ちびくろサンボ その1)
言うまでもなく、正義とは正しい事です。
しかし、自ら正義を主張する方々の言動が常に正しいとは限りません。
例えば、社会に対し言論を統制したとしたら、どうでしょう。その理由が如何に正義であっても、正しいと言い切れるでしょうか。
一般的に、そうしたファシズム紛いのことは為政者が独裁のために行う物と信じられていると思います。ところが近年、表現物に於いて特に顕著な事ですが、そうした統制は市民が自ら行っているのでは、と感じられるのです。

さて、私は古本屋通いを趣味としております。
古本屋通いでは、テーマを決めて本を集めるということもしており、過去には童話「ちびくろサンボ」をコレクションしたこともあります。これを収集するきっかけから書いてみることにします。
「ちびくろサンボ」は皆さんもご存知でしょう。1899年、イギリスで初版発行の、ヘレン・バナーマンによる童話です。現在入手できる本としては「ちびくろさんぼのおはなし」が、作者自身の挿絵によるもので、お勧めだと思います(なだもと まさひさ訳/径書房1995年5月刊行)。
この他、アメリカでは黒人作者ジュリアス・レスターの手によるものもあり、お勧めです。
さて日本では80年代後半に「ちびくろサンボ」は差別的であるとして、絶版となりました。これは日本のみの出来事で、アメリカでもイギリスでも絶版にはなりませんでした。
さて、先の「ちびくろサンボ」ですが、ご存知の通り主人公を生まれ育ちや職業・信条によって不当に辱めたりおとしめたりする場面はありません。差別ではなく、差別を連想するのだとされたことによります。
私はその出版の規制理由に納得がいかず、古本屋にあるあらゆる版の「ちびくろサンボ」を買い集めることにしたのです。
差別が許されないのは当然至極のことです。しかし、それを「ちびくろサンボ」を絶版とする理由に、私はあまり実感がわきません。
差別とは、社会にある不平等を利用し、被差別者を特定して、それに対し優位を確保してやろうとする行為といえます。
現在、社会全体で差別撤廃の啓蒙が進んでおり、社会にある不平等をもって他者に対する事、つまり自分の優位性確保に差別を利用する事は出来なりつつあります。また、差別というさもしい行為自体も社会が許容しなくなってきています。それは誠に良いことです。そして、差別がなくなることに伴なうなかで、差別を助長する表現も許容されないものだと考えるのは自然ではあります。しかしながら、差別を描いていない「ちびくろサンボ」が槍玉に挙がるのは、どうも不可解です。

さて「ちびくろサンボ」を惜しむ人、絶版に反対する人は出版社の姿勢にも批判的な意見を持った様です。それは、およそ「差別ではない表現でありながら絶版に踏み切るとは、めんどうな批判を避けようとしたからではないか」と集約できるかと思います。
しかし、私は「ちびくろサンボ」を差別だとする抗議に対し、出版社が辟易したのではないかと感じました。
「ちびくろサンボで私は差別を連想するのだ。」という抗議には、「私は正義だから、私の意見の素晴らしさを理解して当然だ。」といわんばかりの嵩(かさ)にかかったような姿勢が見て取れます。これでは嫌気がさすのも無理はないと思うのです。
さて、ちびくろサンボの絶版に関し、例えば雑誌『週刊金曜日』で絶版派と再販推進派双方の論争がありました。客観的に見ても再販推進の論が圧倒的に道理が通っていたこともあり、現在は無事再販されています。この再販と引越し等が重なり、現在コレクションは手放しております。(続く)                           
ちびくろサンボ その2
前回からの続きです。

差別に該当する言葉、いわゆる差別語ですが、昨今ではこの言葉を使うことは、差別を行うのと同じだと理解されているようです。まるで、悪魔の呪文の様でもあります。
差別語は、その発語者に差別の姿勢があるからこそ出る言葉だとすれば、差別語を使わないようにするという姿勢には意義があるかと思います。
しかし、差別語というのはそれ以外の言葉と識別はできるのでしょうか。また、そうした差別語の扱いは、差別の姿勢を無くそうとするものだと理解されているでしょうか。
先の「ちびくろサンボ」の絶版要求が「差別」ではなく「差別を連想する」というものであったことを思い出してみても、大いに疑問です。そして先の「ちびくろサンボ」に見られるように連想しさえすればよいのであれば、どんどん差別語は増えていくことにならないでしょうか。
例えば「土着民」や「土人」が差別的として近年のNHK等のドキュメンタリーでは「原住民」となっていたりします。これは、植民地やその支配を連想する、あるいは野蛮だと連想するからだと想像します。しかし現在では、アメリカ・インディアンやオーストラリアに住んでいた人種を指して「先住民」という言い方になっています。新しい言葉だと思うのですが、これはひょっとして差別的な連想があるといった話になっているのでしょうか。
さて、そうなりますと差別という卑しい行為がなくならない限り、次々に言葉を作ることの繰り返しになります。
この繰り返しを先の「土人」で見てみましょう。「土人」は、もともと土地に生まれ住む人を指します。植民地時代の俗称に迎合して「土人」を悪いイメージで捕らえる方が間違いではないでしょうか。大体、過去のドキュメンタリーを見ても平和を愛し、土地の自然と一体となって生きる人々として描かれていますから、決して悪意のこもったものでは無いのです。こうした悪意をこめない使い方の出来る言葉であっても、現在は用いていないのです。
一方で、先に連想すると書きました。これは聞き手が連想さえすれば、いくらでも発言者を差別者として糾弾できることを指します。この連想という動機は、次々と糾弾を生む事にならないでしょうか。
つまり「自分は差別をする為に言ったのではない」「この言葉の語源は差別的ではない」或いは「語義は差別と関係ない」としてもなお、その言葉を不愉快と感じる人さえ居れば差別者として扱われることになります。誰しも差別が良いことだとは思わないわけですから、差別者呼ばわりは迷惑です。その言葉さえ使わなければそんな汚名をきせられる事もない。結果、その言葉は封印されていくという事が繰り返されることを意味します。
また言葉を狩る側の狩り立てる側の勝手な連想で、正義の名の下に嵩にかかった言葉の封印が行われているとも考えられます。もしそうなら、世間では差別を無くす運動が実を結びつつあるのと逆に、差別語だけが増えているという事に繋がってしまいそうです。
差別を予防するため、特定の言葉を差別語かどうかで選別するという行為は、一見正当性があります。しかし、これと平行して差別語が増えている、これが差別をなくしたいという動機によるものだとすると、実に不思議な印象があります。

