ジュール・ブリュネの手紙   現在3.5通(笑)

超簡易現代和訳版。ブリュネさんの手紙は全部フランス語で書かれてます。
日本語音で書かれてるのはカタカナ表記にしました☆
一応、研究書の日本語訳も参照したので間違ってはいない、と思いま、す(汗;)

【参考文献】
『絹と光』/クリスチャン・ポラック 『追跡−一枚の幕末写真』/鈴木明


慶応4年8月? フランス皇帝ナポレオン3世へ

陛下(ナポレオン3世:帝位1852年〜1870年)へ

(私は)陛下の命令により日本へ派遣され、あなたの選択(フランスの政策)が正しい事を証明するために、
同僚達と共に全員、あなたの(思想)通りに力を尽くしておりました。

そして革命(戊辰戦争)によって、軍事顧問団はフランスへ帰らざるを得ない状況となりましたが、
私一人だけは(日本に)残って、私一人だけは、この新しい状況の中、
日本のフランス派(親仏派)である北方の同盟(奥羽越列藩同盟)に所属して、
顧問団が手にした成果を再び発揮させたいと思っています。

反勢力(薩長軍)は差し迫って来ており、
北方のダイミョー(大名:会津、奥羽越)達は、私に(同盟軍の)指導者となってくれるようにと頼んだので、
私は(その申し出を)引き受けました。
なぜなら、私達の教え子である多数(約千人)の日本の士官・下士官達の助けがありさえすれば、
私には(奥羽越列藩)同盟軍の5万の兵をも指揮することが可能だからです。

私達を全員フランスへ送らなければならない顧問団団長のシャノワーヌ大尉、
また、大事件(戊辰戦争)に際して表立って(幕軍に協力)できないフランス公使のウートレさんを
巻き添えにしないためにも、私は辞表を残して横浜から立ち去るべきでしょう。

南方のダイミョー達(薩長)はすでに疲れ果て、国内の激しい戦いにより彼らの勢いは衰えているとは言え、
私はこの(幕軍の)苦戦を認めないわけにはいきません。
そして、(自国軍より)除隊もしくは辞職した多くのアメリカ・イギリスの士官達が、
フランスの国益(幕軍)に反する勢力(薩長軍)に在籍していることを、
皇帝陛下(ナポレオン3世)にお伝えしなければなりません。

このような私達(フランス)と敵対する西洋(英米)の指導者が(敵側に)存在していることで、
我が(フランスの)政策が穏やかではなくなる可能性はあります。
しかし、皇帝陛下が間違いなく関心を抱く(内容である私のこの)諜報活動の報告を
邪魔することのできる者がいるはずもありません。

とにかくも私は、皇帝陛下の御手より授かった十字架に誓って、
これまでと同じく、フランスの思想を広めるために、私の全ての時間(一生)をこの国(日本)に費やします。
そして、もし陛下が私の活動を気に入ってくださったなら、私にとってこれほど嬉しいことはありません。

 どうか陛下、
 私の深い敬愛をお受け取り下さい。
 陛下の下僕たる忠臣、ジュール・ブリュネ砲兵大尉より  日本にて

※ブリュネさんの言い訳文(笑)。
なんで日本に残るのかを明確にしときゃなきゃいけなかったんでしょうね。
帰国した時、ブリュネさん達の処罰が軽かったのは、ブリュネさんの言う「諜報活動」とやらが
何かしら役に立ったって事ですかね。


西暦1868年10月4日(慶応4年8月19日) フランス陸軍大臣へ

元帥閣下へ

大尉階級の辞表を、つつしんであなた様にお渡しいたします。
そして私は1868年10月4日以後、
フランス軍砲兵大尉階級に附属するさまざまな特権も放棄することをここに表明いたします。

 10月4日   忠実なる部下、ブリュネより

※辞表というやつです。短い。


西暦1868年10月4日(慶応4年8月19日) シャノワンヌ大尉へ

『追跡−一枚の幕末写真』より抜粋 
私はいま、ベルニー訓練学校(横須賀)から手紙を書いています。
私は、これから、全く違った方向に出かけます。

私の辞表が受理されるまでに、長い時間がかかるのはよく承知しています。
ですから、私は貴方に、正式には何も知らせずに、出発をします。
しかし、貴方は、私の気持ちがおわかりのことでしょう。
この国には、反フランスの立場をとる人(薩長?)が沢山います。
そうだからこそ、彼等の陰謀を成功させたくないのです。
彼等がわれわれを追い返そうとしているのは、逆にわれわれ顧問団の成果を評価していることではありませんか。

私は北国の大名たち(奥羽越列藩)から要請を受け、これを受け入れることにしました。
たしかに私の行動は、フランス人官吏としての自分の将来を危険にさらすでしょう。
しかし、私は敢えて日本人の、気高い精神に同調致します。彼等の役に立ちたいのです。

