満州写真館 満州航空


                        
空のパイオニア満州空輸
チャイナ服のご婦人が、窓越しに到着した飛行機を見守っています。
飛行機はフォッカースーパーユニバーサルです。
婦人が立っているのは待合室でしょうか、観葉植物が右側に見えます。

満州空輸旅客機(スーパーユニバーサル)
飛行機をクローズアップします。
エンジンには黒いカバーが取り付けられています。
翼には円の満州国識別マークがあるのですが、霞んでいて、上手く写っていません。

大連周水子飛行場
では、満州国の航空について、紹介いたします。
まずは発端となった日本航空輸送をウィキペディアから引用します。

『日本航空輸送
日本航空輸送(にほんこうくうゆそう、英語名:Japan Air Transport)とは、昭和時代初期に運航されていた航空会社である(現在の日本航空グループとは全く別)。
日本航空輸送株式会社は、1928年(昭和3年)10月30日に逓信省所管の航空会社として発足した。1929年に運航開始され、当初は立川陸軍飛行場をターミナルとしていたが1931年に羽田空港に移転した。また日本政府から航空産業育成のために多額の助成金を交付され発達し、1938年にはのべ70000人の乗客があった。この数字は当時全世界で2.6%を占めていた。また同航空会社は日本本土と中国大陸を結ぶ航空路を運航していた。
そのため、日本政府は1938年12月に同社を国策会社へと改組し、満州航空傘下の国際航空を合併させて新たに大日本航空)を設立したため、消滅した。』
画像は大連近くの空港風景です。
「日満の空を繋ぐ要衝 周水子飛行場」
左の格納庫は日本航空輸送株式会社と読めます。

満州空輸旅客機(スーパーユニバーサル)
さて、さらに満州航空株式会社について、同じくウィキペディアから引用します。
『1931年に関東軍が、奉天にあった日本航空輸送(現在の日本航空とは別会社)の満州代表部に対して、満洲内を結ぶ軍用定期航空路の開設を依頼し、「関東軍軍用定期航空事務所」として発足したのが始まり。その翌年に満州国が建国された際に、社名を「満州航空株式会社」に変更した。
単なる営利目的の民間航空会社ではなく、民間旅客・貨物定期輸送と軍事定期輸送、郵便輸送、チャーター便の運行や測量調査、航空機整備から航空機製造まで広範囲な業務を行った。しかし1945年8月に日本が第二次世界大戦に敗北し、それに伴い満州国が消滅したことで会社は解散された。』
満州航空株式会社は、定期便を運航するという任務にくわえ僻地支援という重要な任務がありました。交通の不便なところへの資材運輸(医療品など)、そして着陸も出来ない土地へは、物資の空中投下も行っています。
さらに今日の航空会社と違い、航空機整備に加えて航空機製造まで行いました。
満州のフラッグ・キャリアといっていいでしょう。

画像は、先ほどの周水子飛行場の右側をクローズアップ。
今まさに出発しようとしているところでしょうか、人々が手を振っています。
飛行機は、スーパーユニバーサルです。

フラッグ・キャリア(Flag carrier)とは、 国を代表する船会社や航空会社のことで、ナショナル・フラッグ・キャリアと呼ぶこともあります。フラッグ・キャリアといえば、アメリカのパンアメリカン航空が有名です。パンアメリカン(パンナム)は、アメリカ政府の庇護の元、戦前戦後とアメリカのフラッグ・キャリアとしてアメリカの植民地拡大と共に世界中に広範な路線網を広げていきました。
満州航空株式会社は、満州国内の僻地へその活躍の場を求めた様です。採算は取れないものとは思いますが、これぞフラッグ・キャリアともいえます。

画像は先ほどの 周水子飛行場の左側をクローズアップ。
格納庫の中に1機、左側の看板の陰ですがもう1機飛行機が見え、いずれも飛行機はスーパーユニバーサルです。中島製であろうと想像します。