さて、こうした言葉狩りの攻撃ですが、表現に関わる出版社や放送局がこれを受けたらどうするでしょう。当然、企業は利益に対する効率を考えますから、避けて通る方が楽です。現在、放送局には言葉狩りリストがあり、マニュアル化が成されているとされます。これも本当にあるとすれば、企業効率という点では妥当な話であるともいえます。
その結果、リストにある言葉さえ使わなければ、あとはどうでもいい、問題はないという認識を生み出している様に思います。また、それら表現物を手に入れる我々さえも、言葉を避ければそれでよしとしている感じもあります。それは言葉狩りが的外れであればあるほど、その行為から逃れる為の正常な反応だと言えるかもしれません。
こうして見ると、本来の差別を止めさせようとしているとは言えない様に感じます。むしろ差別への形を変えた迎合みたいで、なにがなんだかよくわからなくなります。(続く)
味噌煮込みコアラ事件
前回から、言葉狩りについての続きです。差別が許されないのは当然です。私たちの社会は民主主義社会ですから差別があっては成り立ちません。ですので、生まれや育ち、病歴や障害をもってそれらをレッテル化する行為は差別とみなされ、そのレッテルに使われる言葉は差別用語とみなされます。現在、さまざまな啓蒙活動を通じて、差別的行為の一部は行えなくなっており、今後さらに減少していくものと思えますし、実際にそのようです。結果として意識して言葉を差別的に使おうとする意図、つまり差別をしようとする卑しい意図は無くなっていくはずです。
さて、それと共に言葉狩りは現に実施されています。
差別語を使ったから、穢れた卑しい人間だというレッテルを貼られた人もいるでしょう。このレッテル貼りの行為は、言葉による差別という行為に対して言葉をひたすら狩りたてている様に見えます。時には本の排除さえ行っているわけです。となると、こういう行為を続ければ差別はなくなるのか、という点が問題となります。これについては、先に挙げた「ちびくろサンボ論争」で既に徹底検証されているようですので、ここでは安易な「言葉狩り」の不毛さを抽出してみます。
言葉を狩り、抹殺を進める行為として『味噌煮込みコアラ』事件を挙げてみます。これは、とあるインターネット掲示板での出来事です。そこは東アジア、特にインドネシアに行った人が自由に語り合うインターネット掲示板でした。
「よろずインドネシア掲示板/http://yorozu.indosite.org/keijiban/main/349.html(現在、リンク切れ)」ここで用いるハンドルネーム(書き込みの際に付ける自分の愛称/いわゆるペンネームのインターネット版)に「味噌煮込みコアラ」を名乗った人がいました。このハンドルネームに対し、京子という人が差別用語だという指摘をしたものです。指摘内容を要約しますと『ハンドルネームに差別用語を使うなんて差別に加担している。多くの方がこの言葉について無神経なのが非常に不愉快。味噌煮込みは脳障害による知恵遅れを指す。味噌煮込みなコアラというハンドルネームに悪意を感じるので訂正せよ。』しかし「味噌煮込み」と「コアラ」は両方で名古屋を連想させる言葉です(味噌煮込みうどんは名古屋の名物で、名古屋の東山動物園にはコアラがいる)。その差別的用法というのは掲示板参加者の誰も知りませんでした。当然、「おかしいぞ?」という質問が連発し、それに対する回答として、この味噌煮込みとは、京子を名乗る人が勤めている養護施設で用いている隠語とのことだと判りました。つまり脳を指す"脳みそ"という口語に引っ掛け、障害による知恵遅れの脳があたかも混濁している様な揶揄をしているわけです。つまり、脳障害という重い障害の人が生きるためによりどころとしている施設において、そこに勤める人間がそういった姿勢でもって言葉を発しているわけです。
掲示板では京子なる人物に対して『問題は味噌煮込みという差別用語にではなく、味噌煮込みを差別用語として使う姿勢にある』という指摘がなされました。しかし残念なことに、結論は出ませんでした。京子なる人物が今度は別の名前を名乗って他人のふりで、本人である京子を擁護する投稿を行い、これが掲示板管理人に利用規則に反するとして指摘を受け、京子なる人物がそのまま去っていったことによります。この京子なる人物は、言葉の糾弾をしましたが、言葉を使う姿勢は改めなかったのです。
この京子なる人物は、今日も自分の勤め先である施設に於いて重度障害者に味噌煮込みという揶揄をこめた隠語を使って呼んでいるのでしょう。ここで挙げた味噌煮込みコアラ事件は、例としては極端かもしれません。しかし、差別の意図はそのままで言葉のみ狩って行くことの愚かさを示す一つの証拠として考えています。(続く)
放送 その1
昨今の言葉狩りの特徴として「誰が誰にどういう差別をした」ではなく、差別を「連想するものだ」というのが多くあります。つまり、想像がたくましい人ほど差別に関わっていくこととなります。こういった人が世の中にいる以上、例えば不特定多数に電波を飛ばす放送局では過剰に反応せざるを得ない面があります。そこで、過剰反応と考えられるNHKでの例を挙げて見ます。
差別に関する言葉で「ジプシー」という言葉は現在差別を連想するとして使用禁止対象の用語です。この「ジプシー」は、現在は「ロマ」や「ロマ族」と言い換えるのが主流です。音楽には良く出てくるので馴染みのある言葉ですが、放送として電波に乗せる事が出来ないのです。NHK・FMにゲスト出演した音楽家がこの言葉の指導に驚いたという話をエッセーで書いていました。つまり「ジプシー音楽」というジャンルがある一方で、FMではジプシーとは言えないのです。
さてこのジプシーについて映画の放映から拾ってみます。先日、NHKでアメリカ映画スティーブン・キング原作の「痩せゆく男」(THINNER)が放映されました。
これは文藝春秋社にて翻訳されています。ちなみにリチャード・バックマン著となっていますが、これはキングの別名です。さて、内容ですが「ジプシー」に対して差別的に接した男(白人)が因果応報な運命をたどるものです。
ところで「ジプシー」の老人の台詞ですが、自分を「ジプシー(族)」とはっきり言っています。またこの「ジプシー」の老人が遊園地に占いコーナーを設ける場面では、ポスターにに「ジプシー」と書いてあるのがはっきり写っています。しかし、NHKで放映された日本語字幕はすべて「ロマ」となっていました。「ロマ」とはいわゆる「ロマ族」の事でしょう。これは正確にはインド北部を発祥とする「ロマ族」の人達で定住の地を持たず放浪を続ける流浪の民です。ちなみにヨーロッパ中で迫害を受け、今日ですら差別を受けているそうです。こうした差別を連想する「ジプシー」という言葉を別の言葉に置きなおしたものと考えます。
こういった人種に関する書き換えでは、他に「エスキモー」があります。エスキモーはというと、もともとはインディアンの言葉で「生肉を食する人」の意味があったそうです。現在「イヌイット」と呼ばれています。この名称は差別用語だとしてカナダ政府が呼称を改めたものです。これに伴なってイヌイット自身も「イヌイット」と自称する一方で「エスキモー犬」は使っていた様です。
ところが近年、アラスカの先住民はそのイヌイットという名称に嫌悪感を示し、自らをエスキモーだと主張しているとの事です。
さてそうなりますと差別の意思を持たない我々は、差別語を避けるために用意された「イヌイット」を使うべきなのか、ご本人らが自称する「エスキモー」を使えばいいのか迷ってしまいます。
さてここで仮に「ジプシー」が「ジプシー」と自ら名乗る場面がある映画を「差別を連想する」ものだったとして(もちろん、NHKが放送したこの「痩せ行く男」は差別を助長する映画ではありませんが)これを「ロマ」と言い換えて放送したらどうなるでしょう。今度は「ロマ」という言葉が差別を持って伝わることになり、言葉を狩ったところで振り出しに戻る事が想定されます。NHKは「ロマ」の次に、どういう言葉をもってくるつもりなのでしょうか。(続く)