ここで、私がカズヌーヴを一緒に連れてゆくことをお許し下さい。
カズヌーヴはずっと以前から軍隊を除籍になっていますが、以前私の砲兵隊で下士官をしていた男です。
彼の誠意と勇気は確信しています。

無論、私は日本の現状を甘く見てはいません。
日本の内乱(戊辰戦争)は、日本人にとっても私たちにとっても、大変悲劇的なものです。
私の力がこれを収拾することができるかどうかは、全くわかりません。
戦いは勝たなければなりませんが、敗けることもあるでしょう。
私は死を恐れておりません。

最後に、願わくは、機会があれば私たちの立場を有利に図らって下さるよう、心からお願いするものであります。

 忠実なる部下、ブリュネより

※原文が見つけられない(´・ω・`;)。辞表と一緒に出した私信だそうです。
皇帝には強気な発言ですが、直属の上司には正直なところを書いてるっぽいですね。


西暦1869年3月28日(明治2年2月16日) シャノワンヌ大尉へ

(私は)フランス政府の失策を修復する(ために旧幕軍に所属した)…

---中略---

『追跡−一枚の幕末写真』より抜粋 
昨年来から新政府と行っていた交渉は、うまくゆきませんでした。
榎本と松平が出した手紙はミカド(天皇)に渡ることはなく、
新政府から来た条件は、第一に榎本が全軍をまとめて、まず降伏をする、ということでありました。
榎本はこれを断ったのです。
更に榎本は同様の手紙をデュブスケ(ブリュネの後輩:軍事顧問団員)を通じて岩倉(具視)に渡すはずでしたが、
新政府はエゾ地(蝦夷地)を攻撃するほかはない、という返事でした。
このように、交渉がことごとく失敗に終わったのは、イギリス公使パークスの陰謀ではないかと思います。

いまわれわれはエゾ地で、6ヶ所の拠点で防衛陣地を作ろうと考えています。
新政府軍がもしエゾ地を攻撃しようとすれば6000名以上の軍隊が必要ですが、
青森にはまだそれほどの新政府軍はいません。
しかし、われわれは3000人の防衛力をもっているのです。


---中略---

手に入れた土地90里(約360km)四方と周囲50里(約200km)の守備をしっかり固めなければなりません。

---中略---

この島(蝦夷地)の北方国家350里(蝦夷共和国:約1400km)を、
一時的な防衛拠点としてしか考えないのであれば、ちっとも面白味がないでしょう。
そこで私は、6000人に満たない軍隊(新政府軍)が南の小さい半島(箱館)へ侵入するのを防ぐため、
次のように指導しました。

現在のエゾ(蝦夷共和国)の総人数は、兵士(戦闘員)が3000人で、
残りは全て市(箱館)の行政や、あふれかえる(箱館市)内部の農民達の取り締まりに勤めています。
この3000人の兵士のうち、半分はフランス軍事顧問団の直接の伝習生(生徒)ですが、
残り半分はトクガワ(徳川幕府)の義勇兵(陸軍隊、遊撃隊など)の中から選ばれて、
(私達の指導を受けた)同じ伝習生の指導によって、(間接的に)私達の戦術を学びました。

最も私が主張したことは、厳しい軍律の必要性です。
私は、私達の(持っていた)軍事裁判法典の写しから、フランス式軍律の要点を(日本語に)翻訳させて、
それら(軍律要点)を全て写した上で、8つある各大隊、それぞれ400人、に回覧させました。

---中略---

私は、彼ら(フランス人教師)のうち4人、カズヌーヴ、マルラン、フォルタン、
そしてブッフィエによって統制されている8人の(フランス人)教師と共に、
全軍の軍事指導と任務の改善が適切に行われるようにするため、訓練指導用の掲示板を設置しました。

主な訓練場は、箱館から1里(約4km)離れたカメダ(亀田)の大要塞(五稜郭)で、
(その五稜郭訓練場は)マルランが、
私の副官・コラッシュさんの補佐を受けながら取り締まっているため、素晴らしい(成果)です。

現在の私達の組織(蝦夷共和国)の概要を知って、あなたは面白いと思うかも知れません。

陸軍の総司令官(陸軍奉行)は、ケイスケ・オートリ(大鳥圭介)と言い、
「“日本奉行”という変な称号は必要ない」と頑固に言い続けている、あなたの部下(私)にそっくり(?)です。
(陸軍の)4旅団はそれぞれ800人なので、ヨーロッパの(軍隊)に比べれば小規模ですが、
カングン(官軍:新政府軍)にとっては大軍隊なのです!

それぞれの旅団は、あなたの元部下である屈強な男達4人の指揮下にあるので、
私はいつも(その事が)嬉しくてたまりません。

マルラン旅団
日本の半旅団長 オンダ(本多幸七郎:伝習歩兵隊)・オーカワ(大川正次郎:伝習歩兵隊)

カズヌーヴ旅団
日本の半旅団長 カスガ(春日左衛門:陸軍隊)・イバ(伊庭八郎:遊撃隊)

ブッフィエ旅団
日本の半旅団長 マツオカ(松岡四郎次郎:一聯隊)・ミキ(三木軍司:一聯隊)

フォルタン旅団
日本の半旅団長 タキカワ(滝川充太郎:伝習士官隊)・オスヵ(星恂太郎?)