満州航空 旅客輸送にとどまらない活動
満洲航空は、満洲事変期の関東軍による軍用航空輸送を目的とした組織を母体に、1932年(昭7)に設立されました。しかし、その生い立ちからも明らかなように、単なる営利目的の民間会社ではなく、平時・有事の軍事輸送や、測量・各種調査から飛行機の製造までを行う特殊な企業でした。
もともと、何処の国でも最新鋭の科学技術については、軍がその試験や運用の実証試験を行っています。日本でも大正時代、飛行機そのものが黎明期であったときは、海外から買い付けた飛行機の試験は軍が行っています。
こちらに当時の路線を紹介いたします。
http://www.geocities.jp/ramopcommand/_geo_contents_/070624/001.html
路線は、営業本線と呼ばれた大連−奉天−新京−ハルビンを結ぶ幹線を柱に、ソ連・満洲国境地域の辺境の町を一つ一つ回っていくものが数多くありました。(下に掲げた、路線図タイプの時刻表からも、その複雑な路線網が分かります。)
しかしその裏には、貧弱な設備や地理的・気候的に厳しい条件、いつ起こるとも限らない軍事的衝突といった状況の中で運航に携わった人々には、大変な苦労と努力があった様です。

画像は、スーパーユニバーサル旅客機です。
当HPでも別途、「飛行場と飛行機」の頁で、本旅客機を紹介しております。
無骨で太い機体に、大きなエンジンがついています。翼の分厚さもよくわかるショットです。
後に活躍する様々な飛行機と比較しても、このデザインは過渡的かもしれませんが、航空旅客の黎明期に活躍しました。
キャプションにはスーパー機満航式一型6人乗旅客機とあります。
また翼下の満州国マークが読み取れます。同心円に満州国の象徴である五族の色が描かれ、国籍マークとなっています。
ちなみに満州国軍の軍用機のマーキングは同じ五族の象徴の色ですが、色の配置が異なります。

満州航空 旅客輸送にとどまらない活動
さて昭和7年、満州里事件 (※) が発生、ハイラル(海拉爾)と満州里の邦人が拉致される事態となりました。
当時、軍には輸送機が無く、輸送会社からの徴用で補っていました。この時の徴用はフォッカーb-m型旅客機で最前線を飛んでいます。邦人は、ソ連邦内まで拉致されました。この邦人解放のための交渉のために、要人を輸送するためです。
その当時、チチハルから北西へロシア国境に向けて延びる鉄道が不通であったため、飛行機が調達され、チチハルからソ連領のダウリアへ要人を移送するために飛行し、要人はダウリアから逆に満州国国境へ戻るというコースをとっていました。
その際、ソ連邦内のマイエフスカヤにも飛び、列車の客社内に監禁されていた邦人の無事を空から確認しています。列車内から邦人が駆け出して手を降って飛行機へ無事を知らせたのです。当時、皆が虐殺されたという話も出ていたため、無事が確認できたことは大きなニュースでした(その後、日本はソ連外務省のセミヨノフ領事と交渉を重ね、日本人は開放されています)。

そうしたソ連邦との行き来の際、当初は暖房格納庫がなく、極寒の状態で飛行機を飛ばすというのは大変でした。まずエンジンが冷えすぎて動かず、これを暖める必要がありました。
が、良い手段がなく、日本のパイロットは焚いた木炭でエンジンを下から直接あぶる方法を実施します。飛行機の燃料に引火する危険のある、苦肉の策です。当時、ソ連兵は関心を持って見ていたとのことです。
後に、第二次世界大戦時、ドイツがソ連へ攻め込んだ際、冬場にドイツの飛行機はエンジンが冷えすぎて飛べなくなってしまいました(バルバロッサ作戦など)。そこでソ連の捕虜がドイツ兵に飛行機の下で火を焚いてエンジンを直に温める方法を教え、ドイツ軍機は出撃できるようになったというエピソードがあります。それよりも何年も前に、ソ連兵の目の前で、日本のパイロットが直火での強制的なエンジン暖気をやっていたというのは興味深く思います。

画像は満州航空のスーパーユニバーサルで、プロペラが回っています(ですが、間近でプロペラを見ている人が一人いますが、、やはりこれは危ないと思いますが、いかがなものでしょう)。

※満州北東部では、再三、ソ連や蒙古と満州国との間で、紛争がおきています。
満州里事件の後、昭和10年(1935年)にもボイルノール湖事件、哈爾哈廟事件(はるはびょうじけん)などが起きています。

スーパーユニバーサル
満州の空を飛ぶ、スーパーユニバーサルです。撮影している僚機の支柱が画面左端に移っており、またこれが車輪の支柱だとすれば僚機もスーパーユニバーサルであると判断されます。
スーパーユニバーサルは、翼が胴体の上についていて胴体の窓からの見晴らしが良いわけですが、この写真からも、広々と視界が開けています。

