうまかった”と満足している自分自身を、とても愛おしく感じてしまいました。(2008.10.26)ご挨拶92
スローペースではありますが、このところ少しずつ更新を行って来たつもりです。
しかしピットインの季節となり、またまたペースダウンで今年4回目の検査入院。
回を重ねる度に、入院するのが怖くなっています。
“最近の快調さからして、以前の健康状態に戻りつつあるのかな?”などと甘い憶測に救いを求め、精神の安定をはかろうとしています。
手術直前は、“生きていたい!”という望みから、“生きるためならば、手術でも何でも怖くない”という考えがありました。
しかし正確に自分の心の解析を試みてみると、当時私には、手術の怖さを感じるだけの余裕が全くなかったように思います。
それが、術後6年も経つとこの体たらく、弱虫の本性に呆れてしまいます。
死と向き合う恐怖よりも、生への執着が強まることから生ずる諸々の雑念に、右往左往している毎日なのです。
あれこれノイズに惑わされていた間に、雨期もいつの間にか終わってしまいました。
一刻も早く、海に浮かんで真っ青な青空を眺めていたいという思いは、新たなノイズとなり、更なる生への未練を増幅させてしまっています。
強がって見せたいのですが、出来ない自分自身が情けなくなってしまいます。
次回の更新は、来月になりそうです。(2008.9.9)ご挨拶91
8月も明日で終わりますが、予測したほどの降水も台風の被害もなく、このまま雨期を越すことが出来るのかが気になっています。
台風はこれからシーズンになるのですが、どうなることやら……。
なにせ、ここはフィリピンです。何でもありの国ですから、気を抜くことは出来ません。
黴に襲われる恐怖から解放されるだけで十分有難いですから、多くを望むことは厳禁です。
今年は、今まで電話が不通になることもなく、停電の回数も昨年までとは大違い。
その代わりではないのでしょうが、想像を超える物価の高騰。
車のない私にとって唯一の交通手段ジプニーやバスがオイル高を反映して、これまた値上げ。
増えるのは支出ばかりで、ロビンソン・クルーソーには笑い事ではありません。
観光ビザでの長期滞在ですので働くことも出来ず、不可能に近い節約生活をするより策はないのですから困ったものです。
この島に漂着した時には、どうせ2〜3年ももてば最高と考えていた命が、貧困と反比例するかのように伸びているのですから皮肉なものです。
当初の計画は大幅に狂い、軌道修正も不可能。正に人生とは意のままにはならないものです。
長生きするには、貧困なる食生活をすることが秘訣なのかもしれません。
こうした絶体絶命の状況にも拘わらず、青い空や遠目に見える美しい南国の海のお陰か少しも暗い気持ちにならず、気分は爽快といった毎日にこれで良いのだろうかと首を傾げてはみるのですが、一向に深刻にならない私。
これすなわち、南国のいい加減さに身も心も浸りきってしまい、見事な能天気色に染め上がってしまったことを意味しているのかもしれません。
時折我が家のトタン葺きの屋根を襲う、バケツの底が抜けてしまったような激しい雨音にもすっかり慣れ、暗闇を裂く様な稲光にも風情を感じる雨期の生活もなかなかのものです。
明日になれば明日の風が吹くのだから、小さい頭で考えてみても何も始まりません。
水低きに流れるは自然の摂理、逆らうような愚かしさとは決別して、流れに身を任せていれば、いずれ大海に辿り着けるのだからと、疑いもなく思えてきてしまったのですから、十分に人間失格の条件を満たすことが出来たようです。(2008.8.30)
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団塊世代のための暮らし方 海外編
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