満州写真館 大連市街地


                        
大連市は背景に南山と呼ぶ大きなごつごつした石山が迫る海岸沿いのこじんまりとした街です。
海から見ますと、市街地の背景の山は丁度屏風のごとく配置し、湾岸に沿ってそびえて見えます。
大連は東西90キロに海岸に沿って出来た街で、かつてはロシアが建設をし街を設計していました。特徴あるロータリーはその頃の名残です。ただ、ロシア建設時は人口4万人の都市計画でしたが、日露戦争後、日本が建設を始めますと、周辺の区を合併してさらに広がりを持った街として造られ、当初の数倍の大きな都市となりました。
ロシア街、濱町、伏見台、聖徳街、小崗子、沙河口、星ケ浦、老虎灘など様々な地区があります。
郊外には文化住宅(個人住宅)の集まる文化村があり、凝った造りの洋風家宅が集合していたそうです。

都市建設は計画的に進められました。
まず街路は割栗石で固めその上にコールタールを塗り、小砂利を散布して舗装されました。見た目はアスファルト道路に似ていますが、夏の炎熱で軟化したり極寒時に亀裂する心配がありません。
歩道はコンクリートブロックでニ〜三メートルの幅を持って造られました。
そして街路樹を配置。白楊、アカシヤの並木が出来上がりました。
並木のアカシヤが咲く季節には、街全体がガーデンシティーとなったと記録にあります。
画像は大連中心部の地図です。埠頭、そして道路のロータリーがお分かりいただけると思います。

大連大広場です。
幾何学的な配置と、四方にメインストリートが延びています。
最初はロシアが統治していた頃の設計ですが、街として仕上げたのは日露戦争後です。
写真ではよく判りませんが、大広間にはガス灯が配置されていて、夜には青白い灯りが燈り、幻想的な夜景だったそうです。
正面の白い建物は銀行で、手前に路面電車が見えます。位置からみて、ヤマトホテルからの撮影でしょう。

さて大連の路面電車は市内を縦横に広く市内をカバーしています(全九系統)。しかも全市、五銭均一で乗れました(1930年代、日本国内ではおおむね菓子パンが1個五銭で、子供の小遣い銭でもあります)。しかもドアは自動開閉を完備しています。

大連名物で日本国内ではあまり使われていない二頭曳きの幌馬車は三人乗りでニ〜三十銭、人力車はいずれの場所であっても市中なら片道十銭、いずれも大連市内の交通網は、国内の東京と比べても破格の安さとのことでした。

大連には様々な施設が作られました。
特に社会資本として様々な病院がありました。
まず大きな大連医院です。六百万円を投入した建物には各専門医院があり、あらゆる医療範囲を網羅していました。
また別途、伝染病の強制的隔離病院も造られましたが、これの入院費は無料。芸酌婦専門の婦人病院、支那人専門の同愛病院、阿片中毒患者を収容する病院、孤児用の宏済善堂、精神病者を収容する慈恵病院、そして検疫病院がありました。
さらに様々な労働者を収容する施設も建設、人力車不や幌馬車業者を収容する施設が設けられ、衛生、警護、安全面での向上を図っています。
さらに娯楽施設も充実、料理屋、遊郭は別に一区画を設けて建設、活動写真館(映画館)、大道芸人らの集まる区画、他に、支那芝居、日本芝居、水泳の冷温両用プール、冬季スケートリンクも数箇所あります。
これら娯楽施設の中で風呂屋の発展が特筆されます。一人づつの個室湯船は一回毎にお湯を取り替える西洋風のものが人気で、これは料金も高く設定されていました。そして大きなプールの混浴とがあります。混浴は料金は安く、個室湯船で使ったお湯も回されていたそうです。さらに風呂屋には床屋や爪とり、垢流しに加え、喫茶店、小料理屋、芸人のショーもあり、一度の風呂賃で半日遊べたそうです。

画像は大連大広場の航空写真で、北東方向から見ているようです。

大連市役所大連ヤマトホテル
大連の大広場に面する市役所とヤマトホテルです。どちらも重厚な作りです。
上の円内は大連南満州鉄道株式会社本社建物で、広い道路に路面電車が見えます。

大連南満州鉄道株式会社本社
大連南満州鉄道株式会社本社を見てみます。
中央に路面電車が行きかう広い道に面していることがわかります。
満鉄ビルは、いくつかの建物を接合してひとつのビルとしています。写真では二つ並んで見えますが、これらは右手奥でつながっています。
満州鉄道は社員数四万人を数え、満蒙の教育、衛生、社会施設、文化事業に貢献、鞍安製鉄所、撫順炭坑などの炭鉱業、農事試験所(公主嶺、熊岳城)の研究施設も持っています。
特に調査部は精鋭頭脳集団で、対ソ調査において大きな実績を上げています。各人が持てる能力を大いに発揮したから、とされます。
(大陸のノモンハンなどで最初は地図も方向わからなかったとされる日本陸軍とは大いに異なります。ちなみにこのノモンハン大失敗をした陸軍幹部は、太平洋戦争時には大本営の参謀として数多くの作戦を指揮、無謀な失敗を重ねててもなお、その責任を追及されていません。軍にはエリート意識に染まった幹部は居たけれども、知恵をだす頭脳集団が無かった、あるいは機能していなかったから、とも言われます。)