満州航空 フォッカーb型旅客機
満州国設立後、満州航空は定期便の発展に努めました。
様々の飛行の困難を乗り越えて無事に飛行機を飛ばすには様々な苦労がありました。
まず春先の黄砂はエンジンシリンダーを激しく磨耗させます。その為、空気取り込み口などに防塵装置が必要となりました。
しかし、なんと言っても冬場の飛行は非常に危険が伴っていました。
まず、飛行機では翼やプロペラに着氷がおきます。満州国内を飛ぶ際には、実はあまり問題にはなっていませんでしたし、事故に至るものは無かったそうです。これは湿度が低いことに由来します。
しかし日満直行便が日本海を飛び、高高度を飛ぶ場合は、湿度があり機体への着氷が発生していました。
飛びながら機体が氷に覆われ、徐々に凍りつくのは、ベテランパイロットでも気持ちの悪いものだったそうです。

さて画像はフォッカーb型旅客機で、昭和4年にライト・ホワールウインドの名称で10機ほど日本が輸入しています。
当初、日本航空輸送が使用してましたが、DC-2の米国からの導入や中島AT-2などの就航により、満州航空に譲られました。
この機体は、翼の位置など、スーパーユニバーサルと良く似た外形ですが、エンジンが3発という特徴があります。
当時としては堅牢な設計と信頼性で、冒険飛行家からの評価が高かったとのことです。
この飛行機には、飛行中のエンジン・トラブルに対し、飛行したまま修理を実施という逸話が残っています。冒険飛行家でもあるキングスフォード・スミス氏が郵便輸送飛行に従事していた時、エンジン・トラブルで翼の下の片方のエンジンが停止、その反対側もオイル漏れで焼き付きかけたトラブルに陥りました。そこで飛行しながら機体から出て、まず故障した方のエンジンへたどりついてオイルを抜きとり、さらにそれを反対側の焼け付けかけのエンジンに補給し、無事、エンジンの作動を維持したという例もあります。

さて冬場、極寒となる満州を飛ぶ飛行機は、当初は命がけでした。
冬場は無線機も空に上がると、これも冷えすぎて使えなくなったそうです。真空管のヒーターが寒さの余り温まらず、作動しなくなるためです。
満州航空設立の頃、首都新京からハルピンへ飛んだ際のパイロットの記録を紹介します。寒さで徐々に機能を失う飛行機の状態がわかります。

『いくら踏ん張っても方向舵が利かぬ。手足、顔がしびれるように冷たい。
私は補助翼の索が切断すると思われるくらい重みのかかった操縦桿を廻してみる。
びくともせぬ。
昇降舵を前後に少しピクピク動かせる。コムパスの液が乳白色となる。旋回計が壊れる。左右の滑油の気抜きパイプの吹出口が塞がれて五十粍(ミリ)ばかりの黄色の氷柱が下がっている。
油圧系も壊れた。
長春(首都、新京)から延々一時間半行程のハルピンまでの苦労は寿命が縮まる思いであった。
三発のフォッカー機は旋回降下して葱畑の幅百五十メートル、長さ三百メートルの白斑の雪の凍て付いた凸凹の臨時飛行場へガリガリと着陸した。気温は零下摂氏二十八度であった。操縦装置の軸受け部、作動部へ普通のグリース油を塗布していたのですっかり凍ってしまった。操縦桿が動かなかった原因もこれであった。』

当初、滑油タンク、パイプ類を保温するなどの考え方はなかったようです。この他、チチハルからフォッカー三発機が飛んだ際、やはり防寒の技術が無かったため、臨時にアルミニウム板を取り寄せて滑油タンクやパイプ類を覆っています。