※テレビ朝日04年2月21日中村雅俊ヒューマンドキュメント「アラスカの星」からの引用です。
ちなみに神名龍子女史から頂戴いたしました情報ですが、ネイティブ・アメリカンに「アパッチ族」や「イロコイ族」があるように、いわゆるエスキモーもいくつかの部族に別れているとのことです。
その中にいくつか「何とかイヌイット」という部族があって、それ以外の部族をイヌイットと呼ぶと、「自分たちはイヌイットではない」という答えが返ってくるとか。では何と呼ぶのかというと、エスキモーと呼んでくれといわれるとの事。
察するに、この「エスキモー」を「イヌイット」として呼び変えるという動きは、反差別を掲げる白人と「何とかイヌイット」の中の一部の人間が声を上げた程度のもので、ほぼ当事者不在のものだったとも想像されます。そうしますと部族名はともかくも、総称として「エスキモー」を使って呼ぶのが自然だという事になります。
放送 その2
さて、前回からの続き、アメリカの映画にジプシーが「ジプシー」と自称する場面をNHKが放映にあたり「ロマ」と置きなおした件です。この事はちびくろサンボと同じ状況が発生しているといえます。
黒人がマイノリティとして同じ社会に存在しているアメリカでは、糾弾によるちびくろサンボの出版停止はありませんでした。これは意外に思います。特に1960年代の公民権運動までは白人専用レストラン、あるいは白人専用車両といった肌の色による差別を社会全体が実施していたのですから、日本より遥かに過敏なはずです。しかしながら、ちびくろサンボ根絶の話は無かったそうです。つまり日本では隠したり言い換えたりしているのに、人種の坩堝(るつぼ)のアメリカでは堂々と放映されている。本来、黒人差別が無かった日本におけるNHKの対応は、過敏だと考えています。
また、映画に登場するジプシーの老人がジプシーと自称するのをロマに書き直すということは、NHKが「痩せ行く男」に登場するジプシーの老人を差別に無自覚な老人と捕らえているからでしょうか。
もし、世の中にある「ジプシー」という言葉をすべて「ロマ族」におきなおしたとします。さて、差別は解消するでしょうか。
「ロマ族」をインターネットの旅行記で見て見ると、今日ですら差別の対象です。「ジプシー」と「ロマ」は、現状混在して使われているようです。つまり従来の「ジプシー」という呼び名は主流ではなくなっているわけです。さて旅行記から抜粋。
『ブルガリア第2の都市プロブディフでの出来事です。まだ5歳ぐらいのちっちゃい子が物乞いしていた。その子は猛ダッシュで走ってきて、ズボンにしがみついてきた。』
『独特の生活スタイル・排他的な価値観から一般社会から隔離され、交わらずに生活しているのを見た。』
『国際列車の中で露骨に差別を受けている彼らを見た。ロマ族の人が車両に移動してきたら、他の乗客が降りたり移動したり。パスポートを列車の床に放り出したり。』
『首都の街中にある公園でお金をねだってきた男の子は裸足で傷らだけ。今にも病気になってしまうのではないかと思えた。ホテルの人がかまっちゃいけないというので追い払ったが釈然とせず、せめて小銭くらい渡せなかったのだろうかと思った。』
こうしてみると「ジプシー」をそのオリジナルである「ロマ族」と言い換えたところで、激しい差別が堂々と行われている事がわかります。
「ジプシー」という言葉は無くなりつつあります。これは差別反対と称し、言葉には過剰に反応して吊るし上げを食わせるという、言葉狩り推進者による結果です。しかし、言葉だけ無くなって差別行為だけ残った。実に間抜けな結果です。
日本の衛星放送でもスカイパーフェクトTVでは「ジプシー」を用いています。もちろん、差別を助長するためではありません。このスーパーチャンネルでは、汚れ役に「ジプシー」が出る番組の放送にあたって「映像中でジプシーという言葉が出てきているが、オリジナリティを尊重してそのままにしてある。ジプシーは今日も差別されている事実がある。が、本人らも誇りを持って自らをジプシーといっているので、尊重した。」としています(「カサンドラ/愛と運命の果てに」から)。こうした自らの呼称を尊重する、これこそ差別を解消する意志の表れとは理解できないでしょうか。(続く)
放送 その3
前回からの続きです。