社員は、家族共々、満鉄のフリーパスが配られていました。それさえあれば、満鉄に乗り放題です。つまりそれは満州の主要都市全てに行けるということでもあります。
こうしたサービス以外にも、福利厚生施設も大いに充実していました。

大連満鉄本社
南満州鉄道株式会社は、略称の満鉄でなじみがあるかと思います(英語名:South Manchuria Railways Co.)。
満鉄は全満州の開発の第一線に立ち、各種の大陸産業振興と文化の向上を図る満州最大の国策会社です。
こちらは大連の満鉄本社ビル。
建物は元々はロシアが建てたものですが、日露戦争後、再整備され、大連満鉄本社となりました。市中大広場の東側にあります。この道路をはさんだ反対側に満鉄図書館があります。
満州朝鮮の鉄道事業の一手経営を行うほか、鉱業、製鉄、海運、港湾の運用を行い、さらに教育・学校も興しています。
後に満州首都、新京へ本社は移転、この他、満州の主要都市に満鉄ビルがあり、また東京にも支社ビルがありました。

この建物は内部は社長室、庶務、鉄道、興行事業、経理の五部門にわかれ、あらゆる人材が集められました。特に躍進目覚しい満州の産業を支えるべく、日本で最初で且つ最高レベルのシンクタンクが組織されました。
その為、人材で劣等感を感じたのでしょうか、軍部がこのシンクタンク組織を嫌い弾圧介入事件まで起こしています。

さて、改めまして写真ですが、撮影者は建物前にある広い通りに立って撮影しています。写真には写っていませんが、路面電車が通る広い通りです。この建物は奥行きも広く、一区画がまるまる本社ビルで、地図で確認しますと反対側も大通りに面しています。
ちなみに、大連満鉄本社は立派な塀と門を持つ建物の写真もあります。この建物とは別にさらに本社機能を持つ場所があったか、この建物の反対側か、と思われます。

大連ヤマトホテル
大連大広場からヤマトホテルを見ます。
大連ヤマトホテルは、近代ルネサンス四階建てです。
建物は六百四十九坪。客室は百五室、建築には5年の歳月と五十万円の工費がかかっています。
客室だけでなく、数百人を収容出来る大食堂があり、大宴会が可能です。
さらに設備として理髪室、応接室、球戯場を備えます。
バンドのコンサートも開催されるなど、社交場としてもにぎわった様です。
この写真の左側、大連大広場には、関東軍東都督大島大将の記念像があります。
またヤマトホテルは、このほかにも奉天に造られています。

大連ヤマトホテルの庭園、手前はルーフガーデンです。
立派な庭園が様々準備してあります。高級ホテルの面目躍如という印象を持ちます。

大連浪花町通り
彩色写真で、より華やかさを感じる、大連の目抜き通りです。
『老舗、軒を並べ、不夜城となす。ランタンは数万の巨費を投じる。』
とキャプションにありますが、通りに鈴なりにぶら下げられたランタンが点灯する夜は、さぞ、壮観でしょう。

浪速町大連
先ほどと同じ通り、角度を変えてみています。写真右側、人力車の後ろでよく見えませんが、バスが通っています。
ランタンは建物二階部分の高さにあり、このランタン通りの下は、車も楽々、通れそうです。

伊勢町
にぎやかな通りで、車も多く見えます。看板には日本語も見えます。
大連は自由貿易都市でした。つまり輸出入は無関税だったため、外国製品の安さは特筆で、洋酒、外国タバコは日本国内の半額程度だったとする資料もあります。但し、大連土産として内地へ買って帰る際は、さほど厳しくは無いものの量の規制があったのだそうです。
その他のものも大連は物価も比較的安かったそうです。
さぞ、人々の購買意欲も旺盛だったのでしょう。大連の繁華街の写真は、いずれも人通りも多く、にぎわっています。

大連銀座
こちら商業区は大いに賑わい、大連銀座といわれます。夜になると、露店があつまり、それ目当てのお客も集まります。
写真を見ましても街灯もそろっております。きっと明るくにぎやかな夜でしょう。

繁華街の風景です。
アーケードの天井、そして街灯と、灯りが沢山配置されていることがわかります。
夜も賑わうのでしょう。

大連大山通りの盛景
近代的な雰囲気を感じます大連は大山通です。
バスに自転車、人力車と大勢の人通りも見えます。
大連の市街地は、最初はロシアが作りましたが、これらの市街地の拡大と建物郡は日本資本により建てられております。場所は大連大広場から北へ伸び、日本橋まで続いています。