後々、暖房格納庫を建て、冬場の運用に役立てました。

画像は先ほどの機首部分をクローズアップしました。
三機ありますエンジンは、スーパーユニバーサルと違い、いずれもエンジンにカバーが付けられていません。

満州航空 隼式一型6人乗旅客機
スーパーユニバーサルの後継として開発されました隼式です。満州航空で製作されました。
大きさもスーパーユニバーサルと同等ですが翼が胴体の下にあり、全体としてはすっきりして見える一方で、操縦席がひょいと上に飛び出しており、独特の風貌です。
当初、この機体の車輪は、引き込み式でしたが、殆ど固定式となったそうです。固定式にした理由は、特に資料が見つかりませんでした。これについて考えますに、脚は飛行中には翼の中に引き込むことで風の抵抗を減らすことが出来ます。しかしながら、引き込みを行う装置は重いことが難点です。そこで、この脚は固定式にして出しっぱなしとしているのではないでしょうか。また引き込み式にすると、引き込み機構の故障リスクがありえます。これらから、固定式が好まれたのでしょう。
隼式は発動機500馬力(空冷星型)、最高速度275キロメートル。また乗員2名、旅客6名はスーパーユニバーサルと同じです。
機体番号はM-318と読めます。

満州航空 飛行場風景
画像は同じく隼式一型6人乗旅客機で、胴体は不鮮明ですが、同じく318と読め、先ほどと同じ機体であることがわかります。
左側はスーパーユニバーサルです。隼式が就航してからも、スーパーユニバーサルはそのまま用いられていたことが判ります。
また、右の隼式が停まっている足元は草原ですが、ユニバーサルの足元は白っぽく均一に見えます。こちらは舗装されているのでしょう。

さて満州航空は定期航空のほかに修理工場を拡大し、航空工廠を設立し、会社の飛行機の修理整備に従事していました。
さらに自社の飛行機の製作、さらに軍から委託された飛行機の製作も行いました。航空運輸会社が自身で飛行機を開発、製作していた例は、今ではちょっと考えにくく思われます。
しかし、満州国の法令が改定され、満州航空では飛行機の製作が駄目になりました(法令の内容などは不明です)。そこで飛行機生産部門は独立、満州飛行機製造株式会社が設立されました(昭和13年)

満州航空 隼式一型6人乗旅客機
満州航空で日本から満州へ飛ぶ場合、最初のころは、いきなり日本海をまたいで飛ぶのではなく、朝鮮半島の上を飛んでいました。
その際、窓越しに風景を見た手記がありましたので紹介いたします。
『飛行機は山の接近に伴い高度を上げた。実際に朝鮮の山々は、昔は山林を焼いては畑を開いていったという火田民の積年の害のために禿山が多く、何人かが「禿山の赤土の山つづき、悲しき國になせるものかな」と嘆いて歌ったというような荒涼たる山の姿を呈していた。その為、雨季ともなれば洪水で昔の疲弊しきった有様となったのだそうだ。現在は植林を進めたおかげで、機上で眼を皿の様に大きく眺め回していても一向に禿山は見られないような青い山つづき、めでたい國の姿になっている。
高い山も難なく越えて山は次第に低くなり、機体は高度を低くとった。すると部落の数も多く見えてきて、また変わった景観が楽しまれる。
ふと気付いたのは、半島の部落の家々の姿だった。
L字型のものがあり、>字型のものがあり、Lを二つ組み合わせたり、コの字型があるというふうで、機上展望はまた楽しくなる。
この家の配置は半島の北側、そして満州に入るとまた異なるのは面白く、機上展望を退屈させなかった。』

さて、こちらも隼式です。機体番号はM−305と読めます。

満州航空 隼式一型比較
では、ここで305号機と318号機を比較して見ます。
写真下、305号機ですが、パイロットの風防の後ろ、胴体に平行に影がみえます(矢印)。
一方、上二つは318号機です。これら二つの角度から捉えた写真には、いずれにも、この影が見えません。
このことから、胴体の形状が若干異なることが想像されます。
正面から見た場合、305号機は、胴体から操縦席がおむすびの様に飛び出しており、318号機はなだらかに胴体のラインと繋がっているものと考えられます。
製造された順番に機体番号が付けられたと仮定しますと、なだらかに胴体のラインと繋がっている318号機の機体は後からの設計見直しと考えられます。つまりこれは、より改良された形態とも理解できます。

満州航空 隼式一型を機首側から
では隼式一型6人乗旅客機を前から捉えた写真です。
大きなエンジンが特徴的です。
また客席の胴体窓からは支柱が斜めに見えます。
足元は、固定式に見えます。また、これはカバーも設計されているのですが、実際には取り付けずに運用していたのではないでしょうか。これは泥などが詰まった場合、これが高空で凍り付いてしまう事を恐れたことから、外しての運用を行ったものと想像します。