NHKではことのほか、こういった過剰反応、つまり差別を連想させる内容の排除が好きな様です。しかも言葉の排除や置きなおし以外にも展開していました。
これに関し、連続TV番組で一部が放送中止という事件について触れてみます。人気海外ドラマ「ER」第6シリーズの13話、14話が放送されず、15話に飛んだものです。ここでは、シリーズに影響する大きな事件が起こる、とても重要な回です。人気キャラクターの医者が合併症(いわゆる精神分裂症)の患者に刺され死亡してしまいます。この2話が飛んだことから、人気のあるキャラクターはいきなり出てこなくなるし、やる気満々の医者らは忙しくはたらきつつも、妙にどんよりとしているしと、視聴者は混乱する一方です。
この2話については、冒頭で簡単な説明のテロップで済ませたようですが、シリーズの中では絶対に抜いてはならない話です。
人を助けるという治療を残酷なまでの演出を通じて描き、これらの仲間を必死で助けようとする姿を詰め込み、また同時に悲しみを詰め込んだところでもあります。
ちなみにこの2話に関する情報として、アメリカでは25%という高視聴率を記録、また全シリーズ中、いちばん心に残った話として挙げられるとのこと。アメリカのTVシリーズをでは人気キャラクター降板に合わせて大きなストーリーの山があるのが普通ですから、凝りにこったストーリーだった事が伺えます。
NHKによる、放送中止の説明は番組を含めて無し。民間の報道によって「特定の病気の方に対する偏見を深めるおそれがある」との見解が報道されました。
当然ですが、直接には特定の病気の人を差別するような場面はありません。
これは、考えようによっては若者に「ある特定の病気の人は、TV画面に出ることすらタブーとされる存在だ。」と教えたことになります。となりますと、日ごろは口にも出せないなと考えるようになり、それが隠語を生む動機となり、そして新たなる差別語の発生とはならないでしょうか。
ちなみに、先日発売のDVDにはこの放送されなかったされた話は入っています。連続もののストーリー展開を見逃した人はDVDを買うことになります。
(まさか、NHKがDVD販促の為に結託したなんてことは??)(続く)