大山通り
大連の大通りのひとつ、大山通りです。
コンクリートビルディング、舗装の行き届いた道路、行きかう車、まるで昭和30年代東京、といっても通用しそうです。
左側、満州日日新聞と大阪毎日新聞のビルがあります。

満鉄グラウンド中央公園
オリンピック級(ベルリンオリンピック会場に匹敵する規模)のグランドです。
完成披露の折には、欧州からアスリートをゲストで呼んだとのことです。
また地元学校のイベントにも活用されました(マスゲームなど)。

大連運動場プール
客席を完備したプールです。プールは柵で囲われ、またその柵はプールの直ぐそばにあります。プールサイドが狭いのは、今日のプールからすると意外な気がしますが、横から選手が上がることは無いのでしょう。
見物客は、当時流行のかんかん帽をかぶっています。

大連駅
上野駅と同じデザインで作られました大連駅です。
この駅舎は今日も大連駅として残っています。2階に通じるスロープが見えます。降りてくる車、そしてバスが見えます。今日の空港にも通じるような作りで、当時、時代の最先端のデザインであったと感じます。

ちなみに上野駅の駅舎は、今日もこれの形です。ただし、外観だけが残された形です。上野駅のリニューアルに伴い、中の雰囲気は変わっております。あの次々に出発する夜行列車の乗車案内板が並んでいる風景は無くなり、北の入り口である上野駅の雰囲気は感じにくくなっております。
また人の流れからみて、意外に上野駅を正面口から利用する人は少ないかもしれません。是非、上野駅を利用される際は、この正面玄関をご覧ください。かつての大陸の玄関にも通ずるデザインを見ることが出来ます。

大連水源に作られた公園。
大連市は大計画都市であり、大下水設備、上水設備の完備は目覚しいものでした。
大連は山が直ぐ海のそばにせまる都市でもあるため、街全体が斜面です。そこで下水(塵埃、積雪、そして糞便)は、整備された地下下水のマンホールに流し込み、海へ放り出していました。
浄水設備は大連港に出入りする船舶にも給水するため、大連人口三十万人に対し、浄水設備は百五十万人へ供給できる大規模なものを設置しています。
写真は水源地にある高原で、噴水が目を引きます。左端、人物が写っており、比較しますと、大きな規模の噴水であることがわかります。

大連小崗子の街観
満州人街の風景です。特徴ある看板も沢山見え、にぎやかな雰囲気を感じます。
支那街は、通称を小崗子(しょうこうし)と呼び、市内中央部にあります。
もともとはスラム街(乞食町)でしたが、整備がすすみました。また日本警察により生命財産の保護がなされます。ここの街では、小額の営業税と家屋税の負担のみで営業することが出来ましたので、大いに繁盛しました。

大連西崗子遊里

大連中央公園
大連中央公園は、写真の植物園に加え、野球場、テニスコート、大運動場、射的場、馬場、音楽堂、保険浴場、料亭、休憩所、忠霊塔を持つ大公園です。市民憩いの場でもあります。

大連物産取引所
農産物の取引(大豆・豆粕・豆油など)と、さらに金票・銀票を扱った建物です。
当時、満州の大豆は世界の生産高の過半数(資料によっては7割)にも及ぶ、年間二千万石(一石=150キロ)もの生産を誇りました。

大連満州資源館の全景
無限の自然の富を誇る大満州の資源を展示しているところです。
キャプションにも『食用及び自然肥料の大豆、米、粟、高粱、小麦、鉄、石炭、木材をはじめ様々の資源を学術研究の参考の為に紹介』と誇らしげに紹介してあります。
これら豊富な資源を元に、満州は農業だけでなく重工業化学工業も様々、発展しました。

大連名物馬車
満州の写真には多くの馬車が写っています。
広い満州では、様々な交通手段が必要で、やはり当時は馬車が主流の様です。
馬車にはランプと思われるものが付いております。また幌もついており、贅沢な作りに見えます。
馬車には御者、ゆったりしたズボンの少年、パラソルのチャイナ服のご婦人が見えます。

文化住宅
大連郊外の住宅街です。
文化住宅という言葉は大正時代の中ごろに東京は上野で開催された博覧会から流行となりました。その博覧会の会場に、実際にモデルハウスを建て、文化住宅を紹介していました。
文化住宅とは、合理的な生活、そして和風に洋風を合わせたもので、洒落た外観、また洋間を設けるのが人気を呼びました。

こちら大連では尖った二階が流行だったようです。
左下の家は、ガラス張りの温室の様な部屋もあります。各家に複数の煙突が見え、暖房用と思われます。
ちなみに何件かは今日も残っていて、使用されているそうです。


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