満州写真館 鴨緑江



                        
鴨緑江は、古くから日本の書物にも登場する豊かな推量を誇る大河です。今日、朝鮮民主主義人民共和国と中国との国境を形成しており、満州国の国境でもありました。
この付近は山岳地帯で、川はその間を縫う様に下ります。
源は白頭山です。南西へ下り、黄海へつながる長さ790キロメートルの大河です。

さてこちらは鴨緑江の源、白頭峰(白頭山)です。
海抜二千八百五十五メートルにもなる高い山です。かつての火山で、頂上には火口湖があります。
古くから霊山として崇められてきた山で、また戦前図書には、この山を清朝発祥の地とする紹介を複数見かけます。

鴨緑江でもっとも有名な鉄橋です。この大きな橋も、後の朝鮮動乱で米軍の攻撃により破壊され、今日では半分しか残っていません。そのまま復旧されず、壊されたまま、観光地となっています。
また北朝鮮報道でよく見かける大きな橋は、この橋に隣接してかけられています。

十字に開く鉄橋
朝鮮・新義州と満州安東を結ぶ鴨緑江代鉄橋です。これの建造を行ったのは満州ではなく朝鮮鉄道で、全長930メートル、二百五十万円もの巨額が投入されました。中央の90メートルは回転式の開閉が出来ました。
この円筒部分の工事は大きく報道されました大工事でした。回転部分の橋脚は、円筒の作業場を河に設けて行われました。
鴨緑江の流氷が流れ去った頃、潜缶と呼ばれた作業場が据付けられ、ここに回転機能が設けられました。

さて、この橋は両側に広い歩道が設けられています。画像左側に手すりが、また回転している部分にも両側に手すりのある歩道がわかります。
この歩道を通って両岸の人は、歩いて、この国境の河を行き来しました。

鴨緑江より元宝山を望む
ジャンク船が帆を広げています。
対岸には船が多く泊められており、また柱がいくつもたって見えますので、これらもジャンク船でしょう。沢山のジャンク船が待機しているようです。
左奥は元宝山です。安東での形勝地として有名でした。
この元宝山の半腹に大きなキリスト教会が建築され、また慈善病院が併設され、広く地域の信者を集めていました(元宝山教会)。実は今日もこの地に同名の教会がありますので、同じ教会でしょう。
この河のほとりは、いずれも朝鮮半島の文化圏です。戦前の本にも、支那(当時の中国)の人たちの認識と違い、元々、高句麗などの朝鮮半島の文化の地域だという記述があります。漢民族は少なかったのでしょうか、満州国時代の写真でも、半島の服装の人が多く写っています。

では、ここで鴨緑江の風景から林業を拾ってみます。
別途、産業のページでも紹介致しましたが、切り出した木材を筏に組んで河を流しながら下り、二〜三ヶ月もかけて、のんびりと目的地まで下ってきます。
斜面から河へ木を落とし、筏を組む準備がすすめられているところです。木材は長さが綺麗に切りそろえられ、また太さもそろっているように見えます。

安東に到着した筏です。筏の上には、小屋があり、この上で川を下る間、生活をしていたものです。
鴨緑江では筏は六十日から八十日かけて下っていきます。冬季の凍結期以外に、こうした長い日数をかけて流れ下るため、年に二回から三回程度の流下しかできません。
早速、筏は分解されて陸揚げの準備に入ります。そして、筏の主は長い長い水上生活から開放されるところです。
運ばれた木材は、様々、活用されました。安東を中心に、鴨緑江製紙会社、鴨緑江製剤無限公司などがありました。
安東はこうした木材の集積地でもあり、木材の都として紹介されることもあります。
ちなみに鴨緑江の写真で見る木材は、松花江の写真と同じく皮を剥いであるのは同じです。
しかし鴨緑江での木材は四角く切り出してあるものを多く見かけます。
たまたまそうしたものが写っているだけかもしれませんが、
もしかすると、鴨緑江であつかわれる木材の特徴かもしれません。
もしそうだとすると、さらに想像しますと鴨緑江の木材はより太く大型であった為、輸送に当たりある程度の加工を施したとも考えていいかもしれません。

遠くに鉄橋を見る鴨緑江の土手です。
岸には四角い木と思われます柱、レールと思われるものが交互に配置され、間が石で埋めてあります。
これも林業の関係と考えられます。
同じように遠くに鉄橋の見える位置で河に平行してきれいに木材を並べた写真があります。
つまり、柱をスライドして河から木材を引き上げたり、降ろしたりするのに使うものと考えます。
さて良質で大型の木材は、下流にニーズがあれば、さらに筏が組まれ、川を下ります。下流の木材加工工場へ運ばれるものと、また遠く日本に輸出されることもありました。もしかすると、今日の古い家屋で太い柱や梁を持つもののうち、満州産のものがあるかもしれません。