補記:聖書にも言葉狩りを、という話も聞いた事があります。
結果はどうなったのでしょう。
言葉と表現:敵性語 その1
言葉を狩るという行為は、実は昨日今日に始まった話ではありません。
敵性語というのも言葉狩りの一つと考えます。言霊として取り上げられたこともあり、ご存知の方も多いかと存じます。(井沢元彦著『言霊』、『逆説の日本史』、『穢れと茶碗』、『「言霊の国」解体新書』、『「言霊の国」の掟』等参照。)
敵性語の禁止とは、太平洋戦争中に敵国である米英の言葉として英語の使用を禁止したことを指します。外来の言葉、特に米英の表記を別の表記におきなすものです。「パーマネントウェーブ」を「電髪」に、「サンデー毎日」は「週刊毎日」、「パイナップル」は「松かさ林檎」といった具合です。
この敵性語に関して、戦時中は日本中が敵性語を発しないかとぴりぴりしていたみたいな印象で今日伝わっています。しかしながら、実際には英語を禁止していたことはありません。最前線で敵と向かいあう軍隊も、敵性語に当たる言葉を使っていたことにもよります。
どうも、一部のマスコミや市民らの自己規制によるヒステリックな「敵性語」追放運動があったのではないでしょうか。つまりは法律や通達などで敵性語を禁止した訳ではないのです。自己規制という雰囲気で実施したものだと考えられます。
例えば、戦時中も軍事に関して外来語やアルファベットは普通に使われていました。
例を挙げると日本海軍の零式艦上戦闘機の通称はゼロ戦です。漢数字の「零」の音読みは「れい」ですから、この通称は英語のZERO(ゼロ)から来ているわけです。しかし、これは戦争中から既にゼロ戦、あるいはゼロ式と呼ばれていたそうです。また、ゼロ戦にもいくつか型があり、21型はA6M2b、最終型の52型はA6M5と分類されています。サブタイプの正式表記にアルファベットが使われていたのです。また戦時中の書籍で私が古本屋で購入したものにも外来語が沢山載っていました。『科學畫報(科学画報)』には装甲陣地を「トーチカ(ロシア語)」と書いてありますし、オランダ語等の由来による医学器具関連用語もそのまま使ってあります。
極端に言えば、外来語の使い方は今日と大してかわらないわけです。
さらに昭和19年の『科学朝日』には「プラスティック」「プライウッド」「ブルトーザー」「トラクター」「スティームタービン」等のカタカナ外来語が当たり前の様に使われていました。まあ、どちらかといえばインテリの読む雑誌でしょうが、それにしても一般の書店で売っているものです。そればかりか、米軍が南方の島を飛び石伝いに上陸・確保する作戦に出るであろう事も予想されています。実際、米軍は太平洋の島々を順番に進軍をしています。そして、日本を空襲して焦土にした巨大爆撃機B−29のおおよその性能や米軍爆撃機の生産能力についても、かなり正確に詳しく書かれています。そこまで判っていたら何とかできなかったのか?という気がしないでもありませんが、いずれにせよ我々に植え付けられている「戦前」「戦中」というイメージは一度疑ってみた方がよいのかもしれません。(続く)
言葉と表現:敵性語 その2
さて、ここで敵性語の図式をじっくりみてみると『○○の言葉を使う人を△△としてあつかう』と見えてきます。戦争遂行の立場からこの○○と△△に具体的なものを入力すると、「敵性の言葉を使うと非国民としてあつかう」というのが戦時中の敵性語狩りの図式となります。
これを近年に入れなおしてみましょう。人権尊重の立場から「特定の言葉を使うと反人権としてあつかう」と言う事が出来ます。
こうして並べて見えると何の事はありません、人にレッテルを貼りつける行いは一緒といえます。先に、過剰と書きました。こういったレッテル貼りが好きな人は時勢に合わせて、吊るし上げる犠牲者を探して正義ごっこをしている人ともいえます。その過剰さの本質は、差別反対と人権尊重にあるのではないと考えます。試しにこんな人を戦争中に移動でもさせれば、たちまち敵性語に飛びつくのではないでしょうか。正義ごっこのダシにする犠牲者を探し出しまわり、そして「非国民」呼ばわりをするでしょう。これを時勢に迎合した逆差別というと、言い過ぎでしょうか。(続く)
補記:
敵性語に関する補足。先ほど、敵性語狩りを雰囲気的なものと決め付けましたが、その点について、先に古本屋で購入した戦時中の書籍を例にだしました。
また加えて、あたかも当時は敵性語を口にしないように互いに見張りあっていたような印象で今日伝わっているのが誤りである点(スターリン時代、文革時代、そしてヒトラー時代みたいな密告奨励の様な)について、以下もご参照ください。
『お言葉ですが…』(高島俊男、文藝春秋)の最新刊『お言葉ですが…(4)猿も休暇の巻』から一部を引用します。
『戦中神話、とでも呼ぶべきものがある。(略)
 その最たるものは、「英語が禁止されていた」あるいは「英語教育が禁止されていた」という話だ。こういうことを言う人たちのバカの一つおぼえが、「野球でセーフを『よし』、アウトを『だめ』と言った」の類である。そんなのはごくごく一部のことだ。軍の学校でもセーフ、アウトでやっていた。一般は言うまでもない。(中略)
 野球のことから話をひろげてその種の人たちは、日米開戦後アメリカでは日本語教育がさかんになった、日本は英語教育はもとより英語を使うことさえ禁じた、日本人は近視眼だ、狭量だ、愚かだ、と話をもっていく。ルース・ベネディクトが言っているように、アメリカにとって日本は、知らない相手であった。日本語のわかる者もごくすくない。ケンカ相手のことを知ろうとするのは当たり前だ。それと、何百万の人間が英語を習い、英米の書籍の翻訳が充満し、英語を話す者読む者なんぞ掃いて捨てるほどいる日本とがいっしょになるものか。 
 野球の「よし」「だめ」と、「アメリカでは日本語教育がさかんになったのに、日本人と言えば……」とをしたり顔して言い出すやつは、浅薄人間と判定して頭から信用せぬがよい。(中略) 英語教育が禁じられていたというのももちろんウソである。』
言葉と表現:ドラえもん その1
藤子不二雄の代表作で且つロングセラーの「ドラえもん」ですが、ご多分に漏れず、言葉狩りがなされています。
これにより、二つの懸念を挙げてみたいと思います。その懸念点を紹介する前に、単行本の状況から。
「ドラえもん」は、皆さんご存知でしょう。主人公のび太は、なにをやってもうまくいかない泣きべそ、しかしながら失敗にも懲りないしたたかな面もあり、また心優しい少年です。ちっともヒーローではないのに子供心にも感情移入できるキャラクターです。またその他のキャラクターも非常に特徴的で且つ愛される存在です。ヒロインしずかちゃんで精通を迎えた男の子もいる等の意外な愛し方もあるロングセラーです。1974年にてんとう虫コミックスから発売された「ドラえもん」の第1巻は、2002年に150刷を超えています。親子二代の読者もあるほど、長きに渡って読まれ、人気を呼んでいるのです。
さて、かなり以前になりますが、「ドラえもん」を読みなおす機会が有りました。ところが子供の時に読んだ記憶からすると随分違う印象がありました。この違いは、言葉が書きなおされていることによるものでした。まず1巻において『馬と竹のあいの子で』という台詞が『馬と竹の間の子で』となっています。これにより、それぞれの特徴を掛け合わせたという意味合いは無くなっています。