さて先ほどの画像のエンジンを中心にクローズアップします。
さてプロペラの軸の先端、ちょっとした突起が付いているのが見えますでしょうか。

エンジン始動の様子
先ほどのプロペラの軸に取り付けられている突起は、エンジン始動用です。

まず自動車のエンジンを思い浮かべてください。
最初にエンジンをかけるときは、キーを回してスターターでエンジンを回します。
エンジンは、スターターで回転の勢いを与えられないと始動する事ができない為です。
このスターターですが、自家用車の場合、エンジンと一体で取り付けてあります。
しかし、昔のエンジンはこのスターターに良いものがなかなかありませんでした。
自動車の場合、エンジンにつながっているロッドを人力でぐいぐいまわしてエンジンをかけていました。飛行機では小型機の場合はプロペラを手でえいっと回してエンジンをかけていました。
が、エンジンが大きくなると、とても人力ではまわせません。
それに、仮にまわせたとしても、エンジンのかかったプロペラはものすごい勢いで回りますので、大変危険です。
となると、やはりスターターが要るわけですが、これは重い上にエンジンをかけるときしか使わない(つまり、エンジンがかかってしまえば要らなくなる)事から、飛行機のエンジンと一体としてしまうと、重量が増し、不利です。そこで、スターターを積んだ支援車両があり、これをエンジンスタートの時だけ使用すれば便利だ、ということになります。
左側がその支援車両で、スタータートラックと呼ばれるものです。
トラックの上に横方向に長い棒が伸びていますが、これがスターターロッドです。これをエンジンの軸に接続して、エンジンを力任せに回せば、エンジンが始動できます。

画像は満州航空のスーパーユニバーサルのエンジンを始動するために、スタータートラックのスターターロッドをプロペラの軸の先端に取り付けたところです。

さて、この画像で興味をひかれますのは、翼の右側に人々が見えますことです。
これは乗客ではないかと想像します。また、左後ろの入り口付近に固まって居る事から、エンジンをかけてから人を乗せるのでは、とも連想されます。今の飛行機は乗客が乗ってからエンジンをかけますので、順番が逆ですね。
しかし、エンジンが始動してプロペラが回ると、周囲には埃は立つし、エンジン始動時の煤煙は被るし、と機体の外で待っていることについては、あまり良い事には思えません。
もしかすると、スタータートラックでエンジンをかけると反動で機体が大きく揺れるなどする為、エンジンが回ってからお客を乗せたほうがよりよいのでは、と想像しました。

スーパーユニバーサルを前から見た写真です。
パイロットの記念撮影です。
大きなエンジンであることがわかります。
不鮮明ですが、エンジンの軸の先端には、スタータートラックとの接続治具がついています。
右は別途掲載しております中島 97式戦闘機 (キ-27)で、同じくエンジンの軸の先端のスタータートラックとの接続部分をクローズアップしたものです。

満州航空 ユンカースJU八六型機
満州が快速機としてドイツから輸入したユンカースJU八六型機です。
独特の二重式フラップ、左右二枚の方向舵を持つ形状です。本国ドイツでも旅客に活躍しました。さらに双発爆撃機としても活躍していますが、この爆撃機タイプは機首が銃座で、またエンジンの形状も違うものがあり、全く異なった風貌となっています。
画面上側は同じくJU86機の主翼で、特徴有るフラップが写っています。

満州航空 ユンカースJU八六型機
機首部分をクローズアップします。
銀龍と書かれています。
機首は、地面の杭と紐で固定してあるように見えます。またこのJU86の脚は引き込み式で、翼の下へ収納されます。

満州航空 ユンカースJU八六型機
JU86型機の機首部分です。
スマートな機体であることがわかります。

胴体は白っぽく写っており、明るい色で塗られていることが判ります。
一方でプロペラの羽根は、強く光を反射しているように見えます。手前のエンジンのプロペラで、向かって右下に伸びる羽根は隣の羽が反射していると思われます影が見えます。つまり、反射するほどの磨かれた金属と思われます。
さて、プロペラの軸には三角のコーンが取り付けられており、これは空気の流れがスムースになる工夫と思われます。
ということはスターターロッドを取り付ける必要が無く、スターターを内蔵しているのでしょうか。