冬の鴨緑江は、凍結し、橇(そり)が交通手段になります。満州の河ならではです。
雪かきがなされ、氷の上に道が出来ています。
お金を取って客を乗せる橇が冬の風物詩でもあります。

今から出発する橇でしょうか。板の上にじかに座っています。
松花江では、橇の上に椅子が固定してあり
乗客はその上に毛布をかぶって座っている写真を多く見ますが、
こちら鴨緑江では、そうした椅子つきや毛布をかけているものは写っていません。

さて、この鴨緑江は満州と朝鮮との国境ですが、ご覧の通り、自由に行き来が出来ます。また橋も人々は歩いて行き来しており、国境としては緩い警備であったものと考えます。
ところがいざ、鉄道で旅行するため安東に入ると、厳しい検疫のため、列車も乗客も長い時間足止めを食い、「もうすこし手際よく出来ないか。」と当時の新聞にも書かれるほどでした。
川を挟んで歩いていくのは隣町的感覚で、そして鉄道は長距離移動するため、万が一にも疫病を運んで仕舞わない様にしていたのか、と想像しています。特に満州は畜産の盛んなところでもありますし、検疫は厳重であったのかもしれません。

大河の冬の風物詩、氷の切り出しです。これは鴨緑江だけでなく松花江など満州ではお馴染みの風景です。
分厚い氷から、大きな氷の固まりを切り出しています。
これを保存して夏場の冷凍に活用します。冷凍用にするために室へおさめます。
いくら切り出しても、冬の間は氷があとからあとから出来てきます。
切り取られたブロック状の氷は空き地に集められ、上から土をかぶせて夏場の出番を待ちます。この度饅頭は高さ2メートル以上、長さ十数メートルにもなる大きなものだったそうです。
日本でも冬場の氷を利用するため、室(むろ)に貯蔵しますが、満州では規模が大きいためでしょうか、野積みで行われていたのは面白く思います。

安東県鴨緑江上に設けられるスケート場です遠くに鉄橋が見える場所に作られたスケートリンクで綺麗に整備されています。
鴨緑江は十一月下旬から三月まで結氷、こうした冬のスポーツも盛んに楽しんでいた様です。

『各地から集まったスケート天狗は今日こそ勝ちを制せんものと互いにしのぎを削るのである。』
氷の厚さ、1メートル半にもなる鴨緑江でのスケートリンクで、スケート大会会場を見ているところです。
リンクに沿って大勢の人が集まっています。

川の凍結に伴い、運送は船から氷上の橇にきりかわります。
木材も氷の上を引かれて運ばれていきます。
さてこちら鴨緑江ですが、たまたまかもしれませんが、なぜか人の引く橇が多い印象があります。

さて、鴨緑江や安東の写真には、これといって大きな工場の写真は未だ見たことがありません。
しかし、安東などでは鉄道で交通の便がよくなったのに伴い、軽工業が育ってきた様です。
この安東に出来た企業名については資料は未だ見つけられずにいますが、企業名としては満州雲母というメーカーがあることがわかりました。残念な事に、これも詳細は全く不明ですが、こうした企業がいくつもあったと考えています。
さて雲母(うんも)ですが、これを素材として使う場合はマイカという読み方が一般です。これは結晶板を形成する鉱物の一種です。最近は、あまり需要は無い様ですが、かつてはこの絶縁性を生かしてアイロンや真空管など熱の出る電気器具に重宝しました。珍しいところでは耐熱性もあることから、ストーブの燃焼室を見る覗き窓の窓材が挙げられます。
ちなみに雲母は火成岩の一種ですので、火山の少ない満州にこれがあるというのは意外に思います。
またマイカは加工が面倒で、根気と器用さと技術が要ることから、現地でも職工を育てていたとも考えます。

春先の鴨緑江、安東の下流での春先の撮影です。厚い氷もすっかり解けて水面があらわれており、またその水面も穏やかで、いかにも大陸の大河といった印象です。
水位は下がっており、土手には取り残されたジャンク船が見えます。
河口から二百数十キロまで、こうした帆をつけたジャンク船が活躍します。

鴨緑江では満州と朝鮮との共同による巨大電力プロジェクトが稼動、朝鮮だけでも五千万円を投入、そして得られる電力は国境をまたいで半々に使うというものでした。
大規模で大胆な近代化、そして一方で河口でのんびり浮いているジャンク船、満州の生活と発展は、こちら鴨緑江でも同時にありました。


→満州写真館へ戻る
 
→歴史資料館 目次へ戻る

→みに・ミーの部屋に戻る