その他、2巻で「なにっ。のび太くんは二十歳でこじきになるって。三十歳で、気がくるって、四十歳で、首をつるというんだよう。」が「なにっ。のび太くんは二十歳でホームレスだって。三十歳で、病気になって、四十歳で、死ぬというんだよう。」となっています。悲劇である点が単に死ぬ事で片付けられてしまいます。余計なことですが、お気の毒にも四十代でお亡くなりになる人は居ますから、そういった人への配慮というのはしなくてもよいのでしょうか?
言葉狩りは差別をしないさせない事から善意で行われているものだと思います(少なくとも前提としては)。もちろん、差別はあってはいけないことです。だからといって、過剰に反応するのは如何なものでしょう。兎に角、言葉だけは狩るのだという風潮をここでも見た気がして、随分不愉快な思いをしました。
この時点で「ドラえもん」に関する言葉の置き直しが言葉狩りのベクトルと同じである点に気付いたのですが、現在その実体は把握していません。第1巻が発行は1974年。2002年11月現在で45巻まで出ております。こうなると各巻毎に版を遡って言葉の変遷を追う必要があり、実際のところ相当な手間が想定されます。言葉狩りに対するささやかな反対行動は『ちびくろサンボ』を収集するという形で実施しましたし、また他のことにも時間や予算をとられたこともあって『ドラえもん』の調査は手付かずのままになっていました。しかし、それでも今後の動向に注目したいと思うのは、次に述べるような予感というか懸念があるからです。(続く)
言葉と表現:ドラえもん その2
前回からの続き、ではその懸念を挙げてみます。それは作者が亡くなったにもかかわらず、出版社やプロダクションが改竄(かいざん)を進めるのではないかということです。例えば最新刊の45巻にも、ひょっとしたら将来書き換えられるのでは?と予想される言葉が若干あります(少なくともアニメーションの「ドラえもん」では聞かない言葉)。
こうした言葉を作者の死後に第三者が改訂できるのかどうかという問題について、昭和の大漫画家、手塚治虫の復刻版の例を見てみましょう。
まず手塚治虫の作品の最後に注意書きが付くようになりました。これは手塚治虫漫画全集から付いたものです。作者が没し、差別に対する風潮が強くなったため付けられ、他社がそれに倣いました。ところどころ文章は違いますが、大意は同じです。「角川と手塚プロの姿勢」ではなく、「講談社と手塚プロの姿勢」と考えられます。
以下、抜粋です。
『手塚治虫初期傑作集の本文庫の中にはいろいろな国の人物が登場しますが、ステレオタイプ化されて描かれています。
作者にはもちろん差別意識はなかったと思います。本シリーズは長い間多くの人々に愛されてきたと同時に、作者のほかの作品と同様に生命の尊さがテーマとして、全編、根底に謳われております。
今日、こうした描写を差別と感じる人たちがいる以上、その声に真剣に耳を向けねばなりません。私たちはもとより、あらゆる差別に反対し、差別がなくなるよう努力する事が出版に関わるものの努めと考えています。作者は1989年に他界し、作品を改定する事が出来ません。第三者が作品に手を加える事は、けっして適切な処置ではないと思います。このような状況の中で、私たちが今、原作のまま出版いたしますのは、テーマを社会に広く訴えることに大きな意義を認めるからであります。それと同時に読者の皆様にもこの作品に接するのを機会に、現在もなお、さまざまな差別が存在している事実を認識していただき、人権を守ることの大切さについてあらためて考えていただきたくお願いするしだいです。』
なるほど、差別と表現と言葉狩りのバランスに於いて、これこそとるべき姿勢だと考えます。私はこの角川と手塚プロの姿勢を大いに支持する次第です。
「ドラえもん」にもあると予想される不適切箇所は、今後どうあつかわれるでしょうか。言葉によっては改竄によって物語の性質が変わってしまうこともあり得ます。その危険を冒してまで、作者の他界した以降に改竄を行う編集者があるかどうか、これが今度の動向に注目したい所以です。
ただ、すでに書き直されてしまっている部分は、よほど注意してみないと改竄を見つけるのは難しいし、かといってその前の版と照合して確認するのも大変な手間です。
ご存知の方がいらっしゃいましたら、お知らせいただくと幸いです。
いずれにせよ、「ドラえもん」のプロダクションや出版元が「ドラえもん」の作者を三流と考えているなら、作者の他界後に改竄するのは勝手ですけどね。(続く)
言葉と表現:ドラえもん その3
前回からの続きです。
もうひとつの懸念は、より具体的な言葉の改竄についてです。
登場人物のジャイアンが主人公のび太をいじめる有名な台詞「のび太のくせになまいきだぞ」が問題になるかもしれない、というのがそれです。
何故?と思われると思いますが、どういう差別を連想するかを書いてしまうと、それに倣う人が出てこないとも限らないので省略します。ただ、過去の放送禁止歌や放送禁止用語、また言葉狩りの例からすると、ありえることです。
さて、この台詞ですが、これが改竄されるとジャイアンのキャラクターや存在まで変わってしまい、「ドラえもん」の世界が台無しとなります。
いじめっ子がいていじめられっ子がいる。いじめっ子自体も男気のある親分肌だったり笑えるほど妹を溺愛してみたり。そんな面があっても、やっぱりいじめっ子だという子供社会ならではの理不尽さ。また家庭の外の社会への漠然とした不安の象徴とも言えるかもしれません。
さて、このいじめっ子ジャイアンですが、べつに"のび太"という被差別者が過去には社会に認知されていたことを前提にいじめをしているわけではありません。要は「味噌煮込みのくせに、なまいきだぞ」といっているわけでも、「敵性語ユーザーのくせに、以下略だぞ」といっているわけでもありません。そういった性質のものではないのです。
それは「のび太」が固有名詞であることとも関係します。
普通「○○のくせに、、、」という場合、その○○というカテゴリーには複数の人が属しています。しかし「のび太」という人は一人しかいません。そののび太君が「のび太」自身であることそれ自体が、即「のび太のくせに、、、」というのですから、ある意味これ以上理不尽な罵りはないかもしれません。
もし、このジャイアンの言葉を狩ったとしたらどうなるでしょうか。ジャイアンは差別でいじめていた、差別主義者にしなってしまいます。これは「ドラえもん」のオリジナリティをどう考えるかの上で重要だと考えます。
ただ、アニメで「のび太のくせに」は既に無くなってはいないかと気にしています。現在は未確認。先日に小学2年生になる姪に、この「のび太のくせに」を尋ねてみたら、その台詞に印象がないとの事でした。サンプルとしてはこの1名のみですし、どちらかというと私と同じく衛星放送アニメーション専門チャンネルのカートゥーンネットワークのファンとかで「ドラえもん」は見ていない可能性もあります。まあ、それならTV放映を見れば判ることでしょう。ひょっとして「"ピーッ"のくせになまいきだぞ」という場面に出くわすかもしれませんね。
皆様のご経験から
さて、今回の『正義の味方の言論統制』ですが、これらはが以前に知人のHPにコーナーを借りて連載をしていたときの文章を再編したものです。
その知人HPで掲載を致しましたときも、掲示板をはじめ多くの反応が皆様から寄せられました。
特に、落語に関するご意見が秀逸でしたので、ここに収録致します。