もうひとつ、右下遠くに見える建物は煙突がいくつも並んでたっています。満州の寒さを物語るものでしょう。

満州航空 ユンカースJU八六型機
さらにもうひとつ、機首部分を。
こちらは凰龍でしょうか、同じく機首に名前が記されています。

満州航空 ユンカースJU八六型機 翼の下側
主翼の特徴有るフラップを見ています。意外と華奢な支柱で支えられている印象があります。

満州航空 ユンカースJU八六型機
今度は後ろから。
尾部車輪は、同じく杭と紐とで固定してあります。

満州航空 ユンカースJU八六型機
こちらは不鮮明ですが前から。
エンジンの径に比べて、胴体が大変細く見えます。

今回、ご紹介しますこれら一連の写真では胴体横を写したものがありませんが、ユンカースJU八六型機には、胴体の横に窓が5つ並んでいます。
乗客は10名で、左右に一列づつ5名座りますので、一人にひとつ窓があるものと思われます。

満州航空 エプロン風景
待合室の窓から、待機中のJU86が4機、隼式が2機ほど見えます。

満州航空 メッサーシュミットBFW108b型タイフーン
こちらもドイツからの輸入機です。
メッサーシュミットBFW108b型タイフーンで4人乗りの軽輸送機です。ドイツでは軍務にもつき、連絡、偵察に活用されました。
非常にスマートな機体です。

満州航空 メッサーシュミットBFW108b型タイフーン
下から見上げたところです。
アルグスAS10C型空倒立型240馬力発動機が見えます。
また脚は外へ広がりながら翼に納められる構造になっています。

満州航空 メッサーシュミットBFW108b型タイフーン
コクピットの風防をあけたところです。
内側にカーテンが敷かれています。

中島式AT型旅客機
満州航空は、つぎつぎ新鋭機を投入しました。
土木技術論文集の土木満州から、中島式AT型旅客機です。
乗員3旅客8名の旅客機です。

満州航空 中島式AT旅客機
こちらも中島式AT旅客機です。
満州航空の塗装です。ただ、カラー写真ではなく彩色絵葉書ですので、色をあとから付けており、必ずしも色合いが本物を反映しているとは限りません。
ただ、特徴として乳白色で塗られています。
先のユンカースJU86型も白っぽく写っていますし、またこの他の満州虚空の彩色絵葉書も機体を乳白色で塗っているケースがあります。
スーパーユニバーサルは濃い色(青)で塗られていますが、後に出てきた機体は、胴体を白系統で塗っているのでしょう。

では、1935年時の満州航空に乗って、首都新京から日本の東京まで航空機で飛んでみることにしましょう。新京は朝に出発します。
新京7時45発
奉天8時50分
京城11時25分(現在のソウルです)
福岡14時35分(日本本土に到着です/恐らく雁ノ巣でしょう)
東京16時30分
朝出発すると、その日の夕方には東京に到着します。随分と早い印象があります。
新京から東京まで料金は51円でした。

ちなみに料金ですが、資料が揃わず、入手いたしました範囲で紹介いたします。
首都新京と吉林間十円、新京と満州北部のチチハル間が四十三円
こうしてみますと、満州の国内便は、さほど安くない様に見えますが、それだけ満州国が広いということでもあります。
満州国新京からは牡丹江、清津、奉天、大連、ハルピンへ毎日か、週に2〜3便の定期便が飛んでいました。
こうした定期便に加え、鉄道の便のない僻地のスピード交通機関として飛行機には大きな期待が寄せられていました。

1940年には、新京−東京直行「日満空の特急便」の運航を開始するまでに至りました。
当時の新聞には
『東京−新京間無着陸飛行による定期航空路の開設が認可され近く処女航空が行われる事でこの定期飛行が実現すれば東京より日本海を一飛びに新京まで僅か五時間程度で連絡する日満の重要な交通輸送ルートが又一つ殖えるわけである 』
とあります。

画像は、三菱式MC20型旅客機です。乗員4旅客11で、非常に高速の機体でもあり、軍にも採用されました。
MC20型につきましては、当HPの「飛行場と飛行機」コーナー『戦前・旅客機 日本』にも掲載しておりますのでご覧ください。

満州航空が活躍していた頃の資料につきましては、憂国烈士殿サイトにおきましても掲載されております。
当頁とのタイアップです。
こちらに紹介いたします。パンフレット類なども掲載があり、満州航空がフラッグシップであった意気込みを感じることができます。


http://cb1100f-integra.web.infoseek.co.jp/collection_1j.htm


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