---中略---

総司令長官(陸軍奉行並)は、ヒジカタ(土方歳三)と言います。
エド(江戸幕府)のシンセングミ(新選組)の元副長です。

『追跡−一枚の幕末写真』より抜粋 
隊長の中には、メスローが一番期待をかけていた大川正次郎、松岡四郎次郎、滝川充太郎がいます。
彼等のたくましい顔を、本当にメスローに見せたいものです。

海軍は、私が太田村(横浜)で教師をしていたとき、最も優秀な生徒であった荒井郁之助がジェネラル(奉行)をしています。
榎本武揚はオランダで軍事教育を受け、高等な海戦術を見につけています。
私たちの思うような戦略作戦が成功すれば、十倍の兵が来ても持ちこたえることが出来るでしょう。

砲術では、関広右衛門がすぐれた技術を持っています。
関の配下に、細谷(安太郎)という若い士官がいて、彼は素晴らしいフランス語を話すことが出来ます。
私は彼を通訳にしようとしましたが、彼は前線を選び、現在砲台守備についています。
私の傍には、通訳として田島(金太郎)、飯高(平五郎)、福島(時太郎)の三名がいます。

現在のわれわれの軍団には、最も信頼しているカズヌーヴ、ブッフィエ、マルラン、フォルタンのほか、
海軍からやってきたニコールとコラッシュ、それに香港からやってきたもと海軍下士官のクラトーがいます。
クラトーは、私の友人であるギニエルとアルフェ号の艦長ベサーの推薦があったので採用しました。

またもう一人、もとスワーヴ軍団にいたプラディエがいます。
彼は横浜で、同じスワーヴ軍団にいたディグリッツのところにいた者です。
ディグリッツも加わりたいといっていましたが、事情があって来られなかったのです。


---中略---

私は今からあなたに、防衛のためどのように私が兵を配置したか、
(敵が)数ヶ所から同時に上陸してきた場合や一ヶ所から上陸してきた場合に対して、
どのように私が陸上の勢力を扱おうと考えているのか教えるべきでしょう。

最も危険な地域は、ハコダテ(箱館)、マツマエ(松前)、スコヌマ(大沼?)、エサシ(江差)、
ワシノキ(鷲の木)、そしてムロラン(室蘭)です。
そこで私はハコダテに、同じく200人と共にプラディエ(フランス人教師)を配置しました。
ここは、私が機動部隊と共に待機しているカメダ要塞(五稜郭)と並んで、重要な防衛拠点となるところです。
マルランは、600人と共にハコダテ・アリカワ(有川)・オリオ(大野?)の境界線を防衛します。
フォルタンは、400人と共にワシノキ(鷲の木)・ツカベ(鹿部?)・イスィヤ(磯谷?)・カスクミ(川汲)を防衛します。
カズヌーヴは、600人と共にマツマエ・クシマ(福島)を防衛し、
最後にブッフィエは、400人と共にエサシとその周辺を防衛します。

コラッシュさんは、本営(五稜郭)で私の補佐を勤め、
ド・ニコールさんは、大船の一隻(回天丸?)に乗船したので、
彼(ニコール)の副官であるクラトーは他の船に乗船しました。
合計でおよそ2000人が、駐屯地とその駐屯地周辺の要塞、沿岸地帯、山中の峡谷、に配備されています。

私が修理した甲斐もあって、とても素晴らしい外観になった五角形の砦、
(つまり)カメダ要塞(五稜郭)の防衛のために、200人以上残す必要はないと私は判断しました。
なので残りの800人は、オートリと私が、それぞれ400人の機動部隊として使うため半分に分けました。

※大鳥さんと共に松前・江差を視察中、病にかかってしまったブリュネさん。もう治った頃なのかな?
ブリュネさん、「日本奉行」イヤなんだ(爆笑)。てゆか、土方さんの名前を書いてくれてありがとー!!(嬉)
「新選組」もフランス語デビューですよ。すげぇ…。土方さんのおかげです(笑)。
ところで、フランス人てハ行の発音が出来ないらしいから、実際呼ぶ時は「イジカタさん」か?なんかヤダ;
いや、きっとブリュネさんの事だから発音も練習してるサ。
本多さんとかはHが抜かされてオンダになってるのに、土方さんはちゃんとHijikataって書いてあるんです( *´艸`)
引用文を集めたやつなので、途切れ途切れでスイマセン…。いつか全文を見たい><
ブリュネさんて、シャノワーヌさんに蝦夷地からめちゃくちゃ手紙書いてたんだけど、
今のところそのうち1通しか見付かってないんだって!!どこいったんだぁぁぁ!!(涙)


手紙一覧へ    このページのトップへ

HOME