☆タイトル:「同種の事例」 
  投稿者:Iさん
  漫画の古典で「言葉狩り」が猛威をふるっている話を面白く読ませていただきました。思い返せば手塚治の復刊本など、「?」と思わせる「修正」らしき個所に出会ったことがありました。

  ついでに、話題を提供させていただきますと、落語のCDも酷い!昔の落語家の高座が収録されているわけですが、ものがものだけに、「政治的に正しくない」言葉がどんどん出てくる。
「与太郎」を精神薄弱者に対する差別だ!などとやられたら落語は全滅するほかありませんが、現状はまだそこまで行っていないようです。ただし、最近の若手落語家は、往年の名人のようにきっぱりと「きちがい!」と叫んだりはしないようです。テレビに出られなくなったりしたら困りますから。
  さて、私の手許に、六代目三遊亭圓生の「子別れ」の二種類の録音があります。二種類と申しても、音源は同一。会社については省略させていただきますが、一方では、
「おとっつあんは、いい人だけど、学校行っていないから、うだつがあがらないんだ」
と圓生師が子供の声色で叫んでおります。
それが別の会社のCDでは、
「おとっつあんは、いい人だけど、(ボツという音)、うだつがあがらないんだ」
となっていて、意味が解らない。
要するに、「学校行っていない」というのを、1979年に79歳で没した演者に「無断」でカットしているわけです。ただし、「ジプシーがジプシーと自称する場合」と同じで、「6歳から高座に上がった」ことや「寄席育ち」を毎度自慢した六代目三遊亭圓生もまた「学校行っていない」わけでした。すると「学校行っていない」当人が、生涯に何十回(下手すると何百回)となく同じネタを上演したわけで、その度に、自分で自分を「差別」していたことになります。これがいったい「差別」なのでしょうか。
  深追いはこれくらいでやめますが、表現者自身の意図すらも踏みにじる種類の「差別用語」狩りは、文化そのものに対する暴行行為です。この種の行為に熱を上げる人物は、やはり戦中に「敵性語」といって夢中になった連中と同じ仲間でしょう。
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☆タイトル: 「Re: 同種の事例 」
投稿者 Aさん
なるほど漫画と同様の事態が落語にもあるんですね。
歌ならしょっちゅうで、「ハナ肇とクレイジーキャッツ」の復刻CDを買ったら、「シビレ節」の歌詞がブツッとカットされていましたし、「ザ・ドリフターズ」の復刻CDに収録されている懐かしいお勉強ソノシートでは「気をつけろ●●●●ゴリラだ!」の部分がやはりブツッとカットされていました。
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☆タイトル:「Re: 同種の事例 」
 投稿者 N 
落語も、CDも、とは驚きです。
本編では書かなかったんですが、アニメも酷いことになっていて、がっくりしたこともあったりします。
衛生放送で魔法使いサリーちゃんの再放送をやっていたんですが、視覚障害者の部分が"ブー"になっていたというのがあります。
(三十代の男が、サリーちゃんを見ながら手に汗を握って涙ぐんでいる様は、想像しないでくださいね)
サリーちゃんのクラスメートの女子に目が悪くなってメガネをかける事になったら、その様を男子にからかわれてメガネをかけるのをやめてしまうエピソードです。
サリーちゃんは魔法で視力を回復させるのですが、サリーちゃんの母親に魔法でむりやり視力を戻すと視覚障害を招くとして他の方法を採る様に説得されます。
最終的にそのクラスメートはメガネをかけて登校、やはりからかい始める男子たちに、サリーちゃんはよっちゃんらと一緒に「なによ、あんたたち!」っと闘いを挑みます。こうすることで、悪ふざけの男の子に、自分の行為は人を傷付ける行為なんだと気づかせ、からかいを辞めさせるというオチ。
人間世界に修行に来ているサリーちゃんが、魔法抜きの自分の力でクラスメートと共に物事にあたっていく様を描いた話しでもあり、サリーちゃんが魔法の万能さをひけらかすキャラクターではなく、等身大な女子と感じることの出来るお話でもあります。
が、その視覚障害が"ブー"なので、「なんかしらんが母親に魔法使用をたしなめられて、男子相手にキレた話」になってしまい、台無しとなりました。
漫画という世界を守り続けたいというのは常々意識するところですが、落語もCDも、そしてアニメも、志を同じくする人が多くいることを期待する今日この頃です。
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☆タイトル :「Re: 同種の事例」
 投稿者 Iさん
結局のところ「差別語狩り」というのは、今日の社会から「政治」や「権力」、「格差」の臭いを除去しようとする運動なのかもしれません。そして言葉の上だけでは、曖昧に平等な、曖昧に民主的で、曖昧に「癒し」で、曖昧にエコな、世界が生まれるのでしょう。しかし現実に差別や不平等がなくなったわけではない。むしろ卑劣な形で隠蔽され、粉飾されるわけです。
「戦後民主主義教育」がもたらした成果そのものなのかもしれません。例えば身体障害者は、たとえ「かたわ」「めくら」と呼ばれても、社会の居場所が与えられ、それどころか高く尊敬される可能性があったのが、真綿で包んで無害化された「身体障害者」という強制収容所に監禁されて、出来合いの「福祉」以外の可能性を断絶されてしまいます。
某国営放送局がやっている特集番組などで、「がんばる身障者」などを扱っているのを見ると、かえって私など差別に対する怒りがこみあげてきます。知的障害者が簡単な段ボール箱詰め作業で「社会人!」という話を誇らしげに映像にしたりします。そもそも段ボールに品物を入れる作業など、最低の阿呆でもできるわけです。身体障害者は、そんな阿呆な仕事しかできないのか!ふざけるな!これこそがまさに差別、身障者を無能力者として固定しようとする思い上がりです。
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☆タイトル:「Re: 同種の事例」
 投稿者Aさん
  > 真綿で包んで無害化され
  > 出来合いの「福祉」以外の可能性を断絶されてしまいます。
  それに関連して最近感じるのは、障害者に対する異常に丁寧な敬語の使い方です。「お体のご不自由な方が…なさっていらっしゃったので、私はとても感動しました」みたいな言い方をあちこちで耳にする。いかにも腫れ物に触るようにしている感じがします。敬語というのは使いすぎると却って失礼、あるいは逆にバカにしているようにもとられかねません。やはりその場に合った使い方が一番。障害者に対しては最上級の敬語を以て接さざるべからず、という硬直した雰囲気があるんでしょうね。主観的に相手を社会的な「弱者」と設定して高みから下賜される「猫なで声」には虫酸が走ります。
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☆タイトル : 「Re: 同種の事例」
 投稿者 Tさん
漫画などの「言葉狩り」の猛威の話し、興味深く読みました。
マスコミがこのレベルじゃ、言葉狩りはいつまで経っても終わらないよなぁぁぁ。
「愛子様はCDラジカセにご興味が深々でいらっしゃいまして、ボタンをおふれになって、音をお出されまして」と同列にまでなっている今日この頃のマスコミとしては、差別的雰囲気が感じられれば、鑑賞できようとできまいとおかまいなしで即削除とは、なるほどなるほど。
でもマスコミは形整え中身無し、っておもいます。
先日、朝の情報番組でのエコロジーな農園の取材での出来事。
"家畜の糞を肥料にしている""製材所のおがくずを、厩舎の敷物にしている""給食などの残飯を再加工して飼料にしている"
これらが驚きと共に紹介されていました。
でも、それって、当たり前。都会のTVスタッフがしらないだけ。
捨てたら産廃で費用が発生するので、再利用は当然。一般普及している再利用方法ばかり取り上げていました。
でも『廃棄物を再利用で大地の恵み。ああ、なんてステキなエコロジー』と頭がいっぱいなレポーターの次のせりふは、私的には驚きでした。
そこの農園で働く人は身体障害者雇用促進に協力していました。
レポーターは「えっ?働く人も!?」と言いました。
なんだなんだ、なんなんだ? "も"ってのは?
身体障害者は、予め色眼鏡でみるというマスコミ人の片鱗を見た気がしました。

