おわりに

むすび その1)
  さてここまで性モラル破壊の元凶のひとつとして、教師と教育に注目して考察してまいりました。
一部の教師たちはモラル破壊なぞお構いなく、自らの信ずる正義を推し進めておられるようです。彼らの掲げる正義とはつまるところ男女平等ということになるでしょう。
ところで本稿では性器教育を生み出す根拠たる正義、すなわち男女平等についての考察を十分に網羅し切れていません。これにつきましては、多くの先輩方が多くの時間と労力を注ぎ、男女平等という崇高な目標とは裏腹にその推進する内容が逆に男女平等の実現とは相容れない事や、そうした教育を強引に推進しようとする勢力に対する危惧などについて、詳細に論じておられます。これらは非常に勉強になるものですが、私がここで改めてまとめなおしても二番煎じとなりますので、誠に勝手ながらそちらへのリンクをもって代えさせていただくこととしましょう。
ご紹介したいものは数多くありますが、欠かせないものとしてホームページ「翼(http://tubasa.coh.jp/)」が挙げられます。
特に団地妻のユキ殿によるQ&A形式の「はじめてのひとへ〜男女共同参画入門編〜」は必読だと思います。翼ロゴの下にあります「初めての方はこちらへ」をクリック願います。
『男女共同参画は、「お互いの性を大切に」とされてあるのに、大切にすることがいけないことなのですか?』
『男女共同参画に反対するということは、女性の社会進出に反対しているということなのですか?』
『「女性に対する暴力」への対策にも反対するのは、女性は暴力をふるわれてもよいということなのですか?』
と、誰しもが抱く疑問を分かりやすく解き明かしておられます。
さてここまで、性のモラルの破壊を発端に、思いつくままにあれこれと述べてきました。
また性のモラルの破壊者は、一方では性に関して正義を唱える人でもある、その点を「構造的にロリータコンプレックスと変わらない」「内容的に時代錯誤」「性に政治的な正しさを求めている」という三点から考察してみました。
繰り返しますが、私がモラルの破壊者とした勢力は一方では正義を掲げています。それが男女平等ということです。また学校で性器教育が行われるに至る根幹となる思想として取り上げたジェンダーフリーについても、やはり男女平等という正義を成し遂げようとする思想の最右翼として知られています。
男女平等は立派な思想で、今日の常識でこれを否定する人などあり得ないでしょう。よって男女平等という思想が正義である以上、多少の違和感はしかたがないではないか、という意見もある様です。つまり、目的が崇高であれば、手段の不当性は問わない、という考え方です。性器を多少露わ(あらわ)にしたとしても、最終的に性の解放による男女平等がなされれば正義を達成できるのだ、というご意見も実際に見かけます。そして露わにする事への嫌悪感こそ、克服すべきものなのだという意見もありました。
言うまでもなく、私はこうした方法を用いなければ実現できない男女平等ということには、反対なのです。
男女平等は人権思想とも密接に関連します。そのためこうした男女平等という正義に対する異論は、そのまま人権を否定しようとしているとも断じられかねません。ですから、男女平等に関する異議や違和感と言うのは、なかなか表明しにくいものなのです。しかし思想という看板が立派な正義ならば、その思想に基づく行動はすべて正しいといえるでしょうか。
むすび その2)
正義の思想の例として毛沢東を挙げて見ましょう。
毛沢東の思想は、あれだけ広い国を一気にひとつの国にまとめ上げた、20世紀で最も意義深い思想だと位置付けられるのだそうです(と小学校で習いました)。
ではこの毛思想さえ身に付ければ、そこから正しい行動が生まれるものでしょうか。
カンボジアの元首相、ポルポトは1965年頃に文化大革命が始まろうとしていた中国に招かれました。そこで、農村を重視した毛沢東の社会主義政策を身に付けたとされます。首相となったポルポトは、かねて考えていた祖国の農村共産主義化を急速に進めました。ポルポト派による病人・子供を含めたブノンペン市民の強制的追放、通貨廃止、市場廃止、企業廃止、休日廃止。そして人々には農作業や土木工事に朝から晩まで従事させたのです。
その改革の中で、敵として位置付けられた人は弾圧を受けました。ここで敵とみなされたのは知識階級という定義に当てはまる人々でしたが、眼鏡をかけているだけで知識人とされ、処刑された人もいたそうです。とうとうポルポトは自国民の四分の一を殺害しました。そのすさまじさは、現在でも国民の約3割がPTSD(心的外傷性ストレス症候群)とされるほどだとか。さらに山と詰まれた肉親らの遺体に精神的ショックを受け、盲目になった人までいたそうです(後に明らかになってからの報道からですが)。
ところでポルポトがその革命を進めていたとき、日本ではその社会改革をもてはやしていたのだそうです。「搾取のない農村経済のもと、みんなが正しい意味で働きながら、まず自給を確立しようと赤色クメールが考えたとしても、まことに自然なことではないか。合衆国の退廃文化(帝国主義文化)でダラクさせられた都市の人々も、それによって健全なものに立ちなおるだろう」 (本多 勝一著『貧困なる精神第3集』すずさわ書店、1975年刊/引用は191〜200ページから。尚、第8刷以降に削除。)
当時の報道もポルポト礼賛一辺倒で、そのため、社会主義革命を志向する人に対してポルポトへの疑問はおろか質問をしただけで、「毛思想を否定した」「毛同志を馬鹿にした」と、非常に感情的になったのだそうです。しかし、この間違いはすでに皆さんはお分かりでしょう。疑問を呈した人は、毛思想が正しいかどうかではなく、その思想を身に付けた人がとった行動の結果を問うているわけです。
性に関する正義についても、やはり同じ事が起きていないでしょうか。
性の正義を信じる人に質問を投げかけると、いきなり感情的となってしまう例をインターネット掲示板でよく見かけます。これも毛思想を信奉する人と同じ反応だと言えます。つまり、つまり正義に基づく行動の結果は正しいのか、という質問に対し、性の正義そのものが否定されたと反応しているのです。今後、性の正義に対する疑問の声はますます高まっていくと考えます。それに伴い、皆様もあれこれと疑問を感じたり考えさせられたり、という機会も増えていくのではないかと思います。
本稿が皆様に少しでも參考になれば幸いです。


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