☆タイトル:「今度は国際ネタ」
投稿者Iさん
今度は国際ネタを差し上げます。
岩中祥史という人が書いた『中国人と名古屋人―内村鑑三はなぜ、中国人と名古屋人を並べてこきおろしたのか!?』という本が売られています。そこに内村鑑三の文章だと称する引用があり、中国人と名古屋人は、けしからん、だめだ、と散々けなしているのですが、ふと私は考えました。内村鑑三の時代に、現在の中華人民共和国の住民は「中国人」とは呼ばれていなかったはずです。すると、「中国人」と言うのは、唐土の住民のことではなくて、山口や岡山のことなのではないのか、その方が「名古屋人」と並べても自然なのではないのか、と思ったわけです。
その旨を出版社(はまの出版)に電子メールで問い合わせたところ、おっとびっくりの真相がわかりました。1995年に出たこの本の当時の編集者に問い合わせたところ、引用文にある「中国人」というのは、実はオリジナルでは「支那人」と書いてあり、それを転記するにあたって「中国人」に変更したとのこと。

支那人変じて「中国人」に化ける。とっくに世を去った著者の文章ですら無断で書き換えてしまうわけです。こういう事例を目撃していると、巷に流通している文庫本の「古典」のテキストも信用できないですね。先に挙げました内田百間の文章も、初版本のテキストと比較してみないと安心できない代物なのかもしれません。


☆タイトル:「古典から」
投稿者:Iさん
江戸時代の学者の(総検校)塙保己一のエピソードをどこかで読んだことがあります。弟子と一緒に素読をしていたら、風が吹いてきて明かりが消えた。弟子が師匠を制止して、「明かりが消えましたので、一旦中止してください」と頼む。すると、師匠が平然と答えて曰く、「目明きは不便だね!・・・」

ついでに、内田百間の『百鬼園随筆』から、
「尤も盲人の指尖には、目明きの目以上の働きがあるらしくもある。越天楽変奏曲の作曲者宮城道雄氏は、盲人である。彼は点字の楽譜を指尖で読んで、バッハの序楽を自作の八十絃の筝で弾じた。忘年忘日彼は百鬼園先生に誨えて曰く、点字の書物は便利です。電車の中で読むにしても、おとなしく膝の上に置いて、指尖で撫でていれば解る。目明きの人が新聞を読むように、隣の人の鼻さきまで手をひろげるに及ばず、炬燵で読む時でも、掛け布団の下の、櫓の上に点字の紙を置いて、一枚ずつ撫でていけば手も温まり、書いてある事の筋道もよく解ります。寝床に這入ってから本を読む際は、特に目明きの人は始末が悪い様ですね。私などは目で読むのでないから、第一電気をともして置く必要もなく、従って眠る前に消すと云う面倒もありません。冬の夜など、寒いのに肘を露出して書物を支えるわずらいもなく、俯伏せになった為に肩が凝ると申すこともないのです。仰向けに寝て、展示の紙を布団の中に入れ、おなかの上あたりにのっけて置いて、ぬくぬくと温まった手で、その上を撫でて行けばそれで解るのです。その内に眠くなれば、自然指尖の感じも鈍って、そのまま寝入ってしまう丈のことです。私はおなかの上をさすりながら、八犬伝を読みました。百鬼園先生これを聞いて羨ましくなり・・・・」(新潮文庫85頁)

ちなみに、この新潮文庫版の最後が傑作、
「なお本作品集には、今日の観点からみると差別的表現ととられなけない個所が散見しますが、著者自身に差別的な意図はなく作品自体のもつ文学性ならびに芸術性、また著者がすでに故人であるという事情に鑑み、原文どおりとしました。」
もし仮に、芸術的でなかったり、著者が生きていたりしたら、「差別的な意図」がなくても勝手に原文を改竄するということでしょうか?
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☆タイトル:「Re: 古典から」
 投稿者 Bさん
 はじめまして
  連載の言葉と表現を興味ぶかく読みました。
>「なお本作品集には、今日の観点からみると差別的表現ととられなけない個所が散見しますが、著者自身に差別的な意図はなく作品自体のもつ文学性ならびに芸術性、また著者がすでに故人であるという事情に鑑み、原文どおりとしました。」
  これは本気に芸術性がいいたかったのでしょうか、差別的表現つっこみの言い訳をさいしょからかいておくのでしょうか、興味があります。
  読み物コーナーのドラえもんですが、従兄に私のを見せてくらべてもらったら、あちこちが書きかえてあるみたいでした。
  とても残念で差別的な表現にこだわる人にちっとも共感しなくなりました。

  落語の話題を見て、むかしは身体障害者でも、健常者と同じに話しかけれたんですね。
  私が小学校のとき、身障者にタメグチだとクラスメートにチクられ、先生に注意されましたが、他のクラスメートと同じにしたのに何が悪かったのかわからなかった。小学校に入る前から知り合いな人だったんで、タメグチじゃなきゃ、むしろ傷つけたのに。
 ハニワガ┌┫ ∵┠┘)"ハニワ  ではまた
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☆タイトル:「Re: 古典から」
 投稿者Aさん
  Bさまのレス、興味深く拝見しました。
  学校で障害者の友人に親しく話しかけたら注意された、というお話、妙に実感があります。ということは、障害のある友人には敬語で話すように、学校で指導しているのでしょうか。はたしてそれが教育なのでしょうか?
  正しい敬語などとっくに話せなくなっている昨今の若者が、障害者などの社会的「弱者」に対してだけ懸命に使おうとする敬語は、はっきり言ってかなり「変」ですね。尊敬語も謙譲語もいっしょくた、という文法面だけではなく、敬意がこもってなくて強迫観念に裏打ちされた敬語なんだもんね。


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